2025年11月30日 待降節第1主日
福音朗読 マタイによる福音書 24章37~44節
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。
洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
説教(百瀬文晃神父)
皆さん、今日からキリスト教の教会では、典礼歴の始めの「待降節」が始まります。待降節は、主イエスの誕生の祝いを準備する時だけではありません。それを一つのシンボルとして、神の国の完成のとき、主キリストが神の栄光のうちに再び来られる日を待ち望む時でもあります。今日、待降節第1主日の福音は、マタイの24章から読まれましたが、ここでイエスは、世の終わりに神の栄光のうちに再び来られることを約束しておられます。そして、その日のためにそなえておくようにと、さまざまな例えを使って説明しています。
まずノアの日の例えですが、これは旧約聖書の創世記に出てくるノアの箱舟の物語からです。その時まで人々は食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりたりして、毎日の生活に追われていて気がつかなかったのですが、とつぜん洪水が襲ってきた、という話ですね。主の来臨もいつかわからないから、心して準備しておきなさい、という話です。
そして、二つ目の例えは、畑に二人の男がいて、一人が連れていかれ、もう一人が残される。二人の女がうすをひいていて(たぶんうすをロバに引かせて麦を粉にする仕事でしょう)、一人が連れていかれ、もう一人が残される、という話です。同じ仕事をしていても、どのような心でそれをしているかが問われています。
それから三つ目の例えは、主人が結婚式か何かで祝宴に招かれていて、いつ帰ってくるかわからないから、召使いは居眠りしたり、酒を飲んだりしていないで、目を覚まして待っていなさい、という話です。
四つ目の例えは、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、みすみす家に押し入らせない、という話です。これが主の来臨に備えるための例えとしてふさわしいかわかりませんが、主イエスがいろいろな機会に語られた言葉を、何十年も後から福音書の記者は思い出して、主の来臨を待ち望む心構えのために、ここに収録しているわけです。
このような例えをイエスがどのような文脈で話されたのかは気にしないで、とにかく福音書の著者がこのように主の言葉を集めて、私たちに呼びかけています。主がいつ来るかわからないから目を覚ましていなさい、と。
でも、いつも目を覚ましているということは、決して眠らないで、四六時中目を覚ましていろ、ということではありません。そんなことは誰にもできません。とくに歳を取ってきたら、睡眠をよく取るように、医者に勧められます。
ノアの時代に人々が食べたり飲んだり、毎日の生活を営んでいたように、今日の私たちにも日常生活があります。そして、主の来臨を待ち望むといっても、日常の生活をほおっておいて、祈りに没頭しろ、ということではありません。毎日、職場に行く人もいれば、学校に行く人もいるでしょう。子どもの世話をしたり、老人や病人の面倒を見たりする人もいるでしょう。その日常のいろんな営みはよいことだし、しなければならないことであって、一生懸命に取り組むのは当然ですね。とくに自分の身の回りにだれか困っている人がいたら、その人を助けること、それは何にも優先されなければならないことでしょう。でも「目覚めていなさい」とは、私たちが何をいちばん大切にして生きているか、何を毎日の仕事の中心に据えているか、を問いかけています。日々の生活を方向づけるものは、何でしょうか。
待降節には、世界で闇の力や無秩序が横行する中で、主のもたらす光を待ち望むということ、主の光への憧れを忘れないことが呼びかけられています。世の闇が暗ければ暗いほど、光への憧れと待ち望む心が大切だ、ということでしょう。
皆さん、冬が近づくにつれ、だんだん寒くなってくるこの頃ですが、寒ければ寒いほど、私たちは主がもたらしてくださる暖かい光を待ち望みましょう。待降節には、ただ主イエスの降誕の喜びを準備するだけではなく、それを一つの契機として、自分の人生そのものを改めて方向づけること、自分に与えられている時間、健康、力を大切にして、祈りと愛の働きをもって主の来臨をお迎えする心を養いたいと思います。アーメン。
2025年11月23日 王であるキリストの祝日
福音朗読 ルカによる福音書 23章35~43節
(そのとき議員たちはイエスを)あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
説教(百瀬文晃神父)
