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「正論」11年10月号(保守言論)

保守こそ、希望を語れ――我々はなぜ輝きを失ったのか

朝日「論座」編集長の「保守」研究

保守言論はどう変容してきたか。サブタイトルで、そう問う新刊が発売された。題して『『諸君!』『正論』の研究』(岩波書店)。

表紙カバーに巻かれた帯(背)は「『右派』論壇盛衰史」と記す。著者は、朝日新聞の上丸洋一編集委員。

「二〇〇二年九月から〇五年一月までの約二年半」「朝日新聞社が発行する月刊誌『論座』(〇八年十月号を最後に休刊)の編集長を務めた」(同書)。

上丸編集長時代、私は「諸君!」と、本誌「正論」の両方で連載していた。

それ以前から、両誌を含む論壇誌の常連だった。

朝日新聞社が数値化した「メディアへの発信度」(「総合」二〇〇〇年)は、全大学教員中6位(『大学ランキング』)。

私ひとりに限らない。「論壇盛衰史」の中で保守が活況を呈した時代である。

その後はどうか。同書はこう記す。

「二〇〇〇年代の後半になると、両誌の論者の顔ぶれが共通化してくる。

渡部昇一、屋山太郎、中西輝政、西尾幹二、櫻井よしこ、小堀桂一郎、藤岡信勝、小林よしのり、八木秀次、

長谷川三千子、金美齢、遠藤浩一、潮匡人、西岡力、呉善花、黄文雄らが両誌に繰り返し、登場するようになる」

御覧のとおり私の名前が登場するが、右の一箇所だけで、巻末の人名索引を見ても当該頁しかない。

幸か不幸か、同書の矛先は、私以外の著名な筆者に向かう。

善かれ悪しかれ、上丸本の主張は単純明快である。リベラル陣営得意の善悪二元論とレッテル貼りに終始する。

《端的に言えば、日本の侵略を侵略と認める立場にたつ「保守」(そういう保守主義者は存在する)と、

日本は侵略などしていない、自衛のための戦争だとする「保守」と、大きく分けて二つある。

その総体が私の言う広義の「保守」である。/この二つのうち、侵略などしていないと主張する向きを、

私はとくに「右派」と呼ぼうと思う》《両誌の論調は、保守から右派へとシフトした》

左派特有の分断工作である。保守を左右に分割して、片方を「穏健派」と呼ぶ上丸本が秋波を送るのは櫻田淳ら。

その一方で、その他の多くの論者を、こう非難する。

《『諸君!』『正論』の論者たちの「世界との向き合い方」を一言でいえば、〈排他〉という言葉がふさわしい。

その想像力は日本の外に決して及ばない。(中略)〈排他〉は〈寛容〉を排他する》

以上のレトリックは「右派」を「排他」する彼らの立論にも当てはまろう。

二段組みで四百頁を超える大著ながら、「右派」を非難攻撃した論拠の大半が、主張の中身ではなく表現方法である。

《『諸君!』『正論』は毎号、激烈な見出しの記事を並べた》《抑制が保守主義のひとつの美徳であるなら、

両誌はすでに、保守ではなくなっていた》《惨憺たる日本語である。/これほどまでに日本語を貶める雑誌に、

「保守」を語る資格があるのだろうか。

(中略)『諸君!』が行き着いたのは、もうこれ以上右に行きようがない、品を落としようがない、そんな地平だった》

なかで「品位のないタイトル」と名指しされた一つが「もし朝日新聞にああ言われたら――こう言い返せ」

別段、下品とも思わないが、当事者の一人として弁明しておく。

朝日新聞と「市民の党」の共通項

右は「永久保存版〈歴史講座〉」と銘打った特集の見出しに過ぎない。

当該号(「諸君!」二〇〇六年七月号)に遡る「諸君!」(同年二月号)の「総力特集」は題して「『歴史の嘘』を見破る!」。

その柱が「永久保存版〈歴史講座〉もし中国にああ言われたら――こう言い返せ」であった。

この特集は後に、中嶋嶺雄編『歴史の嘘を見破る』(文春新書)として出版される。

右は、その続編に当たる。あえて自嘲的に揶揄するなら、二番煎じ(私は両講座に寄稿)。

それを、以上の経緯に触れず、後者の見出しだけを「惨憺たる日本語」などと非難するのは公正でない(目次しか見ていないのではないか)。

表現を難じた論法にして、かくの如し。中身に関する論法は悲惨きわまる。たとえば、拉致問題でこう書く。

《「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」とは、事実上「国交正常化はしない」の別の表現でしかない。

/では、どうしたら情報開示を実現できるのか。金正日を倒せば情報が出てくるのか。

『諸君!』『正論』の論者は何も語らない。それに「打倒」と言っても、どうやって「打倒」するのか》

独裁体制を倒せば、情報は出てくる。実際、ソ連邦が崩壊した後、秘密指定されていた公文書が次々公開された。

同様の事例は世界に多々ある。では「どうやって打倒」するか。抑止、圧力、制裁を強める。

それが答えである。その効果を担保するためにも、武力行使という切り札(カード)を手放してはならない。

就任前「最もリベラルな上院議員」と言われたオバマ大統領はノーベル平和賞受賞演説で、こう訴えた。

「世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊を止められなかった。

交渉では、アルカイダの指導者らに武器を置かせることができない。

武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。

人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ」

だが、上丸本は決して、力の行使を認めない。それどころか、こう〈排他〉する。

《暴力と憎悪の連鎖によって、北朝鮮と韓国、日本と南北朝鮮の和解は少なくとも、さらに百年は遠ざかるとみなければならない。

/結局、拉致問題の解決は、国交正常化交渉をすすめるなか、北朝鮮の民主化と「開国」をうながしながら実現を図るしかないのではないか。

私はそう考える》

ならば、その「開国」とやらは、具体的にどう実現するのか。

朝日の論者は何も語らない。

上丸本のレトリックを借りれば、右は事実上「拉致問題は解決しない(から諦めろ)」の別表現でしかない。

八月一日付産経朝刊一面トップ記事に、奇しくも同じ主張が掲載された。

発言の主は、訪朝し、「よど号犯」と接触した酒井剛。

菅総理献金問題で注目を浴びる極左団体「市民の党」代表である。

産経の取材に「解決する一番いい方法は日朝国交正常化だ」と嘯(うそぶ)く。

彼らが行き着いたのは、もうこれ以上、左に行きようがない、品を落としようがない、そんな地平なのだろうか。

詫びず、認めず、改めず

案の定、慰安婦問題でも品がない。

《慰安婦問題について、右派の議員や論者は、「強制連行」というところに論点を局限化・矮小化して「その事実はない」「謝罪の必要はない」と主張することが多い。

縄で縛って連れていったというような形態のものだけが「強制連行」だと独自に定義したうえで、

そうした例はなかったと否定し、問題はないというのだ。

しかし、河野談話が言うように(中略)軍が直接、間接に関与したことは否定のしようがない》

以上の記述に以下の注記を付す。

《吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、一九九五年)、吉見編集・解説『従軍慰安婦資料集』(大月書店、一九九二年)などを参照》

