音楽家のほたかさんと、2025年の8月15日を劇にするに向けて往復メールを行います。
8月15日を劇にするのことや、創作のこと、最近のことなどを話していきます。
月一更新。
1通目
五味伸之 から ほたか へ
ほたかくんへ
こんにちは。
桜の花が散り始めて、緑の葉っぱが出てきました。僕はこの季節が好きです。これから少ししてもっと緑が鮮やかになっていく時期が大好きです。
今年も8月15日を劇にするがはじまるんだなと思いつつメールを書いています。
少し新鮮な気配が不思議な感じです。
2015年に開始して、今年で10年目。
今年は「音楽」に注目したいと思い、ほたかくんに連絡しました。
そして、当日をむかえるまでの間、月に一度メールのやり取りをしてそれを少しずつ公開していきたいと思っています。
少し昔のことを振り返ってみます。
近いところだと、漫画の朗読劇に出演してもらいました。素晴らしい集中力で漫画内のイメージを声や音に変換して表現してもらえました。ありがとうございます。
最初に出会ったのは、8月15日を劇にするの企画でしたね。
参加募集を見て声をかけてくれました。語り合うことに関心がある。と、あの時話をしたと覚えているんだけど、どうだったかな。
翌年の長崎では会場の防空壕をイメージした音楽をつくってもらいました。合わせて、当日の参加者の音声を録音・編集したものを作ってくれました。 これらの音楽作りの様子を見て、ほたかくんの感性の繊細さと強さを感じました。
その後、基本的に毎年関わってくれてましたね。本当にありがとう。
今年に向けて話をした時に「発表することよりも、イメージを耕すことに目を向けるってことだよね?」とほたかくんは話しましたね。
この「イメージを耕す」という言葉がいいですね。
これまでいくつかの劇企画で、ほたかくんに音楽を作ってもらってきました。
8月15日を劇にするのに適した全体の音楽テーマなんかが今年見つかってくるといいなと思っています。
前に青い馬での朗読劇をした時は、劇全体に「恥知らず」「誉れ」が入っていたから拍手の音を入れたりしましたね。8月15日を劇にするでは、どんな音が良いか、今の時点で何かイメージはありますか?
個人的には、一番最初に行った2015年の景色をよく覚えています。
あの日、会場の空調が壊れて急遽大きな氷を用意しました。それと扇風機を複数台使って、なんとか涼をとりながら実施していました。畳を敷いて、架空の茶の間を用意して、一人一人が新聞をめくる音、それと扇風機の音。耳をすませば氷が溶けていく音も聞こえたかもしれない。
現在から、時間の離れた場所へ、意識を向けて下降していく。そういう場面や音は必要になってきそうな感じです。
そうそう、少し話外れますが、最近、劇の効果の再現性・再現率を高めるために劇の技術や技法を言葉にし直しています。その中で、イメージからイメージを移動するその間には儀式を必要としている。ということを考えています。例えば、落語での冒頭からネタに入っていく時に羽織を脱いだり、能の序の舞だったりです。イメージを跳躍させるために、自分と相手と空間全体での約束を行うこと、劇場全体で劇を立ち上げていくための約束事と瞬間への跳躍準備をどう設計するか考えることって重要だなって感じました。 個の振る舞いで全体を設えて、次へ跳躍する。こういうイメージの跳躍は音楽的な感性が適しているのでは?なんて思っています。
色々と書いたので、自分でまとめてみると。
・8月15日を劇にするに参加してくれてありがとう。「語り合うこと」に興味を持っていたと思うけど、これまで参加してくれていてこのことについて思うことありますか?
・8月15日を劇にするのに適している音・音楽テーマへのイメージありますか?
・個人的にはイメージの跳躍・下降に音楽が必要と思っていますが、どうです?
とかでしょうか。
なんて、まとめが入るとちょっと形式張った感じになっちゃうかもだけど、
気軽に返してもらえたら嬉しいです。
音のことでも、最近考えていることでも、春のことです。
では、また。
5月は緑あふれてキラキラしてるでしょうね。
五味伸之
2通目
ほたか から 五味伸之 へ
五味伸之 殿
いかがお過ごしでしょうか。
日差しが暖かくなりましたね。
しばらく過ごしやすい気候が続きそうです。
というあいさつ文を寒い真夜中にしたためているとなんとも不思議な気持ちになってくるものです。
いやはや、人格が分裂しているといいますか....
