「絶対城の建築学的特徴から見える
井上円了の思想」に触れて
井上円了の思想」に触れて
小川詩織 さん
理工学部建築学科 4年生
北田建二さん
井上円了記念博物館 学芸員
こんにちは!今日は建築学科の小川詩織さんに、インタビューしてみようと思います!
小川さんは卒業研究で井上円了と建築について取り上げていると伺っています。
正直、建築と井上円了、一見すると無関係に見えるのですが、卒業研究はどのような内容なのでしょうか?
私は哲学堂公園の古建築、その中でもメインテーマを絶対城として、卒業研究をしました。
哲学堂公園は、絶対城をはじめ、ユニークな古建築が多いことで有名ですね!
そもそも、卒業研究で哲学堂公園の古建築を扱ったのはなぜですか?
私は、建築学科・高岩裕也先生の研究室に所属しており、先生の「木造建築設計演習」という授業を受講していました。
この授業では、絶対城の現地調査から始まり、図面の作成、そしてその歴史的価値を保持するための耐震補強案の策定までを行います。
ここで、建物の価値を多角的に考察する過程で、円了先生の思想に深い興味を抱くようになりました。
実は、4月まで私の卒業論文のテーマは定まっておらず、方向性に悩んでいました。
しかし、この授業を受けていたことがきっかけで、高岩先生から「卒業論文で絶対城に焦点を当ててみてはどうか」という助言を受けました。このアドバイスを受け、哲学堂公園の建築物を研究テーマとして選ぶことにしました。
なるほど。高岩先生からのアドバイスがキッカケだったのですね。
そうです。高岩先生の研究室は構造を専門にしています。ですから、最初は構造面から哲学堂公園の建造物を調べようと考えていました。
ただ調べていくうちに、授業でも感じた、円了先生の思想の面白さ・奥深さにどんどん惹き込まれていったんですね!
私は、哲学堂公園は円了先生にとって「新しいチャレンジの場」だと思っていて。
その「新しいチャレンジ」に向けて、溢れんばかりのアイディアが込められているのが、哲学堂公園の古建築なんですよ!!
私のこの関心の変化を見た高岩先生が「構造より意匠の方面から卒論を書いたら?」と提案して下さり、卒業研究では意匠の観点からも建造物を調べました。
※意匠: いわゆるデザインのこと。建築では、建物の全体的なすがたや、間取り、仕上げの材質・色彩、部材の納まりなどについて言う。
小川さんの言う通り、哲学堂公園は円了にとって、新しいチャレンジの場なんですよね。
大学の学長を辞めて、もう一度、自分の身ひとつで、社会教育に挑もうとした円了の人生後半の活動拠点となるのが、この哲学堂公園なんです。
なるほど。小川さんの読みはピッタリだったのですね。
具体的に、意匠にはどのような特徴があるのでしょうか?
はい。私がメインテーマとして選んだ絶対城は<日本建築>と<西洋建築>の特徴を持った<擬洋風建築>に似た特徴を持っています。
<擬洋風建築>とは幕末から明治にかけて大工さんの”そうぞう力(想像力と創造力)”によって誕生した西洋建築を指します。
<擬洋風建築>ですか。初めて聞いた言葉です。
現存しているものだと、国宝である長野県松本市の旧開智学校校舎や、重要文化財の山梨県甲府市の藤村記念館(旧睦沢小学校)などがあります。
旧開智学校校舎
甲府市藤村記念館
(撮影:北田建二学芸員)
<擬洋風建築>で発揮される大工さんの”そうぞう力”に、円了先生の思想を取り込んだ「新しい取り組み」が随所に見られるのが、哲学堂公園の古建築の特徴です。
その中でも絶対城は円了先生の思想が色濃く反映されており、「3つの新しい取り組み」が見られた建物でした。
「3つの新しい取り組み」とは何ですか?
