2025・10月号
「柿の実 」
2025・10月号
「柿の実 」
◆牧師の話のオチ
昔、京都の学校を終え、阪神間で教師になり、初めて教檀に立って夢中で授業が終わった。すると生徒が、“先生、オチは?”と聞く。“授業にオチなんかないよ”、“あかん何でも話にはオチが必要や”。さすがお笑い文化圏は違う、と感心。牧師の話しのオチは信仰で決まりです。そこまでどうお連れするか。これが腕の見せ所です。
◆秋のくだもの
さて秋は果物のおいしい季節です。ぶどう、梨、みかん、柿・・思うだけで口の中が潤います。ただ、“桃栗三年柿八年”といいます。最近はバイオ技術が発展し、農作物も苗を植えて収穫までの期間は早くなっていますが、昔は実の成るまで育てるのが大変でした。柿は実に8年かかる。しかし人間はどうか。速成栽培というわけにはいかない。やはり時間がかかります。たとえば一人前の医者になろうとすれば実際30年の年月がかかります。
◆渋柿・甘柿
ところが“渋柿や、八年までの恩知らず”と言う事態がままおこるのです。粉を吹いて美味しそうな柿をがぶりと噛んで、口中に甘い香りが、との期待に反し、口中がこわばる渋の味。ペッ、ペッペと思わず実を吐き出しても、口中が渋でコーチングされ、うがいをしても取れない。子どもの頃の渋柿の思いでです。外観は一人前の人物らしくなっても、生活、性格、どうしてこの親からこの子が生まれたか、と言うような人もいます。せっかく親が苦労して長年手塩にかけて、教育費を工面して育てたのに、親の意に反して、親を裏切る恩知らずになる者がいます。落語にはそういう道楽息子の話が多いですが、最近の若い方々は大変まじめで、堅実な生き方が身についている様です。わたしの世代は、かく言う私自身が親族会議と言うものを開いて、叔父さんおばさん方に生き方を諫められた経験があり、偉そうに言えない、渋柿でしたね。問題は、まじめで、堅実な甘柿の様な人が、実態は渋柿だった、と言う点にあるのです。パワハラ、セクハラ、アカハラ、いじめ等の社会の表面に見えにくい処の陰湿な醜さが最近表面化して、まさかあの人がと驚かされます。しかし一人〃胸に手を当てて、こころに渋を抱えていない人がいるでしょうか。「人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」マルコ7:20~23、とイエスは心の中の渋を指摘された。どうすべきか、渋柿の枝を甘柿の木に接ぎ木するといいと聞く。イエス様は愛と赦しと慰めに満ちた救い主です。信仰とは、イエス様に接ぎ木する様なものです。自分が正直に渋柿の様な人間であると認め、人生に良い実を結ぶためイエス様を信じることです。甘柿の幹から、渋柿の枝に甘い樹液が流れ込み、甘柿を結ぶように、あなたも人生の秋に、よき実をたわわに実らせることができるようになるのです。是非教会を訪れ、実りある秋を堪能ください。「私につながっておれば、豊かに実を結ぶ」ヨハネ15:5
2025・9月号
「月の裏側 」
◆大阪万博の目玉
夢洲での大阪万博が好評のようです。目玉の一つに、火星の石が展示されるそうです。わたしは前回の大阪万博のとき、教師として生徒を引率して見学に行きました。月の石が展示されていたからです。見学者が多すぎ、10秒ほどしか見ることができませんでしたね。しかし、瞬間ですが、今も脳裏に焼き付いています。
季節は移ろい9月になり、昔は中秋の名月を愛でた風流な季節でもあります。今は忙しく、なかなか夜空を見あげるゆとりもないようです。わたしのような少しは時間のゆとりのある高齢者は、せっかくの日本の秋を楽しみたいと思っています。
ところで、いつも見ている月面は常に同じ面だそうです。地球の公転と自転の関係でそうなるとの事です。ウサギが餅つきしているとか童話的観察から、望遠鏡の詳しい月面図が作成され、宇宙飛行士の月面着陸や周回人工衛星による調査等が進んできました。さらに月面に眠る資源を採掘して、地球に持ち帰る調査の大国間で競争が始まった。せっかくのロマンが、生臭い利害の対立の月面となりがっかりです。
◆月の裏側
と言う事で、月の裏面は地球のわれわれからは見えない。そこでいろいろ想像を掻き立てられ、見える面はでこぼこ変化があるが、裏面は平坦だとか、中にはUFOの基地があるとか、眉唾の話さえあります。そういう中、月面探査で人工衛星を月の裏面に回し、月面TV映像中継をして、はじめて人類は月面を見ることができ、天文オタクの人は興奮しましたね。
ところが、中にはそんな映像は信じられない、と言う人もいます。しかし、まあ大部分の人は、NASAの科学者が月の裏側はこうなっていると報告すると、そうか、そうなってるのかと信じますね。自分の目で月の裏側を実際に見ていませんが、科学を信じているのです。
◆生の世界の裏側
生の世界の裏側、死後の世界はどうなのか、これも同様で見てきた人はいない。しかし聖書は死後の世界を告げます。「人は一度、死ぬことと死んだ後さばきを受ける事が、人間に定まっている。」ヘブル9:27。神様だけが、生も死もご存じなのです。NASAの科学者の月面の裏側の報告を、自分では見ていなくても信じるなら、神の言葉聖書の死後の警告を信じないのはおかしい。聖なる神の審きの前に罪びとは立てない。地獄しかない。しかし生きている現在、神の遣わされた救い主イエス・キリストが一切の罪を身代わりに負い、十字架に裁きを受け、罪を赦されて、死後も平安の内に神の前に立てるのです。
高齢化時代で年間100万人以上の大量死時代になりました。墓じまいとか家族葬とか、終活が盛んですが、本当の死後の備えはできていますか?たとえ終末期緩和ケアでモルヒネで痛みはなく平安であっても、死後の保障ではないのです。本当の終活は、聖書の告げる死後の審判と、イエスの救いにあるのです。是非、教会をお訪ねください。
2025・8月号
「平和の備え 」
◆戦争と平和
平和を求めるなら、戦争に備えよ!とはローマ帝国のウエゲチウスの語った名言だと言う。ここ数年ロシアのウクライナ侵略、パレスチナの争い、が長引き、トランプ米大統領の仲立ちも中々難しい。明日はアジアで中国が今にも台湾侵攻し、日本も巻き込まれるのではないか。しかも頼みの米軍も当てにできるか疑問だ。自前の軍備増強をはかるべきだとの勇ましい声があがります。まさに平和のために軍備増強する、矛盾が現実になっています。
戦後80年の今年、曲がりなりにも平和憲法の下、一度も戦争をしたことがない我が国が再び戦争の備えを急務とするとは。日米安保と米軍の核の傘に守られ、経済に注力し平和ボケした日本は目覚めなければならない、と言う。確かにそういう面もあるでしょう。しかしだからこそ世界の国々は安心して、日本と付き合ってくれたとも言えます。インバウンドの観光客の多さにも現れている、平和・安全・安心・安定の日本ブランドの信用の高さです。
そもそも、観光業ほど平和産業はありません。戦争となると観光どころかですからね。
◆戦争の備えか、平和の備えか
そもそも日本が戦争になれば、半年も持ちますかね。食料もエネルギーも資源もたちまち干上がって白旗。自前の軍備と言っても、周辺の仮想敵国視する国〃の軍備に対抗すると、国家予算の福祉関連費はカットですね。それでも全く足りません。少子高齢化の現状では十分な軍事増強はとても無理。ここは平和しか選択肢はありません。こう言う現実的計算を嫌う方も多い。筆者の年代以上の戦争経験者は警告します。第二次大戦の軍人はもちろん民間人の被害の恐ろしさ、唯一の核爆弾被爆国の悲惨な経験、アジア侵略の爪痕は今に、恨みを買い続けている。だから二度と戦争をしてはいけない。しかし現実論者は、もちろん日本は戦争の意図がなくても、準備している周辺国家があるではないか。それを無視して平和、〃と唱えても、相手は無視するだけだ。だからこちらも座して死を待つわけにはいかないから準備するのだ、と言う。そこで筆者は主張します。戦争より平和の準備をしよう。現実的に十分対抗できる軍備は無理。ならば平和構築に全力を傾けよう。軍備はそこそこ、ODA(政府開発援助)の出費を増やし、平和に出費する。これなら誰も警戒どころか歓迎されます。
また戦争には思想戦があるように、平和の思想を大いに広げる。戦争は資源・領土争い、国際関係のからみ、様々な要因があるが、人のこころから始まるのも事実です。ならば逆に人のこころに平和を求める大切さを大いに宣伝しませんか。イエス様は「平和を造り出す人たちは幸いです。彼らは神の子と呼ばれます。」とピース・メーカーの役割を求められた。フランシスの祈りに「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。憎しみのある所に、愛を置かせてください。侮辱のある所に、許しを置かせてください。分裂のある所に、和合を置かせてください。」とあります。ご一緒に唱えませんか。
2025・7月号
「人生の目的? 」
◆何のための研究か?
iPs細胞の研究でノーベル賞をもらった山中伸也教授が、米国に留学し研究に没頭していた時、指導のマーレー教授から、あなたは何のためにこの研究をしていますか?と聞かれた。それはいい論文を書くためです。それで?いい論文を書いて医学部でいい地位につくためです。それで?いい地位について豊かな生活をするためです、と答えた。すると指導教授は、あなたが言う事は研究の目的ではない、手段だ。あなたの研究の目的は何なのか?と詰められ答えに窮した。引き下がって改めて、なぜ留学したのか動機を思い出した。それは若い日に接した患者たちの苦しむ姿、特にお父様の病を癒せなく苦しむ様を見る以外になく、悔しい思いをして何とか研究を深め、患者さんの苦しみを少しでも和らげたい、と思って苦労の末に留学した事だった。指導教授に告げたところ、笑顔で、そうでしょう。それがあなたの研究の目的ですよ。決して忘れないように、と励まされた。この教えによってどんなに努力の成果が見えない時も耐えて、ついにノーベル賞につながる結果を出せたと言う。
◆人生の目的
ある政治評論家が、歴代の首相を評価するなか、某首相は首相になることが政治家としての目的であった。だから一日も長く政権にしがみついていた、と評した。首相になって政権を取り、国民のためにこういう政策を実行したいと言う具体的な目的がなく、ただ首相になってその座に居続ける事が目的の政治家ばかりでは、国民は不幸です。聞いたことがないですが、猫や犬に君の人生の目的は何か?と聞いてもどう答えるでしょうか。恐らく生物は、生きることが、そして繁殖する事がその存在の目的でしょう。猫や犬が、自分で目的を立てて生きているとは思えません。なるほど芸のできる動物はいます。介護犬や麻薬取締犬とかいますが、みな人間が彼らに与えた目的でしょう。
そうすると、ただ生きているのが目的、首相になるのが目的、社長になってその座に居座り続けるのが目的では、動物と変わりない事になりませんか?首相も社長も手段であって、その立場を使ってどの様な幸せな国家や会社にするか、目的がなければ意味がありません。
こう言う大げさな事でなくても、私ども毎日同じことの繰り返しの多い単調な生活であっても、これがどこに向かっているかを知っているかそうでないかでは、人生の意味が変わります。ブロック工事の現場で、何のためのお仕事か?と聞くと、Aさんは金のためですよ、面白くもない仕事だが、家族を養わないとね!と答えた。Bさんは、つらい仕事ですが、やがて積み終われば教会堂ができて、そこで神様を礼拝出来るんですよ、私は聖歌隊で歌うのを楽しみにしていますよと、笑顔で語った。目的のあるなしの違いです。
「ただこの一事を務めている。後ろのものを忘れ、前のものに向かって目標目指して走っている。」ピリピ3:13 使徒パウロのことば。
2025・6月号
「審きの雨、恵みの雨 」
◆審きの雨
6月は雨のシーズンです。最近は線状降水帯とかで、豪雨が局地的に長時間降り続き、河川が決壊し甚大な被害を被って、被災地・被災者を苦しめています。地球温暖化の影響の様で、治山治水対策が急がれるとともに、地球規模の環境対策が求められています。科学技術や経済の急速な発展は、豊かな文明の恩恵を私たちにもたらせています。しかし、その結果環境負荷がいつの間にか、地球の耐性を超えてしまい、地球から自己中の人類へのペナルテイが課せられているようです。
バイブルでも、有名なノアの洪水の物語があります。神の前に人間の罪が増し、ついに「40日、40夜雨が降り続き」創世記7:12、西アジアきっての高山、アララテ山の頂きまで洪水が押し寄せた。人類も動物も多くが滅亡したと言う。人間の高慢への戒めとして語り継がれてきた審きの雨物語です。私はトルコに行ったときガイドがマイクロバスを用意、さあどこへでも案内しますよ、と言うから、ノアの方舟の残骸探しにアララテ山へ行きたいと言うと、ガイドは顔色を変えて、とんでもない、あそこはツアーで行くところじゃない、探検ですよ、との事で却下。本当は、反政府クルド族の支配地域だったからです。昔も今も、人間の罪は人間社会を毒し、自然を破壊し、そのしっぺ返しにより人類滅亡の神の審判が待っているのです。豪雨の季節にこそ、深くわれわれ自身を振り返り、罪深い文明を反省し、それこそSDGs(持続可能な成長)を目指す、神の警告に謙虚に耳を傾け、従う時ではないでしょうか。
◆恵みの雨
子どもの頃、町育ちの私も空襲で家が焼かれ、母方の農家に疎開しました。梅雨になると雨が降り、田んぼに水が張られ、苗が植えられ、青々としたいい眺めでした。田植えを手伝い、中腰で長時間苗を植え、子供でも腰が痛くなったものです。農家にとって梅雨はまさに「恵みの雨」でした。バイブルでも「嘆きの谷を通る者たちはそこを泉に変えます。秋の雨がそこをまた祝福で覆います。」詩編84:7と言う有名な詩があります。パレスチナ地方は乾季は乾燥し、川は涸れ川(ワジ)となり干上がり現代では車の走る道路になります。しかし雨季になるとどっと水嵩が増し本来の川になり、ひび割れした農地も潤い作物ができるのです。現代は乾季も灌漑し、オリーブ、なつめやし、オレンジ等くだもの野菜が豊富です。パレスチナでも雨季は「恵みの雨」と呼ばれます。都会砂漠と言われますが、競争〃で疲れたお互いのこころを潤す、恵みの雨が必要ではないでしょか。教会の礼拝で、賛美を歌い、バイブルに耳を傾け、赦しと希望の「恵みの雨」にこころ潤されるひと時をお持ちください。そして潤いはあふれ、周囲の人のこころさえ潤すものとなりましょう。
2025・5月号
「体験と経験」
◆色々な体験
色々な体験を人は求めます。最近、皆既日食を体験するためお金を貯めている、と言う話を聞きました。日本では2035年まで皆既日食はみられないが、海外なら可能だからとか。グルメを求め、旅行をして単調な人生に少しでも、彩をつけたいからでしょうね。わたしも若い頃同様で、欲張りな体験を求めました。しかし高齢になり体が思うようにならなくなると、TVやネットで世界や日本の珍しい料理や地方の景色を見て体験欲求を満たしています。バーチャルリアリティーと言うのでしょうか、でもやはり実体験は格別ですね。TVの珍味は、見ても味わえませんし、景色も現地の肌感覚までは伝わりません。実体験は全身で感じますからね。以前モーセの十戒で有名な、シナイ山に登った時、早朝暗い頃ヘッドライトを灯して麓を出発、ところが日頃の運動不足がたたって中腹でへたり込んだ、すると同僚の牧師が背負って下さり朝明けの山頂へ。世界中から集まった聖地巡礼者たちが、各国語で賛美歌“輝く日を仰ぐとき”を歌い出し、日本的に言うとご来光を仰ぎ、感激しましたね。忘れられない思い出で、同僚牧師の親切心に今も感謝しています。
◆体験と経験の違い
ところで、かつてフランス思想家、森有正さんが“体験と経験”の違いについて書いていました。まあ普段はどっちでも同じように使っていますが、森さんはそれぞれに違う意味づけをしていました。まず人間は毎日、意識、無意識に無数の体験をして生きています。思いだす事もありますが、忘れている事もあります。よく認知症のテストに、昨日の夜に何を食べたかと言う質問があります。私もかなり怪しい。中には食べたことも忘れると言う、かなり重症。まあとにかく日々無数の体験をしている事には間違いない。しかしその体験の中で、その体験の前と後とでは人生が変わってしまった様な体験がある。それを森さんは「経験」とよぶ。もちろん劇的な体験もあるかもしれないが、その時は気づかなくても後々確かにあの時の体験から、自分の生き方が変わった、と言う事もあります。ロッキー山脈の尾根に雨が降り、西に東に1m、2mとそれぞれ流れ下り、やがて数千キロ先では、大西洋と太平洋に流れ込むと言うようなものです。キリスト教信仰はそういう「経験」なのです。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、全てが新しくなったのである」(コリントⅡ、5:17)。ホスピス医師で有名な柏木哲夫ドクターが“人は生きてきたように死ぬ”と臨床報告。ある終末期患者さんは文句不平たらたら看護者に言うから、嫌われていた。しかしある時から“ありがとう、〃”と言い出し、気が変になったと看護師からドクターに報告があった。駆けつけると彼は、ホスピスの礼拝が同時放送され、ベッドの天井スピーカーから毎朝聞こえてきた。それを聞いて知らず知らずの内にキリストを慕わしく、信じ始めていたと言う。キリストとの出会いの「経験」の凄さ。
2025・4月号 イースター号
「成功体験のある・なし」
◆成功体験
イースターおめでとうございます。わたしは団塊の世代シニアです。高度成長時代に企業戦士として世界に活躍した世代です。特徴は「成功体験」の自信に満ちている事です。ですから同窓会で同世代の人間が集まると、バブル経済に沸いたあの時代の興奮、なつかしのフォークソングが次々出てきます。それはそれで、古き良き時代を懐かしんでいいのですが、返す刀で、それに比べ近頃の若い者は、無気力でなっとらんと話し出すと、せっかくの「成功体験」が鼻持ちならなくなってソッポを向かれますよ。
他方、いわゆるZ世代の人たちは、ぼくらは一度もバブルというものを経験したことがありません、と言います。徹底的にコスパを計算しつましく生きています。俗にいう“失われた30年”と言う長期停滞経済社会に育った方々です。その特徴は「成功体験のない」事だそうです。この世代の方々が社会のリーダーとなった時、どうしていいのか分からないのではないか、と危惧されている様です。
◆諸刃の剣
同じ「成功体験」でも諸刃の剣ですね。活人剣にもなり殺人剣にもなります。確かに「成功体験」があると、やったらできるんだ、と言う自信がつき、さらに高みを目指してトライしようと言う好循環が生まれます。しかし過去の「成功体験」にこだわり、現在は過去を懐かしみ、その体験の無い人を無能力呼ばわりするようになると、これはもう病気ですね。成功体験の成果をシェアし、そうでもない方ともウイン・ウインの関係になって共に豊かになれば、喜ばれるでしょうに。また、その秘訣を後進に伝承すれば、技術は若い人たちがはるかに進み、団塊の世代と言えど後れを取っていますが、熱いマインドは伝わるでしょう。また、なぜかつての成功体験が今このような長期停滞時代に陥ったかを反省すれば、そこから抜け出す道も見つかるというものです。逆に「成功体験のない」世代の方がたは、少子高齢化で自分たちは割を食って、高齢者を一人の肩に2人も担いで面倒見なければならなくなる、と悲観し、不遇を嘆く悪循環を断ち、何かの「成功体験」を手に入れると自信がつき、次に希望を見出しトライする好循環が始まりますよ。
◆「成功体験のある・なし」にかかわらず
バイブルの人物に、成功者でありながら、人生に何か物足らなさを覚えイエス様を訪ねたニコデモに「人は新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない!」ヨハネ3:3とおっしゃった。ニコデモはこの歳になって今更生まれ変わるなど不可能ですと反発。しかしイエス様は「風は思いのまま吹く、聖霊から新しく生まれる者も同様だ」と畳かけられた。風は目に見えないが息吹くと木々を揺さぶる力がある。目に見えない霊なる神に出会うとき、ひとは「成功体験のある・なし」に関わりなく、新しくされて再出発できるのです。4月はキリスト復活のイースターです。敗者復活のチャンスを逃さないために礼拝にどうぞ。ボン・ボヤージュ!
