古代ギリシア年表 (BC1199-1100)
古代ギリシア年表 (BC1199-1100)
BC1198年、HelenがTroyへ連れ去られた。[Apo.E.3.1-5, Dictys.1.3]
** Helenが連れ去られた2年後に、準備を終えてTroyへ遠征した。[Apo.E.3.18]
** HelenはSparta近くのTherapneに埋葬された。[Paus.3.19.9]
BC1197年、Hermioneは、MenelausとHelenの娘として、Spartaで誕生した。[Apo.E.3.3, Paus.10.16.4]
** Hermioneの誕生をTroy遠征の9年前とした。
** HelenがTroyへ連れ去られたとき、Hermioneは9歳であった。[Apo.E.3.3]
BC1196年、第1回Troy遠征と称される出来事。
** Agamemnonの遠征軍は、MysiaをTroyと間違えて上陸して失敗した。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Achillesは15歳で海軍を指揮した。[Apo.E.3.16]
** Athens王Menestheus[BC1209-1186]の治世13年目であった。[Parian.Marble.23]
** Epigoniを率いたAlcmaeonは、Thersanderの妻Demonassaの兄であり、ThersanderをThebes王に復位させた恩人であった。
** AlcmaeonはTiresiasの娘Mantoとの間に子供2人をもうけ、その後、Aetoliaへ遠征し、AcarnaniaでCallirhoeを妻にした。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonは、Epigoniの捕虜になった人々と新天地へ移住を希望するMantoをThersanderに託した。[推定]
BC1196年、Thersanderは、TegeaからMysiaへ移住したTelephusのもとへ行くが、その地で死んだ。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Telephusの従兄弟Parthenopaeusの2人の息子たち、TlesimenesとBiantesは、MysiaからEpigoniのThebes攻めに参加した。[Hyginus.71]
** TlesimenesとBiantesは、AlcmaeonやThersanderの戦友であり、Mysiaへ案内した。[推定]
** Telephusが留守にしたMysiaを荒らすのは簡単だという諺の元となったほど、Telephusの強さは有名であった。[FGrH.Nr327.F19]
** Troyと間違えてMysiaに上陸して、ThersanderがTelephusに殺されたという伝承には、この諺も影響していた。
BC1196年、Tiresiasの娘Mantoは、Mysiaから南下して、Colophonに住んでいたCretansと共住した。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
BC1196年、Mantoは、CreteからColophonへ移住したMycenaeanのLebesの子Rhaciusと結婚した。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusは、Thebes陥落をMantoから聞いて泣いた。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesは、MycenaeのSthenelusの子Iphitusの息子と思われる。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesの父Iphitusの姉妹Astymedusa(Eurystheusの姉妹)は、ThebesのOedipusの妻であった。[FGrH.333.95から推定]
BC1194年、Mantoは、Colophon近くの海辺のClarusにApollonの神託所を創建した。[Photios.186.6]
BC1190年、Euanthesの子Maronの子Macedonは、Macedonia地方へ移住した。[Diod.1.20.3]
** Diodorusは、Macedonの名前に因んで、Macedoniaと名付けられたと伝えている。[Diod.1.20.3]
BC1190年、Agamemnonは、Lemnos島をTroy遠征軍の補給基地とするためにNemeaのEuneusを島の支配者にした。[推定]
** Lemnos島の住人は、Euneusの母Hypsipyleの父Thoasが率いたNaxos島からの移住者と、Thessayから逃げ込んだMinyansであった。
** Agamemnonは、両方の住人を従わせるために、EuneusがHypsipyleとArgonautsの遠征を率いたJasonの息子だと流布したと思われる。
** Euneusの父をJasonとする史料[Apo.1.9.17, FGrH.Nr12.F14, Home.Il.7.464; 23.738, Hyginus.15, 273, Statius.6.340, Strabo.1.2.38]
** 次の理由で、Euneusは、NemeaのTalausの子PronaxとHypsipyleとの間の息子と思われる
** (理由1) Argonautsの遠征時、Minosの娘Ariadneの子Thoasの娘Hypsipyleは、7歳くらいであった。
** (理由2) HypsipyleとJasonとの間にはEuneusの他に息子Nebrophonus(or Deipylus)がいた。[Apo.1.9.17, Hyginus.273]
** Lemnos島にいたHypsipyleがNemeaに住むことになった経緯は、次のように推定される。
** Lemnos島に住んでいたThoasの娘Hypsipyleは、両親が死んで、孤児になり、Phliasusの養女になったと思われる。
** Lemnos島へは、Thoasと共にNaxos島から移住した人々がいて、Dionysus(Oenarus)の遠征に参加したと思われる。
** Hypsipyleの両親は、疫病で死んだと推定される。Lemnos島で疫病が猛威を振るった。[Thucy.2.47]
** Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusで育てられた。婚期を迎え、Phliusから約7km離れたNemeaのPronaxに嫁いだ。
** あるいは、Argonautsの遠征とは関係なく、Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusに住んでいた。
BC1190年、Agamemnonは、SicyonのRhopalusの子Hippolytusを攻めて、支配下に置いた。[Paus.2.6.7]
BC1190年、Achillesは、遠征への参加を拒否するTanagraのPoemanderを攻めた。[Plut.QuestGr.37]
** これが原因で、ThebesとEleutheraeの対立が続いたと思われる。BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを欲した。[Paus.1.38.8]
BC1190年、TanagraのPoemanderは、過失により息子を殺害し、ChalcisのElephenorにより清められた。[Plut.QuestGr.37]
BC1190年、Phocusの子Crisusの子Strophiusの子Pyladesは、Crissaから南へ移住して、Crissa湾の岸辺にCirrhaを創建した。[Pind.Py.11]
BC1190年、Agamemnonの子Halaesusは、MycenaeからItalyのFaleriiへ移住した。[Ovid.Fasti.4.63, Strabo.5.2.9]
** HalaesusはFaleriiから南南西へ約46kmのAlsiumにも関係があった。[ItaPunica.1.1]
BC1190年、Agamemnonの娘Iphigeniaは、MycenaeからMegaraに住むAjaxの子Philaeusに嫁いだ。
** Philaeusの妻は、Agamemnonの娘Iphigeniaであったと思われる。その理由は、つぎのとおりである。
** Philaeusは、Megara王である父Ajaxと共にMegaraに住んでいたと思われるが、その町にIphigeniaの英雄廟があった。[Paus.1.42.4, Paus.1.43.1]
** Iphigeniaは、Artemisに仕える巫女になって、Brauronで死んだと思われる。[Eur.IT.1464]
** Iphigeniaの兄弟HyperionがMegara王を継承している。[Paus.1.43.3]
BC1190年、Italy半島北東部のRavennaにいたPelasgiansは、Tyrrheniansに圧迫されてThesprotiaへ移住した。[Strabo.5.1.7から推定]
** BC1390年にThessalyからRavennaへ移住したPelasgiansが、Thessalyへ帰還した。[Strabo.5.1.7]
BC1189年、Alcmaeonは、Phegeusの息子たち、TemenusとAxionによって、Arcadiaで殺された。[Paus.8.24.10]
** Alcmaeonは、AgamemnonからのTroy遠征参加要請を断っているので、Acarnaniaに建設した町を離れたとは思われない。
BC1189年、Menelausは、SpartaのHeIleniumに遠征参加者を集め、会議を開催した。[Dares.10, Paus.3.12.6]
BC1188年、Laomedonの子Priam死去。[推定]
BC1188年、ArgosのHera神殿で、Troy遠征参加者が総大将に相応しい人物の名前を書いて投票し、Agamemnonが選出された。[Dictys.1.16]