まず1つ目です。哲学堂公園の古建築が、日本建築の伝統を継承したものになっていることです。
哲学堂公園の建物を「哲学(西洋・東洋)」「妖怪」「仏教」の3要素に分類して見た時に、「仏教」の意匠要素が一番多く表れていました。
円了先生は、哲学者として仏教を東洋の哲学として高く評価しています。哲学堂公園が寺院ではないにも関わらず、建築物のなかに、伝統的な「仏教」の意匠要素が多く取り込まれているのは、このような仏教に対する円了先生の評価が可視化された結果と思われます。
また絶対城は「城」とある通り、日本の城との5つの共通点がありました。下にある図の屋根瓦や展望台や格子窓ですね。
このような部分でも日本の伝統的な建築意匠が活かされていると推察されます。
その一方で、絶対城には、玄関部分の外壁の上側に、<蛇腹(コーニス)>と呼ばれる帯状の装飾が見られます。
<蛇腹>は西洋建築によく用いられる装飾で、<擬洋風建築>の建物にもよく見られます。
また西洋建築で重視される壁などにも、絶対城には大きな特徴があります。
絶対城の外壁と陸屋根(ろくやね)には「亜鉛メッキ板」という素材が使われています。
私は「3つの新しい取り組み」の2つ目は、「亜鉛メッキ板」の採用だと考えています。
※陸屋根(ろくやね): 勾配をつけないフラットな屋根のことを言う。日本の伝統的な木造建築では、雨仕舞のために勾配屋根を架けるのが通常であるが、明治以降、西洋建築の影響で陸屋根の建築も見られるようになった。
なるほど。「亜鉛メッキ板」はどのようなモノなのでしょうか?
亜鉛メッキ板は、明治元年に輸入開始となった建材で、建物の耐火性を高める効果があります。
絶対城の建築より後の時代になりますが、関東大震災の火災時に、亜鉛板で出来た建物は燃え辛かったという記述があり、復興材としても使われていたそうです。
昔は電車から出る火花で火災が発生しないように、沿線にある建物は不燃材の亜鉛板を使うのが流行ったという当時の記述も見つけました。
そんな耐火性が高い「亜鉛メッキ板」ですが、なぜ「亜鉛メッキ板」の使用が新しい取り組みとなるのでしょうか?
川越のシンボルである「蔵づくりのまち並み」を思い浮かべて頂けるとイメージしやすいと思うのですが、当時大事なものは「土蔵」と呼ばれるぶ厚い土壁でできた建物に収められていました。
絶対城にも円了先生が収集した大事な蔵書が収蔵されていました。その大事な蔵書を収める建物で、円了先生は外壁の仕上げに「亜鉛メッキ板」を採用しているのです。
円了先生は東洋大学の前身である哲学館時代に、校舎が全焼した苦い経験をしています。そういったことから、耐火性を期待して、絶対城に亜鉛メッキ板を使用したと考えられます。
1889(明治22)年 に駒込蓬莱町(現文京区向丘)に初めて建築された哲学館の独立校舎は、完成間際に台風で倒壊(「風災」)し、再建した校舎も7年後に火事で焼失(「火災」)します。円了は、これらの災厄について、哲学館事件(「人災」)とあわせて、哲学館における「三災」と呼んでいます。
そんな辛い経験をしていたのですね・・・
哲学堂公園の古建築で、絶対城の他に無尽蔵という建物があり、貴重な物を収蔵するという目的が同じことから、2棟を比較してみました。
絶対城と無尽蔵で、耐火性の部分で意匠の共通点が見られました。
「亜鉛メッキ板」を使用していることはもちろん、2つとも「三つ巴瓦」が使われています。「三つ巴瓦」は、模様が水が渦を巻いているように見えることから「防火」や「火の用心」を意味します。また外装の一部に、不燃材料の白漆喰塗装を施しています。
哲学堂公園の絶対城には円了の蔵書、そして無尽蔵には講演旅行や海外視察の際に収集した品物が収蔵され、一般公開もされていました。
分かりやすくいえば、絶対城は図書館、無尽蔵は博物館ということになります。
どちらも、円了が自分の大事なコレクションを保管するわけですから、世間一般の図書館・博物館と同様、建物の防災性を、ほかの建物よりも重視したと考えられます。
確かに、絶対城に収蔵されていた蔵書群の「哲学堂文庫」は、現在でも東洋大学附属図書館に大切に遺されています。
それも建物の耐火性をはじめとした、円了先生の未来へ遺すという意志のお陰かもしれませんね。
調べていくうちに、建築から円了先生の思想に触れるのが面白くて仕方なくて!絶対城をはじめ、哲学堂公園にのめり込んでいきました(笑)
そのため段々と、より詳細な資料を見たくなってきて。そこで井上円了記念博物館学芸員の北田さんに相談したところ、凄い資料を提供して頂いたのです!