かかる重大問題を断罪した論拠に、左派の古い文献だけを挙げるのは公正でない。

学術論文なら失格である。

以上の論法は、朝日御用達である。

事の発端から、朝日の記事であった(一九九一年八月十日付)。

書いた記者は学生時代から筋金入りの左翼(私の同級生)。

記事の背景については、西岡力の「さらば、虚妄の『従軍慰安婦』問題」(本誌八月号)に詳しい。

保守陣営から、反証を突き付けられた朝日は慌てた。

一九九七年三月三十一日付朝刊一面と社説、さらに見開き両面を割いた特大記事を掲げる。

題して「従軍慰安婦 消せない真実」「政府や軍の深い関与、明白」。

だが、記事を読むと、主張は腰砕け。

「朝鮮、台湾では(中略)軍による強制連行を直接示す公的文書も見つかっていない」。

社説でも「インドネシアなど一部の地域については、日本軍が現地の女性を強制的に慰安婦にしたことを示す資料がある。

大部分の地域についてはそこまでの資料は見つかっていない」と白状した。

ところが、記事は続けて「『強制』を『強制連行』に限定する理由はない」

「強制性が問われるのは、いかに元慰安婦の『人身の自由』が侵害され、

その尊厳が踏みにじられたか、という観点からだ」と開き直った。

社説でも「一部の学者や国会議員、新聞」の「主張」を「狭い視点」と断じながら「資料や証言をみれば、

慰安婦の募集や移送、管理などを通じて、全体として強制と呼ぶべき実態があったことは明らかである」と強弁した。

題して「歴史から目をそらすまい」

何度も同じことを書く。そんなバカな。

朝日が確認した事実関係に照らしても、結論は正反対となろう。

なるほど一部の地域において強制連行が認められたが、

天下の朝日新聞が調査しても「大部分の地域についてはそこまでの資料は見つかっていない」のだ。

「全体として強制と呼ぶべき実態」がなかったことは明らかではないか。

あれから一四年が過ぎた。今一度、上丸本の記述を読み返して頂きたい。

いまだに負け惜しみを続けている。

詫びず、認めず、改めず。北京政府のごとき姿勢である(櫻井よしこ『異形の大国 中国』新潮文庫)。

さらに上丸本はこう「右派」を非難する。

《彼らは、どこまでも日本は正義の国である、と信じて疑わない。それは一種のイデオロギーである》

《抑制を忘れて歴史の歪曲と冒瀆に手を貸し、人々の歴史認識に混乱をもたらしてきた『諸君!』『正論』の責任は、きわめて重い》

《両誌の「反日」などのレッテルはりや攻撃が、自由な言論を萎縮させてきたのではないかとの懸念はぬぐえない》

彼らこそ、日本が侵略した、強制連行したと信じて疑わない。

それは一種のイデオロギーである。

歴史の歪曲と冒瀆に手を貸し、人々の歴史認識に混乱をもたらしてきた朝日の責任は、きわめて重い。

「右派」などのレッテル貼りや攻撃が、自由な言論を萎縮させてきた。

リベラル思想は理性しか信じない

皮肉が過ぎたかも知れない。正面から異を唱えよう。

上丸本が拠って立つのは人間の理性である。序章でこう論敵を批判する。

《もとより理性には限界がある。

しかし、限界を知りつつ理性的であろうとすることと、反理性・非理性に身をゆだねるのとでは、大きなちがいがある》

善かれ悪しかれ、リベラル思想を体現している。

ただしオバマと違い、「人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めること」を知らない。

文豪チェスタトンなら「狂人」と命名するであろう。

「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」

「人間は、理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができる」(『正統とは何か』春秋社)

