庚申塔

馬喰坂上の庚申塔群
江戸時代の庚申信仰により、各地に庚申講があり、信仰の対象として庚申塔が建てられました。
訪問した坂など街道沿いに置かれ、現在も地元の人々によって護られています。
塔は、庚申塚、庚申供養塔とも呼ばれ、本尊、三猿等と塔を建てた人々の名前が彫られています。
本尊 青面金剛、猿田彦神
三猿 見ざる、聞かざる、言わざる

目黒区中目黒 馬喰坂上の庚申塔群

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名称地区標識の説明
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名称地区標識の説明
庚申塔 渋谷区 代々木(八幡神社福泉寺境内) 庚申の信仰は中国の道教思想に基づくもので、江戸時代盛んになり、村の辻などに庚申供養塔が建てられました。  庚申信仰は、六十日ごとにめぐり来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸とよばれる虫が出て天帝にその人の罪過を報告し、罪が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。  庚申塔や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行して夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。この人々によって庚申塔は建立されました。庚申塔の多くは青面金剛像が刻まれ、その下に三猿が彫られています。  ここにある庚申塔の年記をみると、宝永六年(一七九〇)、宝暦五年(一七五五)、寛政六年(一七九四)などと刻まれています。  
天狗坂付近の供養塔 渋谷区 猿楽町 江戸時代の民間信仰のひとつに庚申講[こうしんこう]がありました。六十日ごとに講中が集まって念仏を唱え、長寿を祈る行事で、その信仰の対象として庚申塔が建てられ、表面には青面金剛[しょうめんこんごう]、天邪鬼[あまのじゃく]、日月、三猿その他が彫ってあります。  また二十三日の夜集まって月の出を待つ講を廿三夜講といい、廿三夜塔を建てて信仰しました。講はのちにはレクリエーションの場に変わりました。  地蔵立像の供養塔には「左目黒道」と彫ってあり、道しるべにも利用していました。  これらの供養塔によって農村時代の信仰のすがたがわかります。 
鳩森神社の庚申塚 渋谷区 千駄ヶ谷 えとの庚申に当たる日を重んじ 身を慎んでこの日を過ごす信仰  中国の道教には六十年或は六十日毎にめぐってくる庚申の夜には三尸(さんし)の虫が睡眠中の人体からぬけ出て昇天するという信仰があった  この虫が天帝にその人の罪過を報告すると人は命を奪われるからこの夜は眠らないで善を行い身を慎まねばならないとした  これが中世以降の日本にも受入れられ現在でも庚申講として広く行われている  この庚申塔は享保八年(西暦一七二三)の庚申の日に建てられたもので庚申を「かのえさる」と呼ぶことから猿の信仰とも結びつき 更に猿田彦(天孫降臨の道案内をつとめた神)との連想から道を守る道祖神とも習合している 
十貫坂地蔵堂 杉並区 和田 ここに建立されている石塔は、元禄五年(一六九二)銘・正徳二年(一七一二)銘の庚申塔、享保二年(一七一七)銘の地蔵塔、建立年代不明の庚申塔一基と、地蔵塔二基の計六基があります。庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎み、諸善を行い、徹夜すべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には本尊を青面金剛[しょうめんこんごう]とし、不見[みざる]、不聞[きかざる]、不言[いわざる]の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。 
道標付庚申塔 杉並区 久我山 この庚申塔は、道標付庚申塔として、区内で最も古く、享保七年(一七二二)に造立されたものです。  庚申信仰は、「長生きするためには、庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して、庶民の間にひろまりました。  江戸時代には、ここに見られるような青面金剛を本尊として邪鬼を踏まえ、不見・不聞・不言の三猿、二鶏等が彫られるようになり、石塔を造立し、悪疫退散、村内安全等の祈願を行うことが盛んになりました。 
慈眼寺坂の笠付庚申塔 世田谷区 瀬田  
四天王寺庚申堂 他 大坂 日本最古と云われる庚申堂 
洗足坂付近の庚申塚 大田区 南千束 文化十一年(一八一四)に、品川の御忌講[ぎょきこう](御忌とは法然上人の忌日)という浄土宗を信仰する人々が再建したものである。背面の銘文から、延宝六年(一六七八)に森氏道円が願主となり建てた旧碑が、何かの事情で失われていたものを再建されたことがわかる。  この塔のような角柱型に文字を刻んだ庚申供養塔は、江戸時代後期によくみられる特色のものである。  また向かって右側面に刻まれた銘文により九品仏(浄真寺、世田谷区奥沢)への道しるべを兼ねたものであることがわかる。この地点が中原街道から浄真寺に至る旧道の分岐点に当たることは、古い地図からも確認できる。  江戸時代の民間信仰の様相を示すものとして貴重である。 