「王であるキリスト」という祝日ですけれども、「王」という言葉は現代の私たちにとってはあまり馴染みがありません。昔からカトリック信者だった人はもう慣れているかもしれませんが、初めてこの言葉を聞くと、いささか時代遅れのような感じがします。でも、忘れてはいけないのは、これが聖書に基づく言葉だということです。古代イスラエルは、神様から遣わされた王を求めました。王は油を注がれることによって聖霊の特別な力を与えられ、民を平和への道に導く者として待ち望まれました。今日の第一朗読サムエル記にあるように、王は民を導く牧者(羊を導く羊飼いイメージ)として期待されました。旧約聖書には詩編や預言者の言葉に、牧場の羊を連れ、危険な動物から羊を守り、よい牧草のあるところに羊を導く、そういう牧者のイメージが何度も使われます。古代イスラエルの民は、大国のはざまの中で、絶えず外敵の侵略に脅かされ、時には弾圧され、隷属させられました。その中で、油を注がれた者(ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストと呼ばれる)、民を守り、導く力強い王が待ち望まれたわけですね。
しかし、イエスはそのような王ではありませんでした。イエスの説いた神の国は、そのような力強い国ではありません。それはむしろ、貧しい人々、ひたすら神様にすべてを委ね、神様の恵みを待ち望む人々の平和と喜びの国のことです。イエスは、病に苦しむ人を癒し、目の見えない人に光を与え、一人息子の死を嘆くやもめを慰め、罪びととして軽蔑された人々と食事をともにしました。最後には当時の権力者によって捕らえられ、断罪され、あざけられ、一切の富も名誉も剥奪されて、十字架の上で亡くなった方です。何という逆説でしょう。私たちキリスト者は、イエスが復活させられて神の栄光の中に挙げられたという信仰によって、このイエスこそ私たちの人生の導き手であると信じています。そしてイエスの十字架上での死というものが、私たちの罪と罪の結果である死の宿命を、自らの死によって担ってくださった、私たちの死の宿命をご自分のものとし、私たちに代わってその宿命を身に受けてくださった、そういうできごとだったと信じています。
私たちは洗礼を受けたとき、イエスこそ自分の人生の導き手であると信じて、イエスに従って生きることを誓ったのです。でも、この現世の思いわずらいと騒がしさの中で、能力と功績を求める世俗の価値観に染まって、洗礼の時の真心を忘れてはいないでしょうか。
しかし、まさにこのように地位や名誉や富を追い求める世の中だからこそ、まさに国々が力で争いあい、貧しい者、弱い者が虐げられるようなこの世の中だからこそ、私たちはイエス・キリストを真の導き手として仰ぐのです。イエスキリストは、今もいつも私たち一人一人の人生の悩み、さまざまな苦しみ、心身の傷を受け止めてくださる方、この方に希望を置いて、この方の導きに従っていきたいのです。この洗礼の時に抱いた純粋な心を、今日また新たにしたいと思います。アーメン。
2025年11月9日(日)ラテラノ教会の献堂
(長府教会 百瀬文晃神父)
ヨハネ2・13-22
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
今日のラテラノ教会の献堂の記念のために選ばれた福音書の箇所ですが、ヨハネによる福音書2章の、イエスが神殿を清めた話は、教会とは何かという、教会のあるべき姿を美しく描いていると思います。いや、これを読むと、ちょっとびっくりさせられますね。
普段は優しいイエス、貧しいやまめをいたわり、子どもを抱いて祝福し、罪びとを新しい生き方に導き、最後の晩餐では弟子たちの足を洗うまでの、その優しいイエスの姿はここでは全然ありません。逆に、神殿で商売をしている人たちに対して、台を倒したり、鞭で動物たちを追い出したり、暴力的で乱暴なまでの振る舞いをしています。これは歴史的には、イエスを最後の十字架まで追いやったユダヤ人たちの憎しみ、特に神殿の境内の商売からたくさんの利益を得ていた祭司たちの反感を買いました。そして、これがイエスへの断罪の直接的な原因になっただろうと推測されています。イエスを死に追いやるまでのユダヤ人たちの憎しみを買うことになります。
でも、そこにまた神殿を思う主イエスの情熱というものが感じられます。ヨハネ福音書のこの箇所は、3つのシンボルが背景にあると思いますね。まずはイエス自身の体としての神殿、それは、イエスは神が宿るいわば神殿であるということ、それから第二はキリストの体としての教会です。ヨハネ福音書は1世紀の末に書かれましたが、すでにパウロの手紙をはじめ、教会こそキリストの体だという信仰は広まっていました。そして、そのキリストの体である教会こそ新しい神殿だということです。つまり、ユダヤ人たちが誇りにしていたイスラエルの民の神殿は、まずはソロモンが建てた第一神殿、そして捕囚から帰った民が再建した第二神殿。これはヘロデ大王が大きく補修して46年かかったと言われていますけれども、世界のユダヤ人たちが誇りに思って、一生に一度は見たいと思って巡礼に来ていた神殿ですね。これに代わるのが教会である、というシンボル。この3つのシンボルが、この箇所に集められています。
