“イエスの涙”
2026年1月14日
バイブル・ソムリエ 亀井俊博
◇阪神淡路大震災記念日
今年の1月17日は、1995年1月17日、午前5時46分52秒に起こった阪神淡路大震災から31年目になります。ソムリエは今もお風呂でシャンプーする時、恐怖心が起こって手早く髪を洗います。もしこの瞬間地震が起こったら困ると、30年もたっているのに、反射的に体がトラウマを思い出すのでしょう。天災は忘れた時にやって来る、と申します。こういう記念日の大切さは、日頃忘れている災害への備えを改めて再点検する良い機会だと思います。
先日のNHKラジオ深夜便(この番組を良く取り上げ恐縮です。年取ると深夜に目覚めることが多くなりますので)で、NHK仙台放送局の担当でした。2011年3月11日午後2時46分におこった東日本大震災のお話でした。ある住職の被災談とそれへの災害対策の専門家のコメント、局アナの反応で興味深かかったので紹介します。
◇東日本大震災のエピソ-ド
海岸から500mのお寺の住職のお話し。当日は出張で寺に不在で難を免れた。しかし寺の墓石は全て倒れ、建物は無事だったが中は無茶苦茶、60軒の檀家はほとんど被災、多くの死者を出す。住民のこころのよりどころ、先祖の墓が倒れ檀家は失意に襲われていた。そこで全力でまず墓石を立て直した。そして遺体安置所にもなった寺で、つぎつぎ亡くなった檀家の弔いをしたが、みな心安く付き合った人ばかりで、住職は泣きながらお経をあげていた。住職は当時は若輩であったそうですね。すると、先輩住職から、坊主が泣いてどうする!と注意されたと言う、おはなしでした。局アナからコメントを求められた、震災後地元の高校に新設された「災害科学科」の教師が、いやプロの厳しさを教えられました。多くの人が災害で感情に流される中にもプロは冷静さを失ってはならないと言う教訓だと思いますと、コメント。すると意外な事に局アナが反論を始めたのです。実は自分は当時入局したばかりの新人アナであった。ところが震災のニュースを語る先輩アナが日頃冷静で淡々と事実を報道なさるのに、泣きながらニュースを読んでいたと言う。アナウンサーの心得としては失格かも知れないが、自分は人間としてこの先輩アナの姿に感動しました。私としてはプロの先輩住職より、新米の感情に動かされる住職に共感しますが、と反論。
◇涙の意味
おそらく先輩住職の注意は、二重の意味があったのではないでしょうか。一つは人の死を弔うプロの住職が感情に左右されて、冷静さを失ってはいけない。プロの厳しさを教え。もう一つは、仏教の教えは、生老病死の苦からの解脱である。住職たる者が、親しい人の死と言う苦に直面して狼狽え泣くとは何事か、修行が足らん!と言う仏教者本来の姿を取り戻せと言う教えかも知れません。なるほどと思います。
しかしどうでしょうか。小林一茶の句に、“露の世は露の世ながらさりながら”と言うのがありますね。一茶が愛娘さとを天然痘で失くした時の句です。諸行無常、人間の命は所詮露の様にはなかいものだ、人は必ず死ぬ。生あるものは滅す、と言う事は仏教に教えられ身に沁みついている。だから生老病死の四苦にとらわれず、解脱した平静さで生きよと言う。それはそれで十分わかるが、さて我が最愛の娘を失った親の悲しみ、それは教えとは別の人間の真情でもあると。人は一茶の悲嘆に却って救われるのではないでしょうか。
宗教改革者M.ルターも愛娘ケーテを失くした時、“わたしは霊においては喜ぶが、肉においては悲しい”、と心情を吐露したと言う。娘が病の苦しみから解き放たれ天国に旅立ったのは一面感謝かも知れないが、地上での親子の固い絆を断ち切られて、悲しい。
◇イエスの涙
人間にはこの両面があってこそ真の人間ではないでしょうか。
死んで4日たったラザロの墓にイエスは来た。周りには弟ラザロの死を嘆き悲しむマルタとマリア仲良し姉妹が泣き、周囲の者達ももらい泣きしていた。それを見てイエスは深く感動し、心を騒がせ「イエスは涙を流した。」ヨハネ福音書11章35節とある。“エダクリュウセン・ホ・イエスース(ギリシャ語)、Jesus wept.(英語)”もっとも短い聖句だと言う。イエスは泣かれた、のです。親しい友ラザロの死を悲しみ、愛する肉親を失った悲しみにくれる家族や友人たちの涙に共感したのです。そしてその後、“ラザロよ出てきなさい”(11:43)と大声で墓に向かって呼ばわり、ラザロはよみがえったと言うのです。死の悲しみを心底知る者だけが、心底悲しみを喜びに帰る変える事ができるのです。ブッダは悲しみに共感し、諦めの解脱を教えた。しかしイエス様は死に打ち勝つ復活の永遠の命を与えられるのです。死は勝利の飲まれ、悲しみの涙を喜びの涙に変えられるのです。
阪神、東日本、両大震災の復興の影に流された多くの涙を覚え、その根本的癒しを求める時
としたいのです。ソムリエはあの時、教会付属の幼児園の園長として、園児を倒壊した自宅建物
の下敷きになって失ったお母さんの悲嘆、死への願い、イエス様への信仰による立ち直りに寄
り添わせていただいた経験から、もう一度、イエス様の涙の意味を思い起こすのです。
“はじめにイメージありき”
2026年1月7日
バイブル・ソムリエ 亀井俊博
◇何で食っていくか?
新年明けましておめでとうございます。今年もブログご愛読の程、よろしくお願い申しあげます。さて新年早々年寄りの孫自慢は嫌がられますが、まあお許しください。孫が大学の就活になって、理工学部ですので、どこへ行くかと思っていたところ、半導体の設計を目指し、無事その方面の企業に決まり、来春には関東に引っ越すとの事。この知らせを受けた頃、NHKの番組で(9月7日“1兆円を託された男~ニッポン半導体復活のシナリオ”)、日本の半導体製造のリベンジに国運をかけた会社“ラピダス”の社長の奮闘記が放映され、孫関連で関心満開の思いで放映を見たわけです。
そもそも21世紀の日本は何で食って行くか?鉄鋼、造船、原発、家電、TV、化学、かつての日本のお家芸はことごとく沈没、今や自動車産業一本足打法と言われています。これも、今回のトランプ関税に狙い撃ちされ、80兆円もの米国投資で辛くも、沈没は免れたが、先行きどうでしょうか。もちろん観光立国、アニメ・エンタメ、Jポップ、クールJapan、山中教授のI‘Ps医療、量子コンピューター、夢の核融合発電、等がありますが、国民を養うにはほど遠い。何とか自動車産業並みの基幹産業がもう一つ欲しい。そこに産業の米と言われる半導体産業復活を説いて手を挙げた男がいたのです。かつて半導体は日本が世界のトップでした。しかし生産システム造りに失敗して、今日の惨めな状況になった。日本の半導体産業は、設計、製造、販売が企業内で一貫して実施、垂直分業。しかし、台湾のメーカーは、他国のすぐれた設計(ファブリス)を委託生産(ファブリーズ)に特化する水平分業化、急速に精度を上げ、あれよあれよという間に日本は水をあけられたのです。当初から台湾方式に優位性を見抜いた、日立の技術者小池淳義(現在73才)が会社にシステム転換を説いたが却下。彼は退社にして他の分野で活躍していたが、この度日本の半導体復活計画に手を挙げ、全国や世界に散った同志を糾合、オールジャパン体制で取り組んでいる。失われた30年の回復を目指す。そして千歳の工場でこの度初めて試作品を世に問う事が出来た。
◇莫大な税金を投じる責任
NHKは当初からこの経過を追った。だがしばしば取材はここまでと断られ、小池社長に食い下がった。2兆円と言う莫大な税金が投じられる。官民合わせ5兆円規模の国家プロジェクトだ。密室にしてはいけないのではないか?国民に経過をオープンにすべきだ、と。すると小池社長は、TVの映像が問題だ、世界でしのぎを削っている同業者は、ちょっとした映像を見て企業秘密や、研究過程で行き詰っている所はほぼ同じなのでそれを突破して居れば、見る人が見れば直ぐわかる。だから国策が成功するために、ある程度以上は公開できない、ご理解ください、という。
◇初めにイメージありき
ソムリエは小学校、高校と放送部員で、特に放送機器の製作、運用の担当でした。部員は大抵電気工学に進んでいました。そのころは真空管全盛時代でしたが、あるときから半導体、ダイオード(整流機能)、トランジスタ(増幅機能)が電子工学関係の雑誌に載り、東通工(東京通信工業、後のソニー)が初めてトランジスタを量産したころでした。早速ソニーに手紙を出し、是非見本を送ってほしい、高校文化祭に展示したいと要望。しばらくすると、見本が送られてきました。流石、高校生だと軽んじないで技術の関心を寄せる者を大切にするソニーだと感心したものでした。真空管に比べ、はるかに小さい物で、こんなもののどこがいいのかと思っていましたが、あっという間に真空管にとって代わりました。
台湾のTSMCは中国との関係が不安で、リスク分散のため、日本の熊本に工場を建てています。賢いやり方です。しかしそれは最先端半導体ではない。日本に最先端は獲られないよう用心している。最先端はやはり、自分で製造するほかないのです。世界が目指すは回路線幅2ナノ(nm)をめざす最先端ロジック半導体。ラピダスは2027年量産予定。できるかできないか確約はだれもできない。しかし、社長と親しく、支援のため500億円もする最新製造装置をラピダスに納入してくれたオランダの会社の社長は、世界には2種類の人間しかいない。“これはできない”と言う人間と、“やればできる”と言う人間だ。小池社長は後者だ。だから支援すると言う。NHK記者は、しつこく多額の税金を投じています。できなければ壮大な無駄になる。国民にどう申し開きをしますか?と問う。小池社長は“できるかできないか、やって見なきゃわからん。できると信じてやるだけだ!“と答えていた。
日本の将来を拓くのはこう言う人物だと思う。足を引っ張るのに長けた人間の多い中で、この様な重圧に耐えて、チャレンジする人間を大切にし、応援したい。
バイブルに「初めに言があった」と言う名句があります。ある人がこれを“初めにイメージがあった”と訳しましたが、まさに当たっています。“できない”とイメージすれば、そりゃできないでしょう。しかし“できる”とイメージすれば、必ず可能性がありますよ。世界と鎬を削る世界に飛び込む孫へのはなむけともします。若い信徒ですので地元の教会で良きイメージの信仰が養われることを期待しています。
「初めに言があった。」ヨハネ福音書1:1
“ヤコブの条件”
2025・12・31
バイブル・ソムリエ 亀井俊博
◇ヤコブの条件
いよいよ年も押し迫り、今日は大晦日、明日は新年を迎えます。あわただしい日ではありますが、一年を振り返り、感謝・反省そして希望・期待を持つ日でもあります。ソムリエは、年末にはいろんなところから、カレンダーを頂き部屋の要所〃に掲げています。また、新年用の手帳を買って、来年の予定を書き込んでいます。
ところで、ヤコブの条件と呼ばれるバイブルの有名な箇所があります。
「さて、「今日か明日、これこれの町に行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」と言う人達、あなたがたは明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは、つかの間現われ、やがては消えてゆく露にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。」(ヤコブの手紙4:13~15)。この歳になると深くこころに沁みる聖句、警句です。なぜなら今年も何人もの知人が亡くなり、今も緩和病棟にいるからです。
◇10年カレンダー
103才で召されたキリスト者ドクター、聖路加病院長を長く務められた日野原重明先生は、10年手帳と言う珍しいノートを持っておられた。大変有名な方で各方面から講演を依頼され、10年分の予定で埋まっていたと言う。90余歳でアメリカで講演なさり、来年も同じ団体から依頼を受けており、皆さん来年またお会いしましょう、と締めくくられたそうです。そのタフぶりに、ソムリエの知人の80代の内科医が、われわれ医師のモデルですよ、とおっしゃっていましたが、医師だけでなく人生100年時代の生き方の指標でした。しかしその日野原医師も、10年手帳の予定全てを全うすることなく亡くなられた。
最近の人間はしきりに自己決定権を主張する。自分の人生は他人や、神でもなく自分が決定する。男性か女性かも、どうもしっくりしなければ性転換していい。さらには、安楽死も認め、もう生きるに価しないと自己認識すれば、死を選ぶ自己決定権がヨーロッパでは承認されています。日本ではそうでないので、自殺念慮の方がネットに投稿、同感した医師が、注射して死に至らしめ、逮捕されています。さらに子孫が良い遺伝子ばかりもって生まれるよう、デザインベイビーも考えられています。誕生から死まで、全てを自己決定の支配の元に置きたい。自分が神の様になって自分の生涯を計画したいのでしょう。せめて来年のカレンダーに予定を書き込み、自分の自己実現をはかりたいのでしょう。
しかし、ヤコブは言います。人間は明日の命も保障はない。“露と起き、露と消えぬるわが身かな、難波の事は夢のまた夢、死にともない。〃”と、黄金の大阪城の栄華を残して死んだ秀吉の様に、露の様にひと時キラリと輝き、やがて消えゆくはかない存在なのです。自分と言う個体は維持できても、それも甚だ怪しいもので、不治の病は次々現れ、文明が発達すればするほど病も増えます。また思わぬ事故、疫病や地震、戦争等の災害に巻き込まれ、今年の様に熊に襲われないとも限らない。ソムイリエは時々、今まで生きて来れたのは奇跡に近いなあ、と実感します。
ですから、ヤコブは警告するのです。「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきであると。本当に、神様だけが全知全能で、その御手の中で、我々の人生の始めも、中ほども、そして最後も保たれているのです。自分を神の様に思うのは、傲慢です。そして神様の愛の御手の中で、今年も過ごさせて頂けたことを感謝し、至らなかったことを悔い改め、神の御子の十字架の贖いによりお赦し頂き、来るべき年もその御手によってお導きくださいと希望を祈るべきです。
◇日めくり
同い歳の知人が、カレンダーをやめて日めくりにしたと電話してまいりました。
なるほど、カレンダーに予定を書き込むと同時に、明日の保障は誰もない知恵を以て、内村鑑三の“一日一生”の思いで、日めくりを用意しよう。
ソムリエの尊敬する沖縄那覇市のキリスト教オリブ山病院理事長、田頭真一先生が「死と言う人生の贈り物」と言う著書の中で、余命宣告を受けホスピスに入院した患者が、死の不安と過去の悔いで、枕元の日めくりに毎日×印をつけていたが、病院のチャペルで福音を聞き、信じ救われ、それ以来日めくりに〇印をつける様になって、感謝の内に神に召されたお話しを記されている。読者の皆様の来るべき年が、神の御手のうちにあって、〇印となりますように。
“「22世紀の民主主義・資本本主義」を読む”
2025年12月24日
◇22世紀の社会
年の瀬も押し迫り、世の中は1年の仕上げに忙しくしています。また、余裕のある人は来年の事を考えているでしょう。そういう時、遠く22世紀を考えた学者がいますので、紹介します。「22世紀の民主主義」、「22世紀の資本主義」と言う、興味深い2冊の本を世に問うた、若き経済学者、成田悠輔氏です。氏はよくTVにも出演し、片方が丸く、他方が四角形という奇態な眼鏡をかけています。また東大経済学部で最優秀卒論に与えられる大内兵衛賞受賞後、MITでPh.dを取り、スタンフォード、東大で研究、現在夜はイエール大助教授、昼は半熟仮想KK代表、専門はデータ・アルゴリズム・ポエムを使ってビジネス、公共政策、教育、医療政策と幅広い社会科課題解決に取り組み、報道番組、お笑い番組にも出演する、型破りの天才的学者の様です。
本来、2冊の本は別々に紹介、論評すべきでしょうが、ソムリエは両書を読んで、関連が深く一体として論評した方が良いと思いましたので、以下そういたします。
◇両書の前提、柄谷行人論
両書の前提として、成田は、思想家柄谷行人の交換様式論(「力と交換様式」)に立つ。人間の発明してきた価値の交換様式は3つある。交換様式Aは“共同体”で実施される。そこに働く力は“文化常識”であり、交換様式は“贈与と返礼”である。交換様式Bは、“国家”であり、力は“政治権力”であり、様式は“略奪と分配”である。交換様式Cは、“市場”であり、力は“経済資本”であり、様式は“貨幣と商品”である。
しかし、各交換様式はどれも、欠陥を抱える。交換様式C:市場(経済資本)は格差と階級を作り出す。B:国家(政治権力)は腐敗と無駄を作り出し、戦争を引き起こす。A:共同体(文化常識)は閉塞と束縛を作り出す。と成田は要約する。そしてこれらの欠陥を持たない交換様式Dの将来の到来を柄谷は説く。それは国家Bのように国民に価値分配ができ、市場Cのように自由で、しかも共同体Aのように平等な交換様式Dである。そしてそれは未だ達成されていない。「Dとは、BとCによって封じ込められたAの“高次元での回復”にほかならない。」(柄谷)。それが到来するまで「戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、“Aの高次元での回復”としてのDが必ず到来する。」(柄谷)。そして柄谷はDの力は霊的力だと言う。この論の上に、成田は交換様式Dの世界を霊的力でなく、成田の信頼するコンピュータの力によって実現させようとしているのが、両書のポイントです。
◇22世紀の民主主義
まず、「22世紀の民主主義」ですが、そこでは国家は懐かしい「夜警国家」に戻る、という。つまり外交・安全保障・治安が主な国家の役割になり、国家は国民の自由な活動を保障する安全装置化する。現在世界は民主主義国家VS専制主義国家の争いになっており、対応の早い専制国家の優位性が目立つ。しかしその国民の自由な基本的人権は保障されていない。この矛盾を解決するのがコンピュータだと言う。民主主義国家は、為政者を選挙で選び、為政者は国民の多様な要望を代表する複数政党の協議に委ねる。だから相互の利害が絡み、腐敗し、国家管理機構(官僚組織)に時間と金の無駄が多すぎる。要するに経費が掛かりすぎる。政治とは国家が徴税権で集めた税金を、国民の必要に再配分する機能であるが、その為の腐敗と無駄が民主主義の必要悪として多すぎる。そこでコンピュータで、国民の健康、嗜好、趣味、欲望、・・無意識の欲望迄含めて、あらゆるデータを集めて、国民の要望をリアストアップし、そこに優先順位をつけて政策立案をする。コンピュータを遣えば訳はない。現在政界の必要悪である人間の利害対立と調整費もかからない、国民はコンピューの提供する自分の欲望に沿った政策に満足する。しかも現在の政治への不満は解消する。既にネットの世界では、自分の必要と思う商品が絶えず表示されるではないか。問題はこのコンピュータのアルゴリズム(計算手順)を誰が、どう作るかだが、今はGAFAMが自分の利益を最大にするアルゴリズムを作り、その中身はブラックボックス化している。その結果世界はGAFAMの支配下に置かれており、日本も5兆円もの代価を彼らに支払っており、テクノ封建制と批判されている、GAFAMがデジタル世界の封建領主で、個人や他の会社や国家さえ、小作人になって小作料を支払わないと生きていけない状態ではないか!しかし成田は楽観的で、公平なアルゴリズム作成もコンピュータに任せられる様になると言う。かくして、腐敗と無駄の原因である政治抜きで、しかも無駄な官僚機構抜きの民主政治が実現するのが22世紀だと成田は説く。
◇22世紀の資本主義
次に22世紀の資本主義経済ですが、全てを市場に投じて需要(D)と供給(S)の一致点が見えざる手で導かれ価格(P)が一物一価として決定する、これが資本主義経済です。誰でも自由に市場に参加でき、差異性ある商品を投じた者が、利潤を得る。リスクをとるアニマル・スピリットに満ちた経済人の活躍の場がそこにあり、自由競争により経済は活性化する。しかし、結果は格差と、階級と恐慌が生まれる。現在世界の状況はまさにこの矛盾が覆いつくしている様です。
そこで成田は、経済にもコンピュータを導入する。即ち“一物一価”の市場価格ではなく、人間個人〃の社会的価値を、その人の略歴全てをデータ化し、スコア(社会的信用度)化する。そのスコアに応じて、金持ちには同じ商品でも価格を高額に設定。そうでない者には廉価にする。“一物多価”にすれば、市場は不要になる。そうなると金持ちは高額を支払い、貧しい者は廉価となり、社会は平等となり、格差と階級はなくなる。さらに略歴データに社会的貢献度が高ければ多くの可能性が拓かれ、低い人間や非あるいは反社会的行為の人間があれば、ペナルテイが課されてスコアは極端に低くなり生存が危うくされるので、犯罪行為も減少し、社会は安全になる。すでに中国では人民のスコア化が進み、スコアが低くなると物を買う事すらできないようになり、犯罪は減少しているではないか、と言う。
◇感想
まずソムリエが意外に思ったのは、22世紀にも民主主義と資本主義が生きていると、新進気鋭の社会科学者が前提している事です。柄谷は、国家と資本主義が存続する限り、戦争と格差は無くならないと断じています。しかし成田は価値の再配分機能としての国家は解消するが、夜警国家としての国家は認めていますので、やはり戦争は無くならない、と言う事になります。また、市場なき資本主義を考えています。しかし資本の自己増殖運動としての資本主義は認めていますので、国民のスコア化は何らかの新しい格差になるのではないでしょか。成田はスコア上での破綻者のリセット方法も考えている事からも、スコア化の問題性に気づいています。スコア化社会は新しい階級社会となりますよ。
22世紀社会の中核は、コンピュータです。現在進行中のAI(人工知能)の驚異的性能進展によるものです。その際、問題はアルゴリズムをどのような価値観で、誰が作成するかの問題は最後まで疑問です。成田は、コンピュータが、AIが驚異的に進化してあたかも無謬な、全知全能の働きをするようになると前提があります。社会学者上野千鶴子氏は、成田との両書をめぐる対談で(「成田悠輔の聞かれちゃいかない話、第3回、上野千鶴子×成田悠輔」文春 2025・5月号)で、あなたはコンピュータによる世界の予定調和が可能と思っている、と批判しているが、まさに核心を突いています。成田の22世紀はコンピュータを神とする世界ですね。専門家は超知能を持つAIが人間のコントロールを離脱し、暴走する危険性を警告しています。
結局、成田は、テクノ・リバタリアンと同様に科学技術によるユートピア幻想をもっているのでしょう。その点、高齢の柄谷は、そんなヒューマニズム的楽観主義を採らない。霊的な何ものかが到来する希望に賭けるとしている。しかし霊的であれば何でもいいのではありません。バイブルによれば、聖霊もあれば悪霊もあるのです。既に現在のネット世界は、悪霊に支配されているとしか思えない状態になっているではありませんか。全知全能なのは、コンピュータやAIではない。神のみがその名に値するお方であると言うのが、バイブルの主張です。人間の罪性を甘く見てはならない。そしてキリストの贖罪による救済をスルーして、ユートピアを描いて人間を欺くえせ学者に騙されてはならない。
ソムリエは、17世紀近代化のキリスト教起源解明、18世紀啓蒙思想による「聖俗革命」以来のキリスト教否定による現代の悲惨さ、キリスト教回復による、近代化運動:近代科学、近代民主主義、近代資本主義経済の再興を説いています。
ブドウの枝も樹につながってこそ、実を結べるように、文明も個人も神につながってこそ、豊かに実りがあるのです。
「わたしはブドウの樹、あなたがたはその枝である。わたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」ヨハネ福音書15:5
“クリスマス、民俗学”
2025・12・17
◇民俗学
今年は日曜早朝のNHK第二ラジオ番組、「日本を見つめる巨人折口信夫」、を聴くのを楽しみにしていました。講師の上野誠先生の口調の柔らかい、名調子にうっとりしたものです。講師のおっしゃるには日本は明治以来、ひたすら文明開化・近代化にまい進し、日本文化を否定しがちであった。しかし脚下照顧、足元を疎かにしてはいけない。自分たちの受け継いだ豊かな精神遺産を忘れてどうしますか。それは日本人の精神的自殺行為です。ここに日本人のこころを再評価した、“民俗学”を拓いた柳田国男の偉大さがあります。よく似た学問に民族学がありますが、それは権力者・支配者の歴史であって、一般庶民、常民の生活ではない。民俗学は名もなき庶民こそが社会と歴史の主人公だと言う、宣言です。
ソムリエは中学、高校の国語の教科書で、柳田の文を知りましたが、何とも古い話ばかりで、香川県の地方から都会に憧れていた少年には、うっとおしい、切り捨てたい過去のしっぽの様でした。
しかし、不思議ですが、キリスト信徒になって、かえって普遍的なキリスト教を日本人としてどう受け入れるか、と言う課題に目覚め、再評価するようになりました。さらに柳田の弟子と言うか、大きく視点の違う折口信夫の民俗学を知った時は、衝撃を受けたものです。それは決定的なできごとがあったからです。高校教師になった時、同僚の国語教師にO先生と言う、国学院出身で折口の孫弟子を自認する方と知己を得たことです。彼はソムリエを耶蘇坊主と呼び、ソムリエは原日本人と彼を呼ぶ、軽口を叩きながら、ソムリエは彼にキリスト教を、彼はソムリエに折口民俗学を説き、互いの相違を認めつつも、深いところで共鳴、共感する関係となりました。夏休みに一緒に全国を民俗学研究の旅行をしないか、国学院時代の友人たちが全国で神社の神主をしているので、ただで神社に泊めてもらえるから費用は心配ないと、誘われました。ソムリエは残念ながら日曜ごとに牧師をしていましたから、断りましたが、懐かしい思い出です。O先生は若くして亡くなられ、その“もののあはれ”を知る余りに繊細なこころが、社会に耐えられなかったのではなかったかと、惜しまれてなりません。
◇柳田民俗学、折口民俗学
柳田は、農林官僚ですが世界に目の開かれた学者でもあり、日本人のこころを重視し、ドイツの民俗学に触発されつつも、彼独自の境地を開拓しました。彼の原型は稲作農村共同体です。先祖から現在さらに子孫に受け継がれる家族、村落共同体こそ日本人のこころのよりどころです。ですから日本人の宗教も祭りも、祖霊を大切にし、祀るところにあります。個人の悟りを基とする仏教も、日本では先祖崇拝にすり替わっています。彼の育った播州へ行けば、落ち着いて稲穂豊かに実る農村の佇まい、日本の原風景に出会います。また同じ播州出身の倫理学者、和辻哲郎も人間(じんかん)の倫理学として、やはり平和な共同体の倫理学で、静的で安定した村落共同体の継続と言う、農村の願いが共通しています。
それに対して、折口は動的です。共同体を外界、異界から訪問者が来るのです。そこで平和、安定、静的ではあるが、停滞、退屈、和はあっても異議申し立てを許さない同調圧力の息苦しさがあるのが村落共同体の実相。しかし異界からの来訪者により、その和が乱され、革新され、古いものが解体し、何か刷新される。来訪者こそ真に共同体を維持、進展させる原動力となる。それが“まれびと”ですね。宗教的には来訪神です。時に共同体を訪れ、祝福して去って行く。古くは山の幸、海の幸をもたらす、山彦・海彦伝説、万葉集における天皇の地方祝福の国見の歌。新年に訪れる年神の年賀の祝福、近くは芭蕉の俳諧の旅、奥の細道で巡った地方各地を寿ぐのが、芭蕉の紀行文中の俳句でしょう。またそもそも柳田の言う共同体の祖霊は、いつもは“常世の国”にいて、お盆の時に迎え火を焚いてお迎えし、当日祀り、終われば送り火を焚いてお送りする来訪者です。と言う事で皆〃、“まれびと”ですね。
ソムリエは、柳田の基本的立脚点に同意します。しかしまた、折口のまれびとに、開かれたこころに、新しいものを歓迎して、ともすれば自閉して、閉塞感に窒息しがちな、島国日本社会を打破する精神に深く共感するものです。
◇クリスマスと民俗学
クリスマスに当たり、その民俗学の2つの概念でキリスト降誕の意義に照明を与えたいのです。一つはこの「まれびと」です。もう一つは「貴種流離譚」です。
新約学者によると史的イエスは、遊行カリスマ的治癒神、Wandering charismatic
Healerであった、という。当時の地中海沿岸、西アジアの宗教は、神殿があって、そこへ善男善女がお参りに来る。現代の言う、聖地、スピリチュアル・スポットに巡礼してお陰に与るというものでした。しかし、ギリシャのアスクレビオスと言う治癒神は、病める者を訪ね歩いて癒したのです。その治癒者の中から、後に医聖と呼ばれたヒポクラテスと言う医師のモデルが生まれたのです。そしてイエス様は、神殿神ではなく、病者を訪ね歩いて癒しました。その違いは、アスクレピオス神は、ハンセン病、悪霊憑き、死者には触れなかった。汚れた者と見做されたからです。しかしイエス様は、遠慮なく、ハンセン病者にタッチし、悪霊を追放し、死者に触れて蘇えらせたのです。イエス様は、アスクレピオス医神さえ見放された病者に触れて癒されたのです。ここに当時のローマ帝国世界にキリスト教が広まった秘密があると言います(「治癒神イエスの誕生」山形孝夫)。「見よ、わたしは戸の外に立って、叩いている。私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその中に入る。」(黙示録3:20)、と今もイエス様は、私たちの人生に訪れ、疲れ、病み、嘆く者の元に来て下さり、重荷を取り去り、癒し、安息を与えて下さるのです。
第二に、折口民俗学の説く「貴種流離譚」です。折口は、まれびとの素姓はしばしば、貴種(貴い生まれ育ち)の方が、何かの不遇な出来事や、使命を帯びて、普通の人に身をやつして世俗世界に流離した。そして再び脚光を浴びて元の地位に戻ったり、使命を果たして去って行く、と言うのです。国民文学「源氏物語」も、主人公光源氏は、帝の子でありながら、醜い政争によって都を追われ、明石に流され不遇をかこつ。しかし政は改められ、光源氏は都に復帰し、位人臣を極める立場に戻る長編物語です。源義経も、その勲功を兄の将軍頼朝に妬まれ、追い落とされ奥州藤原氏の元に落ち延びる、歌舞伎の勧進帳の名場面は日本人の涙を絞ったものです。またTVでおなじみの水戸黄門さんは、天下の副将軍ながら、すけさん・かくさんを伴い、諸国を漫遊して、悪代官をやっつけ、危機の時に、越後のちりめん問屋の御隠居と触れ込んではいるが、元はと言えば天下の副将軍、その証拠の印籠を高く掲げ、これが見えぬか!。悪人どもはひら蜘蛛のようにひれ伏す。一度言ってみたいが、そうはいかないのが現実。せめてTVの世界で留飲を下げる。いわゆる貴人のお忍びの姿ですね。
◇まことのまれびと、貴種流離譚、イエス様
バイブルによれば、イエス様も、本来は天地創造の父なる神の独子でありながら、汚辱にまみれた世界に、“まれびと”として遣わされた。貧しき大工の家に生まれ、しかも旅の途中で、宿がなく家畜小屋に泊り、飼い葉おけに生まれ、成人して大工として力仕事に汗し、やがて齢い30にして使命に立つも、権力、財力、学力指向でなく、社会で抑圧された弱者の友となり、病者を癒し、悪霊を追い出された。しかし支配者は彼をメシヤと認めず、死刑を宣告。まさに貴種流離譚そのものお方であった。そして最後は全ての人の罪を身代わりに負い、その血の代価によって、罪を贖って下さり、葬られ3日後に墓を破り死に打ち勝って復活され、目には見えないが、まれびとイエスとして、我々の心の戸をノックしておられる。
賛美歌121番にあるクリスマスの名曲、1番「馬槽の中に、産声上げ、木工の家に、人となりて、貧しき憂い、生きる悩み、つぶさになめし、この人を見よ。」2番「食する暇も、うち忘れて、虐げられし、人を訪ね、友なき者の、友となりて、心砕きし、この人を見よ。」、3番「すべてのものを、与えしすえ、死の他何も、報いられで、十字架の上に、上げられつつ、敵をゆるしし、この人を見よ。」、4番「こ人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、現われたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる、活ける神なれ。」に言い尽くされています。まさにイエス様こそ、「貴種流離譚」に最もふさわしいお方ではありませんか。日本の同胞よ、このクリスマスこそ、こころの戸を叩く、まれびとイエス様に応じて、心の戸を開き、救い主としてお迎えしようではありませんか。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になれた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:6~8
“大川修平牧師召天6周年記念に際して”
2025・12・10
◇大川牧師様メモリアル
毎年12月の第二日曜日は、私が兄事した故大川修平牧師の召天記念会が師の牧された高知ペンテコステ教会で催されます。今年も、早いもので6周年を迎えます。そこで毎年この頃になると、師の御生涯から受けた恵みを思い起こし、感謝の念を新たにしており、一筆その思いを書く事としております。
◇神学者研究家としての大川牧師様
大川牧師は、偉大な伝道者、牧師、神学者、教育者として大きな足跡を残されました。その晩年の数年間、牧師様はキリスト教史の中に、大きく輝く神学者たちの研究に打ち込まれ、まとまるごとに論文としてご恵贈頂いたのです。アウグスチヌス、トマス・アキナス、エラスムス、ルター、カルヴァン、ウエスレイ、最後はバルトに取り組まれておられました。それぞれの著作に取り組まれ、諸研究書を読み込まれ、しかも牧師様の明晰な頭脳と、深い信仰からくるそれぞれの神学像を鮮やかにお示しいただき、どれほどソムリエの養いとなった事か、今思い起こしても感謝に耐えません。
今回は、特にエラスムスとルターを論じた大川牧師の評価をご紹介したいのです。人文学者(フマニスト)エラスムスはヨーロッパ中世末期から近世を準備した、偉大な学者で、当時のヨーロッパ各地を巡って学識を深め、論じ、最高度の敬意を払われた人物です。神学的にもカソリック教会の様々な、異教的要素を排し、聖書原典を校定、本文確定し、聖書本文批評学の基礎を築いた人物で、その後の聖書学の発展の祖となりました。宗教改革者M.ルターは、エラスムスのギリシャ語新約聖書に基き、彼の信仰義認の聖書的根拠とし、またドイツ語聖書の翻訳を成し遂げることできました。まさに宗教改革の見えない礎は、エラスムにあると言うべき恩人でしょう。しかしその偉大な業績への敬意とは別に、ルターは激しくエラスムと対立したのです。そして大川牧師はエラスムスに軍配を上げておられたのです。
◇エラスムスとルター
一般にエラスムは「自由意志」を強調し、ルターはそれを否定して「奴隷意志」を説いた、とされます。カソリック神学をエラスムスは組し、信仰に人間の自由意志を加えて救済を説きます。しかしルターは、神に背いた人間の徹底的堕落を説き、救いを選び取る人間の自由意志も否定し、救済においては人間の自由意志は罪の奴隷と化し働くことができず、ただ神の恩寵により、またこれを信じる信仰によってのみ救済される、と説いた。プロテスタント正統福音主義神学はその様に理解します。ですから人間の自由意志を尊重するヒューマニズムの一般社会からは、ルターは嫌われます。日本でもほとんど理解されません。ただ、経済学ではM.ウエーバーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」研究以来、資本主義成立の精神は、ルターの「奴隷意志論」をさらに突き詰めた、J.カルヴァンの「二重予定説」にあるとの大塚久雄の学説が受け入れられ、定説となっております。
しかし、大川牧師はそう言う事は百も承知の上で、ルターの福音主義神学に立ちながら、なおエラスムスの「自由意志論」から学ぶべきことを説かれました。それは救済論は別として、ルターは余りに極端に過ぎる、彼は著作の中でエラスムスを口汚く非難します。しかしエラスムスは礼を尽くして応じています。ルターは自分の発見した真理を守るため、論敵を激しく攻撃しますが、エラスムスは自分と意見の違う者の自由を尊重します。この姿勢の大切さを大川牧師は評価されたのだと思います。
ヨーロッパは、二度の大戦から不戦を学びEUとして統合されています。そこで教育研究の面でも、国境を越えて学生が自由に交流し、ヨーロッパのどこの大学で学んでも単位が通用する大改革を行い、1987年「エラスムス計画」(EU生涯学習計画)としました。たとえ対立する意見であっても相手を否定せず、その自由を尊重するエラスムス精神こそ、これからの人類の生存になくてはならないものだからでしょう。
◇大川牧師様を今に
現在、余りに独善的、独断的専制政治家たちが世界を牛耳り、自分に逆らうものを傷めつけ、排除しています。日本社会もその兆候があります。今こそ、大川牧師が、様々な意見を異にする人間を尊重し、愛し育てられた、私もそのお恵みを頂いた一人です、エラスムス精神の回復の時だと痛切に思います。
「キリストは、自由を得させるために私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」ガラテヤ人への手紙 5:1
“秋深し”
2025・12・3
◇秋深し
12月3日と言うと、師走に入り何かと気ぜわしくなりますが、何せ近年は極端に暑くまた長い夏が続き、その分秋が遅くなり、冬を向こうに押すような感じです。と言う事で、“秋深し”です。ソムリエの寓居から見える六甲の山並みも、緑が濃くなり、青みがかり、やがてあちこちに紅葉し錦秋となるでしょう。
◇ハーベスト 秋は英語でハーベストと言いますが、収穫の時です。暑い季節を耐えて田畑を汗して世話した農家は、豊かな実りを手にします。「涙を以て、種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」(詩編126:5)の通リです。人生も働きが苦労のわりに正当に評価されなかったと不満の方もあり、あるいは若い時もっと頑張っておればよかったのに、年取って不遇の方の悔やみ、もあるでしょう。しかし多くは真面目に働き、それ相応の評価を得ておられる。最近ソムリエは4人の方々から、理事長の就任あいさつを頂き、直接拙宅を感謝のため訪れられた夫妻や、電話、メイル、書状で謝意とあいさつを頂戴しました。大病院、学校法人、福祉事業、NGO・・分野は違いますが、それぞれに責任ある立場に就かれた方々ばかりです。おひとりひとりの若い頃の信仰姿勢のまっすぐな事、下積みの時期の大変な苦労や、人生や事業の危機に際し相談と祈りの支援を要請され、真剣に対処させて頂いたことなど、思い出します。神様は真実な方で、それぞれに豊かにお報い下さったと感謝せざるを得ません。まさに、人生における収穫の秋を迎えておられるなあ、と喜んでいます。
◇フォール また秋はフォールとも言います。落ちる、と言う事。“桐一葉、落ちて天下の秋を知る”(片桐且元)、桐の紋様の豊臣政権が崩壊し、葵の紋様の徳川政権が取って代わる、世の変転を実感する。今年の政局の展開もそれを裏付けます。ソムリエも、この歳になりお元気ですねとお世辞を言って下さるが、実態はフレイルです。フレイルとは何か?と思っていたところ、フライリテイとのこと。シェイクスピアが、Oh,frailty,Thy name is woman!”ああ、弱き者、汝の名は女なり!とハムレットに言わしめた、あのフライリテイです。最近は、こんな事を言えばハラスメントになりますが。弱さ、はかなさ、脆さ、を現します。青年、壮年の頃に比べ、歯は抜け、視力も落ち、白内障手術、耳は遠くなり補聴器のお世話になり、歩くのもふらふらし、友人はとっくに杖をついており、しきりに勧める。記憶力も減退し、ブログを書いて止めようともがくが、同じような事ばかり書いてるような気がする。時には気力もなくなり、早くお迎えが来て欲しいと、昔の老人が呟いていたのを実感する事さえあります。
◇リルケの”秋”
”葉が落ちる、遠くからのように落ちる、/大空の遠い園が枯れるように、
物を否定する身振で落ちる。/そうして重い地は夜々に/あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。/我々はすべて落ちる。この手も落ちる。/他を御覧。総べてに落下がある。しかし一人ゐる、この落下を限なくやさしく両手で支へる者が。”
“秋“リルケ (芳野粛々 訳)
知人にどこどこまでも底なしの谷に落ちていく夢をよく見て、汗びっしょりと言う方がいました。しかし、イエス様の十字架の腕の上にしっかり抱き留められている事を知り、平安を得られたのです。秋の夜長に永遠の下支えの腕のあることを覚えたいものです。
「下には永遠の腕がある。」申命記33:27
“熊牧場”
2025年11月26日
◇熊騒動
最近熊が街中にまで進出、庭の柿の実を食べる、家やコンビニに押し入り食べ物を物色し、荒らしまわる。さらには人に危害を加え、死者13名、負傷者196名と続出。そこで役所の要請で、猟友会のハンターに出動を依頼し、駆除していただく。それだけでは足らない程、熊は出没、役所の方々が訓練を受け、ガバメント・ハンターとなって熊退治、さらにエスカレートし、警察・自衛隊のスナイパ―出動となった。まさに内乱状態を呈しています。野外で仕事ができない、生徒さんは通学が不安、高齢者は家におれば安心かと思いきや、家の周りを熊がうろつくでは、おちおち眠る事も出来ない。ちょっとした物音にギクリとして、ノイローゼ状態。秋のかき入れ時の観光地も、熊出現の対策にクマよけ鈴や笛を観光客にぶら下げてもらう、のでは致し方ない。
中国が日本の総理の発言に反発して、日本への観光やビジネスでの渡航者や、留学生に日本渡航への自粛を要請。その理由が日本では今、治安に問題があり、中国人が特に狙われていると言う。とんでもない言いがかりですが、熊による治安不安だと言われれば、笑うわけにはいかない。
◇熊森協会
ソムリエの子どもが小学生の頃、担任のN先生がユニークな方でいい教育をしていただきました。その先生が、定年を待たずに退職し、「日本熊森協会」と言うのを設立し、運動を展開、県知事まで動かし、その働きは大きくなりました。先生のおっしゃるには、熊が安心して暮らせる森林を維持してこそ、人間も安心して暮らせるようになる。だから時々里に現れる熊を危険視して退治するのではなく、彼らが里に出没しなくても生活できるように森林管理をしてその生息環境を守るべきだと言うものであったと思います。あれから数十年たち、先生もご存命かどうか、分からない時が経過しましたが、ふとこの運動を思い出しました。もし現在も「熊森協会」が活動しているなら、どの様に今の世間の反応を思っているのだろうかと。
◇生物生態学
生物生態学というのがあります。生物の世界は大きな有機的なシステムになっている。そして全ての生物は、棲み分けをしながら共生関係にある。そこである種の生物が、バランスを欠く程増え続けるようになると、それを調整してバランスを回復する、ホメオスターシス(恒常性維持機能)が働く。具体的にはポピュレーション機能です。個体数調整機能のことです。増えすぎた生物種を疫病、飢饉によって減少させて、バランスが取れるようにする、と言う。さて今回の熊騒動ですが、どうなのでしょうか。森林学者によると、森の木の実が豊作の時は、メス熊は多くの子を産む。ところが豊作の翌年は凶作になる。すると増えた熊は餌となる木の実が不足して、里に下りて餌を捜す。そこで起こったのが現在の熊騒動だとのこと。
しかし、元はと言えば人間が戦後の経済復興のため、建築材として役立つ木を植林したが、その後安価な海外の木材を輸入するようになったため、山林の管理を怠ったったため、この様な不具合を招いたと言う。つまり本来多様な木々が育っていた自然林では、豊作の木もあれば、不作の木もある。ちょうどバランスが取れて熊の食材には困らないはず、しかし人間が自分の都合で単一植生にしてしまったため、起こっている人災だとさえ、学者は説く。
とすると、この根本の山林経営策を見直すところにこそ、今回の熊騒動の源があり、それは人間の責任だと言う事で、わが身に責任は帰ってきました。熊に責任はない。
◇自然との共生はどこに?
では、被害は甘受すべきか?そうもいかないから、緊急銃猟とか難しい言葉で、要
するに熊退治をやって何百頭もの熊が殺されている。特に東北地方初め関東以北の方々には、不安危険で生活さえもが脅かされているから、やむを得ないとは思う。しかし今のところ安全地帯に住む、ソムリエのような人間は、少しは余裕があるから、何とかならないかとつい思ってしまいます。つまり、熊にも命があり、彼らも生きるに必死である。それが人間だけの都合を考えて駆除すると言うのは、余りに身勝手ではないか。
日頃、自然との共生だとか、仏教徒は山川草木悉皆仏性とかお題目を唱えて、日本人は自然に生きる。自然を支配するキリスト教文明は自然を破壊し、環境破壊をもたらした。これからは日本の自然との共生思想が世界を救う、などと大口たたいていたのに、今回は宗旨替えして、熊退治に血道をあげる。日本の自然との共生思想も、たかが知れていますね。キリスト教では「神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」創世記2:15と記されています。つまり、人間の自然における立場は、単なる自然との共生だけではなく、これを良く管理する様にスチュワードッシップ(管理者責任)が与えられているのです。人間の自然における役割は、エデンの園の管理人、ガーデナー、庭師です。ガーデナーがいなければ園は荒れ放題です。しかしよく管理された園は、和風庭園の美、イングリッシュガーデン、フレンチガーデン、中華庭園。ソムリエは全て拝見し、それぞれの文化の違った味わいに感銘を受けました。同様に、熊も人間も共生できる環境作りの熊守りが必要です。里に出没すると困るので鉄砲撃って殺すでは、余りに身勝手ではないか。日頃言って来たこととやってることは違うではないか、と思う。
◇熊牧場のアイデア
そこで、安全地帯に住む人間の愚案をお聞きください。とりあえず熊牧場をつくる。そこに里に出て来た熊を殺害せず、麻酔銃で眠らせ捕獲し、熊牧場に飼育する。そして森林管理が熊の生育に適するようになるまで、あるいは地方の動物園や、世界で日本の熊を求める動物園に飼育を依頼するとか、次の策を考える。と言うのはいかがでしょうか。仏教でも殺生は罪でしょうが。熊退治する方々、死体を処理する方々も決して目覚めがいいとは思えません。彼らに責任を負わせてTVニュース鑑賞もないものです。ソムリエはこの方面には無知、無策で笑われるのを覚悟で提案します。
拠点ごとに熊牧場を至急造成することを願うものです。
「おおかみは子羊と共にやどり、牝牛と熊は食い物を共にし、乳飲み子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子はまむしの穴に手を入れる。」イザヤ書11:6~9
“道”
2025年11月19日
◇道
通勤路、通学路、お買い物道、散歩道・・道路等、日常的に道を利用しない人は少ないでしょう。昔は、舗装もなく石ころがあり、砂ぼこりが立ち、田舎では家畜のフンまで転がっており、少し雨が多く降ると排水工事がなされていないものですから、道路は水びたしで、水の引いた後がまた汚物が残って処理に大変でした。それに比べ現代の道路はよく整備され、災害の後の処理も割合迅速で、とにかく交通路確保は最優先されています。
◇道の語源
人や物の行き来に道路は欠く事ができない大切なインフラです。ところで漢字の“道”と言う字の語源は、「首を手(又)に携えて行くの意で、おそらく異族の首を携えて、外に通ずる道を進む事、すなわち徐道(道を祓い清めること)の行為を言う。外界に通ずる道は、外族や邪悪なる霊に接触するところであるから、除道のための儀礼は厳重を極めるものであった。」、と「字統」に記されています。古代中国の世界観は、決して合理的ではなく、世界は魑魅魍魎の跋扈する怖ろしいものであった。家から外に出て路を行くことは、いつ悪鬼に襲われるか分からない危険性があった。ソムリエも子供の頃は、男子家の敷居をまたぐと7人の敵あり、と親に教えられたものです。そう言えば安心、安全神話が崩れて来たのか、日本も行きずりの人間を傷つけたり、殺したりが現れてきました。子供や女性、ソムリエのような高齢者は、道行く時も時々周囲を見回して不審者がいないか注意します。古代中国の“道”の語源に戻って、この様な危険な道に出かける用心です。古代中国の軍隊が進軍する時は、道の先頭に立つ者は、捕虜にした敵軍兵士か将軍の生首を斬って、鮮血滴る敵の生首を掲げて歩んだ。そして敵の奇襲を防いだ。これが漢字“道”の語源だとか。何ともはや怖ろしい話ではあります。しかし安全な家から一歩道に踏み出す。社会に出ていくと言う事は、何が起こるか分からない。覚悟が必要だと言いう事ですね。
◇道に熊が出るから
しかし、社会の危険性を恐れて、家にとじ込もるとどうなるか?旧約聖書のユダヤの知恵である箴言に「なまけものは、「道にライオンがいる。ちまたにししがいる」と言う」(箴言26:13)。そう言って閉じこもる人間がいる、と警告と言うか、揶揄と言うか。最近は日本でも街中に熊が出て、この言葉を笑えないのですが、とにかくバイブルの言わんとするところは、世間の恐ろしさばかりに気を取られ、閉じこもっていては人生の道は開けないよ、と言う事。確かに外に出ることはリスクがある。しかしできる限り注意は払いながら、リスクを取って社会に出てこそ、それこそ道は開けるのだ。いつぞや、高齢者のこころの健康の講師が、高齢者には“きょうよう”が大切です。この歳になって教養など面倒だ!そうではなく“今日、いく処がある”、“今日、用事がある。”という“きょうよう”です。別に何の予定もないと言う人は、行く所、用事を作ってください、とのお勧めでした。なるほど、ソムリエはこの勧めに従って、スケジュール手帳は予定で一杯ですね。
◇方法としての道
さて、道には散歩や散策のように歩くこと自体が目的の場合もありますが、どこかへ出かけると言う到達点がふつうあります。英語のwayやドイツ語のWegには、道という意味と“方法”と言う意味があります。取説には、こういう風にすれば、この家電は動きますよとか、トラブルは解決しますよ、と問題解決の方法が書かれています。
では生きがいある、それこそウエル・ビーイングな人生の道は、方法はあるのでしょうか?世の中には、健康法とか、美味しい調理法、美容健康法、マネー利殖法、・・様々なハウツーものが宣伝され、ネットでもここから先は有料ですとか、怪しげな勧誘が山ほど待ち受けています。では、ここは千年、2千年の年季が入ってあらゆる疑念のテストを経て、信頼される古来の哲人の“道”をたどるのが安心でしょう。
◇人生の道
孔子さまは、我朝に道聞かば夕べに死すとも可なり、とおっしゃった。孔子様も人生の歩むべき道を求めていたことが分かりますね。しかし果たして孔子さまは道を発見なさったのでしょうか?
