期間:1874年4月15日~5月15日
場所:写真家📷ナダールのアトリエ
参加者:30名
出展作品数:165点
第1回印象派展は「共同出資会社」により開催されました。
同組織は年会費60フランの組織で、一年に最低でも2点の作品の出品が保証されていました。
なお、同社は1874年には解散しています。
第1回展は、とりわけ参加人数が多かったことで知られています。
来訪者の総数も、3500人以上とされますが、作品の売れ行きは不調でした。
「印象派」の名前は、批評家ルイ・ルロワが第1回展出品作であるモネ《印象・日の出🌅》の評価👇に用いた言葉に由来します。
セザンヌはこの回にはすでに参加しています。
マルモッタン美術館所蔵の風景画。朝もやの中、逆光によりシルエットを黒々と浮かび上がらせる船を前景から中景に、煙を吐く煙突と港のクレーンを後景に描く。まん丸の赤い太陽の光は、 灰色がかった海の上に反射し、水面の波の影と同様に、水平方向へと延びる、短いタッチを並べることにより表現されている。
ルイ・ルロワ「印象派の展覧会」(1874年)のテキスト中で、「ベルタンの弟子であり、数々の政権の下でメダルや勲章を受けてきたジョゼフ・ヴァンサン氏」が「印象」を受けた作品。このルロワの記事が、「印象」派の名前の定着に大きな役割を果たしました。
期間:1876年3月30日~4月30日
場所:画商デュラン=リュエルのギャラリー
参加者:19名(前回より11人減少⇩)
出展作品数:252点(前回より87点増加⇧)
参加者は10人以上減ってしまいましたが、出品数は87点も増えました。
第1回展の時よりも、広く報道され、好ましい評価を送る批評家もいました。
カイユボットが初めて参加し、高い評価を受けた回でした。
一方で、ルノワールの《陽光の中の裸婦》は酷評を受けました。
期間:1877年4月4日~4月30日
場所:画商デュラン=リュエルの画廊の近くの、ル・プルティエ通り6番地のアパルトマン
参加者:18名(前回より1人減少⇩)
出展作品数:241点(前回より9点減少⇩)
主要画家がそろった回。
入場者は8000人を数えたとされます。
今回、セザンヌが再度参加しました。
期間:1879年4月10日~5月11日
場所:オペラ座大通り28番地
ドガが表明した、サロン出品に対する反対意見を巡り、印象派の画家たちの間で論争に。
結果、この回にはルノワール、セザンヌ、シスレーは出品を控えました。
モネは出品しましたが、作品の選択はカイユボットに任せる措置を講じました。
結果、ドガが主導する展覧会となりました。
ゴーギャンが初めて作品を出した回でした。
期間:1880年4月10日~4月30日
場所:ピラミッド街10番地
ルノワール、セザンヌ、シスレーだけでなく、モネも不参加を決めました。
作品展示数は少数で、批評家からも好ましい評価を得ることができませんでした。
期間:1881年4月2日~5月1日
場所:カピュシーヌ大通り35番地
前回に引き続き、今回もモネたちは不参加でした。
ドガと親しい画家たちが展示作を出品しました。
スタイルに関しては、レアリスム的傾向の強い絵が多く並びました。
ゴーギャンは今回も作品を出しています。
期間:1882年3月1日~
場所:サン=トノレ街251番地
ゴーギャンとピサロの働きにより、初期の主要メンバーであるルノワール、シスレー、そしてモネが出品にこぎつけました。
その代わりに、ドガは不参加でした。
これにより、ドガは惜しくも「印象派展」皆勤賞とはならず、ピサロだけが全8回すべてに出品した唯一の参加者となりました。
印象派展史上最少の9名という、少数の出品者のみが参加する回でした。
期間:1886年5月15日~6月15日
場所:ラフィット街1番地
モネとルノワールはまたも不参加でした。
ピサロはこれにて全回参加となり、今回は息子のリュシアンも作品を出しています。
ゴーギャンは第4回から今回まで欠かさず出品。
モネは不参加で、掉尾を飾ることはありませんでした。
象徴主義のルドン、新印象主義・点描派のスーラやシニャックも参加し、新しい傾向が強まった最終回でした。