「わあお……」
フロネの感嘆の呟き。
リゼアスタもまた、その力に驚愕を覚えた。
土煙と旋風を巻き起こしながら存在する、巨人。
聖印の力で作られたそれは半透明でありながら、しかし強烈な存在感を二人に見せ付けていた。
「これぞ奇跡の業」天使が口を開く。「お前達と同じ、美しい力だ」
「あれが?」
思わず聞き返してしまう。
天使は笑った。
今まで表情を変えることのなかった大いなる存在が、はっきりと口角を上げて笑った。
「言ったはずだ、それを態々尋ねる程、お前は愚かではないはずだと」
「……お前、まさか!」
風が巻き起こる。
天使が羽ばたき、高く飛び立っていた。
「我は天使デセスペランサ。主の望みを叶える忠実なる僕。故に、我らはお前達に期待する――失望させてくれるな」
「まっ――!」
伸ばした手は何も掴まない。
月下に光を残して、天使は消えた。
「くそっ」
「ね、ねえ、リーゼ」
フロネが深く息を吐きながら、恐る恐る話しかけてくる。
「あの天使の言う事はむかっとするけど……それでも、私達と同じ、とか言ってて、もしかしたら」
「フロネ」
リゼアスタは横に首を振る。
「違う」
「え?」
「あいつは、そんな甘い事を言ったわけじゃない……!」
感情の高ぶりに、聖印が疼く。
「あの青年どころか、フロネの気持ちまで踏み躙るなんて……!」
「リ、リーゼ……?」
「……」
言葉を紡ぐのさえ辛かった。
天使とは神の使いだ。しかし、その実体はこの世界に争いの種を蒔き続ける者に他ならない。
フロネだって、それは分かっているだろうに。
でも、期待せずにはいられない。
長く、二人ぼっちだったから。
――だからこそ、許せそうにない。
「行くぞ、フロネ」
フロネの手を取る。
その細い指を、愛おしく、確かめる。
「……ええ」
手を強く握り返された。
それだけで十分だった。
白樺の枝が鳴動している。
世界が光り輝いているように見えた。
あんなに怖かった世界が、今は自分の全てを祝福しているような気がした。
世界は美しかった。
――これも全て、神が導いた運命か。
鼓動が早くなる。
聖印が刻まれ、天使と会合し、『災い』を押し返し、今自分は幸運な立場にいるのだ。
「早く行かなきゃ」
ローランドは自分に言い聞かせる。
早く自らが成すべきことを成さねばならない。
歩き慣れない林の中を、必死に前に前にと進んでいく。
「はぁっ……はぁっ……ははは、やだな、体力全然ないじゃないか……」
自嘲する。
これから鍛えていかなければいけないのだろう。
聖印の力ももっと訓練しなければならないのだろう。
あの、『炎の』のように。
『神の為に』やるべきことがいっぱいある。
さしあたっては、長く歩く体力が必要だろう。
「ふぅ……あっ」
額に浮かんだ汗を拭いながら顔を上げると、草が揺れていた。
「ローにーちゃん」
心配そうに駆けてきたのはポーラーであった。
見慣れた顔に、安心する。
「ポーラー! こんな所まで来ちゃ駄目だよ」
「だって、ローにーちゃんが……」
少女はもじもじして、真っ直ぐにローランドを見れないようであった。
「……もしかして、心配してくれたの?」
「うん」
「ご、ごめんねポーラー……本当に、ありがとう」
心配されているのだ。
彼女だけではない、この島の住民皆から。
その事実が胸に刺さる。
「もう、おそと、だいじょうぶ?」
「大丈夫さ」
笑ってみせる。
そうすると、ポーラーも恥ずかしそうにはにかんだ。
「……そうだ、ポーラー!」
ローランドはその小さな手を握る。
「『祝福』してあげるよ!」
「しゅくふく?」
「そうさ、ほら、修祓者様がしてくれるやつだよ」
「……ローにーちゃん、できるの?」
嘘吐きを見る目で、少女はローランドを見つめる。
「で、出来るよ! 天使様が下さった、これでね」
そう言って白樺の枝を差し出した。
「きれい」
「だろ? さ、やってあげるよ」
「うん!」
少女は小さな手で祈りを捧げる。
聖女のような子だと、常々思う。
「えっと……そう、主よ。この者に光をお与えください」
白樺の枝の光がいっそう強くなる。
月の下、静かな風の音。
二人きり――の、はずだったのに。
「っ! ポーラー!」
祝福を中断し、その小さな体を引き寄せる。
聖印がその気配を敏感に察知していた。
