2026年5月24日
聖霊降臨の主日(A年)
2026.5.24の「福音朗読」
ヨハネ20・19-23
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
2026.5.24の「説教」
(英 隆一朗 神父)
今日は聖霊降臨の主日をお祝いしています。イエス様が復活した後、50日後ですね。50日後にルカの福音書というか、使徒言行録によると聖霊が下るということですが。
でもやはり私たちに聖霊が与えられているというのは、イエス様の復活と深いやはり繋がりがやっぱりあるということですね。
今日はヨハネの福音書が朗読されましたけど、ヨハネの福音書では復活したイエス様がですね、もうすぐにこの聖霊の恵みをこの与えてるというふうに記述されています。
彼らに息を吹きかけて言われた息というのがこの聖霊の恵みそのものですよね。
息を吹きかけて、聖霊を受けなさいと、復活した主にこの聖霊の恵みをこう受けるという、それを私たちがお祝いしていて、そして私たちが聖霊の恵みによって生きていくようにということなんですね。
そして、その後がですね。今日のイエス様の言葉はなかなか考えさせられることですけど、誰の罪でもあなたがたが許され、赦せばその罪が赦されるということですね。
聖霊の恵みがやはりあるので、そこで罪が赦されるということですけれども、その後なんですよね。
あなた方が赦さなければ赦されないまま残るっていう風に書いてあって、これなかなか考えさせられる。
当たり前と言えば当たり前のことなんですけど、赦せば確かに赦しがあると、赦さなければ赦しがないっていうですね、ある意味なんかその通りなわけですよね。
私たちが誰かを愛せば、そこに愛が生まれますけど、そこで愛さなければ愛は生まれないっていうですね。
ある意味、ごく当たり前のことを書いてるというふうにも言えるわけですけど、でもこれはほんとに私たちのどういう態度をとるかっていうことと深く繋がってるってことなんですよね。
聖霊の恵みは、私たちが、この聖霊の恵みが働く方向性に、こう、態度というか生き方というか、それをすればそこに聖霊が働く。
でも、私たちが諦めちゃって何もしなければ聖霊が働きませんよと言ってるわけですよね。
人を赦せば聖霊が働いて赦されるけど、私たちがこの人赦したくないとか、もうなんかもうと思って赦さないままほっといたら、聖霊も働かないし、赦しも起きない。
だから、聖霊の働きというのは、実は私たちのこの主体的な決断と深くつながってるっていうですね、これが非常に大事なことだと思います。
つまり、私たちの協力というか、人間の側が愛するとか、あるいは赦すとか、和解するとかですね、あるいは平和をもたらすとかですね。
あるいは勇気を持って困難を乗り越えていくっていう決断がある時にこそ、そこにこそ聖霊がこう働いてくださるということですよね。
人間の協力の中で、あるいは人間の決断の中でこそ聖霊の恵みが働く。
だから、聖霊の恵みが大事ですけど、私たちの人間的な決断とか、人間的な私たちの心の方向性、これが決定的だということですね。
例えて言うならば、簡単な例えですけど、若い頃は私、体育会系男子だった時期もあって、中学高校の頃はサッカーやってたんですよね。
割と熱心にサッカーやってて、運動やる人は大体そういうことを経験すると思うんですけど、もうね、もうこんな暑くなってきたら、もうまず練習が嫌なんですよ。
もうこの暑い中でまたって、なんかこう、なんか気持ちもこう、なんか入らないし、なんかもう、心も体も大体、いやいや大体入るわけですよね。
でも、練習してて、体を実際動かしてると、しかもだんだんですね、中学生の時はそうでもなくって、高校生ぐらいだんだんうまくなってきたらよけそうなんですけど、こうね、最初は、いや、でもこう、なんかこう、一生懸命やってるうちに、なんか体がほぐれてきてですね、で、なんかこう、自分の中から、こうエネルギーが、こうだんだん湧いてきて、こう、なんていうのかな、こう、なんか努力しながら、なんかこう、ある力と一緒にやるような感じでですね、で、しかも、なんかこう、サッカー、みんな団体競技だから、なんかね、そういう気持ちになってると、なんかみんなそんな気持ちで、こう、コンビネーションがうまくいったり、パスがうまく通ったりとか、こう、みんなで大体いい感じになってきて、なんかこう、終わるときには、なんかもうスッキリした充実感みたいな感じで終わるような感じなんですよね。
運動してる人はよくわかると思いますけど。だから、この最初が、例えばもうかったるいな、今日はこう熱いし、もうやめとこうかみたいな感じで練習をサボったら、サボったままで、何もエネルギーもこう力も湧いてこないまま、結局終わっちゃうわけですよね。
でもそこであえてやっぱり今日も頑張ってね。友達とか先輩後輩と一緒に練習しようと思ってやってると、なんかこう力が湧いてきて、こう、いい感じの体に体も動いてくるし、なんか気持ちもみんなとフィットしてくるみたいな感じに。
もちろん必ずそうなるわけじゃなくて、なんかこう、気持ちがバラバラのままで試合に負けちゃうとか、もちろんうまくいかないこともちろんありますけど、でも基本はなんかね、こうやってる中で、こう、なんか力が働いてきて、それになんか生かされて、こう心と体が一致して、こう、なんかこう、うまくいくっていう感じに、スポーツやってる方はよくお分かりだと思うんですけど、そういう風に大体なるんで、それはマラソンであろうが何であろうが、やっぱりこう、そんな感じなんですが、やっぱりこう、なんて言うんですかね、それはもちろんスポーツの体の方のことだけですけど、やっぱ聖霊が働くっていうことは、なんか私たちのこう人間的なこう、エネルギーとか、やる気とか前向きな気持ち、それはなんかもう嫌だなとか、もうなんかもう、なんかもうこんなめんどくさいなとか、いろいろあったとしても、でも、そこで私たちが前向きな気持ちで、勇気を持って、あるいは愛の心を持って進もうとしている中で、こうやっぱり神様の力がこう働いてきてですね、そこから何かが展開していくっていうですね、普通の私たちの言葉で言ったら、やっぱり祈りを伴った行動の中で聖霊が働く、ただ座って祈ってるだけでもなんかあんまり、でも、祈りなしにただ行動してるだけでも、なんか空回りしちゃうこともあるけど、でもなんかこう、祈りとか心を込めて、あることに打ち込んで関わっていこうとする中で、こう聖霊の働きがあってですね、そこでこう、なんか実りが現れてくる、それが私たちのなんか信仰生活のやっぱなんか醍醐味じゃないかなというふうに思います。
コツはどういう風にやるかって言ったらですね、スズメのようにではなく、鷹のようにっていうんですけど、何かと言ったら、スズメはですね、ちっちゃいから、羽根もちっちゃいですから、パタパタパタパタ、一生懸命飛んで、あっちの屋根からこっちの屋根まで、自分の力でパタパタやって飛んでる。
飛ぶわけですよね。日頃は地面つついたりしながらね、あっちと飛んだり、こっちでも、鷹になると、鷹とか鷲とかになると、こう、羽ばたかないんですよ。
それはもう、大きさもあれも違いますけど、鷹とか、こう、ピュッと飛んだら、あとは風に乗るんですよね。
風に乗るから、実は羽を広げてるだけなんですよね。
羽を広げてるだけで、ピューっと、こう、あっちの山からこっちの山まで、ビューっとこう、飛んでいくっていうですね。
だから、この聖霊の働きっていうのは、鷹の飛び方なんですよ。
だから、鷹がこう、ぴゅっとこう、羽を広げて、で、そこにこう、もちろん風を見てるわけですよね。
風に乗ると、ピューっとも、あっという間に、もう雀が一生懸命やってるもう何十倍も飛んでいくような。
だから、やっぱり雀のように自分の力だけでやろうと思うと、大したことができないってことですよね。
自分で一生懸命やってる間は、ほんの屋根から屋根までちょっとしか飛べないですけど、そこに聖霊の力が働いて、鷹のように風を受けるならばですね、隣の山までびゅっと飛んでいけるぐらいな恵みと力が与えられる。
だから、私たちはやはりこう、ああいう鷹のような、鷹のようなってたの気持ちになったことないからあれですけど、やっぱりなんかこう、前向きで、シャキッと遠くを見ながら、こう、勢いよくバッと出た時に、それがうまく聖霊の働きに繋がると、大きな実りが、それが赦しだったり、愛だったり、和解だったり、大きなですね、平和であったり、喜びであったり、お互い同士の深いつながりであったり、そういうことが出てくるんじゃないかと思います。
私たちにはこの聖霊の恵みが与えられてるということで、すでにですね。
だからこそ、私たちはこの聖霊の恵みを生かしていけるように、その聖霊の恵みに、私たちの、まあ心向けなり、努力だったり、この気持ちの集中、それを合わせて、この大きく羽ばたいてですね、聖霊の恵みのうちに歩んでいけるように、共に祈りを捧げたいと思います。
2026年5月17日
主の昇天(A年)
マタイ28・16-20
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
説教(百瀨文晃神父)
復活節の40日目に、教会は「主の昇天」を祝うのですが、実は主の昇天はただルカ福音書と、同じルカによる使徒言行録にのみ記されています。昇天とは、イエスが父なる神の栄光へ上げられたことですが、それはイエスの復活と同じことで、主の復活の一つの側面を言うものです。つまり、復活された主イエスは私たちのために、天を開いてくださったこと、新しい天と地が私たちのために約束されていることを言います。
教会の伝統は、ルカの記述に従って、典礼で40日目に主の昇天を祝い、50日目に聖霊降臨を祝うことにしています。それは、主の復活の神秘をさまざまな側面から理解し、私たちにとっての理解を深めるために役立ちます。今日の第2朗読(使徒パウロのエフェゾの教会への手紙1)で述べられるように、「神は、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせました。それは、主キリストがいつも父なる神のもとで私たちのために取りなしていてくださる、ということです。
今日の福音朗読では、(今年はA年ですから)マタイ福音書の結びの箇所が読まれました。マタイの記述では、昇天ではなく、復活の主の弟子たちへの出現が描かれていて、主は弟子たちを世界へ派遣なさいます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るようにおしえなさい。」福音宣教への派遣です。自分たちだけで内向きに喜んでいるだけではなくて、人々に神さまからの救いの約束を告げ知らせること、子どもたちにも、孫たちにも、信仰の喜びと希望を伝えることが呼びかけられています。
今から20年以上前になりますが、私はマニラに派遣され、6年間をそこで過ごしたときでした。その地の気候や食物が合わず、衰弱していたのですが、もっとも気にかかっていたのは、自分の年老いた母を日本に残して、遠くにきてしまったことでした。常夏の国で、毎日、夕食のあと、少し外が涼しくなったとき、私はロザリオを唱えながら大学のキャンパスを歩きました。ロザリオの栄えの玄義の第2連は、主の昇天の黙想ですね。そこで私はいつも母のことを思い、なるべく苦しみのないように、早く天国にお迎えくださいと祈っていました。2年経って、日本にいる姉から電話で、母の死を知らされました。母のもっていた動脈瘤が破裂して、昼食のときに突然倒れ、亡くなったそうです。すぐに手配して、母の葬儀のために帰国しましたが、母の眠っているような安らかな死に顔をみて、神さまが私の祈りを聞いてくださったことを知りました。
皆さん、私たちはそれぞれ異なった環境で、異なった生き方をしているのですが、主の昇天の祝日にあたり、このことを共通の希望として確かめたいと思います。それは、世俗のさまざまな思い煩い、悩みや行き詰まりの中でも、心を天にあげること。私たちは神の家族として、いつの日か神さまのもとでともに食卓に着くこと、神さまがそれを約束し、招いてくださっている、ということです。アーメン。
2026年5月10日
復活節第6主日(A年)
2026.5.10の「福音朗読」
ヨハネ14・15-2
❲そのとき、イエスは弟子たちに言われた。❳「あながたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしょう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それをまもるひとは、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
2026.5.10の「説教」
(英 隆一朗 神父)
今日の福音書は、ヨハネの14章。イエス様がこの告別説教の中の一部分が朗読されました。
イエス様の復活の恵みの中で、ということでしょうか。
真理の霊を私たちに送ってくださる。具体的には、聖霊降臨の一つの恵みですが、やはり復活のお恵みの一つは、私たちに真理の霊を与えてくださって、永遠にこの真理の霊が私たちと一緒にいるという、あるいは私たちの中にそれがいるということを主が保証してくださってるということですね。
私たちは、真理というか、日本語的に言うと真実ぐらいの方がいいと思うんですが、やっぱり本当に大事なこと、真実の霊が私たちの中にあると、それを私たちが活かしていくということの大切さということですね。
実際のところ、インターネットが発達して、SNSがこういろんな情報がいっぱい増えるようになってですね、多くの人は、このインターネットができたことですけど、多くの人が情報がいっぱい、もっとたくさんの情報が私たちはアクセスすることができるから、もっと私たちは真実に触れることができるであろうとみんな思ってたんですよ。
でも、実際のところは、SNSとか、なんかオールドメディアとかニューメディアとか、とにかく情報がいっぱい入れば入るほど、実は逆なんですよ。
真実が分からなくなっちゃうっていう。何がほんとか嘘か、あまりに情報がいっぱい入るからわからないわけですよね。
で、実際現地に行って私たちは確かめられないから、ほんとか嘘かって実はわからない。
実際のところは、わざわざですね、どっかで戦争があっても、その規模とか行くことができないから、私たちはそういうネットとかいろんなことで情報がいるわけですけど、それがなんかもうメタメタになってるので、実はなんか現代はもっと真実に触れることができなくなってきたっていうですね、矛盾し、皮肉な中に私たちがいるというわけですよね。それはなんでかって言ったら、フェイクニュースっていうか、真実に基づかないものが今だったら生成Aiで勝手にどんどん作られて、全然いない人物が喋ったりとかそのものはいっぱい作れることになったからこういうふうになってるわけなんですけど。
でも、嘘のニュースっていうんですかね、つまり真実でないものの特徴は実ははっきりしていて、私たちの中にこの恐れとか不安とか、なんかそういう感情を駆り立てていく時に、これは大変だとかと思ってそのニュースをまた流したりするから、嘘とかデマがどんどん広まっちゃう。
あるいはもう1つは、偽りの慰めっていうんですかね、何か彼らよりも私たちの上だから安心だとか、なんか他の人をこう、蔑視するってのは、軽蔑することによって安心感を得るような、なんかそういうやっぱり信じてないものの特徴ってのはやっぱ色々あるわけですよね。
で、イエス様がくださってる真実というのはどういう特徴があるかと言ったら、1番はっきりしてるのは、それ、私たちに本当の自由と愛の心を広げていくというか、広めていくものこそ、やっぱり真実のものがあるということなんですよね。
より自由になる。こう、振り回されなくなって、恐れとか不安に振り回されなくなって、より自由になっていく。
あるいは、人を憎んだり軽蔑したりするんじゃなくて、やっぱ愛の心っていうんですかね、一人ひとりを大切にしようとする。
そういうところがある時に、やっぱり真実の霊が働いている。
で、私たちはその真実の霊にいかに合わせて生きていくかっていうことが1番大きな大切なポイントになると思いますね。
だから、復活したイエス様に出会った弟子たちは、そこで本当の真実、復活というイエス様の真実に本当に触れたので、周りから迫害されてても、それになんとか、なんか防御的になって、こう戦ったり、そんなこと全くない、恐れとか不安にとらわれてない、攻撃されて、ユダヤ人からもどんどん、そのうちはローマ人からも攻撃されるわけですけど、場合によっては殉教したりするわけですけど、でも、全く恐れとか不安にこの囚われることなく、ユダヤ人を憎んだり軽蔑したり、あるいはそこで戦ったりすることもなく、愛の心を持ってやはり本当の正しいこと、真実を生きていくことができる、本当にこれは復活の恵みだと思うんですけど、そのような私たちはやっぱり真実を生きていく必要性があると思いますね。
ただ、真実はいつもいつもこうなんて言うんですかね、心地よいものとしてくるわけでもないのも事実だと思います。
この最近、最近でちょっと前ですけど、イエズス会の神学生たちが、ちょっと一昔、まだ終わってない水俣に体験学習に行ったんですよね。
水俣病で、公害病ですよね。
チッソという会社が、その頃はまだよくわかっていなかった水銀をどんどんどんどん廃棄、流してしまって、で、それで魚が汚染されて、で、魚を、その水銀に汚染された魚をたくさん食べた人々が、この特に漁師町のところですけども、多くの人が水俣病になってですね。
しかも、その生まれつき水俣病の人もいて、大変な公害の1番、公害病の1番最初ぐらいですけど、未だに患者もおられるし、そういうものあるわけですよね。
そこに神学生が行って、実際そういう人々と触れて、どういう問題があるのかっていうことをこう見たんですよね。
で、体験してきたんですけど。で、1人の神学生が、そのガイドしてくれたその水俣の人にですね、こう言われたって言うんですよ。
私たちは、その人によってもちろん違うけど、大半の人はチッソという会社を恨んだり憎んだりしてるわけではないと。
で、私たちが1番望んでるのは何かって言ったらですね、やっぱり当時のその流れですよね、やっぱり利益を優先したり、人間の命を軽視したりする、そういうことがあったというですね。
その真実をみんなに知ってほしいんだと。つまり真実を1番知ってほしいということを願ってるという。その言葉を聞いて神学生は東京に戻ったんですけど、やっぱりそこにも真実があるっていうことなんですよね。
真実は喜びというか、そういうもので現れてることと、苦しみとか痛み。
でも真実はやっぱり現れる。だから、この痛みとか苦しみで現れてる真実に目を背けたり、あるいはそれに振り回されないで受け止めるってことも、それも私たちにとって真実の霊を生きていく大切なことだと思います。
やっぱり真実にはやっぱり2つの面があって、痛みとや苦しみとしてはっきり示される。
それはイエス様の十字架そのものですけど、その痛みが私たちの周りにもあるし、社会にもいっぱいある。
それもしっかり受け止めなきゃならないし、それともう1つはイエス様の復活の恵みですよね。
それを乗り越えていく。やっぱりさっき言った自由とか愛とか、本当の喜びにつながることも真実として示されている。
両方私たちはしっかり受け止めて生きていくときに、私たちはほんとに真実の道を歩めるんじゃないかと思いますね。
で、この教会の保護の政治は、先ほども言いましたけど、ファチマのマリア様ですよね、ファチマの聖母マリア様ですけれども、
ファチマのマリア様の大事なメッセージは何かって言ったら、それは喜びのメッセージじゃないんですよね。
どっちかというと、やっぱり痛みや苦しみの真実をまずは語っている、3つの予言とね、有名な、でも、それもどれも世界的な大きな災害とか戦争とかですね、そういう困難なことがあるってことをマリア様ははっきり言ってるわけですよね。
それは私たちを脅したり、こう不安にさせたりすることではなくて、そういうことをはっきり言って、だから私たちはどう生きなきゃならないのかを、その真実の道をマリア様は語ってるわけですよね。
やっぱり、私たちが本当の自由と本当の愛を生きていく。
いろんな困難とか、その予言の中に入ってない苦しみ、もちろんいっぱいありますけど、でも、それを私たちが受け止めながら、その中でしっかり心を入れ替えて、回心して、先ほど唱えたロザリオの祈りとかですね、祈りをしっかりして、私たちが愛を生きていくことを望んでおられる。
で、それは、そのマリア様の気持ちは、もう今も変わらないと思うんですね。
だから、マリア様が私たちに示している真実を、それは苦しみと痛みを含んだ真実を受け止めて、そこでそういうものになんてこう、いたずらに振り回されたり、とにかく今ちょっと収まってますよ、ファチマの第三の予言っていうのでですね、それもちょっとこう、ある界隈ではなんとか不安と恐れをこう駆り立てるような、なんかちょっといろんな憶測とかなんとかなんとか、こう、振り回されるような話にちょっと繋がっていくから、なかなか喋りにくいテーマではあるんですが、でもしかし、はっきりしてますよ。
苦しみとか困難があるということをはっきり言っておられるのは間違いない。
細かいことはともかく、でも、それをしっかり受け止めて、私たちがこう、本当にイエス様の望むこのプラスの意味で真実の生き方をするようにというですね、もうマリア様のメッセージもすごくはっきりしてると思いますね。
一人ひとりの立場によって、やはり示される真実のあり方とか生き方は違いますけれども、でも、私たちがそれをしっかり受け止めていけるかどうかということだと思います。
フランシスコ教皇が日本に来た時に、若者の集いでいろんな集まりやったんけど、若者の集いで話されたことがちょっと非常に印象的で、やっぱ若い人は特に、何が正しいかとか、どう歩むべきとか、自分に合ってる仕事が何なのかとか、やっぱり真実を求めざるを得ないわけですよね。