ソクラテスはアテネの街に立って、道行く人に、さらには専門家に尋ねて回った。真理を、道を。ソムリエも昔、ギリシャのアテネを訪ね、ソクラテスの立ったアゴラで、哲学者の面影を偲んだものです。市民や専門家は、さも自信ありげにこれが真理だ、道だと答えたが、哲人がさらに深く問いかけると、結局誰も真理や、道は知らなかった。だがデルフォイの神託で、世界で一番賢いのはソクラテスだと語られ不審に思ったが、やがて哲人は、だれも真理や道を知らないのに知ったかぶりをしているだけだ、しかし自分は真理や道を知らないと言う事を知っている。無知の知、これこそデルフォイがソクラテスを一番の知者だと託宣した理由だと気づいたとか。ソクラテスも真理や道を求めて哲学を始めたのでしょう。
仏陀はどうか、ブッダは死の直前弟子アーナンダに、「自帰依」「法帰依」を説いたと言う。“他人や超越的な神に帰依するのでなく、自己を信じよ”、“その自己は”法“(ダンマ)に根拠を置け(法とは島の意味、インドの河川は洪水の時ほとんど全てを蔽いつくす。しかし所々、洪水も及ばぬ島ができて、そこに避難すれば人も家畜も助かる。同様にブッダの説いた教え(法)を島として帰依せよ(中村哲説)という。”法“とはサンスクリットではダンマで、ブッダの説いた言説の示す実体です。”真理に至る道“とも訳されます。ブッダ自身も自分を真理の道とは決して説いていませんね。ソムリエはキリスト教と言うより、キリスト道と言うのが日本人にはピッタリだと思います。
◇キリスト道
イエス・キリストは「私は道であり、真理であり、命である。だれも私によらないでは父の元へ行くことはできない。」(ヨハネ14:6)とおっしゃった。これは孔子も、ソクラテスも、ブッダも言えなかったことです。イエス様ご自身が父なる神様に至る、唯一の救いの道(原語では“道・真理・命”に定冠詞が付いていて、唯一性を表します。)だというのです。これだから唯一神教は狭量だ、富士山の頂上は一つでも登り口は多数ある。どんな宗教も目指すところは同じだと言うのが、日本教の特徴ですね。でも医者に処方箋を書いてもらって薬局に持参すると、薬剤師は薬棚からどれも薬だから適当に調剤して患者に渡しますか。処方箋通りでないと、命にかかわるのですよ。これが狭量とは言えない、厳密だと言う事。キリスト教はイエス様こそ唯一の救いの道だと責任をもって、厳密に告白します。
道はイエス様の話されたヘブル語では“デレク”です。踏みつけられたと言う意味だそうです。そうですね。古来の道は人や獣が踏みつけてできたものです。イエス様は人の罪を身代わりに負い、その責めを引き受けて十字架に踏みつけられて、罪の贖いを為しとげて下さった愛の方です。愛は犠牲を惜しまないのですね。イエス様に従う者の道も、他者への愛の犠牲を惜しまない道をめざす者です。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」ヨハネ福音書14:6
“宗教改革”
2025年10月29日
◇宗教改革記念日
毎年10月30日は、キリスト教プロテスタント教会では“宗教改革記念日”として覚えられています。高校時代の世界史で、1517年10月30日、修道士マルチン・リターが95条の提題をウイッテンブルグ城の門扉に張り付けた。ここに宗教改革が始まった、と習ったものです。公教育の世界史でも学習するほど、歴史的に重要な日だと言う事です。ルターの宗教改革によって、カソリック教会が絆となって、封建諸領主が結びついた“ヨーロッパ共同体(コルプスクリスチアヌム)体制”が崩壊し、カソリック側とプロテスタント側の諸領主の凄惨な“30年戦争”が起こり、疲れ果てた両者が1648年「ウエストファリア和議」を」結んで、諸領主ごとに自由にカソリックかプロテスタントか信仰を選ぶことができる“一領主、一宗教”体制となり、やがてそれが「国民国家」(領土、主権、国民)と言う近代世界となり、以後全世界に及んでいる。さらに
信仰の自由は「国家」から「個人」に進み、“信教の自由”確立、そこから思想表現の自由、集会・結社の自由、居住、職業選択・・と言う、我々が空気の様に享受している“基本的人権”が、時代を追うごとに確立し、我が日本国憲法に保証されているのです。憲法の三本柱、主権在民、基本的人権尊重、平和主義、の一つ、基本的人権尊重はルターに始まる宗教改革にあるのです。もっとも最近の研究では、ルター以前の、14世紀イギリスのウイックリフ、同じく14世紀ボヘミア(チェコ)のフッスが先駆者であったことが判明していますが、歴史を変えたきっかけはルターであったことは揺るぎませんね。
◇宗教改革者ルターの主張
と言う事で、10月30日は、単にキリスト教と言う宗教内部の変革の話ではなく、ひろく社会をそれもその後の世界史を変革する、ターニング・ポイントとなった記念日なのです。では具体的にルターの主張は何だったのか?①彼は、信仰の権威を聖書に求めた。カソリックは、聖書と伝統に求めた。結果聖書にない、マリア無原罪、被昇天説、煉獄・・の教義が捏造された。ルターは神の言葉である聖書にのみ信仰の権威を求めるべきと主張。②ルターは、人の魂の救いは、イエスキリストの贖罪を信じるだけで充分、いわゆる信仰義認に立った。しかしカソリックは、人の救いは信仰だけでは不十分で善き業を付け加えた。それが贖宥状(免罪符)を買うことであった。ルターの住むウイッテンブルグ市に、カソリックの僧が贖宥状販売にやってくる、そしてカソリック教会に多額の金を貸し付けたドイツの金融業者フッガー家の番頭が同伴して貸付金回収をやる。こんな金で魂の救いを買うと言う堕落の極みを許してはならない。ルターが教会改革に立ち上がった理由です。純粋な信仰上の主張であった。それが思いもかけない世界史を変革する方向に進んだのです。結果から見るとルターは革命の闘志に見えますが、そんな意図は全くなかったでしょう。純粋な真理の発見と主張が結果として世界を変えたのです。いわゆる革命家、職業的イノベーターほど胡散臭い者はない。純粋な真理の探究者こそが、結果として世界を変えるのです。我々もそんな大げさな話でなくても、日日の課題に誠実に汗して取り組み、結果は神様の御手に委ねる時、必要であれば神様は変革のため、お用い下さるでしょう。ソムリエもこのクリスマスに10冊目の本を出版予定です。八十路を越えての執筆は、若い頃の様にはいかず、苦労もしましたが、結果は、神様に御委ねします。何かのお役に立てばありがたい事です
◇ルターで神学は完成?
ある時、KGK(キリスト者学生会)主事のK先生とお知り合いになり、その後大変お世話になりました。柔らかな関西弁で、明るく開放的で、学生から慕われ、多くの教会の牧師方からも信頼された先生でしたが、壮年の働き盛りに召されなさり、今惜しんでも余りある方です。そのK主事がある時こうおっしゃったのです。“自分は阪大を出て、神様の召命を受けルーテル神学校で学びました。卒業後KGK主事として働いています。そうするとありとあらゆる教派の学生さんや、牧師先生方とお付き合いします。そこで悟った事があります。ルーテル神学校では、宗教改革者M.ルーテルで神学は完成した。”と習った。しかし、その後の歴史に次々誕生した様々な教派の考えを知るにつれて、ルーテル以後も宗教改革は前進し、神学も発展していると言う事です。“と言う事で、今も印象に残っています。お断りしておきますが、ソムリエもそのルーテル神学校で聴講し、先生方も存じ上げ、決して排他的、独善的な神学校や先生方ではなく、広く他教派に開かれ謙虚な方々ばかりです。しかし教派神学の立場となるとそうなるのかもしれません。しかし確かにルーテル神学以後も、カルバンの改革派神学、メノナイト派、バプテスト派、メソジスト派、ペンテコステ・カリスマ派・・多くの教派、教派神学が生まれています。きっとこれからも。
◇今も今後も宗教改革は続く
言いたい事は、キリスト教の真理は、教義も倫理も教会形成も完成はしていない、途上だということです。これで完成となると、後は保身と堕落しかないではありませんか。もちろん確定した基本的教義や、倫理はあります。それは時代によって解釈のリニューアルが必要ですが、継承していかなければなりません。しかしまだまだ未開拓の分野が無限にあるのです。旅人の神学と言う格言があります。旅人は目的地に着くまで歩みを止めてはならないのです。今日見る景色と、明日見る旅の景色は違うのです。ソムリエは高齢ですが、新しいキリスト教の課題に取り組んできました。たくさんの事をそこからら学び、バイブルの素晴らしさを今更ながら実感しています。
皆様も是非、バイブルをお読みいただき、この継続する宗教改革の運動にお加わり下さり、その恵みを味わって下されば幸いです。
「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである。」
ヨハネ福音書5:17
“靖国問題”
2025・10・22
◇政治と宗教
政界は一寸先は闇、とよく言います。まさに自公連立解消と言う思いもかけない展開により、政局は混沌としています。次期総理は、高市氏か、玉木氏か、はたまた結局、石破氏が返り咲くと言う話まであって、目が離せません。大きく世界が動いている中での、わが国の政治状況の混沌も、決して世界政治と無関係ではなく、むしろ連動した現象と捉えた方が良いようです。それはさておき、公明党が自民党に突き付けた、政治改革の要望のポイントは政治資金の透明化ですが、もう一つ重要なのが、首相の靖国参拝問題です。高市氏が前回の総裁選挙中に、自分が首相になれば、必ず靖国参拝をすると公言。今回の選挙では、適時適切に判断すると態度保留にしました。そこを宗教政党である公明党は、政教分離の原則に反すると、敏感に反応したのでしょう。
宗教なら何でもいいと言う多くの日本人には、お国のために命を捧げた英霊を祭る、靖国神社に首相がお参りして何が可笑しいのかと怪訝に思っていますが、偶像崇拝に厳しい世界の一神教文明の諸国家や、第二次世界大戦で、日本のアジア侵略の犠牲となった中国・韓国・はじめアジア諸国家の目、靖国神社の果たした侵略戦の宗教強制の過去を決して忘れていない目が今も厳しい事を忘れているのです。そこで、もう一度靖国神社問題をおさらいします。以下に記するのはこのブログの2024年10月30日のエッセイを再録したものであることを、あらかじめお断りします。それは靖国問題の変わっていない無理解への再考をうながすものだからです。
◇2024・10・30のバイブル・ソムリエ再録
現代は加速時代と言うそうですが、あわただしく時間が過ぎ、色々な出来事も流れていく。27日に衆議院議員選挙が実施され、その結果さらに政界は流動的になるようです。しかし目を凝らして注意すべきことがあれば、立ち止まって掘り下げるべきです。話は9月27日の自民党総裁選に遡ります。何を古臭い事をと思わないでください。大切なことがそこに露呈しているからです。総裁選は9人の候補者で争われ、結果は党規による過半数に達する者はなく、上位2名の決選投票でした。1位は高市早苗氏、2位が石破茂氏で、大方の予想は高市氏圧勝でした。しかし意外や意外、石破氏が選ばれたのです。党内基盤の無い石破氏になにがあったのか?政界通によると、その理由は高市氏が、自分が首相になれば、靖国神社に参拝すると公約。これが命取りになった。大多数の常識派の議員は、そんなことすれば、折角回復した日韓関係は破綻。ただでさえ良くない中国との関係は決定的に悪化し経済関係は破綻する、と考え石破氏に投票したからだと言う。翌日、知人から電話があり、高市氏はとても優秀で、女性初の首相になれたのに惜しい。そもそも国難に殉じた軍人を靖国にお祭りして何が悪いか。どこの国でも戦死した軍人を記念し、外国元首が来ればまず記念碑に敬意を表するではないか。この判断はおかしい、君はどう思うかというものでした。以下その際お話しした「政治と宗教」をめぐる事をまとめて記します。
ソムリエも、高市氏は柔らかい関西弁で親しみあり、また地元神戸大出身の才媛で、実に良く政策に通じている、本来なら推し、です。ただ、ソムリエが森鴎外の小説「阿部一族」をもじって名づけた、旧自民党安倍派への呼称“安倍一族”の一員で、ソムリエの故安倍首相への評価は、自由で開かれたインド太平洋戦略外交は高く評価、しかし経済政策アベノミクスには疑問、またそのネトウヨ的宗教観靖国参拝にはNO!です。
ここで外交、経済政策はさておくとして、宗教に関わる牧師として靖国問題をこの際考えたい。外国元首が日本の戦死軍人の記念碑に詣でるのが外交儀礼である。その通り。しかし戦後靖国神社に詣でた外国元首は、ビルマ、アルゼンチン、トンガ以外に寡聞にして知りません。それは宗教施設であるからです。海外では記念碑は非宗教施設だからです。さらに靖国神社は下記の国際的大問題がある宗教施設で、とても詣でられないからです。そんな事どうでもいいではないか、素朴に国難に殉じた人をお祀りするのに何が悪い、と言う考えが甘い。なお、論述の根拠資料は、ネットを調べれば十分わかる範囲ですのでお示ししていません。
◇靖国神社問題
御存じとは思いますが、靖国神社の起源は、1864年,長州の高杉晋作が戦死した奇兵隊員を祀るため、「招魂場」を下関に造営、以後倒幕と維新のため尽力した志士を合祀。全国に「招魂社」として拡大した事に始まります。1879(明治12)、明治天皇により東京招魂社を「靖国神社」と改名。全国の招魂社はやがて護国神社となった。ですから本来靖国神社は、皇軍の戦死将兵を祀るためのものです。と言う事で西郷隆盛はじめ西南戦争(1877)、「佐賀の乱」(1874)の江藤新平ら戦死者は反政府軍の賊軍であり祀られず。また遡って戊辰戦争(1868,‘69)で新政府軍に戦を挑んだ幕府側の奥羽越列藩同盟の白虎隊はじめ戦死した会津藩士も賊軍として祀られていません。ここに問題があります。西郷さんや、会津の白虎隊の少年兵たちは国家のため死んだのではないのか?!現代も異議申し立てが続いているのです。要するに尊王攘夷こそ、明治維新の錦の旗であった。ですから靖国神社は、国家に殉じた戦死者でも天皇方に属する者だけを祀る施設なのです。天皇に弓引く者は朝敵・賊軍であって排除されているのです。しかし明治時代はいざ知らず、現代では西郷さんも白虎隊も、大きくは日本国を思って戦った。その誠を疑う者はいないでしょう。しかし知人は当初はそうかも知れないが、その後の日清、日露戦争以来ではそんな狭量なことはないだろうと反論。そうだと思いたいです。
◇東京裁判のA級戦犯合祀問題
しかしソムリエの見解では、実はもう一度同一の判断がなされたのです。それが第二次大戦敗戦後の極東国際軍事裁判(1946~‘48)いわゆる東京裁判)を受けてA級戦犯は靖国神社に祀られなかったからです。敗戦後の日本国家の大前提は「国体の護持」でした。要するに天皇制の存続です。連合軍が日本に無条件降伏の最後通牒を突き付けたポツダム宣言受諾(1945・8・14)の条件の一つは、主権が天皇から人民に移った事です。その際天皇の立場はどうなるか、戦争責任を追及されるのではないか?為政者の大問題でした。そこで一大フィクションを作成。天皇は元来戦争に反対だったが、軍部が誤った判断をし開戦に天皇を導いた。その首謀がA級戦犯126名であり、うち東条英機、広田弘毅両元首相ら7名が絞首刑に処せられた。天皇は本来無答責であり、側近が責任を取るのが当然。しかし彼らは天皇の君側の奸で、天皇の判断を誤らせた。その責めを負い処刑されるも致し方がないと言うシナリオです。これは近年公開された「昭和天皇実録」の研究により、天皇の積極的戦争指導の史実が指摘され(山田郎)シナリオは崩壊した。占領軍総司令部GHQも、戦後の日本統治における天皇の利用価値に重きを置き、このフィクションを肯定。かくして大戦の膨大な軍人戦死者は靖国神社に祀られたが、A級戦犯は排除された。それで戦後、昭和天皇は神社親拝礼を8度しています。また諸外国もとやかく言わなかった。ところが、1978年(昭和53)松平永芳宮司により密かにA級戦犯が合祀されていることが朝日新聞のスクープにより発覚。中国、韓国が猛反発、さらに米国も不快感を示した。なぜか、彼らにすればそれは日本が受諾したはずのポツダム宣言に反し第二次大戦を肯定し、その首謀者を祀った。ちょうどヒトラーを祀る宗教施設をドイツが作るに等しい。ありえない。しかし靖国側は、日本では犯罪者の霊も永久に処断されない、時間が来ればその罪は浄化され祀ると言う宗教性があると主張。さらに戦前の靖国神社は陸海軍省管轄の政府機関であったが、戦後は一宗教法人になっており、その宗教行為に政府は口出しできず、苦慮。遺族会からは問題があるからA級戦犯の霊を別のところに分祀してほしいと、言う提言もあったが神社側は拒否。理由は、時間が経てば個々の霊は存在せず、一つの祖霊になるから分祀できないと回答。内〃事情を知った昭和天皇は不快感を示し、1975年以降靖国に拝礼しなくなった。それはそうでしょう。敗戦の責任を取ったはずのA級戦犯がもはや責任を問われず、神になったのであれば、盾を失った天皇が再び責任を問われる可能性ができたのですから。神社側は“怨親平等”(敵も味方も平等にお弔いする)精神を説きますが、事実は違います。要するに靖国神社は天皇に従う戦死将兵を祀るもので、賊軍は排除されるのです。国体護持の立場からはこれは一貫しています。国難に殉じた将兵全てを記念する施設ではないのです。そして敢えてA級戦犯も天皇を輔弼して国難に殉じた者として合祀した靖国神社は大きな判断転換をしたのです。その結果大きな禍根を今も残しています。要するに戦争遂行装置上の宗教施設としての靖国神社である限り、尊王の方針は変わらないでしょう。
◇政教分離
第二に、靖国神社は宗教であることは明白です。しかし戦前は陸軍海軍管轄、内務省の実務でしたから国家の機関でした。近代国家の政教分離の原則に反すると言う批判に、政府は「神道は宗教に非ず」神社非宗教論と言う詭弁を弄して、国家神道を国教化して国民を欺いていました。ですから戦前は仏教徒であろうとキリスト教徒であろうと神社参拝を強制されていたのです。さらに海外植民地にも神社を建て神社参拝を強制し、国内・国外の宗教者の良心を踏みにじった。これに抵抗して神社参拝を拒否した宗教者を迫害したのです。時代錯誤な徳川時代の「踏み絵」がつい80年前まで存在したのです。ソムリエに言わしむれば、敗戦は真の神の審判により神ならぬ偶像は倒されたと言う事です。そして戦後は、憲法第20条に「1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と明記された事により“政教分離の原則”が確立。靖国神社も国家管理から分離され、単立の一宗教法人になったのです。にもかかわらず、政府を代表する首相や閣僚、さらに国会を代表する議員が靖国参拝を行い、内閣総理大臣、〇〇国務大臣誰それ、国会議員某、と記帳するのは、全く憲法違反なのです。もちろん個人として参拝は自由ですが、公人として憲法違反です。国民はもっと声をあげるべきです。そもそも憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と公務員の憲法擁護義務規定を設けており、一宗教法人に過ぎない靖国神社を公式参拝するなど憲法違反行為者は直ちに辞任すべきです。また外国元首の敬意を受ける場としても全く不適当。なぜなら靖国は宗教施設だからです。日本人は宗教センスが希薄なのかこの点鈍感。特に一神教文明の先進諸国家にとっては実に敏感な問題ですよ。高市氏の靖国神社参拝公約など以て他です。今後の流動的政局で、どう判断するか注意しなければなりません。
◇靖国神社から国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ
そこで、かつて政府は宗教に関わりなく誰でも戦死将兵のための記念施設として、1959年、政教分離原則による特定の宗教宗派に属さない「国立の千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を造営。厚生労働省が管理、5月には慰霊の拝礼式が厚生労働省によりなされ、皇族、首相等が参列しているのです。ここならどんな宗教者も非宗教者も何の遠慮なく記念できるし海外の元首も敬意を表する事ができるのです。事実2013・10・3、米国のケリー国務長官、ヘーゲル国防長官が来日の際、靖国ではなく墓苑を訪れ献花しています。以上の理由で国民は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を大切にすべきと為政者に訴えるべきです。
また“安倍一族”の主張の一つであった、“戦後レジームからの脱却”の具体化の一つとして、首相閣僚、議員の靖国公式参拝、究極的には天皇親拝の復活があったのです。それを高市氏は受け継ぎ、安倍氏の正統的後継者である事を示したかった。だが“戦後レジーム”とは、ポツダム宣言(1945)に始まるもので、軍隊の完全武装解除、人民の自由な意志による政府樹立、言論・宗教・思想の基本的人権尊重が主な内容です。ポツダム宣言受諾こそ、戦前レジームから戦後レジームに転換した「8月革命」(政治学の丸山眞男、憲法学の宮沢俊義)と呼ばれ戦後日本の根本体制の起点なのです。これが日本国憲法(1947)、サンフランシスコ講和条約(1951)に結実されて、国連にも加盟が認められ(1956)、敗戦国日本が再び戦勝国中心の民主主義的戦後世界秩序に受け入れられたのです。これを否定し戦前レジームに戻る、と言うのはいわゆる「大東亜戦争肯定論」(林房雄)に立って、もう一度戦前の大日本国憲法(1889)、日独伊三国同盟(1940)の国際秩序を復活し、ドイツ・ナチズム、イタリア・ファシズム、日本軍国主義に戻すと言う、「歴史修正主義」なのです。それは敗戦と言う大きな代価を払って手に入れた民主主義から元の全体主義にユーターンすると言うもので、自由主義・共産主義陣営・第三世界を問わず戦後の国際秩序全体へのあからさまな挑戦なので、世界から警戒されるのは当然です。その悲劇的末路はどうであったか歴史が証明しているではありませんか。これを認識しないネトウヨ的な狭い世界認識・歴史認識は、日本国の将来を誤らせる危険な思想です。靖国公式参拝の非を強く認識し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の周知を図ることを願うものです。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」マルコ12:17
高市早苗氏・自民党新総裁選出に思う
2025・10・15
◇お断り
以下の文章は、10月9日時点までの状況であり、以後政局は急展開、公明党は
自民党との連立解消、公明党の支持を受けて当選した多くの自民党議員は真っ青でしょう。野党が元気づいて、玉木雄一郎国民民主党党首を総理候補に連立すれば、大逆転で高市総理は実現しない可能性が大。ソムリエは高校の後輩である玉木氏に肩入れしますね。この状況を踏まえても、以下の論は成り立つと思いますので、記載します。
◇初の女性総裁選出
10月5日、自民党新総裁に高市早苗氏が選出されました。おそらく国会で首相にも選ばれるであろうと予測されますから、日本138年の憲政史上初の女性首相誕生と言う快挙で、まずは祝賀したいと思います。奈良の知人に氏の後援会員がおり、歓呼しており、またソムリエの地元兵庫県でも、神戸大出身2人目の首相で期待が集まっています。その期待の上で、ソムリエの率直な思いを述べます。
まず選出過程の感想。前任の石破茂首相は、同信のキリスト者であり日頃自民党の党内野党的発言にリベラルな立場から期待を寄せていました。しかし、3度の選挙に敗退し、少数与党の政府に転落、あちこち気を遣いすぎ、これと言った成果がなかった。口だけの政治家と言われても仕方がない。一つだけ成果を挙げると、トランプ関税の暴挙を何とか凌いだが、それも80兆円と言う、トランプの言いなりの財布を提供する条件付きデイールで、今後問題となります。石破辞任表明後の候補5人の後任総裁選挙も、前回と違って全く熱意が欠けどなたも似たり寄ったりの政策で、特に期待の若手エースで評判高かった小泉氏は、全身全霊でがんばります、と掛け声ばっかりで政策内容の空疎さに、がっかり。ひとりキャラのはっきりした政策を展開した高市氏が、選出されたのも当然かもしれない。
◇歴史は繰り返すか?
「歴史は繰り返さない。しかし韻を踏むことはある。」マーク・トエインの名言です。高市氏の印象は“歴史は繰り返す”、つまり安倍政治の亡霊の再来、昔のイギリス病を退治したサッチャリズムの焼き直し。要するにアナクロ(時代錯誤)の古くかび臭い政治の匂いがする。高市氏は安倍氏と当選同期で、いわゆる安倍チルドレンではないが、安倍氏の説く“戦後レジームからの脱却”に賛同し、また奈良の県民性を御存じの方はお分かりの様に保守色の強い風土出身で“大和の女です”と自称するように、戦前レジームの靖国神社参拝、男女別姓に反対する古い家族制度に固執、憲法改悪し象徴天皇制から元首制と言う皇室中心、9条を変えて自衛隊の国軍化明示、また経済政策はアベノミクスを継承したサナエノミクスと言う亡霊経済策です。プリマリー・バランスの回復と言う財政規律路線から積極財政にシフト国債増発をはかり、財政主導で景気回復を図る。早速株価は上昇し財界は歓迎の様です。しかし財政破綻を懸念する海外投資家は円売りに走り、為替は急激な円安で、物価高騰、生活苦増大で、目の前の国民の窮状、物価対策に逆行ですよ。また旧安倍派一族の政治資金裏金問題は、一族郎党の役職辞任、謝罪弁明しさらに選挙で再選された議員は禊は済んだから積極的に登用する、早速萩生田光一氏が幹事長代行に任じられ亡霊が蘇った。なぜ自民党は3度も敗退したかの反省のない、何たる厚顔無恥か。
特にソムリエの様な、キリスト教牧師の立場から言うと、靖国神社重視、国家神道復活の安倍氏は、政教分離と信教の自由と言う近代社会の原理を侵す、許しがたい為政者で彼の在任中、心中黒雲が覆っていました。中国、韓国はおろか米国からも反発を受けた国際社会全体を敵に回す愚策をなぜまた取るのか。個人の信教の自由は尊重すべきですが、公職それも国家の代表たる首相が、その立場で特定の宗教、それも世界中から危険視される宗教を礼拝するとは、理解に苦しむし憲法違反行為ですよ。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」憲法20条、
高市氏がいかに憲法改正論者であっても、現憲法下で首相に選出されれば憲法順守義務は当然の事(憲法95条)です。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
曇り後、晴れ、再び曇りはご免こうむりたい。
こう言うセンシテイブな感覚の無い無神経な政策を再びやってもらっては困る。早速公明党が靖国参拝問題で高市氏に問いただしているのは、創価学会をバックに持つ政党として当然です。
◇サッチャーを目指すなら
第二のアナクロは、彼女が尊敬するサッチャー元英国首相にならって、総裁選出の挨拶で、働いて働いて、ワーク・アンド・ライフ・バランスを止めて働け、と言ったことです。確かに揺りかごから墓場まで福祉政策が行き届き、働かなくなったイギリスは経済凋落。そこに勤勉なメソジスト信徒のサッチャー首相が登場、ムチを振るって国民に資本主義の精神、自助自立勤勉を説教し、イギリス病から見事回復、鉄の女の名声を欲しいままにした、名宰相でした。そこには歴史的役割があった。しかし、現代日本の問題は、国民がさぼって働かなくなった処にあるのでしょうか?つい先日までブラック企業と呼ばれる働き過ぎで、過労死、うつ症、自殺まで追い込まれ、非正規労働では食べていけない人間を小泉改革は大量に生みだしているではありませんか。たまたま少子高齢化で労働者不足で、初任給は急上昇していますが、全体としては高騰する物価に、少々賃金上昇しても追いつかず、実質賃金は目減りしています。これ以上、働け、働け、と誰に向かって言っているのか!ソムリエには全く理解に苦しむ。ワーク・アンド・ライフ・バランス策は過重労働防止のため設けられたものですよ。とんちんかんな政策を述べてもらっては困る。
働け、働け,ともし言うなら、経営者に向かって言うべきです。要するに労働分配率の不公平さに現代の経済の問題がある。経営者は、結構企業は儲けているのに、労働者に支払うべき賃金を支払わず、世界と競争すべくリスクを取って投資もしない。そして史上最高の企業内留保金は600兆円にも達する。要するに日本の大企業経営者は、サラリーマン経営者で、自分の社長時代だけ会社が存続すればよい、高額の退職金をもらって、リスクは次に付け回す。ケインズのいう企業家は、アニマル・スピリットをもって、果敢にリスク・テイクして企業を発展させるプロの経営者ですよ。資本主義の精神はそういうものです。高市氏がこの経営者に向けて、怠けず働け、働けと言うならわかる。しかし高市氏の念頭には日本の労働者が怠け者に映っているのだろうか?現状の錯誤認識も甚だしい。サッチャーの勤勉精神の回復を叫ぶ真似をするより、その精神、つまり現状認識の正確さ、対策の的確さに学ぶべきでしょう。経営者がアニマル・スピリットを回復し、賃金を大幅に上げ、リスクを取って投資をするなら、政府が国債を発行し財政破綻を早めるアベノミクス亡霊再来の愚策が避けられ、民間主導の資本主義本来の健全な成長が見らえますよ。あっち向いて説教を!
◇韻を踏み政策を
「韻を踏むことがある。」、ずいぶん辛口を述べましたが、賢明な高市氏には是非、過去の政策の繰り返す愚かさしを止め、アナクロ政策を止め、“不安を希望に変える”とおっしゃるその明るさと積極的姿勢で少しづつ回復状態にある日本経済・社会の牽引役となって頂きたい。
政治にはハイ・ポリテックスとロー・ポリテックスがあると言う。ハイ・ポリテックスは外交・軍事です。そこには「イデオロギーの体系と、利害の体系と、力の体系の激しい衝突がある」(高坂正堯)。米国・中国・ロシアの厳しい対立の中に苦慮する世界で外交・軍事の舵取りを過たない事を願う。ロー・ポリテックスは身近な内政の経済・福祉政策です。「政治とは希少価値の再分配行為」と言う現代政治学の教えに倣い、希少価値・国民の血税のワイズ・スペンデイング(賢明な支出)で国民の“不安を希望に変えられる”事を願う。イタリヤの女性首相、ジョルジュ・メローニ氏は、右翼ポピュリズム政治家と見られていましたが、外交・内政共に堅実でバランスが取れ、国内でもEU内でも高い評価ですね。高市氏も右寄りの政治家と見られていますが、是非先輩メローニ氏に倣って、見事に変身し大成なさらん事を祈ります。
「異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、すべての人の僕とならねばならない。」
あなたの手にあるものは何か?マルコ10:43,44
2025・10・8
◇気になる事
日頃、気になっている事があります。結構いそがしくしていますので、いちいち気にしてたら、前に進めないので、やり過ごしています。しかし、時には立ち止まって、自分なりの最近の言葉でいうと“解“を出しておかないと、ずっと未提出の宿題を抱えているようで、精神衛生上よろしくありません。その一つが、”行政が何とかすべきです“、“国が乗り出すべきです”、“放置している行政の(国の)怠慢です。”・・と言うコメントです。TVの昼おび番組でも、ニュース番組でもいいのですが、何か社会に問題が起こって、専門家にコメントを求めると、大抵最後はこの様に言います。それを受けてキャスターが、“行政や国の善処を求めるものです。では次に・・”。お決まりのパタンです。そうだな、警察は何してる、消防は・・市役所は・・見聞きする者も一緒になって批判し、一件落着です。少し注意してみてください。この手のパタンが実に多いですよ。ソムリエはこれが気になると言うか情けないと言うか。
なぜかと言うと、確かに世の中、TV番組の“憤懣本舗”ではありませんが、色々腹立たしい事が多い。しかし、それを結局一切合切、行政や国に解決を要求すべきなのでしょうか?そんな事をすれば、ますます行政の仕事は増え、予算も人員も増大しますよ。ただでさえ、120兆円もの国家予算に膨れ上がり、自民党総裁が決まっても結局少数与党で野党の要求を飲まないと、予算や政策が可決されなくなり、野党は大衆迎合ポピュリズム政策で、歳入無視の予算要求をかさ上げする。国家財政破綻ですよ。また、何でもかんでも行政頼みでは、行政改革どころか、ますます大きな政府になって官僚国家になります。今年の学生の就活志望は、第一に公務員だそうです。とんでもないことです。何か基本的に間違っています。
◇市民・国民の矜持
それは、市民、国民の責任と努力と誇りの放棄です。これを失くしてお上に何事もお預けとは、情けない。市民、国民の自助、共助が基本にあって、その上での公助でしょう。いや、公助のセーフテイネットがしっかりあってこそ、自助、共助も成り立つのだ。公助による生存権の保障がないと不安だと、としたり顔で説く識者も多い事は承知していますが、ソムリエはそれは程度問題だ、最近の傾向は度を越していると思う。パターナリズムといいますね。おんぶにだっこ、行政・国家のゆりかごの中で揺られて夢を見ながら眠る赤子の様な市民・国民、になりたいですか。もちろん、社会的弱者には、われわれの税を使って、基本的人権のベース、生存権の保障(憲法25条)をすべき事は言うまでもありません。しかし、自助ができる人間までもが、こう言う、責任逃れの矜持を失ってはなりません。
そもそも、日本の近代化は明治維新以来、欧米と違って後進近代化でどうしても“上からの近代化”になりがちでした。ですから官主導、民従属の傾向、官尊民卑が長年身に染みていました。いつぞやも、快速電車内で、数名の男性が話していました。彼らはどうも滋賀県庁の役人らしく、二言目には“民間が・・、民間が・・”とさも見下げた様に言うのです。だれが君たちの給料を払っているの分かっているのかと、頭に来ましたが、これが天皇の官僚から、「すべて公務員は、全体の奉仕者であり、一部の奉仕者ではない。」、と憲法15条で明記された、一部とはいえ現代公務員の実態なのかと呆れたものです。時代錯誤も甚だしい。こうなると、市民・国民も議員も公務員も意識改革が必要です。もちろん、ソムリエの知人、教友の公務員、議員の方々はみな尊敬すべき方々が多いのですが。
◇タックス・ペイヤー、タックス・イーター
はばかりながら、ソムリエは社会に出て以来、タックス・ペイヤーではあっても、一度もタックス・イーターであったことはありません。ずっと民間で働き、それなりの税額を忠実に収めて参りました。“小言幸兵衛”の異名を取った政治評論家の故三宅久之さんは“愛妻、納税、墓参り”を人生のモットーとしていたそうですが、墓参りは別にして同感です。納税は民主主義国家の市民・国民の義務であり、責任であり、誇りでしょう。市民・国民の命を削って収めた血税を使う公務員、議員は、真に市民・国民に仕える公僕であってほしい。また市民・国民は税逃れに苦心もいいが、タックス・ペイヤーの誇りと責任を忘れないようにしたい。
◇あなたの手にあるそれ
旧約の偉大なリーダー、モーセは元来ヘブル人であったが、故あって古代エジプト帝国の王宮で育ったが、街で同胞ヘブル人が奴隷状態でエジプト人に苦しめられているのを見て、座視できず、奴隷解放に立ち上がる。しかし、王宮から追放され何の力もないのを見て、わが身の非力を嘆くが、神ヤハウエはモーセに問うた、「あなたの手にあるそれは何か?」(出エジプト4:2)と。かれは当時羊飼いに身をやつしていたので、手には権力の富も武力もなく、ただ一本の牧羊の杖のみ。神はそれを用いてモーセに出エジプトの偉業を為さしめたのです。市民には権力も、武力もない。しかし、日本一億の民にはそれぞれに、モーセの杖の様な、日頃使い慣れた能力、賜物、才能、経験、知恵があります。これを互いに持ち寄って助け合う、共助の世界。それが日常的に体験できるのが、キリスト教会です。ソムリエも半世紀、牧師として様々な方々に助けられ、及ばずながらお助けもし、お互いの手にあるものを捧げて補い合う、共助の愛の麗しさを体験しております。願わくば、この輪が社会に広がります様に。
「あなたの手にあるそれは何か」出エジプト4:2
リアル、バーチュアル
2025・10・1
◇実体経済、仮想経済の矛盾
経済にはリアル・エコノミーと、バーチュアル・エコノミーがあると聞いた。実体経済、いわゆるGDPで測れる国民の総生産額であらわされます。しかし、株価の様に、実体経済を必ずしも反映しない、いわば数字上の仮想経済も現実に力があります。この乖離が甚だしくなるとバブルになり、やがて破綻します。後始末に困ります。
今の米国トランプ政権は、この両経済のバランス回復に腐心しているようです。
米国の実体経済を支えてきた、鉄鋼、自動車、電機、化学産業は衰退し、代わって独、日本、韓国、中国がこの分野を席巻した。米国の実体経済上での経済的世界覇権が危うくなった時、デジタル産業、GAFAMがシリコンバレーに興り、息を吹き返しさらに、この分野の世界覇権を握った。勤勉なモノづくりによる実体経済から、モノの裏付けのないデジタル記号の、世界仮想現実の経済へとシフトした。しかし、その結果バーチュアル・エコノミーは巨額の富を手にし、従来のリアル・エコノミーは死に体となって両者の格差は恐ろしくなった。冷や飯を食わされたリアル・Eの支え手の怨念と、彼らの勤勉精神をもたらした福音派を岩盤支持層としてトランプは大統領になった。同時に大統領選挙の巨額な費用の後援者として、バーチュアル・E.のGAFAMが名乗り出、トランプは勝利した。
そこでトランプは支持層のリアルE.回復のため、高関税政策の無理筋を世界に突きつけ、米国の実体経済・製造業復活をはかろうとしています。しかし、それには時間がかかります。任期4年はあっという間です。錆びついた工場再開にも時間と財が必要、また米国のトップ知性が、金融工学、デジタル工学等のバーチュアル・E.に流入していました。今更機械や電機や、化学工学のエンジニア育成に、そう簡単に舵を切れるとは思えない。ソムリエには、歴史の歯車を逆転する無謀だと思います。むしろDXを進める以外に米国の生きる道はないのではないでしょうか。
◇米国を他山の石として
米国を他山の石にしつつ、日本の両エコノミーのあり方を考えてみます。戦後日本の成功は、ひたすらモノづくりにこだわって、世界最高水準の商品を安価に世界の市場に提供できたことにあると思います。そして実体経済が米国に次ぐまでになったのです。しかし、そこに慢心して、米国にはじまり、韓国、台湾、中国が追随したデジタル化を疎かにした結果、見るも無残な状態です。最近ホリエモン氏が、中国に行ってそのデジタル化の隅々まで行き届いた社会に感心している様に、我々は謙虚さを取り戻して、彼らから学ぶ時代ですね。ほとんどの産業分野で、韓国、台湾、中国に水をあけられ、残るは自動車産業一本立ち打法の有様、しかもこの分野もEV車の追い上げ激しく、どうなるか分かったものではない。コロナが流行っても、ワクチン一つ開発できなかった、ノーベル賞受賞者数を自慢していた科学のレベルも低くなったのが暴露。
そこで残った2,000兆の個人資産を担保に、金融で世界に勝負しようとの向きもある。バーチャル・E.へのシフトです。確かにこの面での日本の可能性は大きいと思います。しかし、今回の米国の惨状を他山の石として学ぶべくは、やはり基本はリアル・E.だと言う事です。失われた30年の間も、現場の技術力を地道に磨く事を忘れず、世界の産業機械を提供できる日本の中小企業の底力。これが底割れしないうちにテコ入れし、産業力を地道に再生すること。その為にもDX,AI,ロボットは欠かすことができない。これを軽んじて米国の様に金融工学のようなバーチュアル・Eに、トップエンジニアを投じ、豊かな生活を保障するシステムでは、地道にモノづくりに取り組む有能な青年はいなくなり、米国の様になりますよ。今こそ、日本のモノ作りのお家芸を取り戻して、王道に戻るべきでしょう。それを資金面でサポートするバーチャル・E.がしっかりしておれば、鬼に金棒ですよ。
◇資本主義の心臓
ここから資本主義のそもそも論に立ち帰ります。マルクスが「資本論」の心臓、貨幣論で解明した、資本(貨幣)の自動増殖運動の秘密解明。G(資本・貨幣)-W(商品)-G‘(利潤増殖した資本・貨幣)はよく知られています。これを説明するのにマルクスは、西欧社会の常識、キリスト教神学の心臓、三位一体論で説明しているのです。父なる神と御子イエス・キリストから、発した聖霊が世界に御子の業を展開する、経綸論的三位一体論です。聖霊は増殖の霊、いのちの霊なのです。当時の西欧社会では、信仰の有無にかかわらない常識でした。これが資本の自己増殖運動のアナロジーとしてマルクスが採用したのは、単なる思い付きではなく、資本主義の本質を言い当てているからです。しかし、産業資本主義の段階では、資本によって作られた商品が市場に投じられ、需要と供給関係により価格が定められ消費者に購入される。しかし」金融資本では、貨幣が商品となって、モノを介さず直接、自動増殖運動を行う。G-G’運動です。モノは資源でもエネルギーでも有限ですから、供給に限界があり、必然増殖運動にも限界があります。しかし貨幣は記号ですから、限界がなく青天井の過剰、逸脱増殖となり、どこかで現実との落差は破綻します。実は、三位一体論の論争に、フィリオクエ論争と言うのがあったのです。フィリオクエとは、ラテン語で“子からもまた”と言う意味です。聖霊は父から、子からもまた発出する、西方教会(カソリック、プロテスタント)の立場です。父からのみ聖霊は発出する、というのが東方教会(正教、オーソドックス)の立場です。東方教会は、創造者なる父なる神からのみ聖霊は発出する、日本人的に言うとアニミズム的なのです。西方教会は、父だけでなく、子からもまた、即ち歴史のイエス・キリストの原型に限定した聖霊の発出を告白しているのです。ソムリエは、西方教会に属し、またこの度の、実体経済、仮想経済論争に大いに参考にすべきと考えているのです。イエス・キリストを離れた聖霊運動は必ず熱狂主義的異端となり、信仰の破綻をもたらします。キリスト教2千年の歴史の教訓です。資本主義運動の脈打つハートに、三位一体論を見ぬいたマルクスの眼力、そこにさらに聖霊論を厳密に取り入れ、実体経済抜きの仮想経済の危険性を読み取るべきでしょう。
部分知に優れた学者も、全体知それも神学知にも開かれていなくては、道を誤るのです。
環境設定と取り説
2025・9・24
◇環境設定の大切さ
最近“環境設定と取り説”の大切さを思うようになりました。1、2、実例を挙げますと、ソムリエは、15年ほど前に前職を退職し、以来ほぼ自宅にいます。その際、気を付けたことがあります。今まで通りの生活は通用しないだろう、と言う事です。つまり、家の事は家人に任せっきりで、仕事に没頭し、帰宅すれば全てが整っている、と言う40年の生活は無理だと言う事。と言うのも信徒の主婦業の方〃で、夫が退職後も第二の職も付かず悠々自適の生活。社会的地位もあった仕事で、経済的に不自由しない。ですから奥様方も文句は出ない。しかし牧師のソムリエに愚痴をこぼし、中にはノイロ-ゼ状態になった方もいたからです。理由は簡単、夫が毎日三食上げ膳据え膳で、後はゴルフや趣味に生きている。今までは夫を職場に送り出し、残る家事を手早く済ませば、後は帰宅迄自分の天下でしたが、今や奴隷状態で息が詰まる。これが死ぬまで続くと思うと絶望感に襲われる、と言う。何と贅沢なと思われるが、現実なのです。ソムリエは他山の石として学ばせていただき、家人と相談して、家事負担を分担させていただく事にしました。もちろん実際にやって見なければ分からないことも多く、互いに微調整しながら、今日まで何とか維持できています。
さて現実にやってみると、まず年齢が後期高齢者ともなれば、自分自身の健康維持に時間と、エネルギーを取られます。その上での家事分担ですので、朝5時半の散歩から始まり、9時か9時半にひと段落するまでに随分かかり、また疲れもします。それから外出の用事があったり、なんだかんだで、退職後自分がやりたいと思う事は、一日の中でほんの3,4時間ですね。要するにまず生きるための環境設定に結構時間と精力が費やされる。しかしそれをしないと、やりたい事は出来ないのです。リッチな方はお手伝いさんに依頼するでしょうが、ソムリエの様な人間では自立・自律した生活のストは自分の労働で払うのです。
次の例、長年愛用のパソコンがどうにも不具合になり、色々吟味して新しいのを購入、でもデスクに置けば即使用できるか、そうはいきませんね。それこそソムリエの状況にカスタマイズした環境設定が必要で、親しいPC通にランチをおごって半日がかりでセットアップ、それ以後も何かと新しいバージョンは使い勝手が変わり、高齢者には理解が進まず、面倒かけ、やっと最近快調と相なりました。パソコン本体があっても、環境設定しなければ無用の長物に過ぎない。
◇人類登場の環境設定