2025・3月号
「人生学校に卒業なし」
◆言語の種類
言葉はコミュニケーションの重要な手立てです。自分の考えを相手に伝え、相手の意志を知るため、人付き合いに欠くことができません。また自問自答と言う自分自身とのコミュニケーションもあります。吉本隆明の言語論、言語には頭で色々考える知的言語がある。これで自分のぼんやりした考えをまとめ、感情を表現し、したい事をやることができます。また環境の変化を五感で感じる感覚言語がある。暑さ、寒さ、痛みと言う皮膚感覚、聴覚、視覚、味覚、触覚,などがあります。その日の天候に合わせた服装を整え、また環境の発する様々な情報をキャッチして対処できます。さらに内臓言語というものがあると吉本は言う。内臓の発する情報です。胃が重い、咳が出る・・などと言うはっきりしたアラートもあれば、朝起きて気分爽快、さあ今日もやるぞ!GO,GO信号もあれば、何となく気分が重い、気力がないと言う黄信号もあります。
若い頃は、知的言語が優勢で、感覚言語が少々暑いの、寒いのと告げても、内臓言語が気分が乗らないなあ、などと消極的なムードを醸しても、一切無視。今日のスケジュールは、何が何でもやり遂げるんだ、ごたごた言うなとばかり、感覚言語、内臓言語のメッセージは黙殺して、決めたことはやりこなしたものです。そして内外の抵抗を排除してものごとをやり遂げる、達成感を味わって満足していました。しかし、高齢になるに従い、感覚言語や、内臓言語の警告に耳を傾けないと、後でしっぺ返しがきて、体が動かなくなり困った状態になると言う事を学ぶのです。暑さ寒さの対策をおざなりして強行すると、体がやられ風邪をひいて中々治らない。気分を無視して、スケジュール通りやり遂げると満足感はありますが、後で知らず知らず痛めていた内臓の病が悪化してひどい事になる。そこで、年取ると感覚言語、内臓言語とよくよく相談しながら、予定は変更、またの機会を待つ。色々やりたいカードは、じっと待って今日はからだの機嫌がよさそうだと思うと、逃さずカードを切る。年取ると忍耐力、柔軟性、機を見るに敏なこころが大切になりますね。
◆人生学校に卒業無し
3月は卒業シーズンです。2年、3年、4年と様々ですが、各分野の学びを修えて、次のステップに向かう一つの区切りの時です。しかし、人生学校には卒業はないのです。いや年齢が進むとともに、学ぶ学科も深まって行くのです。知的言語、感覚言語、内臓言語と学んでいきます。しかし最も深い言語は、神のことば「聖書」なのです。ある精神科のキリスト者医師が思い悩んで寝付けない時、聖書を読み「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたをささえられる」(詩編55:23)とあった。医師は、“神様私にはこれ以上は無理です。あとはあなたにお委ねします”と祈った。すると、何とも言い知れない安ど感が心を満たし、ぐっすり安眠できたと告白していました。人の悩みを聞く精神科医師でも聞く事の出来る言葉があるのです。人生で学ぶべきもっとも深いことば、「聖書」の声をお聞きください。
2025・2月号
「キリストの香り」
◆匂いの力
この頃は災害が多く、ボランテイア救援活動には頭が下がります。被災地に江戸前職人がボランテイアに出かけ、ウナギのかば焼きを出し、あっと言う間に予約が埋まった。そこへ遅れて高齢者が来た。予約終了の詫びを告げると、“なに構わない、匂いを嗅いで飯を食う”と言う。テントの店からいい匂いが立ち込めた。しばらくすると高齢者の目が活き活きとしてきて、“よし、もうひと踏ん張り頑張るべ、ありがとうよ”、と去って言ったと言う(文春‘24・9号)。匂いの力。
◆梅の香の力
もう少し、高級な話?わたしが若い頃、大阪の梅花学園と言うミッションスクールで、礼拝のお話しを頼まれた。その時、お世話になったチャプレンの先生から、梅花学園の由来をお聞きした。何でも学園開設当初、周りが梅林でそこに通学路を作った。すると初春になると、梅の香が漂い、通学の生徒や先生の服装に沁みついたとの事。バイブルに「あなたがたはキリストの香りである」と記されている。まったくキリスト教に縁もゆかりもない生徒も、数年ミッション・スクールに通ううちに、いつの間にかキリストの教えと人格教育に感化されて、とげとげしい社会にかぐわしい梅の香のような、キリストの香りを漂わせてほしい、と願っているとの事。何と奥ゆかしい教育か、と感心。
◆キリストの香り
使徒パウロが「キリストの凱旋に伴う。あなたがたはキリストの香りである。キリストはある者には死から死に至らせる香りであり、ある者には命から命に至らせる香りである」(コリントⅡ、2:12~17)と述べている。パウロ在世当時、ローマ帝国軍は無敵でした。凱旋行進にはもうもうと香を焚いた。その後を戦利品、敵の捕虜が大勢続き、最後にローマ軍の凱旋将軍と大軍列が続く、こう言う高揚したシーンがバックにあります。立ち込める高価な香りの煙は、捕虜にとっては敗戦の恥のさらし者としての死の香りであり、ローマ軍将軍や兵士にとっては勝利の証し、命の香りであったのです。だが、やがて強大なローマ帝国も滅び、死の香りを嗅ぐこととなった。でも、ローマ帝国の全くの辺境の地ユダヤから始まったイエスの「神の国」の運動は、今もなお生き生きと受け継がれて、梅花学園の様なミッション・スクールや、幼稚園、様々な病院、福祉施設、NGO・・として社会にキリストの香りを漂わせています。「地の国」の香りは“力”です。権力・金力、筋力?パワハラ、セクハラ、アカハラ・・強制力です。しかしイエスの「神の国」の香りは“愛”です。仕えるのです。強者にではなく、弱者に、病める人に、とぼしい人に、罪の咎めに悶々とする人に、死の不安におののく人に。十字架にかかり人の罪を身代わりに負い裁きを受けて赦されたキリストの愛の香り。日本の教会は少数派ではあっても確かに日曜礼拝で、キリストの香りを神にささげています。あなたもこの香りを身に炊き込まれてはいかがでしょうか。
2025・1月号
「夕べがあり、朝がある」
◆初めに神が
明けましておめでとうございます。今年もご愛読願います。
年頭にふさわしく聖書の冒頭、創世記からメッセージを。新年を迎え初詣の方も多いでしょう。年の初めに何を願われますか?無病息災家内安全商売繁盛国家安泰天下泰平、と欲張る願もありますね。特に受験生、就活の方は真剣。願いが叶いますように。しかし現実は中々厳しい、一喜一憂と言いますが、一喜百憂の方が多い。
そこで今年は一味違って、聖書冒頭の言「初めに神が・」(創世記1:1a)、初めに神様に一年を託してはいかが。聖書は「神は愛なり」と告げています。あなたの評価、自己評価、他人の目、はジェットコースターの様にアップ・ダウンして不安定です。しかし神のあなたを見る目は「私の目にあなたは高価で貴い」と言われるのです。運動会で親の目はいつも我が子を追うように、神様はあなたがどんなときにも愛の目で追っておられるのです。ここに一年の安心の根拠をお持ちになる事ですね。
◆地は混沌、闇が面に
神の創造された「地は混沌、闇が面にあった」(1:1b)と言う。昨年はと言うか、21世紀に入って、折角希望をもって新世紀を迎えたのに、世界は疫病と戦争の連続で、一体どうなっているのか、と失望が広がっています。さらに加えて、日本では地震、津波、洪水、地球規模の気候変動の影響か、異常気象に苦しみました。また少子高齢化が進み、若い方々に将来へのあきらめにも似た気分が漂っています。
今年も、先行き全く不透明で見通せません。ぼんやりとした暗闇が待っている様で、またどんなハプニングが待ち受けているか不安感が広がっています。まさに「地は混沌、闇が面」にある社会です。「神は言われた“光あれ”、すると光があった」(1:3)。混沌(カオス)と闇は、自分自身で秩序と、光を生み出す事は出来ないのです。創造者なる神様が「光あれ」と宣言して初めて光と、秩序の世界(コスモス)が生まれるのです。意味のない、暗い人生も、神様が「光あれ」と宣言されて意味ある人生に変えられるのです。イエス様は「私は世の光、私を信じる者は闇の内を歩かず、光の道を歩む」の言われたのです。
◆夕べがあり、朝がある
「夕べがあり、朝がある。第一の日である」(1:5)と創造の第一日を聖書は記す。普通、一日は朝から始まり、夕べに終わる。“朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身”、蓮如上人の白骨の章。希望の朝に始まり、絶望の夕べに終わる。ご焼香を・・。しかし、聖書は逆なのです。混沌と闇の支配の人生に、光なるキリストを迎えると、意味と明るさの人生となる。罪は赦され、死の夕べは復活の朝を迎え、失望は希望に変えられるのです。是非、今年は教会の礼拝に出席されて、「夕べがあり、朝がある」一年をお迎えになりませんか。
2024・12月号
「“言は肉となって”‘24Xmasメッセージ」
◆AIへの質問
ある方が、AIに質問したそうです。地球温暖化の危機を解決するにはどうすればよいか?答えは、人類を絶滅する事だ、との事。とんでもない話ですが、納得する話ではありますね。人間は英知を誇りますが、結局その英知で地球そのものを破滅に追い込んでいるのですから、AIの冷静な判断は正解でしょう。パスカルは、“人間、その栄光と悲惨”と矛盾した姿を見事に表現しました。人間は様々な病を医学で克服し、人生100年時代を迎えるまでになりました。わたしの子どもの頃は、街は空襲で赤茶けた廃墟でしたが、今はタワマンや高層ビルが立ち並び廃墟は跡形もなく活気にあふれています。交通も蒸気機関車は観光用にたまに運行、新幹線さらにリニアをめざし、自動車も自動運転化はもうすぐ、スーパーには世界中の珍しい食品が溢れ・・地球の資源枯渇を予測して、月へ火星へ探査機を送り資源開発をもくろむまでになっています。まさにホモ・サピエンス(賢いヒト)で、その英知の栄光は輝いています。しかし、作家の石川達三の短編“金環蝕“に記された様に、外側は光り輝いているが、真ん中は黒々とした暗黒である。国際社会では気の狂った政治指導者たちのお陰で幾万人もの人が理不尽な戦争で、命を落とし傷ついている。日本にもその影が色濃く迫っている。環境問題、戦争・・世界の切迫した問題を前に日本の政治家の余りの低次元な姿にいや気が射す。高齢化に伴う大量死にうろたえる団塊の世代、希望を失い結婚・育児と言う人間の根本的な営みさえ忌避するZ世代の若者たち、少子高齢化で衰退の道をたどる日本社会。まさに栄光と悲惨の余りの落差にたじろぐ今年でした。
◆言は肉となり
目先の効く若者は海外に脱出、私の知人もこどもを海外で教育し、日本に見切りをつけています。愛国者のわたしは憤るのですが、別に日本と運命を共にする気はなく、幸せを求めて他国に逃げ出すのを止めても無駄です。ところが、先ごろ亡くなった米国人の日本文学研究者ドナルドキーンさんは、東北大震災の後、日本に骨をうずめる覚悟でやってきて多くの励ましを残して、その意志通り日本で最期を迎えられた。日本への愛でしょうね。
“火中の栗を拾う”と言うことわざがあります。火中の栗はいつ爆発するか分からない、遠ざかった方がいい。それをわざわざ拾う愚か者がいる、と言う意味でしょうね。しかしこのことわざは敢えてリスクを取る勇気をたたえているとも言えます。
X‘MASのメッセージ、「言は肉となって」(ヨハネ福音書1:14)とは、永遠の栄光の座におられた神の御子が、このどうしようもない人間世界を愛して肉体をとって生まれられた、と言うのです。神の御子を「言、ロゴス」と表現、神の言の内容とは何か?「神は愛なり」と聖書は告げる。愛は具体化しないと観念的、抽象的です。この暗黒の増す現代人の真っただ中に御子は宿られ、救い、愛、希望の光をギフトされるのです。
2024・11月号
「人の悩みの対処法」
◆ストレスの対処法
最近ある心療内科医の御話を聞きました。テーマは“人の悩みと対処法”でした。医師の言うのに、人間の悩みには2種類ある。ストレスとトラウマです。まず第一の悩みは、ストレスです。人は何らかの圧迫を受けつつ生きています。むしろストレスがあればこそ頑張り、あるいは目標に向かって挑戦できるので、ストレスが全て悪いのではない。むしろ適正な負荷は人間に必須で、ない人間はだらしなくなる。
しかし問題は耐えられないストレスに出くわした時です。そういう時医師は2つの解決法を述べるそうです。1つは、ストレッサー(ストレスの原因)が何かを探り出し、取り除くか軽減する事です。仕事か、人間関係の不和か、体の不調か、自覚すれば対処法も分かります。2つ目は、ストレスから逃れられない時はどうするか?人生には逃げようとしても逃げられない困難が確かにあります。身内の介護、治療の難しい病気・・そういう時、人はアルコールやギャンブルで、ひと時忘れようとするが現実は何も変わらない。中には責任を放り出す人もいますが信用を失います。そこで覚悟を決めて真正面からストレッサーに向かう事。そしてストレスに自分自身が耐えられる力を養うのだと言う。バイブルにも、「神に従いなさい。悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げさる。」(ヤコブ4:17)とあります。逃げればどこまでも追いかけてくるのです。しかし覚悟を決めて、悪魔に真正面から立ち向かうと、案外悪魔は尾を巻いて逃げ去る。
◆トラウマへの対処法
さて医師がおっしゃる、悩みの第2は“トラウマ”です。傷です。体の傷は治療すれば治ります。しかし、心が痛む傷は、思い出すたびにズキズキと痛むのです。そこで医師は、心のトラウマにも治療を処方します。投薬治療良し、カウンセリングも効くことがあります。最近はやりの認知行動療法もあります。しかし、それさえ効果のない事があるのです。
シェークスピアの「マクベス」に、ダンカン王を暗殺し王冠を奪ったマクベスを唆したマクベス夫人が、眠れなくなり、夜ごと手を洗い、“洗っても洗っても血の汚れは落ちない”、とつぶやく夢遊病者となる。周囲が侍医を呼んで、深夜の王妃の奇行を見せて診察を依頼。すると、侍医は、私ではなく牧師をお呼びください、と助言した物語ですね。医療や、カウンセリングを超えた事態が人間にはあるのです。そこに神様の領域があるのです。
もちろんソムリエは牧師ですので、ここでは守秘義務上お話しできない、数々の罪の告白をお聞きしました。だれがその罪を赦すことができるのか?、ただ御一人、罪なき神の御子イエス・キリストが十字架に掛かられ、人の罪をわが身に追われ、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られた。ここにだけこころの最も深いトラウマが、赦され癒されるところがあるのです。
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者は幸いである。」詩編32:1
2024・10月号
「源氏物語・死の棘 」
◆光る君へ
“いづれの御時にか‥”紫式部の「源氏物語」、“春はあけぼの・・秋は夕暮れ‥”清少納言「枕草子」、世界に誇る中世王朝文学とエッセイの有名な書き出しの言葉です。日曜夜の大河ドラマ“光る君へ“が楽しみです。番組では式部と少納言が仲良しだけど、互いに悪口言いあってたのでは?ちょっと現代語調過ぎはしない!とかあっても、平安貴族の就活運動、権力闘争、色好みの私生活、天皇中心の宮廷のまつり事、悲惨な庶民を無視する公家たち、・・普通の時代物ではお目にかかれない時代考証に興味津々です。
半世紀も前の高校時代、受験校で教師は広島大出が占め、古文も受験向きに文法、文法で古典世界の味が分からない。ある時、古文新任教師が赴任、神宮皇學館出身、ジングウコウガクカン、何それ?だが授業は、文法はもちろんですが、古典文学世界を情感豊かに解き明かされ、感動。遂にクラス有志が教師にお願いし、2年の夏休み2週間の夏季講座をもって頂き至福の時。内容はさっぱり覚えていないが、敗戦で日本文化に劣等感を持っていたソムリエに日本文化への誇りを抱かせてもらった。今も、カンカン帽を教卓に置き、白いシャツをまくり上げ汗を拭き〃講義下さった恩師に感謝をささげます。
◆「源氏物語」vs「死の棘」
さて「源氏物語」の心となると、本居宣長の“もののあはれ”説、梅原猛の“怨霊鎮め”説、高橋源一郎の“千一夜物語”説、古典文学一般の“因果応報”説、内村鑑三の“後世への害悪”説・・無数。ここで最近読んだ、キリスト者作家、島尾敏雄の「死の棘」との対比をした評論家山本健吉の説を紹介します。日本文学の男女の愛には“もろ(諸)向き心”(次々相手を変える)、と“ひた(直)向き心”(一人への愛を全う)があり、“もろ向き心”の源流は光源氏にあると言う。確かに天皇の后と密通以来、あらゆる形の愛の相手をとっ替えひっ替え。だが本当に幸せだったのか?確かに天皇の皇子に生まれながら臣下に落とされ、激しい戦いの末皇位に次ぐ高位に返り咲き、まさに光り輝くサクセスストーリー。しかし真に愛は全うしたのか?比して現代私小説「死の棘」は、全く別の世界が描かれている。“ひた向き心”の世界です。思いやり深かった妻が、夫の不倫のため、突然神経に異常をきたす。結婚関係は根底から崩される。それはバイブルの「死の棘」コリントⅠ、15:56です。「死の棘は罪である」とバイブルは言う。人格の死をもたらす、人格関係の死をもたらす棘、それは裏切り、背信の罪なのです。作者は遂に妻を鍵のある精神病院に入れ解放感を持つ「からだがふくらんで羽ばたくような自由」を。しかし逃亡防止用の格子の窓越に「寂しさをおさえてすがるような眼差しを送ってよこした妻の姿」それは「この世で頼り切った私にそむかれた果ての寂寥の奈落に落ち込んだ妻の面影が眼底に焼き付けられたまま」。山本は、ここに「ひた向き心」を求める永遠に女性的、いや男性も含め、人間全てに言えるのではないか。「源氏物語」にない、光源氏とは異なる、「永遠に人格的な愛」を日本文学は発見したと言う。
