古代ギリシア年表 (BC1219-1000)
古代ギリシア年表 (BC1219-1000)
BC1219年、Hyllusは、Ioleと結婚した。[Apo.2.8.2]
BC1218年、Eurystheusは、CeyxにHeraclesの子供たちを追い出さなければ武力に訴えると脅した。[Diod.4.57.3, Paus.1.32.6]
BC1218年、Heracleidaeは、TrachisからAtticaのTricorythus(Marathon近く)へ移住した。[Diod.4.57.4, Paus.1.32.6]
** Theseusの妻の一人Iopeは、Iolausの妹であり、TheseusとIolausは、義兄弟であった。[Plut.These.29]
BC1217年、Eurystheusは、Heracleidaeが住んでいたAthensへ攻め込んで、Iolausに討ち取られた。[Apo.2.8.1, Paus.1.44.10, Strabo.8.6.19]
** Heraclesのすべての息子たちが成人して、Heraclesの栄光のために若者たちに誇りの精神が芽生えたときであった。[Diod.4.57.5]
** ArgosのHera神殿の巫女、Eurystheusの娘Admeteは、Samos島に逃れた。[Athen.15.672a]
** ArgosとMycenaeはHera神殿をめぐって争っていたが、Eurystheusの時代にはMycenaeの管轄にあった。[Diod.11.65.2]
BC1217年、Atreusは、Mycenaeを継承して、CleonaeからMycenaeへ移住した。[Diod.4.58.2]
** Atreusが創建したCleonaeは、兄弟Cleonymusを住まわせ、この時、町の名が変わった。[FGrH.Nr2.F3, Paus.2.15.1]
** << AtreusがMycenaeを継承した理由 >>
** Eurystheusの死後、後継者がいなくなり、神託がPelopsの子を王とすべしと告げた。[FGrH.Nr333.F133]
** EurystheusがHeracleidaeを攻めるために出発するとき、AtreusにMycenaeを託した。[Dic:Atreus, Thucy.1.9]
** Atreusは、Perseusの娘Autochtheの息子であったと推定される。[Dic:Perseus]
** したがって、Atreusには、祖父Perseusが創建したMycenaeの相続権があった。
BC1216年、Iolausは、Athensで移民を集めてSardiniaへ移住した。その後、IolausはSardiniaで生涯を終えた。[Paus.9.23.1]
** Iolausは、AdrastusのThebes攻めのときには、Greeceにいなかったと思われる。
BC1216年、Oedipusの子Polyneicesは、Eteocles に招かれてThebesに戻った。その後、再びArgosへ亡命した。[Apo.3.6.1, Paus.9.5.12]
BC1215年、不慮の死を遂げたThebes攻め参加予定者Lycurgus(or Lycus)の子Opheltes(or Archemorus)を偲んで第1回Nemean gamesが開催された。[Apo.3.6.4, Cleme.Exho.2, Euseb.Pra.2.6, Hyginus.14, Hyginus.74, Hyginus.273, Paus.8.48.2, Pindaros.1]
** Nemean gamesは5年ごとに開催された。[Hyginus.74]
BC1215年、Thebesを追放されたPolyneicesに同行して、Tydeusが、Mycenaeを訪問した。[Home.4.364]
** Mycenaeは援軍を出すことを承諾したが、不吉な前兆により援軍を出さないことに決した。[Home.4.364]
** Mycenaeは、Perseus創建時からArgosとは、敵対関係にあった。
** 当時のMycenaeは、AtreusかThyestesの支配下にあったが、応対者の名前が逸話に登場しない。Tydeusらの訪問は創作と思われる。
BC1215年、Seven Against Thebes [Apo.3.6.1, Hyginus.70, Paus.9.9.1]
** Argos側の援軍には、ArcadiansやMesseniansがいた。[Paus.9.9.2, Paus.2.20.5]
** PharaeのDioclesの2人の息子CrethonとOrtilochusと思われる。
** Thebes側の援軍には、Phociansや、Minyan地方のPhlegyansがいた。[Paus.9.9.2]
BC1215年、Tydeusは、Thebesへ使者としての帰り、Thebes勢に襲われるが、逆襲して、Haemonの子Maeonのみが生還した。[Home.4.364]
BC1215年、Astacusの子Melanippusは、Amphiarausに討ち取られた。[Apo.3.6.8]
** BC712、MegaraのZypoetesが移民団を率いて、Bithyniaに町を作った。町は近隣部族の攻撃を受けて、Atheniansの移住を求めた。その移民団を率いたのが、ThebesのSparti であったAstacusの後裔であった。町の名前はAstacusになった。[Memnon.12.1.1, Paus.5.12.7]
** AtheniansにThebesのSpartiの後裔が含まれていたのは、BC1200にTanagra周辺のGephyraeansが、Athensへ移住したからと思われる。[Herod.5.57, Paus.9.20.1]
BC1215年、EteoclesとPolyneicesは、戦死した。Eteoclesの子LaodamasがThebes王に即位して、Creonが後見人になった。[Paus.1.39.2]
BC1215年、Theseusは、Thebesと和議を結び、放置されていたArgivesの遺体を葬った。[Aelia.12.27, Plut.These.29]
** Pausaniasは、TheseusがThebesと戦って遺骸を運んだ、あるいは、戦いはなく、Thebesが許したとも伝えている。[Paus.1.39.2]
** BC4世紀の弁論家Isocratesは、AthensがThebesに脅しをかけたと伝えている。[Isocra.Pan.170]
** Adrastusら将官はEleusisに、それ以外の兵はEleutheraeに埋葬された。[Plut.These.29]
** BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを希望した。[Paus.1.38.8]
** この頃から、EleutheraeはThebesよりもAthensに好意をもっていたと思われる。
BC1215年、Amphiarausの御者Batonは、IllyriaのEncheleae近くのHarpyiaに移住した。[Polyb.Fr.2.34]
** Illyriaの指導者Batonとの混同と思われる。[Strabo.7.5.3]
BC1215年、Oenopionの子Euanthesの子Maronは、ThraceのIsmarusの近くにMaroneiaを創建した。[Diod.1.20.2]
< 1st return of Heracleidae >
BC1215年、Hyllusは、Peloponnesusに侵入して、各地を占領した。[Apo.2.8.2]
** 戦力の回復していないMycenaeは籠城し、Hyllusが占拠したのは、MideiaとTirynsと思われる。[Pind.Ol.7.20, 75, Strabo.8.6.11]
BC1215年、Atreusは、Aegisthusに殺された。[Hyginus.88, Tzetzes.1.450]
** しかし、AegisthusがAgamemnonに殺されていないことから、Atreusは天寿を全うしたものと思われる。
BC1215年、AgamemnonとMenelausは、ThyestesによってMycenaeから追放されて、Tyndareusのもとへ亡命した。[Tzetzes.1.450-]
** AgamemnonとMenelausの祖父Atreusは、Tyndareusの母Gorgophoneの姉妹Autochtheの息子であった。
** つまり、AgamemnonとMenelausは、Atreusの従兄弟Tyndareusを頼って、亡命した。
BC1215年、Pelopsの子Alcathousは、Megaraで死んだ。[Paus.1.42.4から推定]
BC1215年、Telamonの子Ajaxは、Salamis島からMegaraへ移住し、Alcathousの跡を継承した。[Paus.1.42.4]
BC1214年、Heracleidaeは、Peloponnesus各地に悪疫が発生したため、Tricorythusへ撤収する。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.4]
** Hyllusは、「3度目の収穫の後に帰還するように」との神託を得た。[Apo.2.8.2]
** Mycenaeの勢力回復や、Hyllusと異母兄弟Tlepolemusとの仲間割れが撤収の原因と思われる。
** TlepolemusはHyllusらと共に撤収せずに、Rhodesへ移住した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7]
BC1214年、Alcmenaは、Megaraで死んだ。[Paus.1.41.1]
** Alcmenaの埋葬場所をArgosにするかThebesにするかで争いが起った。[Paus.1.41.1]
** しかし、AlcmenaはMideiaの生まれで、Argosとは無縁であった。
** また、Thebesには、AmphitryonやAlcmenaの孫たちの墓があったが、埋葬はできなかったものと思われる。
** Alcmenaは、BoeotiaのHariartos領のOcaleaeにある、Rhadamanthysの墓の傍らに葬られた。[Plut.Lysa.28]
** Alcmenaの墓は、BC4世紀にSpartaのAgesilaus(BC399-358)によってSpartaへ改葬された。[Plut.Mor.577e]
** Alcmenaの墓には、Egypt文字に似た古代文字(Cretan hieroglyphs)が書かれた青銅板があった。[Plut.Mor.577e]
** Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをEudoxus of Cnidosに託して、Egyptの王Nectanabisに送って、解読した。[Diogenes.8.87.]