闇と風とを切り裂いて現れたのは――妖艶な桃色。
「あん、気づかれちゃった?」
夜を震わせる、女の声。
「お、お前は……!」
腕の中の少女を、きつく抱きしめる。
「吸血鬼……!?」
「刻まれたばかりとはいえ、さすが聖印持ち、か」
くすくすと甘い声に、ローランドは恐怖を覚える。
――まさか、『災い』だけではなく『穢れた魔物』まで現れるなんて。
この島の運命は、なんて過酷か。
「……どうしたの?」吸血鬼は艶やかに笑う。「まさか、怯えてるの?」
「くっ」
流石に『災い』と違い、真っ直ぐに殺意を向けられると体が動かなかった。
それでも、
「ポーラー……!」
彼女だけは、逃がさなければ。
その手段を探っていると、「ローランド!」と鋭い声が飛び、炎が二人の脇をすり抜けた。
「はっ!」
それはいとも容易く吸血鬼に避けられてしまったが、距離を取るには十分な効果があった。
「リゼアスタさん」
ローランドはぱあっと顔を明るくさせる。
「ポーラー!? なんでこの子がここに」
リゼアスタが剣を抜こうとするのを、ローランドは制した。
「お願いします、リゼアスタさん。ポーラーを、安全なところに」
「しかし」
「お願いします。ここは、僕の島なんです……『僕の人々』なんです」
「……」
『炎の』は深く頷き――とても悲しげな顔をしていた――少女を抱き上げた。
「ローランド」
「はい」
「お前、どうしてこんな」
「……恩返しするためですから」
ローランドは無理して笑う。
しかし、はっきりとした自分の意思を告げた。
「『僕が彼らを祝福して、完全な幸せに導くんです』」
「……」
リゼアスタはもう何も言わなかった。
闇に紛れるようにして白い聖職者の胴衣が見えなくなると、ローランドは深く息を吐く。
恐怖は既にない。覚悟を決めたからだ。
「……ねぇ、ローランド」
吸血鬼が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「貴方、何のために私と戦うの」
「は? だってお前は吸血鬼だろ――僕は、聖印持ちだ」
「ここで逃げたってリゼアスタがいるでしょうに」
「吸血鬼が目の前にいるのに、殺さない聖印持ちがいるか!」
「……リゼアスタは、もう最初から違ったけどねぇ」
落胆の表情。
その真意が分からずに、ローランドは苛立つ。
「もう、お喋りは終わりだ……か、覚悟しろ……!」
白樺の枝を振り上げ、青年はその力を解放する――
聖印の力が発動したのを感じ、リゼアスタは奥歯を噛んだ。
――フロネが簡単に負けるとは思えないが、早く合流しなければ。
小脇に抱えた少女は「うー」と唸ってばたばたと暴れている。
「大人しくしろ」
「うー。ローにーちゃん、ローにーちゃん……」
「……」
リゼアスタは進行方向を変える。
町ではなく、島の中央へ。
『銀馬』の傍に彼女を降ろし、「ここからなら兄さんが見えるだろう」と呟いた。
「……」
ポーラーは何か言いたげに、リゼアスタを見上げていた。
その視線に耐えられず、彼は口を開く。
「これから、吸血鬼を倒してくる。ただ……無事に済むとは限らない」
「……うそつき?」
リゼアスタは、瞼をぎゅっと強く閉じた。
――もう、何度こうしてきたか。
「……ああ、嘘吐きだ」
「……」
少女は、拙く祈った。
それが何に向けられたものか、分かりたくなかった。
リゼアスタは逃げ出すようにして走る。
月の光は頼りなげで、リゼアスタの足元は暗闇でしかない。
――幾度となく繰り返した『嘘』だ。
唇を噛みながら、彼は思う。
――『嘘』ばっかりの人生だ。
無様に生きてきた。
聖職者や修祓者は、自分の一面でしかないことを自覚していた。
本当は――
「フロネっ!」
リゼアスタは、その名前を叫ぶ。
彼女は一匹の狼に変じていた。
だが、銀色であるはずの毛並みは赤い斑に塗れて、今は地に力なく伏せている。。
――これほどの力とは。
起き上がろうとするフロネに巨人の腕が振り下ろされる刹那、リゼアスタはそこに割り込んだ。
「ローランド!」
「へ?」
巨人の動きが止まる。
彼はその足元で、「な、何で?」と目を白黒とさせている。
「何で吸血鬼を庇うんです!」
「こいつがお前に攻撃を仕掛けたか? ただ、話したがっただけじゃないか?」
「……!」
ローランドははっと表情を驚愕に変えたが、やがて笑い出す。