冗談はこのくらいにしておいて、まずは、815の話から始めようと思います。
長崎では、当日の会場の録音を編集して音楽を作りましたね。
その録音は、空調や扇風機などのノイズが激しい中にも関わらず、参加者の方がまじめに話し合い、作品を作りあう、そのような様子をとらえていたように思います。
相手の言葉に耳を傾ける、それはまさに音楽じゃないだろうか、ということを皆さんの前で話したのではなかったかなと記憶しています。
単に話をするというよりも、お互いに耳を傾ける。
さらには、遠い昔の音や、そこにはいない人の声に耳を傾ける。
これが、私が815に感じている魅力だと思います。
長崎の時は、本物の防空壕の中に入ったので、見えてないものを見る感覚が刺激されやすかった、ということもあるかもしれませんね。
以前、イメージを耕すという言葉を使いましたが、
新聞内の社会での出来事やお互いの言葉に耳を傾けた後、会場に実際にあるわけではない事柄や事象、人物に思いをはせる時間が、イメージを耕すことなのだと思います。
そして、そのイメージを分かち合う時間が各班での発表なのかなと思います。
なので、815は畑にたとえることができるかもしれません。
815という畑を、新聞や同じ班の人に耳を傾けることで耕していくと、イメージの木が育って、作品の実がなる。
収穫すると、遠くに種を運ぶこともできるのかもしれませんね。
ルターの言葉に、「明日世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植え続けるだろう」という言葉がありますが、今後も続いていく815にはそういうイメージも重なるところがあるように思います。
話は変わって、815に適した音・音楽の話です。
・耳を傾けることに焦点をあてて
耳を傾けないと聞こえないくらい小さい音楽・演奏(打楽器やカリンバのような短い音ではなく、オーシャンドラムや鍵盤ハーモニカなどの持続音)
・ノイズに埋もれた詩の朗読
・実際にはないものを想像することに焦点をあてて
海の音、雑踏の音、風の音などをいくつかつなげる(情景などを想像)
音楽に限らないなら、会話をするパントマイムや絵や文章を書いているパントマイムのイメージもあります。
音単体なら、耕す音もいいかなと思います。
ただ、カチッとしたところまでイメージができているわけではありません。あくまで、上に書いたイメージをもとに今思いついたものがこのくらい、という感じです。
あと、イメージの跳躍について書いておこうと思います。
お客さんが、パフォーマンスを見て何かを想像するというイメージであれば、そのイメージを一変させるような出来事を起こす方法は、音楽に限ったことではないように思います。
例えばコラージュは、あるものを全く別の文脈に置くことで、別のニュアンスを感じさせる技法になりえます。
野菜が人の顔になるとか、紙が人形として立ち上がってくるとかも、似ているかもしれませんね。
個人的には、音楽を聞いて何かをイメージしたり、景色が思い浮んだり、音楽と音楽ではないもの同士を結びつけてこういう意味があるんじゃないだろうかと考えるようなことはまったくないので、音楽があることで何かをイメージすることが直接促進されるとは考えていません。
ただ、興奮作用や反対に鎮静作用があったりするので、通常の精神状態よりも、非日常的な想像がしやすい状態になることは確かだと思います。
なので、直接のイメージの転換や特定のイメージの喚起の前段階として音楽を用いることは効果があると思います。
催眠術をする方の中にも、音楽的なアプローチを用いることで、非日常的な想像力の臨場感を高め、過去の自分と本当に対話しているかのような体験を促す方もいらっしゃるようです。
パフォーマー側がパフォーマンス上の効果を狙って想像をするというイメージであれば、どちらかというとダンスのほうが近いのかなと思います。
演奏を行う時には、音そのもののイメージはしますが、音以外の具体的なイメージを持つことで何か効果があるとは考えにくいです。
身体表現では、そのあたりの機微を活用できると思いますが、音楽がある状態で身体を使う時のイメージということであれば、ダンスの領域になるのかなと思います。
今は、身体の動きを頭の中でイメージすることが難しいので、ある体の動きや身体感覚を前提として作曲するのは難しいかもしれません。
体が不用意に動かないように、身体的な動きをイメージしないように脳にロックがかかっている、そんな感じです。
できないことを想像するのは、これほど難しいのかと、思いますね。
ここらへんで筆を収めておこうと思います。
あまりまとまりがよくなかったですが、ざっくばらんに書いてみたつもりです。
また、お話ししましょう。
HOTAKA Tanigawa
3通目
五味伸之 から ほたか へ
ほたかくん
5月は僕の好きな季節です。
緑の色が鮮やかになって、匂いは強く、生命力溢れる雰囲気が大好きです。自分の花粉症が落ち着いてくる時期でもあるから、それも影響しているのかもしれません。
8月15日を劇にするに対して感じている魅力を教えてくれてありがとう。長崎の時は、まさにそんな感じでしたね。耳を澄ましてここにいない人の声を聞く。会場の無窮洞も自分たちを刺激してくれましたよね。
こういったことが、8月15日を劇にするの舞台でも行われるといいですね。
イメージを耕すことや想像を広げることが、
新聞を読んでいる時から周りの人と話をする時や、話をしている時からふっと思いをはせる時にあるのかもしれませんね。