BC1213年、Tlepolemusは、Rhodesへ移住し、Lindus、Ilysus(Ialysus)、Cameirusを創建した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Home.Il.2.662, Paus.2.22.8, Strabo.14.2.6]
** Tlepolemusは祖母の弟Licymniusと残留していたが、Licymniusは病死し、Mycenaeに圧迫されて、Rhodesへ移住したと思われる
** LicymniusがArgosで死んだと伝えているもの[Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Paus.2.22.8]
** Tlepolemusは、ArgosではなくMideaに滞在し、Tirynthiansと共にRhodesに渡った。[Pind.Ol.7.20, 75]
** Tirynthiansの中には、Eurystheusの兄弟Iphitusの息子と推定されるLebesもいて、Creteに定住した。[Pind.Ol.7.75から推定]
** TirynsのAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていた。Licymniusの墓は、そこにあったと思われる。[Strabo.8.6.11]
BC1212年、Neoptolemusは、AchillesとLycomedesの娘Deidamiaと間の息子として生まれた。[Apo.3.13.8, Dictys.4.15, Epic.Cypria.1, Hyginus.97]
** Neoptolemusは、Scyros島で生まれた。[Strabo.9.5.16, Sopho.Philo.220]
BC1211年、Theseusの妻Phaedraが死んだ。[Diod.4.63.2]
< 2nd return of Heracleidae >
BC1211年、Hyllusは、神託を「3年待って帰還せよ」と解釈し、Peloponnesusに向けてTricorythusを出発した。[Apo.2.8.2]
BC1211年、Atreusは、Tegeatansや他の民族を彼の部隊に加えて、Heracleidaeと会戦するために進軍した。[Diod.4.58.2]
** この時のMycenae王は、Atreusではなく、Thyestesであった。
BC1211年、Hyllusは、Isthmusで、TegeaのEchemusと一騎打ちをして討ち取られた。[Diod.4.58.4, Herod.9.26]
** Heracleidae側が総大将を出しているのに、Peloponnesus側が総大将ではなく、援軍に来た者を出しているのは、不自然である。
** Thyestesが追放したAgamemnonとEchemusとは、お互いの妻を通して義兄弟であった。
** HyllusとEchemusの一騎打ちは、創作で、Hyllusは合戦で戦死したと思われる。
BC1211年、Heracleidaeは、Aegimiusのもとへ行き、父が預けていた土地を要求して、Doriansの地に住み着いた。[Diod.4.58.6]
** Hyllusの軍にはIoniansもいたと思われ、その中に戦死した者たちがいて、Tricorythusに居づらくなったと思われる。
** Athensの名祖の一人で、HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusはそのまま住み続けた。[Paus.1.5.2から推定]
** HeraclesとDeianeiraの娘Macariaは、Theseusの子Demophonの妻になって、Athensに残った。[JeromeChro.1148]
BC1210年、Theseusは、IdasからTyndareusの娘Helenを預かって、Aphidnaeに匿った。[Diod.4.63.2, Plut.These.31]
** 当時、Helenは、7歳[FGrH.Nr4.F168b]、10歳[Diod.4.63.2]、12歳[Apo.E.1.23]であった。
** IdasとTheseusの友Peirithousは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であった。
** Lapithesの子Aeolusの子Perieresの子Aphareusの子Idas。Lapithesの子Periphasの子Antionの子Ixionの子Peirithous。
** IdasとTheseusも、Peirithousを介して親交があったと思われる。[Plut.These.30]
BC1210年、Theseusは、Thesprotisへ出かけてAthensを留守にした。[Paus.1.18.4, Paus.2.22.6, Paus.3.18.5, Plut.These.31]
** ThesprotisのAornumには死者を呼び出す神託所がある。Theseusは死んだ妻Phaedraを呼び出すために行った。[Paus.9.30.6]
BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、EuboeaのChalcisのElephenorのもとへ亡命した。[Aelia.4.5, Plut.These.35]
** Theseusが息子たちを避難させた。[Plut.These.35] DemophonとAcamasは、Menestheusに追放された。[Aelia.4.5]
** Chalcodonの子Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。つまり、Theseusの義母の兄弟であった。
BC1210年、Dioscuriは、AthensのAphidnaeを占領し、HelenをLacedaemonへ連れ戻した。[Paus.2.22.6]
** Megareusの子Timalcusも遠征に参加してTheseusに討ち取られたとされるが、Theseus不在で戦いもなかった。[Paus.1.41.3-4, Paus.3.18.5]
BC1210年、Dioscuriは、Eleusisの秘儀に入門するため、Aphidnusの養子になった。[Plut.These.33]
**Athens市民でない者が秘儀に入門するためには、Athens市民の養子になる必要があった。
** Persia戦争の頃には、Greeksであれば入門できるようになった。[Herod.8.65]
BC1210年、Theseusは、Athensに帰るが、住民の反感を抑えられず、GargettusでAtheniansへの呪詛を行う。[Plut.These.35]
BC1209年、TheseusはScyros島へ亡命するが、Lycomedesに殺害された。[Paus.1.17.6, Plut.These.35, Plut.Cimon.6]
** Theseusは、Lycusの偽の中傷により追放されて、Lycomedesに嫉妬されて殺された。[Suda.th.368]
BC1209年、Menestheusが、Athens王に就いた。[Euseb.185]
** HeracleidaeがTricorythusからDoriansの土地へ移住したため、Theseusが劣勢になったと思われる
** DioscuriがMenestheusに協力した。[Paus.1.17.5]
** DioscuriがMenestheusを連れ戻した。[Apo.E.1.23]
** DioscuriがMenestheusに勧められて、Athensを攻めた。[Plut.These.32]
** DioscuriがMenestheusに王位を与えた。[Aelia.4.5]
** 史実は、Helen奪還のためにAthensに来たDioscuriを、Theseusの留守中に政権奪取を画策したMenestheusが利用したのだと思われる。
BC1209年、Tyndareusの息子たち、CastorとPolydeuces(Dioscuri)は、Messeniaと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** Pausaniasは、Dioscuriが父Tyndareusの跡を継いだように記している。[Paus.3.1.5, 3.17.2]
** しかし、彼らには息子がおり、その後、娘婿MenelausがSpartaを継承するのは困難である。
** Dioscuriが父より先に死んで、TyndareusがMenelausにSpartaを任せたとする伝承の方が妥当。[Apo.3.11.2]
BC1209年、IdasとLynceusは、Tyndareusの息子たちと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** Idasとの戦いでCastorが死んだ。[Apo.3.11.2]
** その後の戦いで、PolydeucesがLynceusを殺した。[Paus.3.14.7, Paus.4.3.1]
** DioscuriがMenestheusのAthens王即位を助けたので、IdasとLynceusが死んだのは、この頃と思われる。[Aelian.4.5, Paus.1.17.5]
BC1209年、Nestorは、Idasの跡を継いで、MesseniaのArene近くに移住して、Pylusを創建した。[Paus.4.3.1, Paus.4.3.7]
** Nestorは、Idasの娘婿として、Idasの跡を継いだと思われる。
BC1208年、Nestorは、ThessalyのTriccaのAsclepiusを訪問した。[Strabo.1.1.16から推定]
** IdasからMesseniaを継承したが、領内のLapithsが、彼に従わなかったために、ThessalyのLapithsの有力者を利用したと思われる。
** PharaeのDioclesの娘AnticleiaとAsclepiusの子Machaonとの婚姻を仲介したと思われる。[Paus.4.3.1]
** Nestorは、Troyで戦死したMachaonの遺骨を持ち帰って、Gereniaに埋葬した。[Paus.3.26.9-10]
BC1205年、EpigoniのThebes攻め[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1, Paus.9.9.4, Paus.9.5.13]
** AdrastusのThebes攻めの10年後、Eteoclesの子Laodamasの治世であった。[Apo.3.7.2]
** Amphiarausの子Alcmaeonが指揮した。[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1]
** Polyneicesの子供たちが指揮した。[Paus.9.33.1]
** Polyneicesの子Thersanderが指揮した。[Paus.7.3.1]
** Thebes側の援軍は、Thebes周辺の諸市であった。[Paus.9.9.4]
** Argos側の援軍は、Messenians、Arcadians、Corinthians、Megariansであった。[Paus.9.9.4]
** Theseusの子Hippolytusは、戦車が転覆して引きずられて死んだ。[Apo.E.1.19, Diod.4.62.3, Paus.2.32.10]
** HippolytusはEpigoniに参加して戦死したものと思われる。[Paus.2.32.1]
** TroezenにDiomedesが創建したHippolytusの神苑があった。HippolytusとDiomedesは同世代であった。
BC1205年、Epigoniは、Argosから海路でAulisに上陸した。ThebansがGlisasで待ち受けて、戦いになった。[Paus.9.5.13]
BC1205年、Polyneicesの子Thersanderは、Thebes王に即位した。[Paus.9.5.14]
BC1205年、Thebesから逃れた人々は、Alalcomenae近くのTilphossaeumに集まった。[Diod.4.66.5]
BC1205年、Thebesの予言者Tiresiasは、Argivesに連れられてDelphiへ行く途中、Haliantiaで死んだ。[Paus.7.3.1, Paus.9.33.1]
** Tiresiasの娘Mantoは、戦利品の中で最良のものとして、Delphiへ連れて行かれた。[Apo.3.7.4]
BC1205年、Tiresiasの娘Mantoは、Amphiarausの子Alcmaeonの捕虜になった。[Apo.3.7.7]
** 後に、AlcmaeonとMantoとの間に、息子Amphilochusと娘Tisiphoneが生まれた。[Apo.3.7.7]
BC1205年、Eteoclesの子Laodamasは、ThebesからIllyriaのEncheleansのもとへ移住した。[Herod.5.61, Paus.9.5.13, Paus.9.8.6]
BC1205年、Thebansの一部は、Illyriaに行かずに途中で分かれて、ThessalyのHomoleへ移住した。[Paus.9.8.6-7]
BC1205年、Thebansの一部は、Euboea北部にHestiaea(Histiaea)を創建した。[Apo.3.7.3]
BC1205年、Thebansの一部は、Copais Lake南西のAlalcomeniaやTilphosium山にArgivesが退去するまで隠れていた。[Diod.19.53]
BC1205年、Adrastusは、EpigoniのThebes攻めに同行し、帰る途中、Megaraで死んだ。[Paus.1.43.1]
BC1205年、Thebes西方約5kmのCabeiraeaのPelasgiansは、Athensへ移住した。[Herod.2.51, Paus.9.25.7]
BC1205年、Atreusの孫Menelausは、SpartaのTyndareusの娘Helenと結婚した。[Hyginus.78, Paus.2.22.6]
BC1205年、Menelausは、義父TyndareusからLacedaemonの王位を譲渡された。[Apo.3.11.2, Apo.E.2.16]
BC1204年、Alcmaeonは、Acarnaniaへ遠征してArgos(後のArgos-Amphilochicum)を創建した。[Strabo.7.7.7, Strabo.10.2.25]
** Alcmaeonは、Mantoらの捕虜を連れて、Illyriaを目指すが、途中Achelous川河口付近にAstacusを創建した。[Strabo.10.2.21から推定]
** Diomedesの協力者は、Alcmaeonではなく、Capaneusの子Sthenelusであった。[Hygnius.175]
** AlcmaeonのAcarnania遠征の動機は、捕虜がIllyria行きを希望したからであったと思われる。
** the Peloponnesian warの頃のAstacusのtyrant Evarchusは、Epigoniの捕虜の中にいたSpartiの後裔と思われる。[Memnon.12.1から推定]
** Alcmaeonは、Melampusの後裔で、息子たちAcarnanとAmphoterusの後裔がHesiodに予言術を教えたと思われる。[Paus.9.31.5]
** Hesiodは、Naupactusから東へ15kmほどのOineonで殺害された。[Plut.Mor.969e, Thyc.3.96]
** Hesiodは、AcarnaniaとBoeotiaを往復していたと思われる。
** Thermopylaeの戦いに参加したAcarnania出身の予言者Megistiasは、Melampusの後裔であった。[Herod.7.221]
** Alcmaeonの弟Amphilochusもこの遠征に参加し、以後、Argosには帰らなかったと思われる。
** Thucydidesは、AmphilochusがTroy遠征に参加したと記している。[Thucy.2.68]
** しかし、つぎの理由で、Alcmaeonの弟Amphilochusは、Troy遠征に参加していなかったと推定される。
** 1. 兄弟でEpigoniのThebes攻めに参加しているのに、兄の遠隔の地での町の創建に弟が参加しないはずがない。
** 2. 兄Alcmaeonが、Agamemnonからの要請を断り、弟だけがTroy遠征に参加したとは思われない。
** 3. HomerがAmphilochusについて言及していない。
** 4. Homerは、Argosの将を3人列挙している。[Home.Il.2.557]
** (1) Argos 3王家の本家Capaneusの子Sthenelus
** (2) Bias王家のTalausの子Adrastusの子Aegialeusの子Cyanippusの代理のDiomedes
** (3) Bias王家のTalausの子Mecisteusの子Euryalus
** AmphilochusのTroy遠征が真実であれば、Argos 3王家のひとつMelampus王家の将として名前が挙がっているはずである。
** 5. 兄Alcmaeonには多くの妻子の名前が伝えているが、Amphilochusの妻子は不明であり、若くしてGreeceから離れたと思われる。
** 6. 多くの史料で、Asia MinorのColophonで生まれて、CiliciaのMallusで死んだ、兄AlcmaeonとMantoの息子と混同されている。
BC1203年、ThebesのThersanderは、Epigoniに追われて、IllyriaとHomoleへ逃れた人々を呼び戻した。[Diod.19.53, Paus.9.8.7, Strabo.9.2.3]