小川さんのように、研究目的や調査対象が明確だと、こちらも史料(資料)を用意しやすい。もちろん、やる気もあるし、その熱意にこたえるためにも、今回、当館の所蔵資料のなかで、私が以前から密かに注目してきた哲学堂公園の建築に関する史料を出すことにしました。
この史料は、「和田山図書館建築書」という表題がつけられていますが、内容としては大正3年の絶対城の建設時に作成された積算書になります。私自身、建築学が専門分野ではないのですが、学芸員として建築史や歴史的建造物の保存にたいへん興味をもっています。ですので、いつかこの史料を使って、哲学堂の建築に関する研究をしてみたいなとずっと思っていました。
ところが、実際に史料を読み解こうとすると、自分の研究ではこの史料を活かしきれないように感じられてしまい、その結果、長らく“秘蔵”の状態になっていました。そういった事情もあって、小川さんの研究は、この史料を存分に活かせる点で、非常に魅力的なものでした。
北田さんの思いが込められている秘蔵資料とは相当なものですね!
この積算書である「和田山図書館建築書」とはどんな内容なのでしょうか?
積算書とは工事に必要とされる資材・人工(にんく)・金額等が記載されている資料です。
この積算資料を見ることで、建物にどのような部材を使っているか、工事の規模、建物への意図を知ることができます。
ちなみにこの「和田山図書館建築書」を見た高岩先生は「素晴らしい資料を提供して頂いた!」と感動していました(笑)
そうでしたか!高岩先生にそう仰って頂いて、光栄です(笑)
なるほど。多くの情報が入っている貴重な資料なのですね!
小川さんは「和田山図書館建築書」を研究でどのように使ったのですか?
「和田山図書館建築書」は「建築コスト」を考える材料にしました。
やはりここでも注目するのは<亜鉛メッキ板>です。
先ほど耐火性を重視して「亜鉛メッキ板」を採用した話をしましたが、更にコスト減も目的にしたのでは?という仮説を立てたのです。
というのも、哲学堂公園は支援金で建設されているため、コストを抑える必要があったと思ったのです。そこで哲学館で書庫として建てられた土蔵と建築費を比較してみました。
比較の結果はいかがでしたか?
仮説の通り、絶対城は土蔵よりコストが安かったです!!