先ほど申しましたように、教会とは何か、という教会のあるべき姿がここに描かれていると思います。イエスが自分の体として大切にする教会。その体を主イエス御自身が清められるということです。教会の2000年の歴史を見ますと、たくさんスキャンダルがあり、現在の教会でも例外ではありません。多くの人が教会を離れてしまう原因は、教会の中のいろんなスキャンダルでした。亡くなったフランシスコ教皇が一番心痛められたのが、聖職者による少年たちへの性的濫用でした。でも、これは他人事ではありません。ラテライン教会の献堂を祝うときに、やはり私たち自身も教会のあるべき姿に向かって歩んでいるかが、問われます。私たちの小教区、この教会の在り方も考えるべきでしょう。教会の中にあるあまりにも人間的なもの、ねたみや争い、党派心など、そういったものがないでしょうか。これはやっぱり主イエスに清めていただかなければならないでしょう。絶えず清められるべき教会、罪びとなる教会」、これ第二バチカン公会議が教会憲章でうたった言葉です。
教会は罪人の教会なのです。互いに弱さと罪の穢れを負った人間の集まりです。けれども主イエスによって集められ、主イエスの死と復活によって清められ、神にささげられた共同体です。
私たちは罪深い者でありながら、世の人々に神の愛を告げるように派遣されています。お互いの弱さ、いたらなさに思いやりを持つこと、広島教区のモットーである「優しさのある教会」へと日々成長できるように、その恵みを特別に今日のミサの中でお祈りしたいと思います。アーメン
2025年11月2日 死者の日
(長府教会 百瀬文晃神父)
ヨハネ6・37-40
父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
死者の日の典礼では、とても素晴らしい三つの朗読が準備されています。
それぞれお家で、一度見直してみてください。私たちの人生にとってたくさんの示唆を与えていると思います。ここでは、私はヨハネによる福音に絞ってお話しさせていただきますが、そもそも私たち皆、自分一人で生きているのではなくて、たくさんの人とともに生きているですね。そして、今ある「私」という存在は、両親が生んで育ててくれたから、家族がおり、友人がおり、私を導いてくださった多くの恩人たちがいるからです。その人たちがいなかったら、今のこの「私」という人間は存在しなかったでしょう。そのことを思いおこし、今日、亡くなった自分の両親や家族、そして自分を特別に愛し導いてくださった恩人たち、親しい友人たちを思い起こして、その人たちを通して働かれた神様に感謝を捧げたいと思います。
今日の福音の箇所で、主キリストが「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人にも失わないで、終わりの日に復活させること」と語っておられます。
「復活させる」という言葉が繰り返し言われていますけれども、「復活させる」とはどう意味でしょうか。それは、まず第一に私たちが生涯をおかした罪の赦しと自分の中にある傷の癒しです。そして、第2に、私たちが新しい体をいただくということです。復活の体がどんなものであるか、私たちには想像できませんけれども、パウロが「霊の体」と言っている、新しい体です。そして第3に、永遠のいのちをいただいて、私たちがすべての聖人たちとともに、神の家族としての交わりをもつ、ということです。
「聖人たち」と言いましたけど、昨日「諸聖人の祝日」を祝いました。そこで見たように、それは決して列聖された聖人たちだけではなくて、全ての人、今は天国にいるすべての人たちのことです。「聖とされた者」、つまり聖書の中で「聖とされた者」とは、「神に捧げらた者」という意味です。
それぞれの生涯を終えて神に捧げられた者、私たちの親族、恩人、友人たちとの交わりを、私たちが今も持っているということ、それが使徒信条にも言われる「聖徒の交わり」ということです。主キリストに結ばれている者は皆、この地上に生きている者も、天国で神のみもとにいる者も、互いに神の恵みを共有していること、互いに支えあい、助けあうこと、それがキリスト教の信仰です。
今日、死者の日にあたって、亡くなった人たちのために永遠の安息を祈ると同時に、この人たちが神のもとで祈りをもって私たちの地上での歩みを支えてくださるようお祈りしましょう。
アーメン。
251026
年間第30主日C説教
(長府教会 百瀬文晃神父)
Lk18-9-14
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