BC1203年、AgamemnonがMycenaeの王位に就いた。[Euseb.177]
** Agamemnonの統治18年目にTroyが陥落した。[Euseb.177, Cleme.Str.1.21]
** AgamemnonとMenelausは、Lacedaemoniansを率いて、Mycenaeに帰還した。[Tzetzes.1.460]
** 彼らは、Thyestesと彼の息子AegisthusをLaconia湾の沖に浮かぶCythera島に住むように命じた。[FGrH.10.11, Tzetzes.1.460]
** Thyestesは、Cythera島で死んだ。[Home.Od.4.512から推定]
BC1202年、Oeneusは、Agriusの息子たちに追われて、CalydonからArgosのDiomedesのもとへ亡命した。[Paus.2.25.2]
BC1202年、Diomedesは、Aetoliaへ遠征し、Calydonを追われた祖父Oeneusの仇を討った。[Paus.2.25.2]
** Diomedesの協力者は、Amphiarausの子Alcmaeon[Apo.1.8.6, Strabo.10.2.25]ではなく、Capaneusの子Sthenelus[Hygnius.175]であった。
** Sthenelusは、Diomedesの親友であった。[Hygnius.257]
** Oeneusの敵であるPleuronのParthaonの子Agriusの息子たちは、Alcmaeonとは、従兄弟の孫同士の関係であった。
** Alcmaeonが親族を相手の戦いに協力したとは思えない。
** DiomedesのAetolia遠征は、EpigoniのThebes攻めの後であった。[Strabo.7.7.7]
** OeneusはTrojan War前に死んでいたので、DiomedesのAetolia遠征はTrojan War前であった。[Home.Il.14.117]
** Diomedesは、AmphissaのOeneusの娘婿AndraemonにAetoliaを任せた。[Apo.1.8.6]
** Thestius一族とAgrius一族は、Aetoliaの内陸部へ逃れて、ThestiaとAgriniumを創建した。[LeakeN.1.155]
** ThestiaやAgriniumは、数で最大のEurytaniaに属していた。[LeakeN.2.623]
** ThestiaやAgriniumは、BC218 年にMacedonia王Philip 5世がAetoliansを攻めたときに存在していた。[Polyb.5.7]
BC1202年、Alcmaeonは、Achelousの娘Callirhoeと結婚した。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonの父Amphiarausの父Oeclesの妻Hypermnestraは、Aetolusの子Pleuronの後裔であり、Callirhoeも母方の先祖はPleuronであった。
BC1202年、Agamemnonは、Argosを攻めて、Mycenaeの支配下に置いた。[Strabo.10.2.25]
** Agamemnonは、Argosの兵の多くがDiomedesと共にAetoliaへ遠征中の時を狙った。[Strabo.10.2.25]
BC1202年、Oeneusは、Calydonを娘婿Andraemonに任せ、孫のDiomedesと共にArgosへ行って死んだ。[Apo.1.8.6, Paus.2.25.2]
** Oeneusは、孫のDiomedesと共にArgosへ行く途中、ArcadiaでAgriusの息子たちに殺されたという伝承もある。[Apo.1.8.6]
BC1200年、Tanagra周辺のGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われて、Athensへ移住した。[Herod.5.57, Paus.9.20.1]
** EpigoniのThebes攻めの少し後でGephyraeansは、Boeotiansに追われてAthensへ移住した。[Herod.5.61]
** BC1415年にEumolpusに追われたAtheniansをGephyraeansが受け入れた借りを返したものと思われる。[Suda.Delta.1395]
BC1200年、Italy半島北東部の町RavennaにいたPelasgiansは、Tyrrheniansに圧迫されてThesprotiaへ移住した。[Strabo.5.1.7から推定]
** BC1390年にThessalyからRavennaに移住したPelasgiansが、Thessalyへ帰還した。[Strabo.5.1.7]
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、CreteからAsia Minorへ移住して、Colophonを創建した。[Paus.7.3.1]
BC1200年、Dardanusの子Zacynthusは、ArcadiaのPsophisからZacynthus島へ移住した。[Paus.8.24.3]
** ArcadiaのPsophisは、EpigoniのThebes攻めの頃はPhegiaと呼ばれていた。Troy遠征には、Zacynthus島から参加していた。
** したがって、Zacynthusの移住は、この頃と思われる。[Paus.8.24.8, Home.Il.2.631]
BC1198年、HelenがTroyへ連れ去られた。[Apo.E.3.1-5, Dictys.1.3]
** Helenが連れ去られた2年後に、準備を終えてTroyへ遠征した。[Apo.E.3.18]
** HelenはSparta近くのTherapneに埋葬された。[Paus.3.19.9]
BC1197年、Hermioneは、MenelausとHelenの娘として、Spartaで誕生した。[Apo.E.3.3, Paus.10.16.4]
** Hermioneの誕生をTroy遠征の9年前とした。
** HelenがTroyへ連れ去られたとき、Hermioneは9歳であった。[Apo.E.3.3]
BC1196年、第1回Troy遠征と称される出来事。
** Agamemnonの遠征軍は、MysiaをTroyと間違えて上陸して失敗した。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Achillesは15歳で海軍を指揮した。[Apo.E.3.16]
** Athens王Menestheus[BC1209-1186]の治世13年目であった。[Parian.Marble.23]
** Epigoniを率いたAlcmaeonは、Thersanderの妻Demonassaの兄であり、ThersanderをThebes王に復位させた恩人であった。
** AlcmaeonはTiresiasの娘Mantoとの間に子供2人をもうけ、その後、Aetoliaへ遠征し、AcarnaniaでCallirhoeを妻にした。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonは、Epigoniの捕虜になった人々と新天地へ移住を希望するMantoをThersanderに託した。[推定]
BC1196年、Thersanderは、ArcadiaのTegeaからMysiaに移住していたTelephusを頼るが、その地で死んだ。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Telephusの従兄弟Parthenopaeusの2人の息子たち、TlesimenesとBiantesは、MysiaからEpigoniのThebes攻めに参加した。[Hyginus.71]
** TlesimenesとBiantesは、AlcmaeonやThersanderの戦友であり、Mysiaへ案内した。[推定]
** Telephusが留守にしたMysiaを荒らすのは簡単だという諺の元となったほど、Telephusの強さは有名であった。[FGrH.Nr327.F19]
** Troyと間違えてMysiaに上陸して、ThersanderがTelephusに殺されたという伝承には、この諺も影響していた。
BC1196年、Tiresiasの娘Mantoは、Mysiaから南下して、Colophonに住んでいたCretansと共住した。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
BC1196年、Mantoは、CreteからColophonに移住したMycenaeanのLebesの子Rhaciusと結婚した。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusは、Thebes陥落をMantoから聞いて泣いた。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesは、MycenaeのSthenelusの子Iphitusの息子と思われる。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesの父Iphitusの姉妹Astymedusa(Eurystheusの姉妹)は、ThebesのOedipusの妻であった。[FGrH.333.95から推定]
BC1194年、Mantoは、Colophon近くの海辺のClarusにApollonの神託所を創建した。[Photios.186.6]
BC1190年、Agamemnonは、ColophonのRhaciusからTroyの繫栄ぶりを聞き及んで、遠征を決意した。[推定]
BC1190年、Agamemnonは、Lemnos島をTroy遠征軍の補給基地とするためにNemeaのEuneusを島の支配者にした。[推定]
** Lemnos島の住人は、Euneusの母Hypsipyleの父Thoasが率いたNaxos島からの移住者と、Thessayから逃げ込んだMinyansであった。
** Agamemnonは、両方の住人を従わせるために、EuneusがHypsipyleとArgonautsの遠征を率いたJasonの息子だと流布したと思われる。
** Euneusの父をJasonとする史料[Apo.1.9.17, FGrH.Nr12.F14, Home.Il.7.464; 23.738, Hyginus.15, 273, Statius.6.340, Strabo.1.2.38]
** 次の理由で、Euneusは、NemeaのTalausの子PronaxとHypsipyleとの間の息子と思われる
** (理由1) Argonautsの遠征時、Minosの娘Ariadneの子Thoasの娘Hypsipyleは、7歳くらいであった。
** (理由2) HypsipyleとJasonとの間にはEuneusの他に息子Nebrophonus(or Deipylus)がいた。[Apo.1.9.17, Hyginus.273]
** Lemnos島にいたHypsipyleがNemeaに住むことになった経緯は、次のように推定される。
** Lemnos島のThoas家に不幸な出来事があり、Hypsipyleのみが残され、そこへArgonautsの遠征隊が立ち寄った。
** 遠征隊の中にHypsipyleの父Thoasの兄弟で、Phliusに住むPhliasusおよびEurymedonがいた。
** Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusで育てられた。婚期を迎え、Phliusから約7km離れたNemeaのPronaxに嫁いだ。
** あるいは、Argonautsの遠征とは関係なく、Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusに住んでいた。
BC1190年、Agamemnonは、SicyonのRhopalusの子Hippolytusを攻めて、支配下に置いた。[Paus.2.6.7]
BC1190年、Achillesは、Troy遠征への参加を拒否するTanagraのPoemanderを攻めた。[Plut.QuestGr.37]
** これが原因で、ThebesとEleutheraeの対立が続いたと思われる。BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを欲した。[Paus.1.38.8]
BC1190年、TanagraのPoemanderは、過失により息子を殺害し、ChalcisのElephenorにより清められた。[Plut.QuestGr.37]
BC1190年、Laomedonに殺されたPhaenodamasの孫であるAegestusは、Priamの許しを得て、Sicily島からIliumへ帰還した。[Antiq.1.52.2-3]
BC1190年、Phocusの子Crisusの子Strophiusの子Pyladesは、Crissaから南へ移住して、Crissa湾の岸辺にCirrhaを創建した。[Pind.Py.11]
BC1189年、Alcmaeonは、Phegeusの息子たち、TemenusとAxionによって、Arcadiaで殺された。[Paus.8.24.10]
** Alcmaeonは、AgamemnonからのTroy遠征参加要請を断っているので、Acarnaniaに建設した町を離れたとは思われない。
BC1189年、Menelausは、SpartaのHeIleniumに遠征参加者を集め、会議を開催した。[Dares.10, Paus.3.12.6]
BC1188年、ArgosのHera神殿で、Troy遠征参加者が総大将に相応しい人物の名前を書いて投票し、Agamemnonが選出された。[Dictys.1.16]
BC1188年、Troy遠征参加のArgivesは、ArgosのTantalusの骨壺が安置された場所で、Troy攻略を誓った。[Paus.2.22.2]
BC1188年、第2回Troy遠征と称されるAgamemnonを総大将とした遠征
