研究内容
生物人類学研究室
わたしたちはみんな一回限りの人生を生きています。そしてそれぞれの人生に物語があります。もし、自分が隣の家の子供として生まれていたら、縄文時代の狩猟採集民として生まれていたら、あるいは、アフリカの熱帯雨林に暮らすチンパンジーとして生まれていたら、どのように成長し、毎日を過ごし、子供を産んだり産まなかったりして、そして亡くなっていったでしょうか? 生物人類学研究室では、そうしたいろいろな「わたしたち」(ホモ・サピエンスや進化的に近しい種) の生きざまやライフヒストリーを復元し記述しています。さらに、文化や自然環境の違いがわたしたちの生きざまに与える影響を調べ、ひとりひとりの生きざまの違いが長い時間軸での進化適応や大きな社会情勢にどう影響していくのかを明らかにしたいと考えています。
同じ現代を生きる人が相手であれば、インタビューをすればその人ごとの生きざまについて語ってくれるでしょう。しかし、言葉の通じないサルや、もう亡くなってしまった過去の人が相手だったら? そのような場合には、理化学的な分析が威力を発揮します。糞、体毛、骨、歯などの体組織にはその個体の生きざまが記録されており、適切な分析を実施すれば、その個体の人生のある側面についての情報が得られます。そうした情報は往々にしてごく限られた側面に関するものですが、それでも非常に有用なものです。
本研究室では、食性や授乳・離乳歴や生息環境を復元できる安定同位体分析や、生理状態や由来する生物種・体組織を推定できるプロテオミクス分析を生物試料に応用し、われわれヒトを含む過去の人類や、現生の霊長類の生きざまを主に調べています。また、生きざまの異なる側面を復元できる分析・解析手法の開発もしています。しかし、対象やアプローチに縛りはありません。霊長類以外の脊椎動物の生きざまを調べたり、現代人に対して社会学的インタビューを実施したりもしています。アプローチはフィールドワークからラボワークまで多岐にわたり、発掘や野生動物の調査に参加して試料やデータを集めたり、実験室で前処理をして分析をしたり、計算機を利用してデータ解析をしたりプログラムを書いて数理モデルを構築したり、さまざまな分野を横断して文理融合の研究を進めています。
生物人類学研究室では、特に以下のような研究を実施してきました。
生物考古学
遺跡から発掘された古人骨や動物骨を分析し、過去の人類や動物の生きざまを調べています。特に、出産、子育て、食べ物、死亡に注目してきました。これらは生物集団の人口動態や健康状態を決定する重要な要因です。どのような文化や自然環境のもとで人類や動物の生きざまが決まり、それが進化適応や社会情勢にどう影響していくかまで明らかにできると良いなと考えています。
安定同位体分析や古代プロテオミクス分析や古代DNA分析 (古代ゲノミクス) によって、遺物に残された微量の分子を調べ、そうした証拠をもとに、すでに観察することもできなくなった過去の生命現象を明らかにします。考古学者や骨形態学者と共同で研究を進めており、発掘調査や骨標本の整理にも参加します。
たとえば、これまでに以下のような研究を実施しています。
江戸時代の育児書と実際の子育ての違いを復元 (参考: 江戸時代の子育ては育児書の推奨に従っていたか?)
約1千年前に亡くなった仔犬の死にざまを復元 (参考: 仔犬の骨はおっぱいの夢を見るか?)
江戸時代のあるおばあさんの一生を復元 (参考: ゆりかごから墓場まで)
縄文時代に子供が何歳まで母乳を飲んでいたかを復元
生物考古学のデータを解釈するための数理モデルを開発
魚骨の分析をもとに海洋環境の変動や漁撈活動の変化を復元 (参考: 魚の骨から復元する過去の漁撈活動と気候変動)
霊長類生態学
チンパンジーやオランウータンなど特にヒトに近縁な霊長類を対象にして、行動観察からは知るのが難しい生命現象を調べています。観察対象の霊長類個体を識別して行動を観察すれば、多くのことがわかります。しかし、観察からは知るのが難しい行動や、観察から調べるにはあまりの多くの手間と労力がかかる行動も多く存在します。安定同位体分析やプロテオミクス分析を応用することで、そうした問題を解決したいと考えています。
糞や体毛や採食物など、個体を傷つけないで手に入る試料を安定同位体分析したりプロテオミクス分析したりすることで、コドモの発達、食性、健康状態などを調べています。動物園などの飼育個体で基礎検討し、野生の個体に応用します。霊長類学者や生態学者と共同で研究を進めており、野外調査にも参加します。
たとえば、これまでに以下のような研究を実施しています。
マレーシアのボルネオ島の野生オランウータンの食べ物やコドモの授乳・離乳を調べる (参考: 安定同位体分析により野生オランウータンの糞から食性を探る)
ウガンダの野生チンパンジーと、同じ森に暮らすオナガザル類の食べ物や生息域の違いを調べる
飼育下のニホンザルを対象に、食物や生理状態を推定できる新たな手法 (糞プロテオミクス) を開発 (参考: ウンチは宝の山:生態学研究の新手法「糞プロテオミクス分析」)
パレオーム分析
過去の遺物にオミクスの技術を適用して、生物の進化過程を直接明らかにするパレオーム (Paleao + ome) 研究を実施しています。更新世 (現代から約1.2万–258万年前の地質時代) の動物“化石”を主な対象として、古代プロテオームや古代ゲノムの分析を進めています。古生物学で蓄積された知見に分子の証拠をあわせて、大昔に絶滅した動物や現代の子孫がどのような進化過程をたどってきたかをより正確に理解することを目指しています。
たとえば、以下のような研究を実施中です。
日本列島にかつて生息し絶滅した複数の長尾目 (ゾウ) の系統推定と性判別
絶滅した分類群を含む日本列島の複数のシカ科の系統関係の解明
東アジアを主とした国際共同研究
生物と文化のミスマッチ
ヒトが進化を通じて身につけてきた生物学的な性質と、現代の社会や文化の現状がミスマッチを起こしている状況について、調査をしたり議論したりしています。また、夫婦や親族のあいだに閉じないシェアハウスでの子育てなど、現代日本での子育てのあり方の多様性を、社会学者と共同で研究しています。
「どうして現代日本ではこんなに子育てが大変なんだろう?」という自身の思いから始まった研究であり、そのため特に妊娠出産や子育てに注目しています。現代人の子育てを縛る常識や「当たり前」の価値観は、実は数年から数十年で変遷しています。数百万年の時間軸を考慮する人類進化の知見を提供することで、すこし異なる視点を持ちこみ、よりすこやかな子育ての実現に貢献できるといいなと考えています。
たとえば、これまでに以下のような研究を実施しています。
現代人の授乳・離乳に見られる、生物学的性質と現代の社会文化環境のミスマッチに関する議論 (参考: 授乳・離乳の社会現象を人類進化の視点から解きほぐす)
両親や親族以外の多様な大人が関わる共同子育ての社会学的な調査