その他の警句は、拙著新刊『日本人として読んでおきたい保守の名著』(PHP新書)を、ぜひ御参照頂きたい。

《保守は一体、何を保守するのか》

上丸本に回答する。それは垂直次元の軸である。

正統思想は天を仰ぎ、歴史伝統に根ざす。論拠は拙著新刊に示した。

朝日が「諸君!」「正論」両誌を非難したのは、上丸本が初めてではない。

「論座」自身、《「諸君!」それでも「正論」か》と題した特集を掲げた。

「論座」編集部編『リベラルからの反撃』(朝日選書)で、当時の薬師寺克行編集長が、こう書いた。

《右派の論調の特徴は、まず、自己中心的であることだ。(中略)異論を一切認めず、異論を唱える人物を徹底的に否定する。

そこには、自分たちとは異なる主張を冷静に分析し、認めるべき所は認めるというような建設的で理性的な姿勢は見られない》

《『正論』『諸君!』といった右派月刊誌は、毎号、日中、日韓関係、北朝鮮問題、靖国神社、

歴史問題を同じような著者を繰り返し動員して、手を替え品を替えて威勢の良い論調を売り物にしている》

薬師寺編集長も今や、大学教授。時代は変わったが、朝日「論座」の座標は変わらなかった。

今なお「右派」のレッテルを貼り、扇情的に非難する。

徹底的に否定する。排他的で自己中心的な論調は、今も健在である。

実は先般、私を批判する新刊が出た。朝日が頬かむりを続けるので仕方がない。

同書に反論しよう。題して『国を滅ぼすタカ派の暴論』(明石書店)。

著者は一本松幹雄。私は彼を知らないが、彼は私を研究したらしい。

「すごい名門一族出身の、永遠の軍国少年」と題し、冒頭こう書く。

《今日、最も活発にタカ派の言論活動を展開するとともに、我らハト派を痛罵罵倒していると言ってよい存在である》

そう見えているなら、光栄である。だが、私への批判には落胆した。

「若過ぎる故か? 記述に誤りが多い潮匡人氏」との見出しで、こう書く。

《タカ派論客の中でエース的な存在となっている潮匡人氏は一九六〇年生まれという前途洋々の若い人物であるが、

あの有名なドゥーリットルの日本空襲(一九四二年四月一八日)を記憶する私の世代の者とは違い、

戦時中や終戦直後の出来事について、誤りや理解不十分が散見される》

鷹は群れず、孤高を貫く

気のせいか、褒め言葉とも聞こえる。美しき誤解はありがたく拝聴しておこう。

指摘された以下の「誤り」も甘受する。

《潮氏は日本の歴史の勉強が不十分なせいか、

東京裁判で、陸軍出身の被告の「罪状」をあばくことで有名になった田中隆吉について、田中隆一、と記述している》

初めて気付いた。拙著『司馬史観と太平洋戦争』(PHP新書)に「隆一」とある。

ちなみに、初出原稿(本誌二〇〇九年四月号)は「隆吉」だった。

さらに言えば、田中隆吉著『日本軍閥暗闘史』(中公文庫)の巻末解説を書いたのは私である。

それでも私の「勉強が不十分なせい」なのか。

「誤りが多い」と言うが、具体的な指摘は以上の一か所だけ。

その他すべて、事実関係ではなく、認識や評価の違いに過ぎない。

《日本国民の圧倒的多数が心に抱く反戦平和の願いを「オカルト宗教」とか、

「反戦平和教」と呼んで蔑視するのは極めて非常識であろう》

《「防衛大学校長には防大卒業生を就任させるべきだ」という潮氏の主張は世論と異なる》

常識や世論と異なるから「誤り」なのか。

水平次元でしか生きられないリベラル左派は、数を恃(たの)むことしか、拠る術がない。

鷹は群れず。真のタカ派は自由と孤独を愛し、左右の全体主義と闘う。

ハトは群れることしか知らない。

《潮氏は終戦当時の情勢については人聞きでしか理解していないせいか、著しい誤解が多く、

例えば、戦後、占領軍の厳しい事前検閲があったと主張しているが(以下略)》

なんと、占領軍の事前検閲はなかったらしい。

占領下、発行禁止処分を受けた朝日関係者なら、さすがに、こうは言うまい。

《潮氏は「十五年戦争の期間中、歴代の首相の中で最も重い責任を有するのは、

東條英機でも広田弘毅でもなく、近衛文麿である」と主張しているが、潮氏の独断と偏見によるものと言える》

《読売新聞の戦争責任を検証する作業では、「東條英機に最大の責任がある」と結論づけられている》

私は、その読売の検証を批判したのだ。これでは、ただのイチャモンではないか。

私とて、かかる雑本と、天下の朝日新聞を同列に論じるつもりはない。だが、羊頭狗肉や我田引水の流儀は重なる。

見てきたように、朝日の「右派」攻撃は、文字通り党派的である。排他的で自己中心的である。

以上を前提に、あえて「右派論壇盛衰史」として振り返るなら、いまの保守論壇は生彩を欠く。

かつての活況が見られない。現に「諸君!」は休刊と相成った。

上丸本が批判の対象とした時代こそ、保守は輝いていた。

その頂点は、安倍晋三内閣誕生の瞬間であったと思う。

あの頃、リベラルも活況を呈していた。だが、彼らも輝きを失う。事実「論座」も休刊となった。

その原因は、彼ら自身にもあったのでないか。定番の「右派」攻撃は、その象徴でもあろう。

だとすれば、保守は同じ轍を踏むべきでない。

正統保守を任じるなら、けっして党派的に振舞ってはならない。

それこそ、唾棄すべき左翼の悪弊であろう。

保守論壇は何を見失ったのか

果たして、最近の保守論壇はどうか。

残念ながら、反米感情や反韓感情をむき出しに、陰謀説を掲げて恥じない論者が増えた。

ファクトも、ロジックも、レトリックもない俗論がやたら増えた。

左翼セクトのアジビラのごとき文体まで目につく。ネット「保守」の言語空間に至っては、救い難い。

《これほどまでに日本語を貶める雑誌に、「保守」を語る資格があるのだろうか》との批判は、

休刊した雑誌ではなく、現在のネット空間に向けられるべきであろう。

いかに正しい言論とて、アジを繰り返すだけなら、いずれ廃れる。

「初めに結論ありき」なら、展望はない。

「閉ざされた言語空間」では、いずれ希望の灯が消える。ハイエクはこう書いた。

〈希望は性質上「進歩的」である人びとを説得し支持を得ることにもとづかなければならない。

これらの人たちは現在でこそ間違った方向への変化を求めているかもしれないが、

少なくとも現行のものを批判的に検討し、必要であれば変化を望む〉

日本の進歩派にも、こう言えるか。自信はないが、諦めてはなるまい。ニヒリズムこそ悪魔の囁(ささや)きである。

上丸本とは視座を異にするが、たしかに保守言論は変容してきた。

変化を望む人々を説得しようとする構えが絶えて久しい。自戒を込めて、そう思う。

保守言論はなぜ、往時の輝きを失ったのか。

それは保守自身が守るべき垂直軸を見失ったからではないだろうか。

世論に阿(おもね)り、保守論壇までが甘く危険な経済政策を唱道した。

「改革が格差を生んだ」との喧伝が「生活が第一」なる俗論に力を与えた。