** 第1回Troy遠征と称される出来事から8年後であった。[Apo.E.3.19]
** AthensのPhalerum港に集結後、AchillesとPatroclusが代表して、Delphiで神託を受けて来て、Aulisへ向かった。[Dares.14, Paus.1.1.2]
** Telamonは、AthensからAulisに向かう船をSalamisから見送った。[Paus.1.35.3, Paus.8.28.4]
** 戦いは、10年続いた。[Athen.343d, Apo.E.3.19, Apo.E.5.8, Dictys.3.23, DioChry.7.96, Diod.37.1.2, Demosthenes(Funeral Speech.10), GrAntho.(5.139 and many others), Hyginus.108, Isocrates(To Philip.111, Panegyricus.83), Ovid.Meta.13.640, Plato.Laws.682), PlutMor.350e, Thucy.1.11, Virgil.Aeneid.8.370]
** Iphiclusの子ProtesilausがTroyに一番乗りした。[Arr.1.11.5, Apo.E.3.30, Dictys.2.11, Hyginus.103]
** Protesilausの墓は、ChersoneseのElaesusにある。[Arr.1.115, GrAntho.7.141, Herod.9.116, HygAstro.2.40.3, Pliny.16.238]
** << 遠征が10年ではなかったと思われる理由 >>
** Agamemnonの治世は18年間であった。[Cleme.Str.1.21, Euseb.Chron.179, JeromeChro.1197]
** AgamemnonはTroy遠征前に、Achaia、Argolis、Messenia湾岸地方を支配下に置いていた。[Home.Il.2.569, Home.Il.9.150, Strabo.8.4.1]
** AgamemnonがThyestesからMycenaeを奪ってからPeloponnesusの半分を支配下に置くのに、8年間では短すぎると思われる。
** << 遠征が1年ではなかったと思われる理由 >>
** Troy遠征中に死んだTelamonの子Ajaxと捕虜の女性たちとの息子たちがAthensに住んでいた。[Dictys.5.16, Plut.Arist.19, Harp10Orat.e167]
** 何年か留守にしたことは真実であろうが、3日か、4日で行ける所に10年もいたとは思われない。[Home.Il.9.356, Home.Od.3.151]
BC1188年、Lemnos島のEuneusは、Troy遠征軍を歓待して、物資を補給した。[Home.Il.2.716, Home.Il.7.464, Home.Il.8.212]
BC1188年、Achillesは、Troyに加担するLesbiansを攻撃した。Phorbasを殺害し、娘Diomedeaを戦利品にした。[Dictys.2.16, Home.9.656]
BC1188年、Achillesは、Miletusを襲って、Lelegesの王Trambelusを殺した。[Athen.43d]
BC1188年、Agamemnonは、Troy沖に浮かぶTenedos島の住民をArgolisのTeneaに強制移住させた。[Paus.2.5.4]
BC1188年、Telamonの子Ajaxは、Phrygiansの支配者Teuthrasを殺して、娘Tecmessaを捕虜にした。[Dictys.2.18]
** このTeuthrasは、MysiaのTelephusの義父でない。Chersoneseに近い、Hellespont付近のPhrygiaの住人と思われる。
BC1188年、Sicily島から移住してAcarnaniaに住んでいたPelasgiansは、Boeotiaへ侵入した。[Paus.1.28.3]
BC1188年、Boeotiansは、ThraciansやPelasgiansに追われて、ThessalyのArne族のもとへ移住した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** << Boeotiansが亡命先をArneにした理由 >>
** BC1330のAmphionとZethusのThebes攻めのとき、Amphictyonの孫Locrusも協力した。[FGrH.Nr333.F170]
** LocrusはLelegesを率いていた。[Hesiod.Women.82]
** このとき、Locrusの従兄弟のBoeotusも息子たちと共に参加した。
** それが端緒となってBoeotusの子ItonusがBoeotiaに移住したものと思われる。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Boeotusの後裔がBoeotiansを率いてTroyへ出征し、残っていた者たちが追われてArneに亡命した。
** ThraciansとはBoeotiaの代名詞であった。[Pliny.4.27]
** Hyantesは、Cadmusに追われてPhocisのHyampolisに居住した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** ThraciansはOrchomenusを占領した。[FGrH.Nr4.F42b]
** PelasgiansはCoroneiaを占領した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** ThraciansはThebesも占領した。Thebansの捕虜たちはHaliartusまで連れて行かれたが奪還された。[Paus.9.16.6]
BC1188年、Aeolusの子Athamasの後裔Athamas率いるOrchomeniansは、Ioniaへ移住してTeosを創建した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
** Teosのすぐ東のColophonには、EpigoniのThebes攻めの捕虜たちが、Trojan Warの前にその地に移住していた。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
** Teosに移住したAthamasの後裔に率いられたOrchomeniansは、BC4世紀にPhilipによって帰還させられた。[Paus.9.37.8]
BC1188年、Thraciansに追われたOrchomeniansの一部は、Athensに受け入れられて、Munychiaに住んだ。[FGrH.Nr4.F42b]
** Munychusは、DemophonとPriamの娘Laodiceの息子。[Plut.These.34] Munychusは、AcamasとLaodiceの息子。[Parthe.16]
** Theseusの息子たち、DemophonとAcamasは、Troyに行っていないので、いずれも創作と思われる。
BC1188年、Chalcisへ逃れていたTheseusの息子たち、DemophonとAcamasは、Athensへ帰還して、Atheniansを掌握した。[推定]
BC1188年、Atheniansは、Scyros島へ渡って、Lycomedesを殺して、Theseusの仇討ちをした。[Suda.th.368]
BC1187年、Thyestesの子Aegisthusは、Cythera島からMycenaeへ帰還した。[Agamemnonを殺害していることから推定]
BC1187年、Agamemnonの庶子Halaesusは、MycenaeからItalyのFaleriiへ移住した。[Ovid.Fasti.4.63]
** HalaesusはTroy遠征に参加しないで、残留していたと思われる。
** HalaesusはFaleriiから南南西へ約46kmのAlsiumにも関係があった。[ItaPunica.1.1]
BC1186年、Thesprotiansは、Thessalyへ攻め込んで、Thessalyを占領した。[Herod.7.176, Strabo.9.5.23]
** Phociansは、Thesprotiansの侵入を防ぐために城壁を造った[Herod.7.176]
** Thucydidesは、Thesprotiansを非ギリシア人とみなしている[Thucy.2.80]
** ThessalyのArneのBoeotiansは、Haimonに敗れてBoeotiaへ帰還した。[Suda.pi.962]
** Arneの一部の住人はpenestai(農奴)となって残留し、3代目まで住み続けた。[Athen.264b, Suda.Pi.962]
BC1186年、予言者Peripoltasは、Peneleusの子OpheltesやBoeotiansを率いて、ArneからChaeroneiaへ移住した。[Plut.Cimon.1]
** Opheltesは、ThessalyのArneには2年間しかいなかったと思われる。
** Opheltesは、この時、Thessalyへ行く前に住んでいたCoroneiaをPelasgiansから奪還する力はなかったと思われる。
** Chaeroneiaは、当時、Arneと呼ばれていた。[FGrH.Nr4.F81, Paus.9.40.5]
BC1186年、Neoptolemusは、Ilium陥落に必要との神託により、招致された。[Apo.E.5.11]
** Neoptolemusは、ThesprotiansにThessalyを追われ、Scyros島を経て、Thessaly陥落の報を持って、Troyに渡ったと思われる。
BC1186年5月29日、Troy陥落
** 夏至の17日前、Thargelion月の終わりの日から8日目にTroyは陥落した。[Antiq.1.63.1]
** Troy陥落は、DemophonがAthens王に即位した年のThargelion月の満月の日であったと伝えられる。
** BC1178年4月16日の歴史的日食をもとに、月齢周期を、29.53日として計算すると、Ilium占領は、BC1186年5月29日のことであった。
** Odyssey Eclipse - https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEhistory/SEhistory.html
** Herodotusは、Trojan WarをPersiaのGreece侵攻以前に起こった悲惨な出来事のように記している。[Herod.6.98]
** Thessaly陥落の知らせが届いて、遠征軍は解散したと思われる。
** 実際は、Troyは攻められたが陥落はしなかったと思われる。
BC1186年、Neoptolemusは、Tenedosに立ち寄って、2日間滞在した。[Apo.E.6.5]
** < NeoptolemusがThessalyへの帰還を断念した理由 >
** Neoptolemusの故郷はAcastusに奪われたが奪還して故郷へ帰還した。[Dictys.6.7-9]
** Neoptolemusは、Molossiansの地に行った後、Peleus亡き後の旧領を継承した。[Apo.E.6.13]
** Neoptolemusは、帰還を軽蔑して、Molossiansの地へ移住した。[Paus.1.11.1]
** Neoptolemusは、父の王国を不在にして王国を失った。[Just.17.3, LeakeN.4.175]
BC1186年、Diomedesは、AthensのPhalerum付近に停泊して、Demophonと夜間の戦闘となった。[FGrH.Nr325.F12, Paus.1.28.9]
** Diomedesは、NestorやMenelausと共に、Tenedos島、Lesbos、Chios島、Psyria島、Euboeaを経由して帰還した。[Home.Od.3.151]
** MenelausとAgamemnonは帰還を巡って対立し、MenelausはAchaeansの半分と共に先発し、OdysseusはTenedos島からAgamemnonのもとへ戻った。[Home.Od.3.151]
** DiomedesのArgos到着は、Troy出発の4日目であった。[Home.Od.3.151]
** Achillesは、3日目にはPhthiaに着くと言っていた。[Home.Il.9.356]
** Troyの帰路、NestorがCeos島に立ち寄り、the temple of Nedusian Athenaを造営した。[Strabo.10.5.6]
** 後に、Messenia湾奥のNedon川近くの住人が島に移住して造営したものと思われる。
** PheraeのAdmetusの子Eumelusの後裔は、Athensへ移住した。[FGrH.4.125]
** OrmeniumのEuaemonの子Eurypylusは、Delphiの神託に従って、Patrae(Achaia)に定住した。[Paus.7.19.6-]
BC1186年、Agamemnonは、Tenedosに立ち寄ってから帰国した。[Apo.E.6.5]
** Agamemnonは、LaconiaのMalea岬付近で暴風に遭遇した。[Home.Od.4.512]
** Agamemnonの軍船団にいたAchaiaのPelleneの人々は、暴風で流されてChalcidice半島のPelleneに住み着いた。[Thucy.4.120]
BC1186年、Achillesの育ての親Phoenixは、Thermopylae付近で死んだ。[Home.Il.9.485, Apo.E.6.12]
BC1186年、Neoptolemusは、Molossiansの地へ移住した。[Apo.E.6.12]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Athensに上陸できずに、 Italy半島南部Scylletiumに移住した。[Strabo.6.1.10]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Aeolis地方のCyme近くのElaeaに移住した。[Strabo.13.3.5]
BC1186年、Telamonの子Teucerは、父に下船を阻止され、Cyprusに移住して、Salamisを創建した。[Just.44.3, Paus.1.28.11, Parian.Marble.26]
** Teucerは父の死の噂を聞いて、故国へ戻ったが、Ajaxの子Eurysacesに阻止されて、Hispaniaへ入植した。[Just.44.3]
** Teucerの息子と思われるAjaxが、Cilicia TracheiaのOlbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1186年、Asclepiusの子Podalirusは、Damaethusが治めるCaria地方のBybastusの近くにSyrnusを創建した。[FGrH.Nr70.F167, Paus.3.26.10, Parthe.1, Steph.Byz.593.17]
** Damaethusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定される。
** Podalirusは、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。
BC1186年、Tiresiasの娘Mantoは、Colophonで死んだ。[Photios.186.6]
** Colophon近くの海辺の町ClarusにあるApollonの神託所をMantoの子Mopsusが継承した。[Photios.186.6]
** ClarusのApollonの神託所は、Mantoが創建したと思われる。
BC1186年、Peirithousの子Polypoetesと、Coronusの子Leonteusは、Colophonに定住した。[Apo.E.3.14, Apo.E.6.2, Dares.14]
BC1186年、Calchasは、Pamphyliaに移住してSelgeを創建した。[Herod.7.91, Paus.7.3.7, Strabo.12.7.3, Strabo.14.4.3]
** Pamphyliaは、Mopsusの姉妹の名前に因む。[StephByz.P498.15]
** Pamphyliaは、Mopsusの娘の名前に因む。[Photios.176]
** Selgeは、Alexander the Greatの信頼される同盟者となった。[Arr.1.28.1]
BC1186年、Ancaeusの子Agapenorは、Arcadiaへ帰らないで、Cyprus南西部のPalaepaphosの近くにPaphosを創建した。[Strabo.14.6.3]