以上、どんなに環境設定が大切かが分かります。ここで話を広げます。ソムリエが新著「138億年のメタ・ヒストリー」で、描いた事ですが、そもそも人類がこの宇宙の登場するのは、138億年の宇宙史のつい最近の事です。人類史700万年、ホモサピエンス史20万年とすると、宇宙史を1年のカレンダーで例えると、12月31日の終わりころと言えます。そうすると人間と言う存在は、その存在が登場するまでにほぼ138億年の宇宙史の全てを費やした、と言えます。万物の起源を記したバイブルの創世記でも、創造の7日間の最後の6日目に神様は人間を創造されたと記しています(ちなみに7日目は休日です)。創世記1章、初めに神は天と地を創造し、暗闇の世界に、“光あれ!”とおっしゃって光が登場。エネルギーと物質が次々展開、銀河が生まれ、46億年前に太陽系、地球、月が誕生し、やがて地球上に40億年前に生命が誕生、目もくらむような多様な生物世界が展開、そして先ほど述べた人類、ホモサピエンス登場・・今日の我々に至る。どれが欠けても人間は存在できなかったのです。そう思うと、神様の人間創造のための環境設定はどれほど念入りで、周到で愛の籠ったものであるかが分かります。半日やそこらで環境設定できるPCどころとはわけが違う。文句の多い我々ですが、138億年の宇宙史を俯瞰すると、私と言う存在がどれほどの価値あるものであるかが改めて実感できますね。
◇取り説
さて何か商品を購入し、使用するための環境設定が必要な事は分かります。その際、設定する者は「取り説」つまり“取り扱い説明書”に従います。これが高齢者には中々理解が難しい。しかし忍耐して「取り説」通りに手順を踏むと、確かに使用できるようになります。そうすると、生活やビジネスやコミュニケーション環境は、数段も快適になります。今やスマホ抜きに現代人の生活は考えられないでしょう。ソムリエもスマホに居場所を知らすアプリを入れられて、徘徊老人になっても対応できるように家人に24時間安否確認と言うか監視されています。いいのか悪いのか?「取り説」のお陰です。
また話を広げますが、科学技術の飛躍的発展により文明の恩恵が、一部特権階級だけでなく、広く一般市民にまで及び出したのは、これもつい最近のことです。17世紀近代科学革命、近代市民革命、近代資本主義、みなキリスト教文明から生まれたものですが、それが近代化の地球規模の運動となり、世界に波及しているからです。「近代科学革命」により、自然の世界の取り説が分かる様になり、「近代市民革命」「近代資本主義革命」により、人間社会の政治、経済の取り説が、分かる様になったと言えます。現代では様々な問題から近代の破綻、近代以後の世界が模索されていますが、ソムリエの俯瞰的な見方では、近代化の運動は、20万年のホモサピエンス史でも、たかだか400年程度ですよ。まだまだ賞味期限は切れてはいないと見たてます。
◇取説の注意喚起と警告
ではどこに現代人と社会の問題はあるかです。「取り説」を読むと必ず、注意事項が書かれ、それに反した事をすれば、どんな事故が起こるかまで書かれ、注意喚起と警告が記されています。また注意違反には製造者責任はない事が明記され言います。ここが肝ですね。近代科学は自然現象の解明・取り説がなされています。しかしそれをどう用いれば人類の益になり、どう悪用すれば不幸に陥れるか、科学者は専門家として、注意喚起します。それを知りつつどう使うかは一般人の責任です。核の平和利用と軍事利用は天国と地獄の差を人類にもたらせます。最近はドローンでしょうか?AIでしょうか?またデュアル・ユース(民生・軍用転用可能)と益々複雑です。また「近代民主主義」の手続きを踏んで独裁者が現れます。「資本主義経済」から、極端な格差が生まれます。また孤独な個人の空虚な生活と死の恐怖。実はこれらの弊害は、本来キリスト教から始まった近代化が、18世紀無神論啓蒙思想による「聖俗革命」の結果として招いたものなのです。
ですから、近代化の初心に帰ってバイブルと言う、人生と自然と社会の根源的な「取り扱い説明書」を読むことによって、問題は克服されるのです。是非バイブルを手に取り、教会でその説き明かしをお聞き下さり、あなたの人生に光を見出して下さい。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたものであ
る。」 エペソ2:10
呼吸法
2025・9・17
◇呼吸法
お世話になっているリハビリの理学療法士さんから、最近の人は呼吸が浅くなっていると言われる。一日に一回は深く呼吸した方がいい、と助言された。早速、朝の散歩の時、清々しい外気を胸いっぱいに吸うと、なんだか新鮮な酸素がからだ中を巡るような感じがして気分がいい。呼吸と言うが、大きく空気を吸うには、その前に胸の空気を吐き出さないといけません。療法士さんから、口をすぼめてゆっくりとそして溜まった空気を目いっぱい吐き出すのがコツですよ、と教えられた。確かに、デトックス効果と言うのか、体中の不純物が出て行って、その後は、自動的に胸は膨らみ、新鮮な外気を胸いっぱい吸えますね。吸うにはまず吐き出さないといけないと言う事。
30年も昔、大学病院の救急医療の部屋に入ったことがあります。胆石に手術でしたが、空きベッドがなく、そこに暫くいて下さいと言う事でした。そこには喘息の発作の患者さんが集められていました。周りはゼーゼーと呼吸に苦しむ人がいました。発作が起きると、ブザーを押してナースが飛んでくる、喉が狭くなり呼吸が苦しくなるので、喉を広げるスプレーに薬をくださいと患者は言う、しかしナースは、これ以上の薬は体に良くないと拒否、そして背中をさすり、ぽんぽん叩き、患者の頭からビニール袋のよう様なものを被せ、空気を吸わないで吐き出しなさい、吐きなさい、と言う。喘息患者は空気を吸うばかりで吐き出さないから、やがて肺は満杯で止まり、酸素補給ができなくなり、真っ青になってチアノーゼが出る。見ていた他の患者がこの人死ぬよ~と叫ぶが、ナースは喘息の発作で死にはしないと励ます。やがて発作が収まると、ひゅーひゅー言っていた呼吸が静かになってほっと安心。他の患者さん方も一緒に背中をさすり、やれやれよかったと喜ぶ、同病相憐れむと言うが連帯感がありましたね。普通に呼吸ができると言う事はどれだけありがち事か、痛感しました。
◇マインドフルネス呼吸法の功罪
現代は、コスパ・タイパ第一で何かと忙しく,せかされても思うように仕事はこなせない事が多い。いらいらが募り精神衛生に良くない。そこで数分でも心身の安定を取り戻す、マインドフルネスがビジネスや教育に取り入れられています。ほんの数分ですが、こころが落ち着きを取り戻し、再び仕事に取り組める。目は半分開けて、半分閉じる、いわゆる半眼ですね。仏像の目です。すると外界の刺激が少なくなりますが、その分頭の中の雑念が増幅する。そこで終わるとかえって思い煩いが増えるので、呼吸法が登場する。自分の鼻を意識して、静かに息を吐き、深く吸い込む。確かに心が落ち着きますね。以前、牧師のソムリエに相談に見えた方が、急にパニック状態になり倒れそうになった時、静かに深呼吸を一緒にしましたら、落ち着かれ喜んでくれました。確かに効果があります。しかしここで留まれればいいのですが、中には呼吸法から瞑想法に進み、ヨガや様々なメデイテーション法に凝り出すオタクも出て来るのです。ここが曲者です。ハイな気分、ゾーンに入る人もいます。さらには、体外離脱、空中浮遊、瞬間移動、エクスタシーの法悦境に達する者もあり、スピリチュアル系中毒化の危険性が生まれるのです。昔のオウム真理教のようなものがあるのです。気を付けないといけません。
◇聖霊・悪霊の区別
そもそも、呼吸、息はギリシャ語ではプネウマで風も意味し、同時に霊も意味します。旧約聖書の創世記で、神が人を土から造り、そこへ息を吹き込んだ。すると人は生きるようになったと記されています。ミケランジェロのアダムの創造に、神が息を吹くシーンがありますね。また復活のイエス様が、弟子たちに「息を吹き掛けられて、聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)とおっしゃった事が新約の福音書に記されています。イエス様は「人を生かすのは霊であって、肉は益がない」(ヨハネ6:63a)とも言われた。命の霊に息吹かれて、人は元気に生きるのです。しかしここからがポイントです。呼吸法で、ハイな気分になれば何でもいいのではない。霊には聖霊もあれば、悪霊もあるのです。ここが宗教音痴の日本人に分からない。宗教学者は特に分からない。知ったかぶりでオウムの宣伝の片棒を担いだ宗教学の専門家と称する連中の無責任さに呆れます。彼らの推しに、だまされ霊的ステージを追求して身の破滅を招いた青年たちへの責任を取ろうとしない。宗教学では悪霊も聖霊も等価なのです。しかし木はその実によってわかるとイエス様はおっしゃった。悪霊は「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、嫉み、怒り、等は信、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽・・このようなことを行う者は神の国を継ぐ事は無い」(ガラテヤ5:19~21)。他方,「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であり、御霊によって生きよ」(ガラテヤ5:22~25)と使徒パウロも警告しています。では聖霊と悪霊の見分け方はどこにあるのか、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と告白できない」(コリントⅠ、12:3)のです。イエス様を救い主と告白させる霊が聖霊なのです。そうでない霊的現象はどんなにハイでも、エクスタシーであろうとも、ステージが高くても悪霊なのです。
◇言葉と霊
さらに、禅の影響で、教外別伝、不立文字、経典によらず直接“絶対”(無とか神)に接する事ができる、と言う人も多い。しかし本当は師家、真のグル、導師ないと危険なのです、野狐禅と言います。座禅をやって気が変になった人もいます。キリスト教神学でも、霊と言葉の関係が議論されてきました。①聖霊は言葉の外にも働く、②聖霊は言葉と共に働く、の二つの立場があり、前者には極端な聖霊主義者、宗教改革過激派、神秘主義者、ウルトラペンテコステ等があります。異言、預言を重視し聖書から逸脱し、破滅の道を歩んできました。しかし聖霊は神の言葉聖書が語られるところに働かれるのです。そこに真理の霊があるのです。イエス様はおっしゃった「私があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)と。日曜礼拝で牧師先生から語られるみ言葉と共に聖霊は働き、聴く者に活きる力を与えて下さいます。また日々み言葉のデボーションをする時に、聖霊は毎日を豊かな命の道に導いてくださいます。是非、祈りつつバイブルを読んでください。そこに聖霊は命の息吹を注いで切れます。さあ、胸いっぱい霊的呼吸をしましょう。
いいとこどり
2025・9・10
◇亭主元気で
最近は言葉刈りと言うのがあって、ソムリエの様な時代遅れの人間には、うっかりものを言うと、どこかから抗議を受けそうで、気を付けなければなりません。“亭主元気で留守がいい”と昔し申しましたが、これは大丈夫なんでしょうね。以前タンスにゴンのTVCMで使っていたから多分いいのでしょう。現代は、女性の社会進出や、家計が夫婦で働かないとやっていけない等で、共稼ぎが普通になっています。しかし、ソムリエの働き盛りの頃は、夫が会社人間でしょっちゅう出張、出張、あるいは単身赴任で、家は専業主婦の妻が守り、家事はもちろん子育ても一人で奮闘、実質的母子家庭状況と言うのがありました。社会では夫婦の分業が当然の雰囲気でした。ですから夫が出張から帰り自宅通勤や、単身赴任の任期を終えて家に戻ってくると、子供たちは父親になじめず、このオジサン誰?と言う顔。妻も夫の食事や身の回りの世話が増えて、嬉し悲しの状態。そこで再び、出張や単身赴任になると、顔では寂しそうに、でも内心ほっとする。子どもも手がかからなくなり、朝の家事に奮闘し、子供を学校に送り出せば、後は夕方まで自由を満喫。とにかく夫が元気で仕事に励み、給料をちゃんと振り込んでくれれば、最高だと言う事がこのフレーズなんでしょうね。
◇いいとこどり
ある時検査入院をしたことがあります。相部屋でもう一人長期の男性患者方がいました。カーテンで仕切られていましたが、呼吸をするたびにポンプの様なものが動き、その音が異様でどんな病気かと不思議でした。めったに見舞客はなく、ある時奥様が来て、直ぐそそくさと帰ろうとしたとき、婦長さんが来て、もっと目どう見てあげて下さいよ。あなた若い頃は、この旦那さんからいい目いっぱいさせてもらったんでしょう。院長先生が友人だからと言うので、弱った御主人を病院に預けっぱなしで、たまにしか見舞いにも来ない。そんないいとこどりはダメよ!とカーテン越しに叱責が聞こえ驚きました。患者夫婦と婦長さんとはどういう関係なのかな。
もちろん逆もありです。大阪府下の某市長さんが突然辞任、何か不祥事でもあったのかと思うと。奥様が重病になって看護するとの事。その辞任の弁や善し。“市長の替わりはいくらでもいるが、家内は唯一人、今まで苦労をかけっぱなし、せめて看護に専念するのは当たり前です。”
◇晴れの日も嵐の日にも
なんだか男性ばかりにいい格好してすみませんが、現実は逆の方が多いのは重々存じています。要するに“いいとこ取りはダメ”と言う事です。人生苦楽はあざなえる縄のごとし、です。楽だけ目いっぱい味わわせてもらって、苦はご免、と言う自己中はいけない。苦楽を共にするのが夫婦や家族ではありませんか。大なり小なり共同体と言うのはそういうものです。NHKの“新プロジェクトX”と言う番組がありますが、その筋は、冴えない職場にあるプロジェクトが持ち込まれたが、中々思うように進まず、さらに試練が襲い、なかには見切りをつけて去って行く者もいたが、残った貧乏クジを引いた数名の社員が、耐えに耐えて遂にプロジェクトを達成する、退職後も同窓会を開くと、苦楽を共にした元社員たちは、あの経験があったからこそ自分の人生に意味があったと回想する、目に涙をにじませて。利益を共にした同士でなく、苦しみを共にしたもの同士こそ信頼に足る者なのです。“いいとこどり”は信頼されません。
大きくは、最近の日米同盟見直し論。日本有事の時は米軍が戦ってくれる。その代わり日本は米軍基地を提供し、その経費を負担する。日本はこれで公平だと思ってきた。しかし米国は非対称だと言う。巨大な軍事費と米軍兵士の血を当てにして、日本は経済発展してきた。もう一人前になったのだから“いいとこどり”を止めて、片務的でなく双務的に、対称性ある同盟関係にしよう。さもなければ引き上げるかも?そうですね。100年続く同盟は歴史上稀ですよ。我々は至急“いいとこどり”を止めて、応分の負担をしなければ安全保障もありえない。もちろん安全保障のあり方は、別に論じなければなりませんが。誤解なきように。
「友はいずれの時にも愛する。兄弟はなやみの時のために生まれる。」
箴言17:17
2025・9・3
◇同窓会
家人は同窓会が好きで、ソムリエの退職後、子供たちが巣立ってからは中学、高校、大学と次々参加し、その都度興奮して帰宅する。年は取っても、ああ、○○さん、△△君、元気やね~、一瞬にして青春や、少女時代に戻って、話が弾み、あっという間に時間が経ち、今度はいつ会おうね、と惜しみつつ別れ再会を誓う。男性は二次会に繰り出す、という事です。中学時代、クラス会と言うのがあって、女子が男子を訴え、掃除の時間に女子は真面目に取り組んでいるのに、男子はいつの間にか雲隠れし、終わったころにどこからともなく教室に帰って来る、こんなズルをして男子は怪しからん、と吊し上げられたと男子が思い出を語ると、そうだ、そうだ、今も男性は怪しからんと現在の話にまで飛躍して、皆笑い出したとか。その後のそれぞれの人生の厳しい歩みをしばし忘れ、他愛ない事にむきになった頃が懐かしい、という。
ソムリエは一度だけ、初めてでそれも一回限りの同窓会のお世話役を買って出たことがあります。まず連絡先を確定するのが難しい。卒業名簿を基に、今も交流のある人の輪をたどり現住所や連絡先を知る事から始め、世話役たちで、開催日取り、会場、食事、プログラム作成、世話役の歓迎の言葉、恩師あいさつと記念品贈呈、出席者の自己紹介、スピーチ、記念撮影・・、会費と会計予算。まあ、大変でしたね。要するにこういうお世話を喜んで引き受ける方がいないと中々、お客さん気分のメンバーばかりでは続かない。家人の場合は世話役がホテル経営者で、自分のホテルを会場にしており、実利を兼ねて続いている様ですが。ソムリエは一度で結構でした。
もちろんソムリエにも同窓会のお誘いがかかります。70代になると、もうこれが最後かもしれんから是非顔を見せてくれ、と言われた事もあります。しかし、正直余り関心がありません。家人からもどうして参加しないの、楽しく懐かしいのにといぶかしがられる。そこで、言い放ちます。要するに同窓会は過去に戻る事だ。80代にもなって自分の人生の残る時間は短い。時間は戻らない。進むだけだ。自分は取り戻せもしない過去に係るより、短い残された時間を有効に使って、やりたい事をしたい。過去より未来に生きるんだ、同窓会は時間の無駄だ!と。家人はこの歳になって何の可能性があると言うの。それより過去は豊かよ。それを反芻して味わう方が、どれほど豊かな老齢期のあり方か,わかっていない、とソムリエは今も女子に諭されています。
◇同窓会の時間観
ここに時間観の違いがあるように感じます。歴史学者のE・H・カーの名著「歴史とは何か」で、“歴史とは過去と現在の対話である”と定義されたのは有名です。ソムリエの様に、過去を振り返らず、イケイケどんどんの前向きばかりでは、またまた待ち受ける落とし穴に落ち込む危険性があります。過去の歴史の同様な状況に何が待ち受けていたか学ぶ事により危険性を回避できます。また先行き不透明な現在も、やはり同様な過去の歴史的状況から先行きを予測できることもあります。同窓会で同じ時代を過ごしながら、その後の歩みが全く異なる同窓生の人生から、色々学ぶ事は多い様にです。同窓生の様々な人生から現在の自分のあり方に、反省やヒントを得ることがあります。もっとも家人の同窓会の案内に、話題の注意点が書かれておりました。“孫と病気の話はしない事!”でした。孫自慢は鼻白みますし、病気の話は本人は深刻で夢中になっていますが、治療法がない場合が多く場が暗くなりがちです。こういう大人の配慮をしつつ、楽しい懐かしいだけがいいのかも知れません。これが同窓会の効能の時間観でしょうか。
◇もう一つの時間観
ところで、もう一つの時間観があります。アウグスチヌスの「告白録」に、時間とは何か、分かっている様で分かっていないのが時間だ。そこでアウグスチヌスは時間にメスを入れ現代にも通じる時間論を展開しました。「過去は過ぎ去って今はない。今は直ぐに過ぎ去り存在しない。未来は未だ到来していないのでやはり存在しない。だから厳密に考えると時間は存在しないことになる。しかしそれは物理的時間であり、心の中に存在する。過去は記憶となって今、心の中に存在し、現在は直視するものとして今、心の中に存在し、未来は期待(予測)として今、こころの中に存在する。まさに記憶としての過去も、期待としての未来も、直視する現在のこころの中に存在する。」と言う。“永遠の今”こそ時間の本質だと言う。後年の日本の高僧、道元禅師の“而今(にこん)”の先取りだと言われます。
ソムリエにとっては過去はどういう視点で見るかによって変わる「記憶」です。様々な思想家により、日本や世界の歴史が全く新しい観点から新鮮によみがえり、現代のわれわれに大きな参考になります。と同時に未来はどう予測するか、期待するかで、暗くもなり、また明るくもなります。未来は必然の鉄の法則で決定しているものではなく、それでは運命論者になってしまいます。諦めしかありません。そうではなく、われわれ現在に生きる者が、どのように未来を描くかにかかっているのです。今のソムリエは、過去に学びつつ、何とか希望の未来像を描きたいのです。ソムリエの知人夫婦は暗い未来しか考えられないから子どもを産まないと宣言していました。しかし仕事でオーストラリアに移住、かの地で教会に導かれキリスト信徒となりました。そして未来に希望を抱けるようになり、子供を授かり帰国しました。キリスト教は希望の宗教だと思います。
「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す事を知っている。そして、希望は失望に終わる事は無い。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ5:3~5
いい加減
2025・8・27
◇土井善晴
料理研究家と言うのでしょうか、土井善晴さんと言う方がいます。お父様の土井勝さんが有名な料理の名人で、二代目ですね。柔らかで品のある関西弁で、お料理についての楽しい話を聞かせてくれ、ついでに人生のヒントまで与えてくれる方ですね。あるTV番組で、土井さんの料理の極意は“いい加減”にあると言う番組でした。若い頃はお父様の下で修業し、フランスにも赴き、各地の名店で料理人の腕を磨いた。しかし、ある時から家庭料理に目覚めたと言う、そんなもの料理に値しないと仲間から見られたが、構わずその道を追い求め、民芸のこころに出会う。「無用の美」つまり美そのものを追求する芸術家に対して、名もなき職人は、人々が日常生活で欠く事の出来ない、衣食住の日用品を作って来た。そこに“用の美”があることを発見した、柳宗悦等の民芸運動の素晴らしさがある。高級料亭や、レストランの手の込んだ美食より、毎日の食卓で頂く家庭料理こそ、日々の営みの元気の源ではないか。ここに目を向けずして料理の何が分かるか、と言うことですね。ですから食材選びと言っても、その家の冷蔵庫に今あるものを調べ、調味料を調べ、そして家族の年齢や性別を聴いて、料理を考える。だからレシピも味付けも、その時その場で考え、一番ぴったりのものを提供する。適当に手を抜いてではなく、最適のものを調理する“いい加減”こそ家庭料理の極意だと言う。
◇我が家の料理のバトル
これを見て、わが家人の歩みを思いますね。家人は土井さんより年長で、失礼ながら彼より早くこの境地に達している様です。元々大学で家政学を学び、調理実習が必須科目だった。ソムリエとの新婚当初びっくりしました。食事を作る時、学生時代のノートを出して、0・5g~5gとか、小さなスプーンが束になった様な、メジャスプーンと言うんですか、それでいちいちレシピ通りの調味料をはかる、温度計を鍋に入れて測る、タイマーを置いて時間通リでガスを切る。何だか実験をやってるようでしたが、何せ新婚でしたから、何でも旨かった。数年たつとさすがのソムリエも,旨いものは旨い、まずいものはまずい、と遠慮なく言えるようになった。すると家人は、レシピ通リにやった、だから自分に責任はない、と言う。
実はソムリエの父親は、香川の田舎ではありますが、日常の仕事は別に年数回程度、知り合いに頼まれて、法事や婚礼の料理を何十人分も作っていた。“お客”と呼んでいましたが、その準備は大変で、家族総出で手伝ったものです。身内をほめるのは控えなければなりませんが、子供心においしかった。少し余分に作って家族で試食したものですから。そんな時、親父はお品書きと言うのを作っていましたが、レシピなるものは持たず、ひたすら自分の舌で勝負でした。ですからソムリエは、分かりもしないのに家人に、何を何グラム、温度はいくら、煮炊きの時間は何分などと、そんな事決められるものやない、季節も気温や湿度、様々な調理の条件は千差万別、その時その場の自分の舌で確かめないで、レシピ通リに行くものか!と注文。後の雰囲気は御想像に任せます。
あれから半世紀、家人に今日の夕食は何?と聞くと、さあ、何料理と名づけられるものではない、まず中華やイタリヤ料理と決めていても、急にお腹が緩くなり、急遽お粥に変えなければいけない事もあり、また冷蔵庫や調味料のストックにもよる、それらを総合的に判断し、最適なものを作る。家庭料理はレストランと違って何料理と名付けられるものではない、と名言を吐くようになった。メジヤーも温度計もなくなった。タイマーだけは高齢になってガスのつけ忘れを防ぐため置いてはいますが。もちろんソムリエは満足いたしております。
◇いい加減、社会
話は飛躍します。日本はかつては欧米先進諸国のモデルを調べ、それを日本なりにアレンジしながらではありますが、レシピ通リに近代化を進め、今やそれなりに達成した。そしてこれからは追い付き追い越せの時代は終わり、モデルもレシピもない未来の道なき道を自分自身の考えと舌を頼りに、その時、その場の最適解を求めつつ歩む時代になったのでしょう。これから本当に日本らしい味わいになって行くと信じつつ。成熟した“いい加減”の社会が到来したのでしょうね。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富む事にも乏しい事にも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。」 ピリピと4:12、13
概念、直観
2025・8・13
◇デカンショ節
子どもの頃、母親が“デカンショ節”と言う歌を歌っていた。何のことか?と聞くと。昔の学生さんは“デカンショ、〃で、半年暮らす。後の半年しゃ、寝て暮らす。”と戯れ歌うなっていたそうな。なんでも偉い哲学者の名前やそうや、という返事でした。それが妙に頭に残り、高校の時デカショは、デカルト、カント、ショーペンハウエルの事だと知った。大学でデカルトの方法序説に感心。有名な、思惟する我、理性の発見こそ哲学のアルキメデスの原点だと知る。さらに理性の可能性と限界を探究したカントの「純粋理性批判」を分からずながら齧る。
◇概念・経験
その中に名言がいくつかありますが、今日はカントの“内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である”を取り上げます。哲学史では、大陸観念論とイギリス経験論の論争を解決した名言と言われます。
まず“内容のない思考は空虚である”は、戦後の食糧難の時、父親が世の中にはバナナと言う果物があって、こういう色形で、それはそれは旨いもんだ、と目を細めた。以来、ソムリエはバナナに憧れ、中学生の頃、はじめてバナナを口にした。いやその前に、黄色く半月状の姿を愛で、南国の匂いを嗅ぎ、皮を剥いてパクリ、えも言えぬ旨さにしびれましたね。これがバナナか!いくら父親から絵を描き説明されても、バナナは食べてみない事にはその味は分からない。内容のない思考は空虚である。その通り。
次に“概念のない直観は盲目である”は、若気の恥を申しますが、若い頃、友人と雑談中、ある女性の事を暫く話していた。すると友人が、君それが恋ちゅうもんだよ、と言う。ソムリエは否定したが、内心ああそうか、と気づいた。何だかもやもやした気持ちが存在する。それに的確な概念を与えられてこそもやもやの経験や直観が明確な認識となる。その女性が現在の家人ですので、あの友人の一言の概念化の力です。ですから様々な人生の経験にたいするネーミングは大切です。毎日忙しくしているが、何をしているのか。将来何を目指して貴重な時間を過ごしているのか、人生に方向づけを与えるのは概念です。
◇非人格関係の経験・人格関係の経験
ここから哲学・神学に話は進む。ソムリエが一昔前のインテリと話した時、よくウイットゲンシュタインの“語りえぬことについては、沈黙せねばならない”(論理哲学論考)と言う名言を持ち出し、宗教を否定した。世界には様々な言葉があるが、確かなのは言語と事実は正しい対応関係を持つ科学で実証される言葉だけである。それ以外の言語は結局幻想にすぎない。神という概念は存在の実証できない。信者は神は存在すると言うが、無信仰者には存在しないではないか。神は普遍的客観性によって保証される理性にとって、言語=事実の対応関係にないから、存在しない。百歩譲って信仰者が存在すると言うなら、無信仰者は沈黙する以外にない。よくこう言って鬼の首取ったように迫られたものです。
しかし、それは前期のウイットゲンシュタインで、後期「哲学探究」で変わったんですよ。言語は事実との関係だけでなく、日常生活の交渉のために使用される、様々な言語ゲームである。要するに非人格関係の世界の関係叙述には先の彼の定言は成り立つ。しかし、後年彼は人格的関係の世界では、実証性はなくても存在するものがある事に、気づいたのです。それが愛の世界です。あるグループがあって、その中に相思相愛の関係が確かにあっても、それを科学的に証明せよと言われても困る。しかし二人の間には確かに愛は存在するのです。神と人との関係も非人格的科学的関係ではなく、人格的関係なのですから、神の愛を知った者には疑い様のない現実なのです。ウイットゲンシュタイン自身カソリック信徒となったのですから。
実はカントも、神の存在、自由の存在は理性的認識の限界だと言っています。神は存在するとも言えるししないとも言える。いわゆる「純粋理性の二律背反(アンチノミー)」(純粋理性批判)です。世界は全て原因結果の必然的因果律で構成され、自由など存在しないとも言える、しかし現実に我々は自由を行使しているからあるとも言える。結局カントは“私は信仰に場所を与えるために、知識を制限しなければならなかった。”(純粋理性批判)と言っています。つまり神を知るのは理性ではなく、神の啓示への信仰だということです。つまり神の愛の啓示を受けた者に神は確かに存在するのです。また自由は現象の中には存在しないが、人間の心になかに存在すると、言っています。確かに毎日我々は無数の決断をしています、と言う事は自由な選択肢が心の中にあるということです。その一つをチョイスして現実の行動に移すと、そこは切れ目ない因果の連鎖です。ですから道徳的自由な選択に人間は責任を問われるのです。自動車が暴走して人をはねたらと言って、自動車が裁判にかけられることはありません。無謀運転をしたドライバーが責任をとわれるのです。
ここから言えることは、経験内容は非人格関係の経験もあれば、人格的関係の経験もあると言う事です。ユダヤの思想家M.ブーバーが名著「我と汝」で“初めに関係ありき”、“世界には我と汝の関係と、我とそれの関係がある”、“そしてこの二つの関係を設けられたのが永遠の汝である神である”と美しく述べた通りです。
◇神の呼びかけ
創世記によると、世界を創造された神様は人間も創造され、エデンの園に置かれた。そして神を愛し、原人アダム・エバは互いにパートナーとして愛し合っていた。しかし、誘惑者蛇に誘われ禁断の木の実を食べて、原人は神の顔を避けるようになった。神と人の関係に亀裂が走ったのです。この原関係が断絶し、その他の全ての関係が(自己との関係、人との関係、自然との関係)全てが狂ってきたのです。現在の世界を見ればわかりますね。しかし創世記によれば、ある時神は園を訪れ、「アダム、あなたはどこにいるのか?」と木陰に身を隠す原人に声を掛けられたと言う。神の背いた人間に神の方から関係修復の、愛の回復の呼びかけがなされたのです。現代社会は“我とそれ関係”が肥大し、全てを金額に換算し価値づけし、自然も人間の利用価値で判断し、“我と汝の関係”が失われています。地球環境破壊、戦争の深刻さ。それは究極的に“永遠の汝である神”との関係を見失っているから起こっているからです。神様は「あなたはどこにいるのか?」とあなたに呼びかけておいでです。この永遠の愛に満ちた神様との関係に立ち帰り、全ての関係修復に努めたいものです。「神の愛」と言う聖句を、空虚な“概念”から豊かな内容の“経験”とされますよう祈るものです。
「主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」創世記3:9
参議院選結果に思う
2025・7・30
◇民の声、神の声?
“民の声は神の声、VOX POPULI ,VOX DEO”と申します。7月30日参議院議員選挙投票が終わり、結果が出ました。与党の自民党と公明党は、大きく議席を失い過半数を割り、衆参共に少数与党となった。野党は、最大の立憲も、次席の維新も伸び悩み現状維持が精いっぱい。大きく議席を伸ばしたのはソムリエの出身高校の後輩玉木代表率いる国民民主と、ダークホースの参政党でした。他の野党は軒並み超低空飛行。多党化時代に突入した不安定な政局は流動的になりました。これをどう読み解くか、巷の意見はまちまちです。横丁の隠居のひとりソムリエの見方を述べます。
◇成熟先進社会の多党化現象
これは単に日本だけでなく、ヨーロッパ先進民主主義諸国の一般的傾向に、日本もようやく追いついたと見ますね。かの地ではとうに二大政党などは力がなく、多数政党が乱立しています。つまり成熟した先進社会は民意が多様化し、それを反映するには二大政党制では汲み取り切れない。成熟社会は多様な価値観と生き方が求められる多党化は避けられないからです。そうすると政治評論をやるにはいいが、現実の政策はどれかに決める必要があるが、政党が乱立すればまさに、決められない政治、あちら立てればこちらが立たず、状態になる。
そこで複数の政党の連立が求められる。ドイツにせよ、フランス、スペイン、イタリヤもそうです。中には連立が難しく数カ月も組閣ができない国もありました。で日本もようやく保革伯仲の二大政党システムに陰りが見え、欧州に倣って連立政党政権時代に入るのでしょうね。もちろん、日本の場合は、与党の議席が過半数に少し足りない程度ですから、連立より案件ごとに政党間合意形成して運営と言う事になるかもしれませんが。ウルトラCで大連立もあり得ますね。
ソムリエはよく腸内細菌のたとえを用います。何でも我々の腸には、体にいい善玉菌と、悪さをする悪玉菌と、大きな比率で無害の日和見菌が生息しているとの事。善玉菌を優勢にするには、日和見菌を味方にする戦略をとるそうです。政治に置き換えると、以前は民意は政権与党と野党に吸収され、保革政権交代で民意のバランスを取るのが良いとされた。しかし成熟社会になり、保革以外の民意が大きくなった、日和見菌いわゆる無党派層が増えてきました。それのみか保革より無党派層に所属する人がはるかに多くなった。どっちつかずの日和見菌が多数になり、民意が読みづらくなった。これが欧州の現状、そして日本もそうなった、記念すべきターニング・ポイントが今回の選挙で画期的と言えます。
◇二大政党から多党化へ
旧い保守と革新と言うと、イデオロギー対立、自由民主主義VS共産主義・社会民主主義、小さい政府VS大きな政府、で選挙の度に国民はいずれかを選択しました。しかしある程度生活を保障された成熟社会では、もっと価値観は多様となり、ニュー・エコノミーであるグローバリズム経済進展特にデジタル産業の世界支配、グローバルなフェミニズム、LGBTQの人権、多様性尊重等の少数者尊重策、地球環境危機対策等のリベラルな理念を掲げる勢力が一方の極を形成。他方、取り残され割を食ったオールド・エコノミーのブルーカラーの怨念、グローバリズムに反発する右派ナショナリズムのアイデンテテイ危機感、等から、移民反対、外国人排斥、人権制限、古来の民族宗教への回帰等の、強い右寄りポピュリズム政党が生まれました。ドイツの極右政党AFD(ドイツの為の選択肢)、フランスの民族主義者ドゴールの系譜セリーヌ・ルペンのRN(国民連合)、イタリアの元ファシスト政党(同胞)、ハンガリーの右派、オルバーンのフィデル等〃が政権に食い込みあるいは政権を担っている。アメリカでも、民主党のエリート・リベラルに反発する、共和党トランプ大統領の掲げるアメリカ・ファーストの背後にあるラスト・ベルトのオールド・エコノミーのルサンチマンと、建国の宗教、福音派のアイデンテテイ回復が支持する、反グローバリズムが席巻しています。
◇参政治党現象
日本の今回の参議院選で急速に勢力を伸ばした、参政党は、八百万の神々を奉じ、エコロジー尊重と反ワクチン、外国人排斥、反移民、人権軽視、徴兵制、核武装、で日本人ファーストを掲げ、特に若い層の支持を集めているようです。しかしソムリエの見解では、上記の欧州の流れに共通性を思いますね。杞憂に過ぎるかもしれませんが、ドイツのワイマール民主主義期に登場したナチの臭いを予感します。かつての維新は橋下代表のワンマン性から同様な臭いを感じましたが、府市一体化都構想の失敗から、大阪万博、カジノ構想に舵を切りよく分からなくなったが、参政党にはその系譜を見、要注意ですね。
衆議院選、都議会選、今回の参議院選に敗北した責任を取り、石破首相は辞任せよとの論を聞くが、どの口が言えたものか、あきれるほかない。安倍、菅、岸田と言う前任政権の腐臭漂う負の遺産への清算を国民は、自民・公明与党に下したのだ。石破首相は貧乏くじを引かし、スケープゴートとして使い捨て、禊は済んだと、また安倍政治の亡霊再登場はご免こうむりたい。トランプ関税を粘り勝ちで何とか凌いだ、一息ついてこれから石破首相本来の、政策を見せて欲しい。石破氏は野党とも話の通じる政治家だと思う。現代日本の深刻な課題に、失策しただけでなく政治を腐敗させた連中に、決して舵取りを委ねてはならない。石破政権の腕の見せ所はこれからだと思う。
ビジョンを提示せよ
さて政策は右から左と言っても、左右を分かつ軸がないからよく分かりませんが、とにかく多様な民意の時代にふさわしい、多党化傾向は連立でしょうね。その前提の上で、決められない政治ではなく、長期、中期、眼前の課題に取り組むべき理念を、識者や関係機関は提案しなければならない。成熟した近代社会・世界と言う、何せ未体験ゾーンに足を踏み込んでいるのですから、一部の天才思想家やAIの手に負えるものではない。ソムリエも非力ながらその一端を、福音派牧師として提示し続けていきたいと願っています。
「ヴィジョンなき民は滅びる。Where there is no Vision, the people perish!」
箴言11:14
見方による
2025・7・16
◇見方による
同じものや人でも見方が変われば、全く別な評価になる事があります。ですから片方だけの見方では、全体的なそのものや人の見方に偏りが生まれます。最近ある出来事がソムリエの関係する筋で起こり、二つの見方がそれぞれ自分の立場を主張され、それぞれがソムリエに同意を求められ、実態を知らない者として判断に困りました。なにもなければそんな事もあるなあ、で済まされますが、どちらに組するか?と迫られると踏み絵を踏まされるようで困ります。もう少し状況を見て判断させてくださいと言うしかありませんでした。
◇罪人にして義人
宗教改革者M.ルターは、キリスト者は“罪人にして義人、義人にして罪人”であると申しました。え~どっちなの?そんなどっちつかずの中途半端な立場はおかしい、と言う方もいます。白は白、黒は黒でしょう。グレーならまだしも白で同時に黒なんておかしい。宗教的真理に妥協はないでしょう、と言う。しかし、ソムリエの半世紀以上の信仰経験から、ルターの告白は真実だと思いますね。またキリスト教信仰の真偽の判断基準である聖書から見ても、そうだと思います。
きよめ派の信仰を曲解した方は、自分は信仰によって義とされただけでなく、聖化の恵みにも与り、罪から完全に解放された、とおっしゃる。確かにきよめ派の信仰者は、人格的にも実践面でも潔い生活をしている方が多いのは、お付き合いしていてよく分かります。しかし、完全か?と言われると。あれでもきよめられているのかなあ?と疑問を持たざるを得ない。下手すると、ソムリエなんかはまだまだきよめられていない、と思われているかもしれない。これが嵩じると鼻もちならないパリサイ人になって、自己義認に陥り他人の非を告発する思い上がりの罪に足を掬われる人もいるのです。
他方、聖化は勤勉労働の成果として実を結ぶのであり、主観的なきよめの経験などはない。人間はどこまでもイエスの十字架の贖いによって、罪赦された罪人に過ぎない。内面的なきよめの経験を追い求めて、無駄な精力を費やすより、現実生活を無駄なく管理して、神の栄光を現わすベルーフ(召命、職業)に励むのが堅実だと言うカルバンの改革派信仰の流れピューリタン的な聖化信仰もある。
前者はウエスレーの流れ、メソジスト派・ホーリネス派であり。後者はルター・カルヴァンの宗教改革主流派の流れだと言われます。もちろんプロテスタント内の信仰で、カソリックや正教も罪人・義人の判断は多彩です。ソムリエとしては、両者の特色を認めつつ、それぞれの限界もあること知り、その全体化を願っています。
◇偽善者・偽悪者
“偽善者を出すところ”と言う説教題を日曜日の教会堂の掲示板に掲げた牧師がいたそうです。普通、教会には善男善女が集う所だと思われていますから、そして内心はそんな善人ぶって、本当は悪も思っているだろうに、教会は偽善だと思っている。“「右の頬を打たれたら、左の頬も向けよ」とイエス様がおっしゃたそうな、それならクリスチャンの頬を本当にぶったら、どう反応するか、見てみたい。きっと怒って殴り返すに違いないよ。”、と昔の創価学会の方に良く皮肉られたものです。最近は、公明党に投票してもらいたいからか、やたら物分かりがいいが偽善ぽくって。昔の攻撃的なのが日蓮の弟子らしく爽やかだ。そう言う社会の穿った見方に対して堂々と“教会は偽善者を出すところ”と表明するのですから、ドキッとします。しかしそうなんです。自分が偽善者であることを自覚しているのが教会です。本当は偽善者なのに正義の味方で、自分は正しい、あいつは間違っている、赦せない。みんなで石を投げて攻撃しよう、と、ネットのいじめは蔓延しているではありませんか。使徒パウロは、「私は欲する善はこれを行わず、欲しない悪は行っている。ああ、我悩めるかな!」(ローマ7:19,24)と自分の偽善を嘆いている、しかし「キリストは罪人を救うために来て下さった。わたしはその罪人の頭なのです。」(テモテⅠ、1:15)と偽善者なる罪人をこそ救うため来られたキリストに感謝している。偽善の自覚のない事こそ問題ではないか。
他方、偽悪者と言うのがあります。ある時期、カウンセリングの研修を受けていました。理論と共に実習があり、講師と10名弱の男女受講生がグループカウンセリングのセッションを経験しました。回を重ねて、互いに交流を通じて、それぞれが自己認識に達し、相互に成長すると言う趣旨。何回かセッションが進んだ時、講師が、皆さん相当自己開示をなさっています。しかし、まだまだ自己防衛の殻を被って、本当の姿をさらしていませんね、とコメント。すると、ある受講者が先生はそんなこと言うが、先生が自己開示しないからそうなるんではないですか。先生がまずすべきでしょう、と迫り雰囲気が気まずくなった。するとある女性受講者が、では私がさせて頂きますと、自分の赤裸々な姿を話し始め、ソムリエなどはそんな事聞いていいのか、と不安になるほどでした。すると、つぎつぎと女性方が話し始め自己開示はクライマックスとなった。そして女性参加者は心が通い合いとてもいい雰囲気になった。しかし、男性参加者は遂にそうはならなかった。講師は、男性は自我が崩れませんね。だから脱皮自己変容が難しい、と感想を述べたものです。ソムリエは同感し、女性たちが羨ましく思いました。しかし、同時に何か納得できないものを感じました。何でもかでも人前で裸になる様に自己開示してよいものか、それこそ神にしか打ち明けられない、聖域のようなものが人間にはあるのではないか。それをあけすけに人に語るのは、どういうものか、聞かされる方も困る。
欧米の文学で、懺悔録と言うのがある。これはそもそも神の前にありのままの自己の姿を告白し、罪を悔い改め神による罪の赦しを乞う、告白録というのはカソリック・キリスト教の告解から始まったという。それが啓蒙時代以後、神の前でなく、ローマ人の自省録に倣って、自己への告白、さらには人への告白となった。それが日本文学に影響し、独特な私小説と言うジャンルが生まれた、と文学史は告げる。普通の事では驚かなくなった文学者たちは、遂に自己破滅的な事を作為的に行い、それを自分の作品の種とするようになった。破滅型文学です。こうなるともう露悪、偽悪としか言いようがない。邪道に陥ったと言えるでしょう。以前評した、島尾敏夫の作品「死の棘」も、数年に渡り夫婦間の破滅的関係を文章にし、高い評価を得るうちに、夫婦で破滅関係を演じる様になって、それを作品にしたのではないか、と疑われたようだ。真偽は知りませんが、パウロがどんな罪も赦されると言うキリストの贖罪を誤解して、わざわざ悪を行う、愚かな人間に警告している。救済宗教には同様な危険性がある、親鸞も同様な異端、本願ぼこり信仰者に、“薬ありとて、毒を好むな”と、造悪無礙の異義を誡め警告を発している(歎異抄)。
◇自己凝視でなくキリストを仰ぐ
要するに自己義にしても、自己欺瞞にしても自己を見つめることばかりに集中しては、決して救いはないのです。偽善・偽悪をいくら追求して、偽善・偽悪ぶりの競争をしても、そこに救いはないのです。救いは目をキリストに向ける時に、それも人の罪を身代わりに負い、十字架で血を流して罪を贖われた神の愛にこそあるのです。
このキリストの贖い抜きの人間は罪人そのもの、贖いを信じる者は、神の目に義人と認められるのです。同じ姿の人間が、贖い抜きに見るか、贖を通して見るかで違うだけなのです。“キリスト者は、罪人にして義人、義人にして罪人”とのルターの告白にしっかり立つべきでしょう。
教育権はどこにあるか?