もうちょっと普通の言葉やったら、回答っていうか、正しい答えを求めてる。
でも、フランスシスコ教皇はこう言うんですよ。1番大事なことは正しい答えを得ることじゃないって言うんですよね。
1番大事なのは正しく問いかけることだっていうんですよね。
正しく問いかけていく時に答えが見つかるから、安易に答えをこうこれだとか安易に出てくる、
なんか真実っていうのは、なんかどうもフェイクっぽいことが多いんですよね。
なんかもうネットでこれだこれ、これが絶対正しいとかってきてることが案外ちょっと間違ってる。
だからやっぱり問いかけて、実際日常の中でなんか迷うことも様々私たちもありますよね。
だから、なんでこうなってんのか。とか問いかけることから、神様にしっかりと問いかけていく中でこそ、真実の霊が心の中にある。
それをこうがこう、だんだんと分かってくるような、やっぱなんか地道なことだと思いますね。
だからこそ、私たちは謙遜に誠実に、やっぱり真実を求めながら、安易な答えを得るんではなくて、こうかな、ああかなとか迷いなが迷いながら、探しながら、やっぱり、でもこっちだって思えるところをしっかりと歩んでいけるようにですね。
神様に恵みと力、そして本当の知恵と照らしを願いたいと思います。
2026年5月3日
復活節第5主日(A年)
2026.5.3の「福音朗読」
ヨハネ14・1-12
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたを私の元に迎える。こうして、私のいるところにあなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よどこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行くことができない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今からあなたがたは父を知る。いや、すでに父を見ている。」フィリポが「主よ私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」というと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見たものは父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父を示しください』というのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。私を信じるものは、私が行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる。私が父の元へ行くからである。」
2026.5.3の「説教」
(英 隆一朗 神父)
今日の福音書は、ヨハネの14章で非常に慰め深い、あるいは意義深いこと、イエス様がたくさん話されてるところですね。
最後の晩餐の席でイエス様が話された言葉のある部分ですけれども、一番有名なのがやはり6節でしょう。
私は道であり、真理であり、命であるとおっしゃるところですけれども、私たち、私たちというか、この中の多くの方々がですね、やはり日本人の方々が多いと思うんですが、やはりこう道を歩むっていうんですかね、何かそれは、何か私たちにとって非常にやっぱ大切なものじゃないかなと思いますね。
この自分に、この与えられた職業だったり使命だったりで、その道をこうどうこう誠実に、あるいは徹底的に歩めるかというのは案外大切なことじゃないかなと思います。
で、なんかね、どんなことにも、その道があったら、必ず達人っていうか、名人みたいな人が実際おられるんですよね。
将棋にしてもなんにしても、このそば職人にしてもですね、なんかやっぱり名人と呼ばれる人がいて、羽田空港には掃除の達人みたいなおばさんがいるとかね、ね、どんなことでも、なんかこう、道を極める人がなんかこういて、なんかそれが、私たちの生き方の1つの、こう、基盤になってるっていうんですかね、それはもうほんと、どんな仕事でも、どんな役割でも、どんなことでも、そういう、なんか道を極めた人ってのは必ずいてですね、皆さんのこう模範になるような生き方をされてる人がいるわけですよね。
私たちはイエスの道を歩む以上、私たちもこのイエスの道をなるべく極めて歩んでいきたいという望みを持ってる方も多いと思うんですが、やはりそのイエス様の道の達人は誰かって言ったら、もちろんいろんな意見もあるでしょうけど、やっぱ1つは、やっぱ殉教者だと思いますね。
やはり自分の命を懸けてまでイエス様を証した人々、それが、今日は5月3日、乙女峠のですね、証し人、そのうちの中で殉教された方々がおられるということですが、乙女峠のことは皆さんよくご存知だと思いますけれども、明治になって、プチジャン神父さん、外国、フランスからですね、宣教師が日本に来て、で、長崎で、まさかもう日本に信者はいないと思って、外国人のためのなんて言うんすかね、教会を建てたところ、見知らぬ日本人が入ってきて、マリア様の御像はどこですかということから始まって、実は250年間ですね、その潜伏してたクリスチャンがいるということで、プチジャン神父さんがたまげて、それを結局バチカンに報告することになって、公になってですね、それを機に、隠れてた人々がクリスチャンであるっていうことを名乗るようになったんですよね。
でも、残念ながら、まだ日本は禁教令の中だったので、その名乗った人々が結局、浦上四番崩れっていうのは、このなんて隠れていたのがバレることなんですけどね、浦上四番崩れということで、多くのクリスチャンたちが、あちこちのですね、場所に送られることになって、乙女峠、当時の津和野藩ですかね、153人が津和野に送られて、そのうちの37人が殉教したといういうことなんですよね。
で、乙女峠のこの証し人たちは、列福運動もすでに始まってるということで、広島教区の1つの宝としてですね、大体毎年そこに集まれる人は集まって、共にこのロザリオを唱えながら行列をしてミサを捧げるということをやってるわけですね。
そういう英雄的な方々の話を聞くと、普通はもう自分にはできないっていうか、もうとてもじゃないけどっていう気持ちにやっぱりなると思うんですが、でも、なんていうんですかね、やはりこう、彼らにとって、その250年間隠れてて、隠れてるのと、やっぱり自分たちがクリスチャンだっていうのと、どっちが彼らにとってやっぱり良かったかって言ったら、やっぱり明らかに、みんなの前でですね、自分たちはクリスチャンだっていうことの方が、なんかやっぱりこう、喜びと言ったらあれかもしれないけれども、何か心の晴れる気持ちがやっぱあったんじゃないかなと思いますね。
それで迫害されても、もう、まあまた隠れるってこともないですから、もうオッケーという形で、やはりイエス様のひいたクリスチャンの道がやっぱり私たちにはあって、その道に私たちの生き方がこうかぶるときに、まあそれが大体大きな場合は困難があるときが多いですけど、でもその時にやっぱり私たちの心の中にあるのは、もちろん苦しみもあるけれども、でもそこにイエス様の真理と命をやっぱりこう感じ取れる何かの喜びというか、慰めというか、励ましというものがあるんじゃないかなと思いますね。
で、その津和野の殉教者の中で有名な方の1人は、森安太郎というですね、ご存知だと思いますけど、この3尺牢というね、90センチの立方体の檻に入れられて、立つことも寝ることもできない、そこで1か月間入れられて、真冬なのでも裸で野ざらしにされてですね、それで結局彼は殉教するわけですけど、でも、守山甚三郎だったか、高木仙右衛門だったか、とにかく彼に会いに行っては励ますんですけど、でも安太郎の方はですね、いや、毎晩、毎晩、青い着物を着たサンタマリア様のような方が現れて、その人が自分を励ましてくれると、毎晩ですね、だから、苦しいことは何もないっていうことを答えるんですよね。
有名なお話ですけれども、マリア様のご出現を受けてたっていうことですけど、安太郎はですね、それで、亡くなるんですが。
もちろん、そんなにね、そういうことは、特別なことかもしれないけど、でも、やっぱり、その時にいた150人ぐらい、7人か8人はころんでるんですけど、ころんだけど、けど、結局、また元に戻るんですが、ともかく、やっぱりね、こう、イエス様と共に歩む道を歩んでるっていうことに、大きな励ましと力を得てたのは間違いないと思うんですね。
だから私たちは、ついつい外から見ても、あんな苦しいこととか、もう自分たちはできないとか、無理とか、いろいろすぐ思っちゃうんですけど、でも案外その中にいて、しかも家族と仲間と一緒ですから、そこでイエス様の道を、なんかもう命かけて歩んでるっていうことがはっきり自覚できるときには、やっぱりそこにね、大きな真実と、もうほんとの命の恵みを得る、そういうものがやっぱあったのは、まず間違いないと思うんですよね。
だから、喜んで、喜んでか、渋々か、人によってもちろん違うとは思いますけれども。
だから、私たちも日頃はね、なんか平安な世の中に、だんだんちょっとおかしくなってきましたが、クリスチャンであってもなくても、そんなに、日常生活はそんなに変わらないことがあるけれども、でも、なんかあるときに私たちはクリスチャンであるっていうことを自覚する。
で、そういう時にこそイエスの道を歩んでるっていう、なんか励ましと力づけがやっぱりあることが、やっぱり私たちの1番の根本にやっぱりあるから、私たちはこう信仰者として歩めるんじゃないかなと思いますね。
全然関係ない話かもしれんけど、最近ちょっとアメリカ人の神学生と色々話してて、彼の召出しの話を聞いたんですけど、割と才能のある人で、なんか医学の勉強やったりとか、色々日本語も喋れてとか、いろんなことでも彼が言ってたけど、イエズス会に入る前にはある意味成功した人生だけど、でも心の中になんかぽっかり穴が開いたような気持ちがどうしても拭えないっていうんですよね。
この、本当の意味でこう、喜べない気持ちがどっか自分の中にあった、でもイエズス会に入ることによって、なんかこの心の中の穴がなんか閉じられて、なんか、本当に自分の歩む道を見つけたみたいな。
だから、彼の場合は、ひとりひとりもちろん違いますけど、彼の場合は、イエズス会に入るということで、自分の道がピッと、こう、イエス様の道と、こ、これ1つになったっていうんですかね。
だから、こう、喜びっていうか、安定感というかですね、なんか、生きてる安心感みたいなのがあって、だから、やっぱり、私たちは、イエス様の真実と、イエスの命を生きていける、そういうものがやっぱ与えられるってことですよね。
ただ、私たちも弱いから、ついその道から外れて、なんというか、ずれずれちゃうかというか。
でも、ずれればずれるほど、なんかやっぱりなんか本当の生き方じゃないっていうことを感じたり。
それ罪ってことですけどもね。ずれてるってこともやっぱ感じられるし、ずれてたら戻ることもできるわけですよね。
やっぱ私たちの人生の1番の苦しみは、道がない中を歩くことが多分最大の苦しみなんじゃないかなと思いますね。
実際のところですけどね。突然苦しみにあって、なんでこんな苦しめなきゃならないのかと。
なんでこんなことが起こるのかとか。道がないから私たちは結局苦しんでしまうわけですよね。
ああでもない、こうでないないとか。たとえ成功してても、なんかそこに道が見出せないと、生き甲斐がないっていう感じがしてしまう。
イエス様のやっぱり最大の功績は、十字架と復活によって道を与えてくださったっていう。
つまり、十字架と復活の道こそが、私たちの本当の道だっていうことを示してくださった。
だから、そのイエス様に合わせたときに、その道に私たちが合わせた時に、殉教者であろうが、普通の生活で生きてる人であろうが、イエス様の十字架とイエス様にかと合わさった時に、その道が見えて、道を歩める喜びと、こう力づけが私たちに与えられてる。
だから、イエス様は、道であり、真理であり、命であるっていうね、生き生きした命を生きられる。
この数時間後に彼は逮捕されて、翌日十字架にかかって、この世の命はなくなるんですけど、でも、イエスの道を歩む限り、本当の命の恵みと力が私たちに与えられて、それを生きていける。
もちろん、小さな苦しみ、大きな苦しみ、色々ありますけど、イエス様の十字架と心を合わせて生きていく中で、復活の恵みにつながるというですね、喜びが私たちには与えられてるということですね。
それをやはり改めて思い出しながら、乙女峠のですね、先輩たちの信仰の証を、もう一度ですね、心に刻みながら歩みましょう。
私たちに与えられている道が明らかにある。私たちも、自分に与えられたこの信仰の道を、喜びのうちに、あるいは、なんか人によっては覚悟を持って、あるいは、ほんとに、なんで、平安な心でですね、前向きにその道を歩めるように、あとに共に祈りを捧げたいと思います。
2026年4月26日
復活節第4主日(A年)
福音朗読 ヨハネ10・1-10
[そのときイエスは言われた。]「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
説教(百瀨文晃神父)
今日の福音朗読は、ヨハネ福音書10章に伝えられる、イエスの語った羊飼いのたとえです。羊は、日本では動物園にでもいかないと見かけませんが、イエスの時代のイスラエルでは、羊の群れとそれを導く羊飼いは日常生活の光景でした。羊飼いは貧しい人たちで、たくさんの羊をもつお金持ちの主人にやとわれて、毎朝、羊の小屋から羊を連れ出します。そして草のあるところにつれていって、羊が草を食べるあいだ見張っていて、夕方になるとまた、小屋に連れかえるのでした。イエスは、人々の日常生活で経験する事柄をたとえにして、聞いている人々に考えさせるようにしたようです。
羊のたとえは、イエスがいろいろな場所で、いろいろな機会に話されたたとえ話が言い伝えられて、それを福音書の著者が集めて記したと思われます。今日の箇所では、羊の囲いに入る盗人と羊飼いのたとえ、そして羊飼いと従っていく羊たちのたとえ、そして羊の門と盗人の作った穴などのたとえが集められています。
たとえの中の羊飼いは自分の羊に名をつけて、一匹一匹、名を呼んで連れ出します。羊たちは羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いの後についていきます。そのイメージを使って、イエスは私たち一人ひとりのことを気にかけ、導いてくださること、あらゆる危険から守り、正しい道を行かせ、牧草の豊かな牧場に連れていってくださること、私たちはその声を聞き分けなければいけないことを教えておられます。
私たちの人生の歩みをかえりみると、私たちはしばしば道に迷い、道を踏み外すことがあります。私たちをまどわすものは世間に満ちています。詐欺まがいの商法だけではありません。世俗の価値観や考え方、まやかしの幸せや豊かさ、きらびやかさが、神さまのいのちの息を窒息させてしまうことがあります。だから、毎日の祈りが大切です。祈りの中で、主の招きと世俗の誘惑とを聞き分けることが求められます。
私たちがよく知っている詩編23、「主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない」という典礼聖歌の中で次のように言われます。「たとえ死の影の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない。主はわたしとともにおられ、主の杖と鞭はわたしを守る。」ときには体調がすぐれないときも、仕事の疲れや人間関係に悩むときも、孤独や将来の不安にかられるときも、主イエスがいつもともに歩んでくださること、正しい道に導いてくださることを思いおこしましょう。そして、主の導きに従っていくことこそが、私たちの真の喜びであり、幸せをもたらすのだ、ということを改めて心にとめましょう。アーメン。
2026年4月19日
復活節第3主日(A年)
2026.4.19の「福音朗読」
ルカ24・13-35
この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、バンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
2026.4.19の「説教」
(英 隆一朗 神父)
今日の福音書は、ルカの24章、いわゆるエマオへのこの旅人と言うんですかね、エマオにこう向かっていく2人の弟子と一緒にですね、復活したイエス様がこう共にこう歩いて、ともにこう過ごしてくださるというですね。
非常に印象深いお話です。特にこの2人の弟子は、イエスだと、復活したイエスだと気づかずにですね、何かただのおじさんだと思って一緒にこう歩いていて、最後の最後でイエスだとわかるというですね、不思議な話でもあります。
いろんな信者さんとお話をして、この復活って、イエス様の復活と、このわかるような、実はちょっとわからない、ピンとくるような、来ないようなところのある出来事というか、救いの神秘ですけど、やはり、まあ、全員というわけじゃないですけど、多くの信者さんにとっては、やはりこのエマオの弟子が1番、こう復活を、こう復活を、こう、理解というか、ピンとくることではないかと思うんですね。
何かって言ったら、復活した主は、共にいてくださってる私たちと、でも私たちは気づかない。
私たちは気づかないけど、復活した主が今も共にいてくださってるというですね、共に歩んでくださってるという、それはやはり復活の恵みの一番ちょっとわかりやすい捉え方かなというふうに思います。
実際のところ、イエス様は私たちと共に歩んでくださっていて、しばしば助けたり、こう支えてくださったりしているわけですけど、私たちの方がなかなか気付いていない。
けれども、私たちが振り返ったり見たり、自分の信仰生活を見直したりするときに、やはり、あの時に主が助けてくださった、支えてくださったということに気付くことは、皆さんの中でもあるんじゃないかというふうに思います。
この復活した主と私たちが共に歩んでるというですね、これが私たちの信仰の一番基本にあることではないかというふうにも思います。
実際のところですね、復活した主は、なんというんですかね、こう、特にこの信仰の道を歩み始めたばっかりっていうかですね、そういう時には、どっちかというと、イエス様が私たちに合わせて歩いてくださってるっていう感じが、ここのエマオの弟子みたいに、全然関係ないエルサレムから離れて、全然関係ないところに歩いていながら、でも、復活した人がわざわざある、一緒に歩いてくださってると。
だから、こう、イエス様が私たちに合わせてくださってるっていう感じが強くするんですよね。
そこで彼ら励まされて助かるわけですけど、でも、信仰が進んでいけばいくほど、逆のことを求められてる気がして。
どういうことかって言ったら、イエス様が歩みたい歩みに、私たちが歩調を合わせられるかどうか。
共に歩むってことは、実際そういうことで、自分が行きたいところを勝手に行って、そこにイエス様もこっちに来てくださいというよりは、イエス様がこっちの方に行きたいと思っておられるのに、私たちの歩調とか方向性とかを合わせていけるかどうかが、だんだん問われてくるんじゃないかなと思います。
でも、それがなかなか苦手で、うまくできないということもあると思います。
復活したイエス様が何を望んでおられるのか、何を喜んでおられるのか、あるいは、どういうことをこうしてもらいたいと私たちの方に願ってるのかっていうことを聞きながら、あるいは相談しながら、私たちが歩んでいく。
それがですね、もっともっと必要とされることだと思いますね。
実際のところ、私たちの、時によっては孤独とか、あんまりね、人と関わらないってこともありますけど、でも、大体は誰かと共に、仕事にしても、家族にしても、教会にしても、誰かと共に歩んでることの方が実際は多いわけですよね。
それが非常に、馬の会う人と共に歩めることも、歩むことができることもあれば、どっちかというとなんか合わない人と一緒にこう歩まなきゃならないことも多々あると思います。
それは職場でも教会でも家庭でもどこでもあることですけれども。
でも案外その共に歩んでいくっていうのは、結局人間の自我と自我とのぶつかり合いだから、そこで必ず難しさが生じるわけですけど、その時にやっぱり神の恵みをこう見出しながら、つまり神の導きを見出しながら、復活した主とさらに共に歩んでいけるかっていう、それはライフステージっていうんですかね。
何かが変わったとしても、結局私たち、その場その場で問われてることになるという風に思いますね。
イソップ童話だったかグリム童話だったかちょっと忘れましたけど、カエルの王子様って話があって、ご存じの方もおられると思いますけど、ある王様にですね、お姫様がいて、庭で遊んでたんですよね。
で、昔ですから、金のボールというか、マリで遊んでたんですけど、それがですね、ちょっと手元が狂って、池にはまっちゃって、今のビニール性だったら沈まないですけど、昔、だから、その、それが沈んじゃってですね、それで、そのお姫様が泣いてたらですね、その池から、蛙が現れてきて、で、カエルがそのお姫様に、自分と友達になってくれて一緒に過ごしてくれるんだったら、そのマリを取ってきましょうという、言うわけですよね。
で、カエルとの約束だし、お姫さん適当に答えてたらいいだろうと思って、ま、いいですよ、あなたの友達となって一緒に過ごしてもいいですからって。
そしたら、カエルが、じゃあ約束ですよって言って、その池にドボンとは入ってですね、金のマリを持ってきて返すわけですよね。
