湯を貰って体を念入りに拭くと、ようやく長旅の疲れが落ちた気がする。
外で食事を取ることは気が進まなかったので、酒場でラムと燻製の魚を買って部屋に持ち込んだ。
ランプの火でそれを炙りながら、ふとフロネを見ると桃色の髪を丁寧に梳いているところだった。
「焼けたぞ」
「うーん……」
「どうした」
「私、やっぱり、海嫌い……髪の毛ばさばさになるし、陽が強いし……」
「……」
思わず笑っていると「何で笑うのよ」と怒られた。
「いや……当たり前のことを言うもんだから」
「何よう」
「身だしなみに気をつけるんだなって」
「そりゃそうでしょう。変身後にも関わってくるし……何よりリーゼと一緒に居るんだし」
「俺は気にしない」
「私が気にするの」
頬を膨らませたまま、フロネは少女のような慎重さで髪を只管に整えていた。
リゼアスタは焼けた魚肉を歯で毟り取る。
――確かに味がいい。予想以上に硬かったが。
「……こんなんでいいかしら」
ようやく納得できる手入れが出来たようで、フロネはいそいそと椅子に着いた。
机の上は二人分の食事とランプとで一杯になっている。
「私も食べる」
「ほら、炙った奴」
「さっすがリーゼ。ありがとう」
フロネが一生懸命食べているのを横目で見ながら、リゼアスタはラムを煽った。
「情報交換」
「はいはーい」
先ほどまでの妖艶さとは一変して、彼女は実に乱暴に魚肉に歯を立てている。
「まずポーラーちゃんだけど。あ、ポーラーちゃんっていうのは」
「分かる、あの少女だろ? 何でもどこぞの船長の娘さんだとか」
「そそ。あの子はこの町の子供の一人ね。全部で二人しかいないんだって」
「二人しか?」
「子供が生まれたら、ここは危ないからって大陸に避難させちゃうんだって。少子化? 大変なんだってさ」
「ふうん……」
「で、もう一人がロー兄ちゃん」
「兄妹なのか?」
「そう呼んでただけで血の繋がりはなさそうよ。町長の弟の息子なんだって。名前はローランド」
「甥、か」
リゼアスタはまたラムに口をつける。
「二人とも大事にされてきたみたいだけど……結局、ロー兄ちゃんには会えなかったわ」
「会えないって、今どこに居るんだ?」
「皆教えてくれないのよねぇ、嬢ちゃんは心配しなくていいのって」
「つまり……」
「今回の問題に絡んでるんじゃないかなってね」
フロネはぺろりと舌を出した。
「聖印の気配がする。おそらく、地上には居ない。隠されているわ」
「……そうだな。俺の訪問も、何処へ行っても歓迎されていなかった。まるで話題に出すのを避けているようだった」
「そう、ありえない」
聖印持ちを町民全員で隠す理由が、確かにあるのだ。
不吉な何かを感じざるを得なかった。
「面倒な話よね。聖印、穢れた魔物、『災い』……何が出てきても大変なのは変わりないし」
「聖印持ちを探す、なんてことが在り得るとはな」
「どーせ」
フロネはリゼアスタが飲もうとしていたグラスを横取りする。
「『法王』は、分かってたんでしょう?」
「……どうかな」
「分かっていないはずが無い」
「そう、だな」
最強の修祓者。力の底が知れないその人は、未来まで見通している節がある。
もっとも、思い違いだろうが。
「だからリーゼ、貴方を遣わした。おそらくこれから良くないことが起きる」
「何を」
「私は信頼しているの。リーゼ以上の、あの強大な聖印の力を」
「……」
リゼアスタも頷いた。頷くことしか出来なかった。
「ねぇ」
「うん?」
「その為にも、ね」
彼女の細い指が、机の上に円を描いている。
「力を付けておきたいな、って。足りないかな、って」
「……」
リゼアスタは肩を竦め、「はっきり言え」とため息を吐く。
「血が欲しいの、いい?」
「ああ」
拒否するつもりは無かった。
「だが、此処は敵地も同然だ。――あんまり時間をかけるなよ」
「ええ」