BC1188年、Troy遠征参加のArgivesは、ArgosのTantalusの骨壺が安置された場所で、Troy攻略を誓った。[Paus.2.22.2]
BC1188年、AchaeansによるTroy遠征があった。
** 総大将は、Agamemnonではなく、Achillesと思われる。
** 第1回Troy遠征と称される出来事から8年後であった。[Apo.E.3.19]
** AthensのPhalerum港に集結後、AchillesとPatroclusが代表して、Delphiで神託を受けて来て、Aulisへ向かった。[Dares.14, Paus.1.1.2]
** Telamonは、AthensからAulisに向かう船をSalamisから見送った。[Paus.1.35.3, Paus.8.28.4]
** 戦いは、10年続いた。[Athen.343d, Apo.E.3.19, Apo.E.5.8, Dictys.3.23, DioChry.7.96, Diod.37.1.2, Demosthenes (Funeral Speech.10), GrAntho (5.139 and many others), Hyginus.108, Isocrates (To Philip.111, Panegyricus.83), Ovid.Meta.13.640, Plato.Laws.682, PlutMor.350e, Thucy.1.11, Virgil.Aeneid.8.370]
** Iphiclusの子ProtesilausがTroyに一番乗りした。[Arr.1.11.5, Apo.E.3.30, Dictys.2.11, Hyginus.103]
** Protesilausの墓は、ChersoneseのElaesusにあった。[Arr.1.115, GrAntho.7.141, Herod.9.116, HygAstro.2.40.3, Pliny.16.238]
** Elaeusa [HygAstro.2.40.3] Elaious [PhiloHero.672] Eleus [Strabo.Fr.51] Elaeus [Arr.1.11.5]
** Protesilausは戦死して、Elaeusに埋葬された。Protesilausの遠征は、BC1244年と思われる。
** << 遠征が10年ではなかったと思われる理由 >>
** Agamemnonの在位18年目にTroyが陥落した。[Euseb.Chron.179, Cleme.Str.1.21, JeromeChro.1197, Tatian.39]
** AgamemnonはTrojan War前に、Achaia、Argolis、Messenia湾岸を支配下に置いていた。[Home.Il.2.569, Home.Il.9.150, Strabo.8.4.1]
** AgamemnonがPeloponnesusの半分を支配下に置くのに、8年間では短すぎる。
** << 遠征が1年ではなかったと思われる理由 >>
** Troy遠征中に捕虜の女性たちとTelamonの子Ajaxとの間に息子たちが生まれていた。[Dictys.5.16, Plut.Arist.19, Harp10Orat.e167]
** 3日か、4日で行ける所に10年もいたとは思われない。[Home.Il.9.356, Home.Od.3.151]
BC1188年、LemnosのEuneusは、Troy遠征軍を歓待して、物資を補給した。[Home.Il.2.716, Home.Il.7.464, Home.Il.8.212]
BC1188年、Achillesは、Troyに加担するLesbiansを攻撃した。Phorbasを殺害し、娘Diomedeaを戦利品にした。[Dictys.2.16, Home.9.656]
BC1188年、Achillesは、Miletusを襲って、Lelegesの王Trambelusを殺した。[Athen.43d]
BC1188年、Agamemnonは、Troy沖に浮かぶTenedos島の住民をArgolisのTeneaに居住させた。[Paus.2.5.4]
** Cadmusの娘Inoの息子Melicertes(Palaemon)は、Tenedosで尊敬され、幼児を供儀することがあった。[TzeAdLyco.229]
BC1188年、Telamonの子Ajaxは、Phrygiansの支配者Teuthrasを殺して、娘Tecmessaを捕虜にした。[Dictys.2.18]
** このTeuthrasは、MysiaのTelephusの義父でない。Chersoneseに近い、Hellespont付近のPhrygiaの支配者と思われる。
BC1188年、Sicilyから移住してAcarnaniaに住んでいたPelasgiansは、Boeotiaへ侵入した。[Paus.1.28.3]
BC1188年、Boeotiansは、ThraciansやPelasgiansに追われて、ThessalyのArneへ移住した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** << Boeotiansが亡命先をArneにした理由 >>
** BC1330年のAmphionとZethusのThebes攻めのとき、Amphictyonの孫Locrusも協力した。[FGrH.Nr333.F170]
** LocrusはLelegesを率いていた。[Hesiod.Women.82]
** このとき、Locrusの従兄弟のBoeotusも参加して、Boeotusの子ItonusがBoeotiaへ移住したと思われる。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Boeotusの後裔がBoeotiansを率いてTroyへ遠征し、残っていた者たちがArneへ逃れた。
** Thraciansとは、Boeotiaの代名詞であった。[Pliny.4.27]
** Hyantesは、PhocisのHyampolisに居住していた。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** Thraciansは、Orchomenusを占領した。[FGrH.Nr4.F42b]
** Pelasgiansは、Coroneiaを占領した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** Thraciansは、Thebesも占領した。Thebansの捕虜たちはHaliartusまで連れて行かれたが奪還された。[Paus.9.16.6]
BC1188年、Aeolusの子Athamasの後裔Athamas率いるOrchomeniansは、Ioniaへ移住してTeosを創建した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
** Teosのすぐ近くのColophonには、EpigoniのThebes攻めの捕虜たちが、少し前に移住していた。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
** Teosへ移住したAthamasの後裔に率いられたOrchomeniansは、BC4世紀にPhilipによって帰還させられた。[Paus.9.37.8]
BC1188年、Thraciansに追われたOrchomeniansの一部は、Munychusに受け入れられて、AthensのMunychiaに住んだ。[FGrH.Nr4.F42b]
** Munychusは、DemophonとLaodiceの息子。[Plut.These.34] Munychusは、AcamasとLaodiceの息子。[Parthe.16]
BC1186年、Chalcisへ逃れていたTheseusの息子たち、DemophonとAcamasは、Athensへ帰還して、Atheniansを掌握した。[推定]
BC1186年、Menestheusは、Melos島へ逃れた。[Apo.E.6.15b, JeromeChro.1181]
BC1186年、Atheniansは、Scyros島へ渡って、Lycomedesを殺して、Theseusの仇討ちをし、Theseusの遺骨を持ち帰った。[Suda.th.368]
BC1186年、Thesprotiansは、Thessalyへ攻め込んで、Thessalyを占領した。[FGrH.Nr70.F23, Herod.7.176, Strabo.9.5.23, VellePat.1.3.1]
** Phociansは、Thesprotiansの侵入を防ぐために城壁を造った[Herod.7.176]
** Thessalus率いるThesprotiansが武力で占領し、Thessalyと呼ばれるようになった。それ以前は、Myrmidonesの国と呼ばれていた。[VellePat.1.3.1]
** Thucydidesは、Thesprotiansを非ギリシア人とみなしている[Thucy.2.80]
** ThessalyのArneのBoeotiansは、Haimonに敗れてBoeotiaへ帰還した。[Suda.pi.962]
** Arneの一部の住人はpenestai(農奴)となって残留し、3代目まで住み続けた。[Athen.264b, Suda.Pi.962]
BC1186年、予言者Peripoltasは、Peneleusの子OpheltesやBoeotiansを率いて、ArneからChaeroneiaへ移住した。[Plut.Cimon.1]
** Opheltesは、ThessalyのArneには2年間しかいなかったと思われる。
** Opheltesは、この時、Thessalyへ行く前に住んでいたCoroneiaをPelasgiansから奪還する力はなかったと思われる。
** Chaeroneiaは、当時、Arneと呼ばれていた。[FGrH.Nr4.F81, Paus.9.40.5]
BC1186年、Achaeansは、Antenorの息子たちに敗れて、Ilium奪還を断念して、各地へ逃れた。
** Thessaly陥落の知らせが届いて、遠征軍は解散したと思われる。
BC1186年、Neoptolemusは、Tenedosに立ち寄って、2日間滞在した。[Apo.E.6.5]