そうだとしたら、時と時/何かと何かを移動するスキマにイメージが耕される瞬間だと思うけど、どうだろう。
直感はほんとに短い時間に訪れてくるっていうから、そのスキマが生じて次の瞬間にはもう何かの直感が働いて自分の経験や知識から気になっていく方向へ進んでいくことができるといいですね。直感のままに進んでいくために「こっちだよ〜」って案内していくには先行する人が必要かな。海の中のダイバーや、山の中のシェルパや、集団の中のグルや、学校の中の教師なんかみたいに。音楽において、そういう案内人・先行人ってどういうものなんだろう。
以前、歌は「繰り返しと引き伸ばし(ゆっくりする)」がある。って話しましたね。思いをはせる時間やイメージを耕す時間をゆっくりたっぷりと味わったり、繰り返したいですね。
劇音楽の役割でいうと、鑑賞者自身が歌を歌っているような感覚を持てるといいのかな。
少しズレるけど、漫才とか語り物のパフォーマンスなんかで、お客さんは舞台の上で行われていることを見ているだけで実際には声をだしていないんだけど、お客さんと一緒に作ってるって感じさせる力ってすごいよね。一緒に笑ったり、ハラハラしたり、涙したり。そういったことが起こってしまう。空間を掌握する力というか。相手と共に瞬間を作っていく。その間合いの取り方が、台本(型)があっても技術や人間力なんかで作られていくのかな。素敵な舞台の時間にはそういったある種の安心感があるのかな。以前、テント芝居を観に行った時に舞台上で行われていることは砂埃が激しく舞い踊ったり、唾がビシャーって飛び散ったりしていたんだけど、不思議な安心感があったなぁ。そういう汚れや生々しさを自分が求めていたってのもあるかもしれないけど。何かを求めている機会は大事ですよね。8月15日という日には、それぞれに何か思い考えることを求めていますね。
提案してくれた、小さい音楽・演奏/ノイズ+朗読/海・雑踏・風の音をつなげる(コラージュ)はどれも魅力的ですね。個人的には音を繋げることに関心があります。時と時のスキマ、何かと何かのスキマを生み出すアプローチになりそう。コラージュ自体が新聞を切りはりする行為と重なりますしね。
時と時、何かと何かへの移動・スキマを生じさせて直感で捉えたことからイメージを耕していけるような時間の使い方ができるのはいいですね。
話をしている役割から聞く役割に変わって、話していた内容と聞いてる内容の違いをきっかけに自分の考えや想像が広がっていくことがありますよね。こういうことも出来るといいですね。話し合っている時にも自分の中のイメージが話題と併走するように進んでいて、途中全然違うところに行ってまた戻ってきて、結局関係ないかなって思っていたことが、遠回りして結びつくなんてあるあるだと思うけど、ああいうの、楽しいなって思います。
メールもらって驚いたことがあって、
それが、《演奏を行う時に音そのもののイメージはするけど、音以外の具体的なイメージを持つことで効果があるとは考えにくい。ってところ。そして、ダンスとか身体表現ではその機微を活用できると思う。》というところ。
これってどういうことなんだろう?演奏と身体表現での違い、とか、《音そのものをイメージする》っていうのがどういう感じかなーって、気になっています。それって例えば、身体表現(仮に演技)するときで手のひらをゆっくり開くっていうのがある時、その手のひらが開かれる指の輪郭や指や手が触れている空間その部分へのニュアンスを繊細にアプローチするっていうこと、かな。また、どういう演奏・演技をするという計画においてはイメージすることはするけど、それ自体(演奏・演技)をする時にはその計画とは別のことを重視して行うってこと?ううん、気になる。そして、日野日出志漫画朗読劇で出演してくれて読んでもらった時や、影絵劇の稽古の時に情景を実況中継しながら語るなんてしていた時にはまさしく何かをイメージしているんじゃないかなぁ。って思っていたんだけど。
8月15日を劇にするでは、その日が来ることを知って、その日になって、場所を移動して、場所について、話を聞いて、新聞を広げて、新聞を読んで、気になるところをもっと読んで、たくさんの中から選んで、選んだものをほかと区別して、人に選んだことを伝えて、伝えたことの反応を受けて、相手の話を聞いて、また別の相手の話も聞いて、自分が感じたことを伝え返して、また自分の話をして、人と重なっているところや違うところを考えて、まとめたりわけたりして、できあがったことに名前をつけて、名前がついたものを紹介して、っていう一連の流れがあるよね。
この一連の流れ、その流れ自体が劇体験として、音楽体験として全体を司るようなものがいいのかなって思っています。
うん、やっぱり提案してくれてるコラージュとノイズと持続音がぴったりいい感じだね。ぜひ今度これらを聞きたい。コラージュ、とかの場合は、そんなにいろいろな音がする場所ってどこだろう。
前に、海の底の種のキーワードが出てたことや、骨のないタコなんか出ていたから、「海」ってのは潜って潜っていって深海の気圧が変わってくると、音なんかも聞こえ方が変わるもんなんだろうか。耳とかはその場所では守られているんだろうけど、気圧によって音の感じ方は変わるのかな。
なんか、結構質問を書いてしまったなぁ。
ちょっと文章を戻って質問を拾い集めてきます。
・時と時/何かと何かを移動するスキマにイメージが耕される瞬間だと思いますか?