2024・9月号
「地方創生の現場から 」
◆地方創生デザイン
何気なくラジオを聴いている時、地方創生デザイナーと言う方の御話。バブルの時代、地方でも景気よく、いわゆる箱物をたくさん地方で作った。有名な建築家の設計による立派な役所の建物、音楽ホール、美術館、体育施設・・。それが失われた30年に人口減少、コロナ禍まで加わって、利用者が激減。やっとコロナ禍が明け、高級な施設が閑古鳥で、維持費ばかりかかり地方のお荷物化ではもったいない。そこで担当者が色々企画して、中央から一流アーチストを呼んで、コンサート、美術展、スポーツ競技大会、地方に居ながら中央の一流の文化が楽しめる。これを地方文化の“エンタメ化”と言うそうです。それはそれでよかったのですが、一度レベルの高いものを観たり、聞いたりすると、レベル以下では目も耳も舌も肥えて、満足しなくなった。そうそう超一流や海外アーチスト招聘となると、料金が高くついて、手が届かなくなる。でやがてマンネリ化、飽きられてしまった。
◆一流ホールでの高校文化祭の波紋
地方の高級箱物が宝の持ち腐れ状態になったそうです。そこでこの地方創生デザイナー氏が用意したアイデアの紹介でした。それは、某市の高校の文化祭を、一流ホールで開催したいと言う申し出でした。ホール担当者は、そんな素人に貸したくなかった、貸し出しの審査会があって、断る予定でした。しかしこれを耳にしたデザイナー氏は直観的にこれだ、と思いつき強力にこの企画を推した。しぶしぶ審査会は承認。高校生の文化祭実行委員会は、今までの学校の泥臭い企画では、一流ホールには似つかわしくないと、大張り切りで企画。音楽ホールでは猛練習したブラバン演奏、展覧会場では書道部が腕を振るい、玄関ホールでは和太鼓連打で歓迎。大盛況で、家族、友人はもとより、他校からも観客が大勢押し寄せた。そして市内高校生連合の文化祭開催にまで発展。さらには地元の大学生も企画を考え始めるまでにもなった、と言う。
◆体験価値、創造価値、態度価値
V.フランクルの価値論でいうと、価値には①体験価値=芸術作品やグルメを味わい、体験する価値、②創造価値=絵を描いたり、手料理を造ったり、自分自身で何かを作り出す価値、③態度価値=運命を肯定的に受け容れる価値、があると言う。まさに、現代の地方創生は、体験価値から創造価値に深化したようで、とても考えさせられました。じっと受け身ではだめ、下手でも自分たちで汗水流して取り組む、そこに人間は喜びを感じるのだと思う。しかし、フランクルは、体験も創造もできなくなった無力な自分が、無力感、虚無感、自暴自棄にならず、自分をそのまま受け容入れる態度価値を最高とする。敵対者に殺され、弟子たちに裏切られ十字架にかかったイエスが、敵を呪わず、弟子たちを恨まず、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです。」ルカ23:34と祈られた、壮絶にして崇高な愛の態度に、心打たれずにはおれません。
2024・8月号
「アリギリス的生き方」
◆心機一転・パリオリンピック
コロナ禍が始まって5年目ですかね、私と同年代の高齢者は戦々恐々でしたね。若い人は軽症でも、年寄りはアウト、葬式もままならない状況がこんなに長く続くとは思いもしませんでした。かてて加えて途中に、ウクライナやパレスチナの戦争が勃発、今も終息せず、社会の弱者を追い詰める強者の横暴に腹の虫が収まらない。とにかくウットオシイ日々が続きました。やっとパリではオリンピックが開催され、東京オリンピックはコロナが猛威を振るい、開催強硬か、中止で大揺れ、その上オリンピック利権がらみの見たくもないスキャンダルで、イメージダウンも甚だしかった。心機一転パリではセーヌの川下り開会式の趣向でヨーロッパも憂さを晴らしたい気持ちは分かります。私も昔、新凱旋門近くのホテルを根城にあちこちパリ名所めぐりをしたお上りさん、の楽しい記憶を思い出してTV観戦です。
◆開放感の満喫
わが国では円安でインバウンドが好況、観光地はもちろん、地方にもローカル色を求めた外国人リピーターが進出し、オーバーツーリズムの心配をするほど、結構な事です。しかし、日本人は逆に割を食って、円安で海外は手が出ない、せめて国内で熱中症を避けて、涼を求めて夏休みは大移動でしょうね。この際、日本列島は南北2、000km、結構景色も変化に富み、しかも安心・安全で大いに見直すいい機会かもしれません。海へ山へ繰り出し、開放感にからだもこころも伸び伸びするときでしょうね。
◆アリギリス的生き方
と同時に目配りを忘れてはいけない事があります。それはこういうことです。イソップ寓話にアリとキリギリスの話があります。夏の間、キリギリスは音楽を奏で続け開放感にしたりきって人生を楽しんでいた。片やアリは真っ黒になりながらせっせと働いて食料を集め、巣に運び込んでいた。キリギリスはアリを馬鹿にして、年がら年中お前は働いて、何が面白いのか、人生は短い、楽しまないでどうする?!キリギリスのからかいを横目にアリは黙々と働いた。やがて季節は巡り、夏は終わり秋も過ぎ、冷たい風が吹く冬となった。遊び惚けたキリギリスは蓄えもなく、あちこち体も痛み始め惨めな姿に落ちぶれ、他方アリは夏の間に蓄えた食料とマイホームの温かい部屋で冬の寒さも快適だった。嫌味な道徳訓ではありますが、半面真理を含みますね。バイブルにも「この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが4つある。」・・としてその筆頭に「ありは力のない種類だが、その食料を夏のうちに備える。」箴言30:25と記しています。
真実は両面にありますね。キリギリスは浪費家の愚かさ、しかしアリも過ぎればワーカーホリックになる。バランスよくアリギリスが理想的かもしれません。夏の開放感を精一杯楽しみ、日曜日は聖書集会で神の知恵の宝庫であるバイブルに耳を傾けましょう。
2024・7月号
「中島みゆきの”糸“に思う 」
◆中島みゆきの“糸”
ラジオから中島みゆきの“糸”が流れてきた。“なぜめぐり逢うのかを/私たちはなにも知らない/いつめぐり逢うのかを/私たちはいつも知らない/どこにいたの/生きてたの/遠い空の下/ふたりの物語/縦の糸はあなた/横の糸は私/織りなす布は/いつか誰かを/暖めうるかもしれない。
中島みゆきの縦糸は“あなた”で横糸は“わたし”です。全く無関係で生きてきた男女が、それこそ運命の糸に結ばれて、織りなす人生模様を唄ったものでしょう。それがいつか誰かを暖める布になればいい、以前聴いたほのぼのとしたいい歌です。それはそれでいいのですが、何か物足りないのです。
◆日記文学
かつてフランス文学者の河盛好蔵が、フランスと日本の「日記文学」を比較していました。日本の日記文学は、私生活の心情の機微や移ろう自然が確かな目で日々描かれている。フランスのそれは、日本とは違った観点からの同様な日々がものされているが、決定的な違いは、神の視線の有無だと言う。フランス文学の日記の中には、神の視線の前で自分の罪が告白され、また罪の赦しへの賛美がある。しかし、日本の日記文学にはほとんどそれがない、という。日本文学は水平的人間や自然の微に入り細を穿つ観察、表現はあるが、フランス文学の垂直次元の神の視線が届かない、そこに人間観や自然観の平板さがあると文学の専門家はおっしゃる。日本人には横糸がしっかりあっても、縦糸がか細いのか。
◆デジタル赤字
最近ショックを受けたことがあります。日本の国際収支の発表を見た時です。円安で石油や食料輸入費が高騰しているのは予測していました。しかし、デジタル関係の経費が5兆円を超えて膨大な金を海外に、主にアメリカとドイツのIT関連企業に支払っている事です。デジタル赤字、と言うそうです。日本産業の将来をDX(デジタル・トランスフォーメーション)に定めたのはいいが、DXを進めると米独のIT企業にソフト使用料を巨額支払わなければならなくなっていた。DXは明らかにユダヤ・キリスト教文明の産物だと専門家は言う。失われた30年何をしたか、結局日本は過去の成功神話に奢り、狭い国内を見て自己満足し、自己改革を怠ってきた。横糸・水平次元の安定・安心・安全に安住してきた付けを支払わされている。今こそ彼らの文化の根底になる縦糸・垂直次元を取り入れて、深く高く根本的な出直しを図る以外に道はない。そして横糸の確かな日本に、しっかりした縦糸が編みこまれると、きっと素晴らしい織物ができ、やがて世界の誰かを暖める時が来るでしょう。そのためには世界の古典中の古典“バイブル”を読む必要があります。是非教会で毎週バイブルの解き明かしがあります。お越しください。
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩編119:105
2024・6月号
「ベルリンの水道水 」
◆水の季節
雨の季節です。うっとおしいですが、アジサイに雨滴が濡れて輝くいい季節でもあります。ところで日本は水が豊かで、当たり前に思いますが、世界では21世紀は水不足で、水争いの戦争もあり得るそうで、ありがたい。また水質も良好、レストランではオーダー前においしい水がタダで出されます。海外では、ミネラルウオーターを注文し、代価を取られます。これもありがたい。
他方困った水もあります。福島原発事故以来溜まった核汚染水が膨大になり、海に放出やむなし。東電と政府は処理水と称して時々放流しています。中国・ロシアは汚染水垂れ流しと非難し、日本産水産物を買わない。私は日本人として、東電と政府を信用して魚は好物で、食します。しかし、水俣病で、人知れず海に垂れ流した水銀が食物連鎖の果てに、魚の体内に凝縮され、それを人間が食べ、あの悲惨な状況をもたらした。30年も処理水を放流すれば、同様な事が発生しないとは誰が保障しますか。福島の魚業者の不安、中国・ロシアの政治的思惑がらみの非難は一理あると、正直なところ思います。何とか早急に、世界の科学者の英知を集め、海洋放流以外の処理法を考えるべきだと思いますね。
◆ベルリンの水道水
かつて三笠宮の聖書研究の指導に当たった、キリスト教会の世界的神学者で名説教家であった渡辺善太牧師の“ベルリンの水道水”と言う説教があります。渡辺師が若かりし頃、ベルリンに留学。その時、水道局を見学。最後に局員が、汚れた水を世界最高の濾過施設によって、これこの通り綺麗になった、とコップに並々最終処理の水を注ぎ、皆さんどうぞお飲みください、と勧めた。見学者は躊躇、すると局員はおいしそうにぐいぐい飲んで、コップを逆さにして、うまいですよ。見学者の多くが後に続いたが、渡辺師は結局遠慮した、と言う。確かに、当時の世界最先端科学を誇るドイツのベルリン水道局の汚水濾過施設は、科学的には汚染水を真水に化した。だが万一と言う事もあり得る。だが人間の心の汚染水、憎しみ、恨み、嫉妬心、貪欲、邪心は、芸術・スポーツ・マインドフルネス・学問・宗教・・様々な濾過法でも中々どうなるもんではない。ただ一つ、神の御子が十字架に掛かり心の汚染水・罪を引き受けられ、その流された血潮によってのみ、洗い清められる。血は水よりも濃いからです。その証拠に、イエスを信じる心の中からわき出る水がある。愛・喜び・平和・感謝・希望。渡辺師はこれは遠慮なく飲んだ、信じた。そしてその命の水の味わいを人にも勧められたのです。あなたもいかがでしょうか。
「私が与える水を飲む者は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」ヨハネ福音書4章14節
2024・5月号
「目に見えない力、風・聖霊 」
◆哲学のノーベル賞
哲学のノーベル賞と言われるバーグルエン哲学・文学賞を、日本の思想家、柄谷行人氏が受賞しました。柄谷さんは尼崎市出身、甲陽学院高から東大へ進んで経済学・英文学を学び、今や世界的な大思想家です。その総仕上げとも言うべき「力と交換様式」で、世界は限界に達し、努力すればするほどおかしく成る。だから「霊的な力」が人類を訪れる以外に希望はない。そして希望は単なる願望ではなく、「未完のものが完成に還帰する」事だ。だから必ず「霊的な力」はやってくる。その時を希望を以て待て!と結んでいる。83才の預言的遺言でしょうね。理性に信頼を置く哲学者、それも現代最高の知性が、「霊的な力」を待て、と言うのですから、日本のインテリは困惑状態です。でも柄谷氏は本気です。
◆見えない力、風・聖霊
聖書で、夜イエス様を訪問したユダヤの指導者ニコデモ(名門、宗教家、政治家、高齢)が、懸命に勤めた昼間の現実に限界を覚え、夜イエス様の門を叩いた。するとイエス様は「人は新しく生まれなければ、神の国に入れない」と、訳の分からない事を説かれた。努力の積み上げに生きてきたニコデモは、そりゃ何かエイヤと唱えたら全てがリセットされ理想社会になれば結構だが、そんな話は眉唾だ。地道に現実から取り組まなければ何事も変わらない、と思ったのでしょうね。するとイエス様は風は思いのままに吹く、風は目に見えないが息吹くと木でも倒す力がある。その様に聖霊も目には見えないが、確かに存在し、息吹くと行き詰った人生も、社会も新しく生まれ変わらす力があるのだ、と言われた。
今や柄谷氏のような世界的思想家でも、世界や人生に努力だけではどうにもならない限界に気づいているのです。問題は新生させる力です。柄谷氏は「力と交換様式」と力を強調する。かのマルクスも、哲学者は世界を色々解釈した。しかし必要なのは世界を変える事である、と言いました。人生や社会を変えるのは、解釈ではなく力です。イエス様は十字架に人の罪を身代わりに負い、死んで3日後復活し、今も聖霊として人と社会を訪れ、新生させてくださるのです。P.ヴァレリーも“風立ちぬ、いざ生き目めやも”と詠った。
五月の空を泳ぐ鯉のぼりも、風がなければだらしなく垂れ下がるだけ、しかし風が息吹けば悠々と大空に泳ぐ、ではないですか。
5月19日は教会の聖霊降臨記念日です。あなたも聖霊を受けて新生の体験をなさいますように。
「あなたがたは新たに生まれなければならない。…風は思いのままに吹く。…霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
ヨハネ福音書3章7、8節
2024・4月号
「今こそ、恵みの時」
◆春の意味
春爛漫で、わたしの住む町の桜並木も川の岸辺の桜も目を楽しませてくれます。春は、“張る”が語源とか、英語のSPRINGも、はずみ、です。木の芽が張りだすように、春になって新入生、新社会人が飛び出してきます。年齢に関係なく何か新しい事を始める時です。
◆モンテソーリ教育の成果
わたしは、20年余り、モンテッソーリ幼児教室の園長を務めたことがあります。4月に新園児を迎えることは大きな喜びでした。イタリアの医師マリア・モンテッソーリから始まったこの教育は、将棋の藤井聡太八冠の幼児期教育で有名です。先日も卒園生に会い、園長のわたしを覚えてる?と尋ねると覚えてない、でも本当に楽しかった、生き方の基本を教えてくれた、と言ってくれ感謝です。今は国立大医学部生で、将来を期待しています。
◆敏感期
モンテ教育で大切にしているのが、“敏感期”です。やる気があろうがなかろうが、全員一斉に同じ授業を受ける従来の教育ではなく、一人〃の“敏感期”に適した教具を用意して自分で学び成長する。ですから教室の一人〃やってることは違います。“敏感期”は人によって違うからです。数に関心がある園児、よく似たものに関心がある子、お母さんのキッチンに興味津々の子・・。園児一人〃の“敏感期”ふさわしい教具が用意されており、取り組み、できた時の達成感は、園児に自信を与えるのです。“敏感期”は何も幼児期だけではないのです。わたしは80才にして“筋トレ”に目覚め1年楽しくて仕方ありません。今まで体育系は全く軽視でしたが、フレイルになり、これはいかんと遅まきながら気づいたのです。年寄りの冷や水と、家人から笑われましたが、これがわたしの“敏感期”なのです。
親鸞聖人は9才で仏道に志し、大人たちがあまりに早すぎると止めた時、“明日あると思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは”。きれいな桜が咲いた。でも今日は止めて明日見に行こうと思っていても、夜中に嵐が吹いてみな散ってしまうかも知れない。9才でも明日の命は分からない。すべきことは先延ばししません、と言う事でしょう。あっぱれです。そうです。人生の“敏感期”、何か気づいた事があれば、まだ早すぎる、いやもう遅すぎると言う事はないのです。“思い立ったが吉日”、というではありませんか。
聖書に「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントⅡ、6:2)と記されています。知人の女性実業家は19才の時、鬱とおしい日々でしたが、4月1日、今日何か新しい事があれば素直に始めようと決心、駅で教会の案内を渡され生まれて初めて教会を訪れ、やがて信徒となり、数十年誠に充実した人生が始まったのです。あの時のチャンスをとらえてよかったとしみじみおっしゃっています。あなたの時かも知れません。
2024・3月号
「命・復活 」
◆イースター・エッグ
キリスト教の暦では、クリスマスは12月25日で決まっていますが、もう一つのイースター(復活節)は毎年動きます。春分の日の次の満月の次の日曜日の決まりで、今年は3月31日、例年より早いですね。しかし、寒い冬から温かい春にふさわしいお祭りです。カラフルなイースター・エッグで表現される様に、死の冬から命の春の喜びへ!ですから。
◆命とは何か?