リゼアスタは首筋を無防備に晒す。
――このやり取りを、今まで何度しただろう。
彼女を生かす為に。
彼女と生きる為に。
自分の我侭の為に。
彼女は席を立ち、リゼアスタに後ろから抱きつく。
少しだけ、潮の香りがした。
「力を抜いて」
「……」
首筋に鋭く痛みが走る。
もう慣れた痛みだ。
リゼアスタは後ろに手を伸ばして、彼女の桃色の髪を撫でる。
フロネは少し身体を強張らせ、しかし何も言わなかった。
聖印持ちは夢を見る。
寝て見る夢は全て過去だ。
今まで生きてきた過程を、寸分違わず見せ付ける。
覚えていないことを思い出せと、色鮮やかに見せ付ける。
辛いこと、楽しいこと、悲しいこと、愛したもの、全て。
夢を見ないのは、『休眠』の時だけだ。
それ以外、ぐっすり眠るなどありはしない。
――この日は、妹の夢を見た。
あの誕生日、聖印が刻まれたことをはしゃいで喜んだ妹。
「素晴らしい事だ」と、親が教えたままに喜んだラウラ。
無邪気な顔。
――それが何故か、自分にとっては悲しかったのだ。
「お目覚め?」
隣のフロネから額をつつかれた。
浅く頷いて、ベッドから起き出す。
久しぶりのまともな寝床で、フロネはご満悦のようであった。
「本日のご予定は?」
「乗り込む」
「ま、それしかないわよね」
身支度を整え、酒場に下りると、給仕の男がまだ震えていた。
「リーゼ、笑顔」
「俺のせいか」
「めめっ、滅相もございません!」
恐れと畏怖を混ぜ合わせた、強い否定。
「少し、出かけてくる」
「……あ、あのっ」
「ん……」
男は震えながら、「す、すみません……」と手を差し伸べている。
「我慢、出来なくて……。お、お会いできて、光栄です、修祓者様」
「ああ」
ごく普通の反応を、此処に来て初めて受けた。
リゼアスタはその手を握り返す。
男の身体は雷でも受けたように強張り、直に「ありがとうございますっ!」と礼をした。
そんな様子を、酒場の亭主が睨んでいる。
「ふうん」
フロネが呟いたのを合図にして「少し出てくる」とリゼアスタはその手を離した。
酒場の外に出ると、後ろから何やら怒声が聞こえてくる。
「あらあら」
フロネは楽しそうだ。
「修祓者に会ったらああいうのが普通なのに、何で怒られてるのかしら、ね」
「大方、ロー兄ちゃんだろうさ」
「そうね」
二人はまだ賑わう前の商店街を抜けて、町長の館までやってきた。
「ああ……ここは間違いないわねぇ」
フロネは賞金稼ぎの姿をとりながらも、眼を真紅に染めて館の扉を見ていた。
「でも、っと……」
そしてその赤を、すっと背ける。
「こっちの方かしら」
彼女が歩き出した先には、小さな倉庫が建っていた。
真新しい鍵が、木製の扉をしっかりと閉じている。
「……」
リゼアスタは錠前を摘み、「賢者は主に問うた。その道が正しく在るか否か」と呟く。
すると、彼の指先が仄かに発光し――
「わっ」
ぷちりと錠前は水飴のように千切れた。
「どうやったの?」
「熱した。ただそれだけだ」
「それだけって……」
フロネが唖然としているのを横目に、リゼアスタは残りの封を全て焼き切り、その扉を開けた。
中の空気はかび臭くなく、ここに頻繁な人の出入りがあることを告げている。
「……」
しかし、物があるだけで倉庫の中には誰もいない。
ただ、聖印の気配だけがする。
「んー……」
フロネの瞳の赤が、ほの明るい暗闇を凝視している。
「やっぱり……地下、か」
彼女のブーツが木箱を蹴る。
中身の入っていないそれはあっさりと場所を譲り、床の取っ手を晒した。
「ふっふーん、いいわねこういうの。何だか遺跡探索みたい」
「ロマン溢れるものじゃないがな」
取っ手を引くと、石造りの階段が現れる。
恐らく酒の貯蔵庫か何かなのだろうとリゼアスタはぼんやり考えた。
灯石が点々と下へと続いている。
「準備は」
「いつでも」
「よし」