今日のミサの福音は、イエスが語った例えで、二人の人が祈るために神殿にきたという話です。例えですから、実際に起こったできごとではありません。このイエスの例えでは、ファリザイ派の人と徴税人とがそれぞれ祈りました。ファリザイ派というのは、当時のユダヤ社会のエリート集団ですね。ユダヤの律法を厳しく守り、聖書をよく勉強し、品行方正な生活をしていましたから、人からも尊敬されていました。一方、徴税人というのは、ローマ帝国の支配下のユダヤ社会で、ローマ軍によって雇われ、同胞のユダヤ人たちから税金を集めて、それをローマ軍に納めていました。その悪どい徴収の仕方で、貧しい人からも容赦なく税金をしぼりとって、しかも多めに取って、ローマ軍に一定の額を治めた後は、その利ザヤを自分たちの懐に入れていました。それで、ユダヤの民衆からは売国奴として嫌われ、罪びとの骨頂として軽蔑されてもいました。
この二人が神殿でそれぞれ祈った、というわけですね。ファリザイ派の人は、自分が正しい人間であると自負していて、断食もするし、収入の十分の一を神様に捧げているし、それを誇りに、徴税人を軽蔑しています。ところが徴税人の方は、遠くに立って、ただ胸を打ちながら祈りました。「神様、罪びとの私を憐れんでください。」この対照的な二人ですが、イエスはこれを例えにして、神様の御心にかなったのはファリザイ派の人ではなく、徴税人の方だったと言いました。
私たちはとかく人を評価するとき、その人の社会的な地位とか、能力とか、仕事ぶりとかをもってしますけれども、神様はそうではありません。神様は、その人が何をしているかということよりも、どのような心でしているかをご覧になるのだ、とイエスは教えました。神様により一層喜ばれたのは、あのファリザイ派の人ではなくて、徴税人の方だったというわけですね。この福音の最後は、「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」という言葉で終わっています
この例えが現代の私たちに語っているは何でしょうか。どういうメッセージがそこに説かれているでしょうか。私なりにこの例えを私たちの日常生活に応用して考えてみましょう。
例えば私たち一人一人、日によってよい日と悪い日がありますね。ある日は、朝起きたときから、気分がよくて、神様の前でよくお祈りができ、人との交わりでも上手に振る舞うことができて、人に愛される。仕事もテキパキとこなすことができて、成果を上げて人に褒められるとかですね。そして夜休むときに一日を振り返って、「今日はよい日だった、神様ありがとうございます」と言って休むとしましょう。しかしある日にはそうでなくて、朝起きたときから頭がぼんやりと重く、祈ろうと思っても心が燃えないとか、人との交わりではつまらないことで行き違いがあったり、わだかまりがあったり、つい小言を言ってしまったりします。仕事をしてもドジばかりで、自分に腹を立てる、というわけで、夜休むときには、「今日はよくなかったな。こういう失敗してしまったな」と思う。でも、自分の弱さを認めて、「神様、どうぞこのみじめな私を憐れんでください」と祈る。さあ、どちらの日がより一層、神様の御心にかなったでしょうか。私たち人間は、常識的にはバリバリ仕事ができて、人ともよい交わりができて、そういうすばらしい日を感謝するでしょう。でも、そういう時には自分自身というものがはっきりわかっているでしょうか。自分がどれほど弱い人間であり、神様のお恵みなしには、何もできないことを忘れていないでしょうか。むしろ失敗を通して気づかされるのは、ドジばかりして、人との交わりもうまくいかない、神様を賛美することもできないという、そういうみじめな自分です。
そのような弱い、みすぼらしい自分を体験するときにこそ、自分のはかない存在にもかかわらず神様が愛してくださっていること、そして私の救いのために御子をさえ捧げてくださったこと、このはかない存在のためにイエスがご自分の命を捧げてくださったこと、これを思い起こします。これがありのままの、自分の謙虚な姿でしょう。神様はそのような謙虚さというものをより一層喜んでくださるのではないでしょうか。へりくだるということは、見せかけの謙遜ではなく、自分自身のありのままを知るということではないでしょうか。まさに弱く、ドジばかりして、みじめな自分というものを知り、それにもかかわらず神様が大切にしてくださるということを思い起こして、その愛にお応えしようとすることが大切ではないでしょうか。今日の福音から、そのことに気づかされます。
2025年第29主日(C)
(長府教会 百瀬文晃神父)
ルカによる福音18・1―8
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