で、お姫様にしたら、もうそれはそれでもいいですから、もうそのマリを持ってカエルがぴょんぴょん来るけども、そんなん無視して宮殿の中に入ってですね、それで晩御飯を食べてたら、そして王様と一緒に晩御飯食べてたらですね、そしたらこのノックする音があって、で、食堂に、で、何が入ってくるかっていうと、そのカエルが入ってきて、でもってカエルがですね、友達となるね、約束をしたから、だから一緒に食事をしたいとカエルが言うわけですよね。
お姫様は気持ち悪いから、それでももう嫌な顔してたんですけど、王様が、いや、約束は守らなきゃならないって王様に言われてですね。
で、カエルと一緒に、食事も一緒にするし、遊びも勉強も一緒にしてですね、寝る、寝る時もちょっと隣で寝るとか、もう気持ち悪い、カエルとずっと過ごさなきゃならなくなって、それでもうお姫様の方は悲鳴をあげて、で、最後どうするかって言ったら、もうとうとう堪忍袋の緒が切れて、カエルをですね、壁に投げつけるんですよね、ちょっと野蛮ですけど。
で、投げつけたら呪いが解けてですね、それが隣の国の王子様だったっていうことで、それで、そのお姫様と王子様がめでたく結婚しましたっていう、そういうお話、単なるおとぎ話でですけども。
でも時々、ずっとじゃないですけど、時々、私たちもカエルと一緒に歩まなきゃならないことも時々あるわけですよね。
それがわからない。王子様と思って結婚した相手が実はカエルだったっていう逆のケースがあるかもしれないけど、もちろんわからないですよね。あるいは、もちろん病気になって、病気になったらその病気と一生、一生ってか、場合によってはずっと共に歩まなければならない、それもカエルかもしれない。
つまり、一緒にいたくないけど、結局一緒にいざるを得ないものってのは私たちにあるわけですよね。
でも、その時に、まあ、その物語は、それ、子供の物語だから、カエルを壁に投げつけるんですけど、でも本当はやっぱりカエルが死ぬんじゃなくて、やっぱりお姫様自身が、古い自分に死ぬっていうんですかね、自分のこのとらわれとか、何かに死んだ時に、その本当のカエルの中にある本当のお恵みに気付く。
復活の主の働きって、やっぱりなんかそんな感じがして、今の弟子たちも、すっかりもうダメになっちゃったけど、でもそこに、その先に、大きなこの復活の恵みがある。
私たちが誰と、何と共に歩んで、いい時も悪い時もいろいろありますけども、その中にこそ、場合によってですけどね、やっぱり復活した主の働きが実は隠れてる。
でも、それがなんかの拍子で私たちはわかることがある。
だから私たちは復活した主と、それが、だから見えないってのは、やっぱ基礎なんで、最初から見えてたらわかるわけですけど、それは隠されてるってことですから。
隠されてる復活したイエス様と、それに私たちは期待しながら、希望しながらですね、歩んでいけるかどうかということが、私たちに最も大切なことじゃないかなと思いますね。
僕も、だんだん長らく生きるようになってきましたけど、やっぱなんかね、人生の目的っていうのは、この世の幸せを得ることじゃないっていうふうに、やっぱりなんか強く思いますね。
むしろ私たちは、この世の幸せとか不幸せを色々経験しながら、やっぱり何か人間的に言ったら、こう、魂がこう成長するっていうか、私たちがより神様に近い、この心組みとか考え方とか、ものの見方とか、復活した主から学びながら、私たちは成長していく、そっちの方がやっぱりずっと大事だという風につくづく思いますね。
私はついつい、この世の不幸と幸せのことで振り回されてですね、あれですけど、でも、それを超える、やっぱり復活した主の恵みに。
で、復活した主の恵みって、別にこの世の幸せと直接繋がってないですからね。
でも、私たちの本当の喜びだし、永遠の命につながっていく価値のあるものですよね。
まあ、それに、私たちがいつもそこにフォーカスを当てて歩むことができるように、見えないけれども、共にいてくださる復活の主の恵み、あるいは、復活の主から教えていただきながら、私たちが本当に大事なものを学んでですね、本当に大切なことを大切にしていく人生を歩めるようにですね。
改めて、神様に恵みを願いましょう。今週1週間は、ほんとに復活した主とともに歩めるようにですね。
意識しながら歩んで行きたいと思います。
2026年4月12日
復活節第2主日(A年)
2026.4.12の「福音朗読」
ヨハネ20・29
その日、すなわち週の初めの日の夕方。弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
12人の1人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、わたしは決して信じない。」さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここにあてて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じないものではなく、信じるものになりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
この他にも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
2026.4.12の「説教」
(英 隆一朗 神父)
今日の福音書は、イエス様が復活されたこの時のお話ですね。ヨハネの20章の後半の方ですが、イエス様が復活された日曜日の夕方、イエス様がですね、現れて、弟子たちにお会いになったわけですが、その時に、トマスだけは不在だったので、彼は信じないと、かたくなにそれを主張したわけですが、1週間後、それが、今日の第2主日にあたるわけですが、で、その時に、もう一度、イエス様が、復活されたイエス様が現れて、で、トマスにこの自分自身のですね、傷を見せて、手と脇腹の傷を見せて、この信じないものではなく、信じるものになれとイエス様がおっしゃるわけですね。イエス様、いや、トマスはそれを見て、私の主を、私の神をと言って、このイエスをこう礼拝するということになるわけですね。それに対してトマスが、いや、イエスはトマスにですね、この見ないのに信じる人は幸いであるということをこうおっしゃるわけですが、私たちがこのどういう時に本当にこう信じるのかっていうことなんですね。実際、信じることの一番大切なポイントは何かって言えば、やっぱりこう見えていないからこそ私たちは信じなきゃならない。もしそれがはっきりと見えていれば、実は信じる必要性がなくなっちゃうということなんですよね。カトリック協会では対神徳と言ってですね、神様に対する徳は信望愛と。ええ、信仰、希望愛と言われてるんですけど、天国に行ったらですね、神様をありのままに見るので、もう信じる必要性がないんですよ。神様が目の前にあおられるからで、希望する必要性もない。神様が目の前におられるから、だから天国に行ったら、もう愛することしか実は残らないというふうに実は言われてるんですけれども。でも、私たちは復活したイエス様を肉眼に見てるわけではないですし、たとえ弟子たちだって復活したイエス様と出会ってたとしても、それは1回か2回ということでしょう。実際、私たちが信じるっていうことを考えた時に、目に見えないことだから、私たちは信じるということが大切になってくる。
で、私たちは何をほんとに信じていくのか。実際、聖書の中で信じるべきことの最大のものは何かって言ったら、イエスが復活したっていうことなんですよね。
で、それを信じるかどうか。もちろん、この中にいる人は誰もそれを見ていないわけですけど、でも、私たちはそれを信じて歩んでいくことができる。
で、それが幸いだと見ないのに、信じる人は幸いだというですね。この幸いを私たちが生きていくことができるかどうかということだとおもいます。
大阪の釜ヶ崎っていうところに関わりがあってですね、そこにいろんな人がいるんですが、一人、有名な人で、入佐さんという女性の方で、若い頃から、今はもうボランティア、山のようにいるんですが、昔はほぼボランティアなんか、ゼロっていうんですかね、全く、労働組合の人と、クリスチャンか、シスターとかしか、ちょろっといたぐらいだったんですけど、その時に、入佐さん、プロテスタントの女性なんですけど、単身女性で、1人で男の街に入ってって、それで、いわゆる傾聴ボランティアの元祖のような形で、その労働者の人たちの話を聞いてですね。
で、彼女が言うんですけど、ちょっと正確な言葉じゃなくて、私なりの解釈なんですけど、やっぱり、この労働者1人ひとりを信じてるっていうんですよね。で、その人たちも入佐さんを信じてるっていうのが、私はあんまり人間に信じるって言葉は実は使いたくない。
信頼するという意味でということですけど。今は、生活保護とか割と取れるんですけど、昔は全く取れない。非常に困難な野宿してる人とかでも、何のかんのいろいろやって、生活保護が取れても、なんて言うんすか、当座のお金とかないとかなんとか。それで、入佐さんが自分のお金をこう貸すわけですよね。
で、お金を貸すってことは、結局その人を信じてるから、お金を結局貸すということになるわけなんですよね。
で、信じてお金を貸して、踏み倒されたこと一度もないって言っててですね。
で、それはなんでかって言ったら、野宿者の側からすれば、その入佐さんが自分を信じてくれてるから、もう裏切れないっていうね、この、だから、やっぱりもうちゃんとお金返さんとあかんと思って、今まで1人も踏み倒した人がゼロだというんですよね。
じゃあ、なんで。いや、実はちょっと私も色々、ちょっとだけ関わりがあって、私も1人の人信じてたんですけど、ちょっとあんま詳しい話できないまま裏切られたって。
ちょっとオーバーだけど、なんていうのかね、僕がこう計画した通りにうまくいかないことがあって、
ま、とんずらとんずらでもないんですけど、ともかくうまくいかなかったんですよね。
それも、僕もある意味彼を信じてたけど、結局うまくいかなかったんですよね。
彼も僕を信じきってなかったか。いろんなちょっと細かいことは色々あるんですが、うまくいかなかったことが実は最近あったんですが、でも、考えてみたら、じゃあなんで入佐さんにはこう信じるってことが成り立つのか。
それははっきりしていて、徹底的に話を聞いて、徹底的に関わってるからなんですよね。
そのどこまでも、その人と悩みも苦しみも全部聞いてですね、それでも、ほんとにかかわってるから、つまり、そこに信頼関係があるから、信じるってことが成り立ってるっていうか。
当たり前って言えば当たり前ですけれども。でも、私たちは、どういう時に、人を信頼するとか、信じるとか、あるいは、その子供、子育てしていてですね、子供をどう信じるのか。
だけど、その信じるって時に、だから、将来のことですから、この子がどうなるかとかわからないし、問題抱えてる人はどうなるかわからないけど、でも、そこでやっぱり信じるってことがあるから、その子供にしろ、問題にある人にしろ、それを受け止めて頑張ろうってする気持ちが、こう湧いてくるっていうんですかね。
やっぱりね、こう、人と人との深い繋がりがあるところに、信じるってことの意味が出てくる、あるいは信じることの力が出てくるってことなんですね。
だから、やはりこの弟子たちだって、やはりイエス様とのいろんな交流とか何かがあるから、だから、最後の復活で、そのあと、信じることができるというですね、そういう恵みが与えられてるってことですね。
今日の第2朗読の最後、ペトロがその書いてる手紙の最後もなかなかいいんですよね。
ペトロの次の世代に向かって書いてあるんですけど、あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見てなくても信じているっていうふうに書いてあるんですよね。
それはもうイエス様との出会いがないわけですけれども、やっぱり人たちとか、その人たちのまたその次の弟子とかですね、その人たちと、このほんとの心のつながりや触れ合いや助け合い、そこに神の恵みをお互い実感してるところがあるから、この今見てなくても信じているとで、しかも言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れてるっていうんですよね。
やはり私たちがほんとに信じられるとしたら、そこに愛と喜びがあるからだと思います。
神様と自分との関係もそうだし、人間同士の関係でもですね。
そして、信じるっていうのは、必ずないものに向かってるんですよね。
だから、例えば今大きな困難があって。なんていう、抜け出せないとか、うまくいかないとか、もちろんそういうことも色々ありますが、でも信じてるからこそ、それを乗り越えて私たちは前に向かっていく力がやっぱ与えられるということですね。
私たちは、神様、神との関わりの中で、この信じる恵みを頂いてるってことですよね。
まあ、強い弱いはもちろん、歌うことも食べたり、ありますけれども。
でも、信じる喜び、あるいは信じるからこそ、私たちは勇気を持って前に向かっていくことができる。
人間同士もそうですし、神と私たちの間もやっぱりそうだと思います。
見ないで信じるものは幸い私たちは喜びと愛があるから、もうイエス様が見えなくても、あるいは何か確かな印がなくても、でもやっぱり信じる気持ちを持って、前に向かって、希望を持って私たちが歩んでいける。
その恵みをしっかり受け止めましょう。
改め、私たちは、復活した主を信じて、それは、前に向かってですね、今の困難を乗り越えていく勇気と力が与えられるということですから、私たちが心から神を信じて、こう、前に向かってですね、毎日毎日、一歩一歩、愛の心で、喜びのうちに歩んでいけるようにですね、互いに祈り合いたいと思います。
2026年4月5日
復活の主日
福音朗読 ヨハネ20.1-9
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
説教(百瀬文晃神父)
皆さん、改めて主のご復活おめでとうございます。
復活の主日の福音朗読は、ヨハネによる福音の20章からです。週の始めの日(今日の日曜日)の「朝早く、まだ暗いうちに」と述べられます。この言葉のように、世界はまだ闇のうちにあります。しかし、朝がやがて明けそめようとしています。復活祭は、その約束がしめされたときです。
マグダラのマリアの知らせで、イエスの遺骸がなくなっていると聞いて、二人の弟子、ペトロとイエスの愛しておられたもう一人の弟子が、あわてて墓に向かって走ります。
「イエスの愛しておられたもう一人の弟子」は、ペトロより早く走ります。彼が若かったからではありません。主を愛していたから、神の恵み、愛のカリスマによって、早く走ることができたのです。
彼は先に墓にきますが、リーダーであるペトロに敬意を表して、ペトロがくるのを待ちます。それは、カリスマを与えられた人が、教会の秩序を大切にすることを示しています。そして、ペトロがまず墓の中に入って確かめます。
もう一人の弟子も、ペトロに続いて墓の中に入り、「見て、信じた」と書かれています。これは、どういう意味なのでしょう。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と言われるのに、「信じた」とは何を信じたのでしょう。
「信じる」とは、ただマグダラのマリアの言葉が本当だったという意味ではありません。この弟子は、まだ聖書の言葉を知識として理解していなかったにもかかわらず、主を愛していたから、直観的に理解したのです。神さまがここで新しい天地創造の業をなさったということを。父である神さまは、最後まで忠実だったイエスを死の支配のもとにほっておかれることはない、ということを。この弟子は、しるしを見ただけで神のはからいを信じ、喜びに満たされました。復活の理解とは、そのようなものでしょう。頭で理解できることではなく、愛で受けとめるとき初めてわかることなのでしょう。
そして、ヨハネ福音書の著者は、何度も「イエスの愛しておられた弟子」という言葉を使って、それがだれなのか、名前を記していません。これは、きっと著者の意図的な書き方なのでしょう。「あなたもこの弟子になりなさい」という、私たちへのメッセージなのでしょう。
今この時点でも戦争と暴力、民族の憎悪と復讐の続く世界の闇の中で、私たちもイエスの愛する弟子として、深い心の喜びをもって、世界に希望の証をするように呼ばれています。今日、復活祭の喜びとともに、世界の人々に、復活の喜びを知らない人々に、そして今日、このごミサに参加できないでいる人々に、希望と喜びの証をする恵みを祈りましょう。アーメン。
2026年4月4日 聖土曜日
復活徹夜祭(A)
福音朗読 マタイ28・1-10
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。 主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。 かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。 さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。 『あの方は死者の中から復活された。 そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。 そこでわたしに会うことになる。」
説教(百瀬文晃神父)
皆さん、主キリストのご復活おめでとうございます。
今年の復活徹夜祭の福音朗読では、マタイによる福音28章の始めが読まれます。週の始め(現代の日曜日)の朝早く、イエスの女性の弟子たちが墓に行くと、大きな地震が起こり、神の使いが天から下って、墓の入口の石が転がした、と書かれています。マタイ福音書では、イエスの死のときにも地震や転変異変があったと記されていますが、福音書の著者が民間の言い伝えをもってマルコ福音書の記述(16・1-8)付け加えたのでしょう。それは、新しい天地創造を意味していて、死の枷からの解放、闇の力からの打破の象徴です。神のもたらしてくださった新しいいのちは、私たちに新しい力、新しい喜びを与え、私たちを覆っていた肉である存在の古い殻、疲弊と倦怠を破ります。
女性たちが男の弟子たちに告げるために急いでいく道で、復活の主が彼らに現れます。「おはよう」と日本語に訳されている言葉は、原文では「χαιρετε」(喜びなさい)です。さきほど歌われた復活賛歌では、「この夜、キリストは死の枷を打ち砕き、勝利の王として死の国から立ちあがられた。」「この聖なる夜、悪は打ちはらわれ、罪は清められ、恵みが注がれて、喜びが満ちあふれる」と言われます。
皆さん、私たちの現代の世界は今なお戦争と暴力、破壊と混乱に脅かされています。私たちの身のまわりにも、病気と障害、家族の心配、過去の傷や将来の不安をかかえた日々を送っている方々がいます。しかし、私たちは主イエスが死の力に打ち勝ち、私たちのために神のいのちに導いてくださったことを信じています。それこそが人生の意味です。健康も仕事の成功も、家族や人々との交わりも過ぎ去りますが、神のいのちは過ぎ去りません。
マタイ福音書の女性たちが復活の主キリストと出会って喜びに満たされたように、私たちの人生の道にも復活の主はともに歩み、あらゆる苦難を越える勇気と希望を与えてくださいます。それが単なる一過性の空元気に終わることなく、毎日の現実の中で、この喜びを保ち、これを人々に伝えることができますように。神がその信仰と希望を強めてくださるように。アーメン。
2026年4月3日 聖金曜日
主の受難の祭儀
福音朗読 ヨハネ18・1-19・42
[夕食のあと、]イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。
そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。
わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。
それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。
ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。
説教(百瀬文晃神父)
聖金曜日、主の受難の祭儀では、毎年、ヨハネ福音書18章から19章全体が朗読されます。この詳しい受難物語の後に、長い説教は必要ありませんが、朗読の中からただ一言だけを取りあげておきましょう。それは、ヨハネ福音書だけが記していることですが、イエスが息絶えた後、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺し貫いたことです。「すると、すぐに血と水とが流れでた」と書かれています。福音書の著者に独特のシンボルです。教会の伝統では、血は聖体を、水は洗礼を表して、イエスの貫かれた御心から教会が生まれた、というように理解しています。
主イエスは私たちへの愛のために、ご自分のすべてを捧げ尽くしてくださったのです。主は私たちの弱さをご存じで、私たちの罪とその結果である不幸な死の宿命を、私たちに代わって担ってくださいました。十字架上の主キリストを仰ぎみて、祈りましょう。「キリストのおん血、わたしを酔わせてください。キリストのおん脇腹の水、わたしを清めてください」(「キリストに向かう祈り」より)。アーメン。
2026年4月2日 聖木曜日
主の晩餐の夕べのミサ
福音朗読 ヨハネ13・1-15
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。
それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
説教(百瀬文晃神父)