2025・7・9
◇教育の歴史
ある時、教会員の塾経営者から招待を受けて、塾主催の講演会に出席しました。講師は上智大学の渡辺昇一教授でした。英文学者で保守の論客として有名でしたから、関心がありました。しかし、内容は意外でした。確か“自由教育の重要性”だったと思います。教授によると、江戸時代は、藩校と言う武士の子弟のための公教育があったが、一般庶民は読み書き算盤の“寺子屋”と言う民間教育機関でした。明治になり、明治5年の「学制」の文言で「必ス邑ニ不學ノ戸ナク」の方針が示され、全国民の義務教育が公教育として普及した。やがて、昭和になりドイツ・ナチのVolks Schule(国民学校)にならって“国民学校”制度が導入された。ですから戦前の小学校は“〇〇国民学校”と呼ばれていました。NHKの朝ドラ“あんぱん”の女性主人公の勤務した学校ですね。
国民学校の教育方針は、要するに天皇の軍隊を形成する人材育成です。教育勅語を暗唱し、天皇に忠誠を誓い、配属将校と言うのがいて軍事教練があり、体操は兵士にふさわしい体力作り、遠足は行軍の練習、運動会も模擬戦闘、・・でした。
やがて第二次世界大戦に敗戦、今までの皇軍の兵士養成の教育は中止、教科書が間に合わず都合の悪い箇所は墨塗りでした。やがて民主教育に大転換、教育勅語に代わり教育基本法が制定、個人の人格尊重・形成と言う近代社会の原理が導入され、ついに「日本国憲法」に明示された全体主義国家から民主主義国家になったのです。しかし、その後の日本復興に従い、旧教育を良しとする勢力が勢いを増し、教育勅語を再開すべしとの復古主義の歴史修正主義者が起こっています。
◇自由教育論
ソムリエは、渡辺教授はそういう旧教育を是とする保守と言うより反動主義者だと思っていました。しかし、講演は違ったのです。戦前の国家主義的教育の風潮の中で、大正リベラリズムの影響下1920年代、“自由教育運動”と言うのがあった。国家の役に立つ人間の養成ではなく、個人の尊厳と、個人の自由な個性を尊重しそれを伸ばす。自由教育です。この自由教育の重要性を渡辺教授は強調されたのです。羽仁もと子の“自由学園”、成蹊学園、文化学院、玉川学園、窓際のとっとちゃんこと黒柳徹子さんの出た“ともえ学園”、芦屋市でも“山谷田治療教育院、・・全国にユニークな自由教育運動が展開されたのです。実はソムリエが始めた”モンテッソーリ芦屋こどもの家“幼児教室の理念である、モンテッソーリ・メッソッドもこの頃、日本に紹介されたのです。マリア・モンテッソーリ女史(1870~1952)は、イタリア・ファシズムに抵抗し、自由教育を説き、遂にイギリス・インドに本拠を移した筋金入りの自由教育家なのです。
日本の公教育は、戦前は皇軍の兵士養成、戦後は企業戦士養成が現実的目標で、本質は変わらない。個人の自由尊重より、国家や企業に役立つ人材育成だったのです。渡辺教授は国家が、カソリックの理念に立つ自由教育を脅かした上智大の苦難の歴史から、現代の教育の諸問題の根は自由教育の否定にあると洞察。授業についていけない生徒、登校拒否、引きこもり、・・これらの生徒の割合は年々大きくなるばかり、どれほど個人の自由を窒息させ、抑圧しているか。日本の教育は今こそ、自由教育運動を起こさなければならない。そして真の教育は国家でなく、個人に取り戻さなければならないと訴え、その一環として塾を評価するとの趣旨だったと思います。渡辺教授への偏見を改めた点、またソムリエの教育観の確立に大きな示唆を得ました。
◇教育権は親にある
その後何度かアメリカの教会を訪れ、キリスト教書店の店頭にホーム・スクールの教材が山積みにされているのを見て驚きました。要するに米国では子供の教育権は親にあるのです。学校に行かなくても親が子供を家で教育する。これが教育の原点、そのための教材が一杯ある。昔の開拓時代では、学校から遠い農地や牧場で働く親は子供を自分で教育したからでしょう。しかしそれだけでなくバイブルに忠実な信徒は、創造論を否定し進化論を絶対的真理と教える公教育でなく、自分で信じるところを子供に教育したいのです。トランプ氏が、連邦政府の教育省を廃止し、州政府に公教育を移す、何という非常識と日本では非難する。しかし根本はどこに教育権があるかですよ。個人の自由な教育権を日本も確立しなければ、いわれなき学歴偏重、学歴コンプレックスに悩み、高学歴者への無条件の隷従、権威主義的社会の閉塞感からいつまでも抜け出らません。ソムリエは65才でリタイヤー後、大学院で学ぶか、自分勝手に学ぶか考えました。確かに大学教育はすばらしい、しかしどうしても平準化し、学会の通説に囚われてしまう。ソムリエはそれこそ文理融合、学際的に、自由に利害を離れ学びたいと自己教育の道を選び良かったと思っています。もちろん必要に応じて大学の講義を聴講しました。学位取得もなく業績に評価もされませんが、別にどうと言う事はありません。それでご飯を食べていませんし、真理探究こそ一義ですよ。もっともこういうのはしばしば独りよがりになりますから、そこは要注意ですが。
◇教育権は自分自身にある
もう成人になりましたら、教育権は自分自身にあるのです。国家でも企業でも親でもなく自分自身で自分の教育をするのです。他人と比べて、劣等感や優越感に一喜一憂は馬鹿らしいことです。自分は本当に何をしたいのか。どう言う生き方をしたいのか、自分に問い、自分で回答を出して、人生100年時代を好機として、大いに自己教育を施して互いに充実した、さらには他人にもその果実を分かち合い、豊かな社会を作りましょう。
ソムリエは有給の仕事の時代は、仕える人たちの必要にお応えする仕事をさせて頂き感謝しています。しかし退職後は、無給の仕事、奉仕ですので、自分のしたい事をやり、学びたい事を学び、そしてその成果をシェアさせて頂いております。世間がそれをどう評価されるかは、お任せです。良く、ソムリエの著書を読んで、誰を読者にしているのか分からない、と言われます。読者はソムリエ自身なのです。ソムリエの関心のあるところを突き進むだけです。本が売れるかどうか知った事ではないのです。後何年神様は生かせて下さるのか分かりません。思い切り自由に志す処を探究し、誰かの何かのお役に立てれば、最高ではないですか。
「真理はあなたがたを自由にする。」ヨハネ8:31
「日本文化の核心」ジャパン・スタイルを読み解く、を読む
2025・7・2
◇松岡正剛の遺言的著作
ナルシストなのか、自分に自信がないのか、はたまた自己顕示欲が強いのか。日本人は日本人論が好きです。数ある日本人論の白眉とも言うべき本を紹介します。“「日本文化の核心」ジャパン・スタイルを読み解く”(松岡正剛、講談社現代新書)です。博覧強記の万能人、松岡正剛(1944~2024)の後世への遺言とも言うべき作です。新書版ですが、「濃い日本」を解読する、と帯にありますが、よくまあ、コンパクトで濃厚な日本文化論を松岡は残してくれました。見事です。
◇日本人論の共通性
日本人論と言うと、「武士道」(1899)の新渡戸稲造、恥の文化・罪の文化で有名なルース・ベネデイクトの「菊と刀」(1946)、「タテ社会の人間関係」(1967)に中根千枝、「甘えの構造」(1971)土居健郎、日本教・空気論で有名な「日本人とユダヤ人」(1971)山本七平、さらに巨視的な「文明の生態史観」(1957)梅棹忠夫・・が頭に浮かびます(「日本人論、再考」船曳建夫、日本放送出版協会、に詳しい)。これらは一つのキーワードで、二千年の日本史・日本文化の特徴を見事に取り出したもので、発表当時はもちろん、現在でも日本人の自己理解として定番の位置を占めています。
◇松岡の視点のユニークさ
しかし、松岡の日本文化論はそうではありません。日本文化の多様性、濃厚性を凝縮してではありますが、あらゆる時代・分野で論じているのです。時代性はホモサピエンスが2万年前に日本列島に住み着いて以来の先史時代・古代・中世・近世・近代から現代に至るまで。文化論としては、考古学、歴史学、宗教学、経済学、法学、文学・絵画・芸術論を始め狭義の文化論。分野は芸能(史)、和歌・歌謡・ポップス、雅楽・邦楽、武道・軍学・・ソムリエの狭い理解力では到底届かない、まさに森羅万象を熱く説く。しかも分かり易い表現ながら、厳密な語義・語源・歴史実証性の基礎の上に論じ圧倒されます。ソムリエのあやふやな知識が糺され、そういう意味だったのかと膝を打つ事多く。まさに“日本文化大全”の趣がこの小さな作品に凝縮しています。
それは、目次を見れば一目瞭然ですので、ここに記します。
第一講、柱を立てる(古代日本の共同体の原点「柱の文化」から話を始めよう)、第二講、和漢の境をまたぐ(「中国語のリミックス」で日本文化が花開いた)、第三講、イノリとミノリ(日本人にとって大切な「コメ信仰」をめぐる)、第四講、神と仏の習合(寛容なのか、無宗教なのか。「多神多仏」の不思議な国)、第五講、和する/荒ぶる(アマテラスとスサノオに始まる「和」の起源、第六講、漂白と辺境(日本人はどうして「都落ち」に哀愁を感じるのか)、第七講、型・間・拍子(間と「五七」調の型と拍子にひそむ謎、第八講、小さきもの(一寸法師からポケモンまで。「日本的ミニマリズム」の秘密)、第九講、まねび/まなび(世阿弥が説く学びの本質。現代日本の教育に足りないこと)、第一〇講、或るおおもと(公家・武家・家元。ブランドとしての「家」について)、第一一講、かぶいて候(いまの日本社会に足りない「バサラ」の心意気)、第一二講、市と庭(「庭」「お金」「支払い」に込められた日本社会の意外性、第一三講、ナリフリかまう(「粋」と「いなせ」に見るコードとモードの文化)、第一四講、ニュースとお笑い(「いいね」文化の摩滅。情報の編集力を再考する)、第一五講、経世済民(日本を語るために、「経済」と「景気」のルーツをたどる)、第一六講、面影を編集する(一途で多様な日本、「微妙で截然とした日本」へ)。日本大全ぶりが分かろうというものです。
◇JapanでなくJapans
ただ読後の印象として、「日本文化の核心」とは言うが、何が松岡文化論の主張なのか、甘えの構造、空気論・・これ一つで日本文化を読み解くマスターキーだと言うようなキーワードがない。いやむしろ松岡はそのような方法論の危険性を説く。ジョン・ダワーが「実を言うと、『日本』でさえ存在しません。逆に、私たちが語らねばならないのは、『日本文化たちJapanese cultures』であり、『日本の伝統たちJapanese traditions』なのです。私たちは、『日本たち』 Japansと言うべきなのです」(「敗北を抱きしめて」J.ダワー)を松岡は忠実に採用しています。日本を複合的に捉えると言う事です。そこに本書の奥深さ、日本文化の複雑で複合的な重層性の分厚さ豊饒性をくみ取ることができます。
◇「面影」による日本文化編集
しかしそれだけでは、日本文化を羅列しただけになります。松岡はそんな乱暴な事はしません。彼独自の「編集工学」、世界はそのままでは認知・理解できない。人間は生の世界を、編集してこそ認知・理解可能になる、との方針によって複合的日本文化を彼独自の方法で編集して見せたのです。その独自な方法が「面影」的歴史理解です。松岡は言う“バックミラーに移る日本の歴史文化をちらちら眺めながら、目前のコンビニやアニメやテレビ番組でおこっていることを見るのがいい”と。お笑い芸人や、アニソンを楽しみ(後期高齢のソムリエにはついていけない事が多いが!)ながら、彼らの背後に、長く重層的な日本文化が今・ここに・この表現で現出していると観る、と言う事。
◇読後感想
感想、ポップカルチャーを歴史から切り離すのでなく、それを日本の文化の豊かな歴史の過去から「面影」を思い出すとき、文化の連続性がポップスにあり、また新しい創造性も見ることができる、“日本文化の特色は「面影を編集する」ところにある。日本人は記憶の中の面影を情報化し、そこに編集を加えていった。和歌も能もそのようにして生まれ、俳諧も浮世絵もそのようにして生まれ、溝口健二や藤沢周平はそのような面影を映画や小説にし、美空ひばりや井上陽水はそうした面影をうたっていったのです。”と松岡はしみじみ述べる。松岡の懐の深さ、共感力の豊かさに感嘆します。
ただこういう事も言えるのではないでしょうか。「面影」とは何か?かつて小林秀雄が「歴史とは畢竟思い出である」と語ったのに通底しないかと言う事です。われわれは歴史が何かある理念、それが「神の国」や「ユートピア」、「自由な市民社会」、「共産主義社会」等の実現のどれであるかは別にして、理念の実現の方向に向かっている。その実現に様々な困難や戦いを克服して今を生きる希望とする、と言うような歴史観や人生観を持っていない。何か人生や社会に問題が起こると、自分や社会歴史の過去の思い出を探り、ああ昔にもよく似たことがあったなあ、あの時はああして対処したから今回も同様で行こうと考えると、上手に思い出す事、それが歴史だと小林は語ったのでしょうか。確か山本七平は日本文化の“掘り起こし共鳴現象”と呼んでいました。外来の新しい文化が到来すると、日本人は過去のよく似た事象を思い出し、そうかあれのニュー・バージョンなんだなと納得し安心する、現象です。そもそもこういう理解の仕方が実例ですね。そこを取り上げて松岡は「面影」で勝負する。過去の遺産を取り出しそれに現代的工夫を施して対応する。日本得意のカイゼンですね。
それは今まではよかった。しかし、この世界的地盤が激変する時代に在って、他文化・他文明の発する強烈な理念思考に対処できるのか。いや対応,対処と言う方法そのものが「思い出」「面影」に依存する過去指向ではないか。世界には未来的創造的な人間や社会が存在しているのです。そしてその新しい理念への対応を「思い出」「面影」で処するのは衰退の道しかありませんよ。
万学の巨人の松岡正剛の遺言的名作に深く学びつつ、別な道を求める必要を痛感します。
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」イザヤ書43:19
オール・イン・ワン
2025・6・25
◇オール・イン・ワン化粧品、サプリ
女性の方はお出かけ前のお化粧がたいへんだなあ、と思う。メイクの基本をネット検索すると1.スキンケア(化粧水、乳液)2,ベースメイク(日焼け止め、化粧下地、ファンデーション、コンシーラー)3,眉メイク(アイブロウ、眉マスカラ)4,アイメイク(アイシャドウ、アイライナー、ビューラー、マスカラ)5,ポイントメイク(チーク、リップ、ハイライト、シェーディング)、そして今の季節はUVカットがマストでしょう。家人は、男性は別に化粧もしないでも、まあ見られるが、女性はスッピンでは、裸で街を歩く様で化粧なしには外出はできないと申します。でも最近は男性も化粧する様で、これからは分かりませんが。そう言うメイクの面倒を解決するのが、オール・イン・ワン・クリームです。詳しくは存じませんが、TVのCMではこれ一つであなたのお肌は守れますと、ささやいています。実態は存じませんが、なるほどそれは面倒がなく便利だろうなと思います。
また、健康補助食品、サプリメントというものがあります。年取ると筋肉が衰えるので歩行が困難になる、フレイルや老化の原因です。その対策にこのサプリがいい。認知症予防には〇〇サプリが、目の機能低下防止には△△サプリが、・・いちいちわが身にあてはめ、購入していたらそれこそ健康を損ねるだろうと思います。そういう中に、やはりこれ一錠で全てのエイジング加齢対策になるサプリや薬ですと、やはりオール・イン・ワンをうたい文句にCMは、ささやく。そんなうまい話がそうそうあるものか、と思う。ソムリエも御多分に漏れず、七十代後半からフレイルで悩み始めましたが、親しい友人から黒ニンニクというものを勧められ、半信半疑で始めてもう十数年たちますが、朝夕一粒ずつ口に放り込み、結構快適です。一回にそんなに飲んで大丈夫と心配したくなるほど薬を飲む高齢者の仲間が多いですが。ソムリエはほとんど、オール・イン・ワン状態で、友に感謝しています。
◇仏教のオール・イン・ワン
ところで話は大きく変わりますが、日本仏教の歴史で鎌倉仏教時代のことです。仏教史のおさらいをすると、8世紀初め、奈良時代は南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、俱舎宗、華厳宗、律宗)で、また8世紀末平安仏教時代は叡山八宗兼学(六宗プラス天台、真言の2密教)、とか言って、仏教諸派がそれぞれ自宗の正統性を主張。僧たちは各宗派の教学を学んでいました。しかしそれは奈良朝廷による国家鎮護のイデオロギーとしての学問仏教か、平安貴族の安心のための仏教でした。しかし12世紀鎌倉時代になって、武士が台頭し、戦乱の世になって大衆が生死の問題に直面し魂の救済を求めるようになった。その時、鎌倉仏教の開祖たちは、生活に余裕のある貴族ではなく、命を懸けて戦う武士の安心、大衆のこの世の厳しい生活から逃れて来世を求める心に単純な救済を提供した。国家安泰の呪術や難しい経文の解釈や、厳しい修行をして悟りに至る余裕などないからだ。法然・親鸞は念仏を説き、道元は只管打座を、日蓮はお題目を勧めた。これを選択(せんじゃく)と言う。膨大な仏教の教えも、つづめれば南無阿弥陀仏とお念仏さえ唱えれば救われる。生死を超えた悟りは唯〃座禅を組めばよい。南無妙報蓮華教とお題目を唱えて、仏力が加持される。それぞれの開祖が仏教のスンマ(大全)である大蔵経の中から選択した結果である。
ソムリエは香川県出身で、お遍路さんは弘法大師への帰依を表明する南無大師遍照金剛と唱えればよい、と言われていました。もちろん鎌倉仏教の影響でしょう。こういう難解な仏教の簡素化が、生死に悩む大衆の宗教となったのでしょう。晩年の親鸞の元に、関東の門徒がはるばるやってきて、親鸞から単純なお念仏以外で、自分たちの知らない浄土真宗の奥義を知りたいと問うた。すると親鸞はお念仏を唱える以外に自分は知らない。たとえ念仏唱えて地獄に堕ちても自分は本望だ。これを信じるも捨てるも皆さまのご自由ですよ、と言い放った。有名な歎異抄のお話しです。以後、日本人は鎌倉仏教の開祖に従って安心立命を得てきたのです。まさに仏教のオール・イン・ワンです。
しかし明治以来、仏教の歴史学的文献学的研究が進み、仏教の開祖、ブッダの説いた根本仏教の教えは、鎌倉仏教の開祖の説いた内容とは違う事が分かったのですが、時すでに遅し。日本人の心中深く法然・親鸞、道元、日蓮の単純な教えが根付いているのです。ここに日本仏教の大きな問題がありますね。
◇キリスト教のオール・イン・ワン
キリスト教ではどうか、明治の有名なキリスト者である内村鑑三は名著“余はいかにしてキリスト者となりしか”で面白い話を語っています。札幌農学校の学生時代、毎日学生寮から札幌農学校まで通学。その途中にたくさんの寺や、神社、お地蔵さんがある。敬神の念の篤い鑑三は、諸仏神に失礼があって行かないと、一つ一つ手を合わせて拝んで通学、時に時間がなくパスすると礼を失したとこころに咎めを感じて、敬神も心理的に負担であった。しかし、農学校の先輩たちがクラーク校長の感化でキリスト者になり、鑑三にも入信を迫り、抵抗をしたが遂にイエスをキリストと信じた。すると、「私の前に何ものも神としてはならない」とモーセ十戒にあり、一切諸仏神への礼拝をしなくて良いようになり、実に清々しく、短時間で通学できるようになった、と言う趣旨だったと思う。日本人の宗教心、八百万の神々に挨拶をしないと罰が当たる、と言う強迫観念から解放されたのです。
そんなことは江戸時代を引きずる明治の人間の話で、合理的科学教育を受けた現代人は関係ないとおっしゃいますか。決してそうではありません。ほとんどの神道系・仏教系既成宗教はもちろん新興宗教や、オウムや統一神霊協会のようなカルト宗教も同様な、祟りや罰や因果応報の教えで人を縛り、それらからの解放・解脱のために、多額の献金を要求されているのです。
「主の名を呼び求める者は、皆救われる」(使徒2:21)とバイブルにあります。罪深い人間を愛し十字架にかかり、罪を身代わりに負い、罪の裁きを代わって受けられて死に、罪人の堕ちるべき地獄にまで行かれ、そのどん底から復活した救い主イエス・キリストの御名を信じて唱えさえすれば、皆救われるのです。「聖書は私について証ししている」(ヨハネ5:39)とイエスは言われた。膨大な聖書も唯御一人の救い主イエス・キリストを指し示しているのです。まさにイエス・キリストの御名を唱える事こそキリスト教のオール・イン・ワンです。
ソムリエはよく、キリスト教を扇子に例えます。キリスト教はつづめるとイエス・キリストの御名を信じて救われることです。ちょうど扇子を畳むと、一本の棒状になるように単純です。しかし扇子を開くと大きく展開し、そこに美しい絵が描かれています。その様に単純なイエス・キリストの御名を唱える信仰を、大きく展開すると厖大なキリスト教神学体系になります。その影響はキリスト教文明として21世紀の世界にも巨大な影響を与えているのです。扇子には要があってそこを中心に、畳んだり広げたりします。キリスト教の要こそイエス・キリストの御名なのです。
あなたも単純にこのイエス・キリストの御名を信じ救われ、その多彩な恵みの人生における展開を味わわれませんか。イエス・キリストの御名にこそ、オール・イン・ワンのキリスト教が詰まっているのです。「キリストはおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(ピリピ2:8~10)。
それから
2025・6・18
◇キリスト教との出会いまで
ソムリエは1942年(昭和17年)、香川県高松市に生まれ、商家を営む父母の一人息子として育ちました。敗戦直前に米軍の空襲を受け、自宅を含め焼け跡となった生活の大変さの中にも、愛情いっぱいに育てられました。1966年、高校卒後京都の同志社大学での入学式直前、キリスト教路傍伝道で誘われ始めてキリスト教会、京都福音教会の伝道集会に出席しました。後にリバイバル状態と言う言葉を知ったのですが、とにかく圧倒的な神の臨在の力に、自我が打ち砕かれ、神の存在を実感し信仰告白、洗礼と進みました。後で思うと強情な自我のわたしは、この様なリバイバルでもないと一生、神など信じなかったろうと思います。右も左も分からない田舎出の学生を親切に導いて下さった恩師の藤林邦夫牧師夫妻や兄弟姉妹の主に在る愛に感謝しています。
◇個人的罪からの救い
しかし、数か月後「聖会」と言うのがあって、講師に活けるキリスト一麦の群れの松原和人牧師がお見えになりました。きよめ派の器らしくこころの底を見透かす様な澄んだ目で、会衆を見つめ、罪の悔い改めとイエス様の十字架の贖いを静かに、熱を込めて話されました。その時、ソムリエは初めて、神の存在だけでなく、神の御子による罪からの救いを信じることができたのです。集会後、松原牧師の前で信徒が次々と罪の告白と主による赦しの祈りを受け、ソムリエもその一人で告白後の何とも清々しい気持ちは忘れられません。松原氏が語られた聖句「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙Ⅰ、1:7~9)がソムリエの魂を打ちました。
罪の告白は抽象的でなく具体的にしなさい、と迫られました。中学の頃商家で日銭が入り、親はそれを数えないで大きな缶に入れ、週一度信用金庫の職員が来て数えるまでは魔の時間。誰もいないのを確かめ、ソムリエはこっそり金銭を盗んでいたのです。ソムリエは理科少年で、そのお金でアンプや短波受信機を組み立て、また当時糸川博士のペンシル・ロケット実験が報道され、仲間の間にロケット作りが流行り、手製ロケットを発射、その費用に充てていました。松原牧師の「罪のある処、安きなし」との迫りに、暗い部屋で金銭を盗む、自分の醜い姿が現れたのです。また、思春期の反抗期からか、何かに腹を立て母親にほうきを振り上げたことがあり、その時の母の悲しい驚きの顔が浮かびました。小学生の頃、病気で大量に下血し死戦をさ迷ったとき、母は輸血でソムリエの一命を取り留めてくれた愛情、を裏切った浅ましさ、等の赤裸々な罪の姿が聖なる神の前に示され、一つずつ言い表し、主の赦しの恵みに与ったのです。この罪からの救いの恵みを郷里の友や家族に分かちたいと、夏休みに郷里伝道、それが良き牧師先生を得て今や立派な教会に成長しています。
◇社会悪の問題
他方、大学は折からの学園紛争の嵐が吹き荒れ、ロックアウトで講義は中止、親しい友人は京都河原町通り一杯にデモを掛ける。ノンポリのソムリエでも真面目な友人が機動隊にやられないか心配で、自転車で伴走し見守る状況でした。教室の前にバリケードを置き、講義に入れないので押し問答した運動の中心の学生たちの中に、神学部の学生がいて、史的イエスは権力からの抑圧からの解放者だと言う。信仰のキリストはパウロの捏造した、十字架の贖罪神学で個人の罪の救いに、社会の抑圧と戦った史的イエスの福音をすり替えた。だから史的イエスに倣い現代社会権力の抑圧からの解放に立ち上がれとヘルメットを被り叫ぶ。キリスト教過激派は当時の世界的なスチューデント・パワーの原動力の一つでした。ソムリエの京都福音教会での、個人的救いの体験を真っ向から否定する主張に強い違和感を覚え、論争したものです。
◇牧師の召命
その後、神様の召命を受け、日本UPC教団の聖書学院を卒業。また同志社神学部、神戸改革派神学校、神戸ルーテル神学校を聴講。やがて1968年、パウロのテント・メーカー伝道のならい、自給開拓伝道を志しました。日曜日は芦屋福音教会の開拓伝道、平日は西宮市の私立報徳学園の教師として社会科の科目を教えていました。しかし学園紛争はここにも強い影響で、万博に生徒を連れて行くか否かで職員会議は混乱。またとない機会だから是非見学すべきと言う多数派の教師、いや人民を搾取する資本主義企業に加担すべきでない。あれはバールの祭典だと、日本キリスト教団の社会派の教師が何人かいて反対・同調する教師。学生時代のキリスト教内の論争が、現場の教育の場でもあったのです。その後、神様の導きで教会も成長し、教師を辞め牧師専業になりました。同じ京都福音教会出身の女性と結婚し、以来40年芦屋福音教会にお仕えでき感謝です。JEAに加盟、近畿福音放送伝道協力会、阪神宣教祈祷会等、福音派にアイデンテテイを置きつつ、数々の素晴らしい信徒の方〃の救いにお仕えでき、また喜び悲しみを共にする交わりは生涯の宝です。また教会の使命は、個人の魂の救いと社会的課題の両輪があると信じ、世界飢餓対策機構芦屋支部を立ち上げ、節食ランチ・国連世界食料デー講演会・国際児童画展の市民運動を展開・信徒の障害者施設設立支援、モンテッソーリ幼児教室「芦屋子供の家」設立運営・・等の社会への働きに仕えました。
◇それから
しかし50才代に肝炎に罹患し症状の悪化に苦しみました。治療法が確立していない時期で余命15年を予告され、2007年末65才で退職・後任に託し、終活の予定でした。にも拘わらず、神様は奇跡的に肝炎を癒し、予定の終末以後“それから”の人生を備えて下さったのです。思いもかけない人生100年時代をソムリエにも許され、5度の開拓伝道と文書伝道のミッションが与えられたのです。そこで学生時代来の宿題に取り組みました。学生時代の学園紛争は、煎じ詰めると近代への異議申し立て、近代科学の成果・近代民主主義の欺瞞・近代資本主義の搾取・への異議申し立てでした。また教師時代の社会科の教科書の前提は、近代はキリスト教の抑圧から解放されて実現した、というストーリーでした。2つ共にソムリエの納得できるものではなく、牧師をしながら資料を集め、考えていました。それを芦屋福音教会退職後まとめ、「モダニテイ~どこから、ここへ、そしてどこへ~、講話「近代化」思想のキリスト教的前提、上巻「近代科学とキリスト教」、下巻「近代民主主義、近代資本主義とキリスト教」、「まれびとイエスの神」講話」として出版、傘寿記念にそれらを総まとめした「138億年のメタ・ヒストリー、神学的メタ認知による宇宙史・地球史・生命史・人類史」を電子書籍化でき、宿題をソムリエなりに果たせたことは、大きな感謝です。出版にご尽力頂いた方々に感謝の思いで一杯です。
要点は、歴史学的に近代革命(近代科学革命・近代市民革命・近代資本主義)の起源は17世紀キリスト教プロテスタントにある。しかし18世紀、無神論的啓蒙思想の影響で脱キリスト教化した。これを「聖俗革命」と呼ぶ。以後現代に至り、地球規模の破綻の危機に直面している。その根本原因は、神に愛から離れ自己中な人類の欲望の逸脱にある。そこで近代の起源であるキリスト教プロテスタントの説く「初めの愛」(黙示録2:4)に帰り、個人も社会も悔い改めて神に立ち帰り、主イエスの贖罪愛のより罪赦され、神と隣人と環境を愛する生き方に回心する以外にない、と言うものです。
それからの人生を備えられ、今82才、後何年生かされるか分かりませんが、「とるべき地はなお多い」(ヨシュア記13:1)と信じ、ソムリエなりに主イエスの福音を伝えて参りたく願っています。
ツキジデスの罠
2025・6・11
◇ツキジデスの罠
頭の体操、知的プレー・ゲーム、どちらでもいいですが、最近読んだネット情報から、米中緊張関係と日本の立ち位置についての、2人の識者の意見が目に留まりました。
米国の政治学者グレアム・アリソンは、覇権国家があって、その後新興国家が覇権国家に挑戦を挑む関係を、古代ギリシャで覇権都市国家スパルタに新興都市国家アテネが挑戦したペロポネス戦争(BC431)の故事を挙げて、これを論じたギリシャの歴史学者の名に因んで“ツキジデスの罠”と唱えた。現代世界の覇権国家アメリカに挑戦する中国の必然性を説明します。トランプが高関税をかけ、日本始め多くの国が膝を屈しても、中国は頑としてはねのけていますね。
この緊張関係を前提に、内田樹と斉藤ジンの論を見ます。
◇内田樹の論
現代思想家内田樹は、アエラ4月28日号で、「属国か日韓同盟か永世中立か 日本はどう生きるか」と題して論じる。
“選択肢はいくつかある。一つは米中いずれかの帝国の辺境の属国として宗主国に「朝貢」して生き延びる道である。
日本は戦後80年米国の属国として生きてきたから属国民マインドは日本の政治家たち外交官たちに深く内面化している。だから、米帝国の西の辺境として生きるのを止めて、中華帝国の東の辺境となる道を選ぶことに日本人はそれほどシリアスな心理的抵抗を感じないだろうと私は思う。「親魏倭王」に任ぜられた卑弥呼から「日本国王」足利将軍、「日本国大君」徳川将軍に至るまで、日本の支配者たちは中華皇帝から形式的には官位を冊封されていたのである。
もし「中華皇帝」が属国日本に天皇制と民主主義政体の継続を許可すれば(しないと思うが)、日本人の多くは「宗主国」を米国から中国に替えることに抵抗しないだろう。日本の支配層は「強者への従属が自己利益を最大化する」と信じている。親米派だった彼らは今度は争って中国共産党に入党するだろう。
もう一つの道は日韓同盟である。米軍が撤収した日本と韓国が同盟するのである。人口1億8千万、GDP6兆ドル、ドイツを抜いて世界第3位の経済圏になる。軍事力は日韓を合わせるとインドを抜いて世界4位。この日韓同盟は米中2帝国と等距離外交を展開する。米軍がグアムまで引き、中国が海洋進出に抑制的になれば、西太平洋に日韓を結ぶ広大な中立地帯ができる。東アジアの地政学的安定を国際社会は歓迎するだろう。
第三の道は憲法9条2項を高く掲げて「東洋のスイス」のような永世中立国になることである。日本は間違いなく医療と教育と観光・エンターテインメントでは世界のトップレベルにある。そうやって全世界に「できるなら日本で暮らしたい」という人々を創り出すのである。それが日本の安全保障のための「アセット」になってくれる。スイスの銀行に個人口座を持っている人たちが(テロリストを含めて)「スイス侵攻」に反対するのと理屈は同じである。
日本人は果たしてどの道を選ぶことになるだろうか。“と問う。
◇斉藤ジンの論
次にジョージ・ソロスに大儲けさせて有名な伝説のコンサル、斎藤ジンの「世界秩序が変わる時」(文春新書)、に基ずく池上彰氏との対談「日本復活のチャンスが来た」からです(文春オンライン)。“高まる台湾有事のリスク”
池上 中国の今後について聞かせてください。齋藤さんは『 世界秩序が変わるとき 』(文春新書)で中国はアメリカに絶対に勝てない、アメリカに代わって覇権国になることはない、と書いています。
齋藤 覇権国家に対して新興国がチャレンジする場合、解決方法は三つしかありません。
一つは、大日本帝国の真珠湾攻撃のように「戦争する」。二つめは、第一次世界大戦後に大英帝国がアメリカへ覇権を移譲したように「覇権国家がその座を譲る」、もしくは1980年代から90年代の日本がアメリカにしたように「新興国が自ら降りる」。三つめは「冷戦」です。いまの米中関係は冷戦状態ですが、習近平の中国はアメリカに跪(ひざまず)かず、アメリカは覇権を中国に譲らない。そう考えていくと、戦争のリスクが高まっていると言わざるをえません。
池上 中国は不動産バブルが崩壊し、若年失業率が2023年6月には過去最高水準の21.3%に達しました。
齋藤 若い失業者が毎年数百万人も出ている。これだけの若者を吸収することができるのは、軍や戦争しかない。詳しくは私の著書を読んでいただければと思いますが、私のリサーチと分析からは、どうにもこれから中国が勝つ絵は描けませんでした。でも、それゆえに中国は台湾などで一発逆転を狙う可能性がある。
池上 トランプ氏は、台湾有事への対応を聞かれて「何もコメントしない」と述べています。アメリカと中国やロシアの間には、ゼレンスキー氏が言うところの「大きな、きれいな海」がありますからね。日本復活の絶好のチャンス
齋藤 結局、アメリカは自分たちには関係ないと思っている。しかし、日本は台湾有事が起きたら巻き込まれるし、中国はお隣さんだから仲良くやっていきたい。日本は今、非常に難しい局面に立たされています。
しかし、同時に中国を封じ込め、叩き潰すのが、アメリカの譲れない政策であれば、東アジアでアメリカを助ける役割を果たせるのは、日本をおいてほかにありません。そのことこそが、私が日本復活の絶好のチャンスが到来すると考える最大の理由です。
戦後、アメリカは冷戦で東側陣営に対抗するために軍事的にも経済的にも日本に手厚い支援をしてくれました。日本はそのおかげで目覚ましい経済復興を遂げた。その時代と似たことが今、起きつつあるのです。
TSMCの巨大な半導体工場が日本に続々と作られているのは、まさにすでに来ているチャンスです。日本がそのような立ち位置にいるのであれば、日本はアメリカと一緒においしいところを取りに行ったほうがいい。それが私の考えです。
池上 齋藤さんは著書で明治維新、戦後復興期以来のチャンスだと。
齋藤 1980年代から90年代にかけて、新自由主義が世界を覆っていったとき、日本はひとり負けとなりました。再びゲームチェンジが起きれば、新しい勝者と敗者が生まれます。これから起こる変化は、黒船来航の後に起きたことに匹敵するでしょう。黒船が来て、徳川の世が終わり、世の中がひっくり返って、次の時代を切り拓く坂本龍馬や岩崎弥太郎が出てきた。ですから、今は目の前の現実を従来の見方や前提に捕らわれず新鮮な目で見つめなおすことが重要です。
◇ソムリエの感想
内田氏も斉藤氏も米中軍事衝突は避けられないと見ている。世界のリアルでしょう。内田氏は米国より中国有利と見立て、中国の属国になる可能性大と考え、その証拠に鬼畜米英から一夜でアメリカ民主主義万歳に変身した日本支配層の姿に見ており、日本支配層が共産党に一挙に入党すると考えている、故無しとしないなあ。他には韓国と日本の同盟論、ソムリエは賛成ですが、さて韓国の反日の感情はそう簡単に変わらないでしょう。永世中立論を内田氏は説くが、ソムリエが学んだ憲法学ゼミの田畑忍教授の終生の論で懐かしい。ソムリエも同調したいが、米中が日本にどちらに付くか、踏み絵を迫り、とても現代日本の衰弱した精神で、スイスの様な強固な中立論を貫く根性はないと思います。
斎藤氏は、米中衝突で、コンサル的に見て、中国に勝ち目はない。それなら米国について、台湾有事に際し、かつて朝鮮戦争の時、最前線近くで軍事支援の基地となって大儲けした“朝鮮特需”の様に、日本経済復活のチャンスだと言う。しかし果たして米国はそれほど台湾に肩入れするか、ウクライナを見ても疑問です。また、人の不幸を種に飯を食う、卑しい根性はもう願い下げたい。何でも儲かればいいコンサル的発想はいかがなものか。
◇ソムリエの主張
ソムリエは、第二次大戦の犠牲で贖った、「日本国憲法」の平和・主権在民・基本的人権の3大原則、に今こそ立つべし。戦争を回避するそのため中国・ロシア・北朝鮮の軍事的圧力に抗する軍事力強化を説き、多くの日本人も福祉が削られるが止むを得ないなあ、と思い始めている世論の現状。しかし、その道は無間地獄に通じ、東アジアは猜疑と緊張と疲弊の一途をたどるのみ。そういうマイナス思考でなく、積極的平和構築の道を進むべき、軍事費増額でなく、平和構築費増額に向かう。ODA(政府開発援助)を増額し、グローバルサウスの経済・政治・文化・福祉の発展に寄与する。だれも文句言いませんよ。国連・平和外交に平和憲法の理念を掲げ大いに貢献する。道徳的権威を国是とする。これが空想的なようですが、結局リアルな道ですよ。急がば回れ。
そもそも国連とは、第二次世界大戦の連合軍・戦勝国による国際秩序の維持のために作ら得た組織でしょう。拒否権を持つ米・英・仏・ロ・中の5大国が常任理事国で、国力をつけたドイツ、日本が常任理事国入りを何度働きかけても受け入れません。それは世界は枢軸国であった日本・ドイツ(イタリア)の再軍国主義化を警戒しているからです。フランスの歴史家I.トッドがいかにドイツを警戒しているか。NATOで最も米軍基地の多いのはドイツです。なぜか?ドイツの再軍備化の抑えのためです。また日米安保は日本防衛だと我々は思っているが、かつて日本に侵略された苦い経験を持つアジア諸国は、米軍が日本軍国主義再興を防いでくれていると思っていますよ。
トランプ政策で米国がNATOや日米安保に距離を置く様になり、ドイツ・日本が自前の軍事力強化に向かうと、ヨ-ロッパやアジア諸国の警戒心は高まりますよ。昔、ソムリエの知り合いの大学教授が、研究滞在先のドイツで親しくなった人と酒が回った時、日本は偉い、第二次大戦で最後まで頑張った。ドイツも主都攻防市街戦までやって連合軍と戦った。それに比べイタ公は情けない、直ぐ白旗たてた。お前、もう一度ドイツと日本で世界相手にやろう!と絡まれビックリしたと述懐していました。今もドイツには、底流にネオナチの下地がある。日本のネト右翼に火が付く危険性にはよほど注意が必要です。
以上の原則を踏まえ、日本を取り巻く国際情勢の危険性、中国の軍事力増強と領土拡大、北朝鮮の軍事力強化、ロシアのウクライナ侵攻と北東アジア指向、等の状況への現実的対応の緊急性は安全保障の直接関係者だけでなく、我々一般市民の対応が迫られています。
イエスは言われた「平和を創り出す者は幸いである。彼らは神の子と呼ばれる」マタイ5:9と。放っといて平和は来ない。絶えず平和構築に意を用いる必要があるのです。特に現代程その必要がある時はないのではないでしょうか。
「生涯現役が送る人生の道標」のお勧め
2025・6・4
◇生涯現役の個人史
85才で現役バリバリの経営学者、島田恒先生が集大成と言える新著「生涯現役が送る人生の道標」(企業・コンサル・大学・NPOの現場を生きた85歳、キリスト新聞社)を出された。その出版記念講演会にご招待の上、御著作を恵贈頂き拝読しました。半世紀近くお近づきを得ている者として、ビジネス、教育、NPO、教職等、先生の人柄と業績を慕う方々の集う大盛会のご講演と相まって、半世紀にわたる先生のキリスト者経営学者としての業績・提言を是非、ビジネスに生きる福音派の皆様にもご紹介したく筆を執ります。
島田恒先生は1939年、兵庫県に生まれ、幼少期は第二次大戦末期で、“空襲警報発令!”のラジオ放送に続く、B29爆撃、ご自宅への焼夷弾投下と言う恐怖に怯える時代を体験。以後、戦争だけは絶対避けなければ、との実感を持ち続けられる。成長し神戸大学経済学部で学ばれる中、「人間とは何か」「社会とは何か」「人間はーそして自分はーいかに生きるべきか」「社会はどうあるべきか」と言う、本書を貫く実存的問いに直面、キルケゴールを読み、友人の誘いで教会の門を叩き、信仰告白、受洗なさりキリスト者となった(現在、日本キリスト教団芦屋西教会会員)。卒業後、(株)クラレに入社、折からの高度成長の波に乗り営業部門で高い業績を挙げ、若くして営業部長に抜擢される。その間広めた仲間たちとの交流を通じ、業種を問わず企業経営に共通の成功原則があると強く思われ、それを「日本的経営の再出発」(同友館)として世に問うた。幸いにも好評を得、これを機に期すところあって50歳で惜しまれつつ退社、コンサルタントを志し、多くの企業の経営相談や幹部研修に活躍。さらに龍谷大学の経営学部新設の責任者になった恩師より、是非にと乞われ経営学者の道も同時に歩まれるようになった。さらにP.ドラッカーの下で「非営利組織の」研鑽を積まれ、まさに理論と実践両輪で実績を上げ、「非営利組織の研究―その本質と管理」と言う学会新分野初の経営学博士授与として結実なさった。現在もまさに生涯現役で神様からのミッションとして、非営利団体の経営にお仕えくださっています。
◇島田経営学
島田経営学は、社会を「経済」(合理・効率の原則:企業の基本的原則)、「政治」(平等・安全の原則:一律公平、法律による行政)、「文化」(理想実現の原則、芸術等一般文化や社会、人間のあり方を問う価値観)、「共同」(共生と絆の原則:人間、社会の「つながり」)、の4つのセクター(領域)のバランス良い発展を説く。しかし高度成長期に、先生の言葉で“あまりにも経済”と言う偏りが生じ、経済突出社会モデルと言うゆがみが生じた。その結果のバブル崩壊、失われた30年の長期経済停滞の後、現在の格差問題、いじめ、ハラスメント、企業倫理問題・・まさに、営利第一の経済最優先の日本社会が生み出した宿痾だと診断なさる。この点を早くから見抜いたP・ドラッカーは「非営利組織」に着目、これに学んだ島田経営学も、①利潤目的でなくNPO(Non Profit Organization)、公益に適う独自のミッション(使命、価値観)を持つ。②民間の働き(NGO(Non Governmental Organization)、と言う利他的なミッションを特色とする「非営利組織」の重要性を説くようになった。そして島田先生自身、JOCS、淀川キリスト教病院、オリブ山病院、YMCA、神戸バイブル・ハウス・・の役員として非営利法人の経営の現場に汗をかき貢献なさっています。それが「NPOと言う生き方」(PHP新書)と言う著作に結実し、ビジネス世界に生きる者にとって、真の人間性回復の生き方の指針を示されました。さらに、関西学院大学神学部講師としての経験から、キリスト教会そのものあり方に経営的視点取り入れた「教会のマネジメント」(キリスト新聞)を著され、筆者の様な牧師にも貴重なヒントを提供頂きありがたく思っています。
◇日本社会のビジョンを描く
さらに本書の構成では、第1章、「人生二毛作―著者の自分史から」で、先生の歩まれた経営学研究の成果と、実践の裏付けのある説得力ある論が展開されています。第2章で「私たちは今どこにいるのか」で経済と政治、第3章で「ホントウの豊かさを求めて」で文化と共同、そして人生、の結語で社会の4つのセクターそれぞれの政策科学と言うか、85才の先生の日本社会への愛から、政治、経済、文化、共同への、ご自身の深い反省も含めた、辛口の警告と共に、キリスト教信仰からにじみ出る希望の提言がなされています。
社会の現状認識や、病状診断は的確でも、処方となると空疎な学者の論が多いですが、本書の描く日本と世界の構想は実に堅実でしかも希望が持てます。是非、福音派の現役ビジネス・パーソン、さらにリタイヤー後の人生100年時代の指針を求める方々、NPOの現場で活動なさる方々、教職方にお読みいただきたいとお勧めするものです。
「サーバント・リーダーシップの原則」を読む
2025・5・28
◇行動への促しのある書物
尊敬する教友のT兄から「サーバント・リーダーシップの原則」(ジェームズ・ハンター著、嵯峨根克人訳、地引網出版)のご恵贈に与りました。T兄は母校関西学院大学事務職員を長きにわたって勤められ、米国留学以来の語学力を生かし世界の大学間国際交流に多大の功績を挙げられ、退職なさった方です。そのT兄の元同僚の嵯峨根兄が翻訳されたこの書の存在は存じていましたが、手に取るのは初めてです。
リーダーシップに関する多くの書やセミナーに参加しましたが、この書は格別です。それは読み終わった時、早速こころに迫るものがあり、実行したことに表れています。大抵は、セミナーが終わると資料をファイルして本棚に収めて終わり、本を読むとこの様な感想を書いて終わりでした。しかし、この書は不思議と言うか、迫力と言うか実行に移させ行動せざるを得ない何かのある書物です。
◇本の概要
リーダーシップにはフォロアーへの支配的な権力行使型と、フォロアーに仕える権威型がある。後者に属するサーバント・リーダーシップの定義は「信頼される人格によって、共通の利益になるとみなされる目標に向かって熱心に働くよう、人々に影響を与えるスキル」とされる。この定義を次のように解説する。
① 権力型の様にアメ(称賛、昇給、昇進)とムチ(叱責、減給、降格)でフォロア
―を従わせるのでなく、権威型は信頼される人格的影響力によるリーダーシッップである。
② リーダーとフォロアーの所属する組織(営利、非営利を問わず)の利益となる目標設定こそがリーダーの責任であり、組織維持そのものが目的化すると停滞・衰退する。
③ 組織に関わる様々な構成員(ステイク・ホルダー)が、それぞれの利害や動機を持ちながらも、リーダーは組織の目標に絶えず目を向けさせねばならない責任がある。
④ リーダーは構成員に、目標への熱心さを絶えず補給する熱源となる必要がある。
⑤ リーダーは仕事の目標設定、達成方法、期限設定とタイム・スケジュール、資金計画を立てて、後はフォロアーの成果評価をすれば良いのではない。むしろフォロアーの欲求(want)ではなく必要(need)に答え、一人ひとりが「最高の自己になる」ことが同時に「最高の組織」になるよう、仕える愛の奉仕者である。
⑥ リーダーシップは生まれつきの才能ではなく、身に着ける事の出来るスキル(技術)であり、ともすれば癖の強いリーダーの権力支配に、金に象徴される生活の糧のゆえに従う、フォロアーに満足してはならない。そう言う権力支配的リーダーシップから、真に自発的に喜んで従ってもらえる、サーバント・リーダーシップのあり方となるべき、スキルが習慣となるまで普段の努力を惜しんではならない。そのための3ステップがある。(1)基準を設定する、(2)基準と現状のギャップを特定する。(3)ギャップを解消する、です。
キリスト者の著者は説く、聖書のイエスこそまさにサーバント・リーダーシップのモデルである。イエスは言われた「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う人は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10:42~45)と。まさに弟子たちの汚れた足を洗い、にもかかわらずイエスを裏切った弟子たちを呪わず、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られたイエスは、フォロアーに徹底的に仕えられたサーバント・リーダーそのものであった。
◇現代の世界のリーダーシップとの対比
振り返って現代の世界を見ると、サーバント・リーダーシップにとって真反対である権力的リーダーシップに席巻されているように見えます。専制的権力主義政治が、軍事的力を行使し戦争と殺戮を進め、経済力を行使して、敵対国はおろか同盟国にも高関税をかけて、世界を経済危機に追いやっても自国第一に走っている。彼らは本書の説くところ等、ニーチェの様に弱者のルサンチマンに過ぎないと、せせら笑っているでしょう。彼らの様な世界の権力支配的リーダーの悪影響は、やがて身近な社会に及ぶでしょう。力こそ正義だ、軍事力、経済力、科学技術力、権力、知力によって他者を支配するのだ、愛だとか奉仕だとか、そんなロマンチックな話に騙されるな、力を手に入れた者が勝つのだ、と言うでしょう。
しかし、イエスの時代に隆盛を誇り十字架につけたローマ帝国、リーダーの皇帝は今どこにいますか?世界遺産の遺跡となって観光客のツアーの対象です。著者はナポレオンを引用しこのように語ります、「アレキサダー大王、皇帝シーザー、カール大帝、そして私は帝国を築いた。しかし、我々は自自分の帝国をどのような土台の上に築いたのだろうか?力の上にである。イエス・キリストは愛の上に神の国を築き、そして今この時も、何百万人もの人々がイエス・キリストに命をさえ献げている。」と。
著者は率直に述べます。サーバント・リーダーシップ・セミナーを受講しても、実践する人は10パーセントだと。しかし、10%はいるのです。権力的リーダーが勝ち誇る現代にも、10%はイエスの道に従う人がいるのです。十字架にかかられた人に自分も十字架を負って従う人がいるのです。
◇サーバントリーダーシップの源泉
それは、マザーテレサやキング牧師の様な偉大なキリスト者になれなくても、日々出会い、生活を共にする家族や、職場や施設、学校・・で自分の負うべき課題・十字架を担う道となのだと、著者は述べます。サーバント・リーダーシップは単なる理論の学びでなく、実践だと迫ります。そこで、最初に述べたようにソムリエは、早速こころに示された、ある小さな愛を実行するよう促されたのです。
最後に、人間性にとって難しい、サーバント・リーダーシップを生涯追い続ける原動力を著者は語り締めくくります。それは「神は愛」だと言うバイブルの言葉です。日曜日の礼拝でこの「神の愛」の満たしを受けなければ、他者に仕える愛は直ぐに尽きてしまうのです。これなくしてサーバント・リーダーシップは不可能なのです。著者は言います、「最近、衝撃を受けました。わかっていたことなのですが、もし愛が人を変えるなら、神こそが変革と成長の源であると言う事です。なぜなら神は愛だからです。別の言い方をすれば、人が努力や行動を通して他者を愛し始めるなら、愛する側と愛される側双方の人生に神は働いてくださるのです。」と。しかしここから先は、信仰の世界であり、著者の担当を超えていると言うのです。著者の指し示すサーバント・リーダーシップの源に汲んでください。
深い感動を以てこの書をお勧めし、またご紹介下さったT兄に感謝します。
WELL-BEING、楽しい国へ?
2025・5・21
◇楽しい国?