リゼアスタ、フロネの順番でその階段を下ってゆく。
こんな場所で剣は振るえない。何か出たら聖印の力で何とかしなければならないだろう。
狭い場所ではフロネの方が圧倒的に有利だ。いざとなれば霧に変化してリゼアスタの前に躍り出ることすら出来る。
「……ん、明るい」
階段の先は直接広い空間に繋がっていた。
灯石のぼんやりとした光の中、ざっと見回せば酒樽や穀物が詰まれている。
恐らく潮風に弱い物を地下に避難させているのだろう。
その奥に――
「ひっ」
人影を見た。
「あらあら」
フロネが口元を手で覆う。
部屋の隅で震えているのは青年であった。
見た目の年齢はリゼアスタと同じくらいか、少し下か。
日焼けしていない白い肌が目を引く。
「そんなに怯えなくってもいいじゃない、ローランド君?」
「……!」
「やれやれ」
フロネは完璧に吸血鬼としての気配を抑えている。
だというのに、ここまでこの青年が怯える理由とは――
「あ、あなたが……」
「うん?」
青年は奥歯をがたがたと言わせて、リゼアスタを凝視している。
茶色の瞳から今にも涙が零れそうだ。
「修祓者、様……?」
「ああ。『炎の』リゼアスタ。修祓者であり、お前と同じ聖印持ちだ」
「う、ううっ……」
青年ローランドは頭を抱えて身を小さくして震えている。
それは修祓者を前にした人間の反応としては違和感しかない。
まるで穢れた魔物を相手にしているような、そんな恐怖。
「僕を……迎えに、来たんですか」
「ああ。法王の命でな」
「法王……」
青年は眼を背けた。
「ぼ、僕は行けません」
「何?」
「無理です! 僕は行けません!」
その細い体のどこからそんな声が、というほど大きな声が地下に響いた。
「怖いんです、外が……」
「外?」
「もうずっと、こうしてるんです……怖いんです、広い場所が、人間が」
「……」
リゼアスタとフロネは顔を見合わせた。
まさかこんなことを吐露されるとはお互いに思っても見なかったからだ。
「ねえ、ずっとって。どれくらい?」
「……十年」
「十年!」
フロネが「随分長いのねぇ」と顔を顰めるのを見て、内心リゼアスタは「お前にとっては短いだろうに」と思ってしまった。
恐らくそれが人間にとってどんな長さか『分かっている』のだろうが、それでも。
「しかし、ポーラーって子は、君の事を慕ってたみたいだが」
「ポーラーや叔父さんは尋ねてきてくれるんです、僕を心配して。外に出なくて済むんです」
「……なるほど」
「僕は、役に立てないんです……神様から与えられたこの聖印があっても、怖くて……怖くて仕方ないんです……!」
「それは分かるよ」
ぽろりと漏れる言葉。
「穢れた魔物との戦いは、何時だって死と隣り合わせだ。人前に出れば好奇の目が無数に向けられるし、集まってくるし、教会の恒例儀式は面倒だし、勝手に俺達に期待するし、かといって給料は見合ってるとは思えないし、そりゃあ多少食べなくても死なないが――」
「リーゼ、待って。それは多分、貴方の不満よ」
「……」
青年はようやく体の震えを止め、真っ直ぐにリゼアスタを見る。
「苦労されているんです、ね……?」
「ああ。聖印は面倒だからな、いろいろと」
「リーゼ待って。私が言うのもなんだけど、貴方それ言っていいことなのかしら?」
フロネが訝しげにしているので、「知ったことか」とリゼアスタは言ってやる。
「お前も分かるだろ? 聖印持ちになったら、長くは生きるがそれ以上に思うこともいっぱいあるんだ。先立たれるのは当たり前だし、訓練は四六時中続くし、娯楽に対しての感情が薄れていくし、さっきも言ったが食の楽しみも薄れるし、薄給だし、こき使われるだけで――」
「リーゼ、リーゼ! 戻ってらっしゃい、ちょっと凄いことになってるわよ」
「……」
「はい、息吸って。ここの空気、地下なのにすっごく澄んでるわよ。さあ、吸ってー吐いてー」
