電子の計数統計(Full Counting Statistics)と量子系での揺らぎの定理の研究

信号とノイズの研究はデバイスの性能を決める上で重要です。近年、製造プロセスの微細化により、情報処理装置の著しい小型化と性能向上が達成されてます。この反面、リーク電流や動作クロックの高速化に伴う発熱・消費電力の増大が深刻な問題となっています。対策としてマルチコア化が進んでいますが、電気信号をになう電流を極力小さくすることで発熱を抑えるデバイスも検討されています。電子1個が信号を担う、単一電子トランジスタはその例です。ただし信号電流がここまで小さくなると、信号とノイズ(信号分布の幅)の大きさが同程度となるため、デバイスの特性評価のためには信号分布そのもの、つまり電流揺らぎの確率分布を理解する必要があります。

非平衡電流揺らぎ(ショットノイズ)の測定は、メゾスコピック系の量子物理においてなくてはならない研究手段です。ナノデバイスでは電子が空間的に閉じ込められる結果、電荷の励起が分数になる分数量子ホール状態といった興味深い量子多体状態が実現されます。この分数電荷の測定は、ショットノイズが電荷に比例することを利用して行われています。一方、揺らぎの分布は、力学法則の微視的可逆性のために、つねにある性質を満たします。これは「揺らぎの定理」とよばれ、平衡・非平衡状態に関わらず成り立つ、1993年に発見されたまだ歴史の浅い非平衡統計物理学の定理です。揺らぎの定理は、光ピンセットをもちいてRNA分子にした微弱な仕事の分布を測定することで、実験的にも検証されています。このことからも分かるように揺らぎの定理は、いままで生物物理や物理化学を舞台に研究がなされてきました。最近になって、ナノデバイスの電流の確率分布にも揺らぎの定理があてはまることが分かってきています(図1)。非平衡統計物理学は1872年のBoltzmannの研究以来、多くの研究者を引き付けてきましたが、我々はナノデバイスを舞台に「揺らぎの定理」を初めとする非平衡量子統計力学の研究ができるのではないか、さらにその結果を将来的には量子ビットも含むナノデバイスの特性評価等に応用できるのではないか、と期待して研究を進めています。

(図1:左)電流の確率分布: 印加電圧が有限のとき、分布は非対称となる。温度が有限かつ観測する時間τが短い時、熱揺らぎにより電流が逆向きにながれる(負の値をとる)場合がある。揺らぎの定理から電流が正の値と負の値をとる確率の間には(図1:右)の関係が成り立つ。

我々は多端子量子導体について、電子の計数統計理論(Full-counting statistics)用い、微視的可逆性から「揺らぎの定理」を導出しました。さらに、線形応答理論におけるオンサーガー・カシミヤの相反定理や揺動散逸定理とおなじような普遍的関係式が、非線形応答領域においても無数に存在することを示しました[1]。線形応答理論とは、平衡に近い非平衡状態でもちいられる一般的な理論ですが、この結果はそれを非線形応答領域に拡張する際に一つの示唆を与えると考えています。

また実験家の協力を仰ぎ、量子系における揺らぎの定理の検証を目指した研究も進めています。2重量子ドットをトンネルする電子を、オンチップの量子ポイントコンタクト(電子の導波管)電位計(図2)を用いてひとつづつ数え、トンネル電流の分布を得ることで、揺らぎの定理を確かめました(図3)[2]。実験では温度が10倍近く高くなるという結果となっていますが、これは量子ポイントコンタクトによる測定の反作用の効果として説明できます。最近の実験では、この温度の見掛け上の不一致を解消し、電子一つのレベルでも揺らぎの定理が成り立つことを確かめています[3]。これら成果から、測定の反作用の大きさの確認に、揺らぎの定理を応用することが考えられます。

さらに、アハロノフ・ボーム干渉計を用いてコヒーレンスが保たれるバリスティック領域で、揺らぎの定理の検証も行っています。量子系では電流の確率分布を直接測定することは難しいため、揺らぎの定理から導くとこのできる、電流の2次の非線形応答係数と電流ノイズの線形応答係数間の普遍的関係式を検証しました[4]。これは量子系における揺らぎの定理の初めての実験といえます。

(図2)2重量子ドットおよびオンチップ量子ポイントコンタクト(QPC)電位差計の模式図: 量子ポイントコンタクト電流のショットノイズが反作用として、量子ドットのトンネルに影響をおよぼす。

(図3)単一電子トンネルにおける揺らぎの定理の検証:

測定時間τがながくなると傾き一定の直線に近づく。傾きは実際の温度から見積もられる直線(青線)より約10分の1小さい。

(挿入図)測定時間τ=4msでの透過電子数qの分布確率

[1] Keiji Saito, Yasuhiro Utsumi: "Symmetry in Full Counting Statistics, Fluctuation Theorem, and Relations among Nonlinear Transport Coefficients in the Presence of a Magnetic Field" arXiv:0709.4128; Phys. Rev. B 78, 115429-1 - 115429-1 (2008)

[2] Y. Utsumi, D. S. Golubev, M. Marthaler, K. Saito, T. Fujisawa, Gerd Schön: "Bidirectional Single-Electron Counting and the Fluctuation Theorem" arXiv:0908.0229; Phys. Rev. B 81, 125331-1 - 125331-5 (2010)

[3] B. Küng, C. Rössler, M. Beck, M. Marthaler, D.S. Golubev, Y. Utsumi, T. Ihn, K. Ensslin; "Irreversibility on the Level of Single-Electron Tunneling",arXiv:1107.4240

[4] Shuji Nakamura, Yoshiaki Yamauchi, Masayuki Hashisaka, Kensaku Chida, Kensuke Kobayashi, Teruo Ono, Renaud Leturcq, Klaus Ensslin, Keiji Saito, Yasuhiro Utsumi, Arthur C. Gossard:"Non-equilibrium Fluctuation Relations in a Quantum Coherent Conductor" arXiv:0911.3470; Phys. Rev. Lett. 104, 080602-1 - 080602-4 (2010)