BC1186年、Magnesiansは、戦利品の10分の1をDelphiに奉納して、Delphiに定住した。[Photios.186.29]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Troyを出航した。[Antiq.1.52.1]
BC1186年、Anchisesの子Aeneasは、Troyを出航した。[Antiq.1.63.2, Virg.Aene.3.1]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Sicily島北西部のCrimisus河畔に到着した。[Antiq.1.52.1]
BC1185年、Aegisthusは、Agamemnonを殺害した。[Home.Od.11.404, Home.Od.24.15, Paus.2.16.6]
** Aegisthusの屋敷での凶行であった。[Home.Od.24.15, 4.512]
** Agamemnonは、帰国の途中、Laconia湾右側半島のMalea岬で流され、昔Thyestesが、今Aegisthusが住む土地に着いた。[Home.Od.4.512]
** Andron of Halicarnassusは、Cythera島にAegisthusが住んでいたと想定している。[FGrH.Nr10.F11]
** AgamemnonがThyestesとAegisthusをCythera島に住まわせた。[Tzetzes.1.460]
** Agamemnonや一緒に殺害された者たちの墓がMycenaeにあった。[Paus.2.16.6]
** Orestesが、AegisthusとClytaemnestraを殺害した場所も、Mycenaeの城壁内と思われる。
** Temenus率いるHeracleidaeがPeloponnesusに侵入したとき、Orestesの子TisamenusはArgosに籠城した。
BC1185年、Anchisesの子Aeneasは、Thraceでの冬営を終えて南下した。[Antiq.1.63.2]
BC1185年、Aeneasは、Delos島に立ち寄り、神官Aniusの歓待を受けた。[Antiq.1.50.1, Virg.Aene.3.69]
** Aniusの父ZarexとAchillesは、第7代Athens王Cecropsを共通の先祖とする又従兄弟であり、この伝承は創作と思われる。
BC1185年、Aeneasは、Cythera島に立ち寄って、Aphroditeの神殿を造営した。[Antiq.1.50.1]
** Cythera島はMycenae領であったと思われ、この伝承も創作と思われる。[FGrH.Nr10.F11, Tzetzes.1.460]
BC1185年、Aeneasは、SicilyでElymusとAegestusに迎えられ、AegestaとElymaの創建に協力した。[Antiq.1.52.4]
** Aeneasの目的地は、Sicilyであり、ElymusとAegestusと合流する予定であったと思われる。
BC1184年、Diomedesは、Aegisthusの支援を受けた妻Aegialeiaの謀略で死刑判決を受け、Argosを去ってAetoliaへ移住した。[Diod.7.3.1]
** Diomedesの妻Aegialeiaは、Sthenelusの子Cometesと不貞を働いた。[Apo.E.6.9, Tzetzes.3.280]
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、AetoliaからItaly半島東岸へ移住して、Argyrippeを創建した。[Tzetzes.1.760, Strabo.6.3.9]
** DiomedesとDauniansの王Daunius(or Daunus)の娘Euippeとの間には、2人の息子たち、DiomedesとAmphinomusがいた。[Antoninus.37]
** Brundisiumは、Diomedesと共に渡海したAetoliansが創建した。[Just.12.2]
** ArpiとBeneventumは、Diomedesが創建した。[Solinus.2.10]
BC1184年、Aeneasは、Sicilyでの冬営を終えてItaly半島西岸を北上した。[Antiq.1.63.2]
BC1184年、Aeneasは、Laurentum付近に上陸した。[Antiq.1.45.1]
** Latinusの治世35年目であった。[Antiq.1.44.3] 夏の半ば[Antiq.1.63.3]
** Aeneasの仲間は、600人であった。(家族は含んでいないと思われる。)[Solinus.2.14]
BC1184年、Aeneasは、Laurentumの近くにLaviniumを創建した。[Antiq.1.45.1, Just.43.1]
** Laviniumの創建者は、Latinusであり、彼の娘の名に因んで町の名にしたという伝承もある。[Strabo.5.3.2]
BC1182年、Aeneasは、Latinusの娘Laviniaと結婚した。[Antiq.1.60.1, Euseb.Chron.283, Just.43.1]
** AeneiasとLaviniaの結婚はLatinusが戦死した後であるという伝承もある。
** しかし、LatinusがLaurentumを継承しているので、戦いの前と思われる。[Euseb.Chron.283]
** Aeneiasは父Anchisesが40歳頃に生まれたと思われる。[FGrH.Nr2.F39]
BC1182年、Latinusは、反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Just.43.1]
BC1182年、Agamemnonの子Halaesusは、Aeneasの味方のEvanderの子Pallasと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.411]
BC1182年、Tydeusの子Diomedesは、Rutuliansの王Turnusから援軍を要請されるが断った。[Ovid.Meta.14.460]
BC1182年、Evanderの子Pallasは、Aeneasに味方してRutuliansの王Turnusと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.466]
BC1182年、RutuliansのTurnusは、Aeneasとの戦いで戦死した。[Euseb.Chron.283, Just.43.1]
BC1182年、AeneasがLaurentumを継承した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Diod.7.5.2, Just.43.1]
BC1182年、Agamemnonの子Halaesusは、Aeneasの味方のEvanderの子Pallasと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.411]
BC1181年、Menestheusは、Melos島で死んだ。[Apo.E.6.15b, JeromeChro.1181]
BC1180年、AeneasとLaviniaとの間に、娘Aemiliaが誕生した。[Plut.Romu.2]
BC1180年、Aeneasの父Anchisesが死んだ。[Antiq.1.64.5]
** Anchisesは、Aeneasが戦死した戦いの前年に死んだ。[Antiq.1.64.5]
** Pausaniasは、Anchisesの墓がArcadiaにあると伝えている。山の名前が似ていることから作られた伝承と思われる。[Paus.8.12.8]
** Vergiliusは、AnchisesがSicily西部のDrepanumで死んだように伝えている。[Virg.Aene.3.692]
BC1179年、Aeneasは、再び反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死。AscaniusがLaurentumを継承した。[Antiq.1.64.3, Just.43.1]
** Aeneasは、Troy陥落から7年目に死んだ。[Antiq.1.65.1]
BC1178年、AeneasとLaviniaとの間に、息子Silviusが誕生した。[Antiq.1.70.1]
BC1178年、Orestesは、Aegisthusを殺害して、Mycenae王に即位した。[Dictys.6.3, Hyginus.119]
** Orestesの友Pyladesが、Aegisthusに加勢したNaupliusの息子たちを殺した。[Paus.1.22.6]
** 『Atreusの子らの帰国』第3巻の「HermioneusがIasusを追いかけて槍で刺した」のは、このときの記述と思われる。[Athen.9.399a]
** Hermioneusは、Pyladesの兄弟と思われる。
** Orestesには、CreteやAthensからも援軍が来たとされるのは、創作と思われる。[Dictys.6.3]
** 実際は、Aegisthusは高齢であったので、Aegisthusの死を聞いて、OrestesがMycenaeを掌握したとも思われる。
BC1178年、MenelausはTroas地方を掠奪して、8年目に帰還した。[Paus.3.22.2]
** Orestesが、治世8年目のAegisthusを誅殺し、供養の宴を催していた日に、Menelaus帰還した。[Home.Od.3.312]
** Menelausは、8年の放浪の末に帰還して、復讐を終えたOrestesに会った。[Apo.E.6.29]
** 実際は、MenelausはTroy陥落直後に帰還していたと思われる。それならば何故兄の仇を討たないのかと疑問に思われるので、8年目に帰還したことになったと思われる。Menelausは、Aegisthusに太刀打ちできなかったと推定される。
BC1176年、Sthenelusの子Cylarabesが死去した。[Paus.2.18.5]
** Inachusの子Phoroneusから574年続いたArgosの王統が断絶した。
BC1176年、MycenaeのOrestesは、Argosを占領した。[Paus.2.18.5]
** このとき、OrestesはMycenaeに住んでいた。[Paus.2.18.5]
BC1175年、Arcadia王Hippothousは、王都をTegeaからTrapezusに遷都した。[Paus.8.5.4]
** Hippothousは、Calydonの猪狩りに参加しているので、BC1262以前の生まれと思われる。[Paus.8.45.7]
BC1175年、Orestesは、DelphiのApollonの神託に従って、MycenaeからArcadiaへ移住した。[Paus.8.5.4]
** OrestesはTegeaで死んでいるので、Trapezusへの遷都とOrestesの移住に関連があると思われる。[Herod.1.67]
** OrestesはArcadia の大半も領した。[Paus.2.18.5]
** Messenian Warの際に、Arcadiansは、Messeniansを同族として支援した。
** Agamemnonは、Messenia湾岸の7つの町を支配して、多くのAchaeansがMesseniaに居住していたと思われる。
** Orestesと一緒に多くのAchaeansがTegeaへ移住したと思われる
< 3rd return of Heracleidae >
BC1175年、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Peloponnesus帰還を試みるが、失敗した。[推定、Paus.3.15.10, Paus.4.30.1]
BC1175年、Heraclesの子Glenus(or Gleneus)の乳母Abiaと一部の人々は、帰還を断念してMesseniaのIreに定住した。[Paus.4.30.1]
** Heraclesの子Glenus(BC1224生)の乳母AbiaをBC1241生まれと推定。Glenusも遠征に参加していたと思われる。
** GlenusはCleodaeusより年長で、始祖Heraclesの息子であった。
** しかし、Heracleidaeを率いたのは、Doriansの王であるHeraclesの子Hyllusの子Cleodaeusであったと思われる。[Paus.4.30.1]
** Cleodaeusと息子Aristomachusの生年差が40歳以上あり、Cleodaeusと共に遠征に参加した彼の長男がいたと思われる。
** Cleodaeusは戦死し、長男は、Glenusの乳母Abiaと共にMesseniaに逃れてIreに定住した。[Paus.4.30.1]
** 長男の孫が「真の」Heraclesの後裔と称されるPolyphontesであったと思われる。[Apo.2.8.5])
BC1175年、Mantoの子Mopsusは、異父兄弟Amphilochusと共に、ColophonからCiliciaへ移住して、Mallusを創建した。[Strabo.14.5.16]
** Mopsusには3人の娘、Rhode, Melias,Pamphiliaがいた。LyciaのRhodiaとPamphyliaは、娘たちの名前に因んでいた。[Photios.176]
** Alexander the Greatに随行し、EgyptのAlexandriaの発展を予言したTelmessusのAristandrusは、Mopsusの後裔と思われる。[Arr.3.2]
** Telmessusからは、Sardisの王MelesやCroesusも神託を受けたと伝えられる。[Herod.1.78, Herod.1.84]
BC1175年、NeoptolemusはDelphiを略奪して、Daetasの子Machaereus率いるDelphiansとの戦いで戦死した。[Apo.E.6.14, Strabo.9.3.9, FGrH.Nr333.F64]
** Orestesらに謀殺されたとも伝えられる。[Apo.E.6.14, Paus.2.29.9, Just.17.3, Hyginus.123]
** NeoptolemusはDelphiのApollo神殿で、司祭Machaereusを裏切ったため、Orestesに殺された。[JeromeChro.1160]
** Troyから帰還して、Delphiに住み着いていたMagnesiansもNeoptolemusとの戦いで、Delphiansに協力したと思われる。
BC1175年、AchillesとDeidamiaとの息子Oneirosは、Phocisでの戦いでOrestesに討ち取られた。[Photios.190]
** Oneirosは兄弟Neoptolemusと共に、Delphiansに味方したPhociansに加勢したOrestesとの戦いになったと思われる。
BC1173年、ThessalyのMagnesiansは、DelphiからCreteを経由してLydiaへ移住してMagnesiaを創建した。[Photios.186.29]
** Magnesiansと共にDaetasの子Machaereusも移住して、Magnesia創建に参加した。[Strabo.14.1.40, Strabo.9.3.9]
** MagnesiaからMiletus近くへ移住して、DidymaにApolloの神託所を開設したBranchusは、Machaereusの子孫であった。[Strabo.9.3.9]
BC1170年、Ajaxの子PhilaeusとEurysacesは、Athensの市民権を得て、Salamis島を譲り、BrauronとMeliteへ移住した。[Plut.Solon.10]