「舐められてる、って言いたいんですか? 自分の方が強い、と?」
「そうじゃない」
「じゃあ何だって言うんです!」
ローランドからはっきりと苛立ちの感情を感じた。
「僕にはやることがあるんです、この島の人を幸せにする事です! 恩返しがしたいんです! その為には、『穢れた魔物』だろうが『災い』だろうが、障害になる物は全部僕が排除するんです! それを、何故修祓者である貴方が邪魔をするんです?」
「それが、出来ると本当に思っているのか?」
「出来ますよ!」
笑い声。
「だって僕は聖印を刻まれたし、天使様が期待してくれているだけの力があるんですから!」
白樺の枝が光り輝いている。
いっそ不気味に。
神造物が、彼の聖印の力を高め、『暴走させていく』。
「邪魔するなら、貴方も敵だっ!」
襲い掛かってくる巨人の腕は、まるで竜巻のような密度の高い力を感じられた。
フロネを担いで飛び退くのは得策ではない。
ならば、力には力しかないだろう。
剣を抜くのと同時に、リゼアスタの体が純白の光に包まれる。
「主よ、我を護り給え!」
剣を通じて放たれた聖印の力が炎の盾を形成する。
風を帯びた巨人の腕がそれを粉砕する勢いで突き当たった。
「ちっ――!」
目測を誤ったと思わざるを得ない。
リゼアスタ自身の力は、間違っても弱いものではないが防御には向かないのだ。
特に、相手が単純な物理攻撃である場合に顕著になる。
ローランドの力は風の力を用いていると思っていたが、実際にはそれを補って余りある単純な腕力だった。
特殊な金属であるノア鋼で作られたリゼアスタの剣が、力に耐え切れず悲鳴を上げて震えている。
「っ……!」
避ければ無傷で済むだろう。
だが、後ろに倒れているフロネは、この力に耐え切れない。
それほどまでに、強い。
「何故吸血鬼を庇うんです!」
力の本流の向こうから聞こえる、ローランドの声。
「敵じゃないからだ」
「敵じゃない? 冗談を言ってる場合ですか!」
「冗談じゃないんだよ、ローランド……!」
リゼアスタの瞳が、青から白へと変化する。
それと同時に、聖印の力が少しだけ拳を押し返した。
「貴方は修祓者でしょう!? 敵が分からないなんて、穢れているんじゃないんですか!?」
「随分な言い方だな……だが、あいにく『まだ』穢れてはいない……!」
「なら、おかしくなってるんですよ――神は聖印に、悪しき者を滅ぼし、人を導く役目を与えているんですから!」
「そんなもの……」
「だってそうでしょう? 世界はそうして成り立っているって、『教会』は声高に言うし、実際に神の奇跡があるじゃないですか……どうして『穢れた魔物』と戦わないんです!」
「同じ物だからだ」
「同じ? 神に愛されている人間と、倒されるべき存在が、同じ? 面白いことを言うんですね……」
ローランドは心底不思議そうに「もういいですよ、貴方はやっぱり、穢れているんだ」と頷いて、白樺の枝を再度リゼアスタに向ける。
とたん押しかかる、巨人の力。
それに耐えうるだけの力を放出することは出来ない。
「――ッ!」
聖なる力が、破裂音を立ててリゼアスタの力を剣ごと圧し折った。
――疑ったことは何度もあった。
自分という存在が、聖印を受けた人間の中で、どれだけ異質なのか。
いや、人間の中にあってですら、自分は異質なのだと理解していた。
だからこそ、リゼアスタは他者に問う。
この聖印が穢れているのか。
どれだけ世界に疑問を持とうと、それが本当に正しいのかどうか、この長い生の中で考え続けている。
答えを出しても、少しすればまた迷う。
その度に、彼女は笑うのだ。
二人ぼっちだと。
お互いの感情が、この世界で全てだと。
それを、それだけを信じて突き進んできた。
そして未だ尚、彼の聖印は光を失わない。
それがどうしてなのか、知る術はない。
唯一つ、正しいと言えることは。
この聖印が翳るまで、がむしゃらに生き続けなければいけないという、聖印持ちとしての本能だけだ。
「リーゼ……リーゼ! リゼアスタ!」
声に意識が浮上する。
右目が上手く開かず、左目だけで彼女を見ていた。
顔をぐしゃぐしゃにして泣く、その顔を。
赤い目を更に赤くして、桃色の髪を乱れさせて自分の名前を呼ぶ、その顔を。
「……聞こえてる」
「リーゼ……!」