昨年末私は「138億年のメタ・ヒストリー」と言う本を出版しました。そこで分かったことは、科学的に生命とは何か?と言うことです。138億年前に誕生した物質としての宇宙はエントロピーの法則に従い、万物は秩序が崩壊し、必ず死滅する。諸行無常とはさすが仏教の教えは深い。しかし、40億年前に生命が地球上に誕生した。生命は負のエントロピーを環境から摂取して(食事)、体内で化学反応を起こし(消化)、自己保存と自己増殖を図り、体内に溜まったエントロピー(老廃物=死)を環境に(排泄)する存在です。個体としての生物は死んでも、種として生物は生き続けます。ノーベル物理学賞のシュレジンガーの発見です。生命は物質に勝った。だが宇宙の大法則から結局免れることはできず、宇宙の終末の時は結局生命も死滅する。これが科学の厳粛に告げる生命観です。
◆死に急ぐ人間
課題は、できる限り生物の死の時を遅らせる事です。何とか遥か数十億年後の宇宙終末まで生命を維持したい。40億年かけて生命は、地球上のあらゆる環境変化に対応できるように、数百万~1千万種という多様な生物を地球上に生み出した。しかし人間だけが、産業革命以来、やたらとエントロピーを増大させ、今は人間活動が排出す老廃物は、自然の自浄能力を超えて、荒廃させて地球は危篤状態です。宇宙の終末どころか、生命存続の危機を人間は作り出してしまった。その上、各地で核戦争をちらつかせる始末。何とか、この死に至る路線にストップをかけ、命の路線に切り替えないといけません。
◆新しい人への復活
大江健三郎の遺作「新しい人へ」で、自分ら古い人間は失敗した。これからは新しい人が生まれる以外にない。互いにいがみ合い、人からも自然からも搾取するエゴイスト、自己中の生き方を辞め、互いに和解して平和をもたらす新しい人になってください、と聖書を引用して遺言しています。そうです、イエス・キリストが人類のどうしようもない罪を十字架に担い、神の裁きを身代わりに受け死んだ。そして三日後に墓から復活。神と人が和解し、また人と人が互いに和解する命の道を開かれた。ここに希望があるのです。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネ11:25
2024・2月号
「力は弱さに現わされる 」
◆震災・寒中お見舞い申し上げます。
2月は一番寒いときです。体がちじこまります。これに耐える力が必要ですね。能登半島地震被災地の方々に、格別その力が与えられるよう祈るのみです。力と言えば、かつて思想家マルクスが、“今まで哲学者は世界を色々解釈してきた。しかし必要なのは世界を変えることである。”と言ったとか。解釈しても世界は変わらない、現実を変えるには力が必要です。被災地支援の権力、経済力、知力、筋力、能力、人間力・・人はこれを求めます。
◆パワー
大きくは、世界も力関係です。今はやりの地政学でも、ランドパワー(大陸国家:中国、ロシア、ヨーロッパ)、シーパワー(海洋国家:英米、日本)、さらにスペースパワー(宇宙開発力)まで、国際政治の力学はこれらの力が入り乱れて死闘を繰り返しています。その力は、経済力、軍事力、文化力に現わされます。日本はかつて古代の白村江の戦い、中世の秀吉の朝鮮出兵、近代の中国大陸侵略、と大陸に進出してことごとく失敗。未だに恨まれている。大陸は鬼門です。日本は海洋国家で、故安倍首相の遺産、インド太平洋の平和構築に貢献する事こそ、活路があろうというものです。
◆弱点をどうする?
しかし、これらの力の信奉者は、肝心なことに目が向いていません。今の日本の様に力が弱体化した時どうするか?です。諦めるか、捲土重来を期して耐えるか。中国の様な新しい力の登場を妬み、羨み、足を引っ張るか。そして必ずその時は来るのです。ですから賢い人は、弱った時のこころえを持つべきです。柔道の稽古のはじめは、受け身の業、倒された時の対処を心得ることだそうです。人を倒す事ばかり知って、倒された時にどうするかを知らないのは愚かと言うものでしょう。
バイブルで使徒パウロはスーパーマンのような力ある人物でしたが、その彼にも泣き所があり、神に真剣に強くされるよう求めた。その時神はおっしゃった、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。」コリントⅡ、12:8
パウロは告白する、「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」〃12:1と。キリスト教と言えば、十字架がシンボルです。ノーベル賞でも、資産額でも、ステイタスでもないのです。十字架に殺された人物を救い主と信じるなど、常識外れもいいところです。しかし、恥辱と弱さの極みのキリストこそ、弱さにある人に寄り添う慰めであり、救いなのです。そしてキリストは死に打ち勝ち復活し、今も弱さを嘆く者と共に居て下さるのです。そして弱点がかえって益とさえされるのです。
「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、救われる者には神の力です。」
コリントの信徒への手紙Ⅰ、1:18
2024・1月号
「河は流れ、満ちる 」
◆新年おめでとうございます。
お正月の歌番組で“ああ~川の流れの様に”と、美空ひばりさんが、情感を込めて唄うのが好きでした。八百屋の娘がステージ・ママによって、幼くして華々しく一躍デビュー、その母親との葛藤、結婚と離婚、熱烈なフアンに硫酸を顔にかけられ、芸能界と暴力団との関係に巻き込まれTV局から干され、病気との戦い・・。彼女の、悪戦苦闘の人生を、全てのみ込んで、大河の様に彼女の人生は流れてきた。その裏も表もすべてを肯定して、しみじみ歌い上げる“川の流れの様に”は、共感と胸を打つ何かがあります。
◆大河の様な人生100年時代の歌
この曲の作詞家秋元康は、NY在住の時イースト・リバーを眺めやりながら作ったとの事。日本の川は山から直ぐ近くの海に流れ込む、早瀬が多く、この曲の様なゆったりとした流れではないですね。短編小説の様にあっという間に時が過ぎます。しかし、世界の大河は、イースト・リバーが大河とは思いませんが、私もエジプトのナイル、ドイツのライン、フランスのセーヌ、中国の長江、タイのチャオプラヤ川を眺め、それぞれたいしたものです。われわれも人生100年時代になり、気短な早瀬から、大河小説・ドラマの様な悠然とした生き方に切り替えないといけないと思います。
この曲の川の流れは、時の流れを表しています。鴨長明も「方丈記」で“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・世の中にある人と栖と、又かくのごとし”と表現。長明の典拠である漢籍、「論語」で孔子が独白、“子在川上曰、「逝者如斯夫。不舎昼夜」”(一刻も休まず流れる川の水を観て、孔子が時の過ぎゆくのを嘆いた)。ギリシャの哲学者 ヘラクレイトスも“万物は流れゆく、パンタ・レイ”と述べたと言う。それぞれ人生が河の流れの様に過ぎゆき、再び戻ることがない、だから今を大切にせよと、説いています。
◆流れる、満ちる
しかし、浮草の様に流れに身を任せ、悠然と生きておればそれでいいのか、その行き着く先は、広大な命の海なのか、はたまた恐ろしい滝つぼなのか分かったものではない。生きた魚は流れに逆らって上流に向かって泳ぐのです。死んだ魚は流されて下流に向かうのです。同様に時には、流れに逆らっても命を守らねばならない事はある。それが生きている証なのですから。世の中の流れにどっぷり浸かって流され、どこへ行きますか?時には流れに抗って、生きる証を立てたいものです。
聖書には「時は満ちる」とあります。そうです、時はさらさら流れるだけではないのです。ダムに堰き止められた水はやがて満〃と湛えられ、勢いよく放流の時が来るのです。これを神の時と言います。今年あなたに神の時が満ち、新しい人生が始まるのです。教会は神の時を告げ知らせる観潮所なのです。満ち具合を確かめにお越しください。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」マルコ1:15
2023・12月号
「光は闇の中に輝く」
◆暗闇に住む民
今年もいよいよと言うか、やっとと言うか年末を迎えました。とにかくいつまで続くのか出口の見えない、その上目にも見えないコロナ禍との戦いで、人も社会も疲れました。特に私の様な高齢者はコロナ即死と恐怖でした。また世界の大国ロシアが恐ろしい侵略戦争を始め、いまだに収束がつかない。兵士はもちろん一般市民さえたくさんの方〃が死に、傷つき、文明の破壊は世界中の人間にショックを与え、さらにパレステイナ問題まで再燃、無力感を覚えさせています。何年前でしょうか、京都にアメリカの日系歴史家F.福山教授が来て講演を聞きに行ったことがあります。彼は「歴史の終わり」と言う本を出し、ベストセラーになりました。世界は第二次大戦で民主主義が全体主義に勝ち、戦後の東西冷戦で民主主義は共産主義に勝った。世界の歴史の戦いは民主主義の勝利に終わった。歴史は終わった。後は平和が続くと予想して、みなホットしたものです。ところがその平和は、夢幻の様に消え、いや今も21世紀になってロシアの様な文明国が他国に侵略するなんて、トルストイ、ドストエフスキーの精神性の深い文学、チヤィコフスキー、ストラビンスキーの素晴らしい音楽を生み出したロシアはどこへ行ったのか、信じられない思いです。さらに同様なことが日本の近く台湾で勃発するのではないかと不安で防衛に走ります。何と言う事か。でもこれが現実です。暗闇が世界と個人を覆っているここ数年です。
◆光はどこに
旧約の預言者イザヤは「暗黒に住む民に光が昇った。死の陰の地に住む人に光が輝いた。」と彼の時代、中東の小国ユダが当時の超大国バビロニアに脅かされる暗い気持ちの中に、光が昇ると、希望を預言。それは「一人のみどりごが生また」と言う、彼こそ「驚くべき指導者、力ある神。永遠の父、平和の君」だと預言。聖書学者は、当時の王家に新たに生まれた王子を指す、と言う。しかしその後の歴史は、この予想むなしくユダの国はバビロニアに侵略され、王家はじめエリートたちが捕囚となって連れていかれた。世にいう“バビロニア捕囚”である(BC721)。この人こそ世を救ってくれるのではないか。一筋の光を求めた人間の期待は裏切られ、暗黒は以前に増して増す。歴史はこの繰り返し。ではこの預言は空しかったのか?そうではない、預言者自身さえ知らなかった、メシヤ(救世主)が今から2千年前、ユダヤの国にお生まれになった。世の光として来られたイエス・キリストです。「光は闇の中に輝いている。そして闇は光に勝たなかった。」(ヨハネ1:5)、イエス様が十字架に命を懸けて愛された世界です。どんなに暗闇は深くとも、必ず光を投じ生きる道を備えられます。全世界で祝われるクリスマスは光の祭りです。あなたの暗いこころに必ず光を点じられます。ぜひ、クリスマスに光を求めて教会へ!