** < NeoptolemusがThessalyへの帰還を断念した理由 >
** Neoptolemusの故郷はAcastusに奪われたが奪還して故郷へ帰還した。[Dictys.6.7-9]
** Neoptolemusは、Molossiansの地に行った後、Peleus亡き後の旧領を継承した。[Apo.E.6.13]
** Neoptolemusは、帰還を軽蔑して、Molossiansの地へ移住した。[Paus.1.11.1]
** Neoptolemusは、父の王国を不在にして王国を失った。[Just.17.3, LeakeN.4.175]
BC1186年、Diomedesは、AthensのPhalerum付近に停泊して、Demophonと夜間の戦闘となった。[FGrH.Nr325.F12, Paus.1.28.9]
** Diomedesは、NestorやMenelausと共に、Tenedos島、Lesbos、Chios島、Psyria島、Euboeaを経由して帰還した。[Home.Od.3.151]
** OdysseusはTenedos島からAgamemnonのもとへ戻った。[Home.Od.3.151]
** DiomedesのArgos到着は、Troy出発の4日目であった。[Home.Od.3.151]
** Troyから3日目で、Phthiaに着く。[Home.Il.9.356]
** Troyの帰路、NestorがCeos島に立ち寄り、Nedusian Athena神殿を造営した。[Strabo.10.5.6]
** 後に、Messenia湾奥のNedon川近くの住人がCeos島へ移住して造営したものと思われる。
** PheraeのAdmetusの子Eumelusの後裔は、Athensへ移住した。[FGrH.4.125]
** OrmeniumのEuaemonの子Eurypylusは、Delphiの神託に従って、AchaiaのPatraeに定住した。[Paus.7.19.6-]
** Agamemnonは、Tenedosに立ち寄ってから帰国した。[Apo.E.6.5]
** Agamemnonは、LaconiaのMalea岬付近で暴風に遭遇した。[Home.Od.4.512]
** Agamemnonの軍船団にいたAchaiaのPelleneの人々は、暴風で流されてChalcidice半島のPelleneに住み着いた。[Thucy.4.120]
BC1186年、Achillesの育ての親Phoenixは、Thermopylae付近で死んだ。[Home.Il.9.485, Apo.E.6.12, Strabo.9.4.14]
BC1186年、Neoptolemusは、Molossiansの地へ移住した。[Apo.E.6.12]
** Neoptolemusは、HelenusとAndromacheを連れていた。[Apo.E.5.23, Apo.E.6.12, Just.17.3, Paus.2.23.6]
** Helenusは、Neoptolemusに与えられたHectorの息子たちを連れていた。[Dictys.5.16, Dictys.6.12]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Athensに上陸できずに、 Italy半島南部Scylletiumへ移住した。[Strabo.6.1.10]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Aeolis地方のCyme近くのElaeaへ移住した。[Strabo.13.3.5]
** ElaeaのあるMysiaには、Arcadiansが住んでいた。[Paus.1.4.6, Strabo.12.8.4]
BC1186年、Telamonの子Teucerは、父に下船を阻止され、Cyprusへ移住して、Salamisを創建した。[Just.44.3, Paus.1.28.11, Parian.Marble.26]
** Teucerは、捕虜たちをCyprusに植民した。[Athen.256b]
** Teucerは父の死の噂を聞いて、故国へ戻ったが、Ajaxの子Eurysacesに阻止されて、Hispaniaへ入植した。[Just.44.3]
** Teucerの子Ajaxは、Cilicia TracheiaのOlbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1186年、Asclepiusの子Podalirusは、Damaethusが治めるCaria地方のBybastusの近くにSyrnusを創建した。[FGrH.Nr70.F167, Paus.3.26.10, Parthe.1, Steph.Byz.593.17]
** Damaethusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定される。
** Podalirusは、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。
BC1186年、Tiresiasの娘Mantoは、Colophonで死んだ。[Photios.186.6]
** Colophon近くの海辺のClarusにあるApollonの神託所をMantoの子Mopsusが継承した。[Photios.186.6]
** ClarusのApollonの神託所は、Mantoが創建したと思われる。
** RhaciusとMantoの息子Mopsusは、Colophon周辺からCariansを追い出した。[Paus.7.3.2]
BC1186年、Peirithousの子Polypoetesと、Coronusの子Leonteusは、Colophonに定住した。[Apo.E.3.14, Apo.E.6.2, Dares.14]
** Thessalyから参加したPhiloctetesは、無事に帰還した。[Home.Od.3.176]
BC1186年、Calchasは、Pamphyliaへ移住してSelgeを創建した。[Herod.7.91, Paus.7.3.7, Strabo.12.7.3, Strabo.14.4.3]
** Pamphyliaは、Mopsusの姉妹の名前に因む。[StephByz.P498.15]
** Pamphyliaは、Mopsusの娘の名前に因む。[Photios.176]
** Selgeは、Alexander the Greatの信頼される同盟者となった。[Arr.1.28.1]
BC1186年、Ancaeusの子Agapenorは、Arcadiaへ帰らないで、Cyprus南西部のPalaepaphosの近くにPaphosを創建した。[Strabo.14.6.3]
** Agapenorは、Cyprusで銅を採掘した。[TzeAdLyco.447, TzeAdLyco.484]
** Agapenorは、Teucerに次いで2番目にやってきた。[TzeAdLyco.478]
BC1186年、Magnesiansは、戦利品の10分の1をDelphiに奉納して、Delphiに定住した。[Photios.186.29]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Troyを出航した。[Antiq.1.52.1]
BC1186年、Anchisesの子Aeneasは、Troyを出航した。[Antiq.1.63.2, Virg.Aene.3.1]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Sicily島北西部のCrimisus河畔に到着した。[Antiq.1.52.1]
BC1186年、OrchomenusのAstyoche (or Pernis)の子Ialmenusは、Sauromataeの地へ移住した。[FGrH.Nr333.F143, Strabo.9.2.42]
** Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。
** Phrixusの後裔Perseisの子Aeetesの娘Circeは、BC1276年、Sauromatiansの王のもとへ嫁いでいた。[Diod.4.45.4]
BC1185年、Anchisesの子Aeneasは、Thraciaでの冬営を終えて南下した。[Antiq.1.63.2]
BC1185年、Aeneasは、Delos島に立ち寄り、神官Aniusの歓待を受けた。[Antiq.1.50.1, Virg.Aene.3.69]
** Aniusの父ZarexとAchillesは、第7代Athens王Cecropsを共通の先祖とする又従兄弟であり、この伝承は創作と思われる。
BC1185年、Aeneasは、Cythera島に立ち寄って、Aphroditeの神殿を造営した。[Antiq.1.50.1]
** Cythera島はMycenae領であったと思われ、この伝承も創作と思われる。[FGrH.Nr10.F11, Tzetzes.1.460]
BC1185年、Aeneasは、SicilyでElymusとAegestusに迎えられ、AegestaとElymaの創建に協力した。[Antiq.1.52.4]
** Aeneasの目的地は、Sicilyであり、ElymusとAegestusと合流する予定であったと思われる。
BC1184年、Diomedesは、妻Aegialeiaの謀略で死刑判決を受け、Argosを去ってAetoliaへ移住した。[Diod.7.3.1]
** Diomedesの妻Aegialeiaは、Sthenelusの子Cometesと不貞を働いた。[Apo.E.6.9, Tzetzes.3.280]
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、AetoliaからItaly半島東岸へ移住して、Argyrippeを創建した。[Tzetzes.1.760, Strabo.6.3.9]