今日、主の晩餐の夕べでは、ヨハネ福音書13章から、イエスが弟子たちとの別れの食事をしたこと、その席で弟子たちの足を洗ったことが読まれます。当時のユダヤ社会では、きちんとした食事の席に着く前に家の召使いが客の足を洗うのが習わしでした。乾燥した気候ですから、サンダルで生活していた人々は足がほこりにまみれ、食事の前には足をきれいにするのが礼儀でした。イエスは、召使いのするべき仕事を自ら進んでしたのですから、ペトロが恐縮して辞退したのは当然だったでしょう。
しかし、イエスが弟子たちの足を洗ったのは、ただ当時の習慣に従っただけではありません。もっともっと、人間にとっていのちにかかわるような、大切な意味をもっていました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」という言葉のように、イエスがご自分のいのちをささげることによって、人々の罪の汚れを清め、神の子らの食卓の交わりに招くことを、ペトロはまだ分かっていなかったのです。だから、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」との言葉に表されているように、イエスが洗ってくださらなければ、だれもイエスとの交わりをもてません。神の子らの親しい交わりに加わることができません。
ヨハネ福音書では、この別れの食事のときに主イエスが「主の晩餐」(今日のミサ)を制定されたことが書かれていません。それは、すでに6章で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と述べられているからでしょう。しかし、ヨハネ福音書の著者は、「イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記しています。それは、「最後の最後にいたるまで」、「それ以上の愛はない」、「極みまでの愛」を表しています。
私がかつて、ある母親から聞いたことですが、まだ小さい子どもがいるのに、医者から死の病を宣告されて、神さまへの必死の祈りで、「あなたがお呼びになっても、この子たちを残してわたしは行けません」と言ったとのことでした。さいわいこの方は生き延びて、りっぱに子育てを終えることができました。
主イエスも、この世を去るにあたって、弟子たちの遭遇する困難や迷いを思って、聖なる命のパンを残してくださったのでしょう。「これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体。」「これを受けて飲みなさい。これはあなたがたと多くの人のために流されるわたしの血。」と言い、そして、「わたしを記念するために、これを行いなさい」とおっしゃいました。教会はこの主の言葉を大切に守り、私たちは今夜もまた、この記念を行います。「記念」とは、ただ単に昔のことを思い出すということではありません。時間と空間の違いを超えて、今ここに現実となる、ということです。
今夜もまた、私たちは主イエスから足を洗っていただきましょう。そして、極みまでの主イエスの愛を受けましょう。どうか私たち一人ひとりが、主イエスの愛を知り、自分の毎日の生活を通して、この愛に少しでもお応えすることができますように。アーメン。
2026年3月29日
受難の主日(A年)
マタイによる主イエス・キリストの受難(27・13-54より抜粋)
[そのとき、]イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
説教(百瀬文晃神父)
今日、枝の主日には、いつも共観福音書の伝えるキリストの受難物語が朗読され、今年はA年なので、マタイ福音書から読まれました。そもそも受難物語というものは、福音書の中でいわば心臓部で、古来いちばん大切にされる箇所です。福音書が書かれる前から、主イエスがどのように苦しまれ、亡くなったかという言い伝えが独立して書きとめられ、原始教会の中で定期的に朗読され、黙想されたものです。これがそれぞれの福音書の著者によって福音書の中に取り込まれ、編集されて、今日の形になりました。
イエスが十字架の上で最後の言葉として、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、悲痛な叫び声をあげます。これはマルコのよる受難物語も伝えていて、イエスが体も心も極みまでの苦しみにあったことを物語っています。受けた傷の痛みと人々のあざけり、孤独と挫折感に、まるで神をうらむかのような、絶望的にさえ聞こえる叫びです。しかし、見落としてはならないのは、この言葉が詩編22の冒頭の言葉だということです。そして、この詩編は神から見捨てられたかのような状況の中で、苦しみを訴えると同時に、あくまでも神の慈しみに信頼する詩編です。詩編は、苦しみを訴えた後、「主は貧しい人の決して侮らず、さげすまれません」という信頼の言葉へ続きます。そして、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」という言葉で終わります。イエスが苦痛と闇のどん底にあっても父である神の正しいはからいを信じて疑わない姿が描かれています。
後に主イエスの復活というできごとを経験した弟子たちは、イエスが神への愛と人々への愛のために、肉である者の宿命である苦しみと死をあえて受けとめたのだ、と理解しました。神ご自身がイエスの苦しみと死を通して、私たちへの愛を啓示なさったのです。そして、イエスの死と復活こそ私たちに救いをもたらすできごとだったのだ、というキリスト教信仰が生まれました。
私たちは日ごろ、忙しさに追われ、世俗の生き方や考え方にどっぷりつかっていて、神さまのことをわすれがちです。より一層便利なもの、快適なもの、自分の好きなものを選び、自分の家族の幸せや健康、仕事の成功や人々からの評価などを求めて生活しています。神さまのことよりも自分が中心になってしまいがちです。そのままであってはなりません。なぜなら、この世の幸せは過ぎ去るものだからです。
皆さん、聖週間には、私たちの人生にとってもっとも大切なことに立ち戻りましょう。それは、神さまの私たちに対する慈しみです。神さまは主イエスを通して、私たちの肉の宿命をともに担ってくださいます。体の不調も、弱さやもろさも、人間関係のもつれも心の痛みも、負わされた主にも、すべて主キリストの十字架の苦しみを思って受けとめ、愛をこめて主におささげしましょう。それは、より一層主に近いものとなるため、より一層神さまの御心にかなうものとなるためです。アーメン。
2026年3月22日
四旬節第5主日(A年)
ヨハネによる福音11、3-7、17、20-27、33b-45
[そのとき、ラザロの]姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、
わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
[イエスは]心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
説教(百瀬文晃神父)
四旬節の第5主日のミサでは、ヨハネによる福音書の「ラザロの復活」の物語が読まれます。長いので、「聖書と典礼」のパンフでは、途中の数節を割愛して、短い形にしています。しかし、短いながらも、たくさんのキーワードが含まれています。
まず、物語の始めはイエスがヨルダン川の向こう側、ヨハネが洗礼を授けていた所のあたりにいて、エルサレムの近くのベタニアにいる親しい家族のラザロが重い病気を病んでいることを聞き、弟子たちとともにベタニアに向かいます。そこはイエスの敵対者たちが大勢いて、イエスを殺そうとたくらんでいましたから、弟子たちは恐れました。
イエスがべタニアに着くと、ラザロはすでに死んで、墓に葬られ、4日たっていました。そのころの墓は、岩を掘って作った洞窟に遺骸を納め、入口を大きな石でふさいだものでした。イエスは迎えに出たマルタに、「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と告げます。この言葉が物語の中心のメッセージです。
ここで、人々がラザロの死を嘆き悲しんでいるのを見て、イエスは「心に憤りを覚え」と、2度も述べられています。日本語に翻訳するのがむずかしい所ですが、心の深いところで突き動かされた、激しい感情をあらわにする表現(enebrim^esato t^o pneumati)で、イエスが死別の悲しみを深く共感する姿を描いているのではないでしょうか。
イエスは墓の前で、大声で叫びます。「ラザロ、出てきなさい。」すると、ラザロは全身を布で巻かれたまま墓から出てきます。
ただ、私たちは誤解しないようにしましょう。ラザロはイエスによって甦らされますが、それは蘇生であって、決して本当の「復活」ではありません。ラザロはやがて死にました。それでも、ラザロのよみがえりは、一つのしるしになります。それは、イエスがいのちの主であり、終わりの日に信仰者を永遠のいのちへと立ち上がらせる方である、ということのしるしです。
ヨハネ福音書の著者は、これを書きながら、絶えず教会の中におられる復活の主を意識しています。いのちの主であるキリストは、私たちとともにおられ、私たちにいのちを与えてくださっています。これが、著者の告げようとしている物語のメッセージです。
私たちは皆、はかない肉の存在です。ときには突然の病に襲われ、加齢とともに体も精神も弱くなります。そして、皆いつか死を迎えます。しかし、いのちの主キリストを信じる者は主の死と復活の神秘に参与します。主とともに死に、主とともに永遠のいのちへと立ちあがらされます。「死んでも生きる」とは、このことです。私たちは死を迎えるとき、それで消えてしまうのではなく、永遠のいのちをいただき、神の子らの交わりに迎えられます。
これがキリスト者の信仰です。この世の成功や幸せが最終の生きる目的ではありません。それらは、必ずいつか過ぎさります。しかし、私たちは信仰によって主キリストと結ばれ、過ぎ去ることのない真のいのちへの希望に生きています。もうすぐ迎える復活祭には、この希望と喜びをいただきましょう。体の不自由な方々、高齢で元気の出ない方々とは、この希望と喜びを分かちあい、励ましあいましょう。今日の福音は、私たちにこのことを呼びかけています。アーメン。
2026年3月15日
四旬節第4主日(A年)
ヨハネによる福音9・1、6-9、13-17、34-38
{そのとき}、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。
そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。
説教(百瀬文晃神父)
四旬節の第4主日のミサは、「光の子として歩む」ということがテーマになっています。福音書はヨハネ福音の9章からで、生まれつき目の見えなかった人がイエスによって目が見えるようにされる物語です。それは、ただ単に肉体の目が開かれるというだけではなく、心の目が見えるようになるという、信仰の物語です。
この物語には特徴のある3つの事柄があります。一つ目は、イエス自身がご自分の方から盲人に近づいて、シロアムの池にいって洗えと命じることです。
二つ目は、見えるようになって帰ってきた人が、イエスをまだ知らなかったので、それがだれであったかを問い続けることです。ところが、その日が安息日だったので、ファリサイ派の人たちは、イエスが安息日の決まりを守らなかったから、神のもとからきた者ではないと言います。ファリサイ派は、ユダヤ教徒のエリート集団で、聖書をよく勉強し、モーセの律法を厳しく守り、人々から尊敬されていました。それで、目を開けてもらった人が「あの方は預言者です」と言うと、彼を迫害し始めます。「彼を外に追い出した」と述べられるのは、ユダヤ教からの破門のことです。(イエスをキリストと信じる人たちを破門にしたのは、ユダヤ教の最高法院の紀元95年頃の決定なので、それを反映しているこの物語がそれ以後に書かれたことをうかがわせます)。
三つ目は、この人がイエスに再会して、「主よ、信じます」と信仰告白をすることです。このイエス・キリストへの信仰は、この人に新しい生き方をさせます。それは、主イエスが自らの死と復活を通してもたらしてくださった光の子としての生き方です。この人は、光の子として、新しい生き方ができるようになります。
この物語が私たちに告げているメッセージは何でしょう。物語の三つの要点に沿って考えてみましょう。その一つ目のメッセージは、イエス自身の働きかけです。私たちが洗礼を受けたときの動機もいきさつもそれぞれ違うでしょう。でも、共通しているのは、私たちが洗礼を受け、キリスト者としてここにいるのは、イエスご自身が呼んでくださったからだ、ということです。
二つ目のメッセージは、私たちがイエスとはだれなのかという問いを、生涯問い続けること、問い続けなければならない、ということです。物語の盲人のように、外からの迫害や試練を経験する時こそ、私たちを招き、従ってくるように呼んでくださった方がだれなのか、をもっとよく知るように努めなければなりません。
そして三つ目のメッセージは、物語の盲人のように、「主よ、信じます」と告白し、その信仰によって光の子とされ、闇の世に光をもたらすことです。
私たちがここに集い、主の食卓を囲むのは、主が私たち一人ひとりを呼んでくださったからです。そしてこの主が私たちのためにご自分の命を捧げてくださった方であり、ご自分の死を通して私たちに命を与えてくださった方であることを知るからです。この信仰を新にして、光の子として歩みましょう。アーメン。
2026年3月8日
四旬節第3主日(A年)
ヨハネによる福音4・5-15、19b-26、39a、40-42
(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
さて、その町の多くのサマリア人は、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
説教(グエン・ミン・トアン神父)
誰しも「渇き」を経験したことがあります。時には激しく、焼けつくような渇きで、水が生死に関わる問題となり、人がただ一滴の水だけを必要とすることもあります。
数日前のミサの福音(ルカ16・19-31)の中で 黄泉(よみ)にいる金持ちは、アブラハムに願いました。ラザロをよこして、指先を水に浸し、その一滴を自分に与えてほしいと。それは、荒れ野をさまよった出エジプトの民の渇きでもありました。今日の第一朗読にあります。彼らは喉の渇きのあまりモーセに不平を言い、こうして主なる神を試みました。
しかし、神はモーセを通して水を与え、民の渇きを和らげ、満たされました。神は、ご自分の配慮と不思議な介入を彼らが心に刻み、二度と心を頑な(かたくな)にしないように望まれました。
今日の福音の箇所で、 イエスもまた、水を汲む道具がなかったため、井戸の傍らで渇きを経験されました。サマリアの女も渇きを覚え、いつもの習慣に従って水を汲みに来ました。この自然の渇きという共通の体験から、イエスは彼女に話しかけ、対話をより深く、より超自然的な渇きへと導かれました。
この渇きは彼女の中にも、村人たちの中にも確かに存在していましたが、しばしば自覚されず、曖昧に覆い隠され、避けられていました。重要なのは、イエスご自身が人の心の最も深い渇きを満たす「生きた水」「命の水」であるということです。
この命の水は、自然の水のように受け身でそこにあり、人が飲んで渇きを癒すものではないという点は注目に値します。それどころか、命の水は自ら進んで人が自分の渇きを求めるのを助け、その渇きを感じさせ飲ませ決して渇くことがないようにしてくださるのです。
イエスとサマリアの女との出会いと対話はそのように展開しました。彼女と村人たちが命の水を飲んだ行為とは、すなわち「信じる」行為でした。女は信じました。村人たちもまた信じました。なぜなら、彼らは彼女の話を聞いただけでなく、自ら直接イエスと出会ったからです。
第二朗読「ローマの信徒への手紙(ローマ5・1-2、5-8)」の中で、イエスを信じることの意味をさらに力強く示しています。この信仰は、信徒たちを神の恵みの中へと導き入れ、彼らが希望を誇ることを可能にします。そして、この希望の確かな土台は、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を示されているという事実です。
私たちがまだ罪人であった時、キリストは私たちのために死なれました。これは何を意味するのでしょうか。それは、私たちがまったくふさわしくないものであるという意味だと思います。しかし、それは私たちがそう思うのであり、私たちはそのように考える必要がありますが、神はそのようには考えないと思います。
神は常に、私たちはふさわしいと見なしておられます。むしろ罪深ければ罪深いほど、イエス・キリストにおいて示されたご自身の救いの愛を注ぐに値するものであるとお考えになるのです。
どうか主が、私たちが食べ物や衣服、金銭、名声、権力、快適さ、快楽など、この世の一時的な渇きを満たすことにだけ心を奪われることのないように助けてくださいますように。そしてどうか、私たちが自分の心の奥深くにある霊的な渇きをはっきりと感じ、それを覆い隠したり避けたりすることがありませんように。
そして、イエスこそ真実で唯一の命の水であることを悟り、私たちが満ち足りるまで主を飲むことができますように。すなわち、主に全ての信仰と希望を置くことができますように、一緒に祈りたいと思います。
2026年3月1日
四旬節第2主日(A年)
マタイによる福音17・1-9
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
説教(百瀬文晃神父)
四旬節の第2主日には、毎年きまって福音書の朗読で主イエスの変容のできごとが読まれます。それは、自らの受難と死を予知したイエスが、弟子たちを連れて祈るために山に登ったという話です。ルカ福音書の著者は、「祈るために山に登られた」と記しています。主イエスは弟子たちが試練にあっても信仰を失わないように、あらかじめ心構えをしておくように望まれたのでしょう。山は、聖書ではシナイ山をはじめ、神との出会いの場として描かれます。この山は、ガリラヤ地方にある小高い山で、タボル山という海抜588メートルの山だっただろうと推測されています。
今年A年に読まれるマタイ福音書では、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記されています。それはやがてくる復活のときの主キリストの栄光の姿で、弟子たちが試練にそなえるために神はその栄光を垣間見させたのでしょうか。
ここで弟子たちは、モーセとエリアという旧約聖書に登場する二人の偉大な預言者が現れ、イエスと語り合っているという幻を見ます。ペトロが有頂天になって、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。わたしが仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリアのため」と言います。ペトロは、このすばらしい体験がいつまでも続くように、小屋を建てようと言ったのですが、どんなにすばらしい信仰の体験もこの世では過ぎ去るものです。ルカ福音書の著者は、「ペトロは自分でも何を言っているのかわからなかった」という注釈を付けくわえています。
さらに、ペトロが話しているうちに光輝く雲が彼らを覆い、雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声を聞いたと述べられています。それは、神からの弟子たちへの啓示であり、どのようなときもイエスにこそ聞き従うこと、イエスを通して神に向かって生きることが命じられます。
これは不思議な体験であり、今日の聖書学者たちの間でも、この記述のもとにあった史実が何であったか、意見が分かれています。弟子たちは後にイエスの復活を体験して初めてこれを想起し、語り継いだのかもしれません。マタイ福音書では主イエスが復活するまでだれにも話さないように弟子たちに命じ、ルカ福音書では、弟子たちは当時は誰にも話さなかったと記されています。
しかし、現代の私たちにとってのメッセージは明らかです。四旬節は、いわば主とともに登るタボル山です。普段より心をこめて、ご受難と死に向かわれる主とともに祈りましょう。そして、イエスに従っていきましょう。それは、やがて主とともに永遠の命の栄光に参与するためです。私たちの世界は、さまざまな意味で傷つき、たくさんの人々が闇の中で人生の意味を見失っています。私たちは、神がこの世を救うために、愛する独り子を過酷な死に引き渡されたという救いの神秘を黙想し、この世界がやがて神のいのちに生かされて栄光の姿に変えられていくように希望し、そのために祈りましょう。アーメン。
2026年2月22日
四旬節第1主日(A年)
マタイによる福音4・1-11
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
説教(百瀬文晃神父)
四旬節の第1主日には、福音書の朗読で主イエスが宣教を始めるにあたって、まず荒れ野に退いて40日間祈られたこと、そこでサタンから誘惑を受けられたことが読まれます。共観福音書のうちマルコはただ誘惑を受けられたと短く述べるだけですが、マタイとルカはその誘惑の内容を詳しく記しています。たぶん原始の教会で経験されがちだった誘惑を、主イエスもお受けになったことを記しているのでしょう。