いや驚きました。古い話ですが石破首相が、目指す国家像を表明した時の事です。自民党の防衛族に属する議員で、武器オタクで有名でしたから、てっきり“核武装論”とでも言うのかと警戒していましたが、“楽しい国”つくりを目指す、と聞きガクッときました。その落差に失笑した人もいたようです。ソムリエも何それ、幼稚園児相手に話してんの?と思ったからです。しかし、時間が経ち、石破氏は、石橋湛山の小国家主義に影響を受けた、田中角栄路線の政治家で、しかも良く勉強している人だそうですから、案外まともな考えではないかと思い直した次第です。以下、ソムリエなりに肉付けしたいと思います。
◇明治以来157年の歴史の中で
まず、ソムリエ得意の大局観的、メタヒストリー的思考です。1869年の明治維新以来、日本は長い鎖国(海禁)路線から開国文明開化の欧米近代化路線に舵取りを切り替えました。中国はじめ他のアジア諸国のように、欧米近代諸国家の惨めな植民地にされたくないためです。具体策が“富国強兵”策です。それこそ1万円札の渋沢栄一が推進した資本主義経済の発展で、殖産興業により産業化が進み“富国”政策を実現しました。さらに武力を蓄え、日清、日露、台湾・朝鮮半島併合、満州事変、ノモンハン、大東亜戦争と軍部主導の“強兵”路線をつっぱしりました。明治以来157年の歴史の前半は“強兵”策に重きを置き、軍人が威張り、1945年ついに連合軍に大敗したのです。そこで“強兵”路線を反省した日本は、“富国”路線に立ち帰りました。第二次大戦敗戦後は、平和憲法のもと、ひたすら経産省主導の経済復興に励み、エコノミック・アニマルと嘲られても意に介せず、銃を電卓に持ち替え、企業戦士となって働き、ついにジャパンNO1と言われるまでに“富国”・経済戦で勝利を得ました。
しかし、NO1の地位を脅かす者に容赦のない米国は、第二次大戦の武力戦で日本を敗北に至らせ、さらに戦後の経済戦でも情け容赦なく日本経済弱体化を図り、失われた30年の長期停滞に陥らせ敗北を喫したのです。その間、デジタル革命で世界の覇権を取り戻した米国は、次にNO1を脅かす中国にターゲットを絞り、これを追い落とそうと、高関税の経済戦争を仕掛けましたね。
◇富国強兵策の次
そういう中、日本は明治以来の“富国強兵”策のいずれも経験済みで、もはやそこに国家目標を置くべきかどうか、思案中だと思います。等身大の日本としてだんだん自己理解ができるようになり、NO1国家、昔は1等国と言っていましたが、武力・経済力で国家の値打ちをはかる、戦前は軍艦の総トン数、陸軍の兵の数、植民地の版図、戦後はGDP国民総生産額で国家価値の尺度としてきました。しかしそろそろそんなものは卒業し、石橋湛山の領土は日本列島のみで十分、軽武装・経済重視で生きる「小国家主義」で行こう。さらに世界の一等国とかNO1を国家的価値として目指すとかは止めて、幸福の価値は国民それぞれの自由にすればいい、成熟した市民社会がいい。敢えて言えば“楽しい国”で行こう、と言うのなら、これはこれでよろしいのではないですか。
日本は明治以来157年の近代化の歴史的経験を積み、成功も失敗もし、世界に貢献もし、迷惑もかけた。そして今や“成熟社会”となった。今更国家がみなさん、今月のお目当ては、早寝早起きですよ、などと先生からお説教される、幼稚園児や小学生ではあるまい。国民一人〃がそれぞれ楽しいと思う事を追求できる自由な社会となるよう、政府は環境や条件を整えるのがいい。ロシアや中国の様に国家をまとめて他国を侵攻するよう国民に強制する連中、アメリカ・ファーストを叫び狂気にさせる米国、世界の多くの国は迷惑至極と内心思っていますよ。日本はそんな狂気の時代に、正気で落ち着いた成熟した社会・国家のモデルを静かに示せればいい。“楽しい国”、いいじゃないですかね。
◇WELL-BEING
そこで、もう少し深堀りして理屈っぽくします。先の自民党党首選の際、9人の候補者がそれぞれ所信を述べました。ソムリエはその中で、林芳正官房長官のお話が印象的でした。他の方々は個別政策を論じましたが、林氏は、目指す国家像は“WELL-BEING”政策で、方策は“楕円思考”と珍しく理念的所信を述べ、深く同感しました。さすが党内きっての教養人で、外相会議でビートルズのピアノ演奏を披露。ソムリエは、石破首相の“楽しい国”を、理念的に表現すると“WELL-BEING”(以下、W・Bと略記します。)になると思っています。既に岸田前首相も所信表明でW・Bを目指すと説いていましたね。現内閣は石破・林の名コンビで難関を乗り越えて欲しいと願っています。
そこで、“WELL-BEING”とは何ぞや、と言う事になります。最近は、美容でもW・B美容とか、W・B経済とか、何でもW・Bをくっつけた表現が流行っています。これからさらに広がっていくと思います。予測不能で混迷を深める21世紀こそは、まさにW・B社会に光を見出している様です。
そもそもW・Bは1946年、WHO(世界保健機関)憲章で健康の定義に表現されました。“健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態(WELL-BEING)であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。Health is a state of complete physical, mental and social well being and not merely the absence of disease or infirmity.”と書かれているからです。つまり、従来の病気でないと言う消極的な健康観から、全人的な充足感に満ちた積極的健康観への変換です。その後、20世紀も後半になって地球環境問題の危機感が叫ばれるようになって、2015年、国連総会でSDGs(持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)が定められ、17の目標(ゴール)を掲げ貧困・差別解消と地球環境保全策が示されました。そのSDGsの目標3には、「すべての人に健康と福祉を(Good Health and Well-Being)」―あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する、とあります。
現在トランプ政権とその支持者たちは、反SDGsの様ですが、そんなことは一時しのぎに過ぎません。必ず人類はW・Bに戻らざるを得ません。そうしないと人類はおろか生物の存続さえ危うくなるからです。WHOとSDGsの共通して目指す理念、W・Bは自然環境も含めた全人的・全地球的に充実した世界・社会を目指す。人間だけが、自国だけが満たされておれば、後は知らんと言う無責任な生き方ではない。人類・自然の共生を目指すのです。
◇ベネッセ
実は、W・Bの理念は歴史的に遡ると、ルネサンス・イタリアの理念“Ben essere
”にあると言われています。イタリア語“ベン”は“善い・良い”を意味し、“エセーレ”は“存在、生き方”を意味し、“良く生きる”方です。既にギリシャ思想家アリストテレスは「ニコマコス倫理学」で人間の最高善としての「幸福」を“善く生きること”と論じ、ローマのストア派思想家セネカも「よく生きる」ことを重視しています。古代古典の復興をはかるルネサンスがそれを再認識したのでしょう。フマニスム(人文主義)の目指す、エラスムスが知の向上、ピコ・デラ・ミランドラが自由、レオン・バテスタ・アルベルテイが「万能人」等が「良く生きる」を説いた代表です。一言でいうとルネサンス的万能人です。ミケランジェロの様に、絵画・彫刻・建築・解剖・自然科学・・あらゆる面で可能性を発揮する人間像です。このラテン語が「ben(良い)」と「esse(存在する、生きる」の合成語「ベネッセ(Benesse)」で、日本の企業家福武総一郎が企業理念としたので有名になりました。
近世ではゲーテでしょう。文学・自然科学・政治家と行くところ叶わぬことなき万能人、教養人です。日本ではNHK大河ドラマ“べらぼう”に登場する、わが讃岐出身の平賀源内でしょうか。薬草・医術・エレキテルの科学技術・初めての西洋油絵画家・小説家・エンタメ事業家・鉱山開発・・本業は分からない、友人の杉田玄白が源内を“非常の人”と称した、並み・普通ではない万能の教養人ですね。そもそもギリシャ・ローマの目指す教養人は、職人・商人の専門人を低く見、リベラルアーツ(教養)を重視した文理バランスの取れた全人を評価したのです。その古典に帰れが、ルネサンスのモットーでしたからね。文理融合を目指すソムリエも、小なりと言えど同様です。現代は余りに専門の袋小路にはまりすぎ、ガラパゴス化し行きどまりに閉塞・窒息しそうです。メタ認知視点で大きく俯瞰してW・Bな世界を取り戻す必要があるのです。
◇シャローム
ここで更なる深堀り。それはヘレニズムの理想的人間像・ベネッセ(善く生きる人)さえも超えて歴史を遡るのです。それは旧約聖書の目指す、ヒブル語“シャローム”理念です。“シャローム”は現代もイスラエルのあいさつのことば、アラブ世界では“サラム”で同じあいさつの言葉です。あなたに“平和(シャローム)”があるように、と言う美しいことばです。「新聖書大辞典」(キリスト新聞社)によるとシャロ-ムは、“戦争の対立概念であるが、単なる政治的概念ではなく、何か欠如したりそこなわれたりしない充足状態をさし、さらに無事、安否、平安、健康、繁栄、安心、親和、和解等、人間の生のあらゆる領域わたって真に望ましい状態を意味する。単に精神的な平安状態のみでなく、歴史的社会的具体性を伴った福祉状態を包括する概念である。このような意味での平和はイスラエルにとっては神の業であり、神の賜物にほかならない、神との契約関係を正しく保持するところにのみ現実化されるものである。”と記されている。
単に争いがないと言うだけでなく、満ち満ちた人間関係、さらに神との満ち満ちた関係。それを平和(シャローム)と言うのです。ヒブル語シャロームは、平和と同時に健康も意味します。それはまさにWHOの健康定義と同じく、単なる病気でないと言う消極的健康でなく、身体的・精神的・社会的な充実と言う積極的健康観です。しかも神との平和な関係が、W・Bを可能とすると言うのがシャロームなのです。神とのシャロ-ムなくしてW・Bは成り立たない、と主張するのです。ここにギリシャ・ローマの古典的人間観、ルネサンス的万能の教養人的人間観を超えた、ヘブル的神学的人間観・自然観が提示されているのです。
◇キリストの平和
御覧なさい。現代世界はW・Bの高い理念に反する方向に、地獄真っ逆さまの状態ではありませんか。世界の専制的・独裁者が、自分たちの思いのまま、争い、収奪し、侵略し、破壊し、殺傷し、とてもW・Bとは言えません。平和維持機構の国連も機能不全に陥っています。折角の高いW・B理念も、人間の罪深さによって台無しにされています。今こそ罪深い人間を救済する、イエス・キリストの十字架の贖いの福音を必要とする時はないのです。ノーベル賞文学者大江健三郎さんが、遺言とも言うべき著書「新しい人」で、自分たちの古い世代は失敗した。これからの若い世代は「新しい人」に生まれ変わって、真の平和(シャローム)を取り戻してほしい、それはエペソの手紙のメッセージにある、敵意をキリストの十字架に着けて、敵対するも者同士が和解する平和(シャローム)ですと、切々と訴えられた。キリストの平和こそ、W・Bを実現できる根拠なのです。
「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」
エペソ人への手紙2:14~16
I’m OK-You’re OK
2025・5・14
◇デイールの相性
外交の事は分かりませんが、想像するに、案件についての当該国同士官僚のカウンターパート(担当者)が、それぞれ国益を背に交渉し、結果を上に揚げ、組織として意思決定をして、国家間の大課題であれば、首脳会談で調印する。ボトムアップで、首脳会談はセレモニーかもしれません。しかしトランプ氏登場以来、組織同士の交渉よりトップ同士が直接話し合ってデイールで物事を決め、決済を下の者に執行させる。確かに、ボトムアップより、トップダウンは時間が短縮され、この忙しい時代には向いているのかもしれません。でも何だか国家首脳が、中小企業の社長になったみたいで、国家の命運が、会社の命運を握る社長次第のようになって大丈夫かなと危ういものを感じます。
こういう時代には、個人同士の相性、ケミストリーが合うかどうかが、議論されます。トランプ氏とうまく渡り合った安倍元首相に比し、石破さんは相当危ぶまれましたが、お土産どっさりで乗り切った感じです。その後の、ウクライナのゼレンスキー大統領とトランプ氏の激論が、世界の注目の中で公表された時は、ウクライナ問題が破綻し、世も末になったと恐怖感さえ抱いた人もいます。時代は人間関係の構築の仕方に重点が移っている感じがします。
◇人間関係の表現法
人間関係の綾は、文学の得意とするところで、主人公が人生で出会う様々な人間関係のドラマが描かれます。時には何冊もの大作になるほどで、ハラハラドキドキ、泣かせ憤らせ、共感と反発、様々な感情を読者に呼び起こしながら、大きなカタルシスを名作はもたらせます。しかし、日常生活やビジネスの世界では、そうそう感慨にふける訳にはいかず、人間関係もその場その時で処理していかなければ、物事が進みません。そこで、役に立つのが、1950年代後半以来、エリック・バーンによって提唱されている“交流分析”です。いかにも実用的な面に優れているアメリカの心理学会で生まれただけのことはあり、通俗心理学と揶揄されたように、ヨーロッパの宗教や哲学から生まれた深遠性はありませんが、現場で役立つので臨床心理に使われています。もちろん、底の浅い理論ではなく、フロイトの深層心理学、ブーバーの“我と汝”の関係論をバックに持ちながら米国プラグマテイズムにより、実用的になっています。
◇交流分析
“交流分析”transactional analysisでは、個人のパーソナリテイ(人格)理論は、フロイトを分かり易くし、P(親)・A(大人)・C(こども)に分けます。Pはフロイトの超自我、Aは自我、Cはイドー(欲求)の事です。具体的には専門書をご覧いただくといいです。難解なフロイト理論も実践に使え流石米国流心理学です。
ここでお話ししたいのは、個人相互の人間関係構築のパタンです。これはソムリエの理解では「はじめに関係ありき」と説いて、世界を“我と汝”、“我とそれ”で捉えたM.ブーバーの名理論が背景にあると思います。特に人間関係ですから“我と汝”の交流関係です。それをさらに実用的にしたのが“交流分析”だと思います。
人間関係には、①I’m OK-You’re NOT OK, ②I’m NOT OK-You’re OK,③ I’m NOT OK-You’re NOT OK ④ I’m OK-You’re OK、の4つのパタンがあると言う。
① I’m OK-You’re NOT OK,は自分を肯定し相手は否定する関係、マウントを取りたがる人の陥りがちな関係で、嫌がられます。
② I’m NOT OK-You’re OK,は劣等感、自己卑下の関係で、お追従ばかり言う関係になります。見てて気分の良いものではありません。
③ I’m NOT OK-You’re NOT OK、これは最低な関係と言うか、関係そのものを壊す、自暴自棄、もうどうともなれ、破滅的関係です。離婚寸前みたいですね。
④ I’m OK-You’re OK、これこそ理想的で、よくウイン・ウインの関係で行きましょう、と言う健康で建設的関係です。
◇バイブルの人間関係の秘訣
このパタンを見て、今の自分の人間関係の築き方の癖はどうか?あるいは現実のあの人、この人との関係はどうか?反省評価し、さらに改善点も見えてくるのではないでしょうか。ソムリエは今は余り意識していませんが、根底にこの“交流分析”を用いています。但し、日本人同士の人間関係は、若干I’m not OK-You’re OK,気味にした方がスムースに運ぶと言うのが、九州大学の心療内科(心身医学)の名医であられた故池見酉次郎教授のアドバイスで、出過ぎず控えめでしっかりサポートして信頼関係を勝ち取る日本人向けの知恵でしょうね。
どちらにしても、イエス様がおっしゃった人間関係の秘訣に優るものはありませんね。
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ルカ10:27の主イエスの言葉こそ良き人間関係構築の黄金律(ゴールデ・ルール)ですね。
日本の歴史とキリスト教
2025・5・7
日本の歴史とキリスト教との関係を考えたいと思います。もちろん、現在の石破茂首相はキリスト者であり、遡って麻生太郎、大平正芳、吉田茂、幣原喜重郎と戦後のキリスト者首相がいますし、歴史的なゼロ金利政策導入の速水優日銀総裁はじめ、ソニー創業者井深大氏等経済界の信徒もいます。ミッション・スクールの評価は高く、多くの人材を世に送り出しており、教育界での貢献も大きいものがあります。しかし、御存じの通り信徒数は人口の1%に届くか否か、と言う事で、欧米キリスト教文化圏はもとより、アジア諸国の中でさえ、異常な少なさです。
わずか2時間ほどのフライトで行き来できる隣国韓国の教会の盛んさ、共産党中国の宗教弾圧の中でさえ、1億人を超える信徒数があり、また増加し続けているのと比較してもその異常な信徒数の少なさは際立っています。最近、コロナが下火になり、やっと海外旅行が回復し、教会の信徒知人のツアー業界の方が、新地開拓に海外を訪れた。どこが推しですか?と聞くと、インドのムンバイです、と言う。なぜかと問うと、ヒンズー教の盛んなインドでもキリスト教徒数は3位の3千万人おり、特にムンバイは街中に教会があって、しかも活気にあふれている。意外性が魅力的でツアー企画を考えている、との事。
日本のキリスト教の歴史で、半世紀宣教に携さわって来たものとして、忸怩たる思いですね。おそらく、16世紀戦国時代キリシタン宣教が入って急拡大、脅威を抱いた権力者が17世紀禁教令を出して、キリスト教宣教死上、過酷極まる弾圧を250年に渡って行った徳川幕府の宗教政策が、今も日本人の潜在意識にあって、ブレーキが掛かっているのでしょう。これをどう外すかです。
そこで、歴史好きの日本人に向けて、日本の歴史でキリシタン宣教時の爆発的拡大を掘り起こして、本来日本人はキリスト教に好意的だったと訴える運動があります。また実はキリスト教はキリシタン宣教以前の古くから渡来していたと、説いて少しでも拒絶感を緩和したい、と言う運動もあります。ソムリエはいささかこれらも研究し、運動の動機はよく理解しますが、結論として同意しかねるのです。さらに、否定ばかりしては何の助けにもならないので、もっと積極的な日本の歴史に対するキリスト教受容の必要性をお話ししたく願っています。
◇二つの歴史の研究・顕彰
疑問の運動の一つは最近はやりの町おこしにも一役買って、キリシタン史跡PRの市とタイアップして観光の目玉にされる様なケースがあり、そこに有志の牧師や信徒が協力した事例です。二つ目は古代にキリスト教あるいはユダヤ人が既に渡来していたとする、“日猶同祖論”で、時々TVの番組でもとりあげられています。日本人のルーツ探しの関心の深さに一石を投じようとするものです。
◇キリシタン時代
まずキリシタン史跡の町おこしです。実はソムリエは半世紀も前の若い頃、カソリック作家遠藤周作の影響でキリシタンに関心を持ち、学生時代住んでいた京都の「キリシタン記念館」でのキリシタン研修会、仙台での支倉常長のキリシタン殉教、長崎の殉教者の史跡、またキリシタン到来時の仏教僧との論争、禁制を敷いた幕府の要職・荒井白石のキリシタン尋問を読み、これは現代でも充分通用するキリスト教批判で、いかに江戸時代の思想・宗教的レベルの高いものであるか感心しました。またガラシャ夫人、小西行長、・・キリシタン大名や、一般信徒の殉教の物語は感動的でした。そして史跡や記念箇所はいずれもカソリックがしっかり管理し、宣教に用いていました。
ある時、親しい友人牧師が自分の住む市はキリシタン史跡があるが、この研究を市民を巻き込んで進め、ひいてはキリスト教宣教の助けにしたいが、君の意見はどうか?と聞かれた事があります。そこで、それは結構な事だが、終局はカソリック教会のお先棒を担ぐことになるよ、と忠告しました。しかし友人牧師は熱心に運動を勧め、共感した市民も多く、結局猛烈に運動は進み、多くの教会から史跡巡りツアーに参加、研修会にもキリシタンの歴史好きのノンクリスチャンが集まりました。そして町おこしの原動力だった牧師は有名なカソリック教会で記念講演の講師に招かれもしました。しかし、何でもすぐ飽きられる時代です。いつの間にかこの運動は衰退したのです。結局、キリシタン顕彰は、カソリックのPRに貢献したのです。まあ、広くキリスト教の影響の拡大に貢献したと言えばそうでしょうね。
◇“日猶同祖論”
もう一つの、“日猶同祖論”です。最近は“渡来説”と言うようです。つまり日本の古代史時代、既にユダヤ人が日本に渡来していた、日本人のルーツはユダヤだという説です。これを、日本人とユダヤ人は共通に先祖を持つ、“日猶同祖論”と言い、戦前から根強い支持者がいます。
ではいつユダヤ人は日本に渡来したのか?“失われた10部族”が日本に渡来したと言う話があります。アッシリアによる北イスラエル王朝崩壊はBC721年ですね。その時イスラエル12部族の内、10部族が北王国イスレルに住んでいたが、亡国により世界を放浪の末、古代日本に渡来したと言う壮大な話です。ユダヤの血を引くと彼らが言う天皇家の成立がどんなに早くてもAD4世紀頃でしょう。その間にユダヤの失われた部族の一部が渡来したのでしょうか、その史実は立証できますか?景教渡来と一緒だと言う説もある。景教が中国に入ったのがAD7世紀、日本に景教僧が渡来したのが736年京都太秦寺と言われます?、また景教はキリスト教ネストリウス派の異端?で、一応キリスト教徒、ユダヤ人とは限りません。
ソムリエの昔からの友人であるT牧師が、日本の古代史時代にキリスト教が既に入っていた、と主張。教会成長研修で米国ツアーがあり、ソムリエはT師とゆっくりお話しする機会があり、崇拝者でなく友人として率直に疑問を話しました。そもそも高校の歴史の教科書で、日本にキリスト教が渡来したのは、1549年、宣教師ザビエルの開教が最初だと習う。“以後よく広まる(1549)キリスト教”と語呂合わせで生徒は暗記する。もし古代にキリスト教が日本に入ってきたことを実証すれば、日本史を塗り替えることになる。牧師が個人的に何を考え、研究しようが自由だが、神の教会を預かる責任があるとすれば、素人の話では済まないのではないか、ましてT師の様に影響力のある教界指導者は、その言行に注意しないと付いて行く人達の道を誤らせますよ、と諫言したのです。
するとT師はこのように答えましたね。定説にこだわっていると学問は進歩しない。仮説を立てて実証してこそ科学や歴史学は進歩する。そもそも歴代天皇は鷲鼻が多い。あれは日本人でなくユダヤ人の血統だ。また地元の神社の祭りの掛け声は日本語では意味不明、しかしヘブル語によく似ている。日本人の先祖はユダヤからの渡来人だと仮説を立ててもいい、とおっしゃる。そこでソムリエは、先生は元々学者ではないですか、仮説なら仮説と言わず、断言的に講壇から語ると、忙しく調べる余裕もない信徒の多くは、牧師の言う事だから真実だと受け取る。そう言う無責任は善くない。昔から、聖徳太子は厩戸王と呼ばれ、キリスト誕生の物語の反映だとか、京都の御手洗の池の三本の鳥居は三位一体の神を現わすとか、何とか寺の☆じるしはダビデの紋章だとか、高野山の7世紀景教碑(小生は高野山へ登って調べました)は空海が中国でネストリウス派の信仰に入った証しだとか、彼の灌頂と言う儀式は洗礼の真似だとか、秦氏は失われた10部族のユダヤ人が渡来したものだとか、東北 、青森県三戸郡新郷村戸来にキリストの弟が渡来し、今もキリストの墓をお祀りし、神社に十字架が立って、毎年祭りを行っているとか、古代に既にキリスト教は渡来したとの説が、一時盛んに説かれたものです。ソムリエも相当学んだものです。
しかし、立教大学の日本のキリスト教史の専門家、海老沢有道授が厳密にこれらを調査した結果、実証性の無いお話であると結論つけています。どれもこれも面白い話ですが、歴史学的に実証されていない事で、そう断っての話題は面白いでしょうが、あたかも真実、史実の様に語るのは、「あなたは偽ってはならない」の十戒違反ですよ。
それに古代日本の宗教・神道にキリスト教が影響を与えているとすると、日本人は神社へお参りに行くから救われている、と言う事になりませんか。また教科書のキリスト教伝来の年代を覆すだけの史実を、専門家も納得する歴史学的なエビデンスを提示できますか、と疑問を呈しました。
そもそも失われた10部族はどこへ行ったのか?慶応大の聖書考古学の杉本智俊教授の「聖書考古学、旧約遍」(河出書房新社)によると、おそらくBC721北イスラエル王朝崩壊後、一部は離散したがほとんどは南ユダ王朝に逃れた、そして10部族は失われることなくイスラエル12部族として保たれた、と杉本教授は“「失われた十部族」はどこに行ったのか”とわざわざ項を設けて、この問題に聖書考古学から決着をつけています(同書、P112,113)。
◇2つの運動の結末
いずれにしても、キリシタン研究はカソリックの用意したキリシタン史跡巡りに、古代日本の宗教・神道にキリスト教が影響を与えているとすると、教会が由来の神社めぐりを企画するようになった。挙句の果て、キリシタン信仰の純粋性が評価されカソリックにノンクリを導き、神道にキリスト教があるなら神社へ行こうとなったのです。折角の宣教方策が、ソムリエの予測通リ結末は裏目に出ましたね。
◇動機に共感、史実誤認と方法の問題
歴史好きの方々への宣教のアプローチとしての2説は、その動機には共感しますが、歴史の史実誤認と福音宣教の方法として問題があるのではないかと、かねてからソムリエは考えており、少し意見を述べます。特に影響力ある教職や信徒に是非、ご理解頂き、歴史学にも支持される福音宣教の王道を歩んでいただきたく願っています。
また歴史を用いる宣教として、ソムリエの20年の研究成果のまとめ「138億年のメタ・ヒストリー」を一昨年出版。その意味をお話しさせて下さい。
◇歴史好きへのアプローチ
キリスト教の宣教方法に、世間の歴史的関心を共有できる切り口から入る、と言うのは確かに有効です。
以上、批判をしましたが、ではもっと積極的な宣教における歴史の活用法はないのか、と問われる方のために、冒頭に御話ししました拙著「138億年のメタ・ヒストリー」をお勧めします。これは、宇宙の歴史(宇宙史)138億年、地球史46億年、生命史40億年、人類史700万年、現生人類(ホモ・サピエンス)史30万年、と言う壮大な歴史の中に働かれる神の救済史を描いたものです。
拙著のメッセージは、17世紀、近代革命(近代科学、近代民主主義政治、近代資本主義経済)は、キリスト教に起源がある。しかし18世紀啓蒙思想により神を追放した。これを「聖俗革命」と東大科学史家のクリスチャン、村上陽一郎教授は提唱し、今や科学史学会の定説となっています。ですから近代革命はキリスト教を否定して起こったと日本の学校教育で教えられて来たが、それは歴史研究の結果覆され、近代革命の起源はキリスト教にあると実証された。特に近代民主主義政治や、近代資本主義経済の起源はプロテスタントにあると言う事は、実証され定説となっています。
しかし日本は19C明治維新以来、学会も教育界もキリスト教を拒み、科学も民主主義政治も、資本主義経済も、無神論的なものになっている。そして世界全体の潮流が18C「聖俗革命」以来、神抜きの近代化を推進した。その結果、核戦争、環境破壊、強権的政治家、強欲資本主義による世界的格差問題・・の人類の危機をもたらせている。もぅいちど“初めの愛”に帰り、神を愛し、隣人を愛し、環境を愛するイエス様の教えに立ち帰る処に、現代の問題の解決があると、主張しています。
もちろんこれらの論拠は我田引水の独りよがりでなく、自然科学、社会科学、人文科学の最新の研究成果に基づき、しかも福音派神学の視点から解き明かしております。幸いにも福音派神学者・牧師・キリスト教オピニオン誌“SALTY”編集長の井草晋一師の惜しみない支援とお勧めを得て電子書籍として出版。また、YOU―TUBEで、ソムリエの講義を見ることができる様になりました。
イ エス様は唯一の救いの真理です。しかし、それを指し示す方法は、多様です。ただ多様だから何でもいいのではない。聖書と理性で絶えず吟味して提示する必要があります。それが良心的な信仰者のあり方でしょう。ですから、決してソムリエも自説を絶対視いたしません。絶えず検証される必要があるからです。
「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」ヨハネ福音書8:32
人類哲学裏話し
2025・4・30
◇哲学者の裏話し
哲学(者)の裏話しです。ソムリエは思想的なブログを書き連ねておりますので、結構哲学・思想のお世話になっています。何かとてつもなく難しい事を説いている論を読んでも、その核心は“なんだこの程度か、大げさな”と落胆する事が多い。高齢になると少々のこけおどしでは通用しない。それにしても大きな物語と言うか、新しい世界観を提示し、これからの人類や個人的にも道筋を照らすものがない。かつてフェミニズム論の上野千鶴子さんが、若い頃古代インド哲学にはまり、ありとあらゆる思考がそこに論じられていて、およそ人類の思考パタンはここに出尽くしていると悟り、哲学から方向転換したと書いていたのを思い出す。以後の人類の思考パタンは結局、古代インドの思考の焼き直しなのかもしれません。今は中国文明の台頭が大きいですが、どうも共産党の縛りが強いのか新らしい哲学・思想はうかがえない。むしろ次の次に控えている、インドの熱帯雨林に繁茂する多様な植物の様な哲学・思想のジャングルの熱気の中から、次の世界思想が生まれてくる気がします。
◇日本の哲学
学生時代、文学部で哲学の講義を聴講、教師が本学で哲学の専攻者が学部・院あわせると100人以上いる。しかし哲学者がそんなにいるはずがない、と語っていた。結局哲学科を終了して、西欧哲学の諸学説を理解するのが精いっぱい。とても独創的な哲学はそうそうは生まれないと言う事。そのためには高額な洋書を購入して読まなければならない。ある時京大哲学科出の方と同席、どうして哲学を専攻しなかったのですか?と問うと、主任教授に院に進んで哲学を本格的に研究したいと相談。すると“君の家に蔵はいくつあるかね?”と聞かれた。いっぱしの哲学者になるには蔵の中の先祖の宝を売って高額な洋書を購読しなければ無理だと言う事。彼は諦め別の道を進み成功したと言う。日本の哲学研究とは洋書の翻訳であったのですね。
ソムリエの長年の友人に哲学者がおり、戦後京都学派の重鎮梅原猛の孫弟子でした。梅原の晩年、一門が集まり師が“自分は日本思想の独創性を解明する事を終え、これから人類哲学を究明し、人類を救済する”と大風呂敷を広げたそうです。会食の時、友人が梅原に“先生、わたしも人類哲学を考えています!”と話すと、喜んでくれると思いきや、とても嫌な顔をされた。梅原も度量が狭いとガッカリしたと友人。友人はギリシャ哲学と中国哲学を研究し、東西融合の人類哲学を構築しようと目論んでいたからですが、大哲学者から見ると、何をこの若造が、まだ嘴が黄色い癖にと思ったのでしょうね。しかし梅原自身、京大哲学科で近世哲学の野田又夫教授の下で学んで、論文のテーマを決める時、日本哲学の研究をします、と野田に告げると、そんな事100年早い、日本人が西洋哲学を理解するのにまだ100年はかかる、独創的な日本哲学などその後だ、と言う事だった。“日本に哲学なし”と中江兆民は呟いたが、戦前、独創的と言われた西田幾多郎・田辺元の京都学派は、結局戦争加担の「近代の超克」思想として、戦後排除された苦い経験があったからでしょう。しかし、若い梅原は恩師の忠告に従わず、果敢に日本の独創的思想を現代によみがえらせ「梅原日本学」を確立しさらに、中曽根首相に直談判し「国際日本文化研究センター」を設立、人材を輩出した。その彼が、後進の野心的な思想的挑戦をたしなめる。やはり歳取ると嫌味が出て来るのか、気を付けないといけないと、友の話を聞きながら自戒。
◇太陽の哲学・月の哲学
さて、梅原は晩年エジプト学者の吉村作治氏に誘われ、高齢を押してエジプトに赴き、古代エジプト文明の深淵さと壮大に魅了され研究、帰国後氏のライフワーク、「人類哲学序説」(岩波新書)を世に問うた。ソムリエも当時興味深く読んだ。そこで展開されていたのは“太陽の哲学”であった。古代エジプトが太陽神ラーを生命の源として崇めた、今や科学技術の果てに人類滅亡の危機に直面している我々は、今こそ太陽の生命哲学を復帰させるべきだと、そもそも日本の古代神話の神“天照大神”は太陽神ではないか。太陽こそ洋の東西を問わず、全人類を照らす光明である。また太陽は地球上の全ての生命を愛しみ育てる。人間だけでなく全生物をあまねく照らす。日本天台仏教の独創である天台本覚思想“草木国土悉皆成仏”こそ、人間中心の西洋哲学が、科学を使って地球環境を破壊している。これからは日本思想こそが、人類を滅亡から救うと言う、大風呂敷的哲学ですね。
ソムリエは哲学者ではないが、文学者の三島由紀夫の深い思想性を評価するものです。到達点の「豊饒の海」は、20歳で死んだ青年の愛と転生の物語りで、インドの輪廻転生論をベースに、仏教、神道、能と東洋思想を駆使した豊饒壮大な「世界解釈の小説」,で彼独特の華麗な文体で酔わせます。しかし小説の最後は寺の庭に一陣の風が吹く、輪廻転生が終わり無明の業の世界から解脱した無の世界が幕です。「豊饒の海」とは月面の一帯を指す地名です。「豊饒」と言うタイトルの生命の豊かさとは裏腹に、そこは死の静寂さの世界なのです。出版直後に彼はシンパを率いて自衛隊に突入、割腹して果てます。日本文化の極点は、月の文明、死の文明なのでしょう。月を愛でる室町以来の日本の美学に現れています。しかし、それは狭い日本にのみ通用し、いや精神の衰弱に過ぎないのではないか、これからの人類文明を救済するのは、月の哲学文明・死の哲学ではなく、太陽の哲学・生命文明なのではないか、とソムリエは受け止め、老哲学者の白鳥の歌を感銘をもって拝読しました。
◇ビオスとゾーエー
しかし、ここからがキリスト教の出番です。バイブルでは生命には2種あります。ギリシャ語のビオスとゾーエーです。ビオスはバイオ・サイエンスの生命です。生物的生命、生老病死の生命です。梅原は人間中心で自然支配の西洋哲学は自然破壊をもたらし、日本天台本覚思想仏教の「草木国土悉皆成仏」こそこれからの人類哲学足り得ると説く。しかしソムリエの研究によると、138億年前に誕生した宇宙の根本法則エントロピー増大の法則により、宇宙はやがて熱死する。しかしこれに抗い40億年前地球上に負のエントロピーにより死を免れようとする生命が誕生した(量子論物理学者、シュレジンガーの説)。生命の目的は永続です。しかしエントロピーの法則に生命もやがて負け、死滅する。いや太陽も月も被造物すべては死滅するのです。まさに仏教的無常の生命がビオスなのです。西洋哲学も梅原の日本哲学も無力なのです。
しかし、イエスは「わたしはよみがえりであり命(ゾーエー、永遠の生命)である。わたしを信じる者は死んでも生きる。いつまでも生きる。」と驚くべき事を宣言された。イエスだけがビオスの生命の限界を破って、十字架の死後、墓に葬られ、三日後に復活して、今も活きておられる永遠の生命(ゾーエー)なるお方なのです。
ソムリエは昨年「138億年のメタヒストリー」を上梓しましたが、言うなれば「宇宙哲学」です。創造者なる神が創造し、保持し、完成なさる壮大な宇宙論です。失礼ながら梅原の「人類哲学」でも神の知恵には到底及ばないのです。やはりここはバイブルに哲学者も謙虚に耳を傾けるべきなのです。しかもその宇宙史の中心は、十字架にかかられ死んで、復活し今も全宇宙を統括されるイエス・キリストであると宣言するバイブルには、哲学者は逆さになっても理解できない宇宙の秘儀なのです。
◇三島文学・遠藤文学
三島の「豊饒の海」に対し、ソムリエは遠藤周作の「深い河」を対比しています。遠藤は明らかに三島を意識して書いています。三島が輪廻転生の時間的物語をオムニバス形式で描く様に、遠藤は独立した人生を同時並行的に歩む複数の人物が、オムニバス的に物語られ、最後にインド・ガンジス河で彼ら全員を遭わせます。そしてガンジスに身を浸して、人生を再生させる物語が、キリスト教の復活・新生の救済を東洋に土着化(エンカルチュレーション)した文学表現で描くのです。映画化された最後のガンジスの沐浴シーンに観客は、涙で感動を現わしていましたね。ここに三島の到達点“無”と、キリスト者遠藤の“復活”の違い、月の哲学と、復活の信仰、ビオスとゾーエーの命の差を思うべきでしょう。
要するに月も太陽もそれは被造物で、エントロピー法則を免れえない。究極的には死滅する。しかし、イエスだけは死に打ち勝って永遠の生命(ゾーエー)をお持ちになる。彼を信じる者も彼と共に十字架に死に、葬られるが、やがて復活し永遠の生命を持つ希望に生きている。哲学者は創造者なる父なる神、死に打ち勝つ救済者なる御子イエス・キリストを知らない。これからの人類哲学はこの永遠の命ゾーエーの賜物を求めるべきではないか。ここに死の影のいよいよ濃くなった現代世界の希望の哲学がある。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」ヨハネ福音書11:25,26
書的結婚観
2025・4・23
◇教会の儀式
ソムリエは約40年間現役の牧師を勤めました。65才で退職し、以後は無給奉仕の牧師として、どこにも所属しない福音派の新しい教会を、2つ目開拓伝道しています。そこで信徒の方々に御断りをしています。聖礼典である洗礼式と聖餐式以外の儀式をしない、と言うことをご承知ください、です。以来、結婚式もお葬式も司式したことがありません。依頼された時は友人の牧師にお願いしています。なぜかと言うと、体力・気力がなくなったからです。余りご理解頂けませんが、これらの儀式は、大変なエネルギーが必要で、司式後寝込むことさえありました。高齢でとても満足いく司式を勤める、気力体力が失せ非良心的なご用はしたくないためです。
と言う事で、儀式の専門的な現場から少し離れ、その本質的な意義について考えます。
◇葬儀観の激変
この20年近くの間に、日本の葬儀観は一変しました。余りに費用の掛かる葬儀社丸儲けの葬儀に疑問を抱いた市民が異議申し立てて、費用を抑えた家族葬が多くなったようです。これから団塊の世代が年間100万人以上の大量死の時代を迎えます。葬儀の問題より、死生観が厳しく問われる時代になりました。ソムリエは沖縄のオリブ山病院理事長田頭真一先生を支援して、真の終末期のスピリチュアルケアの普及に努めています。
◇結婚観の問題
他方結婚式は少子高齢化で、結婚するカップルそのものが少なくなり挙式数も急減です。しかし挙式者の多くがキリスト教式を希望し、ホテルやブライダル産業もそれなりに牧師に協力を依頼しています。そこでソムリエにも知人がお子さんの司式を依頼される方がいますが、先に述べた次第で、友人牧師に声をかけています。友人たちは雇われの儀式屋ではありませんので、必ず「結婚講座」と礼拝出席を約束する方しか引き受けません。挙式後あいさつに見えたカップルが大変喜ばれ、お礼を述べるのですが、「結婚講座」が良かった。結婚の意味がよく分かったと言うのです。
何でもありの現代社会は、結婚観についても親も教師も確たる指針がない。せいぜい人生の先輩として、経験から来る助言をするくらいが関の山なのです。しかし、キリスト教は、と言ってもソムリエの所属する福音派では、「聖書」に基づいた明確な結婚観があり、世の中がどうであれ、変わらない指針を示し続けているのです。案外ご存じないので、「結婚講座」から、抜き書きしご参考に供します。
◇バイブルの結婚観
結婚観のバイブルの典拠はマタイ福音書19:4~6です。「イエスは答えられた。『あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から、「男と女に彼らを創造され」ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。』
(A)まず、結婚は神が創造された男性と女性の特殊な契約関係です。ですから同性同士の結婚はありません。現代の同性婚容認論は採りません。裁判所が「婚姻は両性の合意による」(憲法24条)と明記された法を基に同性婚を認めたが、裁判官の国語能力を疑います。もし同性婚を認めるなら、法の改正をすべきで、現在の法規から語義上逸脱した解釈は採るべきでありません。ですからなおさら神の言葉であるバイブルを人間が勝手に曲解してはならないのです。裁判所は憲法24条2の個人の尊厳と平等から同性婚承認の論拠としました、牽強付会も甚だしい。同性の共同生活上認められるべき諸権利は、結婚制度とは別に考慮されるべきことです。
(B)結婚は、創造者なる神の導きであると言う事です。もちろん愛し合い、好感が持てるから結婚するのであって、それ以外の利害得失の計算や強制はあってはなりません。時々、結婚式の中で牧師が「この結婚に異議ある者は申し出よ」と会衆に問う事があります。ビックリする方もいます。これは単なるセレモニーではなく、強制や脅しによるものでなく、両名の意志のみであることの純粋性を確かめ、それに疑義や異議ある者があれば、その場で式は中断し、牧師が立ち会い異議申立者と両名の話し合いで、真意を確かめます。もし強制や脅迫が認められれば、司式者は結婚式の無効宣言を出して終わるのです。事実レアケースですが、あるのです。
さらに、本人同士の愛があれば十分かと言うと、そうでもないのです。人間の感情ほど当てにならないものはないからです。ソムリエは何度も愛を誓った者同士が、やがて愛が冷め、冷淡になり、さらには憎しみ合う姿に心傷めたことがあります。その時こそ、この結婚は自分たちの意志を超えた、創造者なる神様のお導きによるのであり、一時の感情の変化によって破棄してはならない、と誓約に留まった結果として、そうしてよかったと言うようになった方々もいるのです。
(C)結婚は「父と母を離れ」る事から出発します。自立(自律)した男女の結ぶ聖なる契約なのです。自立は、親への精神的依存からの自立、物事の判断の自立、責任を取る自立、経済的自立・・があります。結婚しても何かあると配偶者に相談せず、実家に相談、慰め、愚痴を受け止めてもらう、母子未分離状態では結婚の資格なし。まして、夫婦間の問題の尻拭いを親にしてもらう、アウト。生活費が親の援助を計算に入れて成り立つ、自立条件に満たない。結婚は自立した成人同士にのみ成立する契約だからです。自立した人間になるまで、結婚は待つべきですね。甘えた人間は後で不幸を結婚生活に招きますよ。結婚しても母子分離不安状態の、未成人カップルのいかに多い事か。
(D)結婚は契約。キリスト教式結婚式のハイライトは、花嫁の父にエスコートされての新婦入場、新郎新婦手に手を取っての退場!?ノーです。「あなたはこの女性(男性)を妻(夫)として、その健やかな時も病める時も変わらぬ愛を誓いますか?」と牧師が両名に問う。これに両名が「ハイ、誓います」と答える、「結婚誓約」が結婚式の中心なのです。多くの人はセレモニーだと軽く思っていますが、そうではないのです。
キリスト教は、旧約、新約聖書とある様に、契約の宗教なのです。縦に神と人との契約、横に人と人との契約で、宗教も人間関係も成り立つと信じるのです。何でもお任せでなく、自分の意志を明確に、自分の責任を告白し、同意する者同士が関係を結ぶ自立した人格間の自由意志に基づく「契約」の世界なのです。人格・人権尊重の社会なのです。ソムリエは結婚記念日を結婚契約更新日と考え、花束を捧げてその徴としています。自動更新にしていると言う方もいますね。もちろん全ての契約には契約破棄の条件が記載されています。結婚ではいわゆる婚姻解消原因と民法でいわれる離婚条件です。もちろんバイブルにも記載されていますが、ここで論じると厖大になり割愛します。
そもそも現代日本社会は、法律や学校教育の建前は個人相互の契約による近代社会ですが、一皮むくと古い古代・中世封建社会の、血縁-地縁社会なのです。大学スポーツ部のボス支配、社内の不正慣行、パワハラ、モラハラ、セクハラ、これらは法律の及ばない、古いムラの掟に支配されている前近代的構造が存続して中〃改まらない。家庭も同様なのです。女性は前近代的な家族関係の息苦しい抑圧から解放されたい。男性は居心地の良い女性抑圧を温存したい。この葛藤が悲劇をもたらせています。血縁・地縁の人間関係から、自立した平等な個人として男女の自由意志を相互に尊重する「契約」関係としての近代的結婚観は、バイブルに淵源があるのです。
人生100年時代、今更夫婦関係を見直すなど面倒だ。一生これで行くんだ、と頑なになっていると厳しいしっぺ返しが待っている事がありますね。牧師としての経験でいえます。かく言うソムリエも、反面教師のような事例から襟を正され、自分の生き方を変えるよう迫られたことが何度もあります。是非今からでも遅くありません。バイブルをあなたのご家庭に持ち込んでください。必ずエデンの園の様な家庭になりますよ。
余談ですが、最近の傾向は、近代化のグローバリゼーションから、ナショナリズムに回帰の世界的潮流です。そうすると前近代的慣習が復活しています。日本も例外ではなく、折角の近代化、個人の尊重、両性の平等と言う素晴らしい法規範が、前近代的な古代的ムラ共同体、中世タテ社会封建制への退行現象が進んでいる様に思います。そうすると抑圧的体制が居心地のいい人たちが、再び大きな顔を効かせ、弱者が泣きを見るようになるのです。妻がキリスト教信仰を持つのを、家の宗旨と違うからと止めさせるような夫が今もいるのですから。それで本当にいいのでしょうか。少なくともイエス様は悲しみ、憤られると思いますよ。
と言う事で結婚して、破綻を迎えた時が「病める時」ですよ。しかもあなたは「その時も変わらない愛を誓った」ではないですか?!と神様に問われるのです。言い逃れせず、自分の非を認め、悔い改め、この誓約に立ち帰る神の愛の注ぎを新たに祈る契約更新の時が夫婦関係の危機の時なのです。
(E)「妻と結ばれ、二人は一体となるべきである」。結婚は夫婦一体の特殊な人間関係の契約なのです。そんな事当たり前だと言うなかれ。日本では親子一体のケースがあまりに多い。結婚しても、親子未分離のまま。夫と義母が密着し、妻を責める。逆もあり。精神的、判断、責任逃れの親依存、経済的な親依存・・結構いますね。そうではなく、どんな困難もたとえ未熟であっても夫婦で助け合い、責任を取る、困難に立ち向かう、この姿勢なくして幸せな家庭は築けません。「ふたりは一体となる」のです。しかし「〇〇家、△△家結婚式場」と掲示した式場が多い。夫婦一体でなく、両家一体なのです。家と家の結婚、結婚は家の存続のためにある、だから妻はよめ(嫁)婚家に従属する女と書く。そう思っている方が今だに実に多い。まさに世界遺産にしたいような前近代的結婚観が実体であり、特に目覚めた女性をどれほど苦しめている事か。そのことに思いの至らない封建時代の遺物的思考に生きる方々の目覚めるのを祈ります。
何を今更牧師さんお説教は結構とおっしゃる方は大変失礼しました。しかし上記のバイブルの結婚観に違う方が多いのも事実です。キリスト教は単に、罪と死からの救いだけではないのです。この人生を生きてゆく際の、結婚観、家庭観、教育観、職業観、死生観等、人生の全体を創造者なる神様が祝福なさる指針を啓示している素晴らしい知恵の宝庫なのです。しかも人間は罪深く、この指針を中々強情で守らず、違反してばかり、そして自業自得の不幸を招いています。神の言葉の前に、こころ砕かれ正直に自己の破綻を認め、悔い改め、神の御子イエス・キリストさまの十字架の贖いによる救いを受け入れる時、罪が赦され、聖霊が宿り神のみ言葉の指針が実現する生き方に変えて下さるのです。ここに救いがあるのです。神様の愛の下に立ち帰るなら、破綻した結婚にも必ず新しい再出発の希望があるのです。
「イエスは答えられた。『あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から、「男と女に彼らを創造され」ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。』マタイ福音書19:4~6
「呪われた部分 有用性の限界」を読む
2025・4・1
◇普遍経済学
“普遍経済学”とは大きく出たものです。“「呪われた部分 有用性の限界」、ジョルジュ・バタイユ、ちくま学芸文庫”を読みました。バタイユ(1899~1962)と言うとフランスのデカダンの作家くらいにしか、読みもしないのに思っていました。この本を読んで現代フランス構造主義に連なる重要な文明論者だと分かり、不明を恥じました。そもそも本書の目指す”普遍経済学“とは、”有用性を価値“とする近代の経済学(いわゆるマル経、近経を問わず)の限界を指摘し、それを近代以前の経済の目指す、”栄誉の価値“を取り戻して、”普遍経済学“として回復せよ、というものだと理解しました。
お互い身に染みて分かる、世界を格差と分断に追い込んだ現代資本主義経済の手詰まり感をどう打破するか。トランプ氏もその独断的解を提示し、単なる学者の机上の論でなく、現実政治・経済の中で断行するものだから、世界的混乱をきたしています。そういう中、人類の経済史を俯瞰してのバタイユのエッセイは傾聴に値し、注目されたのです。本書は体系ではなく、断片や書きたい論文の目次の列挙で、暗示として読むべきでしょう。
◇経済人類学“贈与論”
経済人類学(ポランニー)と言う学問があり、我々が自明のものと思っていた資本主義経済の前には、贈与経済があったと解明。人類学者マリノフスキーは太平洋諸島の島〃の間に交わされるクラ交易を通じ、先史時代の共同体間の贈与の交換こそが、原始の経済だったと説いた。バタイユもこれを詳しく紹介している。但し、バタイユは贈与関係は、互いに負い目を返す互酬性となり、返礼がエスカレートし、究極的には返礼できない額にまで至る。そして、ついには贈与品を破壊して関係終了となった事例をあげた。つまり彼らにとって贈与関係は、“栄誉”を競い合うものであり、終局は贈与品の“蕩尽”に終わったと言う。その巨大な歴史的事例をバタイユはメソアメリカ文明の“インカ帝国”に見る、そこでは王は様々な動植物を供儀として、巨大な石のピラミッド神殿を築きその祭壇に、世界に恩恵をもたらす太陽神が消滅しないように蕩尽としてささげた。元々は最高の供儀として王自身が生贄であったが、やがて他の人間(主に捕虜)を供儀とし殺戮し、その心臓を神にささげた。コルテスがインカの主都アステカを訪れ(1518)、その王宮と神殿の生臭さ、血のりついた階段に恐怖を感じたと言う。そして王や神官にその蕩尽の異常性と野蛮性を説いたと言う。
◇蕩尽論
そこでヨーロッパ古代・中世では、王や教会は、その栄誉を“蕩尽”と言う形で表すにしても、動物・人間を供儀とする袋小路から抜けるため、大浪費として表現するようになった。強大な建築(王宮、大教会堂)、祝祭、儀式、慈善、外交、戦争等である。王も教会も領民や信徒から莫大な富を権力や権威によって収奪する。そしてそれを蕩尽・大浪費する事によって領民や信徒に“栄誉”を表す。だからこれらの“蕩尽”をしない王や教会は、領民・信徒から信任されなかった。
しかし、先史時代にしても古代・中世にしても“栄誉”を求める方法としての“蕩尽”は、そこで経は御破算になり、ゼロからまた富の蓄積が始まり、蕩尽に終わる。何も生みださない無限循環が帰結となった。