** DiomedesとDauniansの王Daunius(or Daunus)の娘Euippeとの間には、2人の息子たち、DiomedesとAmphinomusがいた。[Antoninus.37]
** Brundisiumは、Diomedesと共に渡海したAetoliansが創建した。[Just.12.2]
** ArpiとBeneventumは、Diomedesが創建した。[Solinus.2.10]
BC1184年、Aeneasは、Sicilyでの冬営を終えてItaly半島西岸を北上した。[Antiq.1.63.2]
BC1184年、Aeneasは、Laurentum付近に上陸した。[Antiq.1.45.1]
** Latinusの治世35年目であった。[Antiq.1.44.3] 夏の半ば[Antiq.1.63.3]
** Aeneasの仲間は、600人であった。[Solinus.2.14]
BC1184年、Aeneasは、Laurentumの近くにLaviniumを創建した。[Antiq.1.45.1, Just.43.1]
** Laviniumの創建者は、Latinusであり、彼の娘の名に因んで町の名にしたという伝承もある。[Strabo.5.3.2]
BC1184年、Helenusは、Hellopia地方からCorcyra島対岸へ移住して、Buthrotumを創建した。[Ovid.Meta.13.720, SerCVAene.3.293]
BC1182年、Aeneasは、Latinusの娘Laviniaと結婚した。[Antiq.1.60.1, Euseb.Chron.283, Just.43.1]
** AeneiasとLaviniaの結婚はLatinusが戦死した後であるという伝承もある。
** しかし、LatinusがLaurentumを継承しているので、戦いの前と思われる。[Euseb.Chron.283]
** Aeneiasは父Anchisesが55歳頃に生まれたと思われる。[FGrH.Nr2.F39]
** Anchisesは、Aeneasが戦死した戦いの前年にLaurentumで死んだ。[Antiq.1.64.5]
** これが事実であれば、Anchisesは、100歳で死んだことになる。Anchisesは、Aeneas誕生後、BC1220年頃にSicilyで死んだと思われる。
** Pausaniasは、Anchisesの墓がArcadiaにあると伝えている。山の名前が似ていることから作られた作り話と思われる。[Paus.8.12.8]
** Anchisesは、Sicily西部のDrepanumで死んだ。[Virg.Aene.3.692]
** Aeneasは、Anchisesの葬儀をSicilyで行った。[Hyginus.273]
BC1182年、Latinusは、反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Just.43.1]
BC1182年、Tyrrhenusは、Latinsとの戦いで戦死した。[Antiq.1.64.3]
BC1182年、Tydeusの子Diomedesは、Rutuliansの王Turnusから援軍を要請されるが断った。[Ovid.Meta.14.460]
** Turnusは、InachusやAcrisiusの後裔。[SerCVAene.6.88]
BC1182年、Evanderの子Pallasは、Aeneasに味方してRutuliansの王Turnusと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.466]
** Turnusは、Caereaに住むEtruriansの王Mezentiusと同盟を結んだ。[Livius.1.2]
BC1182年、RutuliansのTurnusは、Aeneasとの戦いで戦死した。[Euseb.Chron.283, Just.43.1]
BC1182年、AeneasがLaurentumを継承した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Diod.7.5.2, Just.43.1]
BC1182年、Agamemnonの子Halaesusは、Aeneasの味方のEvanderの子Pallasと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.411]
BC1181年、Menestheusは、Melos島で死んだ。[Apo.E.6.15b, JeromeChro.1181]
** Menestheusは、Melos島の王Polyanaxの跡を継いだ。[Apo.E.6.15b]
BC1180年、AeneasとLaviniaとの間に、娘Aemiliaが誕生した。[Plut.Romu.2]
BC1180年、Zarexの子Anius (or Anion)の子Androsは、Delos島からEuboea島の近くのAndros島へ移住した。[Diod.5.79.2]
BC1179年、Aeneasは、再び反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死。AscaniusがLaurentumを継承した。[Antiq.1.64.3, Just.43.1]
** Aeneasは、Troy陥落から7年目に死んだ。[Antiq.1.65.1]
BC1178年、AeneasとLaviniaとの間に、息子Silviusが誕生した。[Antiq.1.70.1]
BC1178年、Orestesは、Aegisthusを殺害して、Mycenae王に即位した。[Dictys.6.3, Hyginus.119]
** Orestesの友Pyladesが、Aegisthusに加勢したNaupliusの息子たちを殺した。[Paus.1.22.6]
** 『Atreusの子らの帰国』第3巻の「HermioneusがIasusを追いかけて槍で刺した」のは、このときの記述と思われる。[Athen.9.399a]
** Hermioneusは、Pyladesの兄弟と思われる。
** Orestesには、CreteやAthensからも援軍が来たとされるのは、創作と思われる。[Dictys.6.3]
** 実際は、Aegisthusは高齢であったので、Aegisthusの死を聞いて、OrestesがMycenaeを掌握したとも思われる。
BC1178年、MenelausはTroad地方を掠奪して、8年目に帰還した。[Paus.3.22.2]
** Orestesが、治世8年目のAegisthusを誅殺し、供養の宴を催していた日に、Menelausが帰還した。[Home.Od.3.312]
** Menelausは、8年の放浪の末に帰還して、復讐を終えたOrestesに会った。[Apo.E.6.29]
** Menelausは、Amyclaeに帰り着いて死んだ。[Pind.Py.11.1]
BC1175年、Mantoの子Mopsusは、異父兄弟Amphilochusと共に、ColophonからCilicia Pediasへ移住して、Mallusを創建した。[Strabo.14.5.16]
** MopsusとAmphilochusは、後に争って二人とも死んだ。[Strabo.14.5.16]
** Mopsusには3人の娘、Rhode, Melias,Pamphiliaがいた。LyciaのRhodiaとPamphyliaは、娘たちの名前に因んでいた。[Photios.176]
** Alexander the Greatに随行し、EgyptのAlexandriaの発展を予言したTelmessusのAristandrusは、Mopsusの後裔と思われる。[Arr.3.2]
** Telmessusからは、Sardisの王MelesやCroesusも神託を受けたと伝えられる。[Herod.1.78, Herod.1.84]
BC1175年、NeoptolemusはDelphiを略奪して、Daetasの子Machaereus率いるDelphiansとの戦いで戦死した。[Apo.E.6.14, Strabo.9.3.9, FGrH.Nr12.F15, FGrH.Nr333.F64]
** Orestesらに謀殺されたとも伝えられる。[Apo.E.6.14, Paus.2.29.9, Just.17.3, Hyginus.123]
** NeoptolemusはDelphiのApollo神殿で、司祭Machaereusを裏切ったため、Orestesに殺された。[JeromeChro.1160]
** Troyから帰還して、Delphiに住み着いていたMagnesiansもNeoptolemusとの戦いで、Delphiansに協力したと思われる。
BC1175年、AchillesとDeidamiaとの息子Oneirosは、Phocisでの戦いでOrestesに討ち取られた。[Photios.190]
** Oneirosは兄弟Neoptolemusと共に、Delphiansに味方したPhociansに加勢したOrestesとの戦いになったと思われる。
BC1175年、Alcmaeonの子Acarnanは、AcarnaniaにAnaktorionを創建した。[Ps-Scym.450]
BC1175年、Alcmaeonの子Phoetiusは、AcarnaniaにPhoetiaeを創建した。[FGrH.4.30]
BC1175年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの息子と思われるAcrisiusは、Larisaを再建した。[Steph.L412.18]
< 3rd return of Heracleidae >
BC1173年、Agamemnonは、Mycenaeを30(35)年間支配して、死んだ。[Euseb.Chron.179, (JeromeChro.1197)]
BC1173年、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeを攻めて、町を破壊した。[Paus.3.15.10とPaus.4.30.1から推定]