実際、そう叫んだ政治勢力は、あっさりリベラル政権に与した。忘れてならない。

彼らも「保守」と呼ばれていたことを。「保守」の「新自由主義批判」がなければ、政権交代は起きなかったかも知れない。

教科書問題などで、保守陣営が内紛を重ねた経緯も大きい。

党派的なイデオロギーを掲げ、教条的なアジテーションを叫び、分裂と内ゲバを繰り返すのは、唾棄すべき左翼の悪弊である。

なのに、保守論壇が、そうした戦場と化した。真理を追究する建設的な論争なら歓迎しよう。論壇はそのためにある。

だが多くは、水平次元で非難応酬を繰り返すだけではないか。

狭い保守論壇で内紛を重ねて、どうする。喜ぶのは、敵陣営だけではないか。

ちなみに、前掲本を除けば、これまで私を批判したのは、すべて「保守」の著名人である。

それも「バカ」「似非保守」「親米ポチ」「○○の提灯持ち」「○○のスパイ」等々。

すべてレッテル貼りに終始した。そこには、左翼の本性が垣間見える。

もはや言論人というより、運動家のごとき言動ではないのか。読者層も、やせ細った。

多くの読者が、名実ともに薄っぺらなベストセラーに飛びつく。

デモや集会には参加しても、本を読まない「保守」が増えた。論壇誌すら読まない。

上丸ではないが、日本語を大切にしない保守など、それ自体が矛盾している。

多くの場面で、言論が政治運動の道具と堕している。

本末転倒ではないのか。保守なら断じて、反知性主義に陥ってはならない。

恥ずかしげもなく、言論を出世や保身の道具にする者も多い。

事実、リベラル政権に秋波を送り、官職や審議会委員などに就いた「保守」が多数いる。

「復興のため」などの免罪符で、永田町でも大連立が模索された。その動きに抗した保守政治家は少ない。

リベラル派は水平次元でしか生きられない。そこには、永遠もなければ、真理も救いもない。

だから、醜い嫉妬が蠢(うごめ)く俗世間での成功や保身を図って恥じることがない。

専門外の分野で、軽々しく評論する御仁も増えた。

社会科学の素養もない者が、歴史から外交まで論じる。

それを「保守」が重宝する。

「脱原発」にせよ「核武装」にせよ、原子力にも、軍事にも疎い経歴の方々が次々と極論を展開する。

戦後、保守陣営は、進歩派の護憲論を「非現実的な理想論」と非難してきたが、

その同じ口が「理想論」を語るのは自殺行為ではないのか。

「保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、

自己の身に相応しく生きていくことであり、

自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである」(オークショット)。

苦難は希望を生む

今回、編集部から「なぜ、保守言論は民主党政権を倒せないのか」との命題を受けた。

これでも編集部の立場を気遣いながら、私なりの見立ては示したつもりだが、

具体的には、ポスト菅を含めた道筋を提示できなかったことが大きい。

「解散総選挙」を叫ぶのはよいが、現実問題、被災地で総選挙ができるのか。

統一地方選の再延期法案に賛成しながら「解散」を叫んでも説得力に欠ける。

そもそも、民主党政権を打倒することが保守言論の使命ではない。

編集部に喧嘩を売るようで恐縮だが、それは野党議員の使命である。

民主党の所業を見て、打倒の思いにかられる気持ちは、よく分かる。

しかし保守言論は本来、そうした水平次元に迷い込むべきでない。

「政権打倒」など、その最たるものであろう。

典型的な左翼の標語ではないか。地上で理想を実現しようとすれば、世俗にまみれ、聖なる軸を見失う。

保守言論が打倒すべき相手は、民主党でも菅政権でもない。

あえて言えば、民主党政権を生んだリベラルな風潮である。

さらに言えば、戦後日本を覆う厭戦(パシ)平和(フィ)主義(ズム)である。

真の敵を打倒すべく我々は今一度、正統的な保守思想に立ち戻るべきではないだろうか。

その思いから、私は前出新刊を書いた。

我々が奉じるべきは〈自由〉である。決して〈平等〉ではない。

求めるべきは、自由な「開かれた社会」(ポパー)である。

だが、そこへ至る道のりは険しい。「開かれた社会」への門は狭く、それを見出す者は少ない。

反対に「隷属への道」は広く、そこを歩く者が多い。隷属への道は「平等」という名の善意で舗装されている。

残念ながら、現実の社会では、決まって平等が自由に勝つ。

自由は代償を伴う。世論はそれに耐えられない。そして悪貨が良貨を駆逐する。

「保守」論壇とて例外でない。

小泉純一郎内閣が進めた改革を「新自由主義」「市場原理」と批判し、

最も忌むべき平等化政策を叫んだのはリベラル陣営だけではない。

そうした勢力は今も「保守」に健在である。それどころか、勢いを増している。

パウロは苦難に満ちた伝道布教のなか、「ローマの信徒への手紙」にこう書いた。

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(『新約聖書』新共同訳)

パウロは「苦難をも誇り」とした。希望が欺くことはないと信じた。

いま我々にも苦難のときが続く。だが、絶望してはならない。

絶望はニヒリズムを生み、全体主義を招く。保守思想と自由にとり最大の敵を産み出す。

いま保守が語るべきは、希望である。それは文字通り、まれな望みである。

なかなか叶わない。だからこそ、希望は光輝く。

正統保守が拠るべき垂直軸を、あえて漢字で表せば〈聖〉であろう。

最下部の「壬」は、爪先立って、神に祈る姿勢をあらわす。

神の声を聞く「耳」、祝詞を入れる器が「口」、以上で「聖」となる。

文字通り、神に祈るような姿勢で希望を語る。そうした「聖論」こそ、本当の正論ではないだろうか。

我々の希望は、自由な「開かれた社会」の中にしかない。

光の道を進む、ただ一つの杖は言葉である。言葉を失えば、「開かれた社会」は扉を閉ざす。

杖を失えば、「隷属への道」に迷い込む。光は輝きを失い、闇が支配する。そこに救いはない。

左翼は言葉を失い、暴力と内ゲバを繰り返し、自滅した。我々は同じ轍を踏んではならない。

「諸君!」亡き後、「正論」が担う使命は重い。

正論が廃れば、俗論が横行する。言葉は力を失う。そこに希望はない。

我々が拠って立つべき垂直次元の軸は、悠久の歴史伝統に根ざす。

だから苦難に耐え、倒れることを知らない。

希望に向かって、永遠に伸びていく。そう信じて、ともに耐え、それぞれの場で練達するのが、正統的かつ保守的な姿勢ではないだろうか。

苦難のときだからこそ、ともに希望を語ろう。いまこそ正統保守の出番である。(文中敬称略)

潮 匡人「祖父と私」全文掲載

:以下の文章は「新潮45」99年11月号掲載。

この文章を含む初期の論説は、四谷ラウンド刊『最後の理性』(2000年、絶版)に所収されています。)