・音楽における案内人・先行人ってどういうもの?
・演奏での音そのものをイメージするって何?身体表現との違いって何?
・気圧で音の感じ方って変わる?
・いろいろな音がする場所ってどこ?
こんなところかな。で、「気圧で音の感じ方って変わる?」のところは、自分でも調べてみよーって調べたら、水の中って音が速く伝わるんだね。そっか、空気よりも振動が早く伝わるんだね。あと、個人的には雨の日とか曇りの日の気圧変化で小さな目眩とか頭痛がしてて、それも内耳の気圧センサーの関係みたいだね。耳と気圧って関係が深いんだね。
では、また。
5月から6月は雨が少し降り始めるでしょうか。
五味
4通目
ほたか から 五味伸之 へ
五味伸之 様
5月も終わり梅雨に差し掛かっていますが、まだ雨はそこまで降っていませんね。
さっそくですがお返事、書いていこうと思います。
まず、「時と時/何かと何かを移動するスキマはイメージが耕される瞬間か」について。
私もそうだと思いますが、直感が働く瞬間だけでなく、あるイメージを深堀するということも含まれていると考えています。
直感やひらめきで今まで思われていなかったイメージが立ち上がってくることと、あるイメージのディティールを明確にしていく作業は、もちろん明確な区別ができるかという問題はありますが、私は異なるものだととらえます。
前者は、意識的に行うというよりも、気が付いたらそうなっていたというような創発的なもので、後者は意識的に行うことができます。
どちらも、人間がイメージをするということに属していますが、それぞれに対しては異なるアプローチを取ったほうが良いと思うので、区別している感じですね。
私は、イメージを耕すという言葉には、この両方の側面が含まれていると考えています。
次は「直感の案内人」の話をします。
音楽においては、「直感の案内人」は、いくつか考えることができます。
わかりやすいところでは、指揮者ですが、聴衆、一緒に演奏する奏者、楽譜、自分の音、会場の響き方も「直感の案内人」です。
どれも、音の直観に働きかけて演奏に影響を与えるものですが、案内する・されるの関係は一定ではないところが特徴でしょうか。
あらかじめ準備されたことをするだけなら、あまり音楽自体が生きてきません。
生きた音楽にするには、次の瞬間に出る音を彼らとの関係性の中で決めていく必要があると思っています。
815では、話を聞くこともですが、「会話すること」も案内してくれるように思います。
会話が弾むと、勢いがついて思ってもいなかったことをしゃべってしまうことがあります。
しゃべりたいという身体的な構えが、即興的な直感につながる一つの例だと思います。
それだけ盛り上がる話ができると、いいかもしれませんね。
演奏するときに音そのものをイメージするというのは、外から見るとわかりにくいですが、頭の中で歌を歌っているというのが近いかなと思います。
Glenn Gouldというピアニストは、ピアノを弾きながらよく口ずさんでいるので、それを見てもらえるとわかりやすいかもしれません。
Glenn Gould - Bach, Partita No. 2 in C-minor BWV 826 - rehearsal (OFFICIAL)
これと同じことを、口から声には出さずにやっている感じです。
音楽の種類にもよるかもしれませんが、西洋音楽では頭の中で歌いながら演奏するのはよくある方法です。
もちろん体の感覚に意識を向けることがないわけではありませんが、体の一部分に意識を向けすぎるとあまり結果は、よくないように思います。
フルートを演奏する場合は、唇、顎、舌、喉の筋肉、指、肩、肋間筋・横隔膜・腹直筋などが代表的ですが、様々な部分が関係しあって初めて一つの音を出しています。
使う場所が多いので、それぞれの箇所に意識を向けてから音を出す、というアプローチだと時間がかかりすぎます。
反対に体の一部分だけに意識を向けると、他が過剰に緊張して、バランスを崩す危険が増えます。
なので、頭の中で音のイメージをすれば、条件反射的に体の各部位がその音を出すことができる状態になるようにします。