** 近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeに破壊された痕跡が確認されている。[wiki: Mycenae]
** Doriansは、TirynsやMideaも破壊して、Argosを占拠した。[OrestesのTegea移住などから推定]
** Hyllusは2回目の試みで、Cleodius 3回目の試みで、4回目の試みでAristomachusが殺された。[Newton.63]
BC1173年、Heraclesの子Glenus(or Gleneus)の乳母Abiaと一部の人々は、帰還を断念してMesseniaのIreに定住した。[Paus.4.30.1]
** Heraclesの子Glenus(BC1224生)の乳母AbiaをBC1241生まれと推定。Glenusも遠征に参加していたと思われる。
** GlenusはCleodaeusより年長で、始祖Heraclesの息子であった。
** しかし、Heracleidaeを率いたのは、Doriansの王であるHeraclesの子Hyllusの子Cleodaeusであったと思われる。[Paus.4.30.1]
** Cleodaeusと息子Aristomachusの生年差が40歳以上あり、Cleodaeusと共に遠征に参加した彼の長男がいたと思われる。
** Cleodaeusは戦死し、長男は、Glenusの乳母Abiaと共にMesseniaに逃れてIre (後のAbia)に定住した。[Paus.4.30.1]
** 長男の孫が「真の」Heraclesの後裔と称されるPolyphontesであったと思われる。[Apo.2.8.5]
BC1173年、ThessalyのMagnesiansは、DelphiからCreteを経由してLydiaへ移住してMagnesiaを創建した。[Photios.186.29]
** Magnesiansと共にDaetasの子Machaereusも移住して、Magnesia創建に参加した。[Dic.Machaereus, Strabo.14.1.40, Strabo.9.3.9]
** MagnesiaからMiletus近くへ移住して、DidymaにApolloの神託所を開設したBranchusは、Machaereusの子孫であった。[Strabo.9.3.9]
BC1173年、Orestesは、ArcadiaのTegeaへ逃れた。[Paus.8.5.4とHerod.1.67から推定]
** Orestesは、DelphiのApollonの神託に従って、MycenaeからArcadiaへ移住した。[Paus.8.5.4]
** OrestesはTegeaで死んだので、Trapezusへの遷都とOrestesの移住に関連があると思われる。[Herod.1.67]
** OrestesはArcadia の大半も領した。[Paus.2.18.5]
** Messenian Warの際に、Arcadiansは、Messeniansを同族として支援した。
** Agamemnonは、Messenia湾岸の7つの町を支配して、多くのAchaeansがMesseniaに居住していたと思われる。
** Orestesと一緒に多くのAchaeansがTegeaへ移住したと思われる。
** Mycenaeは、Aegisthusの子Aletesが継承したと思われる。Aletesは、Orestesの妻Erigoneの兄弟。[Hyginus.124]
BC1173年、Arcadia王Hippothousは、王都をTegeaからTrapezusに遷都した。[Paus.8.5.4]
** Hippothousは、Calydonの猪狩りに参加しているので、BC1262以前の生まれと思われる。[Paus.8.45.7]
BC1173年、Agamemnonの子Hyperionは、MycenaeからMegaraへ逃れた。[Paus.1.43.3から推定]
BC1173年、Ajaxの息子たち、PhilaeusとEurysacesは、BrauronとMeliteへ移住した。[Plut.Solon.10]
** Eurysacesの聖域がMeliteにあり、EurysacesはMeliteに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** 従って、PhilaeusはBrauronに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** PhilaeusとEurysacesの移住は、HyperionがMycenaeからMegaraへ移住して来たことが原因と思われる。
BC1170年、Hectorの息子たちは、Priamの子Helenusから軍勢を与えられて、Antenorの息子たちを追い出してIliumを奪還した。[JeromeChro.1154から推定]
** 夏至の17日前、Thargelion月の終わりの日から8日目にTroyは陥落した。[Antiq.1.63.1]
** Troy陥落は、Thargelion月の満月の日であったと伝えられる。
** BC1178年4月16日の歴史的日食をもとに、月齢周期を、29.53日として計算すると、Ilium占領は、BC1170年6月1日であった。
** Odyssey Eclipse - https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEhistory/SEhistory.html
** Herodotusは、Trojan WarをPersiaのGreece侵攻以前に起こった悲惨な出来事のように記している。[Herod.6.98]
** この後のOrestesによるTenedosへの植民は、タイミングが良く、OrestesもTroy遠征に参加していたと推定される。
BC1170年、Orestesは、遠征隊を率いて、Aeolisに植民活動を開始した。[Strabo.13.1.3]
** Aeolisの植民活動はIoniansより4世代前に開始された。[Strabo.13.1.3]
BC1170年、Orestesは、AmyclaeのPeisanderと共にTenedosを創建した。[FGrH.Nr4.F32, Pind.Ne.11, Strabo.13.1.3]
** Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[Pind.Ne.11]
** Tenedos島の住民は、Agamemnonによって受け入れられて、ArgolisのTeneaに居住した。[Paus.2.5.4]
** Orestesは、Teneaの住人がTenedos島からの避難民であり、彼らを追い出したAntenorだと知っていた。
** Teneaの住人の一部は、Orestesの遠征に参加して、Tenedos島へ帰還したと思われる。大部分の住人は、後にSicily島へ移住した。
** BC4世紀の歴史家Nymphodorusが"Voyage round Asia"の中でTenedosは美女の島だと伝えている。[Athen.13.609e]
BC1170年、EpidaurusのPerinthusは、Orestesに同行して、(Thraciaではない)Perinthusを創建した。[Steph.P517.17]
BC1170年、Hippothousの子Aepytusは、Arcadia王に即位した。[Paus.8.5.4]
BC1170年、Teucerの子Ajaxは、CyprusからCilicia Tracheiaへ移住して、Olbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1169年、Tyndareusの息子たちCastorとPolydeuces(Dioscuri)は、神として祀られることになった。[Paus.3.13.1]
** Dioscuriの神格化は、IdasとLynceusとの戦いから40年後であった。[Paus.3.13.1]
BC1165年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusは、Arneに残留して反乱を起こしたBoeotiansを攻めた。[Polya.8.44]
BC1165年、Sthenelusの子Cylarabesが死去した。[Paus.2.18.5]
** Inachusの子Phoroneusから585年続いたArgosの王統が断絶した。
BC1165年、Orestesは、Argosを占領した。[Paus.2.18.5]
** このとき、OrestesはArgosのneighborであった。[Paus.2.18.5] Orestesは、Mycenaeではなく、Tegeaに住んでいたと思われる。
BC1160年、Andrus島で反乱が起きて、Aniusの子Androsは、Ida山の南麓へ移住して、Antandrosを創建した。[Photios.186.41]
BC1160年、Agamemnonの子Hyperionは、横暴に振舞ったため、Sandionに殺されて、Megaraの王制は廃止された。[Paus.1.43.3]
BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheと共にAsia Minorへ移住してPergamonを創建した。[Paus.1.11.2]
** AndromacheとHectorには、複数の息子たちがいた。Neoptolemus はHelenus にHectorの息子たちを与えた。[Dictys.5.16]
** Hectorの子Laodamasは、Andromache と共にNeoptolemus のもとにいた。[Dictys.6.12]
BC1154年、Aeneasの子Ascaniusは、Albaを創建した。[Antiq.1.66.1]
** Albaの創建は、Laviniumの創建から30年目であった。[Antiq.1.66.1]
BC1150年、Smyrna率いるAmazonsは、Ephesusの神殿を焼き払った。[Euseb.Chron.185, Strabo.14.1.4]