その日の出来事は、今でも忘れられない。二十数年前のある日、私は祖父に連れられて、京都の出町近辺を歩いていた。

出町は鴨川が高野川とY字に合流する三角地帯である。京都人は出町以南を鴨川、以北を加茂川と呼んでいる。橋の上から、

東の高野川、西の加茂川に陣取って対峙する男達が見えた。遠くから見ても暴力団員と分かる集団である。突然、両岸の集団

が入り乱れての乱闘騒ぎが始まった。祖父はその日、度付きの薄いサングラスをかけ、ステッキを携えていた。 橋下の光景を

一瞥すると、ゆったりとした歩調で橋を渡り始めた。橋の真ん中付近で 立ち止まり、やおらステッキを振り上げ、橋の欄干を何度も

打ちつけた。「カキーン 、カキーン」という金属音が付近一帯に鳴り響いた。 しばらくすると、「止めろ」という怒声が聞こえ、乱闘は

潮が引くように収まった。 両岸から、数名の男達が橋に現れ、祖父の眼前で直立不動の姿勢を取った。 祖父は静かな声で「孫が

見ている」と告げた。男達は中学生の私を一瞥し、「失礼し ました」と詫び東西に去っていった。

後日聞いた話では、東西の陣営は、京都を縄張 りとする会津小鉄会と、京都への進出を図る山口組であった。大衆ジャーナリズム

が 「京都戦争」と呼んだ抗争事件のひと幕である。 戦前、戦後を通じ、祖父の名前がマスコミの俎上に上るようなことは、ほとんど

なか った。三木今二という名前を知る人は少ないであろう。ただ、一部週刊誌等では「黒幕」と指弾されたこともあった。私が高校

卒業後に帰省したとき京都駅前で、祖父を非難するビラを受け取ったこともある。それらは祖父が「広域指定暴力団」会津小鉄会

の顧問弁護士を引き受けていたからであろう。 祖父は、山口組を含む多数の暴力団関係者や闇の世界の人々から「三木先生」

と呼ば れ、慕われていた。祖父は大企業の顧問弁護士も引き受けていたため、実家で労働組合の嫌がらせを受けたこともある。

正門から入った企業の役員らを、こっそり裏口から逃したこともあった。実家の裏口は、ちょうど反対側の路地に面した死角に位置していた。

私は、中学入学から高校卒業までの六年間を、母の実家で祖父母と共に暮した。当時 、母の実家は京都大学の傍にあった。

外見上は一般的な中流家庭の二世帯住居だった が、祖父の弁護士事務所を兼ねていたため、家には様々な世界の人間が出入りした。

中には、当日の大相撲の結果をすべて言い当てた来客もいた。「どうして全部当てられるの」と聞いたところ、「それが私の仕事なんです」

との答えが返ってきた。後年、私がその意味を理解したのは、角界の八百長疑惑を報じた新聞報道を目にしたときである。

一度だけだが、本物の殺し屋に、お茶を出したこともあった。 祖父は「普段は何も仕事をせず、いざと言う時に、きちんと務めを果たすのが

本当の殺し屋だ」と語っていた。暴力団関係者は誰一人、お茶にもお菓子にも手をつけなかった。姿勢を崩すことも、足を組むこともなかった。

祖父と暮して最も驚いたのは、昭和50年に起った滋賀県知事の事故死を伝えるニュースを見た時である。事前に祖父から「殺される」

と聞いていたからだ。それが単なる偶然だったのか、そうでなかったのかは、ついに確かめられなかった。

私は京都の中学校に転校生として入学した。親しくなった友人にも祖父の仕事のことは話さなかった。

ところが、新京極という繁華街を同級生と歩いていたときのことだ 。向こうから、ヤクザ風の二人連れが近寄ってくる。家で見たことの

ある人たちだ。 すでに同級生の顔は引きつっている。

二人連れの片割れが、「坊ちゃん、坊ちゃん」と話し掛けてきた。親しげに、「ええもん、あげようか」と言いながら、僕らに映画の

チケットをくれた。なんとポルノ映画である。こうして、祖父と暴力団との関係は、クラス中に知れ渡ることになった。

祖父の生涯について、先の大戦を抜きに語ることは不可能である。祖父は戦前、戦中を思想検事として奉職した。思想検事という

聞きなれない言葉は、敗戦と共に消え、すでに存在しない。GHQ(連合国軍総司令部)の指示によって、廃止されたからである。

わが国が命運をかけた大東亜戦争については、勝者にも敗者にも、それぞれ言い分があるだろう。ただ、歴史の現実は、

勝者の言い分だけが正義の判決となり、祖父も昭和21年7月、GHQの指令によって、公職から追放された。

ところが皮肉にも、そのGHQの依頼を受け、顧問的な仕事を引き受けざるを得なくなった。その立場もあって、敗戦後の数年間は、

自分と同様、公職を追放された特高 警察職員の再就職を世話したり、食い詰めていた元被告人を庇護する日々を送った。

ときには、闇の世界から追われていた韓国人を日本から脱出させるといった荒業も辞 さなかった。その人物は韓国諜報機関の

幹部となっても祖父への恩義を忘れなかった 。各種の疑獄事件で名前が取り沙汰され、98年に、怪死を遂げた山段芳春氏も、

その 当時、祖父が仕事を世話した一人である。

晩年の祖父が、一部のマスコミから「黒幕」と指弾されるようになった背景には、こうした事情が積み重なっている。

決して、自ら望んだ立場ではなかった。公職追放がなければ、定年まで検事として奉職したであろう。追放後は京都に住み、

弁護士として生涯を全うした。従五位勲五等を受けたが、およそ無名の人物である。

伝記や評伝の類もなく、日記すら残さなかった。90年に世を去り、その生涯は、もはや私の記憶 の中にしかない。

祖父は明治35年に生まれた。父親が医者であったことから、医師になることを目指して金沢の旧制第四高等学校に進学した。

旧制高等学校は、一握りの男子学生に帝国大学への進学を保証し、将来のエリートを育成した全寮制の学校である。

戦前の日本で、「ナンバー・スクール」と呼ばれた名門校へ進学するのは、きわめて恵まれたコースであったと言ってよい。

祖父たちは、文字通りの「特権階級」であった。 当時は、教師を聖職者として敬う共通了解があった反面、学生にも広汎な自治や

自由が認められていた。全寮制の中で、スポーツに興じながら、ドイツ語やラテン語を学び、古今東西の古典を読み漁っていたのである。

ある日のこと、祖父の旧制高校時代の同窓生が京都の実家を訪ねてきた。東京オリンピックを誘致した立役者でもある方だ。

祖父と第四高等学校の思い出を語り合っていたのだが、いきなり、中学生の私に向かって、「人間は哲学を学ばなければ駄目だ。

君も哲学をやれ」と語り始めた。おそらく二人は、高校時代にも、熱く天下国家を語り合っていたに違いない。

第四高等学校を卒業した祖父は、医師ではなく、検事の道を歩むことになった。祖父いわく、「数学の教師に対する度重なる反抗的態度によって、

理科の単位を取得できなかったから」である。たしかに、祖父の卒業アルバムを開くと、居並ぶ同窓生の中で、祖父だけが、

詰襟のボタンをすべて外し、ポケットに手を突っ込んだ姿で収まっている。詰襟の中は大きな星のマークが印刷された丸首シャツである。

とても真面目な高校生には見えない。その頃から、規格外の人間だったようである。

私は高校卒業と同時に、肩まで髪を伸ばし、パーマをかけた。東京の大学に進学した私の長髪は就職するまで続いた。

大学時代、実家に帰省すると、決まって祖父は、「なんだ、その女みたいな髪型は、今すぐ散髪しろ」と強要した。

その度に私は東京の下宿に逃げ帰った。

祖父の説教は 、私が自衛隊に入隊し、スポーツ刈にするまで続いた。祖父は私に多くのことを教えてくれたが、散髪に関してだけは、素直に聞けなかった。

祖父の卒業アルバムを見ていたせいであろう。

旧制高校での日々を、学問ではなく、野球に捧げた祖父は、京都帝国大学法学部英法律学科に進学した。

当時、「ナンバー・スクール」の卒業生が京都大学に進学するのは、それほど困難な進路ではない。

祖父が京大を選んだのは、「当時、野球部が日本一強かったから」である。 祖父は京都大学でも、勉強ではなく、野球に専念した。

大学在学中に、現在の司法試験に相当する高等試験司法科に合格したのは、奇跡的な幸運であった。

祖父が私に語った経緯によると、筆記試験に合格できたのは、前日の一夜漬けの予想が的中したからに過ぎない。

だが、最終の口述試験では、そうは問屋が下ろさない。試験会場を出てきた友人に聞いたところ、まったく勉強したことのない個所が出題されている。

受験の順番を繰り下げてもらって、教科書を読んでみても分からない。

万事休すのそのとき、大正12年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。結局、口述試験は有耶無耶なまま、