一つ目の誘惑は、サタンが空腹のイエスに石をパンに変えろと言います。それは、神のみ旨よりも自分の望みを優先するという誘惑でしょう。パンとは、ただ食べ物だけでなく、およそ物質的な豊かさを含みます。私たちの現代社会では、経済の発展を何よりも大切にする政治や、金さえあれば何でもできると言うような考え方、より一層よい物、より一層便利なものを求めて、世の貧しい人のことを顧みない態度などがこれにあたるでしょう。主イエスは「人はパンだけで生きるのではない」、と答えます。神のことばによって生きることこそ真に生きることなのだという教えです。
二つ目の誘惑は、神殿の上から飛び降りてみろという誘惑ですが、これは誤った神への信頼ということでしょう。つまり、神さまが何とかしてくださるからと、自分では何も努力しないということです。主イエスは、「神を試してはならない」と答えます。真に神さまを信頼するということは、自分にできること、与えられている可能性を力の限り尽くして、後は神さまのみ旨にお任せするということです。
三つ目の誘惑は、神ならぬものを絶対的な価値として求める、世の富や栄誉をいわば自分の神とすることへの誘惑でしょう。イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と答えます。
原始の教会の人々は、さまざまな誘惑にさらされたとき、主イエスさえ誘惑に会われたということを、大きな励ましとしました。私たちも毎日「主の祈り」を唱えるたびに、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」と祈ります。悪の力が世の中に働いていることは、理屈ではなくて、私たちが経験する現実です。そして、肉である私たちは皆、さまざまな誘惑にさらされています。それは人によって違う誘惑でしょうけれども、神との交わりを妨げようとする悪の力は、世の中の日常の経験の中に、また私たちの心の中に働いています。主イエスは、このような私たちの経験する誘惑をよくご存じです。「わたしたちを誘惑に陥らせず」という祈りは、悪の力の支配に捨ておかないでくださいという祈りです。
四旬節にあたって、一人ひとり自分にとっていちばん大きな誘惑は何か、何が神との交わりを妨げているかを振り返ってみましょう。そして、その誘惑と戦い、これに打ち勝つ力を主に願いましょう。アーメン。
2026年2月15日
年間6主日(A年)
マタイ5・20-37
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた.〕 《「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するため ではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない。」 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
《兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》
あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。《もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。》
また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。
《天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。》
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
説教(百瀬文晃神父)
今日、年間第6主日の福音朗読は、先々週と先週に読まれたマタイ福音書の、いわゆる「山上の説教」の続きの箇所で、ユダヤの律法とイエスの愛の掟との関係を教えています。たぶんにマタイ福音書の著者が、自分の教会で直面している問題を意識して、イエスの言葉を集めています。イエスの時代には、ユダヤ教の指導者たち、律法学者やファリサイ派の人々がモーセを通して示された神からの掟を解釈して、こまごまとした数百に及ぶ掟を守るように民衆に強要していました。これに対してイエスは、神からの権威をもって、「昔の人にはこう言われている、しかしわたしは言う」という言い方で、律法の本来の目指すものが何であるかを語っています。福音書の著者は、イエスこそモーセの律法を越える権威をもつ方なのだ、ということを強調しています。
他方では、著者の教会には、イエスを通して古い律法が破棄されたのだから、キリスト者は何をしてもよいのだと主張する人もいたようです。これに対して著者は、イエスの言葉を引用して、イエスが律法を破棄したのではなく、完成したのだと主張しています。ちょっと聞くと、あたかもイエスが律法学者以上の厳しい要求をするかのようです。しかし、イエスの教えは決してモーセの律法をもっと厳格にするものではありません。そうではなく、ひとたび神の恵みに生かされた者は律法の要求をはるかに超える、正しく、清く、愛の生き方ができるようになる、という呼びかけであり、ご自分に従う者にそれができるようになるという約束でした。このイエスの言動が、当時のユダヤ教の指導者たちにはモーセの律法を冒涜するものだと思われ、最後にはイエスを十字架にまで追いやることになります。
具体的には6つの点で、律法とイエスの愛の掟の対比が述べられています。その1は、律法で「殺すな」と言われているが、兄弟に腹を立てること、バカにすること、仲たがいをすることが愛に背くこととして戒められます。その2は、律法で「姦淫するな」と言われているが、みだらな思いで他人の妻を見ることが戒められます。その3は、律法には「妻を離縁する者は離縁状を渡せ」と言われているが、不法な結婚でないなら離縁することは許されないと教えます。その4は、律法には「偽りの誓いを立てるな」と言われているが、およそ自分の言葉の正しさを主張するために神を引き合いに出すという行為が戒められます。それは神に対する不遜な行為だからです。
ここまで律法とイエスの愛の掟との対比で4つのことが述べられました。そのあとに続く2つは、復讐の戒めと、敵を憎むことの戒めですが、今日の福音の朗読には出てきません。
マタイ福音書の著者がイエスの愛の教えを、あたかも律法の掟を越える厳しい掟のような口調で述べていますが、誤解してはなりません。イエスは徹頭徹尾、神への愛と隣人への愛こそすべての掟に勝るものであり、そもそも律法はそれを目指して定められているのだと教えたのです。福音書の22章では、イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている」と述べています。ご自分は生涯を通してこれを実践し、最後には神への愛と人々への愛のために命を捧げました。そして私たちには、ご自分に従う者にはそれができること、どんなに弱い人間であっても、神さまから与えられる恵みによってそれができるようになることを約束なさったのです。だから、私たちは山上の説教を私たちに与えられた喜びの福音であり、約束であることを知って、感謝をもって受けとめましょう。アーメン。
2026年2月8日
年間5主日(A年)
マタイ5・13-16
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
説教(百瀬文晃神父)
今日、年間第5主日の福音朗読は、先週読まれたマタイ福音書第5章、いわゆる「山上の説教」の八つの幸いに続く箇所です。ここでは、「地の塩」、「世の光」という二つのイメージをもって、イエスに従う者のあるべき姿が語られます。萩には「光塩女子中学・高等学校」というカトリック学校がありますが、その名はイエスが語った「世の光」、「地の塩」という言葉からとられています。もう何年も前のことですが、私はこの学校で生徒たちに話をするように招かれたので、イスラエルの死海からもって帰った塩と、やはりイスラエルで買った模型の土器のランプをもっていって、生徒たちにみせました。
死海の南の方は塩の濃度が濃くて、浜辺の砂をすくって記念に持ち帰ったのですが、ほとんどそのまま粗塩です。生徒たちは私の話のあとで集まってきて、塩をなめてみたりしました。塩は腐敗を防ぎます。イエスの時代には冷蔵庫などなかったので、とれた魚など、食べ物を保存するために、塩はとても大切でした。これをたとえにして、イエスは世の中の風潮、富や名誉を最大の価値とするような考え方、心を腐敗させるような生き方に対して、腐敗を防止する塩になれと人々に語りました。それは、神さまへの愛と人々への愛です。それが世界を清め、腐敗から救います。
そして、「世の光」という言葉です。イエスの時代にはまだ電気がなかったので、夜にはランプを灯しました。泥で形を作って焼いた簡単な土器ですが、中にオリーブの油を入れ、ランプの先の穴から紐をたらし、火をつけるのです。小さな光ですが、夜には小さな光でも、遠くから見えます。「山の上にある町は隠れることができない」と言われるように、家々に灯された小さな光が、遠くからもみえました。夜道を急ぐ旅人たちは、町の光を見て喜んだのです。ちょうどそのように、この世の中の不正や争いの絶えない闇の中で、神さまの愛の光を灯しなさいと、イエスは語りました。
ところで、ランプは油がないと灯りません。マタイ福音書の25章には油を用意した5人の賢いおとめと、油をもたない愚かなおとめのたとえ話が伝えられていますが、どんなに金や宝石で飾られた立派なランプも、油がなければ火が灯りません。しかし、どんなに土でできた粗末なランプであっても、油があれば火を灯すことができます。油とは、心にある愛のことです。愛がなければ、どんなに立派な福祉や慈善の活動も、神さまの前では火が灯っていません。逆に、どんなに小さく、みすぼらしい行為であっても、愛をもってなあされるなら、神さまの前では火が灯っています。
因みに、新共同訳聖書が「あなたがたの立派な行いをみて」、と訳しているのは残念です。原語のギリシア語では「カロス」という形容詞で、「美しい」、「よい」という意味です。私たちの行いがどんなに外見で立派で、すばらしくみえても、愛の心からなされなければ、神さまの目には美しくありません。助けを必要としている人がいたら、喜んで、やさしい思いやり、愛の心でお手伝いするとき、ごくささいなことであっても、美しい光を灯すのです。
そして、もっと根源的には、私たちが土の器に灯す光とは、自分で作りだす光ではなく、神さまから恵みとして灯していただくものです。キリスト教の信仰と愛の根源は、主キリストがご自分の死と復活をとおして、私たちの心に点じてくださった光です。これを大切に保って、消さないように運んで、世の中の人々にもっていきましょう。これが世を照らすいのちの光です。今日も、主キリストからこの光をいただき、これを心に灯して、世の人々に運びましょう。アーメン。
2026年2月1日
年間4主日(A年)
マタイ5・1-12a
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
説教(百瀬文晃神父)
今日、年間第4主日には、マタイ福音書の第5章、いわゆる「山上の説教」の冒頭にある八つの幸いが読まれました。これは新約聖書の中でもよく知られた箇所ですが、そこで言われる「幸い」とは何かについて、ご一緒に考えてみましょう。
山上の説教とは、主イエスがいろいろな機会に、あちこちで話されたことを、福音書の著者マタイが5章から7章にかけて、一つの説教の形に編集したものです。5章の始めに、イエスが山に登って、そこに集まった群衆に教えたと言われますので、「山上の説教」と呼ばれるようになりました。現在もガリラヤ湖の北の湖畔には、小高い丘があって、これがイエスの説教した場所と伝えられています。丘の上には8つの幸いに因んで、八角形の聖堂が建てられていて、そこからはガリラヤ湖と湖畔の田園が美しく見渡せます。イエスの周りに集まった群衆は、主にガリラヤ地方の貧しい農民たちだったでしょう。働いても働いても高い税金を絞りとられ、子どもたちを養うのに汗みずくで労働する毎日を送っていた人たちです。イエスはその人たちに、神さまが貧しい人、苦しい生活を強いられている人たちを特別に愛しておられることを語りました。
原文のギリシア語では、一文ずつ「マカリオイ」(幸いだ)という言葉で始まる短い8つの文で、なぜ幸いなのかという理由が付けられています。それを読むと、私たちが日ごろ考えている「幸い」とはまるで違う考え方だと気づきます。
「さいわい」とはいったい何でしょうか。日本では年の始めに神社や寺をお参りして、1年がよい年であるように祈ります。家族の健康や、災害や事故のない無事な生活、受験の合格、よい就職、仕事の成功など、それぞれが願っている「幸い」を求めます。しかし、イエスはここで、このような考えとはまったく違う「幸い」について語りました。神さまによって、神の命にあずかるために作られた人間にとって、真の「幸い」とは、富や地位や安楽な生活ではありません。それは、父である神に祝福された生活のことです。
「心の貧しい人たち」とは、日本語ではお金があっても教養がないとか、品位がないとか、悪い意味で使われるのが普通ですが、原文のギリシア語では「霊において貧しい人たち」と言われます。それは、旧約聖書に繰り返し述べられているように、自らの貧しさを知るからこそ、自分の力に頼らず、ひたすら神により頼む人たちのことです。フランシスコ会訳の聖書では、「自分の貧しさを知る者は幸いである」と訳されています。
第一朗読で「残りの者」と呼ばれる人たちも、心の貧しい人たちのことです。紀元前8世紀には北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、6世紀には新バビロニア帝国によって南王国ユダが滅ぼされたとき、上層階級は捕虜として連れていかれたのですが、故郷に残された貧しい人たちが「残りの者」と呼ばれたのです。そして「残りの者」は、かろうじて生き残って、イスラエルの民を子孫までつないだ人たちです。
イエスの周りに集まったガリラヤの農民たちにとって、これは慰めと励ましの言葉でした。神が約束してくださっている「神の国」(マタイでは「天の国」と言われますが)、つまり血肉を越えて神の恵みによって集められる神の家族に、あなたたちは呼ばれているのだ、とイエスは語りました。
因みに、私はある教会に招かれて、黙想会をしたのですが、これは七夕の頃でした。ふと教会の扉の外に飾ってある笹を見たら、教会学校の子どもたちが自分の願いを紙に書きつけて、これを笹の枝に結びつけていました。その一つに書かれていたのは、「金持ちになりたい」。がっかりです。子どもたちが、お金さえあれば何でも好きなことができる、というような世の考え方や生き方に汚染されないように祈ります。
自分の弱さを知っているからこそ、自分の富や地位や力にたよるのではなく、ひたすら神の導きに信頼すること。災難におそわれたときにも、悪意の人の仕打ちを受けたときにも、神がともにいてくださることを信じて、そのみ旨にかなうことだけを求めて生きること。そのとき、神さまは私たちの心の奥深くに、何物にも替えがたい深い喜びを与えてくださいます。そのとき、弱い私たちにも試練に耐える力が与えられ、人を裁くことなく、互いの思いやり、助け合いができるようになり、少しずつ世の中に平和をもたらします。それがイエスの告げた神の国の福音でした。現代の私たちも、このイエスの呼びかけに応えて、真にさいわいな生き方を選ぶことができますように。
アーメン。
2026年1月25日
年間第3主日(A年)(神のことばの主日)
マタイ4・12-23
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
説教(百瀬文晃神父)
今日、年間第3主日は、「神のことばの主日」と定められています。これは、先の教皇フランシスコが2019年9月に発布された使徒的書簡aperuit illisで定められたものですが、この書簡の最初のことばはルカ24・45「イエスは聖書を悟らせるために彼らの目を開いて」からの引用です。復活の主イエスの導きなしには聖書は理解できないこと、逆に聖書なしには主イエスを知ることはできないことを教えています。そして、私たちキリスト者は主キリストのよって、世の人々に福音を告げるように、遣わされています。このことを今日は特別に思いおこしましょう。
日々の生活の中で福音を周囲の人々に告げることは、なかなか難しいかもしれません。しかし、簡単にできることが一つあります。それは、日曜日や金曜日のミサの朗読を進んで引き受けることです。これは聖書をミサの会衆のために読んで聞かせる役目ですが、人々に福音を語るための、いわば基礎になります。つまり、目の前にいる聴衆がわかるように意識しながら読むということは、福音宣教の基礎です。人によっては大勢の前に出るのが恥ずかしいとか、緊張してうまく読めないとか言う人がいるかもしれません。それは読むときの意識が自分自身に向かってしまっているのです。自分ではなく、聞いている人たちに意識を向けて、自分を忘れて、その人たちがわかるように、ゆっくり、はっきり読むことが大切です。人々に聖書のことばを伝えようという熱意さえあれば、かっこうよく読まなくてもかまいません。足が悪くて段の上に上れない人は、朗読台の前でハンドマイクで読んでもかまいません。私たちのつたない口を通して、主が人々に語りかけるのですから。
朗読する人は、まず家でその個所を読んでおくといいですね。そして、できれば少し時間を取って、神さまが語りかけるメッセージを、まず自分で理解するように心がけるといい。
また、聞く人も、たとえ下手な朗読であっても、読み方が違うとか、アクセントが変だとか、心の中で批判するのではなく、神さまが人間の口を通して語ろうとなさっているメッセージを聞きとろうとして心をくだくことが大切です。
これは、説教を聞くときにも言えることです。よい説教なら、今日ではインターネットを使って、自分の教会よりも大きな教会とか、著名な司祭の説教とか聞くことができるでしょう。しかし、聖霊は聞く人にも働くものです。聖霊の働きがなければ、どんなにすぐれた説教者のことばも、心に響きません。説教を聞くときには、たとえ下手な説教でも、そこに自分にとっての神さまからのメッセージを聞き取るように、心がけなければなりません。
今日読まれた福音の中で、主イエスはペトロとアンデレ、またゼベダイの子らヤコブとヨハネを呼んで、ご自分の弟子としました。彼らが知識があったり、能力があったりしたからではありません。いつも魚を捕って生活していて、特別に信心深い人だったわけでもありません。でも、主イエスは彼らと召しだし、ご自分の仕事を手伝わせようとされたのです。
私たちもそうです。主イエスは私たちが洗礼を受けたとき、ご自分の仕事、闇の世に光をもたらす仕事、人々に福音を告げしらせる仕事をお手伝いするように望まれたのです。そして主は、この弱く、つたない私たちを通して今日も働こうとしておられます。神のことばの主日にあたって、この大切な使命を改めて思いおこしましょう。アーメン。
2026年1月18日
年間第2主日(A年)
ヨハネ1・29-34
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
説教(百瀬文晃神父)
今日の福音の箇所は、ヨハネによる福音の第1章29節からで、洗礼者ヨハネがイエスについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っています。この「神の小羊」という言葉は、2000年後の今日のカトリック教会のミサにも使われています。聖体拝領の前に、司式司祭がパンを割くときに歌われる「平和の賛歌」で、「世の罪を取り除く神の小羊」と3度歌われます。これは、古代教会では一つの大きなパンを会衆の人数に応じて分け、そのために時間がかかったため、聖歌隊がその間「世の罪を取り除く神の小羊、慈しみをわたしたちに」という連願を繰り返し歌い、司祭がパンを分け終わったときに、聖歌隊が「世の罪を取り除く神の小羊、平和をわたしたちに」と結びました。今では、会衆に配るためのパンは初めから小さく作られたものを使いますから、連願はただ3回だけ歌われるのです。とにかく、カトリック信者でない人が初めてミサに参加したとすると、「世の罪を取り除く神の小羊」と聞いて、いったい何のことだろうと、不思議に思うのではないでしょうか。ヨハネ福音書を知っている人は、これが洗礼者ヨハネの証の言葉だとわかるでしょうけど、それにしてもなぜ、洗礼者ヨハネはこんな言葉を使ったのでしょう。
それはまず、かつてイスラエルの民がエジプトで強制労働に服していたとき、モーセによってエジプトの地から脱出したときの出来事に由来しています。旧約聖書の「出エジプト記」によれば、モーセによって指示されて、民は小羊を屠って、その血を家の戸口の鴨居に塗りました。すると、神から遣わされた死の天使がその血を見て、イスラエルの民の家を通り過ぎました。しかし、エジプト人の家ではすべての長子が打たれて、大騒ぎになり、イスラエルの民は無事にエジプトを脱出できた、という言い伝えです。この出エジプトの記念を祝って、その後イスラエルの民は毎年、「過ぎ越しの祭り」を祝い、小羊を屠って過ぎ越しの食事をするならわしとなりました。そして、ヨハネ福音書では19章ですが、イエスが総督ピラトのもとで裁判にかけられ、ピラトがイエスに死刑の判決を下すとき、「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」と述べられますが、これは過ぎ越しの食事の前に、神殿で小羊が屠られる時間でした。ヨハネ福音書の著者は、イエスが自らの血によって民に救いをもたらす「過ぎ越しの小羊」となったと理解しています。