「……」
言われるままに呼吸を繰り返す。
「落ち着いた?」
「ああ」
深く頷くと、「何だか」とか細い声が聞こえてきた。
青年はじっとこちらを見つめている。
「想像しているのと、違いました」
「どう思っていた?」
「……えっと、もっと、神秘的、というか」
「自分をそう思うか?」
「そんな、まさか!」
「だろう? そういうことさ」
意識して、優しく微笑んで見せる。
「聖印持ちの先人として言っておくが、正直面倒なことばかりで危険なことばかりだ」
「え、ええ……?」
「でも、ここにいたらいつか皆いなくなった時、本当にどうしようもなくなってしまう。それは、きっと皆が望むことでも、お前が望むことでもないと思う」
「……」
「俺は他の奴等みたいに無理矢理連れて行ったりしない。あと一日、考えろ。明日、また来る」
「……」
ローランドは意外にもしっかりと頷いた。
きっと、今の現状を打破したいとは思っているのだ。
「あの子は――この島に残ると言ってくれたんです」
町長は俯いていて、その表情を正確に読み取ることは出来ない。
「私の仕事を見ていたいと。この町の人達にも好かれていて――でも十年前、この家から外に出れなくなってしまって」
リゼアスタとフロネは町長の屋敷で、事の顛末を聞いていた。
今の町長はとても小さく見える。頼りないほどに。
「何かあったのか」
「いえ。どうしてでしょうか、突然でした。ある日、玄関で足が動かなくなってしまって」
「誰かと喧嘩をしたとか」
「いえ。本当に、皆さん良くしてくださって。子供の少ない島ですから」
「……」
突然。
きっとそれは、何処にでもあるのだろう。
きっかけなど些細なことで、人間は前に進めなくなってしまう。
「まるで吸血鬼ね」
フロネがぽつりと言うのに、町長は更に身を小さくした。
「失礼だぞ」
「だって」
「いえ、いいのです。私共も恥ずかしながら、最初は疑いましたから。しかし、違うのです」
「でしょうねぇ」
フロネは分かって言っているのだ。
古い吸血鬼である彼女は、同族を見間違えたりはしない。
「……本当は、聖印が現れたことを喜ぶべきなのでしょう。しかし、どうしてもあの子が、外に出られるとは思えないのです」
「だから隠そうと」
「町の皆が賛成して、皆で隠すことにしたのです。もっとも、それが修祓者様に通じるなどと、皆心から思っているわけではないでしょうが、それでもローランドのことを、愛してくれているからこそ……」
「……」
それは痛いほど分かる。
でなければ、島民が一丸となれるわけがない。
この世界では『教会』、そして修祓者は絶対の存在なのだから。
「本当に失礼なことをいたしました……どんな罰でも受けるつもりです」
「いや、聖印持ちを隠したからといって、何か『教会』に不利益があるわけではない」
「しかし」
「本当に、何もない。気にすることは無いんだ」
「……ありがたい言葉です」
村長は頭を深く深く下げた。
「本人の意思に任せると告げてきた。もう一日待つよ」
「しかし、ローランドが無理だと言ったら――」
「置いていく。それだけさ。もう俺が関与する問題じゃない」
「……ありがとうございます」
フロネはリゼアスタを見て「本当にいいの?」と小声で問うた。
「法王に迎えに行けって言われたんでしょうに」
「連れて来いとは言われなかった」
「……ああ、そっか」
がっくりとフロネの肩が下がる。
「今日も酒場でお泊りで? この家の部屋を空けましょうか」
「いや。俺達が近くにいれば、ローランドも決められないだろう」
「そうですか……ではどうか、代金だけでも負担させてください」
「ありがとう」
素直に受け取り、外へ出る。
とたん、門の前に集まっていた町民達が、幾人も逃げていったのが見えた。
まるで猫だ。
「愛されてるわねぇ」
「そうだな」