** Eurysacesの聖域がMeliteにあり、EurysacesはMeliteに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** 従って、PhilaeusはBrauronに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** Philaeusの妻は、Agamemnonの娘Iphigeniaであったと思われる。その理由は、つぎのとおりである。
** Philaeusは、Megara王である父Ajaxと共にMegaraに住んでいたと思われるが、その町にIphigeniaの英雄廟があった。[Paus.1.42.4, Paus.1.43.1]
** Iphigeniaは、Artemisに仕える巫女になって、Brauronで死んだと思われる。[Eur.IT.1464]
** Iphigeniaの兄弟HyperionがMegara王を継承している。[Paus.1.43.3]
BC1170年、Hippothousの子Aepytusは、Arcadia王に即位した。[Paus.8.5.4]
BC1169年、Tyndareusの息子たちCastorとPolydeuces(Dioscuri)は、神として祀られることになった。[Paus.3.13.1]
** Dioscuriの神格化は、IdasとLynceusとの戦いから40年後であった。[Paus.3.13.1]
BC1165年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusは、Arneに残留して反乱を起こしたBoeotiansを攻めた。[Polya.8.44]
BC1160年、Telamonの子Teucerの息子と思われるAjaxは、CyprusからCilicia Tracheiaに移住してOlbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheと共にAsia Minorへ移住してPergamonを創建した。[Paus.1.11.2]
** AndromacheとHectorには、複数の息子たちがいた。Neoptolemus にはHelenus が与えられた。[Dictys.5.16]
** Hectorの子Laodamasは、Andromache と共にNeoptolemus のもとにいた。[Dictys.6.12]
BC1154年、Aeneasの子Ascaniusは、Albaを創建した。[Antiq.1.66.1]
** Albaの創建は、Laviniumの創建から30年目であった。[Antiq.1.66.1]
BC1150年、Smyrna率いるAmazonsは、Ephesusの神殿を焼き払った。[Euseb.Chron.185, Strabo.14.1.4]
** Demophonの子Oxyntesの治世(BC1153-41)であった。[Euseb.Chron.185]
BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaから東へ移住して、Medeonを創建した。[StephByz.M439.19]
< The migration of the Aeolis BC1148-1055 >
BC1148年、Orestesは、遠征隊を率いて、Aeolisに植民活動を開始した。[Strabo.13.1.3]
** Aeolisの植民活動はIoniansより4世代前に開始された。[Strabo.13.1.3]
BC1148年、Orestesは、AmyclaeのPeisanderと共にTenedosを創建した。[FGrH.Nr4.F32, Pind.Ne.11, Strabo.13.1.3]
** Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[Pind.Ne.11]
** Tenedos島の住民は、Agamemnonによって、ArgolisのTeneaに強制移住させられ、島は無人であった。[Paus.2.5.4]
** BC4世紀の歴史家Nymphodorusが"Voyage round Asia"の中でTenedosは美女の島だと伝えている。[Athen.13.609e]
BC1148年、EpidaurusのPerinthusは、Orestesに同行して、(Thraceではない)Perinthusを創建した。[StephByz.P517.17]
BC1142年、Ascaniusが死んだ。彼の異母弟Silviusが継承した。[Antiq.1.70.1]
** Ascaniusの治世38年目であった。[Antiq.1.70.1]
BC1132年、Orestesが死んだ。Orestesの子TisamenusがLacedaemon王に即位した。[Herod.1.67, Paus.2.18.6]
** Orestesは70歳のとき、蛇が原因で死んだ。[FGrH.Nr12.F25]
** Orestesの最初の墓は、Tegeaの市門の内側にあった。そこから、SpartansがOrestesの遺骨を盗み出した。[Paus.8.54.4]
BC1126年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusは、Arneに残留していたBoeotiansを追い出した。[Polya.1.12]
BC1126年、ThessalyのArneから追い出されたBoeotiansは、Boeotiaへ帰還した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29, Thucy.1.12]
BC1126年、Arneから帰還したBoeotiansはCoroneiaを奪回して、Orchomenusも併合した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29]
** AthensのMunychiaに避難していたOrchomeniansもこの時、帰還した。[FGrH.Nr4.F42b]
BC1126年、Orchomeniansの一部がTheroの子Chaeronと共にBoeotiansがいなくなったArneに移住して、Chaeroneiaと呼ぶようになった。[FGrH.Nr1.F116, Paus.9.40.5, Plut.Sulla.17]
BC1126年、BoeotiansはOrchomeniansと共に、BoeotiaからPelasgiansを追い出した。Pelasgiansは、Athensへ行った。[Strabo.9.2.3]
** このPelasgiansの中にはSamothraceからCadmusらと共にBoeotiaへ移住して来た者の後裔もいた。[Herod.2.51]
** Pelasgiansは、AthensのAcropolisの下に住み、AgrolasとHyperbiusの指揮下で城壁を築いた。[Herod.6.137, Paus.1.28.3, Strabo.9.2.3]
** Pelasgiansは、城壁築造の功により、Hymettus山麓の不毛な土地(Pelasgicon地区)を与えられた。しかし、その土地が立派に開墾したのをAtheniansが嫉まれて、追放された。[Herod.6.137]
BC1126年、Orestesの子Penthilusは、Aulis港を出港し、Lesbosに植民した。[Paus.3.2.1, Strabo.9.2.3, Strabo.13.1.3]
** Boeotiansの帰還とPenthilusのAulis出航は、Troy陥落60年目であった。[Strabo.13.1.3, Thucy.1.12]
< 4th return of Heracleidae >
BC1126年、Thebesを追われたCadmusの後裔最後の王Autesionは、Doriansの地にいるAristodemusのもとへ亡命した。[Paus.9.5.15]
** Autesionの祖母の故郷Argosは、MycenaeのOrestesの子Tisamenusの支配下にあった。
** Autesionの移住は、AristomachusにPeloponnesusへの遠征を決断させた要因の一つであったと思われる。
BC1126年、Aristomachusは、Orestesの子Tisamenusに敗れた。[Apo.2.8.2, Paus.2.7.6, Strabo.13.1.3]
BC1126年、Agamemnonの子孫たち、Dorusの子CleuesとMalausの遠征隊は、Locris付近に長期間駐留していた。[Strabo.13.1.3]
** CleuesとMalausは、Aristomachus率いるHeracleidaeのPeloponnesus帰還の経過を見ていたものと思われる。
** Penthilusの遠征隊の出発地からは100km以上離れているが、Cleuesらの出発地からは、直近の位置にDoriansの居住地があった。
** CleuesとMalausはAgamemnonの曾孫で、彼らの祖父母は、Aegisthusによって、Mycenaeから追放されたと思われる。
** 遠征隊の多くの者は、Mt. Phriciumに住んでいた(恐らく、Thessalyから逃げ込んだ) Aeolisであったと思われる。[FGrH.Nr4.F80]
BC1126 年、Malausの遠征隊は、Larisa周辺に住んでいたPelasgiansを征服し、the Phryconian Cymeを創建した。[Strabo.13.1.3, Strabo.13.3.3]
** LarisaのPelasgiansは、強大な部族であったが、Trojan Warで弱体化していた。[Strabo.13.3.3]
** Larissa周辺から追われたTeutamusの後裔率いるPelasgiansは、ItalyのPisaeに逃れて、Tyrrheniansと共住した。[Pliny.3.50から推定]
** Cymeへの主たる移住者は、Thesprotiansによって、Thessalyを追われたAeolisであった。[FGrH.Nr4.F80から推定]
** Cymeは、Amazonsの名前であった。[Strabo.11.5.4, 12.3.21]
BC1125年、Heraclesの子Alcaeusの子Belusの子Ninusの子Agronは、Sardis王に即位した。[Herod.1.7]
** この系譜は、創作と思われる。
BC1120年、Orestesの子PenthilusはBoeotiansを率いて、the Aeolian colonyを実行した。[Strabo.9.2.5]
** BC1126年にThraciansとPerasgiansをBoeotiaから追い出した後であった。[Strabo.9.2.5]
< 5th return of Heracleidae >
BC1115年、Aristomachusの子Temenusは、「帰還は3度目の子孫の収穫」という神託を聞いて軍を準備した。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Temenusは、Thoasの子Haemonの子Oxylusを道案内にする。[Apo.2.8.3, Paus.5.3.5, Strabo.8.3.33]
** Oxylusが、陸路ではなく、船でPeloponnesusに入るように進言した。[Paus.5.3.6]
** Temenusは、過去の失敗から学んで、海峡を渡ってPeloponnesusへの侵入を計画して、その方面に詳しいOxylusを仲間にしたと思われる。
** Oxylusは、Temenusの父Aristomachusの父Cleodaeusの父Hyllusの母Deianeiraの姉妹Gorgeの子Thoasの子Haemonの息子。
** つまり、Oxylusは、Temenusの父の3従兄弟であり、親族であった。
BC1115年、Temenusは、LocrisのNaupactusで、船を建造した。[Apo.2.8.2, Paus.10.38.10, Strabo.9.4.7]
** Naupactusの創建者はTemenusであった。[Ps-Scym.475]
BC1115年、Temenusの兄弟Aristodemusは、Tisamenusの従兄弟MedonとStrophiusにDelphiで殺害された。[Apo.2.8.2, Paus.3.1.6, Paus.2.16.7]
** MedonとStrophiusは、Delphiの南西60stadesにあるCirrhaに住んでいた。[Pindar.Py.11]
** Aristodemusは子供の誕生を見た後で病死した。[Herod.6.52]
** Aristodemusは落雷で死んだ。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Phylasの子Hippotes(Hippotas)は、Naupactusで預言者Carnusを殺害した。[Apo.2.8.3, Paus.3.13.4, Photios.186.26]
** Carnusは、ArgosのAmphiarausの子Alcmaeonの孫と思われる。
BC1115年、Temenusは、神託によりHippotesを10年間の追放処分にした。[Apo.2.8.3]
** Hippotesは、Heraclesに追い出されたDryopesの王Phylasの娘から生まれたAntiochusの後裔であった。
** 40年後、Hippotesの子AletesがCorinthの支配権を獲得した。[Paus.2.4.4]
BC1115年、PelasgiansはAthensを追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[FGrH.Nr328.F100, Herod.6.137]
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Pelasgiansに追われてLacedaemonへ移住した。[Herod.4.145, Paus.7.2.2, Strabo.8.3.19]
** SpartansがMinyansを受け入れたのは、彼らの先祖が自分たちの先祖と同じArgonautsであったからであった。[Herod.4.145]
** Minyansの一部がOrchomenusからIolcusへ移住し、このためArgo船の勇士たちはMinyansと呼ばれるようになった。[Strabo.9.2.40]
** IolcusのPelias がOrchomenusのAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えたときに、若干のMinyansを伴ってきたものと思われる。
** これと似た例は、Neleusの場合やNiobeの場合にも見られる。[Strabo.8.3.19, Strabo.8.4.4]
** 当時のSparta王は、Tyndareusの血を引くOrestesの子Tisamenusであったと思われる。
** Herodotusは、Argonautsから3世代目の子孫(or 子供たちの子供たち)だと伝えている。[Herod.4.145]
** Phocus(PeleusはArgonauts)の子Crisusの子Strophiusの子Pylades(Orestesの親友)。Tisamenusは、Argonautsから4世代目。
** Herodotusは、3世代で100年として計算している。[Herod.2.142]
BC1115年、Lemnos島のPelasgiansは、AtticaのBrauronで娘たちを略奪した。[FGrH.Nr328.F100, FGrH.Nr328.F101, Herod.6.138]
** Lemnos島の最初の住人Sinties or Sintiは、Pelasgiansであった。[FGrH.Nr328.F101][Thucy.2.98, Home.Il.1.594, Strabo.7.8.3]
BC1114年、Temenusは、Naupactusで、再び、船の建造を開始した。
BC1113年、Temenusは、渡海用の艦隊の建造を完了した。Naupactusへの翌春集合を伝達した。
BC1112年、Temenusは、DorisのPindusから出発して、Naupactusに到着した。[Pind.Py.1.70, Strabo.9.4.10]