「神の小羊」というイメージは、新約聖書の最後に収められている「ヨハネの黙示録」という書にも頻繁に用いられています。「屠られたような小羊」が玉座に座っておられる方から巻物を受けて、それを開き、神のもとに秘められていた救いの計画を説きあかします。そして、天使たちが「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方」(5・12)と歌います。
「イエスこそ神の小羊だ」という言葉で、イエスの弟子たちはイエスが自らの死によって、すべての人々の罪と死の宿命を担い、いのちと救いをもたらしてくださったことを言い表しました。そして、ミサの聖体拝領の直前に、司式司祭は聖体を会衆の前にもちあげて言います。「世の罪を取り除く神の小羊、神の小羊の食卓に招かれた人はさいわい」。会衆はこれに応えて、「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。お言葉をいただくだけで救われます」と言います。(ちなみに、これはイエスが百夫長の僕を癒すために行こうとしたときに、百夫長がいった言葉、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひとことおっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(マタイ8・8)から取られた信仰告白の言葉です。)
私たちも今日、ミサの中で、改めてイエスがご自分の死を通して私たちにいのちを与えてくださっていることを思い起こし、感謝をこめて、この恵みをお受けしましょう。アーメン。
2026年1月11日
主の洗礼(A年)
マタイ3・13-17
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。
彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、
あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、イエスはお答えになった。
「今は、止めないでほしい。
正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、
天から聞こえた。
説教(百瀬文晃神父)
皆さん、主の洗礼の祝日に、今年はマタイ福音書の3章から、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたというできごとが読まれます。洗礼は、「悔い改めに導くため」(マタイ3・11)と言われているのに、なぜ罪の汚れのない神の子が洗礼を求めたのでしょうか。東方教会のイコンには、その答えが示唆されています。たとえば今日の「聖書と典礼」のパンフには、11世紀アルメニアのイコンが載せられていますが、見るとイエスの浸されるヨルダン川はまるで鳥かごのようで、中には(この絵でははっきり見えませんが)捕らわれた人々が横たわっているかのようです。イエスは私たち罪びとの運命を共にするために、自らこの囚われの状況に身を沈めたのではないでしょうか。ヨルダン川に身を沈められることを通して、イエスは私たちの罪とその結果である闇と死の力に囚われた状況の中に入りました。そして、ここから立ち上がることを通して、私たちに命をもたらしたのです(もちろん、これは福音書の著者がイエスの死と復活という出来事を知っているから言えることですが)。イエスの洗礼は、闇と死の力に捕らわれている人々を解放し、光といのちへ導く救いの出来事です。
私たちは洗礼を受けるとき、イエスの死と復活に参与するということを信じています。このことは、キリスト教信仰の基本です。私たちの人生にはさまざまな試練がつきものですが、毎日の悩みや苦しみは、いわば小さな死の経験だ、と言っていいでしょう。たとえば自分の健康や能力に陰りが生じたり、家族や友人たちとの交わりに妨げが生じたり、仕事に行き詰まりや目指す目標を断念せざるをえない状況に追い込まれたりすることもあります。人によって違いますが、だれでも心の痛みや落胆や希望の喪失などを経験し、それを言わば一つの小さな死の体験と呼びましょう。しかし、キリスト者はそれをイエスの死への参与として受けとめることができます。イエスの死に参与する者は、イエスの復活にも参与します。それは心の奥深くに感じる喜びであり、困難や苦しみを乗り越える力であり、人生を新しく出発する勇気です。
さらに福音書には、イエスがヨルダン川で洗礼を受け、水から上がって祈っていたときに、天の父の声を聞いたと述べられています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。天の父の愛のまなざしは、イエスの上に注がれます。そのことは同時に、イエスと結ばれた私たちの上にも注がれている、ということです。イエスと結ばれた者は、自分の苦しみをイエスとともに捧げるだけではありません。同時に、イエスの復活の喜び、天の父に愛包まれた喜びをいただきます。これが、キリスト教信仰の根本です。今日、イエスの洗礼の祝日に、この信仰の根本に立ち返り、勇気と希望を新たにしましょう。アーメン。
2026年1月4日
主の公現
マタイ2・1-12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
説教(百瀬文晃神父)
「主の公現」とは聞きなれない日本語ですが、英語でEiphaniy, ギリシア語のepiphaniaの翻訳で、主イエス・キリストが公に現れる、という意味です。貧しい馬屋で生まれた幼子イエスが、世の人々に知られるようになることを祝う祝日で、福音の朗読ではマタイ福音書2章に伝えられるイエスの幼年期の物語が読まれます。イエスの生まれたときに、遠い東の国の占星術の博士たちが、大きな星の現れたのを見て、ユダヤに新しい王が生まれたと知って、拝みにきます。この物語が私たちに告げるメッセージを考えてみましょう。
この博士たちは絶えず心の中に真理への憧れをもっていて、それを求め続けていました。民族や宗教が違っていても、まじめに真理を求める者に、神はご自身を現わされます。ある日、夜空に大きな星が現れました。その星は美しく輝いて、彼らを招いているようでした。古い言い伝えに、それはユダヤに新しい王が生まれたしるしと言われていることに気づき、行ってみようと思い立ちます。慣れ親しんだ生活を後にして、遠い砂漠の旅に出かける決心をします。
しかし、灼熱の砂漠には多くの苦難がありました。砂嵐に襲われたり、星がみえなくなってしまったり、疲れて旅に出たことを後悔したり、それは彼らの信仰の危機とも言えるものだったでしょう。やっと目的のユダヤの王の宮殿にたどりついたものの、そこでは猜疑心と姦計にみちた腹黒い王しかいません。その王は、彼らを利用して、子どもが見つかったら殺そうとたくらみます。それでも、悪意の人々のたくらみも、心の清い博士たちの歩みを妨げることはできません。星は再び彼らを導き、幼子のいる馬屋の上にとどまります。「心の清い人々はさいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5・8)と言われるとおり。
この物語は、私たちの人生の歩みを象徴しています。私たちもかつて真理を探し求め、信仰の旅に出ました。私たち一人ひとりの心にいわば星が輝き、招いたのです。この信仰の旅には、しばしば試練があります。世間の思い煩いという雲に覆われて星が見えなくなることも、常識や習わしが歩みを妨げることもあれば、人間関係につまずき、ときには信じているものが無意味のように思えたり、いやになったりすることもあります。しかし、心の清いものは神を見出します。それは、何物にも代えがたい、すばらしい出会いであり、喜びと平和です。
博士たちが、黄金、乳香、没薬をささげたように、私たちもこの贈り物をささげましょう。黄金は、神にいちばん喜ばれること、すなわち愛を表すシンボルです。自分の身近にいて、助けを必要としている人のために時間と労力を惜しまず尽くすことです。
そして、乳香は神への賛美の祈り、ただ習慣づけた祈りではなく、心のこもった愛の祈り、私たちの働きを方向づける祈りです。
そして、没薬とは、自分の負っている重荷、体の疾患であれ、痛みであれ、あるいは、いやおうなく負わされた責任や人との悩ましいかかわりなど、主キリストの担った苦しみをともにすることです。
主の公現の祝日に、私たちも自分の大切な贈り物、黄金、乳香、没薬を幼子イエス・キリストにお捧げしましょう。アーメン。
2026年1月1日
神の母聖マリアの祝日ミサ
ルカ2・16-21
[そのとき羊飼いたちは]急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
説教(百瀬文晃神父)
カトリック教会では、元日は神の母聖マリアの祝日とされていますので、今日は聖母マリアに因んで二つのことをお話ししたいと思っています。
その一つは、福音書の中で聖母マリアが五回、旅をしているので、この旅についてです。一度目は、お告げを受けてすぐ、親戚のエリザベトを訪問するために、ナザレからエルサレムの近くの山里まで、2、3日の徒歩の旅でしょう。二度目は、もう子どもが生まれそうになっていたときですが、ヨセフと一緒に人口登録のために出かけたベツレヘムへの旅です。これもエルサレムよりもさらに数キロ南ですから、3日以上かかる旅だったでしょう。3度目の旅は、マタイ福音書だけが記していることですが、幼いイエスが生まれた後、ヘルデ王は自分の王位が危なくされると考えて、ベツレヘム近郊の2歳以下の子どもを皆殺しにさせたと伝えられています。そのときヨセフは、天使お告げを受け、母と幼子を連れて、エジプトで逃げたと述べられています。エジプトですから、海沿いの道をずっと南へ南へと進む大変な旅だったでしょう。水のあるところでは何とか休むことができたでしょうけど、灼熱の砂漠を通っていかなければならなかったでしょう。4度目の旅の話は、ナザレに住んでいた両親が、毎年のように祭りにはエルサレムの神殿にお参りしていたのですが、帰り道で12歳のイエスが迷子になってしまった話ですね。1日の道のりを行ってしまってから気がついて、もう一度神殿まで探しに行ったと、ルカ福音書に書かれています。それから5度目の旅は、福音書ではヨハネだけが記しているように、十字架の下に母マリアが立っていたのですから、イエスが最後にエルサイムに上った時に、ナザレから他の女性たちと一緒にエルサレムにまで旅をしたのでしょう。
この5つの旅のどれも、聖母マリアは未来がどうなるか分からないままに、不安を抱えて、しかし神さまの導きを信じて旅をしたということ。そして、ご自身を捧げて、神さまの救いの業に奉仕なさったということ。これは新しい年の始め、聖母マリアとともに人生の旅を先へ進む私たちも考えるべきことではないか、と思います。
もう一つのことは、聖母マリアが歳を重ねた時どうだったか、ということですが、聖書には何も書かれていないので、推測するに過ぎません。イエスが亡くなったのは、おそらく紀元30年頃でしょう。イエスはヘロデ王の時代に生まれたとされていますから、生まれたのは紀元前7年か6年で、イエスが亡くなった時は37歳ぐらいになっていたと推測されます。そうだとすると、当時のユダヤの女性は13歳から15歳で結婚しましたから、聖母マリアはその時50代だったでしょうね。新約聖書の中でいちばん先に書かれた文書はパウロの第一テサロニケへの第一の手紙ですが、これは51年頃書かれたとされていますが、聖母マリアは70代だったでしょう。ルカ福音書では、マリアが「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されていて、ルカは聖母マリアから幼いイエスのことを聞いたのではないかと推測されています。しかし、パウロによって回心したと伝えられている人ですから、時代的に聖母に直接聞くことができたかどうかは、わかりません。でも、その聖母マリアが歳をめされからエルサレムの貧しいキリスト者共同体、生まれたばかりの教会の中にいらして、イエスの弟子たちをいろいろ励ましたでしょうし、また教会で多くの人はがイエスの子どもの頃のことなどに興味をもって、聖母マリアに尋ねたでしょうから、聖母は自分の思い出をいろいろ語ったでしょう。
歴史的には確かめられませんけれども、聖母マリアが亡くなったとき、弟子たちが周りを囲んで悲しんでいるイコンなどがあります。何歳で亡くなられたか、ぜんぜんわかりませんが、生まればかりの教会の中で、聖母マリアが皆と一緒に復活への希望をもって、やがてまた主が来られるのを今か今かと待ちわびていたこと、そして、信仰をもつようにみんなを励ましていたことは、推測してもいいのではないかと思います。聖母マリアの母親としての思い出には、イエスの幼かった頃の美しいものがあったし、あの十字架の下で苦しまれたように、本当に痛ましい思い出もあったでしょう。
聖母マリアとともに新しい年を迎えた私たちは、聖母が「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」のにならって、私たちも主キリストの愛の生涯を思い起して、世の中がどのように動いても、その救いの神秘にしっかり目を注いで、やがてまみえるであろう主キリストとの出会いに向けて、信仰をもって歩み続けることができますようにお祈りしましょう。アーメン。
2025年12月28日
聖家族の祝日ミサ
マタイ2・13-15、19-23
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」
説教(百瀬文晃神父)
聖家族の祝日には、マタイ福音書の2章から、イエスの幼年期物語が読まれます。幼いイエスがヨセフとマリアに連れられて、へロデ王の手から逃れてエジプトに避難するという物語です。マタイ福音書だけが伝えている物語で、どこまで背後の史実を確かめられるか分かりませんが、ルカ福音書による幼年期物語と合わせて、原始の教会には子どものときのイエスに関する様々なエピソードが伝えられていたのですね。それをもとに、少し聖家族について思いを馳せてみましょう。
ヘロデが自分の王位を危うくする子どもを殺そうとして、兵隊をさしむけた夜、夢の中で天使に知らされたヨセフは、すぐに母と幼子を起こして支度させ、自分はわずかな家裁道具を袋に詰めて、母と幼子をロバに乗せて旅立ちました。自分はロバの手綱を引いて、大きな袋を担いで歩きました。エジプトへはどの道を行けばよいのか、どのくらい遠いのか、そんなことは知りません。とにかくベツレヘムを通っている街道を南へ、南へと向かったことでしょう。夜中のうちです。遠くで人々の叫び声や犬の鳴き声などがしています。野犬もいるし、盗賊もいるかもしれません。しかし、天使の告げた通りに逃げます。おそらく山を下って海に出て、海岸沿いにずっと南に向かっていったのでしょう。エジプトまで行くとなると、何百キロもある距離です徒歩の旅で数十日かかるのではないでしょうか。途中、水があるところには、おそらく遊牧民の集落などがあったに違いありませんが、そこで休んで、食物を買い求めて、泊まる場所も探したでしょう。食料をもらったり、水をもらったりしながら、長い旅を続けました。
また、ヨセフは大工さんでしたから、道中でも、エジプトでも、家や家具など修理するものがあるかどうか聞いて、自分のちょっとした道具で直して、賃金を稼いで、家族を養い続けたのでしょう。とにかくこの3人の家族が生きていくために、言葉の通じない世界で、ヨセフは一家の大黒柱でした。
今日、吉田さんの洗礼式のために、私は小さな式次第を作ったのですが、その表紙に一つの絵を載せておきました。この絵はイタリアのジェンティレスキという人の描いた大きな油絵で、パリのルーブル博物館に展示されています。「エジプト逃避行」とタイトルの絵で、逃げていく途中の聖家族の様子を描いています。あるあばら家にたどり着いたヨセフは、祖翁袋を床に置くやいなや、その上に寝てしまいます。赤ちゃんのイエスは、おっぱいをもらいながら、いたずらそうな目でこっちを見ています。暖かくユーモラスな絵であると同時に、聖家族の貧しい姿、ひたすら神さまの導きを信じて歩むさがたが描かれています。
ヨセフは、聖書の中にはマタイ福音書にもルカ福音書にも登場するのですが、一言も話していません。彼が語った言葉というのが伝えられていません。おそらく無口で、でもいつも忠実で、信頼のできる人だったというのが事実なのではないでしょうか。ヨセフは、最後までマリアと幼子イエスを守り続けました。そして、ヘロデが死んだという知らせを受けて、故郷に帰っていきます。
このヘロデ王が死んだのは、歴史の中で確かめることができます。それが紀元前4年で、イエスは数年前に生まれていましたから、西暦という暦が後から作られて、イエス自身は紀元前に生まれたという矛盾が生じてしまったのですけど。人口調査がなされた年から計算すると、おそらくイエスは紀元前7年とか6年頃に生まれたのでしょう。そうすると、3歳ぐらいまで、外国の地で難民生活をしていたと思われます。
イエスがエジプトにいたことはあまり知られていないのですけれども、ナイル川のほとりには古くからキリスト者たちが住み着いて、4世紀には聖アントニオとか聖パコニオとか、修道生活を始めた人たちがいます。現在でも、エチオピアなどには、聖家族が休んだとか、住んでいたとか言い伝えられるところに、巡礼所が作られています。
私たちはこの聖家族の姿を思うときに、これが「教会」というものの原型であろうと思います。教会は、後から立派な建物や芸術が生まれたし、音楽もできたし、典礼も発展しました。でも教会とは、組織や建物ではありません。こうやってヨセフとマリアとイエスが、神さまの導きのままに、外国の地に、何もわからないままに旅をした、その姿にこそ教会の原型があります。教会とは決して立派な外見のもの、建物や芸術ではなくて、こうして神さまの導きのもとに未知の未来へと旅する一つの家族だと言っていいでしょう。私たちの忘れられてはならないことです。
ひたすら神さまの導きに信頼して、希望をもって歩み続ける神さまの家族。これが教会です。今日、洗礼をお受けになる吉田さん。しっかりこの教会とは何かということを心に留めて、その神さまの家族の一員になる、その喜びを経験していただきたいと思います。私たち皆も、そのために一緒にお祈りしましょう。アーメン。
2025年12月25日
主の降誕(日中)ミサ
福音朗読 ヨハネ1・1-5、9-14
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
説教(百瀬文晃神父)
皆さん、改めてクリスマスおめでとうございます。
主の降誕祭、日中のミサでは、福音朗読でヨハネ福音書の冒頭の箇所が読まれます。これは、ヨハネ福音書の著者が福音を書いた後から、その序文として書いたもので、福音書の全体をまとめた内容になっています。昔から解釈が難しいとされて、たくさんの研究がなされていますが、私たちはごく単純に、福音書の著者が述べたかったことを受け止めるようにしましょう。荘厳に「初めに言(ことば)があった」と言われますが、ここで言われることばとは、イエス・キリストのことです。つまり、神さまはイエスを世にお遣わしになって、イエスを通して、ご自身の救いのメッセージを語られたのです。主イエスの生きざまと教えが、神さまの私たちへのことばとなりました。それは、神さまがいつも私たちとともにいてくださるという、救いのことばです。
そして,「初めに」と言われているように、私たちがここに集まっているのも、それは私たちの努力とか熱心などに先立って、神さまが呼んでくださったからです。私たちが勉強して神さまのことを知ったのではなくて、まず神さまのほうから私たち一人ひとりに語りかけ、招いてくださったのです。こうして、私たちは主イエスとともに神の家族として、ここに集まっています。
聖夜のミサで読まれたルカ福音書の降誕物語では、羊飼いたちに現れた天使が救い主の誕生を知らせ、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである」と告げます。貧しい家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝ているかよわい乳飲み子こそ、神さまがいつも私たちとともにおられることのしるしです。この幼子は、私たちの人生の喜びも悲しみもともにしてくださる方、病気や災害、社会の不正義や差別、争いや暴力に悩み苦しみ、闇の中にさまよう世界の中でも、ともにいてくださる方です。
さらに、「言のうちにいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった」と述べられます。私たちは主イエスとの出会いのうちに、人生を生きるためのいのちをいただきます。そのいのちこそ、あらゆる物質的な豊かさや、仕事の成功などにもまして、私たちを本当に生かすもの、本当の喜びと平和を与えてくれるものです。
続いて、「光は暗闇の中で輝いている」と述べられますが、この言葉だけが、ヨハネの序文の中で、ただ一つ現在形で言われます。その光は、ただこれが書かれたときだけでなく、2025年の今も、私たちの闇の世界を照らす光として、輝き続けています。そして、「暗闇は光を理解しなかった」と言われていますが、これは日本語の翻訳の仕方であって、原文は「暗闇は光に打ち勝たなかった」とも訳されます。そのように翻訳するほうが正しいと思います。なぜなら、主キリストの光は、暗闇の勢力に打ち勝ったからです。
