東山道武蔵路と呼ばれる道は、武蔵国府ができる以前に、打越山を通って東海道に通じていたようです。
それならば、最初から東海道の所属とされなかったのか? なぜ武蔵国は、東山道の所属とされたのでしょうか???
東山道武蔵路について、木下 良氏が「古代日本の計画道路 ―世界の古代道路とも比較して一」の中で、次のように記されています。
“1986年以来,境 町と新田町で幅13m、高崎市と玉村町で幅9mの道路が発掘され、これらが奈良時代の東山道に当ることが判明した。(中略)
東山道武蔵路と呼ばれている道幅は12mであったようですが、東山道本道は、どの位の道幅であったのか調べてみました。
下載は、高崎市中大類町の高崎情報団地遺跡で発見された東山道遺構のようです。道幅は9~10mとありますので、溝幅を除いた道幅と思われます。
東山道武蔵路
日本武尊の東征は、日本書紀の神話的伝承ですが、景行天皇30年(100)10月、東征のため伊勢神宮に拝して、初めて駿河に至り、そこから相摸に進み、船で海を渡って上総へ進み、舟で陸奧国へ入りますが、古事記では、相模の走水の海から海を渡って上総へ、そこから陸路で陸奥に向かったとされています。...
...武蔵国は、どうして当初、東山道の所属とされたのか?