聖書の教理概要④-真の信仰を培うには

2017.03.10.



信仰を持つのでなければ、神の是認を得ることができないと聖書は述べています。(ヘブライ11:6)。では、信仰とは何ですか? どうすれば、それを培うことができますか?


聖書には、「信仰とは、(1)望んでいる事柄に対する保証された期待であり、(2)見えない実体についての明白な論証です」という定義があります。(ヘブライ11:1)。


つまり、(1)は、望んでいるのだけど、しかし、まだ実現していない物事について、それが確実に実現するという保証、確信のことです。例えば、クリスチャンは、やがて楽園が来ることを信じているでしょう。


また、(2)は、人間の目には見えない物事ではあるけれども、しかし、識別力をもってその存在が理解できるということです。言うまでもなく、クリスチャンは見えない神の存在を信じています。


まとめると、(1)まだ起きていない事柄(2)目には見えない物事であり、いずれも「見えない」物事であることが分かります。ただ、(1)は時間的な問題で、(2)は空間的な問題だというだけのことです。


ですから、信仰というのは、「見えないけど、見えている」という状態を示していると言えます。正確には、「肉眼では見えないが、心の目(識別力)によって、あたかも見えているかのように、その実在・実現を確信している」ということです。


これは、「聖書の教理概要③-霊性を高めるには」で説明した、「霊的な思考」とも通ずるものです。推理する力により、「1、2、▲、4、5  ・・・ 」いう虫食い問題の、見えないはずの▲の中身が見える(識別できる)ということでした。


★信仰とは、「見えないものを見る

 (識別する)」能力のこと。


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しかし、単に、識別力が優れていて、頭が良ければ、信仰を抱けるのかというと必ずしもそうとは限りません。では、どうすれば、信仰を抱き、「心の目で見ることができる」のでしょうか。その答えは、一言で言えば、霊的(精神的)光の中を歩むことによってです。


一方、聖書は、諸国民が精神的な暗闇のうちを歩んでいると述べています。


人間は、心の中でバランスをとるものです。つまり、自分のしていることがたとえ悪であるとしても、できるだけそれを正当化して、自尊心を保とうとします。ですから、不義を喜びとしている人にとって、真理、真実、事実を直視することは、極めてバツが悪いために、それを嫌悪し、退けます。そして、その代わりに、自分の不義を正当化する虚偽の言い訳を考え出し、それを受け入れます。こうして、不義者は、真理、真実、つまり「光」を退けて盲目となり、霊的、精神的な暗闇のうちを歩むことになります。(ヨハネ3:19-21)。


この点を考えると、信仰の人がなぜ「心の目で見ることができる」のかが理解できるはずです。そうです、彼らは、偽り(闇)を退け、真実を真実とみなすゆえに、光のうちを歩んでいるのです。


例えるなら、偽りを信じる、受け入れる人は、色眼鏡をかけているのと同じで、物事を歪んだ仕方で見ます。しかし、信仰の人の目には一切の曇りがないために、真実を真実、事実を事実として直視できます。ですから、何事も偏見のない仕方で見なければなりません。ところが、欲望や怒り、憎しみなどが心の内にあると決してそうはできません。そうです、信仰を持つには、純粋な心を保つことが必要です。


★信仰を持つには、

 真実を真実とみなす純粋な心が必要。

★偽りを受け入れる人は、心が曇り、

 闇の中を歩むゆえに、信仰を持つことができない。


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純粋な心を持つ人はいつでも正直です。その心には嘘・偽りがありません。ゆえに、その人は胸を張って堂々と生きることができます。それを「自尊心」と言います。


ところが、嘘・偽りを語ることを習慣にしている人は、そうではありません。少なからず罪悪感を抱き、本当に、心の底から胸を張って生きることができないのです。つまり、「自尊心」が失われます。


でも、ある人々は、そのように自尊心が失われないようにと、無理矢理虚勢を張って、嘘と自尊心とを両立させようとします。しかし、そのためには、「良心の声」を殺さなければなりません。確かに、良心の声を殺せば罪悪感を感じずに済むでしょう。しかし、心の重要な部分である良心を壊死させるということは、自分の心に重篤な害をもたらすことに等しく、その結果、その人の精神のバランスはおかしくなってしまいます。


また、「嘘つきは泥棒の始まり」とある通り、平気で嘘をつくということは、良心を殺すことを意味しており、そのようにして、警報を発するはずの良心が死んでしまうと、人は、今よりももっと悪いことにも容易に手を染めるようになってしまいます。ですから、嘘・偽りは、覚せい剤と同じで、人の心を破壊する恐るべきものです。


そして、一旦、嘘・偽りの道に入ると、その嘘がバレないように、嘘の上塗りをしなければならなくなり、どんどん息苦しくなって、針のむしろに座っているかのような状態になります。そして、それもいつかはバレてしまい、厳罰されるのです。このような顛末は、すでに定められています。嘘つきは例外なく皆、こういう結果になります。これを考えると、嘘をつくことにどんなメリットがあるでしょうか。


しかし、心から正直な人はそのようなことに悩む必要は全くありません。たとえ、「正直者はバカを見る」というような状況に面したとしても、そのような損害よりも、正直で胸を張って生きられることの方がはるかに価値が高いことを理解しているゆえに、それを気に病むこともないのです。


★正直であるなら、胸を張って

 生きることができる。

★嘘は、良心を殺し、さらなる重大な悪行に

 手を染めさせる。しかも、罪悪感をもたらし、

 バレた時には罰せられる。


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このように、「信仰」-「見える(識別力)」-「光」-「真理・真実」-「純粋な心」いった聖書用語の関係性は理解できたでしょうか。反対語は、「不信仰・不義」-「盲目」-「闇」-「虚偽・偽り」-「悪心(欲望、怒り、憎しみ)」ということになるでしょう。


当然のことながら、光は神からのものです。そして、闇はサタンからのものです。


こうして、「信仰」について少し掘り下げて考えてみましたが、「信仰」という特質の本質、真髄が見えてきたのではないでしょうか。本質が見えてくると、どうすればもっと信仰を強くすることができるのかも分かってきます。


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★では、具体的に何をすればよいのでしょうか?


☆まずは、霊的な思考を培い、識別力を高めましょう。


これは、「聖書の教理概要③-霊性を高めるには」でも説明しましたので、そちらをもう一度参照してみてください。


☆偽りを憎み、真実を愛する心を養いましょう。


嘘・偽りは、人を盲目にし、闇の道を歩ませる、憎むべきものです。そのような意識を強く持ち、いつどのような時でも正直でありましょう。


もしも、今、誰かに嘘をついてしまっていて、それを隠しているのであれば、一旦、それを清算することをお勧めします。嘘を抱えたまま、信仰を培うことは決してできないからです。


しかし、告白には勇気が要るでしょう。ですから、まずは、その点を神に祈ってみてください。そうすれば、神は快く許してくださいます。そして、あなたが嘘をついて害をもたらしているかもしれない人たちに正直に告白して、清算できるように勇気を与えてもくださることでしょう。