翌年、合格通知を手にしたそうである。どこまで本当の話か定かでないが、記録上の前後関係は符合している。

関東大震災は、死者・行方不明者14万2807人、全・半壊家屋25万4499戸、焼失家屋44万7128戸を数えた大惨事となった。

この惨事は、その後の日本の進路に重大な影響を残し、祖父を思想検事とした契機ともなった。

平和な大都市を突如襲った惨事によって、流言蜚語が飛び交い、多数の朝鮮人や中国人が犠牲となり、政府は、地震発生の翌日に

戒厳令を施行、軍隊を出動させた。社会主義者などが次々に検挙される中、治安維持のための緊急勅令が出され、言論統制が実施された。

こうした混乱に乗じて憲兵大尉の甘粕正彦らが、無政府主義者の大杉栄らを連行し殺害する事件が起きている。

震災後、家を失った多くの市民がバラックに住み、不安な日々を余儀なくされた。こうした中で、「震災は第一次世界大戦後の贅沢な生活と

危険思想に染まりつつある国民への天の戒めだ」という「天譴論」が登場。政府は11月10日、「国民精神作興詔書」を出して、

国民に「質実剛健」を呼びかけた。 一部歴史家の間からは、震災の混乱に乗じて、軍隊が朝鮮人などを虐殺したとの指摘もあるが、

歴史的な教訓としては、整然とした災害救助活動によって、軍隊の威信が回復し、後の軍部台頭の契機となった経緯があることも忘れてはならない。

震災後、政府は思想統制を強化し、日本は次第に国家主義的傾向を強めていった。

この惨事は、その後の日本の進路に重大な影響を残し、祖父を思想検事にする契機ともなった。

異例の措置で京大在学中に司法試験に合格することとなった祖父は、「質実剛健」の社会風潮をよそに、残された大学生活を、

日本中を旅しながら過ごした。このとき、兵庫県の須磨海岸でナンパしたのが、祖父母夫婦の馴初めだと聞いたことがある。

さらに、作り話めいているが、配偶者となったその女性は、当時の住友本社理事の娘であり、友人の妹であった。

昭和3年9月に検事に任官した祖父は、軍隊に徴用された一時期を除き、公職追放されるまでの間を思想検事として奉職した。

思想検事とは、現在の公安検事に近いが、より強大な権限を持っていた。その権限の基盤となったのが、悪名高い治安維持法と、

旧刑法の不敬罪の規定である。治安維持法が本格的に発動された端緒は、昭和3年3月15日の日本共産党関係者に対する

全国一斉検挙(三・一五事件)である。ちょうど、祖父が検事に任官する直前に発生している。

この三・一五事件を契機として、治安維持法は逐次改訂され、その適用範囲も徐々に拡大していくことになる。

祖父が思想検事として検挙した被告人の中で最も著名な人物は、笹川良一氏であろう。祖父は大阪検事局時代に、

当時の右翼団体・国粋大衆党を検挙した。昭和10年8月、笹川良一総裁以下党員15名を、恐喝、暴力行為取締法違反、

業務妨害などの容疑で大阪北区刑務支所に収監した。任官7年目の大仕事である。

この事件については、昭和53年に出版された山岡荘八著『破天荒・人間笹川良一』(有朋社)に詳しく描かれている。

「笹川が北区刑務支所に収容されると、きびしい取調べが、連日のように繰り返された。地検思想部の安達主任検事以下村田、

三木、西川の四検事のうち、とくに三木検事の追及は峻烈をきわめ、是が非でも笹川を屈服させようと必死の構えをみせていた。

最初から最後まで、彼は攻撃的な姿勢を崩さず、執拗な尋問を続けた」結局、この事件は、被告人が全面否認したまま公判で争われた結果、

笹川総裁に関しては一審無罪、控訴審での逆転有罪判決を経て上告審で再び無罪となった。

山岡荘八氏は祖父の検挙を「浮上した国粋大衆党を危険視して、その撲滅をはかるために、暴行・恐喝罪などの名をかりた

デッチ上げ工作によって、笹川総裁以下15名の 党員をくくりあげた」と評している。笹川被告としては、「デッチ上げ」かも知れないが、

祖父にとっては、被告人と軍部との深い関係がもたらした無念な無罪判決であった。

『破天荒・人間笹川良一』は、祖父の取調べの模様についても具体的に描いている。「揶揄するような皮肉な眼を向ける三木検事を、

(この野郎、小生意気な奴だな)と 、見返すと、笹川は暫く鋭い眼を輝かせたまま、おし黙っていた。すると、三木は促すように、

『え、どういう訳なんだね』と、声を高くして喰いさがってきた。笹川は、こういう種類の利口ぶった陰険な男が大嫌いなのだ」

同書には、この他にも、「下司の勘ぐり」や、「お前らみたいな損得だけ考えとる利口もん」等々、祖父の名誉を罵倒した表現に事欠かない。

確かに祖父は高等教育を受けていたが、少なくとも孫の私の目から見るかぎり、祖父は「利口ぶった陰険な」振舞いなど見たこともない。

旧制高校時代から、野球ばかりしていた男である。高校三年の一時期、友人数名と下宿を借りて非行少年に近い日々を送っていた私に向かって

「散髪しろ」と強要したことこそあれ、祖父は一度も「勉強しろ」とも「学校に行け」とも言わなかった。早稲田大学法学部に合格したことを報告した私に、

「早稲田に入るのに試験があるのか」と本気で聞いた人物である。若い頃は、酒やタバコも随分と嗜んだようだが、

晩年は健康上の理由から甘い物まで制限されていた。ただ、京都名物の「くずきり」だけは例外だった。

「散歩」と称して私を連れだし、祖父の健康を案じる祖母や母の目を盗んでは、祇園の鍵善良房で「くずきり」を食べていた。

笑顔で「今日は散歩だからな」と、私に口止めしていた姿が懐かしい。「利口ぶった陰険な男」とは、およそ正反対の場所に位置していたように思う。

結果的に三年余の未決拘留生活を強いられた笹川総裁にとって、祖父は終世、憎むべき相手であろう。

あえて公平を期すために書けば、祖父の口から笹川氏に関する肯定的な表現を耳にしたこともなかった。