** Demophonの子Oxyntesの治世(BC1153-41)であった。[Euseb.Chron.185]
** Ephesiansは、Sisyrbeに因んでSisyrbitaeと呼ばれた。[Strabo.14.1.4]
BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaから東へ移住して、Medeonを創建した。[StephByz.M439.19]
BC1150年、Acrisiusの子Pharsalusは、Pharsalus (後のPalaepharsalus)を創建した。[Steph.Ph659.18]
BC1150年、Diomedesの死後、彼の息子Amphinomusは、Italy半島からAetolia地方へ移住した。[娘の息子がAetoliaにいたことから推定]
BC1142年、Ascaniusが死んだ。彼の異母弟Silviusが継承した。[Antiq.1.70.1]
** Ascaniusの治世38年目であった。[Antiq.1.70.1]
BC1132年、Orestesが死んだ。[Herod.1.67, Paus.2.18.6]
** Orestesは70歳のとき、ArcadiaのOresteiaで蛇に噛まれて死んだ。[Apo.E.6.28, FGrH.Nr12.F25, TzeAdLyco.1374]
** Orestesの最初の墓は、Tegeaの市門の内側にあった。そこから、SpartansがOrestesの遺骨を盗み出した。[Paus.8.54.4]
** Orestesは、Arcadiaで死んだ。[Herod.1.67, Strabo.13.1.3]
** Orestesは、Oresteiaで死んだ。[Apo.E.6.28, TzeAdLyco.1374]
** Oresteiaは、Arcadia南部のOresthasiumではなく、Tegea市内にあったと思われる。
** OresthasiumがOresteiaと呼ばれるようになったのは、Orestesの居住と無関係と思われる。[Paus.8.3.2]
BC1126年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusは、Arneに残留していたBoeotiansを追い出した。[Polya.1.12]
BC1126年、ThessalyのArneから追い出されたBoeotiansは、Boeotiaへ帰還した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29, Thucy.1.12]
BC1126年、Arneから帰還したBoeotiansはCoroneiaを奪回して、Orchomenusも併合した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29]
** AthensのMunychiaに避難していたOrchomeniansもこの時、帰還した。[Strabo.9.2.3]
BC1126年、Orchomeniansの一部がTheroの子Chaeronと共にBoeotiansがいなくなったArneへ移住して、Chaeroneiaと呼ぶようになった。[FGrH.Nr1.F116, Paus.9.40.5, Plut.Sulla.17]
BC1126年、BoeotiansはOrchomeniansと共に、BoeotiaからPelasgiansを追い出した。Pelasgiansは、Athensへ行った。[Strabo.9.2.3]
** このPelasgiansの中にはSamothraceからCadmusらと共にBoeotiaへ移住して来た者の後裔もいた。[Herod.2.51]
** Pelasgiansは、AthensのAcropolisの下に住み、AgrolasとHyperbiusの指揮下で城壁を築いた。[Herod.6.137, Paus.1.28.3, Strabo.9.2.3]
** Pelasgiansは、城壁築造の功により、Hymettus山麓の不毛な土地(Pelasgicon地区)を与えられた。しかし、その土地が立派に開墾したのをAtheniansが嫉まれて、追放された。[Herod.6.137]
BC1126年、Orestesの子Penthilusは、Aulis港を出港し、Lesbos島に植民した。[Paus.3.2.1, Strabo.9.2.3, Strabo.13.1.3]
** Penthilusは、Lesbos島東部Mityleneであった。Penthilusは、MityleneでMegaclesに殺された。[AristPoli.1311b]
** Penthilusは、Lesbos島に入植して、町を作る前に死んだ。100年後、Gras (or Graus)が町を作った。[FGrH.3.195, TzeAdLyco.1374]
** Boeotiansの帰還とPenthilusのAulis出航は、Troy陥落60年目であった。[Strabo.13.1.3, Thucy.1.12]
** Heracleidaeの帰還の頃であった。[Strabo.13.1.3]
< 4th return of Heracleidae >
BC1126年、Opheltes の子Damasichthonは、Chaeroneiaから進軍して、Thebesに入城した。
BC1126年、Thebesを追われたCadmusの後裔最後の王Autesionは、Doriansの地にいるAristodemusのもとへ亡命した。[Paus.9.5.15]
** Autesionの祖母の故郷Argosは、MycenaeのOrestesの子Tisamenusの支配下にあった。
** Autesionの移住は、AristomachusにPeloponnesusへの遠征を決断させた要因の一つであったと思われる。
BC1126年、Aristomachusは、Orestesの子Tisamenusに敗れた。[Apo.2.8.2, Paus.2.7.6, Strabo.13.1.3]
** Aristomachusは、
BC1126年、Agamemnonの子孫たち、Dorusの子CleuesとMalausの遠征隊は、Locris付近に長期間駐留していた。[Strabo.13.1.3]
** CleuesとMalausは、Aristomachus率いるHeracleidaeのPeloponnesus帰還の経過を見ていたものと思われる。
** Penthilusの遠征隊の出発地からは100km以上離れているが、Cleuesらの出発地からは、直近の位置にDoriansの居住地があった。
** CleuesとMalausはAgamemnonの曾孫で、彼らの祖父母は、Aegisthusによって、Mycenaeから追放されたと思われる。
** 遠征隊の多くの者は、Mt. Phriciumに住んでいた(恐らく、Thessalyから逃げ込んだ) Aeolisであったと思われる。[FGrH.Nr4.F80]
BC1126 年、Malausの遠征隊は、Larisa周辺に住んでいたPelasgiansを征服し、Phryconian Cymeを創建した。[Strabo.13.1.3, Strabo.13.3.3]
** LarisaのPelasgiansは、強大な部族であったが、Trojan Warで弱体化していた。[Strabo.13.3.3]
** Larisa周辺から追われたTeutamusの後裔率いるPelasgiansは、ItalyのPisaeに逃れて、Tyrrheniansと共住した。[Pliny.3.50から推定]
** Cymeへの主たる移住者は、Thesprotiansによって、Thessalyを追われたAeolisであった。[FGrH.Nr4.F80から推定]
** Cymeは、Amazonsの名前であった。[Strabo.11.5.4, 12.3.21]
BC1125年、Heraclesの子Alcaeusの子Belusの子Ninusの子Agronは、Sardis王に即位した。[Herod.1.7]
** この系譜は、創作と思われる。
BC1120年、Orestesの子PenthilusはBoeotiansを率いて、the Aeolian colonyを実行した。[Strabo.9.2.5]
** BC1126年にThraciansとPerasgiansをBoeotiaから追い出した後であった。[Strabo.9.2.5]
BC1120年、Amphinomusの息子と思われるErginusは、祖父Diomedesの故郷Argosへ移住した。[ErginusはDiomedesの後裔であったことから推定]
< 5th return of Heracleidae >
BC1115年、Aristomachusの子Temenusは、「帰還は3度目の子孫の収穫」という神託を聞いて軍を準備した。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Temenusは、Thoasの子Haemonの子Oxylusを道案内にする。[Apo.2.8.3, Paus.5.3.5, Strabo.8.3.33]
** Oxylusが、陸路ではなく、船でPeloponnesusに入るように進言した。[Paus.5.3.6]
** Temenusは、過去の失敗から学んで、海峡を渡ってPeloponnesusへの侵入を計画して、その方面に詳しいOxylusを仲間にしたと思われる。
** Oxylusは、Temenusの父Aristomachusの父Cleodaeusの父Hyllusの母Deianeiraの姉妹Gorgeの子Thoasの子Haemonの息子。
** つまり、Oxylusは、Temenusの父の3従兄弟であり、親族であった。
BC1115年、Temenusは、LocrisのNaupactusで、船を建造した。[Apo.2.8.2, Paus.10.38.10, Strabo.9.4.7]
** Naupactusの創建者はTemenusであった。[Ps-Scym.475]
BC1115年、Temenusの兄弟Aristodemusは、Tisamenusの従兄弟MedonとStrophiusにDelphiで殺害された。[Apo.2.8.2, Paus.3.1.6, Paus.2.16.7]