** Temenusには、HeraclesとOmphaleの子孫Hegeleosも同行していた。[Paus.2.21.3]
** Hegeleosは、後に、ArgosにA sanctuary of Athena Trumpetを造営した。[Paus.2.21.3]
BC1112年、AtticaのTetrapolisのIoniansは、NaupactusでTemenusの軍に合流した。[Strabo.8.6.15から推定]
** AtticaのTetrapolisのIoniansも同行し、ArgolisのEpidaurusに定住した。[Strabo.8.6.15]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、NaupactusからMolycriumまで回航して、渡海の準備をした。[Paus.5.3.6]
** AetoliaとLocrisの境界にあるAntirrhium岬(Molycrian Rhium)から、対岸のRion岬を目指した。[Strabo.8.2.3から推定]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusらの上陸をAchaiaのRion付近で待ち受けた。[Polya.1.9]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusの偽計に騙されて、Isthmusに軍を移動させた。[Polya.1.9]
BC1112年、Temenusは、AchaiaのRionに上陸した。[Paus.8.5.6, Polya.1.9]
** 海峡の幅は、約3km。Tisamenus側の船から妨害を受けた。[Apo.2.8.2]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、AchaiaのAegaeからArcadiaへ進軍した。[Paus.5.4.1]
** Heracleidaeは、Pheneus周辺から、Heraclesの遠征に参加したArcadiansの子孫を多く遠征隊に編入したと推定される。
BC1112年、Arcadia王Cypselusは、娘MeropeをTemenusの弟Cresphontesに嫁がせたい旨を申し出た。[Paus.8.5.6, Polya.1.7]
BC1112年、Temenusの弟Cresphontesは、ArcadiaのTrapezusで、Cypselusの娘Meropeと結婚した。[Paus.4.3.6]
BC1111年、Temenusは、TrapezusのArcadiansを軍に編入し、Pylusに侵攻した。
** PylusのMelanthusの先祖Neleusの息子の時代から、Arcadia人の土地へ進出して、敵対していた。[Home.7.132, Paus.8.11.4, Strabo.8.3.21]
BC1111年、Temenusは、PylusのMelanthus等のNeleusの子孫を追放した。[Paus.2.18.8]
** MelanthusがPylusの王であったとする伝承がある。[Euseb.Chron.183, JeromeChro.1136, JeromeChro.1129, Paus.7.2.3, Photios.186.39]
** しかし、Melanthusは、Nestorの直系ではないのでPylus王ではなく、Neleusの長男の直系としてMessenia王であったと思われる。
BC1111年、Melanthusは、Athensへ移住して、Oxyntesの子Thymoetesを追放した。[Paus.2.18.9]
** Melanthusは、Delphiでどこに住むべきかを神に問うて、EleusisのあるAthensへ行くことになった。[Athen.3.96e]
** Eleusisの祭司CauconがAndaniaのMesseneに伝えた大女神の祭儀は、脈々と受け継がれていた。[Paus.4.1.5]
** Melanthusの母も妻もAtheniansであった。Melanthusは、Thymoetesの娘婿であったと思われる。[Paus.7.2.3, Tzetzes.1.180]
** Melanthusの移住団の中には、Cauconesもいた。[Herod.1.147]
BC1111年、Melanthusは、ThebesのXanthusと決闘して、偽計を用いて殺した。[Polya.1.19, Strabo.9.1.7]
** Thymoetesが一騎打ちを忌避して、Melanthusに譲ったとする伝承もある。[Photios.186.39]
** Melaenae (or Melania)の領有権をめぐる争いであった。[FGrH.Nr70.F22, Polya.1.19, Harp10Orat.a173]
** Oinoeの領有権をめぐる争いであった。[Photios.186.39]
BC1111年、Melanthusは、Athens王になった。[Herod.5.65]
BC1111年、Nestorの子孫Alcmaeonは、Melanthusと共にAthensに移住して、Alcmaeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Paeonの子供たちは、Melanthusと共にAthensに移住して、Paeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Peisistratusは、Athensに移住した。[Herod.5.65]
** BC6世紀のAthensの僭主Hippocratesの子Peisistratusは、Nestorの子孫であった。[Herod.5.65]
BC1110年、Aristomachusの子Temenusは、待ち受けていたTisamenusと会戦した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Tisamenusに味方したAegimiusの子PamphylusとDymasは、Temenusとの戦いで戦死した。[Apo.2.8.3]
** Pamphylusは、後に、Temenusの娘Hyrnethoの娘Orsobiaと結婚しているので、この戦いでは死んでいない。[Paus.2.28.6]
BC1110年、Tisamenusは、Argosに籠城した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Temenusは、Argosの南のTemeniumに砦を築いてTisamenusと戦った。[Paus.2.38.1]
** Heracleidaeは、艦隊でArgolis沿海地方の町を攻略したと思われる。Temeniumも海からの兵站に便利であったと思われる。[Polya.2.12]
BC1110年、Diomedesの子Amphinomusの子Erginusは、Argosの守護神Palladium像を盗み出して、Temenusに協力した。[August.City.3.7, Plut.GreekQuest.48]
** Diomedesの死後、息子Amphinomusは、ItalyからAetoliaへ移住、彼の息子Erginusは、Argosに住んでいたと思われる。[Antoninus.37]
** ErginusとTemenusは、CalydonのOeneusを共通の先祖とする親族であった。
BC1109年、Temenusの子Phalcesは、Sicyonに夜襲をかけるが、戦闘はせずLacestadesと共同で王権を握った。[Paus.2.6.7]
** Sicyonは、最初の王Aegialeus (即位BC2090)から981年続いた。[Suda.sigma,402]
** 実際は、Inachusの子Aegialeusを始祖とするSicyonの王統は、BC1750年から641年間続いた。
BC1109年、Heraclesの子Ctesippusの曾孫Agamedidasは、Cleonaeを奪取した。[Paus.3.16.6]
BC1107年、Temenusは、TisamenusにArgosの領有権を主張して獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.2.18.7, Paus.4.3.3, Polya.1.6]
BC1107年、Tisamenusは、ArgosからSpartaへ移った。
BC1107年、Temenusは、Argosに入城した。
BC1106年、Temenusは、Sparta攻略のためにArgosを出発した。[Polya.1.10]
** Sparta攻略のとき、EurysthenesとProclesだけではなく、Temenusもいて、全軍であったと思われる。[Polya.1.10]
BC1106年、Temenusは、Spartaに籠城したTisamenusを攻囲した。
BC1106年、Oxylusは、案内役を終えて、Aetoliaへ向けて、Spartaを出発した。
** OxylusがTisamenusのSparta退去まで、Temenusのもとにいた場合は、Tisamenusの移住先は、Achaiaではなく、彼の先祖Pelopsが住んでいたPisaであったかもしれない。
BC1105年、Heracleidaeは、Perseusの末子Heliusが創建したLaconia湾岸のHelosを包囲して降伏させた。[Paus.3.20.6]
BC1105年、Oxylusは、Aetoliansを率いてElisに進軍した。[Paus.6.23.8, Strabo.8.3.33]
BC1105年、Oxylusは、ElisのDiusと戦って、Elisの王権を手に入れた。[Paus.5.4.2, Strabo.8.3.33]
** BC1320年にAetolusがSalmoneusに追われてから、215年後の帰還であった。
BC1104年、Philonomusは、Heracleidaeと裏取引して、TisamenusにAchaiaへ移住するように説得した。[Strabo.8.5.4-5]
** Philonomusは、Imbros島やLemnos島からSpartaに来た。[Photios.186.36]
** Philonomusは、BC1115年にPelasgiansに追われてLemnos島からLacedaemonへ移住したMinyansの一人であったと思われる。
BC1104年、Tisamenusは、SpartaからAchaiaへ移住した。[Paus.2.18.8, Strabo.8.7.1, 8.8.5]
BC1104年、EurysthenesとProclesの後見人Therasは、籤で領土を決めるように提案した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.4-5, Strabo.8.1.2, Strabo.8.5.6]
** Heracleidaeは、Peloponnesusを征服した後で、籤引きをした。[Apo.2.8.4]
BC1104年、Cresphontesは、Messeniaの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.5, Polya.1.6, Strabo.8.8.5]
** Heraclesの正妻Deianeiraの長男Hyllusの直系の男子、Temenus、Cresphontes、Aristodemusの遺児で分配した。[Diod.4.34.1, Strabo.9.4.10]
BC1104年、EurysthenesとProclesは、Lacedaemonの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Polya.1.6]
** Lacedaemonに居住したのは、Dorians 3部族のうち、Hyllusの部族であった。[FGrH.Nr70.F173]
BC1104年、Aristodemusの双子の息子EurysthenesとProclesは、Sparta王に即位した。
** Troy陥落から80年後であった。[Thucy.1.12]
BC1104年、Philonomusは、EurysthenesとProclesからAmyclaeを任せられた。[Photios.186.36, Strabo.8.5.4]
BC1104年、Tisamenusは、Achaiaに住んでいたIoniansに対して、共住を申し出るも拒否された。[Paus.7.1.8]
BC1103年、Tisamenusは、Ioniansとの戦いで戦死した。[Paus.7.1.8]
** Tisamenusが鳥の飛び方で伏兵を知った逸話は、この時の戦いと思われる。[Polya.2.37]
BC1103年、Ioniansは、神の庇護を求めてHeliceに集まり、Achaeansがこれを包囲した。[Herod.1.145, Paus.7.1.8]
BC1103年、Cresphontesは、Messeniaの王都をStenyclerusに定めた。[Paus.4.3.7, Strabo.8.4.7]
BC1102年、Ioniansは、Achaeansと休戦条約を結んでAthensへ移住した。[Paus.7.1.5, Strabo.8.7.1, Strabo.8.7.4]
BC1102年、Athens王Melanthusは、Achaiaから亡命してきたIoniansを共住させた。[Paus.7.1.9]
BC1102年、Antimachusの子Deiphontes(Temenusと同世代)は、Argivesを率いてEpidaurus王Pityreusから王位を譲渡させた。[Paus.2.26.1]
BC1102年、Deiphontesは、AtticaのTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusに定住させた。[Strabo.8.6.15]
BC1102年、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensへ移住した。[Paus.2.26.1]
BC1101年、Oxylusは、神託により、AchaiaのHeliceからOrestesの曾孫Agoriusを迎えてElisの共同統治者にした。[Paus.5.4.3]
** MesseniaとEleiaの勢力が逆転した。[Strabo.8.3.30]
BC1100年、TemenusはDeiphontesとHyrnethoを偏愛したので、息子たちに殺された。[Apo.2.8.5]
BC1100年、Temenusの息子たちと娘Hyrnethoの夫Deiphontesとの対立が生じた。[Paus.2.26.2]
BC1100年、Ceisusは、Argos王に即位した。[Paus.2.19.1]
BC1100年、Ceisusは、住民を集めてArgosを創建した。[Strabo.10.4.18]
BC1100年、Proclesは住民を集めて、Argos創建と同時期に、Spartaを創建した。[Strabo.10.4.18]
BC1100年、Autesionの子Therasは、後見人の役目を終えた。[Herod.4.147]
BC1100年、Penthilusの子ArchelausはAeolis遠征隊を率いて、Dascylium一帯やCyziceneへ移住した。[Strabo.13.1.3]
BC1099年、Oxylusは、Olympia競技会を開催した。[Paus.5.8.5]
** Oxylusを最後にOlympia競技会はIphitus が復活させるまで中断した。[Paus.5.8.5]
BC1099年、Therasは、SpartaにAthena神域を奉納した。[Paus.3.15.6]
BC1099年、Lacedaemonに定住したMinyansは、不法行為が多く処刑が決まっていたが、脱獄して立てこもった。[Herod.4.146]
BC1099年、Therasは、Calliste島へ植民のため赦免されたMinyansらを引き連れて出航した。[Herod.4.148, Paus.7.2.2]
BC1099年、Therasは、Calliste島へ移民し、その地の王になって、島をTheraと改名した。[Paus.3.15.6, Strabo.8.3.19]
** 移民は、LacedaemoniansとLemnos島からPelasgiansに追われてLaconiaへ逃げ込んだMinyansの一部とで構成された。[Paus.7.2.2]
** 当時、島には、BC1425にCadmusから分かれたPoecilesの子Membliarusを指導者とする入植者たちの後裔が住んでいた。[Herod.4.147]
BC1099年、EurysthenesとProclesは、Therasの植民市創建を支援した。[Paus.3.1.7]