2023・11月号
「 天国の鍵 」
◆鍵のトラブル
若いころ、海外旅行で困ったことの一つが、ホテルの部屋の鍵でした。生来不器用な私は、フロントから預かったルームキーをうまく使えない。ある時も何だか海賊映画にでも出てくるような、バカでかいキーをもらって、いざ自分の部屋を探し鍵穴に差し込むが、何度がちゃがちゃやっても開かない。案の定フロントが駆けつけてきた。どうも怪しい人物が部屋を物色中とかなんとか通報したようだ。険しい顔の係に、身振り手振りで事情を話し、こんな難しいキーは困る、とクレーム。すると係は鍵を渡せと言う。彼が鍵穴に差し込むと一発で開錠。面目丸つぶれ。
前任教会の牧師時代に、大家さんの信徒に頼まれ、独り者の彼が出張中管理のマンションの鍵を預かってほしいと頼まれ、ものすごく大きなキー・ホルダを預かったことがあります。住民の部屋はもちろん管理人室、会議室、水栓、電気室・・実に様々なキーがあり、いやマンション管理も大変だなと思った次第です。
◆天国の門を開く鍵
しかし時代は進んで、今はデジタル時代で、鍵よりカード、さらに指紋認証、虹彩認証、顔認証と大きく変化しています。昔は顔パスと言うのがありました。守衛さんの許可証チェックも顔なじみだとスルーできたのです。デジタルは顔なじみと言うわけにはいかないので、指紋、虹彩、顔の登録が必要です。特に、大切なものほど厳しいセキュリテイが施されているからです。知人が世界的な企業の社長秘書になり、本社の社長室にたどりつくまでに10数か所のセキュリテイをパスしなければならないので大変だと言っていました。
さて、イエス様が弟子のペテロに、あなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上で解く鍵は、天国でも解かれ、地上でロックするなら天国もロックされる、とおっしゃった。カソリック教会は、ペテロを初代教皇と仰ぎ、カソリックは天国の鍵を持つと主張。ですから教皇の紋章は2つの鍵のクロスです。一つは天国の門を開く鍵、もう一つは人間のこころを開く鍵との事。
最近は、仏教のでもお坊さんでも死ねば天国に行くと説法なさる。浄土じゃないのか?と不思議です。またごく普通に死ねば天国とおっしゃる。もちろん死ねば地獄ですよ、とは中々言いずらい。しかし本当なのか、そんなにやすやすと天国の門は開いているのか。「人は一度死ぬことと、死んだ後審かれることは定まっている。」とバイブルに明記されている。和風の座敷に土足で上がれないように、まして聖なる天国に罪びとがそのまま顔パスで入れるとは虫が良すぎる。最近は宗教多元主義が流行で、何を信じても、さらには信じなくても死ねば天国と、天国の安売りをする偽宗教家が多い。皆様だまされてはいけません。本当に天国の門を開けてもらえる鍵である“福音”を教会で頂いてください。
「わたし(イエス様)は、あなたに天国のかぎを授けよう。」マタイ16:19
2023・10月号
「愛の見える化 」
◆癒しのお祈り
先日、知り合いのキリスト者から電話があった。体に異常を覚え検査したところ要注意で今結果待ち。不安で仕方がない。自分の通う教会では病気の癒しなどは説かない、祈らない。しかし先生の教会では、病人のため癒しを祈られる。ぜひ私のため祈ってほしいとの事でした。お祈りしたところ、後日良い結果で感謝のご連絡があり、ほっとしました。
◆イエス様の愛の教え
多くの教会では、病人のため癒しを祈りますが、病気から何か人生を反省する意味をくみ取れるように、あるいは病気に耐えられるように祈るのではないでしょうか。病気そのものが癒されるように祈ることは稀です。特に大学の神学部では、聖書でイエス様が、眼病や、耳の不自由な人を癒し、今ならこころの病と言われる悪霊付きから悪霊を追い出し、果ては死人をよみがえらせた、などと言うバイブルの記事は非科学的であり、信用できない。イエス様は精神性の高い教えを与えられたのであり、病気の癒しもそこに秘められた実存的意味を読み取るべきだと教える。イエス様をブッダ、ソクラテス、孔子と並ぶその後の世界の思想に深く大きな影響を及ぼした,人類の教師と考えていますね。実存哲学者K.ヤスパースがBC5世紀~紀元頃を人類史の「枢軸時代」と呼んで、精神革命が起こった。イエス様は「人は言う、目には目を、歯に歯を!しかし私は言う、敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と、今も人類の課題、戦争に極まる人間の争いの克服を迫られたというのです。全くその通リですね。
◆愛の見える化
しかし、出家のブッダ、思想家の孔子、哲学者ソクラテスと違って、民衆の中に生きられたイエス様は、まさに貧・病・争の現実に苦しみあえぐ人々に応えられたのです。美しい愛の思想だけでなく、それを具体化、見える化された。病に苦しむ人を癒し、孤独な人の傍らに寄り添い、夜通し漁をして不漁の漁師に大漁を備え、彼の愛は具体的でした。最期には十字架にかかり、全ての人生苦の源である罪をその身に引きうけ死なれた。しかし3日後死に打ち勝ち復活し今も生きておられる。医学も、政治も、教育の力もとても大切な事です。しかしそれらの手の届かない、人生の様々な現実の悩みに救いを祈るのです。勿論癒すか否かは神様の御心次第であることは言うまでもありません。
駆け出しの牧師の頃、あかちゃんの目がガンで摘出手術、狂ったようなお母さんがキリスト者の母親に救いを求め、母親は自分の教会は祈らないから、先生お願いしますとやってこられた事がある。お祈りしたところ、イエス様は癒し、目の摘出を免れ、感謝された。あれから数十年、先日その赤ちゃんの叔父にあたる牧師にあった。あの子はどうしていますか?と尋ねると。いや先生感謝ですよ。今も元気に活躍していますよ、あの時はありがとうございますとの事。「イエスキリストは、昨日も今日もいつまでも変わることがない」
2023・9月号
「 沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい 」
◆不都合な真実
ある時、90名もの「聖地旅行団」の副団長を頼まれ、エジプト、イスラエルを訪ねたことがあります。イエス様が活躍なさったガリラヤ湖湖畔で説教を担当し、岸辺に皆さん座っていただき、聖書のお話をさせ頂いたのですが、なんだか自分がイエス様になったような気分になって興奮したことを思い出します。約2、000前、イエス様が漁師ペテロの船を借りて岸辺を少し離れた船上から話されたからです。話が終わり、恵まれた聴衆が三々五々帰宅した後、イエス様はペテロに向かい、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」(ルカ福音書5章3節)とおっしゃったのです。ペテロは驚いて「夜通し網を降ろしたが、何も取れませんでした」と言い返した。湖を知り尽くしたプロの漁師でも、1匹も魚が釣れないことがある。徒労感、骨折り損のくたびれ儲け、家では家族が漁の儲けを待っているというのに。まさにペテロの現状認識は不都合な真実ですよ。だいたい魚屋は元気がいい、死んだ魚を振りかざしてピクピク動かせ生きがいいように見せて景気つけて売る。マグロの初セリの時にはうなぎ上りのご祝儀相場で数千万の値がつけられる。景気の悪い話はタブーです。でもどこも華やかな舞台裏には、困ったことがあるものですよ。
◆しかし、お言葉ですから
しかし何を思ったか、ペテロは「しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、獲れなくて元々、ひょっとすればラッキーと思ったのか。わたしはそれより、イエス様の迫力にペテロは気圧された、存在感に圧倒されたんだと思います。そして疲れた体にむち打ち、沖へ漕ぎ出し、網を降ろしたところ、何と網は魚の重荷でずっしり張り裂けそう。もう一艘のヘルプを頼み引き上げた、網がはち切れそうになる大漁だった。ペテロはイエス様の前にひれ伏し、「私から離れてください、私は罪深い者です」とわびたという。
人生まじめに懸命に働いても、“働けどはたらけど、働けど猶わが生活楽にならざり、じっと手を見る”啄木の歌の様な実感の方。そこまでいかなくても、若いとき描いていたようには、人生思いどおりにはならんなあ。まずまずこんなかものか。ほどほどで満足しよう。しかし何か不完全燃焼感をお持ちの方。大漁のサクセス・ストーリーの方ばかりではないでしょう。しかし、イエス様はおっしゃる「もう一度、沖へ漕ぎ出し網を降ろして漁をしないか」と。イエス様の言葉は確かですよ。必ずずっしり手ごたえのある収穫をあなたの人生に約束なさいます。60代で亡くなった女性がいました。末期の病で、急遽ボストンでの研究を切り上げ帰国した医師の長男が、世界最先端の手を尽くしてもダメだった。“お母さんに無用の苦痛を与えて治せず、申し訳ない”と目を潤ませてわびた。すると彼女は“わたしの人生は最高だった。なぜならイエス様を知って神様の愛を信じた事。最高の治療を息子から受けた事。これはきっと今後の医療に役立つと思う。神様、感謝です”とおっしゃった。あなたもイエス様のお言葉に賭けてみませんか。
2023・8月号
「渇きをいやす 」
◆加速主義時代
近頃、人間がせっかちになって次々色々なものが現れ、高齢のソムリエには目が回るようです。ATMは利用料が高くなり銀行はネットで通帳はなくなる。何でもカード決済で現金は古臭く感じられる。AI活用とかチャットGPTで、テーマを与えるとPCが文学作品まで書いてくれる。ソムリエもチャットGPTで書こうかしら、と誘惑にかられます。リスキリングしないと、人間の仕事がAIに奪われ、さらには考えることまでお任せでは、人間の仕事は何なんだろう?大変な時代ですね。“加速主義”時代とか。
さらに季節の巡り方も何だか早くなったみたい。桜がいつもより早く咲きだし、あっという間にハラハラと散ってしまう。おかしいなあ、と思っていたら、この暑さ、世界中で発火し森林火災が多発、50°Cを超える地域があるとか。100年に一度の猛暑で、熱中症アラートが出され、各地で救急車出動、多くの市でクール・センターを設け、冷房を効かせ、冷たいドリンクを用意している。地球温暖化も加速し、どうなるんだろう。このままだと、日本列島も亜熱帯化し、今に雀がいなくなり、インコやオウムが空を飛び、アロハかかりゆしでオフイス仕事になるかも。そんなのんきな話じゃないでしょうね。
◆また渇く水VS永遠の命の水
イエス様は真夏の太陽がカッと照り付ける時間帯、旅で渇いたのどを潤すため井戸のそばに来られた。するとそこに女性が現れ、彼女に水を求めた。彼女は当時のユダヤのラビは女性に声掛けなどしないので不審に思うと、イエス様はいきなり「この水を飲む者はまた、渇く、しかし、私が与える水は、渇くことなく、永遠の命に至る泉がこころに湧き出す。」とおっしゃった。鋭敏な女性はこのラビが自分の生活を見透かしているのを直観。彼女は5人の男性と結婚・離婚を繰り返し、今は別の彼と同棲中だったから。イエス様はふしだらな女性だと断罪せず、むしろ彼女の深い〃魂の渇きに注目された。私たちも彼女の様な極端な生き方ではなくても、あれもない、これでもない、自分の魂の渇きを癒すものはどこに?と深いこころの渇きの癒しを求めているのではないでしょうか。
人間の提供する魂のドリンクは、塩水を飲むようで、飲めば飲むほど渇きは増す。イエス様の差し出される、神様の愛、罪びとのため十字架に命を捨てるほどの愛、敵さえ愛する愛、だけが真に魂の渇きを癒すのです。今もフアンが絶えないクリスチャン作家の三浦綾子さんは同時に二人の男性と婚約する様な状況で、イエス様の愛に出会い、魂に真の満たしを得、多くの作品で神の愛について証ししたのです。心満たされた人は他の人の渇きを癒すため、色々な形の作品を提供して永遠の命の泉を指し示しているのです。あなたも是非「聖書を読む集い」にこの水を汲みにお越しください。
「この水を飲む者はみな、また渇きます。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでます。」ヨハネ福音書4:13,14
2023・7月号
「ブルーな気分の時に 」
◆ブルーな気分の時
人間には喜怒哀楽の感情があります。さあこれから仕事だと張り切っている時には、元気のいい音楽が合います。しかし夏の晴れた日とは裏腹に気分が落ち込んでいる時には、静かな癒し系の音楽がいいですね。今日はブルーな気分の時のお話しです。
旧約聖書にエレミヤと言う預言者が登場します。預言者と言うのは、神様から遣わされて、王様や権力者の悪を糾弾する正義の味方が多いのです。むかしの左翼マスコミか野党的言論人みたい。しかし預言者エレミヤは違っていました。彼は“涙の預言者”とあだ名されていました。彼も祖国ユダヤの王や権力者が神様の律法に背き堕落していることを厳しく咎めました。そしてこのままだと国は強大なバビロニア帝国に滅ぼされる。神様はユダヤを懲らしめるムチとして、バビロニアを用いられるのだと、警告したのです。しかし王様は、彼の警告を聞きながらも行いを改めようとせず、遂にバビロニアに首都エルサレムが包囲され兵糧攻めにあい、食糧涸渇となったのです。慌てた王様は、エレミヤに神様にお伺いを立ててくれと頼む。するとエレミヤは、“事ここに至ってはバビロニアに降伏しなさい。そうすれば王様も国も助かる。しかし徹底抗戦するなら王様始め指導者層はバビロニアの捕虜となる”ととんでもない事を預言。家臣達はエレミヤを非国民だ、死刑だと王様に迫り。困った王様は水の枯れた古井戸にエレミヤを投げ込んで命だけは助けたのです。しかし王様が決断を一寸伸ばしにする間に、歴史の歯車は音を立てて回転、バビロン軍が首都に突入、王様始めエリート層は捕虜となってバビロンに連行。BC586年、世に有名な「バビロニア」捕囚です。
◆イエスは涙を流された
問題はその後です。預言者エレミヤは、言わんこっちゃない、自分の言う事を聞かないから、天罰が当たってこうなったんだ。ざまあ見ろ、とは言わなかったのです。エレミヤは違ったのです。涙を流して王様始め自分の警告に従わなかった人たちの罪を嘆いたのです。そして神様に彼らの罪を自分の罪として赦しを乞い願ったのです。
人は涙のあふれるような目に遭うとブルーな気分になります。自分の失敗なら自責の念で、他人の失敗で事前に警告したのに聞き入れないからそうなれば、そら言わんこっちゃないと批判もしたくなります。しかし誰が、自分や他人の罪や失敗を我が事の様に感じ、涙を流して神様に赦しをとりなしてくれますか。旧約の涙の預言者エレミヤの深い愛。そして新約のメシヤ・イエス様は、「ああ、エルサレム、〃、めんどりが離れ行く雛を翼に呼び戻す様に、何度あなたを呼び戻したことか」と涙を流し、背を向ける人の為に嘆き、遂には十字架に掛かり、神様に背く人間の自業自得の罪をご自身の身に負い、裁きを身代わりに受け、赦されたのです。こう言う涙を流す愛にこそ救いがあるのではないでしょうか。
「イエスは涙を流された」ヨハネ11:35
2023・6月号
「ノアの方舟と雨 」
◆雨の日々の情緒
梅雨時になると木の葉を這うかたつむりを、時間を忘れてじっと飽きもせず眺めていた幼い日を思い起こします。働き盛りの頃は、雨の季節は効率が落ち、面倒だなあと思っていました。リタイヤー後は少しはこころに余裕ができ、照る日もいいが、また雨の日もそれなりにいいもんですよ。特に露にぬれて輝くようなアジサイを眺めるのは最高です。
◆ノアの方舟と雨
ところでバイブルで雨と言うと、ノアの方舟の物語を思います。大雨が続いて大洪水になった話で有名ですね。旧約聖書の創世記にあります。古代中東にノアと言う義人がいました。当時、世は神の御前に乱れ、神はこれに審判を下そうと決意。その方法として大洪水をもたらそうとされた。ただ一つ救いの手段として、方舟を高い山の頂に造船するよう、ノアに命令。彼は忠実に方舟を建造、人々に神の審判の迫っている事、この方舟に乗船するなら助かるからどうぞおはいり下さいと勧めた。
しかし人々は、ノアはどうかしてる、宗教に凝りすぎ、世界は順調だ、こんな高い山の上まで洪水が来るものかと相手にしない。仕方がない。ノアはやっと家族8人を納得させて乗船させ、さらに動物たちを一つがいずつ載せた。途端にドアが閉じてしまった。集まって見ていた人たちは気の毒になあと、ノアと家族の非常識をあざ笑いながら、それぞれ日常生活に戻っていった。しばらくしてポツリ、ポツリと雨が降り出し、なかなか止まないどころか、だんだん激しくなり、豪雨、百年に一度の警報発令、あちこち土手が決壊、水はあふれ市街地に流れ込み、濁流にのまれる人々、家もろとも流される人、ついに人々は追いやられて山の頂のノアの方舟に到着、激しくドアをたたいて中に入れてくれと懇願。ノアも中から開けようとするが、神様が閉じられたドアは開くはずもない。どうして私がお入りくださいとオープンしていた時に入らなかったのですか。今や時遅しです!