例えばですが、仕事でよくタイピングをする人が、休日も頭の中で日本語をイメージすると、キーボードの上を動く指の動きも一緒にイメージしてしまう、というのに近いでしょうか。
こういう音なら、体はこう動く、という組み合わせの辞書が体の中にあって、瞬時に翻訳してくれるという感じです。もし存在しないパターンがあったら、辞書に追加が必要ですね。
日野日出志の漫画朗読劇では、目の前の情景を想像していました。繊細なシーンは特にそうでしたね。
実際には大半のセリフは音で覚えていたのですが、お姉ちゃんの部屋を見渡しながら描写したり、漫画の中の世界に入り込むシーンなど、情景の想像をしないと出したい音にならない場面も多かったです。
言語は、誰に向けてしゃべっているのか、何かを見て口から言葉が出てしまったなど、しゃべっている人と周囲の状況との関係が音にも表れるので、何かをイメージしてから語るというアプローチのが自然なのかもしれません。
気圧で音の聞こえ方は変わるのか?についてです。
変わりますが、元に戻すことができます。
耳の奥には鼓膜という薄い膜があり、それに棒(耳小骨)がくっついていて、その棒が奥にある液体の詰まった袋(内耳)に振動を伝えます。鼓膜と液体の詰まった袋の間は空間(中耳または鼓室)になっていて空気があります。
この間の空間は普段は密閉されているので、外の気圧が下がると中の空気が膨張します。
すると鼓膜が膨張した空気に押されて、パツパツになります。
パツパツになった鼓膜は空気の振動をうまくキャッチできなくなります。
鼓膜をねにょろしている人にたとえると、パツパツになった鼓膜は力んでいる人と同じで、グニャグニャと動きにくいので、振動が伝わりにくいわけです。
つまり聞こえる音が小さくなり、特に高い音が伝わりにくいので、ぼわんとした音になります。
頭や耳の奥に違和感も感じるかもしれません。
山登りや高層ビルのエレベーターなど、急激に高いところに移動する時に起こりやすいです。
経験されたこともあるかもしれませんが、こういう時はつばを飲み込むなど、嚥下動作をすると治ります。
これは、鼓膜と内耳の間の空間(中耳)には、耳管という通り道が付いていて、普段は閉じているんですが、嚥下動作をすると開きます。
耳管は鼻の奥につながっているので、開くと中耳の気圧が外の気圧と一緒になります。
なので、気圧が高いところにいっても低いところに行っても、ごっくんすれば治ります。
ただ頭痛は治らないので、気分的に違う音に聞こえるという可能性はありますね。
いろいろな音がするところはどこか。
言葉にするなら、頭の中かもしれません。
いろいろなイメージが飛び交っています。
あとは五味さんが手紙の中に書いてくれている通りだと、私は思います。
いったんここら辺にしておきますね。
コラージュは、イメージがついてきているので、少しづつ作ってみようと思っています。
雨に備えましょう。
谷川ほたか
5通目
五味伸之 から ほたか へ
ほたかくん
6月になり、梅雨が入ったかと思うと、一気に暑くなってきました。今年の梅雨は少し短くなっているみたいですね。
雨に備えましょう。と書かれていたのもあり、だいたい折りたたみ傘を持って過ごしてましたが、強い雨で折り畳み傘では耐えられず、先日ずぶ濡れになって久しぶりに風邪をひきました。数日寝込みましたが、最近復帰しています。
教えてもらった動画見ました。ピアノ弾きながら歌ってましたね!ピアノの音よりも強かったり飛んでいたり、演奏者のイメージしてるものが伝わって面白かったです。歌いながら演奏することはよくある方法なんですね。演奏で使われる方法はほとんど知らないから、色々と知れるのは嬉しいです。何か今気になっている方法とかあれば教えてください。
またまたスキマの話をしたいと思います。
8月15日を劇にする、新聞作りでは、一人ずつが記事を切り抜いて、大きな模造紙に貼っていくことで記事と記事のスキマを作っていきますよね。
音楽では、そういったスキマをどうやって作っていきますか?