BC1098年、TriphyliaのScillusの町は、OlympiaにDoris様式のHera神殿を建立した。[Paus.5.16.1]
** OxylusがElisを手に入れてから約8年後であった。[Paus.5.16.1]
** 後に、Scillus はPisaと共にElisに対して反乱を起こしていることから、Scillusの建設者は、Pelopsの息子と思われる。[Paus.5.6.4]
BC1098年、Spartaから逃れたMinyansは、Eleia南部にLepreum, Macistus, Phryxae, Pyrgus, Epium, Nudiumを創建した。[Herod.4.148]
BC1095年、Athensの王Melanthusが死んだ。CodrusがAthens王に即位した。[Euseb.185]
BC1095年、Pityreusの子ProclesはEpidaurusの元住人を率いて、AthensからSamos島に入植してSamosを創建した。[Paus.2.26.1, Paus.7.4.2, Strabo.14.1.3]
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、ArgosとSicyonの軍勢を率いてPhliusへ遠征した。[Paus.2.13.1]
BC1087年、Phalcesの子Rhegnidasは、Phliusの王になった。[Paus.2.13.2]
BC1087年、PhliusのHippasusは、Samosへ移住した。[Paus.2.13.2]
BC1085年、Cresphontesは、息子2人と共に「真の」Heraclesの後裔のPolyphontesに殺され、Messenia王位を簒奪された。[Apo.2.8.5, Paus.4.3.7]
** Polyphontesは、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeus長男の孫と思われる。
BC1085年、Xuthusの3人の息子たち、Cothus、Aeclus、Ellopsに率いられたIoniansは、Euboeaに、それぞれ、Chalcis、Eretria、Ellopiaという町を創建した。Ellopsは、さらに、周辺のHistiaeaなどの町も攻略した。[Plut.QuestGr.22, Strabo.10.1.3, Herod.5.57]
BC1085年、AthensのEretria区のGephyraeansは、Euboeaへ移住して、Eretriaを創建した。[Herod.5.57, Strabo.10.1.3]
BC1082年、Cresphontesの末の息子Aepytusは、Messenia王に即位した。[Apo.2.8.5, Paus4.3.8, Paus.8.5.7]
** Aepytusは、Arcadiaの伯父HolaeasやArgosのTemenusの子Isthmius、SpartaのEurysthenesやProclesの支援を受けた。
BC1075年、Xuthusの息子と思われるAmphiclusは、EuboeaのHistiaeaから、Chios島へ入植した。[Paus.7.4.8]
BC1075年、Aletesは、GonussaからAntasusの子Melasを遠征隊に加えて、Corinth攻略に向かった。[Paus.2.4.4, Paus.7.26.13, Photios.186.26]
** Aletesは、Heraclesの子Antiochusの子Phylasの子Hippotasの子で、Temenusとは同世代であった。
** Melasは、Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの子孫であった。[Newton.Chro.62]
BC1075年、Aletesは、Solygiaの丘に陣を構えて、抵抗した住民(Aeolis)と戦って、彼らをCorinthから追い出した。[Paus.2.4.3, Thucy.4.42]
BC1075年、Aletesは、Propodasの2人の息子DoridasとHyanthidasから譲位されてCorinth王となり、Melasを共住者にした。[Paus.2.4.4]
** Melasは、BC657にCorinthの僭主になったEetionの子Cypselusの先祖であった。[Paus.2.4.4]
** Aletesは、Corinthから亡命して、再び、帰国した。[FGrH.Nr76.F80]
BC1074年、Melanthusの子Codrusは、Athensに攻めて来たPeloponnesusのDoriansと戦って戦死した。[Paus.7.25.2, Polya.1.18]
** Aletes (vagabond)がAthensを攻めた。[Photios.186.26]
** しかし、Aletesの先祖、Heraclesの子Antiochusは、Athensの10部族のひとつAntiochisの名祖なので疑わしい。[Paus.1.5.1]
BC1074年、Doriansは、Athens領MegaraのIoniansを追い出して、DoriansのMegaraを創建した。[Paus.1.39.4, Strabo.9.1.7]
** 後に、Megaraが力をつけると、母市Corinthと戦った。[FGrH.Nr327.F9]
< the migration of the Ionians (BC1073-43) >
BC1073年、Codrusの子Neileusは、AthensのPrytaneumから最初の移民団を率いて、Miletusに入植した。[Herod.1.146, Paus.7.2.6]
** Neileusの移民団は、Athensの市会堂から出発した正式な移民団であった。[Herod.1.146]
** Neileusの移民団は、Iolausの植民団に次ぐAthensが単独で送り出した2回目の遠征隊であった。[Paus.1.29.5]
** Neileusに同行したPasiclesの子Philistusは、Miletusの北西の海岸近くにa temple of Eleusinian Ceresを建立した。[Herod.9.97]
BC1073年、Euctemonの息子たち、PhilogenesとDamonは、Phocaeaを創建した。[Paus.7.2.4, Strabo.14.1.3]
BC1070年、Codrusの庶子Cydrelus(or Cyaretus)は、Miletusを少し遡った所にMyusを創建した。[Paus.7.2.10, Plut.Mor.253a, Strabo.14.1.3]
BC1070年、Pharisと Geranthraeに住むAchaeansは、Doriansに攻められて、Peloponnesusを立ち退いた。[Paus.3.2.6, Paus.3.22.6]
BC1070年、Amyclaeは、Doriansに頑強に抗戦してから退去した。[Paus.3.2.6]
** Amyclae退去は、BC1104、PhilonomusがAmyclaeを報酬として得てから、また、Temenos から3世代目であった。[Photios.186.36]
** Pausaniasは、Amyclae退去を第8代Archelausの子Teleclusの時と記しているが、Proclesの時であった。[Photios.186.36, 47, Strabo.10.4.18]
** Laconiaの中でAmyclaeは最も収穫に恵まれた土地であった。[Polyb.5.19.1]
** Spartaから南へたった4kmの土地に300年居座れるか疑問である。
BC1070年、PolisとDelphos率いるPhilonomos(Minyans?)は、Creteに移住し、Gortynを攻略して、先住民と共住した。[Photios.186.36, 47]
BC1070年、Apodasmosを指導者とする集団は、Creteに渡らず、Melos島に定住した。[Photios.186.36]
** Apodasmosは、Philonomusの息子と思われる。[Commentary on Thucydides Book 5]
** Melos島民は、Lacedaemonからの入植者であった。[Herod.8.48, Thucydides.5.84]
** Doriansは、ThebesからTimomachusを招いて、Amyclaeとの戦いの軍事指導をさせた。[FGrH.Nr70.F16, Pind.Is.7.1]
BC1070年、Temenosの子Ceisusの子Althaemenesは、ArgosからDoriansとPelasgiansを率いてCreteへ植民した。[Photios.186.47, Strabo.10.4.18]
BC1070年、Althaemenesは、Rhodesに移住し、Lindos, Ialysos, Kameirosを創建した。[Photios.186.36, 47]
** BC1213年、Tlepolemusが、ArgosからRhodesへ移住して、同じ3つの町を創建しているので、同族と共住したものと思われる。[Diod.4.58.8]
** Althaemenesの移民団には、DoriansがAthens攻めから戻る途中に創建したMegaraに住むDoriansがいた。[Strabo.14.2.6]
** Rhodesの支配者は、HeliadaeからPhoeniciansに、それからCariansになっていたが、Doriansが取って代わった。[Photios.186.47]
** BC1213年にTlepolemusが、ArgosからRhodesへ移住している[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Home.Il.2.662, Paus.2.22.8, Strabo.14.2.6]
** Greeceの7賢人の一人、RhodesのLindosのCleobulusは、Althaemenesの後裔と思われる。[Diogenes.1.89, Paus.10.24.1]
BC1070年、AnthesはTroezenから植民団を率いて、Cariaに移住して、HalicarnassusとMyndusを創建した。[Paus.2.30.9, StephByz.A74.6, Strabo.14.2.16]
** Anthesは、Anthasの子Aetiusの後裔であった。[Paus.2.30.9]
** AlthaemenesはRhodesに居を定めた後で、植民団をHalicarnassusやCnidusやCosに分散した。[Strabo.14.2.6]
BC1068年、Codrusの子Androclusは、CariansやLelegesを追い出して、Ephesusを創建した。[Strabo.14.1.3]
BC1068年、Codrusの子Andraemonは、Cariansを追い出して、Lebedusを創建した。[Paus.7.3.5, Strabo.14.1.3]
BC1065年、Codrusの庶子Nauclusに率いられたIoniansは、Teosに入植した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
BC1065年、Androclus率いるEphesiansがSamos島に攻め込んで、島の住民を追放した。[FGrH.Nr70.F166, Paus.7.4.3, Plut.GreekQuest.55]
** Samos島のProclesの子LeogorusがCariansと通じて、Ioniansに対して陰謀を企んでいるという理由であった。
** 島の住民の一部は、Samothraceへ移住した。
** 残りは、Leogorusと共に本土に渡り、島の対岸のAmazonsのAnaea埋葬の地やMycaleに移住した。
** Samiansは、追放されてから10年後にSamos島を奪還した。[Paus.7.4.3]
BC1060年、Codrusの庶子Nauclusと彼の弟Damasus、Melanthusの曾孫Apoecus、GeresがTeosに入植した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
** BoeotianのGeresは、Boeotiansを率いていた。[Paus.7.3.6]
BC1060年、SamothraceのSamiansの一部は、Propontis海の北岸にPerinthusを創建した。[Plut.GreekQuest.57]
** 創建からDarius Iの時代までの間に、Strymon流域に住むPaeoniansはPerinthusを攻略した。[Herod.5.1]
BC1060年、Codrusの子Neileusの子Aepytusは、Ioniansを率いてIonia地方にPriene創建した。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
BC1060年、Codrusの庶子Cnopusは、Ionia地方の全地域から人を集めてErythraeへ移住した。[FGrH.Nr1.F228, Paus.7.3.7, Polya.8.43, Strabo.14.1.3]
** ErythraeはCnopopolisと呼ばれた。
BC1055年、Penthilusの子Echelas(or Archelaus)の子Grasは、Lacedaemonの支援を受けてLesbosを占領した。[Paus.3.2.1, Strabo.13.1.3]
BC1055年、Echelas(or Archelaus)の子Grasは、Ionia地方とMysiaの間のAeolis地方を領有した。[Paus.3.2.1]
** Grasは、Granicus川まで進出した。[Strabo.13.1.3]
** これ以前にPenthilusがLesbosを占領しているので、再占領であった。[Paus.3.2.1]
** Aeolis地方の植民は、Ionia地方の植民より4世代前に始まり、後者より長期間であった。[Strabo.13.1.3]
BC1055年、島から追い出されたSamiansは、Samos島からEphesiansを追い出して、島を奪い返した。[Paus.7.4.3, Plut.QuestGr.55]
BC1053年、EphesusのAndroclusは、Cariansに攻められたPrieneの救援中に戦死した。[Paus.7.2.9, FGrH.Nr70.F126, StephByz.A1.1]
BC1050年、ColophonのParalus(or Parphorus)を指導者とするIoniansは、Clazomenaeを創建した。[Paus.7.3.8-9, Strabo.14.1.3]
** Ioniansの大半は、Heracleidaeに追われたCleonaeやPhliusのAchaeansであったことから、Paralusは、Codrusの後裔と思われる。[Paus.7.3.9]
BC1043年、Hippalcimusの子Peneleusの後裔Philotasは、ThebesからIoniaのPrieneに移住して、町を再建した。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
** Prieneの創建者は、Codrusの子Neileusの子Aepytusであった。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
** Apollodorus of Athensは、Ioniansの移住から最初のOlympiad(BC776)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がIoniansの移住が完了した年になる。[Euseb.Chron.179]
BC1020年、Samiansは、Ionian Leagueに加盟した。[Paus.7.4.3]
** Samos島をEphesiansから奪還してから、少なくとも1世代以上後と思われる。
おわり
Upd:2023.10.31