私たちの日本の教会では、現在あちこちで世俗化や少子高齢化が進み、しばしば教会がこのままでは消滅してしまうのではないかという、不安の声が聞かれるようになりました。しかし、皆さん、司祭になって55年になる私は、そうは思いません。世俗化というのは、神さまなしにも人間の力ですべて解決できるという人間の思いあがりであり、それが日本の社会を闇と無秩序に導いていることは、毎日経験することです。たくさんの人が希望を失って、ただ将来の不安ばかりを語るようになっています。しかし、主キリストはすでに闇の力に打ち勝たれたのです。主キリストの約束してくださっているいのちこそ、私たちキリスト者の希望です。この希望があざむかれることは決してありません。今日、主の降誕の祝日に、私たちが思い起こすことは、悪の力に打ち勝たれた主キリストへの信頼と希望です。信頼と希望こそ、私たちのために貧しい幼子としてお生まれになった主イエスへの私たちが捧げものであるはずではないでしょうか。主イエスのもたらされたいのちと光がほめたたえられますように。アーメン。
2025年12月24日
主の降誕(夜半)ミサ
ルカ2・1-18
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなづけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
説教(百瀬文晃神父)
皆さん、クリスマスおめでとうございます、
クリスマスは、日本でも知られるようになりましたが、その本当の意味はあまり知られていないかもしれません。町では、イルミネーションやクリスマス・ツリーが飾られますし、デパートや商店街ではクリスマスのケーキや贈り物のためのセールでにぎわいます。レジャー施設では、必ずサンタクロースのかっこうをした人やぬいぐるみが、楽しい雰囲気を作っています。それは、みんな楽しいし、よいことでしょう。でも、それは本当のクリスマスの意味ではありませんね。海の星幼稚園のお友だちは、クリスマスが何であるかを、ちゃんと知っています。そうです。クリスマスの本当の意味は、イエスさまのお誕生日です。
イエスさまのお誕生日と言っても、本当にイエスさまが12月25日に生まれたのか、実はわかっていません。先ほど読まれた聖書には、イエスさまが馬小屋で生まれたことは書かれていますが、それが何月何日だったのかは書かれていません。それで、ずっと後になって、教会では世界を治めていたローマ帝国の宗教が、1年中で一番夜の長い日(冬至と言って、現在の私たちの暦では12月22日ですが)に、太陽の神さまを祝っていたので、この習慣を取り入れたのです。主イエスこそ、暗い闇の世界に光をもたらす方、そしてこの冬至の日から太陽の照る時間がだんだん長くなっていくように、主イエスのともした光が世の中にだんだん大きくなっていくようにと、夜のいちばん長い日にイエスの誕生日を祝うことにしたのです。
聖書には、お母さまのマリアさまが生まれたばかりの赤ちゃんを布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせたと書かれています。人口調査で混みあっていたベツレヘムの町には、貧しいヨセフとマリアの泊まる場所がなかったのですが、困っている二人をたまたま見た親切な町の人が、街はずれにある馬小屋に案内してくれたのでしょう。飼い葉おけというのは、ロバや馬が餌を食べるための桶ですが、この中にわらをひくと、あかちゃんの寝るのにちょうどよいベッドになったのですね。
その夜、ベツレヘムの近くの野原では、羊飼いたちが夜通し羊の群れの番をしていました。悪い獣が羊をおそったりしないように、きっと焚火をして、自分たちは寝ないで、みはっていたのでしょう。そこに天使たちが現れて、「救い主がお生まれになった、布にくるまって、飼い葉おけに寝ている」と告げました。飼い葉桶なら、羊飼いたちはどこにそれがあるか、すぐ見つけることができたのでしょう。いってみよう、と言って、羊たちもつれて、街はずれの馬小屋にやってきました。
馬小屋ですから、羊飼いのように貧しい人たちでも、きれいな服を着ていなくても、遠慮なくやってくることができました。もしイエスさまが王様の宮殿とか、お金持ちの立派なお屋敷などで生まれていたら、羊飼いたちのように貧しい身なりの人は入れてもらえなかったことでしょう。でも、これが神さまのなさり方です。神さまはイエスさまを世の救いのためにお遣わしになったとき、だれでも会いにこられるように、馬小屋で生まれるよう、おはからいになったのです。
皆さん、今日、私たちもこの羊飼いたちのように、イエスさまのもとに集まりました。私たちは、イエスさまのもとで、神さまの家族なのです。イエスさまは神さまから遣わされて、世の中の苦しんでいる人、貧しく生活の困っている人、仲間はずれにされている人の友だちになりました。その人たちをとくに大切にして、お互いに助けあい、大切にしあって、しあわせになるように尽くしました。もし皆がそうすれば、意地悪とか独り占めとか、仲間外れとか、けんかや争いがなくなり、世の中が平和になるからです。神さまは私たち皆のお父さまで、私たちが神さまの子として、互いに大切にしあうことを望んでいらっしゃいます。そのためにイエスさまを遣わしてくださったのです。
皆さん、ここで祝うごミサは、イエスさまが世を去る前に決めた、食事の祝いです。私たちは一つの神さまの家族として、食卓を囲みます。ここに集まるすべての人が、神さまの豊かな祝福をいただき、互いに助けあい、支えあって、少しでも世界の平和のために尽くすことができますように。また、ここにこれなかった方々、家族やお友だちのために、神さまの祝福がありますように、ご一緒にお祈りしましょう。アーメン。
おめでとうございます
2025年12月21日
待降節第4主日
マタイによる福音1・18-24
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。
説教(百瀬文晃神父)
今日は待降節第4主日で、降誕祭まで4日前となり、聖書朗読ではマリアへの受胎告知が朗読されます。第1朗読のイザヤ書は7章の、よく知られた箇所で、戦乱の時代のイスラエルの民が恐れ、おののいているときに、預言者イザヤは神への信頼を呼びかけます。ちょっと歴史的な背景を説明しますと、紀元前8世紀、アッシリア帝国が世界を制覇していた時代、このアッシリアに対抗するために、シリアと北王国エフライムが反アシリア同盟を築こうと目論み、南王国ユダを攻めてきました。南王国ユダの王アハズに、預言者イザヤは神に信頼せよと勧めるのですが、アハズ王は口先では、「主を試すようなことはしない」と、信仰深いふりをするのですが、実はすでにアッシリアに援軍を頼もうと心に決めていました。政治家のよくすることです。そうすると、預言者は「おとめがみごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ、と告げます。そのとき預言者が言ったのは、若い女が男の子を生み、その子があなたに代わる王になる、ということでしょう。しかし、この言葉は何百年にもわたって、救い主が現れるという預言として言い伝えられました。そして800年も後でしょうか、マタイ福音書の著者はこれをイエス・キリストにあてはめて、今日の福音の箇所を記したわけです。
「おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この言葉はイザヤ書からの引用ですが、マタイ福音書では、そのおとめは聖母マリアを指していて、聖霊が特別な働きによって処女であるマリアを身ごもらせるとされます。マタイにとっては、インマヌエル、すなわち神がわれわれと共におられることこそが救いです。救い主が与えられるということは、神様が私たちと共にいらっしゃるということの実現と考えられたわけです。
このことを天使に告げられたヨセフは、マリアを受け入れ、二人は夫婦として、やがて生まれる男の子を養い育てることになります。そこで神はイエスを通して、私たちにご自分の存在、いつも私たちと共にいらっしゃるという約束を確実にされたということですね。
イエスはこうして人間の歴史の中に生まれ、両親に育てられ、私たちと同じように暑さや寒さに耐え、喜びと悲しみを経験して、最後には十字架の上で命をささげたのですが、イエスの死を通して、私たちに永遠のいのちが約束されました。パウロが言っているように、神はそのことをイエスの復活を通してお示しになったのです。私たちはこのことを信仰によって受けとめています。
私たちの世界は決して見捨てられたのではありません。世界の暴力や不正な差別など、あらゆる悲惨な出来事の中にも、神は私たちと共にいらして、私たちの苦しみや嘆きをともに担ってくださいます。この約束が、主イエス・キリストの誕生をもって実現しました。私たちキリスト者は、この世界がどれほど多くの苦しみ嘆きに満ちていても、希望を失いません。神が必ず導いてくださるということ、その信頼と希望を持ち続けて歩む限り、必ず平和と心の喜びを持ち続けることができること。たくさんの罪のない子どもたちが、食糧もなく、ひどい衛生状態の中で、不安な日々を送っています。このクリスマスには、とくにそういう人たちのために祈りましょう。また、この教会に所属されている方のなかにも、今、体調を崩して入院されている方が何人かいらっしゃいます。ごミサにあずかるときに、私たちは自分がまだごミサに参加する恵みを与えられていることを思って、それができないでいる人たちのために、神の導きをご一緒にお祈りしましょう。アーメン。
2025年12月14日
待降節第三主日
イザヤ35.1∼6,10、ヤコブ5.7∼10、マタイ11.2∼11
マタイによる福音11章2~11節
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、 耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
説教(作道宗三神父)
待降節も半ばになり、町でもクリスマスのムードが日々深まっています。しかし、教会は、救い主・メシアの誕生を迎えるために、神が、そして、神の民が長い年月をかけて用意したように、大事な待降節の日々を送っています。
今日の典礼の中心には、先週に続いて洗礼者ヨハネが登場します。しかし、先週と違い、ヨハネは人々の前ではなく、牢の中から、しかも、確信ではなく、若干疑いの思いを込めて、弟子たちに尋ねさせます、「来たるべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。メシアの到来を固く信じ、人々に回心を迫ったヨハネは、今、囚われの身となって、メシア・イエスがなさる不思議な業を耳にします。その真偽のほどを確かめるために、弟子をイエスのもとに送るのです。
イエスは言われます、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と。
預言者が語った、メシア時代に実現する夢のような状況を、イエスは彼の弟子を通してヨハネに伝えます。ヨハネは、その時代の到来を告げながら、自分は直接体験することはできません。彼は、旧約時代の預言者のように、喜びにあふれた時代の到来を希望しながら、直接体験することなく、生涯を終えます。彼は、旧約時代に足を下ろしながら、メシアの到来を、人づてに聞き、それで満足することしかできませんでした。彼の使命はそこまででした。旧約と新約を結ぶ橋をかける人でした。
しかし、福音の後半にあるように、イエスはそのヨハネを称揚なさいます。自らの使命を果たし、直接メシアの働きを目撃することなく召されるヨハネを、「彼は預言者以上の者、・・・女から生まれた者のうち洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」と言われます。ヨハネは、メシアの到来に向けて最後の準備、回心を呼びかけ、人々の心の準備に命を懸けたのです。ヨハネは、イエスに先立って生きた方です。しかし、決して、過去の人ではありません。ある意味で、現代の教会を象徴する存在です。
ヨハネが現れるはるか昔、救いの訪れが間近に迫ったかのように、その喜びを謳った預言者がいました。イスラエルの民が国を失い、信仰の中心ともいうべき神殿も破壊され、異国での捕囚と言う辱めの日々を送って何十年、ようやくその時が終わり、祖国に戻ることが夢ではなくなることを告げる預言者の言葉が、先ほど読まれました。「荒れ野よ、荒れ地よ。喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。」さらに、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そして、イエスが、ヨハネに伝えるように、と言った言葉が響きます、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。主に贖われた人々が帰って来る」と。
しかし、イザヤがこのように語ったことは、すぐには実現しませんでした。預言者も、そして捕囚から解放されたイスラエルの民も、真の救い主の到来まで、まだ、長く待たなければなりませんでした。「主が来られるときまで忍耐しなさい。・・あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。・・主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」と、『ヤコブの手紙』にあったように、わたしたちも待つことを学ばねばなりません。過去に目を向けながら、未来を待ち望む。ヨハネのように、預言者のように、神がかつてなさった大きな業に目を向けながら、同じ神が、いつの日か、必ず真の喜びをもたらしてくださることを信じ、そして、希望する、それがわたしたちキリスト者の生き方です。
約束された救い主、メシアはすでにお出でになりました。人々に神の国の到来を告げ、そのしるしとして、預言者が語ったメシア時代の不思議を次々に実行されました。神の愛について語り、そのいつくしみの豊さについて、証しされました。しかし、イエスは、ご自分ですべてのことを完成しようとなさいませんでした。イエスの教えを聞き、その生き方に倣おうとした人々、イエスの十字架の死を通して注がれた神の霊によって生きる弟子たち、それに続くキリスト者を通して、救いの計画を完成させるのが父なる神のご意志でした。
この世界には、苦しみがあり、貧しさと弱さによって、主の勝利を実感できない多くの人々が残されています。それは、洗礼者ヨハネの置かれた状況と似ています。ヨハネのように、様々な形の牢につながれている人々が、一日も早く解放され、人間として、神の子として、真の喜びを体験できるように、人類の努力に参加すること、これがわたしたち、教会に生きるものに託された大きな使命です。
降誕祭を迎える準備に励む教会に、そして、わたしたち一人一人に、そうした行動への勇気と確信を与えてくださるよう祈りましょう。
2025年12月7日
待降節第2主日
マタイによる福音3・1-12
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
説教(百瀬文晃神父)
待降節の立役者とも言えるのは、まずは聖母マリア様ですけど、マリア様と並んで洗礼者ヨハネですね。言うまでもなく、聖母マリアは主イエスを胎内に宿して、誰よりもその子の誕生を待ち望んでいた方です。でも、それと並んで洗礼者ヨハネは、主イエスの到来に先駆けて、人々に心の準備をするように呼びかけた人物です。洗礼者ヨハネは、当時のユダヤ教の刷新運動を行った人物だと言ってもよいでしょう。今日読まれたマタイ福音書をはじめ共観福音書は、洗礼者ヨハネのことを「荒れ野に呼ばわる声」として、描いています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」これはイザヤ書40章からの引用です。イザヤ書といっても、第一朗読で読まれたのは第一イザヤ、紀元前8世紀の人ですが、この「荒れ野で叫ぶ者の声がする」と言う言葉は200年も後の人物、第二イザヤと呼ばれている人が書き記したものです。その頃イスラエルの民はバビロニア帝国によって滅ぼされ、捕囚の身となって、バビロニアに連れて行かれ、苦しい生活を強いられていました。そこで故郷を憧れてあえいでいる民に向かって、この預言者はまもなく神がご自分の民を救ってくださること、民は故郷であるエルサレムに帰ることができることを預言しました。「荒れ野に叫ぶ声」とは、神が天使たちに命じて、イスラエルの民を故郷に帰らせるために道を整えよという呼びかけですね。福音書の著者たちは、このイザヤ書の言葉を洗礼者ヨハネにあてはめています。
洗礼者ヨハネは、主の道を整えるために人々に呼びかけ、かつて捕囚の民が故郷に帰っていったように、やがて来る救い主との出会いのために心の道を整えなさいと呼びかけたわけです。「主の道」というのは、神の導きによって故郷へと向かう道のことです。その道は凸凹道だが、この凸凹道を平らにせよ、そして曲がった道をまっすぐにせよ、と言われます。現代の私たちにとって、凸凹道とは主との出会いを妨げている私たちの心にある世俗の思い患いを指します。毎日の生活の忙しさにあわただしく追われて、神様に向かう心がふさがれてしまっている。これが凸凹道です。そして曲がった道とは、私たちの自己中心の考えや望みのままに動いている状況、自分自身が右にそれ、左にそれて、神様に向かう純粋な心が乱れてしまっている状況です。洗礼者ヨハネは、そのような私たちにまっすぐに神を見つめて歩むように呼びかけています。大きな仕事ではなくて、ささやかな仕事であっても、心を込めて、信仰と愛をもって取り組むように、どんな時にも忍耐と希望をもって、神様に喜んでいただくような働きをするように、という呼びかけです。
このようにお話ししていると、私は数年前に亡くなったド・フロモン神父さまのことを思い出すのですね。ド・フロモン神父さまは、最後は防府教会にお務めでしたけど、防府教会の司祭館の急な階段から落ちて、それが発見されてロイラハウス(東京にあるイエズス会の老人ホーム)に移られたのですが、東京に行く前の数日間、山口のレジデンスにいらしたから、私はご一緒に生活しました。その時に彼が残した大きなベンチコートは、今でも使っていますけど、彼が別れのミサの中で、自分の言葉で祈りを捧げられました。「これからどれくらいの年月生きるかわからないけど、私の残りの人生はまさに待降節です。主と出会うときまで、大したことはできないでしょう。もう体もボロボロになって、お祈りはまだできると思いますけど、一生懸命に主と出会いを準備したいと思います」と、そのようにおっしゃっていました。人よってその長さ、短さはあるでしょうけど、「私の残りの人生は待降節なのだ」と、そういうことは私たちにも言えると思います。そしてパウロが今日の第2朗読のロマ書の中で語っているように、忍耐と希望をもって助け合い、支え合って、神様をたたえるように、そのような毎日でありますようにお祈りしたいと思います。
アーメン。
2025年11月30日
待降節第1主日
福音朗読 マタイによる福音書 24章37~44節
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。
洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
説教(百瀬文晃神父)
皆さん、今日からキリスト教の教会では、典礼歴の始めの「待降節」が始まります。待降節は、主イエスの誕生の祝いを準備する時だけではありません。それを一つのシンボルとして、神の国の完成のとき、主キリストが神の栄光のうちに再び来られる日を待ち望む時でもあります。今日、待降節第1主日の福音は、マタイの24章から読まれましたが、ここでイエスは、世の終わりに神の栄光のうちに再び来られることを約束しておられます。そして、その日のためにそなえておくようにと、さまざまな例えを使って説明しています。
まずノアの日の例えですが、これは旧約聖書の創世記に出てくるノアの箱舟の物語からです。その時まで人々は食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりたりして、毎日の生活に追われていて気がつかなかったのですが、とつぜん洪水が襲ってきた、という話ですね。主の来臨もいつかわからないから、心して準備しておきなさい、という話です。
そして、二つ目の例えは、畑に二人の男がいて、一人が連れていかれ、もう一人が残される。二人の女がうすをひいていて(たぶんうすをロバに引かせて麦を粉にする仕事でしょう)、一人が連れていかれ、もう一人が残される、という話です。同じ仕事をしていても、どのような心でそれをしているかが問われています。
それから三つ目の例えは、主人が結婚式か何かで祝宴に招かれていて、いつ帰ってくるかわからないから、召使いは居眠りしたり、酒を飲んだりしていないで、目を覚まして待っていなさい、という話です。
四つ目の例えは、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、みすみす家に押し入らせない、という話です。これが主の来臨に備えるための例えとしてふさわしいかわかりませんが、主イエスがいろいろな機会に語られた言葉を、何十年も後から福音書の記者は思い出して、主の来臨を待ち望む心構えのために、ここに収録しているわけです。
このような例えをイエスがどのような文脈で話されたのかは気にしないで、とにかく福音書の著者がこのように主の言葉を集めて、私たちに呼びかけています。主がいつ来るかわからないから目を覚ましていなさい、と。