南町庚申通りの庚申尊 板橋区 南町 風雪に耐え、天変地異にも耐えてきた路傍の庚申塔は、寺院境内にあるのと違い、経も上げて貰えなくとも地元の人々を守って来たものです。  この庚申尊は、今を去る約二百七十年の昔、宝永五年十月、武蔵国豊島郡板橋村の大﨔の下に安置され、土地の者や遠隔の人々多数参詣されたとされております。庚申塔の正面に刻んである青面金剛は六臂の像であり、見ざる聞かざる言わざるの三猿を従えて立つ破邪顕正を、□願とする凛々しい御姿であります。又、右に日左に月、ニワトリ雌雄一対が刻まれております。庚申信仰は庚申待と言って、六十日毎にめぐり来る庚申[かのえさる]の日に村人達が、講元の家に集まり、佛家では帝釋天および青面金剛を神道では猿田彦神を祀り、庚申様の掛軸の前で、ひと晩中庚申の真言や般若心経を唱えて夜を明かし、一番どりが鳴くのを待って解散し、と言う祭りであったとされています。  この庚申尊は、大勢の人々や地域の守護神であります。□□に祀り、保存し、子孫に伝えて行きたいと思います。 
富士・大山道の道標と庚申塔 板橋区 志村 富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山へ通じる道です。この場所は中山道が富士・大山道が分岐する場所でした。  向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政四年(一七九二)に建てられたもので、正面には「是より大山道并[ならびに]ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(一八六〇)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり。練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。  この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和五十九年度に板橋区の文化財登録されました。 
袋村の庚申待供養塔群 北区 赤羽台 諏訪神社の社地には、袋村の人々が造立した七基の庚申待供養塔(こうしんまちくようとう)があります。庚申待供養塔は、庚申塔とも通称され、最初は村の各地にありましたが、神社が真頂院を別当とする袋村の鎮守なので、次第に現在の地に移設されました。  この参道には、最も右側にある塔を除いた計四基の青面金剛立像庚申待供養塔がありますが、これらは元禄十六年(一七〇三)一一月から天明五年一□(破損)月までの間に造立されたものです。いずれも、塔の中央には鬼を踏みつける青面金剛立像が刻まれ、両側面には、塔を造立した趣旨や造立年代が刻まれています。また、その下には塔を造立した袋村の人々の名前が刻まれています。 
十七坂上庚申塔 目黒区 目黒 江戸時代の農村では庚申信仰がさかんで各集落に講があり、その寄進で庚申塔が建立されました。  庚申塔には青面金剛(しょうめんこんごう)や三猿、年号、建立者名などが刻まれていて、村の歴史や人々の生活などを知るための貴重な資料です。  この庚申塔は前の十七が坂上にあるので「十七坂上庚申塔」と呼んでいます。  墓地の中でひと際目立ち、高さ2メートル余もある宝篋印塔型(ほうきょういんとうがた)の庚申塔は、寛永3年(1626)に建立されたもので都内でも古いもので菅沼一族8名の名があります。また、この塔の前の板碑型庚申塔には明暦3年(1657)の年号と、その下に17人の建立者名が刻まれています。その筆頭者に「権之助」の名前がみられますが「権之助坂」の名のおこりになった菅沼権之助でないかと言われています。  
宿山の庚申塔(小川坂付近の庚申塔) 目黒区 上目黒 江戸時代の農村では、庚申信仰がさかんで各集落に講がありました。60日ごとにめぐってくる庚申の日には、講の人たちが集まって青面金剛[しょうめんこんごう]、帝釈天[たいしゃくてん]、猿田彦[さるたひこ]などの神をまつり長寿や豊作を祈って飲食をともにしながら夜を明かしました。そして3年、18回の集まりを終えると、その供養や記念のために庚申塔を建立しました。  この3基の庚申塔は、もと小川坂上の五叉路付近に建てられていたもので、江戸時代前期から中期にかけての建立です。庚申講員60余名の名前が刻まれ、宿山とよばれていたこのあたりに60余戸の農家があったことがわかります。 
大円寺の庚申塔 目黒区 下目黒  
藤の庚申(なべころ坂付近の庚申塔) 目黒区 中目黒 なべころ坂付近の庚申塔 この2基の庚申塔は古くから「藤の庚申」と呼ばれています。昔、ここに藤の大木があったことからつけられた愛称です。今も碑の後ろに小さな藤の木があり、春には美しい花をつけます。  左側の駒形の碑は1m以上もあり、合掌六臂[がっしょうろっぴ]の青面金剛[しょうめんこんごう]と日月、二鶏、三猿の図柄が彫られています。また「為両親二世安楽也」という願文や造立された年を示す「貞享元甲子年十月下旬」(1684年)の文字が刻まれています。  右側の小さな板碑型のものは元禄元(1688)年の造立で「南無青面金鋼(剛)」と刻まれています。また、上部左右には日月が刻まれ、下部には「申ノ形」という文字がたてに3行ならべて彫ってあります。おそらく三猿を文字で表したものでしょう。 
馬喰坂上の庚申塔群 目黒区 中目黒 江戸時代このあたりの農村では庚申信仰がさかんであったようです。各集落ごとに講の人たちが当番(根がら)の家に集まって青面金剛[しょうめんこんごう]をまつり、長寿や豊作を祈って飲食をともにしながら、夜を明かしました。この4基の庚申塔はそれぞれ3年18回の集まりを終えて、その供養や記念のために施主名を刻み建てたものでしょう。 
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