◇宗教改革・近代資本主義経済
そこに西ヨーロッパでルター・カルヴァンの「宗教改革」(1517)が起こって、全く新たな経済が始まった。バタイユは世界史の同じ年にコルテスはアステカ帝国の先史時代の蕩尽を、ルターは古代・中世の蕩尽を終わらせた、記念すべき年だと言う。そこから始まるのが近代資本主義であると、バタイユはM.ウエーバーの「プロテタンテイズムの倫理と資本主義の精神」を中々正確に把握して紹介する。無神論者になったとはいえ、カソリック神秘主義を高く評価する、背景を持つフランスの学者にしては、公平なプロテスタント評価だと感心した。すなわち中世の魂の救済権威としてのカソリック教会依存から、近代の神と個人が直面して救済を得るのがルターに始まる宗教改革であります。後継者カルヴァンに至って二重予定説により、神は永遠の昔、救済される者と、そうでない者を予定しており人間はそれをうかがい知ることはできない。そこに起こるのが魂の救済の確信の無さと言う不安である。そこで、ひたすら神の召命である職業(ベルーフ)に勤しむことによってのみ救済の確信を得るとした。召命の目的は“神の栄光”であり、そのため神の求める“隣人愛”の実践としての職業に励む。
この急進的な宗教改革運動は、宮廷とカソリックの歴史の重圧のあるヨーロッパの迫害を逃れ新大陸アメリカにピューリタン(清教徒)とし渡り、花咲かせて今日に至っている。彼らは無駄な栄誉の価値を排し、祝祭はクリスマスまで廃止し、煩瑣な儀礼を嫌い、ひたすら有用性を価値とするプラグマテイズム(実用主義)を発展させた。有名なフランクリンの格言“時は金なり”に表現される様に、時間・富・能力の徹底して無駄を排した管理、経営が生まれた。費用対効果の計算コスパの始まりである。そして勤勉励行で生まれ富は無意味な価値である栄誉を排して、有用性を価値として“投資”されるようになった。要するにそれをして儲かるか儲からないか、である。この循環が元手を投資して利潤を得て、さらに再投資して無限に富の増殖する、現代資本主義となった。マルクスの解明した、G-W-G‘の資本の無限増殖運動である。
その結果は、新しい有用性の価値ある商品を発明・発見し(イノヴェーション)、市場に投じて消費者のニーズに合えば、巨万の利潤を得、それを“蕩尽”せず再投資し雪だるま式に巨万の富を得る、アメリカンドリームを可能にした。しかし21世紀にもなると、一握りの成功者と大部分の一般大衆の経済格差が余りに巨大なり、大きな葛藤が生じ、彼ら負け組はトランプ政権支持層を形成し、ルサンチマン解消策が現在進行中であります。
◇Rich/Rex
バタイユの書で学ぶ事は、現代資本主義の特徴である、資本増殖の無限運動の果てしなさの空しさである。神無き現代資本主義は、ニヒリズムに陥らざるを得ない悪無限循環である。バタイユは“金持ちRichと言う言葉の原語はラテン語のRexだ”と言う。つまり現代の世界の富豪Richは巨万の富を持ちながら、その富をどう使うか目的がない、虚無だ。だから古代。中世の王Rexにならって、王の価値“栄誉”を取り入れて“蕩尽”すべきであると言う。
以前に紹介した哲学のノーベル賞と言われる2022年度バーグルエン哲学・文化賞を受賞した思想家柄谷行人は「力と交換様式」で、現代資本主義に、先史時代経済の交換関係であった“贈与”を復権してその閉塞感を打破せよと説いた。バタイユは古代・中世の“蕩尽”を取り戻した“普遍的経済学”を構築して現代資本主義を乗り越えよと、とソムリエは受け取った。
しかし、現代の政治的Richである専制政治家はその“栄誉”のため、“戦争”と言う“蕩尽”に向かっている。プーチン、ネタニヤフ、金正雲は熱い戦争で多くの人命を“供儀”とし、熱い戦争嫌いのトランプは関税戦争を仕掛け、一挙に1千兆円もの世界の富を“蕩尽”し失わせたではないですか。ソムリエは、その様な人間の“栄誉”の道ではなく、“神の栄光”の現れる“隣人愛と環境愛”のために“蕩尽”する事には大賛成です。今こそ人類は人間の栄誉を求めて、Rich同士が覇権争いして食い合い互いに滅亡する道ではなく、“神の栄光”と“隣人愛と環境愛”を説く、福音書のイエスに立ち返えって、現代のRichたちは贈与、蕩尽を回復して世界の閉塞感を打破すべきではないでしょうか。
「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また自分を愛する用意、あなたの隣人を愛せよ。」ルカ10:27
見るものに注意
2025・4・9
◇騙されないように
“ここにマイ・ナンバー番号を書けと、言ってきてるが、記入していいか?”とこどもに電話すると、”それは騙しだから絶対記入しちゃ、ダメ“と返事。パソコンのメイルが来て、判断に迷って、こどもに叱られ、孫に”じっちゃん、ばっちゃん、人に騙されんように気をつけてよ“、注意される。昔は、年寄りが若い者に、”いいか、世間にはいい人ばかりやない。悪い人間がいるから気をつけよ。今は親切そうな人間が騙すから余計気をつけなきゃあかん“、と教訓を垂れたが、今は年より転がしがいて、若い者に注意される世になった。ひどいもんや。ソムリエの様な高齢者が集まると、愚痴をこぼす。
“鯛は頭から腐る”、と言うが、また同時に“腐っても鯛”、とも言われたもんです。しかし、今は世界の大国のリーダーたちが、欲望を隠そうともせず剝き出しで弱小国を脅す、侵略し、殺戮・強奪。ヤルタ会談2,とかかっこつけて、互いに分け前を勝手に分け合う。昔の山賊か、ヤクザ連中とどこが違うのか。たとえ本心はそうであっても、鯛は鯛らしくお皿に飾り付けそれなりに品格があったのに、今は居直って、これで何が悪いと始末が悪い。
先日、ある方から某元宗教団体の霊的なしかも怖ろしい真相を調べ、気分が悪くなった。だから宗教は怖い、と牧師のソムリエにメイルが来ました。キリスト教の一端を担う者として忸怩たる思いです。しかし、こうも悪が包装紙か、オブラートに包まれず剥き出しに現れる時代は、歴史上時々起こるようです。そう言う時代の心得を考えてみたい。
◇真偽の見極め力
一つは、リテラシー力の向上でしょう。情報の真偽を見極める力をつける、と言う事です。そのためには騙される経験も含めなければいけない。小さいけがを惜しまず、大きなけがを避ける。一切けがを怖れて外出しなければ、交通事故には遭わないけれど、引きこもり状態になってしまう。また最近は室内での事故が多いとか。部屋の中に閉じこもっていても、外界と繋がる限りは騙しの手はあの手この手で部屋にも侵入してきますからね。小さな失敗を怖れず、社会との交流の中で、リテラシー力を身に着ける。
次に、“見て過ぎよ”です。有名なダンテの「神曲」で、地獄のおぞましい姿を見て、恐怖に襲われるダンテに、先達ヴェルギウスが告げた警告です。悪というものは気を付けなければならない魅力がある。人間には怖いもの見たさと言う心理があります。ホラー映画、お化け屋敷程度なら管理されて大丈夫ですが、SNSで何かの法外な利益に誘われこれはヤバイと思いつつも利益の魅力に惹かれ、ある程度関わってもうけたら逃げよう、などと過信しても相手はその道のプロ、一端囲いこんだら蟻地獄、逃げられはしない。また悪に魅入られると言います。悪には妙な興味を持たない方がいい。魅入られますよ。そんなことして世間知らずで、悪の免疫がついてないおぼこい人間ほど騙されやすい、むしろどんどん悪い映像をこどもに見せて悪への免疫をつけるんです、とおっしゃった親御さんがいましたね。どうですかね。ソムリエは本当に悪霊に憑りつかれたような人間に悩まされたことが幾度かあります。よくまあ、これだけ次々意地悪で悪辣なことを考えるな、とつくづく困惑したものです。思わず「主イエスの名によって命じる。悪霊よ出ていけ!」とバイブルにあるように叫んだものです。ですからあらゆる人生経験をしたヴェルギウス先生は、悪は“見て過ぎよ”と忠告していますね。悪はチラツと見て通り過ぎよ、ジット見つめ続ければ魅入られて虜にされるのです。
以上は消極的悪への対処法です。積極的にはどうすればいいか。バイブルに「全て真実な事に、こころを留めよ。」(ピリピ4:8)と記されています。確か東京女子大のモットーだと聞きます。悪や、偽りばかり見聞きしていると、純真な者も染まってしまいます。同じ染まるなら、真実に感化されるべきでしょう。ソムリエは後期高齢の今日まで、実に様々な方々にお会いしてきましたが、多くはごく普通の方々でした。中には先に記したように気色の悪い人間もいました。しかし思い出しても清々しく愛に満ちた方々、人格者というのでしょうね。そう言う人に出会ったことは人生のおおきな宝です。あの方はこんな状況でもこういう風に取り組まれたなあ、と苦難の中での振る舞いに自己のモデルを置きます。
◇本ものに触れる
TV番組に“お宝拝見”があり、美術品のプロの鑑定者が真偽を鑑定し、オープン・ザ・プライスの掛け声で、価格を発表しどきどきするのが楽しい番組です。ブランド品のお店の方に真偽の鑑定の修行を聴いたことがあります。きっと色々偽ブランドを見て目を養うのかと思ったところ、とにかく本物を見て目を養うと言うのです。まず本物ばかりを見て、目が養われば偽ブランドを見ても見抜くことができる。なるほど、人生もそうですよね。おさないころから真実な事に目を向け、耳を傾け、口で繰り返す、これこそ王道の生き方の秘訣でしょう。ソムリエはそのような方々、多くはキリスト者であり、素晴らしい先輩たちに恵まれ感化を受けありがたく思っています。そしてその源であるバイブルのイエス様の生き方を学ぶ事に無上の喜びを感じるものです。現在、日曜聖書集会で、マルコ福音書によりイエスさまの生涯をたどっていますが、メッセージを語らせていただく自分自身が、この歳になっても本物に触れる聖なる感動を味わっています。
「兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」ピリピ4:8
死刑制度と神学的理解
2025・4・2
◇読者からのご質問
バイブル・ソムリエの読者より、色々ご質問を頂きます。ありがたい事です。その趣旨はキリスト教では、こう言う課題をどう考えているか、難しく言うと神学からの意見を聞きたいと言う事です。ソムリエは神学の専門家でもありませんし、キリスト教神学の見解も多様ですから、こうですと断定は難しいことがあります。あくまで一牧師であるソムリエの見解だと言う事を承知の上、ご参考にしてくださるようお願いします。
◇死刑制度の賛否
さてその御質問の一つに、死刑制度に賛成か、反対かというものがありました。最近、袴田巌さんが長年の死刑確定判決を受けながらも控訴し続け、遂に2024年10月再審により、58年もかかって無罪判決を勝ち得た、と冤罪事件がありますね。弟の無罪を信じ支え続けたお姉さんは偉い。冤罪は決して許されるものではありません、まして死刑となれば、執行しておれば、取り返しのつかない事になります。と言う事で、こういうご質問を受けたのだと思います。以下、死刑制度をキリスト教はどう考えるか、もちろん憲法・刑法の立場や、世界の死刑制度の潮流と併せて考えます。ただし、この課題について恐らく膨大な研究と、制度変遷の成果があると思いますが、とても資料にアクセスできる現実にありませんし、能力も時間もありませんので、昔法学部で学んだソムリエの乏しい思索しか述べられません。
◇聖書の判断
まずキリスト教的判断の規範である聖書の、殺人とその刑罰である死刑についての記述を見ます。旧約聖書では、創世記の原人アダムとイブの子どもたちカインとアベルの兄弟殺しの物語が、聖書に出てくる最初の殺人であり、そこに殺されたアベルの復讐の血の叫びが記されています(創世記4章)。罪は裁かれねば正義が成り立たないと言う「応報思想」の萌芽です。
死刑そのものの記述は、まず死刑の前提としての殺人の禁止規定が、紀元13世紀頃のモーセ十戒6条に「あなたは殺してはならない」(出エジプト20:13)とあります。既に聖書の舞台である西アジアのシュメール・アッカド帝国時に「目には目、歯に歯、命には命」(出エジプト21:23~25)と言う前18世紀ハムラビ法典で裁判の規範として「同害報復法」が定められ、殺人には死刑をもって報いると言う規定が登場しております。それが聖書に採用されて、悪への応報が法定化され、また過度の応報の禁止として明文化されていたのです。そこで十戒の殺人禁止は、私的故殺人の禁止であり、法規範による法廷での殺人への判決としての死刑ではないのです。
さらに重要なのは、ダビデ王の姦淫(十戒7条)違反と私的故殺人(6条)の罪は、国家預言者ナタンにより糾弾された。またアハブ王の民間人ナボテの土地略奪は「あなたは盗んではならない」(8条)、「偽証してはならない」(9条)違反として、預言者に裁かれており(列王記上21章)、現代に言う「法の支配」が確立し、王と言えども法には従う、近代法の大原則の源流となっている。ここが中国の「法による支配」、皇帝は法を超越し、人民支配の規範として法を用いる、「法家思想」との相違があります(「法の人類史」フェルナンダ・ピリー、河出書房新社)。神の法(律法)には王も人民も服すのです。
新約聖書では、紀元頃イエス誕生時のヘロデ王の幼児殺害(マタイ2:16~18)、洗礼者ヨハネの死刑への私怨による斬首刑(マルコ6:14~29)と言う権力者の恣意的殺人が批判的に記述されています。その極みがイエスへの暗黒裁判であり(マルコ14:43~15:41)、そのユダヤの高等法院での死刑判決、総督ピラトのローマ死刑執行権行使によるイエスの十字架磔刑は、法的手続き(デユープロセス)においても、法規範適用においても違法なまさに人類史の「暗黒裁判」であり、神学的には本来人間を裁くべき罪なき神の御子が、罪人に裁かれると言う不条理極まりない究極の死刑だったのです。
それは、人の罪を御子が身代わりに負い、刑罰を受けることによって人の罪を赦す神の「贖罪愛」であったのです(ロマ3:23~25)。
さらに原始キリスト教会のヘレニステン(異邦人キリスト者)・ステパノの死刑による最初の殉教死(使徒7章)、黙示録の預言する最後の審判こそ(黙示録20:11~14)、死を願っても死が逃げてゆく恐るべき第二の死刑が記され、許され地上の生の間に救い主の福音を信じるよう勧められています。神の願いは人間が一人も滅びることなく、救われる事だからです(テモテⅠ、2:4)。
結論、聖書は私的故意の殺人を禁じるが、裁判による殺人である死刑制度を禁じてはいない。但し、恣意的権力行使による死刑には批判的、正当な法的手続きによる死刑は承認。もちろんその後の膨大なキリスト教神学の歴史で、様々死刑制度は論じられましたが、ここでは聖書を規範としてのみ論じておきます。
◇世俗史上の死刑制度
次に世俗史上死刑制度の歴史を略記します。
死刑の必要性の思想ですが、そもそも社会悪への裁きによる倫理的・社会的正義の回復として悪への刑罰があります。つまり悪によって毀損された正義の回復です。ヨーロッパの法の2大淵源、ギリシャ・ローマ法ではポリスの正義としての法(ノモス)、ヘブライズムでは神の正義としての律法(トーラー)です。さらに恣意的報復を避けるため、近代刑法の大原則として「罪刑法定主義」・法なければ犯罪なく、犯罪なければ刑罰なし、が設けられています(ロマ4:15)。
また刑罰観としては2つ、旧派(応報刑)と新派(目的刑)があります。「応報刑主義」、法規範を犯した者には応報として刑罰が科せられる。犯罪の責任を個人に置く論です。しかし犯罪を犯さざるを得ない劣悪な環境に問題があり、その様な社会環境を改良し、あるいは犯罪者を良好な環境で教育して、社会復帰させるのが刑罰の目的だとする「教育刑主義」があります。ヨーロッパでは「教育刑主義」の比重が大きく、日本は応報刑主義が強い傾向にありますが、「教育刑主義」も加味した“折衷刑”となっています。
死刑の実定法上の規定は憲法、刑法によります。まず憲法では13条に国民の個人の尊重、また生命の尊重規定があります。但し公共の福祉に反せざる限りと言う条件がつき、公共の福祉に反すれば生命を奪われる、死刑の是認を暗示します。31条では、「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」、いわゆる「適正手続き」デユープロセスによる死刑が明示されています。但し36条に残虐な刑罰の禁止規定があり、死刑は極刑であり残虐であり死刑廃止論の論拠になっていますが、最高裁判例は、死刑執行の人道上の方法としての残虐であり、火あぶり、はりつけ、さらし首、釜うで、等をあげ絞首刑を是認しています。しかし時代により死刑執行方法の残虐性は考慮すべきとされています。憲法に基づいて刑法には極刑として死刑規定があります。
その一方、1989年12月15日に死刑廃止を推進するため自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)が国際連合総会で採択された。2022年時点で、ヨーロッパ、南アメリカ、カナダやオーストラリアなどの112か国で全ての犯罪に対して死刑は廃止されています。また一般犯罪においては死刑を廃止しているが、戦時犯罪行為にのみ死刑を定めている国が9ヶ国あります。ブラジルやイスラエルがそれに当たり、その内5か国がラテンアメリカ諸国です。それは冒頭述べた①冤罪回避の問題、②権力の恣意的行使による弾圧の危険性防止、②教育刑の執行機会の喪失、等があります。
日本では刑法学の重鎮で最高裁長官となった、団藤重光東大刑法学教授の死刑廃止論は専門家の意見だけに傾聴の価値があります。政治家では、鈴木宗男、亀井静香、福島瑞穂諸氏が死刑廃止論です。
さらに死刑を廃止した国家では最高の刑罰を終身刑としますが、受刑者が長い生涯を刑務所に収容されて過ごすことこそ残虐な刑罰禁止に反するし、そのための社会の支払う経費の甚大さをどう考えるかと言う反論も大きい。日本の現状を見ると、死刑廃止の世界的潮流に比べ、最近は殺人鬼(シリアルキラー)等の凶悪な事件もあり被害者や家族の応報意識が、極刑を持って犯罪者に臨んでほしいとの陳述が強くなり、社会で死刑容認が多いのも事実です。
◇結論
結論として神学的には、社会的には法に抵触しない人間でも、神の前には全ての人は罪人であり、裁かれて地獄へ堕とされる。しかしキリストの十字架刑の贖罪を信じる時、全ての人が救われる。イエス磔刑の際、同じ死刑にされた犯罪者が救われイエスと共にパラダイスに行った(ルカ23:39~43)。死刑囚への伝道の道がここにあります。
しかし宗教的救済の次元は、法的死刑とは別次元であす。死刑容認か、廃止かは神学上の問題ではなく、社会の容認、廃止の動向によると言わざるを得ません。ソムリエの個人的見解は、冤罪を避けるため、また個人の責任に帰されにくい犯罪者への教育、更生による社会復帰があり得ます。と同時に殺人鬼の様な人間や、教育・更生の効果の無い確信犯的な殺人者、大量・余りの残虐な殺人者への死刑はあり得る事も理解でき、揺れ動かざるを得ません。牧師としては「教誨師」として犯罪者に奉仕する同僚牧師の人知れないお働きに祈りの支援を続ける以外に在りません。
「からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」ルカ12:4,5
◇究極的回答
最後に死刑制度とは直接関係ないのですが、本質は同じですのでお話します。第二次世界大戦で、ドイツ・ナチスの総統ヒトラーに関してです。当時ドイツの教会はヒトラーに迎合する“ドイツ・キリスト教会”(日本の政府の総力戦に宗教界が協力し、キリスト教会も諸教派が統合し「日本基督教団」を結成したのに似ています。加盟しなかった教団は弾圧されました)を結成しました。しかしヒトラーに抵抗した教職・信徒は“告白教会”を結成し、地下運動を余儀なくされたのです。その代表の一人が、有名なD.ボンフェッファー牧師で、遂にヒトラー暗殺計画に加担し発覚・処刑された事で知られています。悪魔の化身のような独裁者ヒトラーは暗殺以外にない、と言うボンフェッファー牧師の神の前での決断は、余りに重く余人の口のはさみ様がありません。
もう一人の抵抗の勇者として、M.ニーメラー牧師がいます。彼は投獄されながらも生きながらえ、戦後ドイツの教会の良心として一般社会からも高く評価されました。そこで戦後日本の岩波書店が同牧師を招いて、ナチス抵抗運動の講演会を開催。壇上に立った牧師から、人々は抵抗運動の苦闘を聴けると期待。しかし、意外な話だったのです。それは、戦後ニーメラー牧師はある夢を見たと言うのです。最後の審判で、ヒトラーが神の前に引き出され、自己弁明を許された時、自分の犯した恐るべき罪悪を深く懺悔、さらにしかし自分の生前、もし誰かがイエスの福音を語ってくれていたなら、自分はこんな怖ろしい罪を犯さなかっただろうと嘆いたと言う夢だったのです。夢から覚めたニーメラー師は昔、ヒトラーと直接議論した事を思い出したと言う。その時自分はヒトラーの悪行を厳しく責めたが、福音による悔い改めと、イエス様の十字架の愛による救いを語らなかった、と深く反省したと言う講演だった。日本の知識層は期待外れの講演で不満足の様であったと言う。
しかし、ここに死刑制度について通底する本質的課題があります。つまり、死刑制度賛否論の以前に、死刑に当たる罪を犯さないよう福音を語る責任が教会にはあると言う事です。極刑やむなしの悪魔的人間に対してさえ、悪魔的所業を止める力を福音は持っているのです。昔、山室軍平率いる救世軍が宣教した歓楽街で、犯罪率が急減したと言う話を聞いたことがあります。教会の宣教は微力ではあっても、死刑を予防す力があるのです。
「イエスは彼(イエスの傍らに十字架刑にされた犯罪者)に言われた。
『まことにあなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます』」。
潮目の変化を読む
2025・3・26
◇潮目の変化を読む
“潮目の変化を読む”と申します。最近日本近海で魚が獲れず、遠洋に出漁しないと目当ての魚がいない、との事。何らかの理由で、潮流の流れが変わり、そこに棲む魚類も移動したと言う事らしい。世の中の変化も潮目が変わることがあります。その変化を読み取らないと無駄骨、読み取ると益があると言う智恵でしょうね。
◇4つの目
ソムリエは以前、4つの目と言う話をしました。①鳥の目、世の中を鳥瞰する。②虫の目、現場を疎かにしない。③魚の目、潮目の変化を読む。④天眼、神の視点です。 と言うことで、今回は③魚の目の必要性と言う事になります。
◇ヨーロッパの潮目の変化
ことはやはり時代の異端児トランプ米大統領に発します。過日のウクライナのゼレンスキー大統領とトランプ大統領の、異例の激しい口論が全世界に発信され様々な反応が起こりました。ソムリエはじめ日本人の多くは、ゼレンスキー大統領の切羽詰まった気持ちは分かるが、あれは言い過ぎ、もう少し上手にトランプ氏と対応すべきだった大人げない、と言う暢気なものだったようです。
しかしヨーロッパは敏感に反応し、英仏、EU各首脳初め一斉にゼレンスキー氏を支持、機敏に首脳会議を開き120兆円をこえるEUの軍事費支出を決定。EUのフォン・デア・アライエン議長は、欧州は再軍備すると宣言。要するに欧州の米国頼みを米国自身が拒否、欧州は自分で自分を守れ、ウクライナが大切なら欧州で面倒見ろと言う事だ。今回の口論で米国の真意が分かった、もう米国頼みは止める。自分たちで安全保障をやると決心した、と言う事。潮目が変わったのです。
◇アジアの潮目の変化
トランプ氏は、ロシアとの対抗は欧州に任せ、中国との覇権争いに全精力を注入するらしい。これはアジアの民主主義国家に都合がいい、などと思っていない。韓国にも日本にも軍事費支出を増額、駐留米軍基地負担費用増額を要求。さらには日米安保条約は米国不利の非対称条約・不平等条約だと切り込んでくる。嫌なら韓国からも日本からも米軍は引き上げるぞと脅す。我々からすれば、どの口が言うか、1951年日本独立のサンフランシスコ平和条約は日米安保条約とセットで無理やり承認させられたんじゃないか。朝鮮戦争の時、ベトナム戦争の時、日本の米軍基地から米軍は出兵し、爆撃機は飛んで行った。アメリカの世界戦略のアジアのベースにしたではないか。何のための基地反対闘争への弾圧だったのか。安保反対運動への弾圧だったのか。アメリカはこの様な日米安保条約の厳しい歴史を忘れ勝手な事を言う、と憤慨するが米国民の多くは、日本の安全保障ただ乗り、フリー・ライダー論らしい。要するに日本も韓国も、裕福なんだから中国・北朝鮮・ロシアの脅威に対抗するため、自国の安全は自分で守れ、米国は手を引く、と基本姿勢は欧州と同じ対応だと言う事です。潮目が変わった。欧州ほど急激でないが、東北アジアの潮目も徐々に変わりつつある。
◇潮目変化の深層
この米国の変節はどこに原因があるのか?もちろん米国の威信低下に一因がある。ベルリンの壁崩壊後独り勝ちであった米国は、いつのまにか中国、インド、BRICSはじめグローバルサウスの台頭により、相対的に覇権の力が低下、経済力・軍事力のハードパワーも、文化・情報の発信力のソフトパワーも減衰。その理念、民主主義、法の支配、人権尊重の世界的拡大と言うミッション・ステイトも強権主義国家に押されっぱなし。ここに登場したトランプ氏の劇的な方針転換が始まった。米国は全てから手を引く。自分の国に専念する。アメリカ・ファースト!、MAGAアメリカを再び偉大に!である。しかし、ソムリエはもっと別の米国社会の深層に理由があると思う。それはこの政権を支持する福音派の右翼、根本主義(原理主義)キリスト教であり、さらに彼らと親和性の強いユダヤ教、イスラエル・ロビーである。
彼らのイデオローグの一人、米国保守層ネオコンの代表的知識人でユダヤ系政治学者のヨラム・ハゾニーは著書「ナショナリズムの美徳」で、ユダヤ国家は旧約聖書時代から“国民国家”であった。すなわちユダヤ教と言う宗教的民族的同一性、神がユダヤの国境を定め領土を確立した。これは同一民族・同一国家の“国民国家”である。
しかし古代西アジアは帝国の覇権争いを続け国境はなく、隙あらば領土を拡大しようとしており、ヘゲモニー・バトルの戦場であった。古代アッシリア、バビロニア、ヒッタイト、エジプト、ペルシャの諸帝国が入り乱れて覇権を争い、小国イスラエルはBC721アッシリア、BC586バビロニアにより亡国の憂き目にあい、遂に宗教国家として世俗帝国支配下に生きざるを得なくなった。やがて地中海世界と西アジアを支配したローマ帝国下にユダヤ教国家として生き延びていたが、遂にローマに反乱を起こし、AD70完膚なきまでに滅亡、世界中に民族は散らされ、各地に宗教コミュニテイ(ゲットー)を形成して生き延びた。苦節2千年、ついに1948年シオニズム運動が実を結び、イスラエル国家がパレスチナに出現。なぜ現住民を追い出し、離散のユダヤ人が住む権利があるのか。世俗的国際関係の力学以外に、先に述べた神がイスラエルに与えた領土の約束が旧約聖書に記載されている。彼らにとっては聖書は時効切れの古い証文ではなく、永遠に有効な神との契約なのです。
一民族一国家の“国民国家”は、ヨーロッパ宗教戦後の1648“ウエストファリア条約”によって確立した近代国家観ですが、既にイスラエルは旧約時代に持っていたのです。ハゾニーはだからユダヤは、グローバリズムを認めない、国民国家を超えた世界的組織に反対。もちろん帝国に反対、国連にも反対。また旧約聖書の神は選民イスラエルが異邦・異教国家と同盟するのも嫌いなのです。トランプ氏はEUにも、日米同盟にも、TPPにも反対,懐疑的、すべてバイのデイール(取引)好き。この様な宗教思想をバックに、“グローバリズムからナショナリズム”これがユダヤと彼らの影響を受けた根本主義キリスト教徒の主張です。ソムリエも若い頃、宣教師が盛んに国連は悪魔の組織、全人類が一致して神に反抗するバベルの塔建設の現代版だと聞かされ、日本人の国連崇拝の常識からして理解に苦しんだものです。しかしその連中が今やトランプ政権の中枢であり、強力な支持層なのです。良いの悪いのではない。こういう宗教的背景を理解しないと世界の潮流の変化は読めないと言っているのです。
◇米国批判
もちろん、ソムリエは聖書の神学からこの立場を批判します。ユダヤ民族は神の選民でその領地は神が与えられたイスラエル国家であり、これをキリスト教徒も守り支持すべきと言うのは、旧約聖書の立場なのです。新約聖書の立場は、もはやユダヤ人も異邦人もない、キリストを信じる者は皆救われる(ロマ10:12,13)。われわれの国籍は天にあり(ピリピ3:20)、地上のエルサレムでなく天のイスラエルこそわれらの故郷である。そこを目指して全人類にイエスの十字架に現わされた神の愛の福音を宣べ伝え、神と隣人と環境を愛して仕えながら天のふるさと(ヘブル11:16)めざし、地上を旅するのがキリスト者である、と信じるのです。
◇日本の潮目変化への対応
さて現実に戻って、日本はこの潮目の変化にどう対応するべきか。いやトランプ政権は4年間、その後はまたグローバリズムの民主党に戻る。右に左に大きく振幅しながらバランスをとるのがアメリカだと言う達観もあります。しかし、いやこれは逆戻りできない歴史の必然だと言う人もいます。歴史の俯瞰はさておいて、現実的には何が問題か?
一つには自国の安全保障があります。関税撤廃のグローバリズムの自由貿易から、関税障壁を武器とするナショナリズムの時代への潮目の変化となると、いわゆる“比較優位論”による、世界の安価な商品を輸入できるメリットが減少する。少々高くなっても食料・エネルギーの基本的経済安保にシフトすべき、自給自足経済へ。特に農業の自給率向上は必須でしょう。また電力・化石燃料の海外依存脱却も待ったなし。
さらに軍事的安全保障が日米安保と言う大前提が危うくなる、潮目の激変とすると、EU30カ国は結束して軍事費を出し合ってロシアに対抗できます。しかし、日本一国で中国・北朝鮮・ロシアの軍事国家とどうして対抗できますか。すでに作家で議員の猪瀬直樹氏が国会で、自著「昭和16年夏の敗戦」を基に戦前の国家予算の大半を占めた軍事費が敗戦をもたらせた。現代は膨大な福祉費が国家を滅ぼす。福祉費削減をと訴え、石破首相も傾聴しますとの事。来ますよ、福祉国家から軍事国家へ、欧米では”Welfare Nation to Warfare Nation”と呼ばれています。年金、医療、介護、生活保護の福祉費は削減され、軍事費の比率は高まるでしょうね。日本はやっと2%へとシフトしたのに、米国は3%を要求しています。
しかしよく考えて下さい。EUは30余りもの多数の加盟国分担でロシア対抗の軍事費を賄えますが、日本はとてもとても無理。ある程度はやむを得ないが、軍事費増強は相手の軍事費増強をきたし、日本右翼のイデオローグ桜井よし子氏は軍事費18兆円でも足りないと説く、それへの疑心暗鬼の悪循環は、恐らく日本財政破綻で終わります。日本は発想を変え、東北アジアの「平和構築」構想を打ち出さないと国家破産ですよ。外交、ODA支出等のソフトパワーの強化を軍事力強化のハードパワー以上に力点を置く、世界の潮目変化に対応する日本のスマートパワー力が試される時です。
そこで重要なのが現憲法改正から現憲法の国際的PRです。国民の憲法改正やむなしの世論調査結果ですが、こういう世界の軍事力強化への危機感の表れだと思います。しかし、平和憲法あればこそ、かつて侵略したアジア諸国は、戦後80年間も安心して付き合ってくれたのですよ。それが普通の国になって軍備強化の憲法に改悪してごらんなさい。表面的には対中軍事力として容認するでしょうが、内心は警戒しますよ。日本軍国主義の復活か?と。また核武装の論も益々声高になるでしょう。しかし、核抑止論はウクライナ戦争でプーチンの言動で破綻しました。今こそ「平和憲法」の世界的PR,非核三原則の国是の維持、日米安保の見直しを、潮目変化を好機としてアジアと世界の信頼を勝ち得て、その間に世界の中で日本の生きる道を模索、確立すべきチャンスとしたい。
「平和を作り出す人は幸いである。彼らは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9
100年、80年、30年
2025・3・19
◇100年、80年、30年
今年は昭和100年、戦後80年、阪神淡路大震災後30年となります。1月15日のブログに“あれから30年”と言う大震災の思い出を書きましたので、今月はその拡大版です。昨年は明治150年の年と呼ばれ、明治維新以来の日本近代化の歩みが回顧されました。こういう大きいスパンで歴史を眺めてみると、日々目前の出来事に一喜一憂するだけでなく、時代の大きな変化にどう先人たちが対処したかが分かり、参考になるものです。
◇昭和100年
まず昭和100年ですが、これは戦後80年と言う時代の区切り方と比較すると分かります。昭和100年は戦前の20年と言うか、敗戦までの20年の歴史を取り入れていると言う事です。結局昭和史の初め20年は軍部が覇権を握り国家を破滅に至らせた歴史でしょう。もちろん最近は世界的な右傾化の影響で、歴史修正主義が起こり、この様な負の歴史を自虐史観として退け、むしろ民族意識の発意高揚時代と評価しようとしています。しかし、国民の多くは「平和憲法」を基として今後の日本の歩むべき道の禁じ手として考えつつも、近隣の好戦的諸国家に取り囲まれ、あるいはトランプ大統領の自国は自ら守れ、アメリカの庇護にただ乗りするな、と二重の圧力を前にさて軍備増強をどうしたものかと思いあぐねているのではないでしょうか。いずれにしても昭和史の初め20年は重いです。
◇戦後80年
それに対して、1945年に始まる戦後80年と言う見方は、スッパリと憂鬱な戦前を切り離し、敗戦の廃墟の下から、食うや食わずの日々から歯を食いしばって国家社会を復興再建し、その勢いが止まらず、いつの間にかジャパンNO1とまで言われるようになり、面はゆいが結構自尊心を回復した、ある意味明るい気分の時代回顧だと思います。1965年「経済白書」でもはや戦後ではない、を合言葉に所得倍増、高度経済成長、日本列島改造論と景気のいいキャッチフレーズに踊り、バブルに酔いしれたものです。しかし、そう甘い事はありません。1989年アメリカのシンボルNYのロックフェラービルを日本企業が手に入れた辺りから、戦後日本を占領しながらも庇護してきたアメリカの顔色が変わりました。戦前日独伊三国同盟ファシズム専制国家の一員であった日本を、英米アングロサクソンを中心とした自由主義・共産主義連合軍は強大な経済力軍事力で、徹底的に破壊しました。敗戦後の日本を米国は“勝者の寛容”で、寛大に処遇しましたが、日本が復興しさらに米国に挑戦するまでに成長したころから風向きが変わったのです。戦後は1991年、共産主義体制の挑戦を自由主義アングロサクソンは打ち負かし、子飼いの同じ自由主義陣営の日本の台頭に危機感をいだき、1989年日米経済協議が始まり、徹底的に日本経済を骨抜きにしたのです。経済最優先のコンピュータ付ブルドーザと言われた田中角栄首相失脚の陰謀はその象徴でしょう。鉄鋼、造船、電機・電子・・軒並み日本産業の屋台骨を骨抜きにし、日本産業衰退がはじまり今日に至ります。日本は2度アメリカとの戦いに負けたと言われます。一度は1945年第二次大戦の軍事的敗北、二度目は1990年以来の高度経済成長の崩壊と言う経済戦の敗北です。いわゆる失われた30年の続編が今も続いています。もちろん2013年以来のひと時アベノミクに湧きましたが、しょせん株価上昇内閣で、バーチャル経済(仮想現実経済)の空元気であって、リアル経済(実体・実物経済)はGDPほぼ横ばいが続き成長は止まっています。アベノミクスのカンフル注射の効果が醒めてみれば天文学的国債発行額に目もくらむ状態です。しかも少子高齢化で特に高齢者の社会福祉の国家予算に占める割合は半分近くになり、長期財政再建策が急務です。名著“昭和16年夏の敗戦”の作家で議員の猪瀬直樹氏は、国会で戦前は軍事費が、現代は福祉費が国家を破綻に追いやる、福祉を削減せよと迫り、トランプ政権は軍事費を2から3%に引き上げよと迫る。四面楚歌の日本、どうする?
◇失われた30年
ここで国家予算に占める歳出の割合と、国家のエリートである官僚の関係を眺めます。昭和20年までは軍事費が突出、軍事国家で軍部が威張っていました。文官たちは忍従せざるを得なかったのです。敗戦の廃墟と言うゼロあるいはマイナス・スタートの戦後80年史は、1945年敗戦で軍事官僚が退き、代わって国家再建に取り組んだ経済産業省を中心とする文官たちは、軍事でなく経済戦で失地回復をはかり、経済関係予算が突出し見事に経済復興に成功しました。1945~‘50敗戦復興の公共事業費、’60~‘80年代高度成長期・バブル経済期、産業立国強化費です。しかし先に述べた様に、世界の覇権国家米国ににらまれ2度の敗戦を喫した。軍事戦と経済戦に敗れ失われた30年、1989~バブル崩壊、の現代はいまや永久敗北論の自信喪失感が官僚に漂っています。そして現在は主に高齢者への社会福祉費が予算の半分を占め、福祉国家となり厚生官僚の時代になっています。
また不思議な事に自然災害も昭和100年史には重なるのです。敗戦ま近い昭和19年には、戦時下で報道管制が敷かれましたが、甚大な東南海地震に見舞われていました。しかし奇跡的にも戦後復興期、高度成長期はほとんど巨大災害はなかったのです。しかし失われた30年は、まさに30年前の阪神淡路大震災いらい、東北大震災・津波被害、熊本地震、能登半島地震とまさに日本列島は自然災害時代に突入、来るべき東南海大震災に身構えている時です。まさに社会も自然も踏んだり蹴ったりの状況のただなかにあると言わざるを得ません。
◇身の処し方
そう言う中、日本を取り巻く世界情勢は緊迫を増し、2022年ウクライナや2024年中東ガザでは理不尽な戦争が勃発。日本近隣の北朝鮮、中国、ロシアの軍事的脅威が増大し、同じ民主主義国の韓国は大統領弾劾の政情不安定、台湾は中国の脅威にさらされています。さらに今年は同盟国米国のトランプ新大統領は、何をしでかすか分からない予測不能性です。
こういう状況に日本はどう身を処すべきでしょうか。
使徒パウロは「私は富におる道も、貧に処する道も心得ている」とおっしゃった。
この主体的自由・自在・柔軟性に学びたいものです。禅でも“随処に主となる”と言うそうです。硬直した見方は身の処し方を誤ります。自己のよりどころを見失わず、同時に状況の変化に柔軟に対応しつつ身を処していく。恩師、故藤林邦夫京都福音教会牧師はよく“水は方円の器に従う”と言われた。本質は変わらないが、状況に応じた在り方が自在にできる事でしょうね。
古い話になりますが、昨年の自民党総裁選にたくさんの立候補者がでて所信を述べたことがあります。その時感心したのが、官房長官の林芳正氏の所信でした。氏によると政治の目指すところは“ウエル・ビーイング”です。為政者の持つべき心は“仁”だと思います。政治姿勢は“楕円思考”で行きます、でした。さすが自民党保守本流,旧宏池会のクリスチャン宰相大平正芳氏の流れを汲む政治家ではある。ソムリエの思いとピッタリでした。惜しむらくは林芳正氏にはパッションが感じられない、冷静に過ぎる。現首相のクリスチャン政治家石破茂氏は、目を据えてねちねちと反論の余地がない迄まで論じ、熱量があるが林氏の様な政治の全体像が分からない。そこでいい線行きながらも欠けある、この二人が相互を補いつつ組んでこの難局を乗り越えてほしいものです。
「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」 ピリピ4章12節
「大乗仏教」佐々木閑、を読む
2025・3・1
◇仏教の多様性
ソムリエはキリスト教徒ですが、仏教には共感と敬意と共に、疑義ももって接してきました。最近紹介しましたフランス人仏教学者ジャン・ノエル・ロベールの「仏教の歴史」(講談社選書メチエ)と言う著作は、彼の天才的語学力で大蔵経を原語で読破した、仏典の総合的研究に基づき、仏教を総合的に論じたもので、大変有益でした(このブログ“「仏教の歴史」を読む”、2024・6・12,参考のため、後段に転載します。佐々木師の著作と合わせ読み、仏教理解がさらに深められます。)。ロベール氏によると、前5世紀、インドのブッダに始まる仏教は、南伝し前3世紀スリランカに、東伝し11世紀タイ、ラオス、ビルマ、ミャンマーに、さらに北伝しチベット・敦煌・中国・韓半島・日本に、と伝わって行った。南伝・東伝仏教は、出家の上座部仏教となり全仏教経典が各地の言語に翻訳されて伝わった。北伝仏教は、7世紀チベットに密教が、俗人を含む在家救済の東伝仏教(大衆部、大乗仏教)は一端西伝しガンダーラに至り、ヘレニズムと接触しターンして北伝、楼蘭・さらに敦煌経由・1世紀中国にはインドからの経典が逐次持ちこまれ漢訳され、それぞれの経典に基づく宗派が生まれ、4世紀韓半島・6世紀日本に持ち込まれた、いわゆる大乗仏教である、と言う。
ですから氏によると、ブッダの説いた出家者のための原始仏教は、南伝・東伝仏教では受け継がれ、またその後発展した全経典が大蔵経としても伝えられている。しかし北伝仏教は、経典が逐次伝えられそれぞれを根本経典とする宗派に別れ、説くところが異なり、仏教と一括りにはできない。各宗派ごとの仏教があるとしかい言いようがない、仏教はブッダに始まる大きな潮流である、と言う。
ソムリエは納得しましたね。キリスト教は2千年の歴史があって、それこそ教派はたくさんあるが、典拠となる聖書は共通し(正典)、教義も大筋は共通しています。しかし部外者から見て仏教は掴みどころがない、つまり宗派によって説くところが全く違い、しかも夫々が我が仏尊しで、他を誹謗し譲らない。そうか、それは我が国に仏典が揃って伝わらず、典拠となる経典のことなる宗派ごとに伝わってこうなった、と言う事だと。
◇「大乗仏教」佐々木閑
さて、こうなると益々仏教とは何か、分からなくなっていた時、「大乗仏教」(佐々木閑花園大教授、NHK出版)が出版され、光明を得た思いです。佐々木教授は京大工学部工業化学科出身で、同じく京大で印度哲学を専攻。科学の洗礼を受けて文理に通じる現代稀有な仏教者で、しかも語学力に恵まれ経典を原典で読み込んだ碩学です。しかもともすれば、宗門学者の偏った自宗こそ仏教の神髄であり、他宗をけなす偏狭さを脱却し、全仏教をメタ認知俯瞰した、壮大な研究成果をまとめた佐々木師の労作に感謝を捧げます。
ソムリエが仏教者と話しても、自宗しか知らない偏狭な信徒がほとんどで、是非仏教徒がお読みになって自宗の立ち位置を自覚願いたい。またこの書は仏教に関心を持つ一般青年と佐々木教授との会話形式で、難しい話がソムリエのような素人にも分かり易くかみ砕かれありがたいです。
さらに振り返って日本のキリスト教徒も生噛りの仏教批判などせずに、こう言う本格的な仏教研究の成果に絶えず耳を傾ける誠実さが必要です。独りよがりはよろしくない。
師の論は各宗派の教義を説き、しかも仏教各宗派の展開の歴史をたどっています。ブッダの説いた原始仏教は人生につきものの苦(生老病死)の解脱を、出家して修行する事によって涅槃の境地に至る教えと実践でした。神を持ち出さない誠に理性的な実存分析と解脱への道筋を説き、何か非合理で超越的なものを信じる事ではない。現代の非宗教的社会の心理的葛藤を、マインドフルネスで解消する方法に似て、現代に通用するものがあります。
しかしその後インドは未曽有の歴史的苦難に遭遇し、仕事や家庭を捨て出家して修行するゆとりを失い、しかも民衆の苦悩は増し、生きるのが精いっぱいの一般人が仕事や家庭を持ちながら、難しい修行(自力)ではなくもっと簡便に救いを得るパワー(他力)を求める様になった。それが在家(世俗の生活者、職業・家庭を持つ信徒)の救済をはかる大乗仏教だと言う。
それが逐次日本に伝えられた。まず救済力パワーが廬舎那仏にあるとして大仏を建立し、鎮護国家の守り神とした国家エリート層のための8世紀奈良仏教。さらに9世紀平安仏教では仏教の最終形密教をもたらし、大日如来から加持祈祷によるパワーを身に受けて即身成仏を説く、天台宗の最澄、真言宗空海が起こる。さらに12世紀鎌倉時代では武士が起こり殺伐とした社会に、民衆救済の宗教改革を興した鎌倉仏教各宗派が誕生。救済力パワーは経典である法華経自身にあり、南無妙法蓮華経とお題目を唱えれば、世俗の功徳も得られるとした日蓮宗。いや只管打座、ひたすら座禅で解脱しパワーを得て、戦国乱世の時代を生きよと説き武家に支持された曹洞宗の道元。また平安末期~鎌倉時代の終末の様相を示す末法時代には、凡夫は阿弥陀の救済の本願パワーを信じ、南無阿弥陀仏と唱え救われると説く、法然・親鸞の浄土(真宗)宗が起こり、ほぼ現代日本の仏教宗派が出そろったのです。
◇加上の説
佐々木師の見立て。「ブッダの説いた仏教」とその後の展開の「大乗仏教」は全く異なる宗教だ。本の表紙に、“こうしてブッダの教えは変容した。釈迦の説いた”自己鍛錬“のための仏教は、いつ、どこで、なぜ、どのようにして、”衆生救済“を目的とする大乗仏教に変わっていったのか”と記されている通りです。ブッダ以後の天才的宗教者が、ブッダと異なる教えを、“如是我聞”ブッダはこう説いたと書いた経典を次々世に問い、仏教は何でもありの宗教になった。
もちろんどれが真の仏教か判別する、「教相判釈」が各宗派でなされたが、現在の厳密な仏教研究では到底支持されない。むしろ江戸時代の難波の天才的町人学者、富永仲基(1715~1746)の「加上の説」がもっともな考えである。すなわち、ブッダの説の上に次々と、全く異なる説でも仏説として上へ上へと加えられたのが仏教だと言う。玉ねぎの皮をむく様に大蔵経と言う全仏典を、近代資料文献学で成立年代別に遡ると、仏教諸宗派の説はブッダの説いた処とは似て非なるものである。すなわち富永の言う「大乗非仏説」となる。キリストのみ救済の真理と説く福音派キリスト教徒のソムリエから見ると、何たるだらしなさかと思います。
しかし、佐々木師は、確かに諸宗派の違いを見ればそうだが、しかし悩める人が、それぞれの仏教各宗派を修行したり、信じて、こころに平安が得られたら、それはそれで貢献してきたのだから良いではないか、とおっしゃる。宗教的真理問題ではなく、宗教的効用の有無ですね。学者さんにそう開き直られると返す言葉がない。
◇佐々木師の仏教批判と将来
何でもありに開き直ったように思える佐々木師は、また同時に日本仏教の問題も説かれる。仏教のエッセンスは聖徳太子の示した十七条憲法の「篤く三宝を敬え」にあります。仏法僧です。ブッダ(覚者)と、ダルマ(仏法)、サンガ(出家集団)です。日本仏教は、在家信者中心の大乗仏教であったため、サンガが存在しない。サンガの中心は出家者の守るべき「律、規範」です。ブッダのサンガは、仕事も家庭も捨てて、出家者の共同体で修行生活をもっぱらとする。ですから肉食妻帯で、労働もする日本の仏教は、いわゆる小乗仏教(原始仏教、上座部仏教)から見れば、堕落そのものですよ。ソムリエは昔タイでお寺を訪ね、黄色い僧衣をまとった仏僧と色々お話し、日本仏教との違いを痛感しました。
そもそも佐々木師の著作のタイトル「大乗仏教」そのものが、上座部仏教を小乗と蔑視するところから来る差別用語で、学会では通用しないと言われます。また日本以外の仏教徒から見ると日本仏教は出家者の修行のための規範である「律」不在の、肉食妻帯労働、さらに教義も山川草木悉皆成仏のアニミズムで、堕落の極みで呆れられるでしょう。佐々木師の日本仏教ガラパゴス化のセンスを疑います。宗教は真理論が命で、効用論では人生を掛けるに価しません。
余談ですがソムリエは、日本社会に根本規範が無いのは、仏教に「律=規範」がないからだと思います。ここに空気が支配し、その時々の無責任な同調圧力に流されやすい日本社会の根本問題があります。
そこで佐々木師は日本に「サンガ」を取り戻し、真にブッダの解脱を求め、あるいは悩める人々を受け入れる共同体を作れと言う。ここに日本仏教再生の道があると言う。
また佐々木師は科学者として、仏教の前提とする古代インドの思想、輪廻転生・業(カルマ)、浄土などは現代科学からは受け入れがたい。そこで非科学的な仏教が生き残るためには「こころ教」の教えにするしか道はない。そもそも現代仏教は、ブッダの教説から外れて何でもありの「加上の説」が、大乗仏教だとすれば、将来もどうなるか分からない。仏教の発祥地インドでは、その後仏教はヒンズー教に飲み込まれ消滅し、最近少し復活している様です。佐々木師は、仏教は今後「こころ教」と「原理主義」に分かれるだろうと、予測する。客観性・実証性を重視する科学に仏教は耐えないが、“こころの平安”なら生き残れる。また頑なに自己の宗派に盲信固執する「原理主義」は、一定程度支持者は存続するだろう、と言う。ソムリエの予測ではインドでヒンズー教に仏教は飲み込まれた様に、「こころ教」では別に仏教でもなくてもいいのでやがて消滅する。後は観光寺でしょうね。むしろ宗教としては「原理主義」が残る、と思います。
◇他山の石
他人ごとではありません。実はこれはキリスト教でも同様です。いわゆるリベラル神学は聖書の歴史性を否定し、物語と見ます。原理主義神学・福音主義神学は、歴史的史実に神の啓示を見ます。これは解釈を拒む客観的真理・エビデンスです。かくして「こころ教」リベラル派の物語解釈は何でもありになり、訳が分からなくなり、消滅しますよ。しかし歴史性に固執する原理主義は、解釈に解消されない固有性があり、認めるか拒むか決断を迫られます。一定の追従者は必ずいます。2000年前のイエス・キリストの十字架死・葬り・復活は単なる物語ではなく、史実であると資料をあげ、証言を揃え、実証し、さらにその出来事が人間の罪の贖罪であり、復活は死への勝利であると説くのです。人は、受け入れるか拒むか、いずれかでしょう。現在世界のキリスト教で最も活性化しているのは福音派で、リベラル派ではありません。しかし仏教リベラル派は、歴史性を説かないので、他の魅力ある思想が出ると吸収解消されますよ。他事ながら心配します。
第二に、仏教ではブッダの仏教は出家主義で、人間の問題を個人に還元し、社会の問題を見ない傾向があり、大乗仏教も社会の問題解決は別にして、こころの平安を得て生きる事をめざし、社会を変えようとはしない傾向がある。聖徳太子のいう“世間虚仮、唯仏是真”ですね。しかしご存じのようにユダヤ・キリスト教の創造論・メシア思想は、近代科学革命、近代市民革命、近代資本主義経済を生み、人類史の「第二次枢軸時代」を興し社会変革・革命を起し、今も地球規模に展開中です。近代化はキリスト教文明から興り、仏教・儒教文明からは発生していません。キリスト教起源の近代科学、近代民主政治、近代資本主義経済、抜きに現代世界は語れませんし、将来もそうです。キリスト教は世界に責任を持つのです。それは地球環境危機にも「スチュワードシップ(管理者責任)神学」により、神への地球環境管理を委託された人間の「説明責任」として、現代の人間のあり方の指針となっています。環境倫理、生命倫理、、宇宙倫理、情報倫理にキリスト教は積極的に発言しています。これらは仏教からはほとんど発言がないのです。我々日本福音派キリスト教徒は、少数派ではありますが、地の塩としてこの日本の霊的・精神的・社会的救済に大きなポテンシャル・エネルギーを秘めていると、本書を通して、改めて感じた次第です。
「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世の光です。」マタイ5:13,14
震災より怖いもの
2025・2・26
◇震災より怖いもの
何だかシリーズのようになりましたが、初めから意図したものではありません。「あれから30年」「100年、80年、30年」ブログ記事の期せずして続々編になります。タイトルの「震災より怖いもの」とはいったい何か?