以前、劇の効果を高めるための技法の話で、イメージからイメージへの跳躍に儀式を必要としている。と書きました。落語で羽織を脱ぐといったような、演者と観客側との約束ごとのようなものもありますよね。サウンドコラージュみたいに、全く別の音素材が突然入ってくることで、意識のスキマを作ることもあると思います。
先に送ってもらった動画のように、頭の中で歌いながら演奏するといったような、、どういった方法でスキマを作り出して、イメージの跳躍を可能にすることについて、知っていること、自分が取り組んでいることなどお聞きできますか?
少し話は変わって、
先日アニメ監督のドキュメンタリーを見ました。その中で、方法によって中身が出てくる。と言われてました。8月15日を劇にするでは、いろいろな人たちの工夫によってその場で劇を作っていく方法が集まりましたね。それぞれにそれぞれの方法だから引き出される考えや発見がありましたね。
今度は長期的に集めたもので劇を作っていく方法が必要になってきますね。
同じ日の新聞を集めた横軸と、同じ8月15日を重ねていく縦軸に繋いでいくといったところでしょうか。
先日、ジャズが主題の漫画を読みました。トリオやカルテットでの演奏をしていて、その中で音がつながっている、音がつながっていない、という話をしていました。これってどういうことなんだ?と気になりました。演劇とかだと、俳優の演技が受け渡しされていない、みたいなことなのかなぁ。って思ってます。ほたかくんは、音がつながる、つながってないという言葉は使っていますか?
今月は少し短いですが、こんなところでメールをお送りします。
いつも僕から質問たくさん入れちゃってるので、多くなりすぎないように。。
これから暑くなってきますね。熱中症には気をつけて過ごしましょう。
五味
6通目
ほたか から 五味伸之 へ
五味伸之様
6月は、天気が悪かったり、ムシムシしていたので、最低限のことしかできなかったなという印象です。
この前、WSの帰りの五味さんもすごく疲れた顔をされていたので、大変だったのではないかなと思います。
お体大事にされてくださいね。
・音楽演奏者の表現手法について
実はここら辺は、あまり開拓されていない分野じゃないかなと思います。
前に、交響詩のような情景や風景、物語や伝説などを表現した音楽ジャンルがあるなら、それを表現する演奏方法があるんじゃないか、という話がでたと思いますが、意外とそういうわけでもありません。
20世紀を代表する作曲家の一人にストラヴィンスキーという作曲家がいます。
彼がバレエのために書いた「春の祭典」という曲は、「長老の行進」や「いけにえの踊り」など具体的なタイトルの楽曲で構成されており、全体としては物語的な様相を呈しています。
一方で、彼は演奏面に関しては、演奏者は楽譜に書かれたとおりに演奏しさえすればよく、書かれていない余計なことをする必要はないと考えていました。
歴史的には、楽譜通りに演奏するべきと考える新古典派的な考えと、反対に演奏者の個性が発揮されるのが生き生きとした芸術のあるべき姿だと考えるロマン主義や表現主義の考えがせめぎあっている感じです。
現代音楽では、新古典派的な考え方が根強く、余計なことをしないのがよい、という引き算的な考えから演奏者はクリエイティブにいろいろやろうという発想が弱められているところがあるように思います。
・重心を動かさない演奏法
具体的な話をしようと思います。
クラシックでは最近のトレンドではなくなってきていますが、演奏する際に重心を動かさないようにするという方法があります。
ヴァイオリニストのハイフェッツや、ピアニストのワイセンベルクは、演奏するときに体の軸がぶれない演奏家です。
そうするとどうなるのか、あくまで一面だとは思いますが、心地よいテンポ感やグルーブ感を維持するのに効果的だと思います。
音がつながっている、という言葉には、こういった側面も含まれるかなとは思います。
昔のジャズピアニストも体幹がぶれない人が多かったように思います。
ただ最近は、頻繁に重心が動いている演奏者がほとんどなので、古臭い方法なのかもしれません。
私は、重要な技法だとは思っているんですけどねー。
・音楽でのイメージの跳躍
音楽は、ある程度同じようなものを持続させようとする傾向があるので、途中で何かが急に変わるということはどちらかといえば少ないです。
即興音楽では、いきなり大きな音を出したり、反対に小さくなったり、リズム感がないと思ったら急にリズミカルになったり、反対に急にリズムが止まったりすることがあります。
私は好きですが、こうした要素はどちらかというと聞いている人にイメージを持ちづらくさせる要素ではあると思います。
イメージをするには、ある程度の時間がかかると思うので、それが作られる前にどんどん変わっていってしまうと、ついていけないと感じさせてしまうこともあると思います。