** MedonとStrophiusは、Delphiの南西60stadesにあるCirrhaに住んでいた。[Pindar.Py.11]
** Aristodemusは子供の誕生を見た後で病死した。[Herod.6.52]
** Aristodemusは落雷で死んだ。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Phylasの子Hippotes(Hippotas)は、Naupactusで預言者Carnusを殺害した。[Apo.2.8.3, Paus.3.13.4, Photios.186.26]
** Carnusは、ArgosのAmphiarausの子Alcmaeonの孫と思われる。
BC1115年、Temenusは、神託によりHippotesを10年間の追放処分にした。[Apo.2.8.3]
** Hippotesは、Heraclesに追い出されたDryopesの王Phylasの娘から生まれたAntiochusの後裔であった。
** 40年後、Hippotesの子AletesがCorinthの支配権を獲得した。[Paus.2.4.4]
BC1115年、PelasgiansはAthensを追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[FGrH.Nr328.F100, Herod.6.137]
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Pelasgiansに追われてLacedaemonへ移住した。[Herod.4.145, Paus.7.2.2, Strabo.8.3.19]
** Minyansの一部は、Cyzicusへ移住した。Cyzicusの住人は、Ida山南のAntandrosへ移住した。[Photios.186.41]
** Cononは、Cyzicusの住人を追い出したのは、Tyrrheniansだと伝えているが、Lemnos(Tyrrhenia)に住むMinyansと思われる。
** SpartansがMinyansを受け入れたのは、彼らの先祖が自分たちの先祖と同じArgonautsであったからであった。[Herod.4.145]
** Minyansの一部がOrchomenusからIolcusへ移住し、このためArgo船の勇士たちはMinyansと呼ばれるようになった。[Strabo.9.2.40]
** IolcusのPelias がOrchomenusのAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えたときに、若干のMinyansを伴ってきたものと思われる。
** これと似た例は、Neleusの場合やNiobeの場合にも見られる。[Strabo.8.3.19, Strabo.8.4.4]
** 当時のSparta王は、Tyndareusの血を引くOrestesの子Tisamenusであったと思われる。
** Herodotusは、Argonautsから3世代目の子孫(or 子供たちの子供たち)だと伝えている。[Herod.4.145]
** Phocus(PeleusはArgonauts)の子Crisusの子Strophiusの子Pylades(Orestesの親友)。Tisamenusは、Argonautsから4世代目。
** Herodotusは、3世代で100年として計算している。[Herod.2.142]
BC1115年、Lemnos島のPelasgiansは、AtticaのBrauronで娘たちを略奪した。[FGrH.Nr328.F100, FGrH.Nr328.F101, Herod.6.138]
** Lemnos島の最初の住人Sinties or Sintiは、Pelasgiansであった。[FGrH.Nr328.F101][Thucy.2.98, Home.Il.1.594, Strabo.7.8.3]
BC1114年、Temenusは、Naupactusで、再び、船の建造を開始した。
BC1113年、Temenusは、渡海用の艦隊の建造を完了した。Naupactusへの翌春集合を伝達した。
BC1112年、Temenusは、DorisのPindusから出発して、Naupactusに到着した。[Herod.1.56, Pind.Py.1.66, Strabo.9.4.10]
** HeracleidaeはDryopisから出発してPeloponnesusに帰還した。[Strabo.9.4.10]
** Doriansは、DryopisからPeloponnesusへ移動した。[Herod.1.56]
** HeracleidaeとDoriansは、Pindusから出発してSpartaやAmyclaeに着いた。[Pind.Py.1.66]
** Temenusには、HeraclesとOmphaleの子孫Hegeleosも同行していた。[Paus.2.21.3]
** Hegeleosは、後に、ArgosにA sanctuary of Athena Trumpetを造営した。[Paus.2.21.3]
BC1112年、AtticaのTetrapolisのIoniansは、NaupactusでTemenusの軍に合流した。[Strabo.8.6.15から推定]
** AtticaのTetrapolisのIoniansも同行し、ArgolisのEpidaurusに定住した。[Strabo.8.6.15]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、NaupactusからMolycriumまで回航して、渡海の準備をした。[Paus.5.3.6]
** AetoliaとLocrisの境界にあるAntirrhium岬(Molycrian Rhium)から、対岸のRion岬を目指した。[Strabo.8.2.3から推定]
** Polybiusは、HeracleidaeがRionに向かった場合、LocriansはTisamenusに連絡するという協定を交わしていたと伝えている。[Polyb.12.12a]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusらの上陸をAchaiaのRion付近で待ち受けた。[Polya.1.9]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusの偽計に騙されて、Isthmusに軍を移動させた。[Polya.1.9]
BC1112年、Temenusは、AchaiaのRionに上陸した。[Paus.8.5.6, Polya.1.9]
** 海峡の幅は、約3km。Tisamenus側の船から妨害を受けた。[Apo.2.8.3]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、AchaiaのAegaeからArcadiaへ進軍した。[Paus.5.4.1]
** Heracleidaeは、Pheneus周辺から、Heraclesの遠征に参加したArcadiansの子孫を多く遠征隊に編入したと推定される。
BC1112年、Arcadia王Cypselusは、娘MeropeをTemenusの弟Cresphontesに嫁がせたい旨を申し出た。[Paus.8.5.6, Polya.1.7]
BC1112年、Temenusの弟Cresphontesは、ArcadiaのTrapezusで、Cypselusの娘Meropeと結婚した。[Paus.4.3.6]
BC1111年、Temenusは、TrapezusのArcadiansを軍に編入し、Pylusに侵攻した。
** PylusのAndropompusの子Melanthusの先祖Neleusの息子の時代から、Arcadia人の土地へ進出して、敵対していた。[Home.7.132, Paus.8.11.4, Strabo.8.3.21]
BC1111年、Temenusは、PylusのMelanthus等のNeleusの子孫を追放した。[Paus.2.18.8]
** MelanthusがPylusの王であったとする伝承がある。[Euseb.Chron.183, JeromeChro.1136, JeromeChro.1129, Paus.7.2.3, Photios.186.39]
** しかし、Melanthusは、Nestorの直系ではないのでPylus王ではなく、Neleusの長男の直系としてMessenia王であったと思われる。
BC1111年、Melanthusは、Athensへ移住して、Oxyntesの子Thymoetesを追放した。[Paus.2.18.9]
** Melanthusは、Delphiでどこに住むべきかを神に問うて、EleusisのあるAthensへ行くことになった。[Athen.3.96e]
** Eleusisの祭司CauconがAndaniaのMesseneに伝えた大女神の祭儀は、脈々と受け継がれていた。[Paus.4.1.5]
** Melanthusの母も妻もAtheniansであった。Melanthusは、Thymoetesの娘婿であったと思われる。[Paus.7.2.3, Tzetzes.1.180]
** Melanthusの移住団の中には、Cauconesもいた。[Herod.1.147]
BC1111年、Melanthusは、ThebesのXanthusと決闘して、偽計を用いて殺した。[Polya.1.19, Strabo.9.1.7]
** Thymoetesが一騎打ちを忌避して、Melanthusに譲ったとする伝承もある。[Photios.186.39]
** Melaenae (or Melania)の領有権をめぐる争いであった。[FGrH.Nr70.F22, Polya.1.19, Harp10Orat.a173]
** Oinoeの領有権をめぐる争いであった。[Photios.186.39]
BC1111年、Melanthusは、Athens王になった。[Herod.5.65]
BC1111年、Nestorの子孫Alcmaeonは、Melanthusと共にAthensへ移住して、Alcmaeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Paeonの子供たちは、Melanthusと共にAthensへ移住して、Paeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Peisistratusは、Athensへ移住した。[Herod.5.65]