ついに洪水は山頂も超え、方舟は大洪水の上に揺さぶられながらも浮かび、150日間後水が引き始め、ノアが窓から放った鳩がオリーブの枝をくわえて帰って来たことにより、大地が現れたことを知った。やがて乾いた大地に降り立ったノア達一家と動物たちは、新しい天地に向かっていった、と言う物語です。
◆恵みの時に
何だか世界は人間のエゴの結果の地球温暖化、海面上昇、地球終末まじかを予想させる現代人に身につまされる話ではありませんか。自然の雨の情緒にどっぷり浸り、神の審判の雨を忘れてはなりません。今は教会のドアは開かれています。しかしいつかは閉じられその後は開かずの扉になるのです。今は恵みの時、今日は救いの日です。十字架にかかり人間の罪を身代わりに負い神の審きを受けられたキリストこそ、救いの方舟なのです。ぜひ、日曜日に聖書集会で、審きの雨の厳しさ、救いの雨の恵み深さを知ってください。
2023・5月号
「X・風・聖霊」
◆ 鯉のぼりに寄せて
五月の青空を爽やかな風が吹き抜けて悠然と鯉のぼりが泳ぐ。田舎へ行くと今も楽しめる5月の年中行事です。しかし、無風では鯉のぼりもだらしなく垂れさがるだけです。鯉のぼりは風次第です。そして実は、キリスト教も風が多いに関係があるのです。
キリスト教の暦、今年の教会暦では5月28日が“ペンテコステの日”です。何それ、ヘンテコナな日ですね!と問われます。元々はユダヤ教の3大祭りの一つで、過ぎ越しの祭り(ペサハ)から数えて50日目の祭りで五旬節の祭りと言います。ペンテは5と言う意味、米国国防省はペンタゴンと言う5角形の巨大な建物ですね。イエス様が過ぎ越しの祭りに十字架に受難死、3日後に復活,昇天。五十日目のペンテコステの日に大風が吹いて聖霊が弟子たちの上に降り、世界で初めてエルサレムに教会が出来、以来2千年全世界にキリスト教会は拡大。ペンテコステの日は、教会誕生の記念すべき日なのです。
夙川出身のカソリック小説家遠藤周作さんは、無力だが弱い人間を愛し、寄り添いつづけ、しかも弟子たちにも裏切られて無残な死を遂げた母性的イエスを描き大きな共感を得ました。しかし、その後情けない弟子たちが急に力強く立ちあがり迫害、殉教も恐れず宣教し始めた理由が分からない。それがキリスト教の不思議“X”だと申しました。
実はその“X”の事件こそペンテコステの日なのです。天から大風が吹いて聖霊が降り、恩師イエスを裏切った、無力な弟子たちを力強く宣教者として立ちあがらせた、大転換の記念すべき日だからです。
◆X・風・聖霊
キリスト教と言うと、三位一体とか、キリストの二性一人格とか、終末論とか、頭の痛くなるような教義・理屈の宗教の様に思われています。しかしそれだけではないのです。聖霊を説く中々霊的な宗教なんですよ。イエス様は「風は目に見えない。しかし木の枝に当たると、枝が揺れて風の吹くのが分かる。同じ様に聖霊によって人は新しく生まれ変わるのです」(ヨハネ3:1~8)と言う趣旨をおっしゃった。実は新約聖書の原語ギリシャ語では、風=霊=プネウマなんです。目には見えなくても風が当たれば木の枝が揺れ動くように、聖霊が働くと人は新しく生まれ変わるのです。聖霊は新生のわざを起こすのです。バイブルによると「生まれながらの人間は、不品行、汚れ、好色、争い、党派心、泥酔・・が本心です。それを無理して押し殺しているから、何かの拍子に暴発する。しかし聖霊の働きは愛、喜び、平和、寛容、慈愛・・」(ガラテヤ5:19~23)だと告げています。聖霊とは神様のこころなのです。それは風の様に目に見えませんが、今も息吹いています。鯉のぼりがもし口を閉ざすと、だらしなく垂れさがるだけですが、口を大きく開くと、爽やかな風を受けて大空を泳げるように、人も神様にこころを開くなら、神様のこころ聖霊(風)を受けて、愛、喜び・・に新生できるのです。
2023・4月号
「復活、命」2023・4月イースター号
◆ハッピー・イースター(4月9日)
“イースターおめでとうございます!”と言っても多くの人にはピンと来ないかもしれません。受難日にキリストが十字架に掛かられ死に、葬られ、3日目に復活した事を記念します。丁度寒い冬から,暖かい春を迎えるにふさわしいイベントですね。
◆命とは何か?
私は80才になり、今まで余り考えてことが無かった“いのち”について思う事が多くなりました。命って何だろう?104才で召された日野原重明医師は、小学校で“命の授業”を各地でなさり、命は時間だ。自分の命をどう限られた時間の中で使うか。自分だけのために使うのはもったいない。人のために使った時間、それこそが価値ある命の使い方だよと教えられた。命の質、クオリテイ・オブ・ライフの答えの一つですね。
次に科学は生命をどう考えるか、最近出版のイギリスのノーベル生理学受賞者P.ナースの著「命とは何か」によると、「生命とは負のエントロピー的物質である」と言う事です。エントロピー法則(熱力学第2法則)は、秩序は乱雑に、高圧は低圧に、高熱は冷えて行く、そして最後は平衡状態になって死滅する、と言う宇宙史138億年の物理学の基本法則です。ところが40億年前最初の生命が誕生、生命はエントロピーの法則に対抗して、自己保存、自己増殖し個体は死んでも種としては死なない道を開いた物質です。そして進化の果てホモ・サピエンス(現生人類)にまでなり高度文明を築いた。最近は、ホモ・デウスとなり不老不死な神的人間になろうとしている(ユバリ・ハラリ)。しかし結局は宇宙そのものがエントロピー法則により何百億年後かには死滅、人類も例外ではないのです(福岡伸一)。う~ん空しい。
宗教の代表仏教では無常を説き、生老病死の苦からの解脱を説きます。ブッダの言う通り、人生色々楽しいこともあり、四苦八苦する事があっても、最後は死滅です。だれ一人例外はいない。まさに人生は無常ですね。ご焼香を!です。だがしかし・・
◆死に打ち勝つ復活の命
イエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて信じる者はいつまでも死なない」とおっしゃった。聖書の原語ギリシャ語では生命にはビオスとゾーエーの二語があります。ビオス(バイオの原語)は生まれ、成長し、死ぬ、生物的生命です。科学的生命観、仏教的生命観はまさにビオスです。ゾーエーは永遠の生命です。「私は復活であり命(ゾ-エー)である」と言われた、十字架に死んで、死に打ち勝って復活するイエス様の命なのです。ですからイエス様を信じる者は、罪に死に、肉体的に死に、社会的に死んだ状態でも、復活できるのです。暗黒の死のトンネルに突入した機関車がやがて明るい世界に抜け出るように連結した客車である人間も死に打ち勝ち、仏教も科学も不可能な死に打ち勝つ永遠の生命を頂けるのです。あなたも是非どうぞ。
2023・3月号
「梅の香りに寄せて」
◆梅の香り
“東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ”、有名な菅原道真の歌ですね。まだ寒い日々が続く中、ふと鼻腔をかすかな香りが刺激する。梅の花の香です。ああ春が来たんだ、なんだか寒さにちじこまった体が、少し緩んだ気持ちになります。梅の香りはいいものですね。香りと言えば、以前は海外旅行に行って空港に降り立つと、その国の匂いがしたものです。昔、韓国金浦空港(今は広大な仁川国際空港)に降り立つとキムチの匂いが、パリのドゴール空港だとシャネルの香水が、NYケネデイ空港は株の匂いが?帰国して羽田だとみそ汁の、大阪伊丹空港だとタコヤキの!・・。今は世界中似たり寄ったりで、化学合成の強烈なパヒュームが立ちこめ、個性がなくなって面白くありません。
源氏物語に出てくる平安貴族が、香を衣類に炊き込めたのは、何と奥ゆかしい文化か。
◆ナルドの香油
バイブルで、イエス様が十字架の最後を遂げる前に、ラザロ、マルタ、マリヤのきょうだいの家を訪問された話が福音書にあります。食卓がにぎわっていた時、突然マリヤが部屋に入って来て、持っていたナルドの壺から香油をイエス様に注いで、香油の香りが部屋に満ちたのです。そしてマリヤは自分の髪の毛で、イエス様の足の汚れを拭ったのです。たちまち弟子で会計のユダが、マリヤをとがめて「どうしてそんな無駄をするのか。300デナリの値打ちがある香油だ、貧しい人に施した方がいいのに」と文句をつけたのです。するとイエス様は「彼女をとがめてはいけない。彼女は私の葬りの用意をしてくれたのだ。福音が伝えられる時は、いつも彼女のしたことが伝えられる」と感謝を述べられたのです。
当時1デナリが労働者1日分の賃金ですから、300Dと言うと年俸に相当しますから、ナルドの香油は相当な高額ですね。ユダの非難も分かります。しかし一見無駄と思える行為は、イエス様の心を打ったのです。女性の直感でしょうか。イエス様がもう直ぐ死に向かわれる。その前に自分の愛を最大限に表したい。それが一見無駄と思える行為となったのでしょう。そうです、マリヤの注いだ香油以上に、神の御子が十字架上に高価の極みと言えるご自身の血を惜しげなく流され、罪人の救いの代価とされたのですから。
◆キリストの香り
菅原道真は自分を陥し入れた者たちに怨霊となって復讐しました。恐れた人々は天神さんと祭り上げて怨霊をなだめたのです。しかしイエス様は、十字架上で、ご自身を殺す兵隊たちや、裏切った弟子たちを恨むことなく、「父よ、彼らをおゆるし下さい。」と祈られた。呪と復讐の言葉を恐れていた彼らは、このゆるしの言葉に、イエス様の愛を信じるものなったのです。ですから本物のキリスト者は、「キリストの香り」と呼ばれますね。マリヤのように。この香りがウクライナにも届きますように、そしてあなたにも!
「家は香油の香りでいっぱいになった」ヨハネ福音書12:3
2023・2月号
「ウオーム・ハート」
◆鍋料理好き
こよみでは立春でも今月は最も寒い時期です。こう言う時人は温かいところに集まります。ソムリエの子供の頃は、道端に木の枝を集めて、焚火をしたものです。近所の子供たちやおじさんたちもお尻を火に向けて温まりながら、おしゃべりをしました。またおばさんたちがサツマイモを焚火に入れて、焼き芋を作ってくれ、熱々を舌を焼けどしながら頬張ったものです。今はこんなことは交通の邪魔、火災の原因で取り締まられるでしょうね。残念です。そこで我が家では、夕食は鍋を囲んで、身体を温めますね。家人は長年磨いてきた料理の腕が振るわれないと、なべ料理は嫌がりますが、いや冬は鍋に限りますよ。
◆鬼手仏心
以前歯医者に通ったとき、治療室に“鬼手仏心”と書かれた色紙が掲げられていました。
こう言うと悪いのですが、あのキーンと脳に響く歯を削るドリルの音に耐えると治療の後、へとへとになり、歯医者さん通いは相当の覚悟が必要でした。子供さんの中には、泣きわめいて拒む子もいますね。最近は体に負担がかからない様に歯の治療も随分進歩し、ソムリエのような高齢者には助かりますが。それにしても色紙の文句は気に入りました。患者の治療を思えば少々嫌がられてもきつい治療を心を鬼にして施す。しかし医療者の心は決して鬼ではなく慈悲に満ちた仏の心だ、と言うのでしょうね。医は仁術と言います。
ある時、短期留学生をホームステさせた時、耳が痛くなり、いくら勧めても医者を拒む、医療保険に入ってないからだと言う、何とか説き伏せ掛かりつけの耳鼻科に受診、すると適切な処置をして下さり、その上事情が分かったから無料でいいです、とまで言われ、感謝感激でしたね。こう言う仁医もおられるのです。
◆クール・ヘッド、ウオーム・ハート
イエス様が十字架に死に、葬られ、復活された後の事。復活など信じられない弟子たちもおり、イエス様の世直しを期待し従った都エルサレムから、挫折した彼らはそれこそ失意の都落ち。エマオ村に二人の弟子たちが、嘆きながら歩んでおると、いつの間にか側に一人の人が旅は道ずれとばかり寄り添い、イエス事件を話し合う。そして宿で夕食の時、連れの旅人が食前のお祈りを捧げるのを聞いて、ああこの方はイエス様だと気づいた。途端にその人は消えた、と言う。残された二人のこころは、不思議に燃えた。そして再び都に取って返し、イエス様の愛の業を再開したのです。復活のイエス様は宗教的熱狂とは縁遠く、静にバイブルを説かれ、聞いた二人の心は燃えた。そして今もイエス様を信じる者の冷えた心を燃やし続けるのです。失意、失望、失敗、あきらめ、しらけ、自責の念・・のここころを温め、赦し、愛し、希望を与え、静かに燃やしてくださるのです。まさにクール・ヘッド、ウオーム・ハートな人間に変えて下さるのです。
「お互いの心が内に燃えたではないか」ルカ福音書24章32節
2023・1月号
「主を待ち望む者」
2023・1月年頭に当たり
◆徳川家康の知恵
新年明けましておめでとうございます。今年もご愛読の程よろしくお願いいたします。年頭に当たり、いつも以上に風呂敷を広げます。
今年のNHK大河ドラマは“どうする家康”です。TVによく出演する歴史学者の磯田道史京大教授が、某雑誌に徳川家康について書いています。若い頃から苦労と、忍耐の連続だった家康が、信長、秀吉によく仕え、遂に天下を取った。その秘訣の知恵は何かと言う興味深いものでした。秘訣の第一の知恵は、どこと同盟を組むかだと言う。徳川家は周囲を、今井家、武田家、織田家と言うスーパー・パワーに取り込まれた弱小勢力であった。そこで採った戦略はどこと同盟を組むかであった。それは家康が幼少期に今川家の人質に出された事から始まっていた。やがて織田家に将来性を見抜いて乗り替えたのが知恵ある判断であった。第二に、良きものを取り入れる開放性、柔軟性であると言う。幼少期の人質時代は、京都公家文化指向の今川家から教養の重要性を学んだ、家康ほど良く勉強した武将は稀だと言う。また織田家からは、“うつけ”と呼ばれる程既成概念にとらわれない信長の斬新性を学んだ、また宿敵武田家を滅ぼした時、殲滅せずに仇敵を召し抱え、その武力の強さを学び、武田の赤備えと呼ばれる、赤い兜を徳川家軍団にも採用したほどである。
◆ユダヤの知恵
さて、旧約聖書時代のバイブルの主人公、イスラエル(別名ユダヤ)という国は、徳川家とよく似た地政学的位置で、もっとひどい目に遭った国です。紀元前千年以来、イスラエルは北にアッシリヤ帝国、東にバビロニア帝国、南にエジプトと古代のスーパー・パワー諸帝国に取り囲まれ、帝国間の戦争に巻き込まれ絶えず国土蹂躙されたのです。そして歴代の王朝は、①どの帝国と同盟を組んで他に対抗しようかと苦心し、②どの帝国の宗教文明を取り入れようかと右往左往したのです。結果、イスラエルは北王朝は紀元前721年アッシリア帝国に滅ぼされ歴史から抹消され、南王朝も586年バビロニア帝国に侵略され、王族・貴族始め国家のエリート層が、捕虜となって帝国の首都に連れ去られたのです。世に有名な「バビロニア捕囚」です。以後は一時期を除いて独立国を保てず、ユダヤ教宗教教団国家となって生き延びたのです。亡国の運命に遭遇したイスラエルの苦難は、徳川家や日本の比ではないのです。
そう言う時、預言者が神から遣わされ、審判と救済を告げたのです。イザヤ書40章27~31節を見ます。そこでイスラエルは嘆く、「私は神に見過ごされている」(40:27)と。神は力あるスーパー・パワーの諸帝国に注目し、かつてソロモンの栄華を誇り、今は見る影もなくなったイスラエルには目もくれない、恨み節を吐く。そして「若者も疲れ、弱り、つまづき倒れる」(40:30)と国の将来を担う青年の無気力を嘆くのです。まさに日本の現状と生き写しではないでしょうか。しかし預言者イザヤは「神は地の果ての創造者であり、疲れることなく、弱ることなく、その英知は究めがたい」(40:28)と語り、無から有を創造し、死人を復活させ、病者を癒し、弱者を勇者に変え、罪人を救う創造と救済の神がおられる、と説くのです。そして主を待ち望む者は新しい力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることなく、歩いても疲れる事はない」(40:31)と神への信仰の翼を広げよと勧めたのです。そして預言者イザヤの預言は500年後イエス・キリストの到来により実現し、今日キリスト信徒が、神への信仰を継承し、全世界に翼を広げて、世界に責任を負うているのです。
◆神を待ち望む者
ヒマラヤを超えて越冬するため、鶴の群れが高く舞い上がります。しかし余りの高度に疲れ、嶺を超える事が出来ない。しかし上昇気流が峰から吹いてくるのです。それを待っていた鶴の群れは見逃すことなく、翼を広げるのです。上昇気流を広げた翼に受けて鶴は高く、高く舞い上がり遂にヒマラヤを超えて、糧のある越冬地に向かうのです。家康の知恵から学ぶのもいいですが、さらに測りがたい英知に満ち、失望を希望に変える事が出来る創造者・救済者なる神を新年に当たり、翼を広げ求められる事をお勧めする者です。
「主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼を広げ舞い上がる」イザヤ40:31
2022・12月号
「栄光、平和、最初のXmasメッセージ」