今日の福音では、イエスの例え話が伝えられています。ある街に不正な裁判官がいました。裁判官というのは、イエスの時代、王様に任命されて、民間の間で起こるいざこざを裁いた人です。例えば、借りたお金を返却しないとか、商売で取り組めした約束を守らないとか、これを裁く役目の人でした。しかししばしばその当時、ワイロをもらって、かなり都合のいいように裁いたようです。ですから、金持ちは得したけれども、貧しい人は損した、というようなケースが多かったのです。イエスが使ったこの例えで出てくる裁判官は神様への信仰もなし、人を人とも思わない、という悪い人ですね。
この裁判官のところにやってくるのが、一人の貧しいやもめです。やもめというのは、旧約聖書では最も貧しい者の代表です。夫が病気とか、あるいは戦争などで亡くなってしまって一人ぼっちになる、あるいは子どもがいるときには、一人で働いて何とか子どもを育てなければなりませんでした。とくに当時のユダヤ社会は、「家父長制度」と言って、すべて男性が中心の社会でしたから、夫をなくした女性はとても不利な立場に置かれました。欲の深い隣りの人が地面の争いでこの女性をいじめたり、あるいは亡くなった夫が残した借金を返せとか、返せなかったら家を取るとか、いろんな意地悪をしたわけです。
このやもめも近所の人から意地悪をされて、裁判官のところに行って訴えようとしたけれども、いつも人がいっぱいで、しかもお金がなかったから、わいろを使うわけにもいかない。仕方ないから、玄関の前で大声で叫びました。「私のために裁判をして、意地悪な人から守ってください。」その声は、中で仕事をしている裁判官にも聞こえました。この日も、次の日も、またその次の日も、ひっきりなしにやってきて、叫びました。
そこで裁判官は心の中で考えたのですね。自分は神様のことなんか信じてないし、人を別に尊重もしないけど、あのやもめはうるさくてかなわないから、彼女のために簡単に裁判をしてやろう、と。これがイエスの語られた例えです。
主イエスは続いて次のように言われました。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。何度もきてうるさいから、彼女のために裁判をしようと言うのです。それなら、まして神様は、昼も夜も叫び求めている人たちのために裁きを行わずに放っておくことがあるでしょうか。きっと神様は速やかに裁いてくださに違いありません。そのようにイエスは教え、困ったときも、苦しいときも、どんなときも、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、と教えられました。
現代の私たちも、いろんなことで悩んだり、苦しんだりするときがあります。また、私たちの周りにも、病気の人や、体の不自由な人たちがいます。私たちは自分や自分の家族のため、そして困っている友人たちや隣人たちのためにお祈りしなければならない。祈りは、何よりも力を持つものだからです。
でも、祈っても祈っても聞ききれられない、と思うこともありますね。私は広島教区のカテキスタ養成研修というのに携わっていますが、今年の受講生に夏休みの宿題を出しました。ある人から手紙をもらって、「神様はどうして私の祈りを聞いてくれないんでしょうか」と聞かれたら、どのように答えますか。これが宿題です。皆さんだったらどう答えますか。
今日の福音では主イエスご自身が教えておられます。気を落とさずに絶えず祈らなければならない。神様はきっと聞いてくださるから、と。もちろん間違ったお願いとか。神様から見たらもっと違う解決があるというときには、自分の祈りが聞いていただけないかのように感じられるかもしれません。でも決してがっかりしないで、信仰をもって、神様が必ずいちばんよい裁きを行ってくださる、ということを信じて祈る、ということが大切ですね。
かつて聖イグナチオ教会の主任司祭だったヘルマン・ホイヴェルス神父さまは、晩年に書かれた著作「人生の秋に」という本の中で、次のように書かれています。「神様は最後に一番良い仕事を残してくださいます。それは祈りです。自分の手はもう何にもできないけれども、最後まで手を合わせること、合掌することはできます。愛するすべての人の上に、神様の恵みを求めるために。
若い時のようにバリバリ仕事はできない、することは遅いし、むしろ人の厄介になってしまう。こういうときにも、お祈りすることはできる。祈りは、神様がそれを聞いてくださるときに、自分で力があって仕事をするとき以上に、もっと世の中のため、また人々のために大きな力を持つだろう。なぜなら、神様が働かれるからです。
長府教会の私たちもだんだん高齢になって、いろいろ自分の健康のことで心配したり、将来のことで不安になったりする人も少なくないでしょう。でも忘れてはならないのは、たとえ自分が弱くなって力が足りなくなっても、祈ることはできる、ということ。そしてその祈りこそが力を持つのだ、ということ。自分の子どもたちのために、孫たちのために、友人たちのために、とくに悩みをかかえたり苦しんでいる人たちのために、神様の導きとお力添えを祈らなければならない。これは私たちの今できる大切な務めです。これを忘れないようにしたいと思います。アーメン。