1995年1月17日5時46分52秒に激震が走った。そう30年前の阪神淡路大震災は直接の体験者として、トラウマが深くこころに刻まれており、日頃は全く忘れた様に生活していますが、先月の様に記念日のTV番組が当時の生々しい映像を放映するのを見ると、グツと内側から感情がこみ上げて来て自制するのが難しい事があります。確かに大変でしたし、よくここまで立ち直れたものだと、助けて頂いた全国の方々に感謝の思いでいっぱいです。
しかし、時系列でいうと1月17日の震災後の厳しい対応のま最中の、3月20日関東で起こった“オウム真理教による地下鉄サリン事件”が発生。東京地下鉄での猛毒サリン散布の犯人が、宗教団体だったと言う報道に、大変な衝撃を受けました。牧師のソムリエにとっては、その後の展開を見るとこちらの方が、あえて誤解を恐れずに言えば、震災よりはるかに怖ろしいものでしたし、今もそうです。
なぜかと言うに、震災はいわば天災で人間ではどうしようもない出来事です。せめて予知を早めて、早期に避難する。また防災に務め、また発生した時の対応を充分にして少しでも被害を最小限にとめる、対策が必要なのは言うまでもありません。石破首相の「防災庁創設」の意義はとても大切だと思います。それに対して、“オウムによるサリン散布事件”はまさに人災ですし、しかも本来人の魂の救済を図るべき宗教が殺人を計画、実行するとは何という事か。キリスト教と言う宗教に携わる者の一人として、理解に苦しみ、その真相が徐々に明らかになるにつれ、衝撃は大きく、また深いものでした。そしてその対策は信教の自由を保障する憲法の制約下、外面的な法整備は進んでも、本質論は論じられないでうやむやにされて放置。ソムリエには問題はさらに深刻化していると思えてならないのです。以下いくつか思いつくままソムリエの問題意識を掘り越してみます。
◇オウムの地下鉄サリン事件の残した問題
まず第一に真理問題です。ポア(チベット語で正しくはポワ、転移の意、慈悲のため、他者を殺害して、極楽浄土へ魂を転移させること)と言う、人を殺すのも慈悲である、と言うチベット密教の教えがあると言う事です(「虹の階梯」中沢新一、平河出版)。もちろん本来は生身の人を殺すと言う事ではなく、解脱を妨げるものを排除すると言う意味でしょうが、教えに反対する者を殺してやるのが慈悲だと強弁する隙がこの教えにありますね。同じ年、高野山金剛峰寺でキリスト教関係者の宗教研修がありソムリエも参加。真言宗の高僧と話す機会があり、この点を問いただした時、言下に“常識、常識、常識から外れたらいかん!”と声を荒らげ退けられました。しかし、常識で救済されないから宗教があるのではないか。その宗教が常識以下では、何という下等な教えかと憤慨したものです。宗教の教えの真理性が問われます。「木は実によって見分けられる。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」マタイ7:16,17
第二、オウムの集団は、高い教育を受けた者が多かったと言う事です。しかも自然科学・技術系の専門家や、病み死におののく命を救うべき医師までいたことは大きな衝撃でした。戦後教育はいったい何を生みだしたのか。彼らの多くは、割合良い環境に育ち、高い知的能力を生かし最高の教育を受け、それぞれに社会の第一線で活躍していた。しかしそこにも何か物足りなさを覚えている時、チベット仏教の影響を受けた「オウム真理教」教祖麻原 彰晃に出会い、尊師と崇め、その霊的ステージの高さに魅了され、解脱めざして激しい修行をしたようです。時代背景に、ユング心理学やマズローの影響を受けた、科学の果てに霊的世界を求めるトランス・パーソナル心理学が流行した影響があると思います。戦後アメリカも一部知識層は伝統的キリスト教から離れ、昔は鈴木大拙の“禅”に魂の空白を埋めようと求め、またベトナム戦争後は、若者は既成価値から離れヒッピ―を目指し、1989年ノーベル平和賞受賞の、チベット仏教のダライラマ14世が中国共産党の迫害を逃れ、米国に渡り布教した影響で、チベット仏教が流行、霊性と科学が融合したニューエイジ(サイエンス)運動でした。日本でもその影響があったのです。科学と宗教(霊性)の問題は今も解決していません。
しかしアメリカではその後、キリスト教内の形骸化した既成教団に、霊的刷新を求めるペンテコステ・カリスマ運動と言う聖霊による信仰覚醒が起こり、多くのニューエイジ達やヒッピーは教会に立ち帰り、東洋宗教は縮小していますが、日本では、今もなお活動しています。もう一度近代科学発生の原点に立ち返る必要があります。そもそも近代科学は、キリスト教に起源があるのは歴史的に実証されており、この原点から離れた「聖俗革命」後の科学を日本は受容している現実に、オウム事件の根本があるのです。日本の科学教育はもう一度近代科学の原点に回帰すべきです。米国は激しく揺れ動いても回帰すべき原点を見失っていないと思います。現在のトランプ現象はその現われの面もあるようです。
「神は二冊の本でご自身を現わされた。一冊目は自然であり、天体はどのようにして運行しているかであり、How the Heavens go?その言語は数学で書かれている。
二冊目は聖書であり、天国に行くにはどうすればよいか、How to go to the Heaven.が書かれており、その言語は神の言葉である。」ガリレオ
第三は、知識人の問題です。当時オウム・シンパの知識人が結構おり、彼らは深刻な事態を前にして、なおオウムを弁護していた。吉本隆明、島田裕己、中沢新一等、いわゆるニュー・アカデミーを中心とした宗教評論家の一群です(もちろん彼らの功績は他の面では大きく、ソムリエも大いに参考しておりますが、以下の宗教的・社会道義的責任は重大だと思います)。彼らはその後の厳しい社会の指弾で、一時は鳴りを潜めていましたが、今また何食わぬ顔をして、宗教専門家と称して、普遍宗教・世界宗教に疎い日本人にまことしやかに説示しています。自分たちがどれほどの害悪を社会に及ぼしたか全く責任を自覚せず、責任をとろうともしないのです。
要するに彼らは宗教現象論者であり、宗教多元主義すなわち全ての宗教を等価値として、何かオウムのようなスピリチュアルな現象を持つ宗教を、さもありがたそうに尊重するのです。彼らがオウムからどれほど経済的に潤をされていたかは知りませんが、宗教専門家ほど裏で怪しい者はないのです。そしてソムリエの様にキリスト教信仰こそが真理であると告白すると、独善だ偏狭だ狂信だとかレッテルを張り冷笑し、自分たちがいかに理性的であり、客観的学問的また霊的であるかと説示するのです。
宗教現象論ではなく、宗教は本質こそ問われるべきなのです。救済の道はいくつもある、一つと言うのは独善・偏狭に過ぎると言う。物分かりよさそうですが、彼らに誘われてとんでもない道に深入りして、結果滅亡すれば責任を取るのか!パウロは、「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。私たちは神についての偽証ということにさえなります。なぜなら、かりに、死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。」コリントⅠ、15:14,15。キリストの復活がありもしない事を説いているなら、それは人を欺いているのであり、神にもっとも重い裁きを受けると、パウロは宣教の責任の重要性を自覚し説いています。
◇スピリチュアル・ケアとは?
現代のスピリチュアルの流行はどうですしょうか、何でもスピリチュアルでありさえすればありがたがる風潮。怪しげなパワー・スポットや霊場巡りはまだしも、スピリチャルケアなどと学問的表現で粉飾しても騙されてはいけないのです。ソムリエの推しの、沖縄のキリスト教の最大病院、社会福祉法人葦の会オリブ山病院理事長、田頭真一先生は、「イエス様のスピリチュアルケア」を最近出版され、さらに「イエス様抜きのスピリチュアルケア」と言うそのものずばりの自作を予定されています。先生は終末期医療の専門家として、現状のイエス様抜きのスピリチュアル・ケアの欺瞞性を完膚なきまでに説いています。たとえ「臨床宗教師」からカウンセリングによるスピリチュアル・ケアで平安な心を得ても、福音抜きの平安で地獄に堕ちればどうするのか。ケアした人は責任を取るのか。「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。」エレミヤ6:14,偽預言者になってはいないか。真のスピリチュアル・ケア問題は、後期高齢期になった団塊の世代が大量に死に直面する現代の喫緊の課題なのです。
真のスピリチュアル・ケアはイエス様の十字架の贖いを信じ、罪赦され天国に入れて頂く事です。こんな事を言うと独善・偏狭だと言う。しかし聖書は「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言う事はできません。」コリントⅠ、12:3、と宣言しています。そうです、ソムリエはK.バルトが説く“イエスをキリストと告白しない宗教は、アプリオリ(先験的)に誤りである”との主旨に同意する者です。たとえ独善・偏狭と言われようと、神の偽証人になって人を滅ぶに導く偽預言者になってはいけないからです。
この様に、阪神淡路大震災以来の災害対策は進んでも、オウム事件以来のスピリチャルの蔓延は野放しで、日本は霊的衰弱滅亡の道をたどっていると言わざるを得ないのです。今こそ「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」使徒4:12のみ言葉に従って、日本のキリスト教会が真のスピリチュアルのあり方を示すべき時です。
トランプ2.0(2)、地政学的発想で読み解く
2025・2・19
◇石破首相・トランプ大統領会談
2月7日の石破首相とトランプ大統領の初めての日米首脳会談は、成功でした。気短なトランプ氏と理屈っぽい石破氏ではケミストリーが合わないのではないか、無理難題を吹っ掛けられるのではないか、おっかなびっくりでしたが、ほぼ満額回答に近い成果で、安倍外交の遺産のお陰と内閣・外務省の周到な準備で合格点のようです。日頃、批判厳しい野党もそれぞれ高評価で珍しい。これをベースにいい関係を築きそれこそ、日米黄金時代を築いてほしい。さらには中国とも同様に願いたいものです。
石破首相がキリスト者であり、どうしても思い入れがあり、神の祝福を祈ります。
◇トランプ2・0復習
ところで、先週「トランプ2.0」と言うタイトルでブログを書きました。要約すると、トランプ氏の支持基盤は、保守的で時代から取り残された福音派キリスト教徒の復権であり、米国の過去の栄光の復活です。それこそMAGA,“MAKE AMERICA GREAT AGAIN、アメリカを再び偉大に!”です。さらにそれをイーロン・マスク氏始めGAFAMのシリコンバレーのIT創業者たちが取り囲んでいます。彼らはテクノリバタリアンで、テクノロジーで世界を変えようとする、規制を嫌う極端な自由主義者たちです。彼らはこれから世界を牽引する、米国の未来です。
◇トランプ氏の政治特性
そこで、今日はトランプ氏本人の政治の特性を考えたいのです。ソムリエが思うのは、“不動産デベロッパー政治?”ではないか、と言う事です。日本の政治家は、官僚機構の推薦か、財界の利益代表か、労働組合の推しか、僅か市民運動出身者、特に保守政党は、地盤・看板・金番のある世襲政治家が多い。どうしても組織の利益を代表するものだから、政治家本人の個性は薄い。さらに議員内閣制の首相は、諸勢力のバランスの上に成り立ち、首相の個性はさらに薄い。しかし、大統領制の国は、政治の素人でも、選挙で人気があればなれる。そうすると彼の過去のキャリアから来る発想で政治も考える。それが大統領制の首脳のいい面でもあり、そうでない面でもあります。玄人の政治家にない新しい発想と素人政治家の怖さです。トランプ氏は、不動産が家業で、さらにTV番組の人気司会者であった、と言う事で、選挙もマスコミに受ける話題と、奇異なキャラを売り込み話題に欠かないよう演出、さすがTV業界で泳いできた価値はある。今回、トランプ2.0となって、つぎつぎ打ち上げる花火を見ると、地金のもう一つ、不動産屋政治の面が出て来たようです。
◇不動産デベロッパー政治?
グリーンランドを米国が購入する、カナダを51番目の州にする、パナマ運河を米国に取り戻す、ガザを米国が所有して、リゾート地にする、1・0の時も北朝鮮の金正雲総書記に、北朝鮮の沿岸はリゾート開発に適している、と提案していたが、その発想が世界規模に拡大した感じです。もちろん、世界の常識に反する突飛な話で、様々な国際法や人権法に反し、賛成するのはイスラエルのネタニヤフ首相くらいのものです。彼が米国大統領でなく、一民間の不動産デベロッパーでその事業を世界展開する大風呂敷を広げたと言うのであれば、反対は少なかったでしょう。事実、トランプジュニアや娘婿でユダヤ系実業家クシュナー氏が、これらの事業案の実現に動いているのを見ると分かります。要するに、アメリカ・ファーストより、トランプ・ファミリー・ビジネス・ファーストなんですよ。以下、感想を述べます。
◇デイベロッパーのあり方
ソムリエは若い頃牧師を勤めた教会に、不動産デベロッパーの方がいました。決して怪しい事業家ではなく、常人では中々思いつかないアイデアとビジョンを持って、あの懐かしい高度成長時代の不動産事業を開拓した実業家で、しかも信仰熱く多くの教会堂建設に献身的に援助を惜しまず、召された今も敬意を抱く方です。
不動産事業は、建売、賃貸、マンション建設、商業地・工業地、公共事業用地開発、・・様々な分野があるようです。そこで既成の地域を一端更地にして新しい街に再建する。あるいは無人の原野を、思い通りの夢を描いてニユータウンを開発する等、大変な時間と資金と何より、粘り強い持続的情熱が必要です。不動産デベッロパーの面白さ、大変さを横で見、時に事業のためのお祈りを依頼され、また教会堂建設のお世話になり、少しは事情が推察されるだけに興味深くもハラハラもします。俗に千三つと申しますが、千のプランで3つ実現すれば上々と言う業界用語です。トランプ氏の矢継ぎ早の大統領令発動に、不動産事業家のスタイルが伺われます。さあ、トランプ氏は任期4年で先に打ち上げたビジョンのどれが実現するか見ものです。
◇トランプ氏の地政学
しかし、彼が民間実業家であれば問題ありませんが、政治家それも世界の模範であるべき米国大統領が、こういう帝国主義的発想で国際政治をやってもらうと困ります。 世界秩序は大混乱に陥るのは必須です。ただでさえあちこち火の手が挙がって大変なのにこれ以上はご免こうむります。悲惨な目に遭うのはいつも弱者だからです。
ただ言えることがあります。それはトランプ2.0の地政学的発想が、従来のそれと変わったと言う事です。地政学ではランドパワー国家とシーパワー国家に分けます。ランド・パワー、大陸指向国家は自国の利益第一で関税を高くし自国産業を保護しようとします。また武力で威嚇し国境を動かし、領土を拡大しようとする野心があります。それに対してシー・パワー、海洋指向国家は、領土拡大より海洋自由航行権を確立し、領土領海を拡大しようとするランドパワー国家や海賊を強力な海軍力で抑える、そして世界中に自由貿易の環境を保障し拡大し、その妨げとなる関税を低くしあるいは無くそうとします。大英帝国に日の沈むところなしと言われた島国英国や島国日本は、海洋指向国家の典型です。特に日本はその特性を忘れて大陸指向を試みた時は必ず失敗してきました。古代白村江の戦い、秀吉の朝鮮出兵、中国、東南アジア進出の大東亜戦争・・これは歴史の教訓としなければなりません。“自由で開かれたインド太平洋ビジョン”安倍元首相の遺産は大切にする必要があります。今、大陸指向国家である中国が海洋指向国家にも手を広げて、領海・領土を拡大しようとしていますが、危険ですね。
さてアメリカは広大な米大陸の領土を持ちつつ、大西洋と太平洋にも面する、と言う事でシーパワーとランドパワーに両面を持ちます。第二次大戦以降は、シーパワー国家として、英米日と組んで低関税、海洋自由航行権尊重、自由貿易国家を指向してきました。これに対抗する国家に対して世界最強の陸海空の武力で圧倒し自由貿易を保障し、多くの国々が米国を市場にでき利益を得てその恩恵に与ってきました。日本もそうです。しかし、結果世界各地が豊かになり、経済力軍事力をつけて米国を脅かすようになり、危機に気づいたトランプ氏は、シーパワーからランドパワー国家に切り替えて、自国産業保護と他国窮乏策による米国優位性を回復しようとしているのです。高関税政策はその典型です。そこに不動産デベロッパーの氏の地金を生かして、窮乏した地域に自分の影響力を及ぼそうとしている。惨状便乗ビジネスと言う嫌な言葉があります。昔、ある市で地域再開発計画があった。しかしどうしても私有権を立てに立ち退かない地域があった。すると不審な火災が発生、その地域がきれいに焼け落ち、すぐそばに消防車が待機していたと、よくデベロッパーから聞かされました。地震や天災もデベロッパーのチャンスなのです。世界の後進地、災害に見舞われた地域、紛争地は世界的デベロッパーのチャンスです。
◇エージェンシー
ソムリエの読み、トランプ2・0で新大統領に会見したのは、イスラエルのネタニヤフ首相、日本の石破首相、ウクライナのゼレンスキー大統領の順です。トランプ氏はイラン中東のイスラム勢力の台頭を抑えるためイスラエルを、中国の拡大政策の抑えに日本を、ロシアの勢力拡大の抑えにウクライナをそれぞれ米国のエージェンシー(代理人、支店)にしようと、ランドパワー的発想で要所を抑え始めたのではないですか。ですから石破首相に満額回答を与えたと言うのがソムリエの読みです。
そういう意味で日米は黄金時代を迎えるかも知れません。しかし中国と米国はランドパワー大国同士、気脈が通じます。シーパワー的発想の日本は浮かれていると足を掬われます。日本のリーダー層の健闘を願います。
「鳩の様に素直に、蛇の様に賢く」
トランプ2.0のゆくえ
2025・2・12
アメリカのトランプ2.0大統領政権が1月20日にスタートしました。この異形な政権の基盤は何か?またその目指すところは何か?世界はその影響を免れないがために、注目しています。以下、様々な意見を勘案しながら、ソムリエなりの理解を申し述べたいと思います。
◇支持基盤層
まず、この特異な政権の支持基盤です。1期目の政権時代と今回の選挙運動中の動きの中で分かってきた事ですが、米国の歴史の核を形成してきた多くの民衆です。しかも彼らは時代の激変に取り残され、努力が報われずルサンチマン(怨恨)が鬱屈していた。それを敏感に掬い上げたトランプ氏が彼らの代弁者となり、支持の岩盤層を形成した。具体的には、昔はWASPと呼ばれた白人アングロサクソン男性福音派プロテスタント、それも非大卒労働者です。ソムリエのイメージでは、あのTV番組“大草原の小さな家”、大きな欽定訳家庭用バイブルがテーブルにドンとあって、家族そろった食前にお祈りする信仰熱き働き者の強い父親がいて、それをしっかり者の母親が支え家族で農場や、牧場を勤勉に働いて経営。家族の結束が強く自助・自立心が強く、外敵には家に立ち籠って家族総出で銃を手に守る。日曜日には同じような家族の集う教会を中心としたコミュニテイは平等で、タウンシップ(基礎的共同体)を形成、コミュニテイの課題、道路、橋、学校、・・等の建設、維持問題があれば、タウンミーテイングで討議・解決。コミュニテイの公的役割は、ボランテイアか自分たちの費用で雇う、教会の牧師、学校の教師、保安官・・。タウンシップの代表がカウンチィ(郡)代表、その代表が州(ステイト)政府を形成、独自の憲法と議会と通貨や軍を持つ。そして50州の連邦(フェデレーション)として中央政府(ユナイテッド・ステイツ、合衆国政府ガバメント、大統領、首都ワシントン、最高裁判所、連邦政府軍、$紙幣)、と下からの民主制が確立している。ドイツや日本の様な後発民主国家の上からの民主制とは発想が違う。古き良き時代old good dayasのアメリカ像です。
この様な草の根のアメリカ史形成者、ルーツをたどると、イギリス・オランダ等から国教会の形式的な信仰に飽き足らず、信仰の自由を求め新大陸に移住した清教徒たちにたどり着きます。初めは農業・牧畜業からやがて鉱工業労働者として、自主・自助・自立心が強く、政府の干渉を嫌う「小さな政府」を指向。今日の米国の最大勢力福音派の形成です。日本では福音派と言うと、頑迷固陋な宗教原理主義者たちの集団とジャーナリズムや知識人は蔑視報道しますが、とんでもない温かい福音派信徒や教会は、多くの人たちを引き付ける魅力があり、最新ITやエンタメを駆使するメガチャーチが数多くあり、そこから生み出されるボランテイア、ドネーション(寄付)の貢献抜きに、米国の教育、学問、福祉医療、芸術、NGO活動は考えられない力があるので、日本の報道は実態を知らない偏向でメデイアリテラシー、アカデミックリテラシーが必要です。それに対して、中央政府や大企業経済界を形成したエリートたちは、清教徒たちが新大陸に来た時指導者として活躍した、ケンブリッジ・オックスフォード出身でイギリスや大陸のエリ-トたちと話の出来る知識人でした。彼らは英国・大陸の啓蒙思想の影響下にあり(大西洋革命)、キリスト教も奇跡は排徐する合理的な理解、“理神論”(神天地創造の一撃トリガーを引いただけで、後は自然法則に従って世界は時計の様に運行しており、神の介入の余地はない。人間は理性で世界を理解し、支配できるとする。)でハーバード大学はじめアイビーリーグのエリート層を形成。政界、財界、官界、教育界、軍事等全ての面で、合衆国をさらに今日は世界の最大強国として君臨を指導し、神学的にはリベラル派と言われます。日本ではキリスト教大学のミッションがリベラルが多く、福音派は軽視されがちですが、米国の実態は全く逆で、是非認識を改めて頂きたいものです。
◇支持基盤層のルサンチマン
エリ-トたちの推進するグローバル化により、米国の核を形成していた白人非大卒の労働者の属する産業は、後発諸国の追い上げで次々衰退、鉄鋼、電機、自動車・アメリカの主要産業がドイツ、日本、韓国、中国に産業移転。ついに鉄鋼の町ピッツバーグはラストベルト(錆ついた産業地帯)、ゴーストタウン化。しかしエリートたちは巧みに金融、IT革命でニューエコノミーに転換し、巨万の富を形成。オールドエコノミーのブルー・ワーカーは置き去り、さらに移民政策によりWASPは、黒人、ヒスパニックの増加で、数の面でも脅かされてきた。またエリートたちは、少数者尊重のリベラル思想を進め、フェミニズム(女権拡大)、ブラック・イズ・マター(黒人人権闘争)、性的少数者尊重(LGBTQ)、地球環境問題を掲げ、WASPの伝統的価値観、反進化論、妊娠中絶反対、白人男性中心主義、化石燃料依存、・・は反動として排除(キャンセル・カルチャー)された。かくして経済的にも心情的にも追い詰められたWASPは、その信仰的基盤の福音派教会の中に立てこもった。彼らは、エリートの理神論的冷たい信仰でなく、熱い心情的・霊的信仰、リバイバリズムの中に生きて、政治には無関心であった。がしかし彼らの報われない、エリ-トに裏切られたルサンチマンはマグマの様に蓄積。そこに稀代の鋭いメデイア的政治感覚の持ち主、トランプ氏は注目。非エリ-トに受けるマッチョで野卑な言動を、エリートたちには眉を顰め、蔑視されたが、福音派の圧倒的支持を受けて、トランプ1・0が誕生、一時エリート層が巻き返しバイデン政権があったが、今やトランプ2.0として圧倒的存在を示すようになった。
◇トランプ氏の未来
しかしソムリエの見るところ、トランプ支持層は過去のアメリカ、古き良きアメリカの自画像“大草原の小さな家”にあり、今はノスタルジックな幻想にすぎない。MAGA、偉大なアメリカを再び取り戻す、と言ってもノスタルジーは過去向きで、時間の矢は、決して逆戻りはせず未来を求める。トランプ氏にはそれがない、と言うのが見たてでした。そこにアメリカの未来を引っ提げトランプ支持に回ったのが、イーロン・マスク氏だと思います。過去に指示地盤を持つトラップ氏はここにアメリカの未来を手に入れたと言うべきでしょう。トランプ氏の腕力と、マスク氏の知力がタッグを組めば、これは面白くなりますよ。果たして,吉と出るか凶とでるか、いやそんな賭け事ではなく、世界の運命であり我々の代はもちろん子孫にも影響を与える事件だと思いますので、論を進めましょう。
◇テクノ・リバタリアン
かつてこのブログで“「テクノ・リバタリアン」を読む”と題して、評論家の橘玲氏の著作を紹介したことがあります(2024・7・31)参考のため、別添再録します)。あの本今や陽の目を浴びる事態になったのです。マスク氏はアメリカはおろか世界の科学技術、産業をリードする、カリフォルニアのシリコンバレーの天才たち、ギフテッド(天与の才能)の代表的人物です。彼らは超高いIQの持ち主たちで一般人には理解を超えた天才たちです。世界各地の出身で理解されず、自由の国アメリカでその異才を発揮。それがコンピューターを駆使してデジタル革命を起こし、金融、SNS、IT技術、リョウシコンピューター開発、EV自動車、宇宙開発、生命工学にと、新しい人類の未来を切り開いています。これが“テクノ(ロジー)”の意味です。リバタリアンは“リバテイ”人間の自由を極度に押し進め、既成の考えや、制度的束縛から解放することにより不可能が可能になると言うのです。人間は失敗を恐れ、既存の利害が侵されることを怖れ、数々の規制を設け新しい発想を抑圧し人類の発展を妨げている。だからあらゆる可能性を自由にやらせろと言うのです。まさにケインズのいう資本主義の精神の一つ“アニマル・スピリット”の持ち主です。テクノ・リバタリアンは、極度に規制を嫌い、自分たちの超高度なテクノロジー的発想を自由な無限の可能として追求、最後には死も克服し永遠に生きようと思っている。トランプ氏とマスク氏が組むMAGA運動2.0は、新たに福音派とテクノ・リバタリアンが協働すれば実現できる、と思っているのではないでしょうか。
◇トランプ2.0の可能性
ソムリエは預言者ではないので、結果は見通せません。しかし橘玲氏の著作にある次の指摘に、重要なヒントがあると思います。それはアメリカの未来、そして恐らく世界の未来を切り拓くであろう“テクノ・リバタリアン”はIQ(知的能力)は異常に高いが、EQ(共感能力)が極端に低いか、欠落している、との指摘です。彼らは問題が数学で解決すれば満足する、しかしその結果を人はなぜ喜んだり悲しむのかが分からない、だから一般人と軋轢を生むことが多い、と言う。ですからテクノ・リバタリアンはほとんどが男性で、女性は少数とのこと。これは恐ろしいことです。彼らは全てが数学に還元できると思っている数学の天才たちです。しかし世界は数学だけで成り立っていますか!痛みも、悲しみも、つらさも、また喜びも愛も、感謝も賛美もありますよ。
ここに福音派キリスト教の、温かい心情的霊的信仰の出番があります。十字架に命を投げ出したイエス様の愛から来る隣人愛、死の悲しみ、絶望から復活した歓喜、聖霊の満たしによる平和。是非これからの世界はIQテクノロジーを必要条件としながらも、福音派キリスト教のEQ愛を十分条件として進んでほしい。この方向性に行けばトランプ2・0の可能性はあり、無視すれば冷たいAIの支配するデストピア(暗黒世界)になります。
良き決断を祈ります。
「愛にあって真理を語りなさい」エペソ4:15
近世と近代の違い、「ヨーロッパ近世史」を読む
2025・1・29
◇「ヨーロッパ近世史」
「ヨーロッパ近世史」(岩井淳、ちくま新書)と言う近刊書を読みました。その理由は、ソムリエにとってヨーロッパ史上の近世と近代の時代区別、それに比べられる日本近世・近代の時代区別が、どうも判然としていなかったからです。本書によると、歴史学会でも最近ようやくその区別がついてきたと言うのです。近世は初期近代early modernであり現近代は late modernあるいは単にmodernと呼称が区別されていた。ですから近世は要するに近代の前段階であり、特に独自性はない、とされた。時代的には近世は15,16世紀の大航海時代・宗教改革に始まり18世紀後半のイギリス産業革命・フランス革命まで300年間、近代は仏革命以後現代までと言う事になり、近世は近代に回収され、近代は実に500年もの長期になる。大塚史学の影響下のソムリエはこの立場でした。ところが1970年代、アナール学派の歴史家ジャック・ル=ゴフが現れ「中世以来経済・政治・社会・文化のどの分野においても、16世紀には、そして事実上18世紀半ばまでは、根本的な変化が起きていない」として「近世」と言う時代区分を否定。逆に近世は中世の延長だとして取り込み「長い中世」と見立て近世の独自性を解消。ソムリエは歴史学の素人で、一体どっちなのと戸惑いつつ、今までの9冊の著作を曖昧な態度で書かざるを得なかった。それがピューリタンを中心にイギリス史の専門家として名を馳せていた岩井淳氏の研究成果に、胸のつかえの一つが取れた思いです。岩井教授は、現近代の行き詰まりを「近世」を再評価する事で打開しようと暗示している様です。具体的には「近世」の「複合国家体制」の再評価によりと、近代の「国民主権国家」の弊害を脱却しようと提示している様です。ソムリエの疑問が解けるとともに新たな問いも起こるので下記します
◇ヨーロッパ近世史の要素
岩井教授の論によると、ヨーロッパ近世の要素は4つ。①複合国家(初期の複合君主制、後期の共和制両政治体制の多様な地域から構成される国家がある紐帯で緩く結ばれている)、②紐帯は宗教(カソリック・プロテスタント、キリスト教)、③人・物・情報のグローバルな移動、④大航海時代以来のグローバルな帝国間の軍事、国際条約の出現。である。対して近代の要素は、①国民主権国家、②非宗教性(世俗化)、③民主主義制であると言う。
この見方で言うと、「ウエストファリア条約体制」で近代「国民国家」の始まりとする現代知識人の常識は“神話”だと言う。なぜならウエストファリア条約は、複合国家相互が署名した近世の範疇だと言う。また宗教改革、ピューリタン・名誉革命を近代民主主義社会の始まりとするが、それらはまだ身分制を残し、議会は王・貴族・ブルジョアと言う中世的身分の利害調整機関であった。普通選挙も行われていない。
ではどこから近代は始まったか?それは「フランス革命」からだと言う。そのイデオロギーはスコットランド、アメリカ、フランスに始まる「啓蒙思想」である。だが「啓蒙思想家」達は、飽くまで近世秩序に属し、支配者層「啓蒙君主」に働きかけたのであり近代には属さない。だが「啓蒙思想」の影響を受けた「環大西洋近代革命」、アメリカ革命(独立戦争)、フランス革命相互の密接な関係が現近代の源流となった、と言う。以上略述しましたが、ヨーロッパ各地の個別史を実証的詳細にたどる叙述に、高校世界史以来の旧い知識では、目のウロコが落ちる新鮮な見方で、ぜひお読みくださるようお勧めします。以下感想と疑問です。
◇感想1
なぜ、NYにフランスから贈られた自由の女神像があるのか。いわゆるアメリカ建国の父たちが、フランスと盛んに交流したのか。彼ら建国の父たちは、いわゆる信仰の純粋性を追求し、民衆のキリスト教リバイバリズム(信仰復興運動)の元となったピルグリムファーザーズとは距離を置きハーバード大学を中心とする現代アメリカのエスタブリッシュメントを形成した「理神論的啓蒙主義」であった事。逆に仏革命の民主制に失敗した思想家・裁判官トックビルが、革命直後に米国を旅し名著「アメリカの民主主義」を著し、民主主義の在り方を報告したのか。等が米仏、さらに遡ってオランダ・イギリスの近代化運動のネットワークが大西洋をはさんで相互に影響し合ったと言う、「大西洋革命」論で少し理解しました。現近代民主主義の源流はキリスト教・アメリカ革命と非宗教的フランス革命にあると言う事、ロシヤ・中国の共産主義革命は後者の流れでしょう。
アメリカの有神論的啓蒙主義(理神論的キリスト教、理性的で冷たいと言われる)によるエスタブリッシュメントはデイープステイトとした陰謀論的に敵対視され、民衆の信仰熱きリバイバリズムキリスト教の福音派を取り込んだトランプ大統領の反逆は、アメリカンデモクラシーの現代的リバイバル版とも言えるものです。ロシアでも革命は捨てられ、ロシア正教がリバイバルし、中国でも福音派的キリスト教は、枯れ草に火を放つように広がり、共産党政府は宗教弾圧に躍起になっています。日本の知識人は当惑気味ですが、世界の激しい地殻変動の元、地下のマグマのようなキリスト教抜きに現代史は語れない。
◇感想2
ソムリエのモダニテイ論に惹き付けて岩井教授の「近世、近代」論を考えます。
まず第一に「近代科学」は、中世末から近世にかけて大陸・イギリスに起こった「近代科学革命」であり、古代・中世科学の自然学思想家からの演繹法でなく、自然そのものの観察、実験からくる帰納法的法則発見の実証性がメルクマールです。近代は近世科学革命の発展であり同時にその応用である技術の飛躍的発展による「産業革命」です。ですから近代科学は明らかに「近世」にルーツがあります。
第二に「近代民主主義」ですが、古代ギリシャ・ポリス(都市国家)のデモクラチア(民衆の支配)は、その後、暴民(モッブ)、愚民(ポピュリズム)に堕し、ヨーロッパでは警戒され、カソリックの教皇選挙(コンクラーベ)以外には継承されませんでした。しかしイギリス市民革命のピューリタン・名誉革命以来、国教会(キルヘ)のみならず宗教改革急進派の諸教派(セクト)の中に神の前の平等が実現し、生命・財産権の保障、個人の人権尊重、信教・礼拝・結社・思想・出版の自由が獲得されました。フランス絶対王政の弾圧から逃れた啓蒙思想家ボルテールが英国に亡命「イギリス便り」を書いて、フランス市民革命の引き金となったが、彼はイギリスのセクトの一つ、クエーカー教徒の集会に聖霊が信徒に降り自由に自己の信条を表明するのを見て驚愕、フランスなら宗教裁判か警察に捕縛される。以後フランスの知識人はイギリスびいきになる。さらにイギリス市民革命を徹底すべくピューリタンが新大陸に渡り、アメリカ市民革命を起こした。フランス絶対王制打倒の民衆と自由思想家は英米市民革命の影響を強く受け、フランス市民革命が成った。ここにも「大西洋革命」ネットワークが働いたと言えよう。以後、近代民主主義には2つの流れとなる。英米市民革命のプロテスタント・キリスト教の影響下の近代民主主義。もう一つは「仏革命」の絶対王制の要素、王・貴族・カソリック教会の打倒。王はギロチンに、教会は破壊。以後無神論的「近代民主主義」の流れとなり、ロシア・中国・北朝鮮・ベトナム共産主義に受け継がれる。ですから「近世」にプロテスタントの影響による「近代民主主義」の始まりがあり、「近代」にはキリスト教的民主主義と、無神論的民主主義の平行現象がある、と言う事です。共産主義が劣勢となり、現近代はキリスト教民主主義が勢いを回復し、ギリシャの古代民主主義・無神論的近代民主主義の「仏革命」に範を求める日本の知識層を戸惑わせている理由です。
第三に「近代資本主義」です。岩井教授の研究で、確かにアナール学派の説く様に、大西洋三角貿易による欧米のアジア・アフリカ搾取(資源、奴隷)がヨーロッパ近代」資本主義の富の原始蓄積になったと言う指摘は確認すべきです。しかし近代資本主義の「勤勉エートス」(アスケーゼ)は、ウエーバー・大塚史学の解明したように、近世宗教改革なくしてありえないのも史実でしょう。岩井教授により詳しく解明されています。ルター派就中カルビン派はインターナショナルカルビニズムとして、欧州各地に飛び火、カルバンの活動地点スイス改革派、彼の母国フランスのユグノ―派、カソリックスペインから独立戦争に活躍したオランダ改革派、スコットランド長老派と各地で展開。共通して勤勉エートスで各地に産業を興した。カソリックのフランス絶対王制は危機感をいだきユグノーを弾圧、追放。彼らはオランダ、イングランド、プロイセンに亡命、各地に資本主義経済を興した。
◇近世と近代を分かつキーワード
では近世と近代を分かつキーワドは何か。それは岩井教授の書では明確ではない。歴史学では様々な要素を勘案する必要があり、単純に断定できないからでしょう。しかし思想史的にはその分水嶺があります。それが科学史家、村上陽一郎の「聖俗革命」論だとソムリエは思います。村上教授は科学史研究家としてキリスト教起源の「近代科学」が、無神論的現代科学に転じた現象を「聖俗革命」と命名。ソムリエは巨視的に見て、「聖俗革命」は民主主義政治、資本主義経済の分野等近世社会から近代社会に転じた岐路だと思います。
そして、近代社会は現在目の前に見る様に明らかに閉塞状況にあります。岩井教授は現近代の「国民国家」間の利害の衝突がその原因であり、「近世」の「複合国家」の再評価による打開の道を暗示しています。ソムリエは教授の提議も含めつつ下記の様に考えてきました。まず現近代科学は、「近世」に起源を持ちながら「聖俗革命」により神の人間への自然管理委託を忘れ、人間が自然の支配者となり環境破壊の無残な姿をさらし、地球環境破壊の危機をもたらしました。近代民主主義は聖霊が全ての人に平等に降ると言う「近世」に起源がありながら「聖俗革命」により、霊的民主主義から遥かに離れ、現近代民主制の強権的専制支配に堕しています。さらに、神と隣人と自然への愛をエートスとする「近世資本主義」から、「聖俗革命」により自己の利益第一に強欲資本主義となり、一握りの資本家が富の大部分を独占する極端な格差問題に苦しんでいます。
ソムリエは本書により、モダニテイ(近代化)の運動は、初めの愛、すなわち「近世」のキリスト教的霊性を回復する事が、現近代の行き詰まりを打開する道であることを再確認・再確信した次第です。
「初めの愛に帰れ」黙示録2:4,5
日本被団協のノーベル平和賞受賞に思う
2025・1・22
◇被団協のノーベル平和賞受賞
昨年12月10日、ノルウエーのストックホルムで、昨年のノーベル平和賞の授賞式が開催された。「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」が受賞し、3人の代表が壇上に立ち、代表して92才の田中熙巳さんが記念のスピーチをなさった。“13歳で長崎で被爆、家族5人を失い、その光景の余りの残虐さを目撃し、たとえ戦争といえど、こんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけない、と強く思った。広島で14万人、長崎で7万人が殺され、しかも今は世界に広島、長崎を遥かに上回る殺傷力の核爆弾が112万発もある。1956年被団協が結成され、その結成宣言は「自らを救うとともに、私達の体験を通して人類の危機を救おう」と言う運動を進めてきた。受賞を機に世界の人々と共に核廃絶に取り組もう”と呼びかけ、万雷の拍手がしばらく鳴りやまない程の感銘を与えた。ロシアがウクライナ戦線で、いつ核兵器を使用するか分からないと脅し、北朝鮮も兵士をロシア支援に送り、見返りにミサイルと核兵器技術を手にしているとか、遠く近く核戦争の暗い影が迫る中、今回の平和賞は格別人類の平和への願いの切迫感がある時はないと思いました。
◇平和賞と核廃絶運動の歴史
ノーベル平和賞の受賞の歴史において、核兵器禁止運動への奨励は、過去に何度もありました。最初はわが佐藤栄作首相が、日本の国是として、核兵器を“作らず、持たず、持ち込ませず”と言う「非核三原則」を表明し、平和賞を受賞。米国のオバマ大統領が就任早々、オバマドクトリンを表明し、核廃絶を訴えたことにより平和賞を受賞、彼は米国大統領として初めて、広島の原爆記念館を訪れた。さらに、“I CAN”の人たちが核廃絶を訴え続けた事への平和賞が与えられた。この様な地道な運動の積み重ねの中で、今回は過去の原爆被災者自身の運動が受賞したのは、その被爆体験から出る訴えは、魂に迫るものがあります。ソムリエも広島に2度、長崎に1度訪れ記念館で、その悲惨さに言葉もなかった。
◇なぜ被団協が最初の平和賞受賞でなかったか?