私が音楽を作るときには、ベースとなるようなある程度持続する部分は作ることが多いです。
そのベースとの共通点を残しつつ、発展させたり、盛り上げたり、反対に対比となる箇所を作ることで、聞く人が安心して音楽を聞きつつ、音楽的高揚感もあるという状態に持っていきやすいかなと思います。
リラックスして聞きつつ、なおかつ音楽の変化に思いを巡らせることができるような間が、大事なのかもしれません。
音楽は、コード進行をはじめとして、Aメロやサビなどのお約束が多い、というよりはお約束が音楽そのものという面があります。
ある程度先がわかるから、一緒に楽しむことができるわけです。
悲しいシーンで、悲しい音楽が流れるのもある意味お約束ですが、悲しいシーンでめっちゃウキウキな音楽が流れていたらちょっと意味深かなと思います。
お約束ばかりでもなく、外れることばかりでもなく、それらのバランスと配置が大切なのかもしれませんね。
全部は書ききれませんでしたが、近況はお話しすることもできたので、ここら辺にしておこうと思います。
あまり推敲できてないので、何を言っているかわからないところがあったら教えてください。
これから暑くなっていきますね。
私は夏と冬が好きな季節ですが、体調には気を付けていきましょうね。
谷川 ほたか
7通目
五味伸之 から ほたか へ
ほたかくん
7月。
蝉の鳴き声が聞こえて、空の青色も強くなって、いよいよ夏が近づいてきた。という感じですね。
先日本屋に行くと、絵本のコーナーに「平和」「戦争」についての絵本がたくさん置かれていました。絵柄もポップなものからドッシリと重厚感を感じさせるもの。様々ありました。夏になると、毎年こういうコーナーが色々な場所で展開されますね。
8月15日を劇にするをはじめたのは、2015年。今からちょうど10年前の戦後70年の年でした。暑い部屋の中で空調が壊れたので扇風機と氷を使って静かに新聞に向かい合ったのを覚えています。
あれから10年。今年の戦後80年の年は、あの時よりも少し静かになっているかな。という印象です。印象だけかな。
毎年8月15日に新聞をいつもよりちょっと注意深く読む時間を作っていて印象的だったのは、国民的アイドルの解散報告。目線が終戦からズラされていくようなものも感じました。
終戦から80年が経ち、いよいよ本当にあの戦争の体験者がこの世からいなくなってきた時に、段々と忘れていってしまうでしょうか。
以前、昔の人は何かを覚えるために歌を利用したという話をしましたよね。
8月15日、この日を覚える歌。というものも作れるでしょうか。
これまで話してきた音楽に関する方法やアイデアは、音楽のコラージュ、ノイズの中での詩の朗読、引き伸ばされた音、持続音、イメージが跳躍するスキマ、物語的音楽、海の中に潜っていく音、イメージするために必要な時間、口づさみながら演奏・パフォーマンスなどなどでしたね。
イメージを耕す、表現での語り合いに、こういったことを使って、実施したいですね。
数年前から上演に向けてのいくつかのアイデアを集めてきました。
演出の方向=当事者不在の抜け道
問題の中心人物である当事者がこの場にいない間にルールを作り変えたり、新しいルールを作ったりするようなこと。をその当時話していました。今これを書きながら思い出したのはオープンダイアローグでした。「オープンダイアローグとは何か/斎藤環 著+訳」という本を発売当時に購入しました。プレイバックシアターや記憶との関わり方を扱う演劇をしているので、オープンダイアローグでの対話を通してある捉われが変化・受容していくことに関心を持っていました。今見るとこの本もちょうど10年前の2015年に発売されていたようです。治療者によるモノローグよりも、対話を重視し自分の物語を自分自身で語り直し、多声性・ポリフォニーのある場を作っていくことのようです。技法や治療プログラムというよりも、哲学や考え方であるようです。多声性・ポリフォニーなんかは、まさしく音楽でも扱われることだと思うので、こういったことはほたかくんは丁寧に考えているんじゃないかな。なんて思っていたりします。
体のドラマ=海の中に置き去りにされた種
前の当事者不在の抜け道というのも、体に起き上がってくるドラマとして効果的な考えであり取り組みだと思いますが、この海の中に置き去りにされた種というのも、体に起こしていくドラマとして魅力的に響いています。外形的に表すものとしてもいいと思いますし、場面・状況として具体的に示されることもいいと思いますし、自身の身体を海として捉え直し体のどこかに種があり、その種が芽を出し根を張り身体(海)全体に張り巡らされていくことも、身体操作としていいのかな。演者の基本的な身体性として共有できそうです。重心を動かさない演奏法の、重心を動かさないことにもつながっていきそうです。
こうやって、語り合いの中から浮かび上がってきた考えやアイデアを見つけていきたいです。今回は特に音楽にまつわることと出会えたらと思っています。