土蔵というのは、家財や食料品などを安全に保管するために造られてきた日本の伝統的な防災建築ですが、外壁を構築するのに、20センチメートル以上の厚さになるまで、土を何層にも塗り籠めなければならないなど、土蔵を建てるには工期も工費もかかります。
完成してからも、経年劣化で土壁が割れたり、その後の保守・修繕も大変です。その点、プレカットされた亜鉛板で外壁を仕上げてしまえば、工費も工期も圧縮できるだろうし、その後の修繕も左官工事をせずに亜鉛板の交換だけで済ませられるかもしれない。コスト面だけでなく、メンテナンスの面からも、亜鉛板の外装を採用したと推測しています。
なるほど。亜鉛メッキ板の採用は耐火性、コスト面、そしてメンテナンス面と多くのメリットがあったのですね。
「3つの新しい取り組み」の3つ目は「トドマツ」の採用です。
『和田山図書館建築書』には、絶対城の羽目の材料として「椴」(トドマツ)と記載されています。
円了先生が寄附を集めるための全国巡講の足跡を記した『南船北馬集』で、北海道利尻山のトドマツに感動した記述がありました。そこから建材でトドマツを採用したのは、円了先生の新しい取り組みだと考えています。
・・・でも実は、トドマツという木はあまり建材には向かないと言われてして。
どうやらトドマツは木に含まれている水分が多すぎるそうです。
左上:利尻山から見える景色 (写真AC:https://www.photo-ac.com/)
左下:青空とトドマツ (トドマツ:知床五湖三湖, 北海道斜里町、23 September 2011、663highland、
Wikipedia:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shiretoko_Goko_Lakes_Sanko02s3.jpg)
井上円了選集12巻,p.381(東洋大学リポジトリ:https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/2965 )
私も建材でトドマツが使われるのは聞いたことがなくて。
絶対城の羽目板には、なんとなく杉か地松(国産のアカマツ・クロマツ)が使われていると思っていました。
実際に何の木材を採用したかは不明なのですが、『和田山図書館建築書』に「トドマツ」と書かれているのは事実で。
推測ですが、大工さんと円了先生とのやり取りで「北海道の巡講でトドマツが素晴らしかったから、絶対城でもトドマツを使いたい!」・・・なんてやり取りがあったのかな?なんて想像しています。
「和田山図書館建築書」には「トドマツ」と書いたけど、実際は杉や松といった他の適当な木材を大工さんが使った・・・ということも大いに考えられますね(笑)
想像を膨らませると、円了先生が哲学堂公園を造っていった情景が浮かんできます。
今回の卒業研究で絶対城を建築学的視点から見たことで、歴史が刻まれた哲学堂公園の建物は、単にその時代の建築技術を反映するだけでなく、円了先生の人生観、価値観、そして円了先生が生きた時代の社会的、文化的背景を映し出した存在でした。
まさか一つ一つの意匠、使用された建材、建物の名前といった選択に、これほど円了先生の意思が込められているとは思いませんでした。
この円了先生の生き様が反映された哲学堂公園の古建築を研究することで、過去の円了先生が実現したかった教育の表現の一端に触れることができたと思います。
いや~小川さんの研究は本当に貴重だと思うので、ぜひ卒業しても何かしらで続けてほしいです!
そう仰って頂いて心から嬉しいです!ありがとうございます!
哲学堂公園を卒業研究して本当に良かったです!!
小川さん、北田さん、貴重なお話ありがとうございました!
お二人は、東洋大学工業技術研究所が主催している「哲学堂公園内 古建築シンポジウム」で登壇者として発表してくださっています(会期:2024年2月21日~3月8日 ※オンライン、申込制)。
https://www.toyo.ac.jp/news/20240124-12710.html
小川さんの卒業研究を通じて、私たちは「建築」という新たな視点で哲学堂公園を再発見する機会となりました。
これは井上円了哲学センターの今後の取り組みにおいて、画期的な変革の契機となると感じています。
哲学堂公園における建築物を楽しむ。という新しい視点を提供してくださったことに心から感謝いたします。
そして卒業後も、井上円了と哲学堂公園への関心を持ち続けてくださることを願っております!
『哲学堂公園の歩き方―井上円了が教える心を磨く精神修養―』
東洋大学の創設者・井上円了先生が設計した哲学堂公園を、井上円了哲学センターの長谷川 琢哉先生が解説。
哲学堂公園は「精神修養的公園」としての独自のコンセプトに基づき設計され、円了が意図した順路を辿ることで、精神修養が叶うように設計されています。
この動画では、円了が哲学堂公園に込めた思いと精神修養を体験して頂けます!