◆最初のXmasメッセージ
イエス様が2000年前、ユダヤのベツレヘムの家畜小屋に誕生した時、御使いが神を賛美した、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と(ルカ2:13,14)。最初のXmas・メッセージを学びます。
◆栄光はどこに
まず、栄光の在り方です。“ウクライナに栄光あれ!”ゼレンスキー大統領はロシアとの戦いで国民を励ます時こう叫ぶ。多くの国家の指導者が自分に栄光を求めるのに比べ、自分は国家、国民に仕え、その栄光を求める姿に好感を持ちます。しかし、個人崇拝でなくてもたとえ国家であっても栄光を求めるなら、他国も自国に栄光を求めますので、そこに争いが起こります。やはり、栄光はただ神様だけが受けられるのが良い。世界の終末を描く「黙示録」に天上に帰った、かつての地上の功労者達が、彼らの栄冠・オリンピック・ゴールド・メダルもノーベル賞も、全て投げ捨て神にひれ伏す幻が描かれています。
◆平和はどこに
次に天使が、地には平和があるようにと唱えました。平和は人類永遠の叶わぬ夢なのでしょうか。遠くはロシアによるウクライナ侵略戦争の悲惨さ、近くは中国による台湾侵攻の嫌な予兆、戦争の足音はひたひたと迫っています。平和憲法など幻想で、早く夢から覚めて軍備を増強、核武装も急げと現実主義者は説きます。そんな大きな話で無くても、昔から“男は家の敷居をまたいで外へ出れば、七人の敵あり”と教えられ。女性も職業進出が求められ、ライバルとの熾烈な戦いが待ち受けています。結果は勝ち組、負け組の現実です。戦いが平常で、平和が異常の様です。しかし同じく終末のビジョンを描いたイザヤ書では、終末には、「オオカミは子羊と共に草を食う」と平和共生の到来を預言しています。
◆
イエス様の姿に学ぶ
では、理想社会到来の終末前に生きる、私達の進むべき道を聖書はどう説くのでしょうか。モデルとすべきイエス様は、ご自分が来られたのは、“仕えられるためではなく、仕えるためである”とおっしゃった。イエス様は、大富豪や王族や学者でなく、大工の子として生まれ、絹のフカフカベビー・ベッドでなく、家畜の飼い葉おけの中に生まれ、そして貧しく孤独な人の側に立ち、病人を癒し、最後は、弟子たちからさえ裏切られ、全ての人の罪を我が身に負い、十字架にかかられ、復讐ではなく「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。神の御子の玉座は栄光に輝く黄金でなく、目をそむけたくなる荒削りの十字架であったのです。まさに全世界の王の王である方が、罪の汚濁に染まった人間を愛して、お仕えになったのです。ですから互いに栄光を求めあうのでなく、愛を以って他に仕え共に生きる平和の道を示されたのです。あなたはどの道を歩まれますか。
2022・11月号
「人生の果実を味わう」
◆果物の思い出
毎年今頃になると近江米の新米を送って下さる方がいます。ああ秋だなあ、とありがたく感謝して白ご飯の湯気をかぐ。また、果物の季節でもあります。柿、梨、ぶどう、桃と楽しませてくれます。イタリア・カプリ島のガーデン・リストランテでデイナーの時、傍らのレモンの樹にびっくりするほど大きな実がなっており、梶井基次郎の“檸檬”もこんなだったろうか、とフト思いました。トルコでは高速道路を大型トラックが山積のオレンジを満載、重量で押しつぶされ果汁が一杯流れでて平気で走っており、なんともったいない、と呆れたものです。台湾で、半透明の美味しいフルーツのデザートがあり、名前を聞くとライチでした。やがて日本の果物店にも出回りましたが好物です。パスポートが必要だった本土復帰前の沖縄を初めて訪ねた真夏、余りの暑さに音を挙げていると、シークワーサのよく冷えたジュースを持ってこられ、余りのおいしさに、店で果実を買って持ち帰ろうとしたら、税関で持ち込み禁止と言われ無念の思い。先日久しぶりに会った沖縄の友人に、この思い出を語ると、帰島後、シークワーサのジュースを送ってくれ、喉はあの爽やかさを覚えていましたね。いやグルメではないソムリエでも果物の思い出は尽きません。物価高の今年は、フルーツはどうなんでしょうかね。
◆実りの秋
観葉植物や勿論花を賞でる草花もいいのですが、成り物、果実のなる木も楽しみですね。人生にも四季があり、青春の頃蒔いた人生の種が、壮年時代の暑さ寒さの中でも労をいとわず地道に人生の畑を手入れし、やがて実りの秋を迎えるのは、理想的です。しかし現実には果実にも善果・悪果の両面がありますよ。仏教では、善因善果・悪因悪果と言うそうですね。先祖が前世で悪い種をまいたものを、現世で自分が悪い結果を刈り取らされる。因果は巡る糸車、と歌舞伎は言うが、現世しか信じない現代人には説得力がない。しかし、若い頃いい加減んな生き方をして、年取って実りが無い、もっとまじめに努力しとくべきだったと、悔やむ人は多い。
夏の暑さにも真っ黒になって働くアリは冬に備え食料を蓄え、歌って踊って今を楽しむキリギリスはアリを馬鹿にしていたが、やがて寒い冬が来て、備えなしのキリギリスは凍え死ぬ、アリとキリギリスの話は、多くの場合残酷な真実ですよ。バイブルでユダヤの知恵の書“箴言”に「ありは力のない種類だが、その食料を夏のうちに備える」(箴言30:25)とある通りです。
◆気づいた時が旬
ではもう手遅れか?そうではないのです。気が付いた時が旬なのです。バイブルに野生のオリブの木を栽培種に接ぎ木する、と言う話があります。実の悪く小さい野生のオリブも、品種改良して良い実を多く結ぶ栽培種に枝を切って接ぎ木すれば、その野生種の枝に良き実がたわわに実ると言うのです。これは比喩です。悪い実を結ぶしかない人間も、イエス・キリスに接ぎ木すれば(信じれば)、良い実を結ぶようになる、とバイブルは良き知らせ(福音)を告げているからです。
ある時、教会に来られ信仰を持たれた若い女性がいました。日曜学校教師のお手伝いを頼み、始めは助手で子供たちのお世話係。クラスの子供がいたずらをしたようです。すると、彼女が“おんどりゃ、なにさらすねん、ここは教会ど~”と怒声、子ども達はもちろん、周りにいた教師たちも唖然として言葉も出ない。本当にお嬢様然とした彼女から出た言葉だとは信じられませんでした。教師方から牧師から注して欲しいとの事で彼女と色々お話しして、その身上を伺い、この暴言?が発せられる理由が分かりました。彼女は大変愛の冷え切った複雑な家庭事情で育っていたのです。しかし、その彼女もイエス様を信じ数十年後、恵まれた家庭を持ち、夫の事業を助け、教会のボランテイア活動で多くの人々に感謝され、実に豊かな愛の実を遺して神様の御元に召されたのです。
イエス様の弟子ヨハネは若い頃はイエス様からボアネルゲ(雷の子)とあだ名されるほど気短だったようですが、120才まで生きて「神は愛なり」と言う名聖句を残し、“愛の使徒”と呼ばれる人間になりました。キリストに接ぎ木される事ですね。
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」
ガラテヤ5:22,23
2022・10月号
「愛とは寄り添うこと」
◆ハーローの実験
先日TV番組で、保健の教科書にもある有名なハーローの実験(1950年代)が紹介されていました。二つの人形があり、一つは針金の骨格が剥き出し。もう一つは骨格の上を柔らかな布地が覆っている。そして二つの人形は同じ様に哺乳瓶を乳房のあたりに持っている。そこへ被験者のアカゲザルの子猿を入れると、どちらに子ザルは向かうかと言うものです。勿論、子ザルはゴツゴツした針金の人形より、ふかふか柔らかい肌触りの人形から、ごくごくミルクを飲んだと言うものです。そこでハーローは、人間でも赤ちゃんは、母親からただ母乳を飲めばいいのではなく、優しく温かく愛おしんでくれる母親からの哺乳を望んでいる。赤ちゃんは単に、ミルクだけでなく、愛情を母親から注がれてこそ育つのだと、説いたと言うのです。
◆データかスキン・シップか
こんな事今では当たり前ですが、米国の戦後当時の育児の学説を覆す、衝撃的な説だったと言うのです。当時の流行は行動心理学で、人間の心理はブラック・ボックスの様なもので、客観的科学的に計測できない。しかし人間の心にどういう刺激(S)を与えると、どう反応するか(R)は、計測できると言うものでした。計測できないものは科学ではない、と言うのです。ソムリエも半世紀前の学生時代、心理学科の友人にアルバイトで、心理学の実験室に連れて行かれ、黒い球と、白い球を持たされ、どちらが重いと感じるか、と聞かれ。そりゃ、黒い球だと、答えると。実は同じ重さだと言われたり、とにかく色々な用具や、絵で実験を受け、データを取られバイト料替わりのランチにありついたものです。
そこで行動主義心理学の育児法は、乳児はミルクを飲ませればいいので、体重とそれに見合うミルク量を測り、飲み切れば直ぐ哺乳を切り上げるのが良い。つまりできる限り早く離乳をした方がいい。離乳時期が遅くなると自立が難しくなる、と言うものでした。しかし、これに疑問を持った実験心理学者ハーローは、先の実験はじめ、多くの実験から、乳児期には哺乳と共に母子のスキン・シップがとても大切だ。むしろ十分スキン・シップが足りている方が自立が早い、と正反対の育児法を唱えたのです。
◆敏感期の大切さ
ソムリエも20年余のモンテッソーリ幼児教育の経験から、ハーローに同意しますね。モンテ保育・教育では“敏感期”と言うのを大切にします。人間は発達段階によって、特有の関心事がある。言葉に興味を示す時期、色や、数にこだわる時期、・・・その時、子供を取り巻く親や教師や保育・教育環境が、こどもの敏感期を充足させる環境を提供すれば、こどもは夢中になって興味の対象に没頭し、やがて興味が達成され、満足感を得て、その興味の関心から離れ、次の対象へと向かう。ここに人間の成長がある。しかし、こどもの“敏感期”に大人が気づかず、こどもの欲求を無視したり、スルーしたりすると、ちょうど十分ミルクを与えられなかった乳児が、いつまでもぐじぐじ泣いて、欲求不満を表現する様に、人生への不満足感が蓄積するのです。今回の安倍元首相狙撃事件の容疑者も、母親が子供達を忘れ、宗教にのめり込んで、十分親からの愛情を受けられなかった、その恨み、また幼児期の愛情充足未達成感が留まり、それ以上心理的に成長できなかったのではないでしょうか。ハーローの見出だした真理は人間心理の核心を突きますね。
これは何も子供だけではないのです。われわれ全ての人生のステージに“敏感期”はあります。それをゴツゴツした針金の様な理論で冷たく扱ってはなりません。柔らかく温かく認め、受容し、その人生のステージの課題、関心に没頭し、満足し、達成感を得るまで取り組むことこそ、最高の幸せなのです。ソムリエの様な高齢者には、もう何の人生の目指す課題は無いと思いがちですが、決してそうではありません。友人たちはそれぞれ、驚くほど多様な関心を注いで、リタイヤー後の人生を楽しんでいます。そしてそう言う課題を持たない人は、早死ですね。もったいない。人生100~120年時代ですよ。ソムリエは、これから先の人生にどんな“敏感期”が待っているのか楽しみにしています。
◆愛とは寄り添うこと
ハーローは“LOVE IS SNUGGLE””愛とは寄り添うことだ”と語ったとの事。
計測、計算を超えて、その人と寄り添う事、これが愛だと言うのです。愛は喜んで浪費する。犠牲をいとわない。都合が良くても悪くても、利害計算を度外視して寄り添う。イエス様が死を前に、ある家庭を訪ずれた時、マリヤは一年分の給与に該当する高価なナルドの香油を惜しげなくイエス様に注ぎ、その足を自分の涙で濡らし、長い髪の毛をほどいて拭った。香油の香りが部屋に満ちた、とバイブルは物語ります。するとイエス様の弟子ユダが、どうしてこんな無駄な事をするのか、香油を売って、貧しい人に施しをした方がいいのにと、マリヤを非難した。その時のイエス様は「この女は私に良い事をしてくれたのだ、この女は香油を塗って私の葬りの用意をしたのだ。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この女のした事も記念として伝えられる」マタイ26章1~13節、とマリヤを称賛された。ユダの計算・合理性VSマリヤの惜しみない愛。
イエス様は、善人、義人、健康人、成功者、よくできた人のためではなく、罪人、病人、負け組、欠け多き人、世間から評価されない人を愛して、香油以上に高価なご自身の血を流して、身代わりに罪を、病を、負債を、欠けを引き受けられ担い十字架にかかられ、審きを受けられたのです。そして死に、葬られ、三日目に復活し、今も私達一人一人の側に寄り添い、赦し、慰め、癒し、励まし、導いて下さるのです。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」マタイ28:20
2022・9月号
「ソウル・フード」
◆讃岐うどん
ソムリエの家近くに、金毘羅うどん、と言う店がありました。結構流行っており、客の入りも良かったと思います。ところが最近、どうしたものか閉店し、居ぬきと言うのか、店舗はそのままで看板を替えて、おそばの店になりました。コロナで会食を避けるようになって、業績が思わしくなかったのでしょうか。実はソムリエは香川県出身で、同県は近頃“讃岐うどん県”ブランドを自称して売りだすほど、県民はうどん好きで、ソムリエも例外ではなく金毘羅うどん店には、日参とはいかずとも、足繁くしていましたが、蕎麦屋に模様替えしてからは、一度も覗いていません。
子供の頃は、戦後間もない時代とて、貧しく食糧事情も悪く、栄養不足でしたね。そう言う時、親が家で麦粉をこねて、新聞紙に包んで寝かした塊を足で何度も踏んで粘りをつけ、包丁を入れて斬った自家製麺を、グラグラ煮たてた大釜に入れて、浮き上がったものをざるに移し、冷たい井戸水で締め、醬油をぶっかけてすすり上げた、あの味は忘れられない。まさに我がソウル・フードですよ。
19才で故郷を後に半世紀余、たまに帰省すると真っ先にうどん屋に飛び込んだものです。いつの頃か、セルフ・サービスとなり、自分で茹でる、トッピングーちくわ、畑のさつまいもや瀬戸内海で漁れた新鮮な魚の天婦羅、かき揚げ、もちろんお揚げさん、―好きなものを山盛りして、タンクから熱いおつゆを器に注ぎ、しょうがをぶっかけ、席ですする。300円もあればサラリーマンの昼食はばっちりでしたね。これが受けて、讃岐うどんの全国チェーンが展開し、ソムリエの家近くでも、故郷の味、ソウル・フードが味わえるようになり、足しげく通ったと言う訳です。それが蕎麦屋では、足も向かなくなるわけですね。そばがソウル・フードの人も多かろうに、ソムリエの偏見か、どうも客の数が以前に比べがた落ち、マーケット・リサーチが間違ってるんじゃないか?と余計な心配をしますが、美味いうどんが食べられなくなった腹いせかも知れません。
◆ソウル・フード
そもそもソウル・フード(soul food)は、アフリカ系アメリカ人がアフリカから奴隷として米大陸に売られた14世紀ごろから始まると言う。白人の食べない、豚や牛の耳や足、内臓、捨てた野菜の根っこや葉っぱ、等を調理して飢えを凌いで、生き延びた食事がルーツであり、ソウル・ミュージックと同じ、アフリカ系米人の命を繋いだ魂の食事・音楽だと言う事です。以後エスニック料理として世界各地の民族的料理を指す様になったのです
ソムリエの郷里讃岐も、瀬戸内海気候で雨が少なく、また徳島の吉野川の様な大きな河川もなく、水田耕作に適していなかった。何で生き延びるか、先祖は考えたのでしょうね。そこで、干天を生かした入浜式塩田を開発、真夏の太陽の照り付ける下での塩田仕事は殺人的ですよ。真っ黒になって働く労働者の過酷さを見ているだけで頭がくらくらしたものです。小麦を植え小麦粉を手にし、干天に強いサトウキビで和三盆糖を作った。甘味に飢えた子供の頃、母親の実家であった農家のサトウキビにかじりついて、硬い繊維で唇を切って血が流れ出るのもお構いなく、甘く青臭い汁を啜ったものです。讃岐三白―塩、小麦粉、砂糖―が讃岐の産物となった。そこから小麦粉と量の多い塩を使った腰の強い讃岐うどんが出来、醤油と砂糖を煮込んだ特製タレができたのです。ですからソウル・フードは、いわゆるグルメ(食通、美食家)捜しと言う、日常食に飽きて世界の料理を味わい尽くし、フレンチ、イタリアン、タイ、中華、韓国・・舌の肥えた食通が目新しいものを探す。そんなものじゃなく、とにかく死なないため、今日一日を生きるため食べた、魂の食事なんですね。大阪の名物ホルモンは、“放るもん”から来た言葉だとか。美味しい部分は食通にとりわけ、捨てる内臓を食って生き伸びた人間の食だったのでしょう。
◆グルメとソウル・フード