ローランドがどう決意するか、今はまだ分からない。
今はただ待つしか出来ないし、それ以上何かするつもりも無い。
「いい子に見えたわねぇ」
町を歩きながら、フロネは呟いた。
「何を考えてるんだ?」
「あの子、私達の話をちゃんと聞いてくれたらいいのに」
リゼアスタは目を細める。
「期待するな、今まで何度も失敗したじゃないか」
「分かってるのよ。分かってるんだけど……」
フロネの表情は複雑だ。悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。
「リーゼの負担が、少しでも減ればいいの」
「俺は大丈夫だよ」
「リーゼ」
「嘘じゃない」
「……貴方がいいなら、いいのよ」
柔らかな栗色の髪が、隣を歩くリゼアスタにもたれた。
「でも心配くらいさせてね」
「ああ」
その後は港の近くで軽く食事を取った。
人々は大変恐縮し、修祓者であるリゼアスタに大変興味を示した。
握手や祝福を求めてくる者、遠巻きに眺める者、こそこそと噂をする者。
ローランドを見つける前とは扱いが雲泥の差だ。
――正常に戻った。
傲慢にもそう思ってしまった。
「……明日には、どうせ帰るのよね」
水平線に沈む太陽が金から橙へと変わっていく時間まで、二人は当てもなく町を巡った。
波打ち際に並ぶ二人は、傍目から見ればただの恋人同士に見えるのだろう。
「海を見るのも、今日で最後か」
「見たければいつでも来ればいい。こんな危険な場所じゃなくても、いくらでも海はあるだろ」
「そうだけど、そうじゃなくて」
フロネは右手を落日に翳す。
指の隙間から細い光が漏れる様が美しかった。
「思い出って重要じゃない? いくつでも覚えて、並べたいもの」
「お前がそれを言うか」
「あら」
フロネは笑った。
「『私』は、リゼアスタから血を貰った時に生まれたのよ」
「……そうか。そうだったな」
始まりはあの日。
それより前の全てを、フロネは捨てたと言っていた。
その言葉は多分、本当なのだろう。
「だから、一日一日しっかりと生き」
ぐにゃり――
「はっ……?」
突然、視界が歪む。平衡感覚が乱れ、身体が後ろに傾いた。
世界の色が失せる。
「フロネ」
歯を食いしばり、同じように傾いていく彼女の手を握った。
「……つうっ!」
自分の体重を使って、彼女を抱き寄せる。
その反動で、結局は背中から地面に倒れこんだ。
「リ、リーゼ」
「何か、変だ」
「私、も。変な力を、感じ、る……!」
まるで世界が崩壊するような、そんな恐ろしくも奇妙な感覚。
「『災い』? いや、それ以上の……くっ」
新たな痛みが意識を覚ます。
間違えようもない、聖印の強い痛み。
世界はようやく色を取り戻し、感覚が正常に戻る。
自分の心臓が恐怖で高鳴っているのを感じた。
「一体、何が……って、この感覚……聖印っ!」
フロネが起き上がるのと同時に、遠くの方で激しい水音がした。
「選ばれし者よ、こちらを見なさい」
ローランドがその声に震えながら顔を上げると、そこには中世的な顔つきの何者かが立っていた。
柔らかく何枚も布を重ねた、平民とは思えない姿。
よく見れば、足元は床についてはいない。それどころか、背中には鳥の翼が広がっている。
「天使、様……?」
「いかにも」
その声は臓に響く。
「ど、どうして天使様が僕の前に……!?」
ローランドは動揺する。
天使はその存在こそ世界中に知れ渡っているが、その姿を見たことがあるものなど何人いるのか。
「主より贈り物だ。受け取るといい、選ばれし者よ」
天使がすっとローランドに手を近づける。
そこに光を伴って現れたのは、長い白樺の枝だった。
「こ、これは……?」
「主は仰った。お前に足りない物は、勇気であると」
「勇気……」
「これはお前の勇気だ。さあ」
「……」
恐る恐る手を伸ばす。
指先が触れた刹那、その鼓動を感じた。
