和名類聚抄 に見える幡羅郡の幡羅郷、新編武蔵風土記稿などで、現在の深谷市の幡羅が幡羅郡の本郷と見られておりましたが、その幡羅郷は、深谷上杉氏の上杉房憲が深谷城を築いた康正の頃(1455~1457)、東の東方郷と西の西島郷の中央を「原の郷」として分郷してできたようで、和名類聚抄が書かれた承平の頃(931~938)には、存在していなかった郷になります。

 このことは、「武蔵国郡村誌」に書かれていました。詳細は、白髪神社のページをご覧ください。

 幡羅郷は、幡羅官衙遺跡群が見つかった深谷市の東方と熊谷市の別府を合わせた範囲が、幡羅郷であったと考えられます。