イエス様は、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る言葉によって生きるものである」とおっしゃった。フランス革命が起こり、怒り狂う民衆の暴動が王宮にまで届き、マリー・アントワネット王妃は、側近に民衆は何を要求して暴動を起こしているの?と聞くと、“パンを求めてです”との答え。すると彼女は“パンがなければ、ケーキがあるじゃない”と反問したとか、伝わっています。パンがなければケーキがある、イタリアンがなければフレンチがある。そんな余裕がある人間には分からない、パンがなければ死ぬしかない。生きるか死ぬかを分ける糧を。今、世界はロシアの大穀倉地帯のウクライナ侵攻で、小麦もひまわり油も手に入らず、アフリカでは6千万人が飢餓線上の地域が発生している。何とかしなければならない。ソムリエは20年間の世界飢餓対策機構の芦屋市での活動に奉仕した経験で、心痛しています。と共にパンの問題が解決している日本では、こころの糧が、それもグルメではなく、ソウル・フードが必須になっていると思うのです。
◆魂の糧、神の言葉を求めよ
こころの糧でグルメ的な糧は、毎日洪水の様にTVやネットで発信されている情報です。とても消化しきれるものではなく、食傷気味です。こう言う生きるか死ぬかに関係のない糧ではなく、人間の魂の生死を決めるソウル・フードが求められているのです。イエス様のバイブルの言葉はそう言う言葉なのです。E.プレスリーが死の直前、魂の不安に怯えビリー・グラハム牧師に電話“先生、天国はありますか?”と尋ねて来た。グラハム牧師は“勿論あります、そして地獄もね!”と答え、心砕かれたプレスリーは悔い改めの祈りを電話越にグラハム師に導いてもらったと言う。あなたの魂の生死のためのソウル・フード、神の言葉を聞きに教会へお越しください。名シェフの牧師が腕によりかけ、魂の糧を提供します。
「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る。それはパンのききんではない。
水にかわくのでもない。主の言葉を聞くことのききんである。」アモス8:11
2022・8月号
「旅は道連れ」
◆人生は旅
“月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟(ふね)の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふるものは、日々旅にして、旅を栖とす”、有名な芭蕉の紀行文「おくのほそ道」の書き出しです。昔高校教師時代、修学旅行の引率で、「おくのほそ道」を辿った時を懐かしく思い出します。まさに人生は旅のようなものです。芭蕉はそれこそ、旅に生き旅に死んだ、俳人ですね。
◆平和産業の観光業
現代は、コロナ蔓延で、人の移動が感染拡大の原因と言う事で、旅行は禁じられ、ツアー会社や航空・旅客・観光業界は閑古鳥が鳴き、知人のツアー会社員や外国語ガイドさんは生活が大変でした。夏のツアー・シーズンが来て少しコロナも収まったのか、あるいはこのままでは経済で死ぬ人がコロナ死より多くなるとかで、旅行業界も活動再開で、期待感が抱かれています。前任教会の牧師時代、韓国観光公社の大阪支社長が2代続いてクリスチャンで、社宅が教会に近く礼拝に家族ぐるみで御集いで、観光業界について色々教えて頂きました。一人はスイスの大学で観光学を学び、今は韓国の大学で観光学を教えておられます。観光は、英語でsight seeing,とかtouringと言うが、日本語の「観光」の方がいいです。その地方の自然と、文化の光を発見するというのですから、とおっしゃっていました。現在では日本の大学でも観光学が遅まきながら設けられ、亡き安倍元首相肝入りのインバウンドは一大産業になりますね。そして、とにかく観光業は平和産業だと言う事です。日韓関係が悪くなると、日本人を韓国観光に誘致する観光公社の仕事は、途端に悪影響が出る。ましてウクライナのような戦争は最悪ですからね。平和であればこそ成り立つ友好の絆ですよ観光業は、と支社長はおっしゃっていましたね。と言う事で、コロナと戦争終焉と日韓関係好転を願って、何とか平和の産業、旅行業界も再生してほしいものです。
◆旅の効用
かく言うわたくしは、この15年全くと言ってよいほど、旅行していません。足が不自由になったせいです。それ以前は、特に旅行好きと言うのではありませんでしたが、それでも国内は北海道から沖縄まで、海外も30カ国ほど訪ねました。その理由は、今にして思えば旅好きというより、生活の気分転換であった様です。教会の牧師と言うのは、ある意味一国一城の主で、それはそれで結構責任があり、また様々な方の悩みをお聞きし、聖書の言葉で指針を差し上げ、あるいは慰め励ましの祈りで、生き甲斐も大きいですが、結構ストレスの溜まるお仕事でした。また教会付属幼児教室の園長も兼務しており、開園中は何か園児に事故でもあれば、大変な事ですので、その緊張たるや気の休まる日が無かったものです。と言うことで、煮詰まった生活から解放を求めて、幼児教室の春夏の休みには、出きる限り現場を離れて、旅行に出かけたものです。そしてあらゆる責任から解放され、リフレッシュされ英気を充電し、また仕事に戻ったものです。
◆巡礼の旅
旅と言うとジョン・バンヤンの「天路歴程」と言う本があります。日常生活を真面目にこなしながらも、魂に葛藤を抱いて煩悶していた鋳掛屋のバンヤンが、キリスト教伝道者の聖書のお話しを聞いて、突然仕事も家族も投げ出し“いのち、いのち、永遠のいのち”と叫び出しながら天国目指す巡礼の旅に出る物語です。途中様々な旅の難儀や誘惑に遭いながら、遂に天国の門に到達する、ピューリタン文学の白眉です。ポルトガルの有名な聖地サンチアゴ巡礼路、100km巡礼の旅がありますが、今も多くの人たちがこの旅に加わっているようです。わたくしは香川県育ちで、四国八十八か所霊場の巡礼をまじかに見ており、洋の東西を問わず、人間には、息抜きの旅だけでなく、魂の旅が必要なのだと思いますね。昔の旅には病気になったり、山賊にやられたり、道に迷ったり、様々な苦難や試練を経てこそ目的地にたどり着けた。人生の苦難や試練は、できれば避けて通りたいが、魂の浄化のためにどうしても必要なのですね。聖書に「キリストも、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった」ヘブル2:10、とあります。十字架の苦難無くしてキリストは人の罪の贖いをなし遂げられなかったのです。るつぼに鉱石を投げ入れて灼熱の火で炙られてこそ、不純物が取り除かれ、はじめて燦然と黄金は輝きだすのですから。人生の旅にとって苦難は必須なのです。わたくしも80才にして、教会解散の苦しみに遭いましたね。きっと神様はわたくしを浄化して何か生みだして下さると信じています。
◆旅は道連れ
“旅は道づれ世は情け”、と下世話にも申します。孤独な一人旅もいいですが、危険ですし寂しいですよ。やはり気のおけない友か家族との旅がいいですね。安心ですし、何かの時に心強いですよ。イエス様が十字架に死なれ、弟子たちは離れ離れになり、クレオパともう一人の弟子は、メシヤ到来と期待した師が無念の死を遂げ、世直しの志は挫折して都落ちして、寂しい田舎道をトボトボ歩いていました。その時、独りの旅人が彼らに近づき、色々彼らの話を聞いてきました。やがて町にたどり着いて二人は宿を取り、旅人はなお先に進もうとする。二人は何か無性に寂寥感に襲われ、旅人に強いて同宿を願った。夕食の席でパンを裂き食前の感謝の祈りを捧げる旅人を見て、ああこのお方はイエス様だと気づいた。すると途端にイエス様の姿は消えたと言う。二人は、道々お話をした時、お互いの心は燃えたではないか、と証しし、試練の地、都に取って返したと言う物語がルカ福音書24章にある。そう、今も目に見えませんが、私たちの人生の旅の側に復活のイエス様は共に居て下さり、寂しく心もとない私たちを愛と、希望に温めて下さるのです。
「そこで、しいて引き止めて言った「わたしたちと一緒にお泊り下さい。夕暮になっており、日もはや傾いています」ルカ24:29
2022・7月号
「キラキラ・ネームから」
◆キラキラ・ネーム
キラキラ・ネームと言うのがあります。最近の親たちがこどもが生まれると付ける流行の名前で、―大空(すかい)、翔馬(ぺがさす)、白鳥(すわん)、海(まりん)―実際の役所に届けられた名前だそうです。流石に行き過ぎではないか、行政が専門家に諮問して検討中とか。まあ一昔前、我が子に“悪魔”と名付けた親がいましたが、それに比べればまだお愛嬌ではないかと思いますがね。
キリスト教文化圏では、バイブルの登場人物の名前を持った人が多いです。ジョン・レノンはイエスの弟子のヨハネ、ポール・マッカ-トニーは使徒パウロから由来しています。日本のクリスチャンも女の子にマリヤとか、男の子にヨセフとか付ける人もいます。もっとも、知人にダニエルと言う名前を付けられ、大人になって銀行で口座を開設した時、パスポートを見せてくださいと言われ、俺は日本人だと抗議した人がいます。ソムリエも学生時代の友人に伝道し、信徒になり、結婚式の司式も頼まれたのですが、女の子が二人与えられ、長女はマリアと名付け、いい名前だと告げましたが、次女は“天使”と来たもので、君ちょっと行き過ぎじゃないか、名前負けしないか?と聞き返しましたが、そのまま名付けましたね。名は体を表すとか言いますが、親の願いが込められた名前に応えられたらいいですね。
◆ザアカイと言う名前
バイブル(ルカ19:1~10)にザアカイと言う人物が登場します。エリコの町の取税人で頭でした。そこにイエス様一行が来られたのです。人気者イエス様を一目見ようと、群衆が集まり、ザアカイもやってきたのです。しかし背が低く、群衆に遮られイエス様を見る事が出来なかった。そこで彼はあきらめないで、一計を案じて近くにあったイチジク桑の木に登り、樹上からイエス様一行の到来を待ったと言うのです。やがて一行がやってきて、ザアカイが登る木の下まで来たとき、イエス様はハタと歩みを止め、樹上の彼を見上げておっしゃった“ザアカイよ、降りてきなさい。今日わたしはあなたの家に泊まる事にしているから!”、びっくりしたの何の。ザアカイは木から滑り降り、イエス様を自宅に招き、歓待したのです。
そもそも、当時の取税人は、ユダヤの国を植民地化したローマ帝国に税を納め、しかも税徴収権は請負制で、そこに付け込んで私腹を肥やす取税人が多く、ローマの権力を嵩に着てその手先となっていたため取税人は嫌われものでした。さらに取税人の頭だと言うのですから、輪をかけて憎まれていた存在でした。勿論、現代日本では税は公共のため用いられ、税務署員は大切な職業です。と言う事で、ザアカイの金力と権力に頭を下げる人間は多くとも、親友などいなかったでしょうね。富と権力はあるが、孤独。さらに“ザアカイ”と言う名前が問題でした。“義人”“きよい人”という意味でしたからね、日本名なら義人(よしと)とか清人(きよと)とでも言うのでしょう。イエス様が“ザアカイ、義人・きよい人よ!”と呼びかけられると、周りの人々は呟いたでしょうよ、何がザアカイ=義人・きよい人なものか、汚いやつが、と。それが証拠にイエス様がよりによってザアカイの家にステイすると知って人々はクレームを付けた“イエス様ともあろうお方が、罪人の家に泊まられるとは、何たることぞ、イエス様も金と権力には媚びるのか、見損なった”と。
彼自身もザアカイ=義人・きよい人と呼ばれ、親の付けたキラキラ・ネームに胸張って答えるのではなく、気恥ずかしい思いだったでしょう。厳しい社会を生き抜くためには、手も汚して、金力・権力を手に入れなければと頑張った。そして力をついに手に入れ成功者となった。しかし同時に、嫌われ者の孤独の寂しさを味わう羽目になった。人生の選択を誤ったかと悔悟の念が常にあったでしょう。そんな彼をイエス様は選んで、ステイされたのです。彼は感激のあまり“主よ、財産の半分を貧しい人々に施します。不正な取り立てをした人には、四倍にしてお返しします”と、計算高い彼には考えられない申し出をしたのです。イエス様は“今日この家に救いがきた。この人もアブラハムの子孫なのだから”と仰ったと言うのです。
◆リセットされた人生
われわれも、キラキラ・ネームではないかも知れませんが、親の願いに中々答えられない名前を頂いていることがあります。勿論中には出藍の誉れ、トンビが鷹を生んだ、と言うように親を超える人もいるでしょうが。しかし人の評価は別にして、内心のザアカイ=義人・きよい人の自己評価はどうでしょうか。歳と共にイノセント(無垢)は失われ、あちこちしみが付き、いやもう雑巾のような姿ですよ、と仰った方もいますね。でもいいのです。イエス様はそんな私達の処にやって来られ、“今日、わたしはあなたの家にステイすることにしている”とおっしゃるのです。そして、人生をリセットして、新しい自分を発見する事が出来るのです。それが私達の人生を訪れてあなたの生き方をリセットして下さるまれびとイエス様なのです。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」 コリントⅡ5:17
2022・6月号
「梅雨の恵み」
◆梅雨の恵み
梅雨に濡れてベランダのプランターに植えた花々が輝いています。特にバラは真紅で、“バーラが咲いた、バーラが咲いた、真っ赤なバラだよ”と口ずさんでいます。日本人の好きなビバルデイの「四季」に、梅雨はありません。モンスーン地域特色の季節です。昔、米国の学生を梅雨時にホーム・ステイさせていた時、盛んにヒューミッジ〃(蒸し暑い)と嫌な顔して呟いていました。しかしわれわれは梅雨もまた楽しからずやですね。
ソムリエが高齢者ホームで月一度のチャペル・タイムを担当していたころ、ほとんどの方は信徒でないので、讃美歌はなじみなく、数曲の懐メロ・ソングを歌った後、1曲だけ讃美歌を歌っていました。別のホームのチャペルでは、軍歌が懐メロだと担当の牧師から伺い、そう言う世代があるのだなあ、そんな時代の到来は二度と御免だと思ったものです。ソムリエ担当のチャペル参加者は童謡が懐かしく思い出される世代でした。
で梅雨時のチャペル・タイムは“雨雨ふれふれ、母さんが、蛇の目でお迎え、うれしいな。ピッチ・ピッチ・チャップ・チャップ、ラン・ラン・ラン”と、幼児に帰って大きな声で歌ったものです。
“雨が降らないと大地は沙漠になる”と言う諺があるそうです。気候変動で地球の砂漠化が進んでいるとの事。雨が降らない地域と、豪雨の地域が極端になっているようです。東南アジア、東アジアのモンスーン地域は、ほどほどの雨のお陰で稲作文明の恵みの雨ですね。しかしこの諺は、人生も晴れの日ばかりではかえって心が潤いを失い沙漠の様になり、無感動になる、という意味だとか。つまり余りに順調な人生は、痛み苦しみの分からない、浅薄な人間を作る。涙の雨、うれし涙、悔し涙、後悔の涙、涙には色々意味がありますね。涙の雨で潤された人生こそ、却って深く味わいのあるものとなる、と言う事でしょう。
◆干天に慈雨
ソムリエは「西宮北口聖書集会」が解散の憂き目に遭い、6月から「聖書を読む集い」を始めます。15年共に礼拝を捧げ、家族の様な親しい交わりを頂いた方〃との別れは胸痛いものです。15年間の苦楽の思い出は色々ありますが、最初の体験は特に忘れられません。始めの数か月間は、家人と2人だけの礼拝、家人が司会、ソムリエが説教、あるとき家人が言う、“あなた、声が大きすぎる。聴衆は私一人よ”と。なるほど数か月前までは140名の会衆に声を張り上げメッセージ、ついその癖が抜けず、それからトーン・ダウン。しかし色々PRしても、お祈りしても誰も来ない。だいぶ参った頃、ヒョッコリ一人の品の良い高齢女性がお見えになり、常連となって、やがて洗礼を申し出られた。洗礼式にもう一人さらにご高齢の女性、お姉さまが来られた。洗礼式の後の感謝会で、こう言ういきさつを話された。今日は妹の受洗式に立ち会う事が出来感謝です。自分はクリスチャンで、長年妹の救いのため祈り、礼拝にも誘った。しかし、妹は裕福で健康そのもので、ゴルフ三昧の日々、信仰など思いもよらない風だった。そんなある日、ゴルフ場でプレイ中突然倒れた、数日間意識不明、自分は神様に妹の救いと癒しを祈り続けたが、ドクターが危篤を告げ、家族親族集まるようにとの事で駆けつける。もう駄目かと思っていた時、突然意識が戻り、最初に口にした言葉が“イエス様!”だった。取り巻く家族も親族も驚いたの何の。イエス様が助けて下さった。回復した妹は、お姉さんの気持ちを軽んじ、経済力と健康自慢で神様などそっちのけ、いかに傲慢だったか。全ては神様のお恵みだったと気づき、悔い改めた。お姉さんが妹の自宅近くの教会を探すとき、ソムリエが開拓伝道を始めたと所属教会の牧師から紹介を受け、家人と二人だけの礼拝に来られ、信仰告白、洗礼の恵に与った次第です、とのこと。それからボツボツ礼拝来会者が増え、最後は15名ほどになったのです。この最初の来会者は、まさにソムリエにとって“干天に慈雨”でした。
今ソムリエは80才で新たな歩みに踏み出そうとしていますが、この恵みの雨を降らせて下さる神様を信じて進もうと希望を抱いております。
「嘆きの谷を通る者たちはそこを泉に変えます。前の雨がそこをまた祝福で覆います。」詩編84:6