自分の心臓と同じ間隔、同じ音。
――この枝は、自分の一部なのだとはっきり分かった。
しっかりと握り、指でなぞって確かめる。
今までになく強い力が込められていることに、まるで玩具を与えられた子供の様に喜びを感じた。
「選ばれし者よ。もう直ぐこの地に『災い』が訪れる」
「わ、『災い』……!?」
「この海に住む者なら察しはつくだろう、かの物がどのような力を持っているか」
「……はい」
『災い』の姿を見たことはない。
しかしこの島は、長い年月の間それに虐げられてきた事実が伝えられている。
寝物語として、子供を躾ける言葉として。
「主はお前に期待している。勇気を見せなさい」
「……」
ローランドは『勇気』を握り締め、深く頷いた。
リゼアスタ達は痛みに導かれるようにして、島中心の山へと走った。
そこからであれば、島の全てが臨める。
「うわあ……」
フロネは顔を顰めながらそれを見ていた。
三角島の裏口――二人が侵入した浜辺の方向に、巨大な『触腕』が二本水面から現れている。
天目掛けてぬらぬらと動く様は、まるで海草のようだ。
「あれって、……アレよね、アレ。えーっと、アレよ」
「クラーケン」
「そうそう、それそれ」
まだ触腕しか見えていないが、それの長さだけでもリゼアスタの身長の何倍もある。
「……何しに来たんでしょうね? 魚の買出し?」
「馬鹿」
「じょ、冗談よ……私だって混乱することくらいあるわ」
「それは理解できる」
リゼアスタは自らの剣を背中から抜いた。
その目は既に避けられない戦いを見ている。
「勝てるの?」
「逃げてもいいが」
「冗談、私そんなんじゃないわ」
「俺もだ」
触腕の一本が勢いよく振られ、あの砂浜に叩きつけられる。
「あ、『銀馬』!」
「大丈夫だ、勝手に動く」
微かな駆動音。
その音が『銀馬』であることに気づいた時には、すでにその銀色の車体がリゼアスタの横につけていた。
「さて、あいつが姿を見せる前にお帰り頂きたいんだが、どうするか」
リゼアスタの聖印の力を全力で使ったとしても、本体を沈められるとは思えなかった。
聖印の力は集中力と体力を使う。
あまりに力を使いすぎると、我を失って精神を病んでしまう者もいる。
聖印の力は強大だが、反動がある――それは教えられても理解できない聖印持ちも多い。
皆、最初は自分を過信するのだ。
強い、と。
神の加護がある、と。
「――出るわ、本体が!」
フロネが叫ぶ。
両の触腕を砂浜に叩きつけ、波が浜に乗り上げる。
現れたのは無数の『足』と『眼』。
そして海が盛り上がって、大きく垂れ下がった『頭』が現れた。
「クラーケン」
その名前を、もう一度呼ぶ。
黒々とした眼はどこを見ているのか分からない。
しかし、確実にこの島に乗り上げようとしているのだけは分かった。
「仕方ないわねぇ……やるだけ、やってみましょう」
フロネが穢れた力を振るおうとした瞬間――
「お待ちなさい」
その声が二人の内に響いた。
衝撃のような、締め付けのような、抗えない感覚が二人の視線を空に向けさせた。
「……そんな!」
フロネは悲鳴を上げる。
リゼアスタでさえ、その姿を見て言葉を失った。
光を帯びた純白の翼を持つ、天使。
この世界に二人しかいない、真の神の下僕が二人の前に降臨していた。
「何故、天使がここに……!」
「我らは主の忠実なる手。主の意思を叶えるため、我らは遣わされる」
「神の意思……」
じっとりと、気味の悪い予感が纏わりつく。
冷や汗が背中を伝った。
「聖印に選ばれし者リゼアスタ、並びに血の証に選ばし者フロネ。両名、ここは新たな聖印の武勇を見ているがいい」
命令だ。
リゼアスタは息を呑む。
今までに感じたことのない――法王『煌きの』フォルカ以上の――力による圧迫感に、潰れそうだった。
フロネも恐らく同様で、彼女は苦しそうに浅く呼吸を繰り返している。