** BC6世紀のAthensの僭主Hippocratesの子Peisistratusは、Nestorの子孫であった。[Herod.5.65]
BC1110年、Aristomachusの子Temenusは、待ち受けていたTisamenusと会戦した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Tisamenusに味方したAegimiusの子PamphylusとDymasは、Temenusとの戦いで戦死した。[Apo.2.8.3]
** Pamphylusは、後に、Temenusの娘Hyrnethoの娘Orsobiaと結婚しているので、この戦いでは死んでいない。[Paus.2.28.6]
BC1110年、Tisamenusは、Argosに籠城した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Temenusは、Argosの南のTemeniumに砦を築いてTisamenusと戦った。[Paus.2.38.1]
** Heracleidaeは、艦隊でArgolis沿海地方を攻略したと思われる。Temeniumも海からの兵站に便利であったと思われる。[Polya.2.12]
BC1110年、Diomedesの子Amphinomusの子Erginusは、Argosの守護神Palladium像を盗み出して、Temenusに協力した。[August.City.3.7, Plut.GreekQuest.48]
** Diomedesの死後、息子Amphinomusは、ItalyからAetoliaへ移住、彼の息子Erginusは、Argosに住んでいたと思われる。[Antoninus.37]
** ErginusとTemenusは、CalydonのOeneusを共通の先祖とする親族であった。
BC1109年、Temenusの子Phalcesは、Sicyonに夜襲をかけるが、戦闘はせずLacestadesと共同で王権を握った。[Paus.2.6.7]
** Sicyonは、最初の王Aegialeus (即位BC2090)から981年続いた。[Suda.sigma,402]
** 実際は、Inachusの子Aegialeusを始祖とするSicyonの王統は、BC1750年から641年間続いた。
BC1109年、Heraclesの子Ctesippusの曾孫Agamedidasは、Cleonaeを奪取した。[Paus.3.16.6]
BC1107年、Temenusは、TisamenusにArgosの領有権を主張して獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.2.18.7, Paus.4.3.3, Polya.1.6]
** TroezenもArgosの支配下にあったため、Doriansを共住者として受け入れた。[Paus.2.30.10]
BC1107年、Tisamenusは、ArgosからSpartaへ移った。
BC1107年、Temenusは、Argosに入城した。
BC1106年、Temenusは、Sparta攻略のためにArgosを出発した。[Polya.1.10]
** Sparta攻略のとき、EurysthenesとProclesだけではなく、Temenusもいて、全軍であったと思われる。[Polya.1.10]
BC1106年、Temenusは、Spartaに籠城したTisamenusを攻囲した。
BC1106年、Oxylusは、案内役を終えて、Aetoliaへ向けて、Spartaを出発した。
** OxylusがTisamenusのSparta退去まで、Temenusのもとにいた場合は、Tisamenusの移住先は、Achaiaではなく、彼の先祖Pelopsが住んでいたPisaであったかもしれない。
BC1105年、Heracleidaeは、Perseusの末子Heliusが創建したLaconia湾岸のHelosを包囲して降伏させた。[Paus.3.20.6]
BC1105年、Oxylusは、Aetoliansを率いてElisに進軍した。[Paus.6.23.8, Strabo.8.3.33]
BC1105年、Oxylusは、ElisのDiusと戦って、Elisの王権を手に入れた。[Paus.5.4.2, Strabo.8.3.33]
** BC1320年にAetolusがSalmoneusに追われてから、215年後の帰還であった。
BC1104年、Philonomusは、Heracleidaeと裏取引して、TisamenusにAchaiaへ移住するように説得した。[Strabo.8.5.4-5]
** Philonomusは、Imbros島やLemnos島からSpartaに来た。[Photios.186.36]
** Philonomusは、BC1115年にPelasgiansに追われてLemnos島からLacedaemonへ移住したMinyansの一人であったと思われる。
** Lemnos島からLacedaemonへ移住した人々は、Helotsとの戦いで、戦功を認められて、重用された。[Plut.Mor.247]
BC1104年、Tisamenusは、SpartaからAchaiaへ移住した。[Paus.2.18.8, Strabo.8.7.1, 8.8.5]
BC1104年、EurysthenesとProclesの後見人Therasは、籤で領土を決めるように提案した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.4-5, Strabo.8.1.2, Strabo.8.5.6]
** Heracleidaeは、Peloponnesusを征服した後で、籤引きをした。[Apo.2.8.4]
BC1104年、Cresphontesは、Messeniaの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.5, Polya.1.6, Strabo.8.8.5]
** Heraclesの正妻Deianeiraの長男Hyllusの直系の男子、Temenus、Cresphontes、Aristodemusの遺児で分配した。[Diod.4.34.1, Strabo.9.4.10]
BC1104年、EurysthenesとProclesは、Lacedaemonの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Polya.1.6]
** Lacedaemonに居住したのは、Dorians 3部族のうち、Hyllusの部族であった。[FGrH.Nr70.F173]
BC1104年、Aristodemusの双子の息子EurysthenesとProclesは、Sparta王に即位した。
** Troy陥落から80年後であった。[Thucy.1.12]
BC1104年、Philonomusは、EurysthenesとProclesからAmyclaeを任せられた。[Photios.186.36, Strabo.8.5.4]
BC1104年、Tisamenusは、Achaiaに住んでいたIoniansに対して、共住を申し出るも拒否された。[Paus.7.1.8]
BC1103年、Tisamenusは、Ioniansとの戦いで戦死した。[Paus.7.1.8]
** Tisamenusが鳥の飛び方で伏兵を知った逸話は、この時の戦いと思われる。[Polya.2.37]
BC1103年、Ioniansは、神の庇護を求めてHeliceに集まり、Achaeansがこれを包囲した。[Herod.1.145, Paus.7.1.8]
BC1103年、Cresphontesは、Messeniaの王都をStenyclerusに定めた。[Paus.4.3.7, Strabo.8.4.7]
BC1102年、Ioniansは、Achaeansと休戦条約を結んでAthensへ移住した。[Paus.7.1.5, Strabo.8.7.1, Strabo.8.7.4]
BC1102年、Athens王Melanthusは、Achaiaから亡命してきたIoniansを共住させた。[Paus.7.1.9]
BC1102年、Antimachusの子Deiphontes(Temenusと同世代)は、Argivesを率いてEpidaurus王Pityreusから王位を譲渡させた。[Paus.2.26.1]
BC1102年、Deiphontesは、AtticaのTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusに定住させた。[Strabo.8.6.15]
BC1102年、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensへ移住した。[Paus.2.26.1]
BC1101年、Oxylusは、神託により、AchaiaのHeliceからOrestesの曾孫Agoriusを迎えてElisの共同統治者にした。[Paus.5.4.3]
** MesseniaとEleiaの勢力が逆転した。[Strabo.8.3.30]
BC1100年、TemenusはDeiphontesとHyrnethoを偏愛したので、息子たちに殺された。[Apo.2.8.5]
BC1100年、Temenusの息子たちと娘Hyrnethoの夫Deiphontesとの対立が生じた。[Paus.2.26.2]
BC1100年、Ceisusは、Argos王に即位した。[Paus.2.19.1]
BC1100年、Autesionの子Therasは、後見人の役目を終えた。[Herod.4.147]
BC1100年、Penthilusの子ArchelausはAeolis遠征隊を率いて、Dascylium一帯やCyziceneへ移住した。[Strabo.13.1.3]
Create:2023.10.31, Update:2025.11.3