笹川良一氏が出演したテレビCMを見たときに祖父が話した内容は活字にできないほど不穏当なものだった。

実際、両者の確執は、戦後も続いたのである。

二十数年前の話だが、笹川良一氏がN社の乗っ取りを図っているとの噂が流れた。N社は祖父が顧問を引き受けていた京都の会社である。

ある日のこと、「笹川良一の部下」を名乗る男が実家に押しかけ、祖父にN社から手を引くよう脅迫した。

当時、応接間のテーブルの下には、録音器材が 備え付けてあった。祖父はその男に録音テープを突きつけ、

「話があるなら検察庁で聞こう」と要求に応じなかった。祖父を脅迫した男が、本当に笹川氏の部下であったかどうかは知らない。

ただ、激怒した彼らがN社の株主総会に総会屋を送りこむ決意をしたことは事実である。その顛末をすべて書くことはできないが、

結局、情報が事前に漏れた結果、総会屋が乗車した新幹線のダイヤが突如大幅に乱れ、一団が京都駅に到着したときには、

すでに株主総会は終了し、乗っ取り計画は不成功に終わった。その後、ある大手出版社の編集者が実家を訪れ、

笹川良一氏に関する手記を発表してほしいと依頼してきたが、祖父はその申し出に応じなかった。その遺志を忖度し、これ以上の記述は差し控えたい。

祖父が思想検事として検挙した、もう一つの有名な事件は、大本教と並ぶ二大新興宗教団体「ひとのみち教団」の一斉検挙である。

「ひとのみち教団」は、大正13年、御木徳一が教派神道の一派として設立した。現在のパーフェクト・リバティー教団(略称PL)の前身に当る。

「〈おふりかえ〉の神事によって苦痛を教祖の身にひきとって頂ける」という教義を説き、信徒100万を擁する大教団に成長したが、

昭和12年 4月3日、警官隊百余名、予審判事三名、思想検事三名に特高課長を加えた当局の一斉検挙を受け壊滅した。

このとき、祖父は拳銃を携行し、検挙に当っている。「当局は、半年前から北刑務所に収容中の初代教祖御木徳一を不敬罪で追起訴、

ついで教祖御木徳近はじめ准教祖の主なる人々を起訴するとともに、教義内容に不敬事実ありたるとして治安維持法第8条第2項により、

教団に対し結社禁止を命じ、ここにひとのみち教団は姿を消したわけである」(小倉敬二「ひとのみち教団壊滅記」文藝春秋臨時増刊・昭和30年10月5日号所収)。

この「壊滅記」は、事件を評して、「いったい教義のどの点が不敬罪を構成するのか、その点実にアイマイで、断罪上すこぶる無理があった」

と述べている。多くの歴史家が、教団の一斉検挙を「ファシズム化」と捉えている。確かに、不敬罪で立件するのは「無理」があった。

「ファシズム」と呼ぶかどうかはさておき、宗教団体に治安維持法を適用して壊滅させるのは、当時としても「無理」な処置だったのである。

祖父は、なぜ無理を犯して一斉検挙に踏み切ったのか。

その事情を「壊滅記」から拾ってみよう。「ひとのみちとはすなわち男女の道、夫婦和合の道である。(中略)未来を説くかわりに、

現世浄土を説き、心の悩みを説かずに、肉体のよろこびを強調する。(中略)当局もこうした教団の在り方に非常な関心を払っていた矢先、

突如として初代教祖御木徳一氏に対するエロ事件がもちあがった。側近につかえていた侍女のひとりが、教祖のため貞操を奪われたというのだ。

当時教祖の身辺には『侍女』と称するものが八人あり、いずれも信者または布教師の娘から、みめ美しい『純潔の処女』を選んで、

身辺の世話をさせていたもので、そのうちのひとり、十六の少女が、処女の身として堪えがたきエロ行為を受け、

貞操を蹂躙されたというんで、貞操じゅうりん、慰謝料請求の訴えを起したのだった」 こうしたスキャンダラスな疑惑が、

一斉検挙の真の動機であった。ただ疑惑が事実であったかどうか筆者に知る術はない。教団関係者の名誉のために、

その点は明言しておきたい。他方で、疑惑が事実であったとしても、祖父にとっては、大きな問題が残されていた。

「ワイセツ罪だけでは教団とりつぶしといったような荒療治はできない 。不敬罪にでも触れるものがなければならぬわけだが、

教義内容を調べてみても、それらしいものは何ひとつでてこない」(同前)からである。担当検事としては困った事態である。

祖父が教団を追い詰めていた頃の政府は、二・二六事件で岡田啓介内閣が総辞職した後を受けて成立した広田弘毅内閣である。

広田内閣は、軍部の台頭を決定付けた「軍部大臣現役武官制」を復活させた他、陸軍の大陸進出と海軍の南方進出を共に承認する

「国策の基準」を決定し、日独防共協定を締結した。今日、非常に評判の悪い内閣である。

当時、治安維持法の適用に責任を帯びていたのは内務大臣である。昭和3年に全国に特別高等警察(特高)が設置され、

内務省は一般行政警察と共に政治警察も担当していた。思想検事が教祖を不敬罪で起訴し、治安維持法を適用して教団を壊滅させるためには、

事前に内務大臣の了解を得る必要があった。

広田内閣で内務大臣と文部大臣を兼任したのは軍部から「リベラル派」と敵視されていた潮恵之輔(貴族院議員)である。

私の父方の大叔父に当たる。軍部の干渉を排して、潮恵之輔が内相に就任した背景には、昭和天皇の意向があったといわれている。

厚い親任を裏づけるかのように、彼はその後枢密顧問官となり、敗戦直後の昭和21年に枢密院副議長に勅任されている。

戦後の「民主化」と憲法改正に携わった最後の枢密院である。

時の内相は、天皇の親任が厚い筋金入りの「リベラル派」である。

祖父にとっては、最悪の人物が主管大臣に就任したわけである。

案の定、潮内相は、治安維持法の適用に強い難色を示し、検事局の捜査は一時、暗礁に乗り上げた。

だがその間にも、教団は「いつの間にか全国に120個所の支部をもつ隠然たる大勢力にのし上がっていた」(前出「壊滅記」)。