だが彼女の緊張は、法王を前にした時とは違う。
天使は聖印の力のように、穢れた魔物を害する力ではないのだ。
もっと強力で無慈悲で、それこそ『災い』に近い強大な力。
「新たな聖印――ローランド……!?」
軋む体を何とか御す。
山の中を駆け抜けていったのは、間違いなくあの色白の青年だった。
「リーゼッ!」
フロネの呼び声に、はっとする。
「あの子……さっきと違うわ、怖いくらい……!」
「聖印の力が発動しているのか」
何とか足を浜に向ける。
だが、次の一歩が動かない。
「――お前は!」思わず腹の底から怒りをぶつける。「あの聖印持ちが死んでも構わないのか!?」
天使は表情を変えなかった。
ただ一回、瞬いただけだ。
「感じないのか、リゼアスタ。あの選ばれし者の力を」
「……」
「それを態々尋ねる程、お前は愚かではないはずだが」
「分かったような口をっ!」
「この世界は主が創造した真実しか存在しない。リゼアスタ、お前もまたその真実の中にいるならば、分からないはずがない。それが真実だからだ」
天使はゆっくりと天に手を伸ばした。
「刮目せよ。ここに奇跡が起こる、その瞬間を」
朗々とした声に、抗う術が無かった。
――それは、とてつもなく大きかった。
ローランドは紫の空の下、駆けて行く。
久しぶりの外を踏みしめているのだと思うと、緊張で胸が張り裂けそうだった。
外を見ることはあっても、走ることなど十年ぶりだ。
それでも、息は上がらなかった。
恐らく、聖印の力なのだろう。
自分に与えられた力が、自分を奔らせているのだろう。
そう思いながら、白樺の枝を手に、走る、奔る。
「クラーケン!」
砂浜に上陸しようとするそれを、真正面から見つめる。
自分の身長と同じ位の大きさの眼が、こちらを見つめているのが分かった。
ぬるぬるとした、人間のそれとはまったく違う眼。
不思議と怖くは無かった。
――勇気を貰ったからだろうか。
ローランドは白樺の枝の切っ先を突きつける。
「……絶対に!」
振り上げられる巨大な触腕。
それだけで強い風が巻き起こり、吹き飛ばされそうになる。
怖かった。
でもそれ以上に、自分が立たなければ、自分を愛してくれた町の人間が死ぬのだと理解していた。
だから、自らの聖印の力を解放する。
「ああああああああああああっ!」
聖印が刻まれた背中を中心として、体が急激に熱くなる。
己の背中を突き破って何かが現れ出でた、そんな錯覚の後――
「グオォっ!」
クラーケンの体は豪快な打撃音と共に、海へと吹き飛ばされた。
「はっ」
一体何が起こっているのか理解できなかった。
ただ分かっているのは、聖印の力が発動していること、そして、ソレが後ろに立っていること。
「……これは」
振り返り、見上げる。
ソレは白い半透明の存在であった。
見上げれば首が痛くなる程の大きさは、昔話に出てくる伝説の魔法の巨人を思い出させる。
ソレが突き出している腕をゆっくりと戻しているのを見て、ローランドは胸が高鳴った。
――これは、自分の力なのだ。
「グォオ」
本体は沈みながら、しかし触腕が二本同時にローランド目掛けて振り下ろされる。
「はぁああああああっ!」
白樺の枝を振り、己の力を御す。
背後の巨人は風を巻き起こしながら動き、左右の腕で触腕を弾いた。
「であああああああああああっ!」
聖印の力が膨れ上がる。
巨人は右の触腕を掴み、両の手で引き千切った。
ぶちぶちと耳に障る音がし、青い体液が雨の様に落ちてくる。
「グモォ」
恨み言のような、低い鳴き声。
クラーケンは慌てて巨人を振り払い、海へと逃げ込んだ。
暫くの間、海はまるで生き物のように荒れたが、それもやがて収まる。
何事も無かったかのように。
「やった――」
煌々と輝き始めた月の下、ローランドは白樺の枝を握り締めた。
「僕が、守ったんだ。皆に、恩返しできるんだ……!」