それにしてもなぜ直接の被爆者である日本被団協の方々が、一番最初に受賞しなかったのか疑問に思っていました。するとあることを漏れ聞いたのです。それはノーベル平和賞委員会は、当初被団協の運動が加害者である米国への糾弾の働きではないか。確かに米国の罪は重い。しかし原爆投下にはそれなりの理由もある、と一方の肩を持つのをためらっていた。しかし被団協は、米国の罪以上の核兵器の全人類絶滅への絶対悪として禁止運動を被爆者の立場で説いている事の、重要な意義を認め、今回の受賞に決したと言う。さらに被団協の方々も当初は、米国の原爆投下の加害者責任を追及していたそうです。だがある時、米国本土でこの運動の啓蒙活動を展開した時、米国市民から反発があり、日本も真珠湾を卑怯な奇襲攻撃で多数の米兵が死傷し、それへの当然の報復行為だ、あるいはこの原爆投下がなければさらに戦争は長引き、本土決戦迄長引き、米兵の血が流され続けたと思う。だから原爆投下は戦争終結を早めた好結果であると反論された。もちろんそこで再反論できたが。しかし気づいたと言う。復讐や報復の運動は、必ず反発を招き、相手も自己正当化の論を展開し、肝心の核廃絶に協力いただけない。運動の究極の目的は、米国の罪の糾弾ではなく、絶対悪の核の廃絶である。そのため罪の糾弾はやめ、後者をメッセージの中心としたと言う。なるほど経験から学ばれたのですね。そこでオバマ大統領が広島を訪れた時のメッセージも、自国の非を認めるのでなく一般化した核廃絶の内容であり、被爆者も特にそのメッセージに異を唱えることもなく、ソムリエはオバマ大統領に被爆者に謝罪を求めるべきではないか?と何か物足らなかった。しかしそれには、こういう経緯があった様です。
◇相手の非弾劾の罠
今回のウクライナ侵略戦で、ロシアが核使用も辞さないと言うので、日本被団協が抗議した時、クレムリンの報道官は、なぜ日本はロシアを非難するまえに、原爆を現実に投下したアメリカを非難しないのか、おかしいではないか、と反論した。しかし、この罠に被団協はのらなかったのです。なぜか?
人間は相手の非を責めると、確かに非があって謝罪しても、本心からでない事が多い。そして、以後こちらに何か欠けが見つかると、ここぞとばかり責めてきます。リベンジどころか、根に持って倍返しだってありますよ。来るまして、相手にそれなりに理由があれば、なおさら反発し、確かに自分にも非があるが、お前だってこんなひどい事をしてるじゃないか、と反発します。こうなると悪循環で、互いに自己の正義を振りかざし、相手を悪と決めつける非難の悪循環に陥ります。広島へ行ったとき、聞かされました。原爆記念館にアジアの来館者があり、感想を聞くと、気の毒だが、だからと言って日本人が被害者ぶって第二次世界大戦の自己正当化をするとしたらおかしい。われわれアジア諸国で日本はどんなひどい事をしたのか知らないのか。だから広島、長崎の原爆被災を説くと同時に、日本のアジア侵略の非も謝罪すべきだと言われる。だから被爆者はこの視点も忘れてはならない。われわれは被害者であり、また加害者でもあると言う。
◇運動の歴史的体験から学ぶ
これらの歴史的経験から被爆者の方々は学び、米国を責めるのではなく、核爆弾の絶対悪性を、その被爆被害のおぞましさを体験から訴え、人類の歴史で広島、長崎を最後の被爆地としよう、と呼びかけるようにした。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウオーと国連で訴えた、被団協の代表が世界の賛同を得られたわけです。
◇経験知からさらに深く
しかし、ここからさらに深堀します。こういう人間心理の悪循環にはまって、本来の核廃絶の運動が進まなくなるのを避けるため、あえて相手の非を責めない、と言う知恵に留まってはならないのではないか。それはもっと深い“赦し”に至らなければ作為的になりますよ。かつてキリスト者ドクターであった日野原重明先生が、つらい経験から相手を憎み続け、しかもそのため自分も苦しむ患者さんから相談を受けられた。すると、先生は、それはお辛い経験で報復の気持ちは良く分かります。しかしあなたはその結果、この悪循環がどこまでも続くものであることも知って苦しんでおられる。そこで、この復讐心、やられたらやり返す悪循環をどこかで断つには、お辛い事だが、あなたがここで“赦す”以外にありませんね、と答えらえたと言う。言うは易く行うは難し、どこにそんな事が可能になるか
◇ゆるしの力
かつてエリザベス・サンダース・ホームと言う孤児の国際的施設を創設した、
澤田美喜さんは、幼児に三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の一族で何自由の無い生活だった。ナースの養育係がついていたと言う。あるときナースが代わった。本好きの彼女が絵本を読んでとねだると、キリスト伝を持ってきて読みだした。ナースはクリスチャンだった。真紀さんはびっくり、今までのナースが読んでくれたお話は、かちかち山、一寸法師、因幡の白兎、どれもこれも復讐のお話しで苦しめられた相手をトッチメルとすっとしたものだ。しかし、イエス様は違ったと言う。イエス様は無実だのに権力者の妬まれ死刑判決、肝心の弟子たちは皆裏切って逃げ去った。2人の強盗と一緒に十字架に磔になり、槍で突き殺すローマ兵にイエス様は呪いってやる、裏切った弟子たちに復讐するとか、決しておっしゃらず、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか分からないのです」(ルカ23:34)と祈られたと、ナースは絵本を読んで聞かせた。それを聞いた真紀子さんは、イエス様は何という崇高な方かと感嘆した、と言う。そして子供ながら、日本の昔話の“復讐と仇討ち”に比べ、イエス様の“ゆるし”の素晴らしさに感動した。そして父親に願って教会に行き、キリスト者となった。初代国連大使澤田謙三氏と結婚、戦後の進駐米兵との間に生まれ棄てられた混血孤児たちの母となって、ホームを作り、主の愛を持ってお世話されたのです。
今一度、現代世界に“ゆるし”の力が、回復します様に。
巡礼の旅
2024・1・8
◇聖地巡礼の旅番組
かつて俳優でタレントのサヘル・ローズさんが、イスラム教の聖地を巡礼する番組「サウジアラビヤ千夜一夜、サヘル・ローズ メッカへ」がありました(2024・1・12・ NHKBSTV、ソムリエは昨年末再放送を見た)。芸能界に疎いソムリエですが、顔と名前くらいは知っていましたが、彼女の人生は全く存じませんでした。何でもイラン出身で、孤児で養母に引き取られ8歳の時、事情で母親フローラさんが日本に移住。当初は食うや食わずであったようですが、天性の美貌と明るく社交的なキャラが認められ芸能界で活躍してこられたとの事。この聖地巡礼番組も仕事として引き受けたようです。しかし進むうち、彼女の内に秘めたムスリム(イスラム教徒)の心が掘り起こされ、自身の内面を問う深みを帯びてきたようです。確かに養母なくして彼女は生きることができなかった、しかしその密接な関係と同時に、内に反発があり怒りがあり、それがまた恩義ある養母への罪の意識となって、心のうち深くわだかまっていたと言うのです。この番組はお仕事であると同時に彼女の魂の贖罪の旅になったようです。何気なく見始め、意外な展開に遂に終わりまで見てしまいました。
◇旅程
2023・3,成田からサウジアラビアの首都リヤド空港に降り立ち、サヘリさんは久しぶりにアラブの伝統文化に戻り、タカ狩り、バラの香水造り、等に触れほっとしているようでした。さらに聖地巡礼者の必須アイテム、杖と女性巡礼者用の旅装に身を包むなかで、だんだんその気になって来たようです。さらに、バスで第一の聖地、預言者ムハンマドの霊廟のあるメデイナに向かうと、高い塔ミナレットからアザーン(礼拝への呼びかけ)の声が天から降り、周りのムスリムたちはフロアに座してお祈りを始める、姿を見てさらに気分はハイになり番組の仕事と共に彼女の内に眠っていたムスリムが呼び戻されたようです。彼女は来日するまで余り意識しない程度のムスリムであったが、日本に来て全く非宗教的な社会に染まり、ムスリムの敬虔を失っていったようですが、それが蘇ってきたようです。そしていよいよ第二の聖地メッカ(マッカ)に向かうと、途中に大きなサインがあって、ムスリム・オンリー(イスラム教徒以外立ち入り禁止)と記され、何か所かの検問所はムスリム証明書と提示を求められていました。ソムリエは世界各地に教会を訪れましたが、キリスト教徒の証明書などの提示を求められたことはありません。バチカンのシステナ礼拝堂内の小礼拝堂でミサがあり参列しようとしたとき入り口で、信徒か否か尋ねられプロテスタントだと答えると、許可してくれましたね。また韓国の教会に招かれ、講壇に上がるよう促された時、按手礼を受けているか尋ねられた事くらいで、口頭の答えでOKでした。イスラムは中々きびしいなあ、と感じました。そしてサヘルさんが、世界一の大モスク、100万人が礼拝できるそうです、ソムリエも色々モスクは見学しましたが、TVの画面でもその壮大さに圧倒されましたね。世界中から集まったムスリムが祈りをささげる姿を見るうちに、サヘルさんの内に、何かの封印が解けたのか、自宅から持ってきた大きなコーランを取り出し、フロアに座してコーランを声を出して読み出しお祈りもささげ始めた。感動で目に涙が浮かんでいました。
◇番組から魂の救いへ
そしてふと目を上げると一人の女性が女の子を連れて礼拝していた。その姿を見て、養母と自分の姿がダブリ、感情がこみ上げ、思わぬ告白をなさる、養母への罪の意識に悩まされていた。目の前の中のよさそうな母子を見て、養母への負い目を償いたいと思う、とおっしゃる。TVでこんな内面を聞いていいのかと思うが、何か立ち入ってはいけない世界の展開に粛然としました。さらに聖地の中心カアバ神殿に向かい、大勢の巡礼者が中央の聖所を決められた回数周る。信徒の方がたの真剣な眼差し。ソムリエは初めて実写を拝見し、ものすごい霊的エネルギーを感じた。それはいったい何のエネルギーなのか、サヘルさんが近くの人に問うと、口々に自分の罪の赦しを乞う修行であると言う。そして大きな壁に手を当て懺悔をする、また別の場所では石柱に小石を投げて、悪魔の誘惑を排除する。夜明け前、カーバ神殿から出たムスリムたちはそろって小高いアラファト山に登ってさらに懺悔の祈りを捧げ、朝日が昇るのを見て、罪の償いを得た、感動に身を包んで下山し、聖地巡礼の旅を終えた徴に頭を剃りそれぞれの国に戻っていく。ムスリムにとって一生に一度は果たすべき、聖地巡礼の真摯な姿に静かな感動を覚えました。こういうアクテイブな宗教圏に25億人が属している事をあまりに世俗的で、宗教軽視の日本人は忘れてはならないと思う。現在から将来の世界はグローバルサウスが勢力を増すと言われるが、その原動力の大きな要素がイスラムであり、単に経済だけでなく文化・宗教の深い理解が必要です。
◇キリスト教からの申し出
ここから牧師として、深堀りします。ソムリエのイスラム理解は、思想家で岩波の「コーラン」翻訳者、井筒俊彦の研究、主にイスラム神秘主義スーフィズムと、それに対するアンチテーゼの最近のイスラム文化生活全般を規定する社会分析くらいでした。大学のイスラム講座にも、また中東でのモスク訪問やバザール、一般市民生活に触れる機会も得ました。しかし肝心の宗教の核心、聖地巡礼の内容はブラックボックスでした。今回、自己のアイデンテテイがムスリムにある事に目覚め、回心したサヘルさんの番組で、核心に触れることが赦された様に思います。一言でいうと“罪の赦し”です。やはりユダヤ教、キリスト教、イスラム教は三大一神教と称せられるが、その核心は、単なる文化や習俗、政治、経済の相違を超えて、「神の前に罪びと」であると言う事を再認識しました。この点は“恥の文化”と言われる日本教との決定的分岐点です。サヘルさんの告白を聴いて、異教の日本の華やかな芸能の世界に生きる彼女の内心深く、神の前での罪意識がある事を知り、驚きでした。そして仕事がいつのまにか自身の魂の贖罪の旅になる意外な展開に感動を覚えたのです。
問題はさらに深まります。彼女のいや世界から集まる巡礼者の罪は、その巡礼の修行により赦されたのか?!と言う事です。確かに巡礼のコースをたどり満願成就の感動は、他者の評価する事ではないのですが、しかしキリスト教としては、問題を感じずにはおれない。キリスト教では、人間の宗教的修行、献金、寄付の善行すら罪は贖えない。ただ神から遣わされた御子の十字架の死による人の罪の贖いだけが、罪の赦しの根拠である。「血を流すことなくして罪の赦しはありえない」(ヘブル9:22)、お祓いや、水に流すお手軽な神道は言うに及ばず、“戒・定・慧”の仏教的修行によっても罪の贖いは不可、ユダヤ教、イスラム教のそれこそ血を流すような律法厳守によっても、内心のおぞましい罪の赦しは不可、仏教の修行に落第した凡夫を救う浄土教の阿弥陀仏も架空のメシヤで不可。要するに人間のいかなる宗教も神の義の基準に達しない。ただ神の一方的愛の賜物キリスト・イエスの贖いを信じてこそ罪の赦しはある。この福音を是非、ムスリムの方々に知って頂きたい。神はキリスト教徒だけでなくムスリムも、仏教徒も神道信者も非宗教的な人も皆愛しておられる。彼らの真の求めはイエス・キリストの愛により成就される。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟に至る事を望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」テモテⅠ、2:4,5
今を生きる、積み上げて生きる
2025・1・1
元旦メッセージ
◇本音の話し
波乱の2024年も幕を閉じ、新たな2025年が始まりました。今年もこのブログをご愛読下さる方々に、新年のご挨拶をお送りします。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。
さて旧年の某日、ある会合に出ました。年齢性別偏りなく、また特に利害の関係のない気さくな交わりで、結構本音を聞くことができました。そこで、何か共通したものを感じたのでここに記したいと思います。もちろん、わずかな数の意見を、一般化するのは危険ですが、底に流れるものが同じようで興味深く感じたのです。
まず20代後半の男性、就職して7年目とか、彼が言うに相当仕事に慣れて日々こなしている。しかし将来となると、年金はもらえるかどうか分からないし、少子高齢化で自分の会社も市場が狭くなって、どうなるのか不安だ。先行き暗く結婚も中々考えられない。世間では人生100年時代と言うが、とても80才まで生きたい気がしない。だから今、できるだけ楽しい事をやっておこうと思っている、と彼の趣味の話が出てきました。次に50代のやはり会社勤めの男性が語りだした。自分は管理職で、会社の経営に責任があり、毎日平の社員より1時間は早く出社して準備している。家庭でも、こどもは大学を出て就職、しかしもう一人大学3回生の子どもがいてもうひと踏ん張りしないといけない。悩みは高齢の母親が認知症で、何度も同じ事をするのが不安で、電話して確認を求めて来る。いけないと思いながら、さっき電話してきたじゃないか!とつい声を荒げてしまい、後で反省する毎日だ。親の姿を見ていて、自分も高齢にはなりたくない。また若い頃は健康など考えてことがなかったが、近頃はあちこちガタが来て、医者の薬が増えた。職場は65才まで働けるが、60才でリタヤーして年金生活に入りたい。でも70才からでないともらえなくなるとかで困った事だ、とぼやく。さらに40代の主婦、家の近くのオフイスで事務をパートでこなしながら、家事、子育てに日が追われている。とにかく平凡で、落ち着いた生活がありがたいのだが、結構色々あって、夫の転職、こどもの学習障害の対応に走り回る、自分の体もしんどくなって、将来と言われても、考える余裕がない。とにかく起こった事に対応するのに手いっぱい。時々、休みに家族で車で小旅行に出かけるのが唯一の息抜きで、小さな幸せを大事にしたいというものでした。
他の人たちも似たり寄ったりの意見でしたね。タワマンの億ションに住むようなスーパー・カップルはいない様で、平均的で健全な生活者の実感でしょうね。もっとも、ある主婦は、日本を取り巻く国際環境の厳しさに、もし外国が攻めてきたらどうする。選挙の時、考えざるを得ません。ウクライナやガザの悲惨な現実を見て、他人事ではない。自分の子どもが戦場に行かなければ国は守れないのかと覚悟している、と真剣に話していました。
◇共通点
以上、現役真っ最中の方々の本音を聴け、なるほどと思いました。ソムリエの様にリタイヤーした後期高齢者からみれば、自分もその時は同様に思っていただろうなと同感、共感でした。現役の皆さんご苦労様、でも現実から逃げないでしっかり取り組んでください、とエールを送るほかありません。ただ自分が通ってきた経験からいくつか気になった点がありましたので、ここに記します。一つは、共通して将来への見通しの暗さでした。団塊シニアのソムリエの世代は、昨日より今日、今日より明日がよくなる、と言う高度成長時代でしたから。特に根拠もなく将来に明るい見通しを持っていました。時代は変わったと思いますね。二つ目は、将来が暗いなら、今を楽しく過ごす。それもやけっぱちになると言うのではなく、年金が当てにできないから、しこしこ貯金をし、あるいはNISAを使って長期投資もする、自分の事は自分で何とかする、自己防衛の堅実さ。そのうえで、今楽しむため小さな幸せを味わうため楽しむ。
◇今を生きるー積極的無常観
共通して言えるのは、将来のことは分からない、いやどちらかと言うと将来は暗い。ならば今を楽しもう、というものです。よく考えると、この様な考え方は、今に始まった事ではないのではないか。日本列島は、昔から地震がある、火山が噴火する、津波が押し寄せる、台風が来る、大雨で河川が氾濫して山が崩れる、堤防が決壊して街が浸水する。そのたびに家が流され、倒され、作物が不作になり、人が死ぬ。日本は災害多発大国ですよ、そこで人はその時、その時、天災は文句を言うていく処がない、あきらめるより仕方がない思い直し、再建に取り組む。しかもこれが、戦争とか政治家の失敗による人災であっても、地震か台風に襲われた天災のように仕方がない、と社会の指導者の責任を問わず、反省評価、対策を考えるより、さっぱり忘れやり過ごす知恵を身に付けた。
これを文芸評論家の山崎正和は“積極的無常観”と名付けた。世の中に確かなものなど何もない、全ては無常だ。そうであるなら今を積極的に生きよう。思想家ニーチェはニヒリズムを、消極的ニヒリズムと積極的ニヒリズムに分けた。消極的Nは人生に意味などない、ならば刹那的に生きようというもの。しかし積極的Nは、人生に意味がないなら自分が意味づけして価値あるものにしよう、と言う。山崎氏は、ニヒリズムを土着化し日本的無常観と評価し積極的にとらえた思想家ですね。氏は言う、台風や地震で、街や自分の家が壊され、折角苦労して築いたものが無にした。人生は無常だ、しかし日本人はそこで仕方がないとあきらめず、よし、それならもう一度築き直そう、と積極的になる民族だ、と言う。
遡ると鎌倉時代の道元禅師は、“而今”(にこん)と言いました。過去は過ぎ去ってない、未来もまだ来ていない。確かにあるのは“今”だ。だから過去にとらわれず、未来に不安やはかない望みを置かず、確かにある“今”の課題にこころを込めて取り組め。カメラのニコンが、一瞬の今の美しさを切り取ると言う意味で而今から来ると言う人もいますね。よくお坊さんが、“今・ここ・この私”と説法しますね。いろいろ悩まず、目の前の事に全力で取り組め、そうすれば道は開ける、と言う事で、確かに、過去の失敗にくよくよしたり、将来のことを思い悩んだりして、目の前の事をおろそかにする愚かさを戒めているので、傾聴に値します。線香臭い宗教から、もっとスマートに山崎氏は“積極的無常観”と名付けたのでしょう。今を充実して生きる。ウエルビーイングの極意です。
◇積み上げる生き方
今を生きるのは、確かに人生の知恵です。しかし、またそこには落とし穴もあるのです。出たとこ勝負の行き当たりばったり的生き方になる傾向があるからです。計画性の欠如、一貫性のなさ、建てては壊す積み木崩しです。必要なのは、“積み上げ的生き方”です。人生100年時代のライフスタイルを提唱した、リンダグラットンはその著作“ライフシフト”で説く。現代の株主中心資本主義の四半期決算的生き方では、短期勝負とならざるを得ません。建築にたとえると、仮設住宅を建てるようなものです。しかし、長期の時間で建てようとすれば、大聖堂が建てられる。人生も短命でなく、長寿100年時代なら、素晴らしい事ができる、と言う趣旨を語っています。災害の被災者のための仮設住宅は、直ぐ建てられますが、何十年も住めるものではないでしょう。しかし、スペイン・バルセロナの“サグラダ・ファミリア”大聖堂は、アントニ・ガウデイの設計に基づき、1882年から建築が始まり、二度の大戦をはさんで様々な試練を経ながらも、継続され2034年に完成予定だと言う。実に150年超の年月です。“今を生きる”もいいのですが、こう言う息の長い生き方には負けますよ。
かつてソムリエが教会で、新年の計画を図った時、計画などは共産主義社会のやる事だ、教会はその時々の課題に誠実に取り組めばいい、と言う方がいました。そうでしょうか?バイブルを読むと、天地創造から終末まで、堕落した人類の救いのための神の御計画が着々と進められる、壮大な救済史こそバイブルであることが分かります。そして神様は一人〃の人生にも、デタラメで行き当たりばったりではなく、御計画を持っておられ、使命を与えておられる事が分かります。
大きくは国家のミッションです。中国は“中国の夢”を掲げ、内政的には“中華民族の偉大なる復興”、外交的には“一対一路”と言う大きな計画を持っています。日本は、自由で開かれたインド太平洋外交を故安倍首相が提唱、評価されていますが、それとても中国のビジョンへの対抗として立てられたものです。まして内政のビジョンは?石破首相は、明治以来日本は「強い国」をめざし挫折、戦後は「もうかる国」めざしあるていど成功、これからは「楽しい国」を目指すと言う。何だか夢がないなあ。選挙を通じ、政治家から国家100年の夢を聴くことができなかったのは残念です。「ビジョンのない民は滅びる」とバイブルにあります。壮大な構想を描く人物が必要なのです。ただし、独裁者の独断的ビジョンほど恐ろしいものはない。神の聖霊に導かれた、モーセのような謙虚な器を神は用いられるのです。元旦に当たり貴下の新年に、よき夢を描かれます様祈り、祝福を願いつつ書初めといたします。
「幻がなければ民はわがままにふるまう」箴言29:18(文語訳)
「わたしの霊を注ごう、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」使徒2:17
ああ、感謝せん
2024・12・25
◇クリスマス、クルシミマス!
今日はクリスマス当日で、牧師としては仕事納めです。教会はクリスマスと言うと様々な楽しい行事がありいいシーズンですが、裏方さんは大変です。教会学校の先生方はクリスマス、〃、クルシミマス!と、子供たちの聖誕劇の企画、演技指導、ステージでの演技、父母たちがスマホのカメラで我が子を夢中になって撮影なさるのを映えするよう、配慮と大変です。でも何とかかんとか子供たちのヨセフさん、マリアさん、羊飼いたち、三人の博士たちと役割を果たすのを見て、本人も家族も大満足の姿を見れば、疲れも吹っ飛びます。聖歌隊も街の教会連合の聖歌隊を結成し、JR駅前コンコースで恒例のクリスマスソングの数々を大合唱。キリスト教ここにありと大いにアピール。またクリスマス礼拝、イブ・キャンドル・・サービスでの晴れ舞台での賛美、中には聖歌隊員自身が、クリスマス賛美を歌いながら感動し、涙を目に浮かべる方もあり、「主は来ませり!」を実感したものです。以前の教会堂は駅前の立地条件が良く、電車からも良く見えたものですから、特にイブ・キャンドル・サービスは、それこそ立錐の余地のない来会者で埋まり、毎年のように民放TV局から中継を依頼されたものです。終わると大きな疲れと共に“感謝”を連発しました。
◇ファミリーイベント
さて、今年の我家の、ビッグイベントの一つが、家人の“傘寿”の祝いをホテルの一室を借りて開催した事です。家人はキリスト教ドケチ派?で、何せ貧乏牧師の家計を長年やりくりしてきましたので、身についてしまっています。一方地元の芦屋は天下の芦屋マダムの闊歩する街で、家人のお友達もセレブが結構います。しかし家人はドケチ派教義を貫き、えらいもんです。またキリスト教式生活指導グループ、羽仁元子の“友の会”の最寄りグループに長年所属し、“志は高く、生活は質素に、Lofty Mind,Simple Life”がモットーでしたので、筋金入りです。そう言うわけで出費は大嫌い、こういう祝い事も無駄!とばっさり。
しかし数年前のソムリエの“傘寿の祝い”は、それなりに祝ってもらいましたので、はいそうですかとスルーするわけにもいかず、ソムリエが仕掛け人となって、子供たちや孫たちが企画、コロナ以来途絶えていたファミリーの集まりも久しぶりに“傘寿祝い”を機に再開。ソムリエも何か芸を披露して日頃の家人への罪滅ぼし、いや感謝の念を表明したいと、色々考え準備しました。それは独唱です。中学時代はグリークラブ、男声合唱団、高校時代は合唱部で混声合唱、クリスチャンとなっては聖歌隊のテノールの経験。まあ、これ以外芸の無い人間で、3カ月猛特訓、密かに応接間のドアを閉めてひたすら練習に明け暮れた。ネットで蝶ネクタイもゲット、でも歳とって首が細くなり、蝶ネクタイがやたら大きく感じられ、滑稽感漂う、まあ愛嬌だと居直り、いよいよお祝い会にプログラムの順番が来た。どうも喉が緊張のためか、かすれるがままよ、とばかり大きな声で絶唱!みなソムリエのいでたち、初めて聞くソムリエの絶唱にポカンとしている。拍手と合図、促されたか強制されパチパチと愛想ながらあり、当方は大満足。教会の奏楽者の娘から、お父さんよかったよ、と声がありホットしました。
その時選んだ曲が、ヘンデルの“ああ感謝せん、Dank sei Dir,Herr”でした。ドイツ語と中田羽後先生訳の歌詞で、歌いながらヘンデルの神様への感謝の思いが胸に迫る名曲ですね。
◇ああ、感謝せん!
“終わりよければ全て善し”、とシエークスピアも申しました。本当に一年振り返り、様々な事がありました。しかし、神様は都合いい事も、悪い事も、全てその愛の御手で、よきに変わらせてくださるお方です。“ああ感謝せん”です。スイス議会には“人間の混乱と、神の摂理の御手によってスイスは治められている。”との掲示が掲げられているとか。スイスだけでなく全世界もそうです。来るべき年もこの摂理の神を信頼して、希望を持って迎えましょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」テサロニケⅠ、5:16,17
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。」 ロマ8:28
一年間のご愛読感謝します。来年もよろしくお付き合いください。
(ご注意、日曜聖書集会は、12月29日は集会所休館のためございません。
新年は2025年1月5日の年頭礼拝から再開します。よろしくお願いします。)
雑務と人生
2024・12・18
◇人生は雑務の連続
人生は雑務の連続である、とある意味言えるでしょう。ソムリエの日々でも、本来の仕事は、一日の中で数時間ほどしかできません。勤めていたころは、それこそ勤務時間まるまる仕事そのものでしたが、リタイヤー後はそうはいきません。今までほぼ専業主婦であった家人に任せきりであった“家事”の分担が大きくなってきました。また年齢と共に急激に経年劣化の進んだ健康管理の気遣いも相当に増えました。さらに加えて、新しく開拓伝道を始めたものですから、礼拝の貸会場の使用手続き、集会の設営、プログラム作成、教会学校の準備・・それまでは教会の実務担当者や役員の方々の奉仕で成り立っていた事が一切肩に乗っかってきました。バイブルに牧師の務めは「もっぱら祈りとみ言葉に専念する事」(使徒6:4)と記されていますが、それはそれ以外の雑務はどなたかが引き受けてくださることで実現するのであって、いざ自分でそれらもやらなければならなくなると、ワンオペと言うのは大変だなあと改めて実感しました。雑務の重要性が大きくクローズアップしてきました。
◇ブルシット・ジョブ
雑務と言うと、デビッド・グレーバーの“ブルシット・ジョブ”(クソどうでもいい仕事)と言う本があります。中世まで労働は苦役であり軽蔑されていた。それがピューリタン革命以来、労働は美徳になり、結果ブルシット・ジョブが大手を振って美徳化され増え、本来無益な仕事に従事する者が労働者の半数にまで達すると言う。グレーバーは、5つの具体例を挙げる、①取り巻き、②脅し屋、③尻ぬぐい、④書類穴の埋め人、⑤タスクマスター。解決策として仕事は自動化して、人間にはBI(ベーシック・インカム、基礎的生活費の公費支給)を用意してブルシット・ジョブから解放すべきだと言う。確かに、給与はもらえるが果たしてそのため貴重な人生の時間を費やす仕事なのか、疑問に感じるものが多いのは事実で、最近の新卒学生の離職率の高さはブルシット・ジョブ忌避を如実に示しています。社会は対応を迫られています。しかし果たして、それが全てなのか?
ある時、教会の青年が大学を卒業し、父親の会社を継ぐ前に修行して来いと言われ、ソムリエの紹介した清掃会社に勤め始めた。朝4時には出勤、梅田のビジネスビル街の企業のオフイスの清掃の仕事です。当時は喫煙もあり、汚れた灰皿、トイレ掃除、フロア、ごみ箱・・とにかく出勤時間までに快適にオフイスが整えられる様、時間との戦いの中でベストを尽くす。そしてビジネスパーソンが出勤する前に、清掃会社社員は姿を消していなければならない。社員はきれいにビジネス環境が整ったオフイスを当たり前と思って活動を始める。かの青年は、いや世の中がスムースに快適に動いている背後に、目の見えない処で、地道に仕えている仕事、世間ではそれこそ“ブルシット・ジョブ”とさえ呼ばれる仕事が支えているんですね、と述懐していました。清掃会社はクリスチャン・カンパニーで、イエス様が「わたしが来たのは仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)とおっしゃった事をモットーとしているとか。ソムリエはその話をなるほど、〃と聞いていましたが、いざ自分がその雑務を実際引き受けざるを得なくなると、大変でした。そもそも、みんなが社会のスポットライトを浴びる意義ある仕事ができる訳ではないし、それが成り立つ背後に雑務の引き受け人がいなければならないのです。もちろん、AIやロボットが発展し、雑務を引き受けさせるようになるでしょうが、それでも人間でなければできない雑務がありますよ。ですからこれをマイナス評価だけでなく、積極的に評価すべきなのです。このクリスチャン・カンパニーの社長はそのことに目が開かれた人だったのです。
昔、内村鑑三と言う有名な伝道者がいました。その預言者的社会評論は高く評価され、その弟子には東大総長2人、最高裁長官がいます。執筆、講演に大変忙しく活動し秘書を募集しました。応募の中から青山学院を出たばかりの青年が採用されました。面接の際、当時の大卒初任給以上の高額を提示されびっくり。当時は書生さんが普通で、衣食住は保障されるが、給与はなく小遣い程度が普通だった。理由を内村に尋ねると、人生は雑務の連続だ、しかしこれに労力を費やすと余の本来のミッションが果たせない。だれか余の雑務を代わって引き受けてくれる者には最大限の報酬を用意するのは当然である、と述べたと言う。さすが、内村は雑務の意義を理解し、その重要性と評価をしていたことが分かります。
◇雑務の新しい面の発見
さて高齢になった者としての雑務の新しい側面の発見があります。確かに高齢になると、雑務が面倒になる。若い頃はサーとできていた何でもないことに時間と労力がかかる。そして最初に述べた様に本来すべき事が、わずかしかできず日が暮れてしまう。雑務処理に一日があるようだ。では雑務から解放されればいいのか?ある意味そう。しかし別の意味でノー。ソムリエは長らく高級高齢者施設のチャプレンを勤めてきました。ホテルの従業員の様なユニホームを着用した職員が、至れり尽くせり。食事はそれこそ有名ホテルのコック長だった方が、毎食素晴らしいメニューを提供し、環境もリゾート並みに素晴らしい。入居者は元校長さん、社長さん、国家公務員上級職経験者人柄も円満で、ソムリエも尊敬できる方々が多かった。文句なしでした。しかし一つだけ残念に思ったことがあります。生活の雑務から解放され、何もすることが無くなると、あんない優秀だった方がと思う人が、あっという間に老けていくのです。中にはこのことに気づいて、リハビリや心身の機能維持のため施設の筋トレマシンを活用したり、趣味のグループに参加したりしますが、別にそうしなくても十分生活できるとなると、ついつい身が入らない。そして機能を失われるのです。もちろん社会で十分活躍され、貢献されたのですから、もういいではないかと、最後は安らかに過ごされて当然だと言われればその通りです。しかし、人生100年時代に、余りに早く、至れり尽くせりの施設は問題だと思いましたね。
◇雑務の向こうに
年末に終わった大河ドラマ“光る君”を視て、平安貴族の生活がうかがえますが、下級貴族は生きるのが精いっぱいで雑務に追われていたようですが、上級貴族こそはまさに雑務から解放された人間ですが、彼らは何をしていたのか。政治と文化と色恋の様ですね。政治哲学のアンナ・ハーレントの「人間の条件」によると、人間の仕事には、①レイバー(苦役、人間の生存条件の確保としての仕事)、②ワーク(消費財の生産に従事する仕事)、③アクション(政治、①②から解放された人間相互の関係構築の仕事)、と分類し、雑務から解放された人間の政治活動に注目しています。古代ギリシャのポリス(都市国家)を形成する市民の仕事としての政治を念頭に置いています。要するに雑務から解放された人間は政治活動に向かうのですね。
しかし、それにしても、自己の生存条件の確保としての雑務は厳然として残りますよ。健康維持の雑務は逃れることができません。もちろん人間最後はそれさえままならず、人の介護なしに生きられないようになりますが、それまではベストを尽くすべきですね。そしてそれが却って元気に生活できる様になるのですから不思議です。
ソムリエは、政治というものが何らかの共同体形成の働きと理解するなら、信仰による共同体形成、教会生活程楽しいものはないと、長い信仰生活で実感しています。利害得失の無い、純粋な交わり、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に涙するキリストにある兄弟姉妹の交わりは、最高です。今年も国内各地さらに海外の教友と交わすクリスマス・カードを楽しみにしています。雑務の向こうに見えるものがあるのです。
また、バイブルは我々の人生は我々のものであって、我々のものでない。つまり神様から委託された人生と言う信仰があります。ですから、自分本来のしたい仕事だけでなく、雑務も含めて委託されているのです。ですから自分に委託された人生を目いっぱい管理し、活用する事が求められているのです。願わくは主人から委託されたタラントを死蔵した怠惰な僕ではなく、タラントを活用して倍増し、主人のおほめに与った忠実な僕の様に人生を目いっぱい活用したいものです。そしてこの世の仕事も雑務も終えて、神の御前に立つとき、神様の評価を頂戴したいものです。イエス様は大工の子としてクリスマスに生まれ、育ち、公生涯からはやめる者の癒し、孤独な者の友となり寄り添い、最後は十字架に全ての人の罪を負い死なれ、三日後に復活し、今も救いの手を教会を通して差し伸べておられる。まさに仕えることに徹しられた、忠実な主の僕ではありませんか。
「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人一緒に喜んでくれ。」マタイ25:21
スピリチュアルな健康とは
2024・12・4
◇健康とは何か?
去る9月22日、NHKラジオ第一朝の6時45分、“こころをよむ”番組で、精神科医石丸昌彦氏の“こころの病で文化をよむ”(12)と題するお話しがあった。今回は“健康とスピリチュアリテイ”と言うテーマでした。まず健康とは何か?です。1948年に国連の機関の一つにWHO(世界保健機関)があります。世界的パンデミック、コロナ禍の対策に苦心した機関であり、パレスチナのガザの惨状の中、こどもたちにポリオが流行、ワクチン接種中は戦闘中止を働きかけた事でも貢献しています。WHOが健康の定義を発表。「健康とは、単に病弱でないと言う事ではなく、身体的(body)・精神的(mind)・社会的(social)に十分に機能(complete well-being)している事である。」とした。まず、普通健康と言うと病気でないと思うが、WHOはそういう消極的健康観を超えて、積極的健康観を提示した画期的健康の定義です。さらに3分野(身体、精神、社会)的健康観を提示。身体・精神の健康は分かるが、社会的健康は斬新ですが、人類は第二次世界大戦の悲惨さを経験し、社会が病んでいると個人の健康も維持できない歴史的経験から学んだ健康観だと言う。現在日本社会も深く病んでいる面がありますね。しかし医師はさらに言う、1980年代にWHOの総会に3分野にスピリチュアルな健康を追加するよう提案がされたと言う事を重視する。これはイスラム圏からの提案であった。医師が米国に留学した時、お子さんを幼稚園に通わし、最初の保護者説明会で、園長先生が、当園は、身体的・精神的・社会的・霊的な教育を行っています、と話された。聞く保護者も何も違和感を覚えていない様子。一神教宗教圏では、神は目に見えない霊的存在であると常識であるからだろう。だから宗教関係抜きの健康や、教育はあり得ないのだろう。しかし、日本では霊的と言うと、違和感やうさん臭く思われる。青森の恐山のいたこ、霊媒や占い、安倍晴明の陰陽師みたいなものを連想するからだろう。だから厚生省は、スピリチュアルの訳語に困った。意味ある生き方みたいに考えたようだ。結局、スピリチュアな健康観追加項目は、WHOの総会で採択されず、厚生省はホットしたと言う。
◇スピリチュアルな健康
だが、医師は言う。WHOにスピリチュアルな健康観は採用されなかったが、だからと言ってそれが存在しないことではない、と言う。特に、一神教の霊的理解のバックグラウンドない日本でも超高齢化社会となって、高齢化時代が長らく続き、死を考えながら生きざるを得ない。また団塊の世代の大量死の時代に突入。人は死んだらどうなるか、人はどこからきてどこへ行くのか、自分の人生には意味があったのか。過去の失敗や、自責の念にさいなまれる。こういうスピリチュアル・ペイン(霊的痛み)の訴えが、医師の精神科に多くなったと言う。こんなことは医学や介護の分野を超えた健康観の新たな分野であることを痛感すると締めくくられた。
医師の誠実な健康観に深く同感する者です。高齢化だけでなく、災害死でも同様な問題が起こったのです。東日本大震災で多数の方々が亡くなり、また死の恐怖に直面した人たちが精神科を求め、医学では対応できるものではなかったのです。そこで東北大学に、臨床宗教師講座が開設され、死の問題に悩む人たちへの対応を始めたのです。だが、公的資格では特定の宗教を勧めることはできず、現場の僧侶や、牧師の臨床宗教師でも、隔靴掻痒に歯がゆい思いなのです。医療や、カウンセリング、精神療法で精神的安定を得ればいい、それほどスピリチュアル・ペインは浅いものではないのです。
◇スピリチュアル・ペインとホスピス
欧米の病院には、病院付き牧師チャプレンがいて、こういう霊的痛みにキリスト教信仰を以て対応します。またもはや医療(キュア、cure)の手が届かない、不治の病の人への介護(ケア、care)がなされます。有名なホスピス運動です。日本でも東京の聖路加病院や、大阪の淀川キリスト病院、沖縄のオリブ山病院のホスピスは有名です。最近は、終末期医療(ターミナル・ケア)と言うと絶望する人もいるので、緩和ケアと言いますね。そして病の初期から緩和ケアが施されるようになりました。大きな前進だと思います。
しかし、ここで問題があります。スピリチュアル・ペインを緩和すればいいのか。キュブラーロスの死のプロセスを学んで、死のこころ備えができればいいのか、と言う事です。 「死の棘は罪である」コリントⅡ、15:56とバイブルは告げています。「人は一度死ぬことと、死んだ後裁かれることは定まっている。」ヘブル9:27と厳粛に告げています。たとえ平安に死んでも、罪ある魂は死後裁かれて地獄に堕ちる。人がどれほどあざ笑おうとも、非科学的だと非難しても、魂はそんな事お構いなく、死後の審判を直観して慄くのです。ですから、死後のメッセジを説くバイブルをいくら軽視しても、バイブル自身は意に介せません。問題はバイブルにあるのではなく、科学信仰に洗脳されている日本人にあるのですから。たとえて言うと、月の裏側は地球から見ることはできません。しかし、月面周回のロケットから月の裏面映像中継があれば、疑うことなく信じています。だのに死後の世界を報告するバイブルは信じない。神様だけが死後の世界を御存んじで、神の啓示であるバイブルは、月の裏面映像中継よりさらに信用性があるのは当然ではないですか。
◇不都合でも真実を語れ
だが同じキリスト教でも、いわゆるリベラル神学は、自然科学さらに歴史科学の、極端な立場の影響受け、バイブルの歴史性、客観性を疑い、バイブルの死後の審判を曖昧にして、無責任な答えしかできない神学者や教職が多い。ですから終末期の患者の深刻なスピリチュアルな問いを受け止められない傾向にある。とにかく、心が平安であることが彼らの最優先課題で、そのため仏教でも、怪しげな新宗教でもキリスト教病院や、ホスピスに呼んで、話や怪しげな高価宗教物品を買わされてしまう事がある。こういう立場のチャプレンや教職は、それこそ死後、神に責任を問われますよ。「あなた方は、平安がないのに平安、平安と言って、手軽にわが民を癒す。」エレミヤ8:11と。たとえ平安な臨終であっても、死後神の裁きに合えば、なぜチャプレンは本当のことを告げてくれなかったか?と告発されますよ。この点を、日本のホスピス運動の最前線で、福音主義に立ってスピリチュアルケアをなさっている、沖縄のオリブ山病院理事長の、田頭真一先生は物分かりが悪い、頑固だとか、あらゆる内外の攻撃にも拘わらず、人の罪、キリストの十字架による贖罪による罪の赦し、天国の確信、を貫いて尊敬します。
かつて哲学者、梅原猛氏は、最近の浄土系仏教僧は、死後の裁きも地獄・極楽も説法できない。だから布教に力が無い、衰退している、と警告した。その原因は学問仏教の普及にある、学問は全てを相対化してしまう。しかし信仰はある面、理性の根拠のない断言です。死を前にした、信徒のスピリチュアルな問いに、死後はあるとも言えるがないとも言える、さばきも同様だ、などと言うたわ言が通用しますか。かつて、米国の有名な伝道者ビリー・グラハム師に電話がかかってきた。グラハム先生、神様はいるのかいないのか?お答えください。ロック歌手、エルビス・プレスリーの死の直前の電話だったと言う。もちろん、グラハム師は明快に神の存在、死後の審判、キリストの贖罪、悔い改めと信仰を説かれた。結果はソムリエは存じませんが、グラハム師は使命を果たされたのです。
学問知と共に臨床知と言うのがある。われわれ現場の牧師は、生きるか死ぬかの人に、曖昧な救いにもならない救いを説いてはならない。明確に福音を説き、真のスピリチュアルケアをして差し上げるのが使命ですよ。スピリチュアルな健康とは何か今一度深く考えさせられたラジオ番組でした。
「わたしが悪人に「あまたは必ず死ぬ」と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。」エゼキエル3:18
大川修平牧師召天5周年記念に際して
2024・11・27
◇大川牧師召天記念会
毎年12月の第二日曜日は、ソムリエが兄事した故大川修平牧師の召天記念会が師の牧された高知ペンテコステ教会で催されます。今年も、早いもので5周年を迎えます。そこで毎年この頃になると、ソムリエは受けた恩義の深さを思い起こし、感謝の念を新たにしており、一筆その思いを書く事としております。
◇歴史家としての大川師
今年は、特に大川師が、牧師としてまた聖書学者として聖書の専門家であった事はもちろんながら、歴史にも造詣深くあられたことを思い起こしております。それはまた、ソムリエの貧しい著作への理解と、激励につながっている事をここに記します。生前の大川師とお話していた時を思い出しますと、折に触れその歴史への関心と、史実の詳しい事に驚かされたものです。もちろん元来が京都大学文学部英文科さらに大学院で、御輿主任教授の下にピューリタン文学を専攻され、京都府立の諸高校で英語教育に従事され、さらに恩師の推薦で国立高知大学の英文学助教授で研究と教育に専念された経歴の加減で、英文学史に該博な知見をお持ちであったことは当然です。縦横無尽に英文学の歴史的展開を、楽しそうに述べられる師の若き学究時代の姿が思いこされます。おかげでソムリエも耳学問の英文学史の断片を知る事が出来ました。さらに広く世界史にも間口大きく、得意の語学力を生かし、英語はもちろん、ラテン語、ドイツ語、フランス語、ロシヤ語、エスペラント語をマスターされての本格的な歴史への関心、やがて牧師に召されてからは、ギリシャ語、ヒブル語と究められ、「イスラエル史」の著作をものされています。あの多忙な開拓伝道、四国ホーリーランドビジョンを掲げての国内伝道、さらに世界宣教の実践の中、いつ仕入れておられるのかと思うのですが、雑談でお話される歴史は興味が尽きないものがありました。また日本史についても、お詳しく史実の年代を正確に覚えておられるのに、社会科教師であったソムリエは汗顔の至りでした。それは師の、リダーシップについての御著作に、日本の歴史上の人物のリーダーシップの違いを描かれる際に、歴史研究の成果が発揮されています。およそ、ペンテコステ派の教職を、反知性主義と決めつける向きが多く、ある程度当たっており、ソムリエは大いに反発したものですが、事大川牧師には全く当たらず、あふれる知的探求と霊的情熱が混然となった類まれなる器であられたのです。もう少し長く生きて下さって、知的過剰で霊性の欠けた、あるいは逆に霊的単純すぎて知的に欠けた、バランスを欠く現状のキリスト教界が、健全な方向に向かうため、どれほどご貢献頂けたかと惜しまれてなりません。
◇歴史教育者としての大川師
最後に、ソムリエの個人的思い出を一つご紹介します。それはソムリエが高知ペンテコステ教会に講師としてお招きいただいた時のことです。夜は集会でお話をさせて頂いたのですが、昼間には大川師と夫人が車で高知の歴史的事跡にご案内下さったのです。坂本龍馬の生家、板垣退助記念の家、寺田寅彦の生家と勉強部屋、高知市立自由民権記念館、高知城・・今思い出しても充実したルートでした。しかも限られた時間の中で豊富な高知の史跡の中からこれらを選ばれたのには、当時ソムリエが関心を持って研究し、後に「モダニテイ上下巻」に著した内容の裏付けとなる史実の多くが含まれていたのです。一つには近代市民社会形成におけるキリスト教の影響であり、特に明治維新期の自由民権運動による日本の近代化の重要性です。竜馬、板垣、自由民権記念館はその実例です。大川師が人権おばあさんと言う女性を紹介された。明治政府が普通選挙を実施したのはいいが、女性が排除された時、人権おばあさんは納税を拒否した。税の使い道を決める議会に参加できないのであれば税を納める必要もない、と堂々たる論陣を張ったのです。さすが板垣退助の「立志社」創立の自由民権運動の雄、土佐の“はちきん”女性の面目躍如で感動しました。また“天災は忘れたころにやってくる。”の名警句を残した明治の物理学者寺田寅彦の生家と少年の日に勉学に打ち込んだと言う勉強部屋は明治の溌溂とした精神を感じ取られました。寺田は夏目漱石門下で、単に物理学者として象牙の塔に籠らず、その豊かな文才を用いて、一般市民に科学的思考の重要性を説き、日本の近代科学の進展に貢献された方です。近代科学の起源におけるキリスト教の影響を解明したソムリエの著作に大きな裏付けをあたえてくれたものです。この様に大川師は、学者としてこの人物は、何に関心があり、その助けになるのは何か、と洞察できる類まれなる教育者でもあられたのです。ソムリエはその恩義に報いることができない浅学菲才を嘆く者ですが、今年馬齢を重ね82才にはなりますが、少しなりとも大川師の温かいご配慮にお応えできるよう、小さな教会と、文筆活動に励みたく願っている次第です。
神様が日本に大川修平牧師をお遣わし下さり、高知ペンテコステ教会、大川内科を目に見える形で残され、その志を受け継がれる御家族、多くの信徒の方々によって、神の愛が伝えられています事を感謝します。またソムリエの様な離れた立場の者にも多大の影響を残されありがたく思っています。さらに大川師の援助で、様々な働き進められた方々も多々おいでです。年月とともにその実りは豊かになることを信じ願いつつ、感謝を込めて筆を置きます。
「ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった。」マルコによる福音書4章8節