“あなたの手にあるものは何か?”
2025・10・8
バイブル・ソムリエ 亀井俊博
◇気になる事
日頃、気になっている事があります。結構いそがしくしていますので、いちいち気にしてたら、前に進めないので、やり過ごしています。しかし、時には立ち止まって、自分なりの最近の言葉でいうと“解“を出しておかないと、ずっと未提出の宿題を抱えているようで、精神衛生上よろしくありません。その一つが、”行政が何とかすべきです“、“国が乗り出すべきです”、“放置している行政の(国の)怠慢です。”・・と言うコメントです。TVの昼おび番組でも、ニュース番組でもいいのですが、何か社会に問題が起こって、専門家にコメントを求めると、大抵最後はこの様に言います。それを受けてキャスターが、“行政や国の善処を求めるものです。では次に・・”。お決まりのパタンです。そうだな、警察は何してる、消防は・・市役所は・・見聞きする者も一緒になって批判し、一件落着です。少し注意してみてください。この手のパタンが実に多いですよ。ソムリエはこれが気になると言うか情けないと言うか。
なぜかと言うと、確かに世の中、TV番組の“憤懣本舗”ではありませんが、色々腹立たしい事が多い。しかし、それを結局一切合切、行政や国に解決を要求すべきなのでしょうか?そんな事をすれば、ますます行政の仕事は増え、予算も人員も増大しますよ。ただでさえ、120兆円もの国家予算に膨れ上がり、自民党総裁が決まっても結局少数与党で野党の要求を飲まないと、予算や政策が可決されなくなり、野党は大衆迎合ポピュリズム政策で、歳入無視の予算要求をかさ上げする。国家財政破綻ですよ。また、何でもかんでも行政頼みでは、行政改革どころか、ますます大きな政府になって官僚国家になります。今年の学生の就活志望は、第一に公務員だそうです。とんでもないことです。何か基本的に間違っています。
◇市民・国民の矜持
それは、市民、国民の責任と努力と誇りの放棄です。これを失くしてお上に何事もお預けとは、情けない。市民、国民の自助、共助が基本にあって、その上での公助でしょう。いや、公助のセーフテイネットがしっかりあってこそ、自助、共助も成り立つのだ。公助による生存権の保障がないと不安だと、としたり顔で説く識者も多い事は承知していますが、ソムリエはそれは程度問題だ、最近の傾向は度を越していると思う。パターナリズムといいますね。おんぶにだっこ、行政・国家のゆりかごの中で揺られて夢を見ながら眠る赤子の様な市民・国民、になりたいですか。もちろん、社会的弱者には、われわれの税を使って、基本的人権のベース、生存権の保障(憲法25条)をすべき事は言うまでもありません。しかし、自助ができる人間までもが、こう言う、責任逃れの矜持を失ってはなりません。
そもそも、日本の近代化は明治維新以来、欧米と違って後進近代化でどうしても“上からの近代化”になりがちでした。ですから官主導、民従属の傾向、官尊民卑が長年身に染みていました。いつぞやも、快速電車内で、数名の男性が話していました。彼らはどうも滋賀県庁の役人らしく、二言目には“民間が・・、民間が・・”とさも見下げた様に言うのです。だれが君たちの給料を払っているの分かっているのかと、頭に来ましたが、これが天皇の官僚から、「すべて公務員は、全体の奉仕者であり、一部の奉仕者ではない。」、と憲法15条で明記された、一部とはいえ現代公務員の実態なのかと呆れたものです。時代錯誤も甚だしい。こうなると、市民・国民も議員も公務員も意識改革が必要です。もちろん、ソムリエの知人、教友の公務員、議員の方々はみな尊敬すべき方々が多いのですが。
◇タックス・ペイヤー、タックス・イーター
はばかりながら、ソムリエは社会に出て以来、タックス・ペイヤーではあっても、一度もタックス・イーターであったことはありません。ずっと民間で働き、それなりの税額を忠実に収めて参りました。“小言幸兵衛”の異名を取った政治評論家の故三宅久之さんは“愛妻、納税、墓参り”を人生のモットーとしていたそうですが、墓参りは別にして同感です。納税は民主主義国家の市民・国民の義務であり、責任であり、誇りでしょう。市民・国民の命を削って収めた血税を使う公務員、議員は、真に市民・国民に仕える公僕であってほしい。また市民・国民は税逃れに苦心もいいが、タックス・ペイヤーの誇りと責任を忘れないようにしたい。
◇あなたの手にあるそれ
旧約の偉大なリーダー、モーセは元来ヘブル人であったが、故あって古代エジプト帝国の王宮で育ったが、街で同胞ヘブル人が奴隷状態でエジプト人に苦しめられているのを見て、座視できず、奴隷解放に立ち上がる。しかし、王宮から追放され何の力もないのを見て、わが身の非力を嘆くが、神ヤハウエはモーセに問うた、「あなたの手にあるそれは何か?」(出エジプト4:2)と。かれは当時羊飼いに身をやつしていたので、手には権力の富も武力もなく、ただ一本の牧羊の杖のみ。神はそれを用いてモーセに出エジプトの偉業を為さしめたのです。市民には権力も、武力もない。しかし、日本一億の民にはそれぞれに、モーセの杖の様な、日頃使い慣れた能力、賜物、才能、経験、知恵があります。これを互いに持ち寄って助け合う、共助の世界。それが日常的に体験できるのが、キリスト教会です。ソムリエも半世紀、牧師として様々な方々に助けられ、及ばずながらお助けもし、お互いの手にあるものを捧げて補い合う、共助の愛の麗しさを体験しております。願わくば、この輪が社会に広がります様に。
「あなたの手にあるそれは何か」出エジプト4:2