でも、いつも目を覚ましているということは、決して眠らないで、四六時中目を覚ましていろ、ということではありません。そんなことは誰にもできません。とくに歳を取ってきたら、睡眠をよく取るように、医者に勧められます。
ノアの時代に人々が食べたり飲んだり、毎日の生活を営んでいたように、今日の私たちにも日常生活があります。そして、主の来臨を待ち望むといっても、日常の生活をほおっておいて、祈りに没頭しろ、ということではありません。毎日、職場に行く人もいれば、学校に行く人もいるでしょう。子どもの世話をしたり、老人や病人の面倒を見たりする人もいるでしょう。その日常のいろんな営みはよいことだし、しなければならないことであって、一生懸命に取り組むのは当然ですね。とくに自分の身の回りにだれか困っている人がいたら、その人を助けること、それは何にも優先されなければならないことでしょう。でも「目覚めていなさい」とは、私たちが何をいちばん大切にして生きているか、何を毎日の仕事の中心に据えているか、を問いかけています。日々の生活を方向づけるものは、何でしょうか。
待降節には、世界で闇の力や無秩序が横行する中で、主のもたらす光を待ち望むということ、主の光への憧れを忘れないことが呼びかけられています。世の闇が暗ければ暗いほど、光への憧れと待ち望む心が大切だ、ということでしょう。
皆さん、冬が近づくにつれ、だんだん寒くなってくるこの頃ですが、寒ければ寒いほど、私たちは主がもたらしてくださる暖かい光を待ち望みましょう。待降節には、ただ主イエスの降誕の喜びを準備するだけではなく、それを一つの契機として、自分の人生そのものを改めて方向づけること、自分に与えられている時間、健康、力を大切にして、祈りと愛の働きをもって主の来臨をお迎えする心を養いたいと思います。アーメン。
2025年11月23日
王であるキリストの祝日
福音朗読 ルカによる福音書 23章35~43節
(そのとき議員たちはイエスを)あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
説教(百瀬文晃神父)
「王であるキリスト」という祝日ですけれども、「王」という言葉は現代の私たちにとってはあまり馴染みがありません。昔からカトリック信者だった人はもう慣れているかもしれませんが、初めてこの言葉を聞くと、いささか時代遅れのような感じがします。でも、忘れてはいけないのは、これが聖書に基づく言葉だということです。古代イスラエルは、神様から遣わされた王を求めました。王は油を注がれることによって聖霊の特別な力を与えられ、民を平和への道に導く者として待ち望まれました。今日の第一朗読サムエル記にあるように、王は民を導く牧者(羊を導く羊飼いイメージ)として期待されました。旧約聖書には詩編や預言者の言葉に、牧場の羊を連れ、危険な動物から羊を守り、よい牧草のあるところに羊を導く、そういう牧者のイメージが何度も使われます。古代イスラエルの民は、大国のはざまの中で、絶えず外敵の侵略に脅かされ、時には弾圧され、隷属させられました。その中で、油を注がれた者(ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストと呼ばれる)、民を守り、導く力強い王が待ち望まれたわけですね。
しかし、イエスはそのような王ではありませんでした。イエスの説いた神の国は、そのような力強い国ではありません。それはむしろ、貧しい人々、ひたすら神様にすべてを委ね、神様の恵みを待ち望む人々の平和と喜びの国のことです。イエスは、病に苦しむ人を癒し、目の見えない人に光を与え、一人息子の死を嘆くやもめを慰め、罪びととして軽蔑された人々と食事をともにしました。最後には当時の権力者によって捕らえられ、断罪され、あざけられ、一切の富も名誉も剥奪されて、十字架の上で亡くなった方です。何という逆説でしょう。私たちキリスト者は、イエスが復活させられて神の栄光の中に挙げられたという信仰によって、このイエスこそ私たちの人生の導き手であると信じています。そしてイエスの十字架上での死というものが、私たちの罪と罪の結果である死の宿命を、自らの死によって担ってくださった、私たちの死の宿命をご自分のものとし、私たちに代わってその宿命を身に受けてくださった、そういうできごとだったと信じています。
私たちは洗礼を受けたとき、イエスこそ自分の人生の導き手であると信じて、イエスに従って生きることを誓ったのです。でも、この現世の思いわずらいと騒がしさの中で、能力と功績を求める世俗の価値観に染まって、洗礼の時の真心を忘れてはいないでしょうか。
しかし、まさにこのように地位や名誉や富を追い求める世の中だからこそ、まさに国々が力で争いあい、貧しい者、弱い者が虐げられるようなこの世の中だからこそ、私たちはイエス・キリストを真の導き手として仰ぐのです。イエスキリストは、今もいつも私たち一人一人の人生の悩み、さまざまな苦しみ、心身の傷を受け止めてくださる方、この方に希望を置いて、この方の導きに従っていきたいのです。この洗礼の時に抱いた純粋な心を、今日また新たにしたいと思います。アーメン。
2025年11月9日
ラテラノ教会の献堂
(長府教会 百瀬文晃神父)
ヨハネ2・13-22
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
今日のラテラノ教会の献堂の記念のために選ばれた福音書の箇所ですが、ヨハネによる福音書2章の、イエスが神殿を清めた話は、教会とは何かという、教会のあるべき姿を美しく描いていると思います。いや、これを読むと、ちょっとびっくりさせられますね。
普段は優しいイエス、貧しいやまめをいたわり、子どもを抱いて祝福し、罪びとを新しい生き方に導き、最後の晩餐では弟子たちの足を洗うまでの、その優しいイエスの姿はここでは全然ありません。逆に、神殿で商売をしている人たちに対して、台を倒したり、鞭で動物たちを追い出したり、暴力的で乱暴なまでの振る舞いをしています。これは歴史的には、イエスを最後の十字架まで追いやったユダヤ人たちの憎しみ、特に神殿の境内の商売からたくさんの利益を得ていた祭司たちの反感を買いました。そして、これがイエスへの断罪の直接的な原因になっただろうと推測されています。イエスを死に追いやるまでのユダヤ人たちの憎しみを買うことになります。
でも、そこにまた神殿を思う主イエスの情熱というものが感じられます。ヨハネ福音書のこの箇所は、3つのシンボルが背景にあると思いますね。まずはイエス自身の体としての神殿、それは、イエスは神が宿るいわば神殿であるということ、それから第二はキリストの体としての教会です。ヨハネ福音書は1世紀の末に書かれましたが、すでにパウロの手紙をはじめ、教会こそキリストの体だという信仰は広まっていました。そして、そのキリストの体である教会こそ新しい神殿だということです。つまり、ユダヤ人たちが誇りにしていたイスラエルの民の神殿は、まずはソロモンが建てた第一神殿、そして捕囚から帰った民が再建した第二神殿。これはヘロデ大王が大きく補修して46年かかったと言われていますけれども、世界のユダヤ人たちが誇りに思って、一生に一度は見たいと思って巡礼に来ていた神殿ですね。これに代わるのが教会である、というシンボル。この3つのシンボルが、この箇所に集められています。
先ほど申しましたように、教会とは何か、という教会のあるべき姿がここに描かれていると思います。イエスが自分の体として大切にする教会。その体を主イエス御自身が清められるということです。教会の2000年の歴史を見ますと、たくさんスキャンダルがあり、現在の教会でも例外ではありません。多くの人が教会を離れてしまう原因は、教会の中のいろんなスキャンダルでした。亡くなったフランシスコ教皇が一番心痛められたのが、聖職者による少年たちへの性的濫用でした。でも、これは他人事ではありません。ラテライン教会の献堂を祝うときに、やはり私たち自身も教会のあるべき姿に向かって歩んでいるかが、問われます。私たちの小教区、この教会の在り方も考えるべきでしょう。教会の中にあるあまりにも人間的なもの、ねたみや争い、党派心など、そういったものがないでしょうか。これはやっぱり主イエスに清めていただかなければならないでしょう。絶えず清められるべき教会、罪びとなる教会」、これ第二バチカン公会議が教会憲章でうたった言葉です。
教会は罪人の教会なのです。互いに弱さと罪の穢れを負った人間の集まりです。けれども主イエスによって集められ、主イエスの死と復活によって清められ、神にささげられた共同体です。
私たちは罪深い者でありながら、世の人々に神の愛を告げるように派遣されています。お互いの弱さ、いたらなさに思いやりを持つこと、広島教区のモットーである「優しさのある教会」へと日々成長できるように、その恵みを特別に今日のミサの中でお祈りしたいと思います。アーメン
2025年11月2日
死者の日
(長府教会 百瀬文晃神父)
ヨハネ6・37-40
父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
死者の日の典礼では、とても素晴らしい三つの朗読が準備されています。
それぞれお家で、一度見直してみてください。私たちの人生にとってたくさんの示唆を与えていると思います。ここでは、私はヨハネによる福音に絞ってお話しさせていただきますが、そもそも私たち皆、自分一人で生きているのではなくて、たくさんの人とともに生きているですね。そして、今ある「私」という存在は、両親が生んで育ててくれたから、家族がおり、友人がおり、私を導いてくださった多くの恩人たちがいるからです。その人たちがいなかったら、今のこの「私」という人間は存在しなかったでしょう。そのことを思いおこし、今日、亡くなった自分の両親や家族、そして自分を特別に愛し導いてくださった恩人たち、親しい友人たちを思い起こして、その人たちを通して働かれた神様に感謝を捧げたいと思います。
今日の福音の箇所で、主キリストが「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人にも失わないで、終わりの日に復活させること」と語っておられます。
「復活させる」という言葉が繰り返し言われていますけれども、「復活させる」とはどう意味でしょうか。それは、まず第一に私たちが生涯をおかした罪の赦しと自分の中にある傷の癒しです。そして、第2に、私たちが新しい体をいただくということです。復活の体がどんなものであるか、私たちには想像できませんけれども、パウロが「霊の体」と言っている、新しい体です。そして第3に、永遠のいのちをいただいて、私たちがすべての聖人たちとともに、神の家族としての交わりをもつ、ということです。
「聖人たち」と言いましたけど、昨日「諸聖人の祝日」を祝いました。そこで見たように、それは決して列聖された聖人たちだけではなくて、全ての人、今は天国にいるすべての人たちのことです。「聖とされた者」、つまり聖書の中で「聖とされた者」とは、「神に捧げらた者」という意味です。
それぞれの生涯を終えて神に捧げられた者、私たちの親族、恩人、友人たちとの交わりを、私たちが今も持っているということ、それが使徒信条にも言われる「聖徒の交わり」ということです。主キリストに結ばれている者は皆、この地上に生きている者も、天国で神のみもとにいる者も、互いに神の恵みを共有していること、互いに支えあい、助けあうこと、それがキリスト教の信仰です。
今日、死者の日にあたって、亡くなった人たちのために永遠の安息を祈ると同時に、この人たちが神のもとで祈りをもって私たちの地上での歩みを支えてくださるようお祈りしましょう。
アーメン。
2025年10月26日
年間第30主日C説教
(長府教会 百瀬文晃神父)
Lk18-9-14
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
今日のミサの福音は、イエスが語った例えで、二人の人が祈るために神殿にきたという話です。例えですから、実際に起こったできごとではありません。このイエスの例えでは、ファリザイ派の人と徴税人とがそれぞれ祈りました。ファリザイ派というのは、当時のユダヤ社会のエリート集団ですね。ユダヤの律法を厳しく守り、聖書をよく勉強し、品行方正な生活をしていましたから、人からも尊敬されていました。一方、徴税人というのは、ローマ帝国の支配下のユダヤ社会で、ローマ軍によって雇われ、同胞のユダヤ人たちから税金を集めて、それをローマ軍に納めていました。その悪どい徴収の仕方で、貧しい人からも容赦なく税金をしぼりとって、しかも多めに取って、ローマ軍に一定の額を治めた後は、その利ザヤを自分たちの懐に入れていました。それで、ユダヤの民衆からは売国奴として嫌われ、罪びとの骨頂として軽蔑されてもいました。
この二人が神殿でそれぞれ祈った、というわけですね。ファリザイ派の人は、自分が正しい人間であると自負していて、断食もするし、収入の十分の一を神様に捧げているし、それを誇りに、徴税人を軽蔑しています。ところが徴税人の方は、遠くに立って、ただ胸を打ちながら祈りました。「神様、罪びとの私を憐れんでください。」この対照的な二人ですが、イエスはこれを例えにして、神様の御心にかなったのはファリザイ派の人ではなく、徴税人の方だったと言いました。
私たちはとかく人を評価するとき、その人の社会的な地位とか、能力とか、仕事ぶりとかをもってしますけれども、神様はそうではありません。神様は、その人が何をしているかということよりも、どのような心でしているかをご覧になるのだ、とイエスは教えました。神様により一層喜ばれたのは、あのファリザイ派の人ではなくて、徴税人の方だったというわけですね。この福音の最後は、「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」という言葉で終わっています
この例えが現代の私たちに語っているは何でしょうか。どういうメッセージがそこに説かれているでしょうか。私なりにこの例えを私たちの日常生活に応用して考えてみましょう。
例えば私たち一人一人、日によってよい日と悪い日がありますね。ある日は、朝起きたときから、気分がよくて、神様の前でよくお祈りができ、人との交わりでも上手に振る舞うことができて、人に愛される。仕事もテキパキとこなすことができて、成果を上げて人に褒められるとかですね。そして夜休むときに一日を振り返って、「今日はよい日だった、神様ありがとうございます」と言って休むとしましょう。しかしある日にはそうでなくて、朝起きたときから頭がぼんやりと重く、祈ろうと思っても心が燃えないとか、人との交わりではつまらないことで行き違いがあったり、わだかまりがあったり、つい小言を言ってしまったりします。仕事をしてもドジばかりで、自分に腹を立てる、というわけで、夜休むときには、「今日はよくなかったな。こういう失敗してしまったな」と思う。でも、自分の弱さを認めて、「神様、どうぞこのみじめな私を憐れんでください」と祈る。さあ、どちらの日がより一層、神様の御心にかなったでしょうか。私たち人間は、常識的にはバリバリ仕事ができて、人ともよい交わりができて、そういうすばらしい日を感謝するでしょう。でも、そういう時には自分自身というものがはっきりわかっているでしょうか。自分がどれほど弱い人間であり、神様のお恵みなしには、何もできないことを忘れていないでしょうか。むしろ失敗を通して気づかされるのは、ドジばかりして、人との交わりもうまくいかない、神様を賛美することもできないという、そういうみじめな自分です。
そのような弱い、みすぼらしい自分を体験するときにこそ、自分のはかない存在にもかかわらず神様が愛してくださっていること、そして私の救いのために御子をさえ捧げてくださったこと、このはかない存在のためにイエスがご自分の命を捧げてくださったこと、これを思い起こします。これがありのままの、自分の謙虚な姿でしょう。神様はそのような謙虚さというものをより一層喜んでくださるのではないでしょうか。へりくだるということは、見せかけの謙遜ではなく、自分自身のありのままを知るということではないでしょうか。まさに弱く、ドジばかりして、みじめな自分というものを知り、それにもかかわらず神様が大切にしてくださるということを思い起こして、その愛にお応えしようとすることが大切ではないでしょうか。今日の福音から、そのことに気づかされます。
2025年第29主日(C)
(長府教会 百瀬文晃神父)
ルカによる福音18・1―8
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
今日の福音では、イエスの例え話が伝えられています。ある街に不正な裁判官がいました。裁判官というのは、イエスの時代、王様に任命されて、民間の間で起こるいざこざを裁いた人です。例えば、借りたお金を返却しないとか、商売で取り組めした約束を守らないとか、これを裁く役目の人でした。しかししばしばその当時、ワイロをもらって、かなり都合のいいように裁いたようです。ですから、金持ちは得したけれども、貧しい人は損した、というようなケースが多かったのです。イエスが使ったこの例えで出てくる裁判官は神様への信仰もなし、人を人とも思わない、という悪い人ですね。
この裁判官のところにやってくるのが、一人の貧しいやもめです。やもめというのは、旧約聖書では最も貧しい者の代表です。夫が病気とか、あるいは戦争などで亡くなってしまって一人ぼっちになる、あるいは子どもがいるときには、一人で働いて何とか子どもを育てなければなりませんでした。とくに当時のユダヤ社会は、「家父長制度」と言って、すべて男性が中心の社会でしたから、夫をなくした女性はとても不利な立場に置かれました。欲の深い隣りの人が地面の争いでこの女性をいじめたり、あるいは亡くなった夫が残した借金を返せとか、返せなかったら家を取るとか、いろんな意地悪をしたわけです。
このやもめも近所の人から意地悪をされて、裁判官のところに行って訴えようとしたけれども、いつも人がいっぱいで、しかもお金がなかったから、わいろを使うわけにもいかない。仕方ないから、玄関の前で大声で叫びました。「私のために裁判をして、意地悪な人から守ってください。」その声は、中で仕事をしている裁判官にも聞こえました。この日も、次の日も、またその次の日も、ひっきりなしにやってきて、叫びました。
そこで裁判官は心の中で考えたのですね。自分は神様のことなんか信じてないし、人を別に尊重もしないけど、あのやもめはうるさくてかなわないから、彼女のために簡単に裁判をしてやろう、と。これがイエスの語られた例えです。
主イエスは続いて次のように言われました。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。何度もきてうるさいから、彼女のために裁判をしようと言うのです。それなら、まして神様は、昼も夜も叫び求めている人たちのために裁きを行わずに放っておくことがあるでしょうか。きっと神様は速やかに裁いてくださに違いありません。そのようにイエスは教え、困ったときも、苦しいときも、どんなときも、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、と教えられました。
現代の私たちも、いろんなことで悩んだり、苦しんだりするときがあります。また、私たちの周りにも、病気の人や、体の不自由な人たちがいます。私たちは自分や自分の家族のため、そして困っている友人たちや隣人たちのためにお祈りしなければならない。祈りは、何よりも力を持つものだからです。
でも、祈っても祈っても聞ききれられない、と思うこともありますね。私は広島教区のカテキスタ養成研修というのに携わっていますが、今年の受講生に夏休みの宿題を出しました。ある人から手紙をもらって、「神様はどうして私の祈りを聞いてくれないんでしょうか」と聞かれたら、どのように答えますか。これが宿題です。皆さんだったらどう答えますか。
今日の福音では主イエスご自身が教えておられます。気を落とさずに絶えず祈らなければならない。神様はきっと聞いてくださるから、と。もちろん間違ったお願いとか。神様から見たらもっと違う解決があるというときには、自分の祈りが聞いていただけないかのように感じられるかもしれません。でも決してがっかりしないで、信仰をもって、神様が必ずいちばんよい裁きを行ってくださる、ということを信じて祈る、ということが大切ですね。
かつて聖イグナチオ教会の主任司祭だったヘルマン・ホイヴェルス神父さまは、晩年に書かれた著作「人生の秋に」という本の中で、次のように書かれています。「神様は最後に一番良い仕事を残してくださいます。それは祈りです。自分の手はもう何にもできないけれども、最後まで手を合わせること、合掌することはできます。愛するすべての人の上に、神様の恵みを求めるために。
若い時のようにバリバリ仕事はできない、することは遅いし、むしろ人の厄介になってしまう。こういうときにも、お祈りすることはできる。祈りは、神様がそれを聞いてくださるときに、自分で力があって仕事をするとき以上に、もっと世の中のため、また人々のために大きな力を持つだろう。なぜなら、神様が働かれるからです。
長府教会の私たちもだんだん高齢になって、いろいろ自分の健康のことで心配したり、将来のことで不安になったりする人も少なくないでしょう。でも忘れてはならないのは、たとえ自分が弱くなって力が足りなくなっても、祈ることはできる、ということ。そしてその祈りこそが力を持つのだ、ということ。自分の子どもたちのために、孫たちのために、友人たちのために、とくに悩みをかかえたり苦しんでいる人たちのために、神様の導きとお力添えを祈らなければならない。これは私たちの今できる大切な務めです。これを忘れないようにしたいと思います。アーメン。