しかも、広田内閣には、この疑惑に絡んだ閣僚までいた。頂上作戦で一斉検挙しなければ、教団側の圧力で捜査が頓挫する恐れもあった。

祖父は潮内相に対し、法的に最も有効な治安維持法を適用する必要を力説した。

かくしてついに、不敬罪での立件と治安維持法の適用が了承され、大掛かりな一斉検挙が行なわれるに至った。

もちろん、この時の担当検事も、主管大臣も、いずれ双方の血縁者が結婚し、

その子どもに事の顛末を書かれるようになるとは、夢にも思わなかったことであろう。不思議な巡り合わせである。

晩年は、勉強はもちろん、ほとんど仕事すらしなかった。

京都を中心に企業や団体の名目的な顧問や監査役を引き受けていただけで、それすら実務を若手弁護士に任せ、

法廷で裁判官や検察官の似顔絵を書いていたような仕事振りだった。

祖父が弁護を引き受けたのは、他に引き受ける弁護士が見つからない暴力団員など、特別な事情がある依頼者に限られていた。

しかも、祖父は依頼者から弁護料を受け取らなかった。

その結果、歳暮や中元の季節になると、実家には依頼者からの贈り物が山積みされた。

釣った魚や、採取した野菜を持参した人もいた。祖父の弁護に対する、せめてもの返礼だったのであろう。

祖父は戦後、一切の公職を避け、弁護士会会長への就任要請も受けなかった。

四人の子どもと、五人の孫に恵まれて、要人との交際を好まず、華美な社交を避け、家族や友人と老後を楽しんだ。

検事官として正義の実現を願ったが、その職を全うすることは叶わなかった。

祖父にとって、戦後は余生だったのかも知れない。終世、富を求めず、権勢を誇ることもなかった。

財政界の要人から、出入りの魚屋さん、果ては暴力団員に至るまで様々な階層の人々に分け隔てなく接し、

多くの人たちから愛された。私にとっては、今でも、かくありたいと憧れる目標である。

最後になったが、前出『破天荒・人間笹川良一』が記す後日談を紹介しておこう。

「戦後かなり経って、真珠湾攻撃で名を知られた当時の草鹿参謀長が、学校創立の件で笹川の許へ相談に来たことがあった。

草鹿は要件がすむと、あらたまった顔でこうきり出した。 『笹川さん。実を申しますと、大阪であなたを起訴した三木検事は、私の妹の亭主なんです。

今にして思えば、奴は大変な貧乏クジを引いたもんですなァ。

あなたの一件さえなければ、彼は間違いなく検事長になっていたはずなんですが……』と、しみじみ述懐した」

草鹿参謀長とは、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、レイテ作戦など枢要な作戦に参画した草鹿龍之介元海軍中将(連合艦隊参謀長)である。

祖父が連れ添った妻の実兄である。

戦後、実際に草鹿と笹川氏との間で前記のような会話が交わされたのであろう。

ただ、末尾のくだりは事実に反する。祖父が検事長になれなかったのは、公職追放されたからであり、笹川氏とは無関係である。

面白いのは、草鹿参謀長の父、つまり祖父の岳父となった草鹿丁卯次郎の経歴である。

息子の筆によれば、「日本の国に、カール・マルクスを紹介した始めての学者で」あり、「共産党の河上肇氏」の「仲間」で、

河上氏が「感激に満ちた手紙」を寄せたほどの進歩派だった(草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』光和堂)。

祖父としては困った話である。結婚相手の父親は著名な進歩派学者である。すでに住友本社理事となっていたが、

同僚の取調べを受けても不思議でないような経歴の持ち主である。

晩年、祖父は「ずいぶん取調べに苦労した」とこぼしていた。

逮捕した共産主義者から、「草鹿丁卯次郎先生から教わった思想だ。

あなたは岳父の論文を読んだことがないのか」とやり込められたこともあったそうだ。今から考えれば、笑い話である。

晩年の祖父は、こうしたエピソードを、実に愉快そうに喋っていた。

祖父の話を聞く限り、思想検事の取調べは牧歌的とさえ思える。特に「思想」事案に、その傾向が強かったようである。

現に、あれほど祖父を罵倒した『破天荒・人間笹川良一』も、祖父が「執拗な尋問を続けた」と記すだけで、

どこにも暴力を振るった形跡はない。戦後のドラマが描く、特高警察や思想検事の拷問シーンは、悪質な演出ではないだろうか。

国粋大衆党にせよ、「ひとのみち教団」にせよ、祖父が「執拗な追及を続けた」のは 、「思想」ではなく、純然たる刑事事件であった。

ただ容疑者を検挙し、正義の実現を図ったに過ぎない。少なくとも、祖父はそう考えていたであろう。

祖父は思想検事として奉職したが、それは祖父にとっても、不幸な時代であったに違いない。

祖父は平成2年、健康を害し88歳の生涯を終えた。その波乱に満ちた生涯とは対照的な、静かな最期であった。

特異な経歴から、世の非難を受けたこともあったが、私にとっては、最期まで敬愛する祖父であった。

祖父との想い出が詰まった京都の実家も、すでに取り壊され、この世にない。

三木今二。いかにも明治生まれらしい古風な名前である。私は祖父を「みききんじ」 と呼んでいた。

祖父自身が、そう呼称していたからである。親戚もみな、「きんじ」と呼んでいた。

それが戸籍上の呼び方でないことを知ったのは、祖父の死後である。祖父の葬儀では、日弁連会長の弔辞が代読された。

その中で、祖父が「みきいまじ」と呼ばれたとき、私は一瞬、耳を疑った。

そして代読した副会長が読み方を間違えのだと考えた。しかし、間違えていたのは私のほうであった。

驚いたことに、戸籍上は「みきいまじ」と表記されていたのだ。祖父が勝手に「みききんじ」と名乗っていたわけである。

最期まで不思議な男であった。

どこまでが真実の祖父であったのかは定かでない。

ただ、私の記憶の中では、三木今二は今でも「みききんじ」である。(『最後の理性』四谷ラウンド刊・所収)