下表は、奈良文化財研究所の「木簡庫」で、「白髪」を検索し、その結果を引用したものです。
延喜式神名帳に載る全国の神社は、2,861社ありますが、その中で白髪神社は、武蔵国幡羅郡の一社だけです。木簡庫で、「白髪」を検索すると630年頃から784年頃までで47件(1件は白髪の文字なしで46件)と、かなりの数がヒットします。木簡は一次史料といえるものです。
それより年代がずっと後の一次史料である別府文書(熊谷市史資料編2)は、1204年から1479年迄に42件しかありません。白髪部の御名代が国内の彼方此方に実際に居たことは事実であったと考えられます。
文武天皇は大宝律令を大宝2年(702)、諸国へ頒布しましたが、白髪部は、それ以前から存在していたようです 木簡の[2]筑紫国嶋評は、郡でなく評ですので、太宰府市教育委員会は685年~701年頃のものと推定しているようです。嶋評とは、嶋郡(志麻郡)のことで、筑前国にあったようです。
これ以外に地名が書かれているのは、大宝律令以降のようで、[9]参河国,[12]伊予国,[18]の三嶋上郡白髪部里は摂津国とのこと、[21]上総国,[32]尾治(尾張)国,[35]足羽郡は越前国とのこと、[37] 伊予国,[39] 安房国,[41]神屋里は安房国とのこと、[43] 伊予国,[44] 伊豆国です。国の数からいえば、筑前国,参河国,伊予国,摂津国,上総国,尾治国,越前国,安房国の8ヶ国となります。
その国名が分かる国の中に、白髪神社はありません。武蔵国の白髪部に関する木簡は、見つかっていないようですが、延喜式神名帳に載る白髪神社は、幡羅郡の白髪神社、ただ一社だけです。ここに白髪部(清寧天皇)の御名代がいたことは確実だったと考えられます。
淸寧天皇二年春二月(481)、天皇は子が無いことを悔やみ、そこで大伴室屋大連を諸国に遣わし、遺跡を後世に観ぜしめることを、こい願い、白髪部舎人、白髪部膳夫、白髪部靱負を置いたようで、見つかった木簡は8ヶ国しかありませんが、武蔵国の幡羅郡にも、清寧天皇の御名代部である白髪部を置き、その御名代が白髪神社を創ったと考えられます。
年代を下り、延喜式(神名帳含む)は、延長5年(927)に撰進され、康保4年(967)に施行されました。白髪神社は、この時には、整備された社殿があり、祈年祭奉幣にあずかっていたようです。
この白髪神社について、吉田東伍博士が「白髪神社擬定私考」の中で、下記のように考察しております。(楡山神社ホームページより引用)
1.延喜式神名帳に列記の次序により幡羅郡の小社四座のうち白髪神社の第一に揚げられしは中央郡家の所在地もしくは著顕のもの指点し易かりしなればならんといふ事
先ず、幡羅郡の小社四座の内、白髪神社が一番目にあるので、