今年も、どうぞよろしくお願いします。
8通目
ほたか から 五味伸之 へ
五味伸之さま
最後のお返事になります。
最初に話した音楽も作ったので一緒に送りますね。
報道機関が歴史を語り継ぐ役割を果たすことができないのは、SNSの台頭でそれだけの余力がなくなってきているからかもしれません。
ですが、歴史を学んだり、それを自分の言葉で語ることは、メディアではなくてもできることです。
815にはそういう側面もあると思います。
815で歌を作るのは面白そうです。
歌詞を参加者で作って、私が歌をつける、という流れもできると思います。
ポリフォニーについて。
ポリフォニーには大きく分けて二種類あります。
一つが、体系化された技法としてのポリフォニー(対位法)。
もう一つが、身体に根差したポリフォニーです。
技法としてのポリフォニーは、複数のメロディを同時に歌って問題が起こらないようにするための秩序で、身体に根差したポリフォニーはある歌を歌っている人に対して即興で別のメロディを歌うことです。
ただ明確に区別ができるわけではなく、技法を用いつつも、その場その場で許容されることを柔軟に変えつつ、ともに音楽(場)に参加しつつより良くしようとする。
オープンダイアローグの方は、こんな意味で使っていらっしゃるんじゃないでしょうか。
海の中に置き去りにされた種
今回送った音楽は、以前話した「青い海の底、置き去り」をテーマに作ってみました。
コラージュになっているので、身体操作のイメージと合うかはわかりませんが、聞いてみてください。
また細かくはまた別の機会にお話しできるとよいかなと思います。
今年はどんな言葉に出会えるんでしょうね。
谷川 穂高
9通目
五味伸之 から ほたか へ
ほたかくん
先月の「8月15日を劇にする」、お疲れさまでした。
あれから大体1か月が経ちましたが、まだまだ暑いですね。ニュースでは10月まで暑さが続くそうです。
今年の8月15日を劇にするでは「透明な沼」という言葉が生まれました。この透明な沼を起点にした音楽はどんなものだろう、と、これから1年間じっくり考えていくことになるのだと思います。
先日ある戯曲を読んでいたら、「ここは沼」というセリフが出てきました。「沼」という言葉が、以前よりも味わい深く感じられました。その戯曲の中では、繰り返される場面を表す言葉として使われていました。「沼」という言葉は、なかなか抜け出せない状況を表す「沼る」という言い方もありますね。
音楽的に「沼」を生み出すものは、いったい何だろう、と想像しています。
8月15日を劇にするの発表の中で、海の底のドロップ缶から溢れ出た場面や音が海面に浮かぶ、というイメージがありました。これは昨年2024年の「海の底の種」「置き去り」から出てきたものでしたね。ですので、きっと来年2026年には「透明な沼」が表すことができるものが生まれるのだと思っています。
沼は海よりもドロっとネバっとした印象ですね。
ミニマル音楽についても以前話しましたね。
小さなフレーズの繰り返しや逸脱と収束が繰り返され、肉体的にトリップしていく様子は、沼っぽさとも言えるかもしれません。
ちょっと調べてみると、沼とは、浅い水域(5m以内)で底まで沈水植物が繁茂し、多様な生物が生息する場所。自然発生的に形成され、川の氾濫の後にできることが多いそうです。西日本には少なく、東日本に多く見られるそうです。
そして、それが《透明》である。
透明の性質は「光を通す」「濁りがない」「反射しない」などがあります。
舞台での透明は、パントマイムのように目に見えないものがありますね。以前、実験演劇の紹介を受けたもののひとつに、離れ離れになっている2人が舞台上ではすぐ横にいるのだけど、物語上は遠く離れている。相手を求めて動くのだけど、相手が見えないままに手を伸ばす。というものもありました。情景をイメージさせる朗読劇などにも当てはまるかもしれません。音そのものも目に見えないので、広い意味で透明と言えるのかもしれません。
透明な沼は、「自然発生的な多様性を持ち、光を反射せず、向こう側を感じられる場所や現象」と言えるでしょうか。
このイメージをもとに、どんな音楽を目指すか、何を露わにできるかを考えていける貴重なアンテナを、自分の中に持つことができました。
あらためて、今回の往復メールのやり取りと企画への参加、本当にありがとうございました。
ほたかくんと丁寧に言葉を交わせた時間は、自分にとってとても貴重で、音楽や舞台の新しい視点を考える時間になりました。
「透明な沼」というイメージを一緒に探求できたこと、考えを共有できたことは、自分の創作にとって大切な財産です。
これからも少しずつ、この体験を形にしていきたいと思いますし、次の季節やプロジェクトでもまた一緒に何かを見つけられることを楽しみにしています。
本当にありがとうございました。