フロネは声を喉に詰まらせながら、リゼアスタの名前を呼んで縋った。
「……気絶していたのか、俺は」
「さっきまで心臓止まってたんだから……!」
「それは……すまない」
「謝らないでよ……!」
まるで子供のように泣くフロネに「心配するなって」と呟く。
「聖印の力じゃ、頭をばらばらにされなきゃ、死なない」
「そういうことじゃなくて……そうことじゃないの!」
自分の体を確かめろと促されて、右側が上手く動かないことが分かった。
どうやら腕も脚も骨が折れているらしい。
「……ははっ」
どうしようもなく笑えてくる。
「俺、自分の事を強いと思っていた」
「随分強いわよ、リーゼは」
「違うよ。俺は……お前がいないと、駄目だ。近くたって、遠くたっていい。でも、いなきゃ、駄目だ」
「傍にいるわ」
「守れなくてごめんな」
「いいの。守られるような女じゃないもの」
柔らかな桃色の髪が頬に落ちた。
リゼアスタは左手で彼女の顔を撫で「少し離れていてくれ」と穏やかに引き離した。
大きく息を吸い、言葉を紡ぐ。
「主は嘆いた。その月の切っ先を、震える粒を、零れ逝く影を」
聖印が発動し、リゼアスタの身を包む。
痛みを感じなかった右半身がずきりと痛み、しかし直ぐに楽になった。
彼自身が苦手とする癒しの術であったが、極限状態の今は不思議と上手く作用した。
右側が動くようになって、ようやく立ち上がる。
「……ん」
どうやら崖下に突き落とされたようであった。
もう少し吹き飛ばされていれば海の中だっただろう。
粉々になった長剣の破片が、まるで涙のようにきらきらと光っていた。
「俺はもう大丈夫だ。フロネ、お前は――」
「……」
彼女は小さくため息をついて、銀のドレスの下の左足をリゼアスタに差し出す。
聖印の力で黒く爛れた足は、回復には時間がかかるだろう。
「走れないわ。――持ってくれる?」
「ああ」
もう、やることは一つしかない。
「俺の名前の通りに」
「私の名前の通りに」
同時に呟かれた言葉は、決意の表れ。
月は空の一番高い所に鎮座していた。
海は穏やかに呼吸を繰り返し、木々はささやかな風に揺れていた。
静かだった。
先ほどまで『災い』が暴れ、吸血鬼が暴れていたというのに、島全体が寝静まっているようだ。
否、死んでいるかのようだった。
「間に合うわけが無かったか……」
リゼアスタは奥歯を噛む。
港には人が溢れていた。恐らく、島民全員なのだろう。
彼らは一斉に祈りを捧げている。
巨人の肩に乗る、ローランドに向かって。
「使徒にしてしまったのね、全員」
フロネの声が重々しい。
――この島の人を幸せにする事。
その幸せが、この結果だ。
使徒は自分を持たない。
ただ修祓者の命令を聞き、それ以外は『健やかで正しい精神』と『丈夫な体』で生きているだけの存在。
人間が憧れる祝福は、実際にはただ人間らしさを奪う行為だ。
それを、リゼアスタは憎む。
吸血鬼の『従者』と何も違わない。それなのに、人々は皆ありがたがる。
表情を怒りに歪めて、リゼアスタは歩を進めた。
跪く人々の中には町長もいたし、酒場の給仕もいた。
小さな島だ。きっと全員の顔を見たに違いない。
その事実が、リゼアスタの心情を紅く染める。
ローランドはこちらに直ぐ気づき「えっ、まだ生きてたんですか……」と声に驚愕を滲ませた。
「修祓者はあれじゃ死なない。『教会』で学んでないから、知らないだろうがな」
ローランドはもう、忠実な神の僕だ。
これからもっと多くの人間を使徒にし、穢れた魔物を殺すのだろう。
幸せの為に、狂っていくのだろう。
争いを求め、憎しみを生み、自らの知らないところで悲しみを膿むのだろう。
その前に――殺す。
リゼアスタは背負っていたそれを構えた。
フロネの変化した、赤い紅い大剣。
穢れた力が、握るだけで彼の手を傷つける。
「まだそんな力を持っていたんですね」
「切り札は最後まで取っておく主義だ」
「そうですか……」
ローランドはくつくつと笑う。
「これから『帝都』に向かおうと思っていたんです、『法王』に顔見世をしなければいけないんだなって思ったので」
「お前はここで殺す。力に溺れた聖印で、わざわざ聖下の目を汚すこともない」
「……言いますね!」
巨人がむくりと立ち上がり、使徒達から「おお……」と感嘆の声が漏れた。
「お言葉、そのままそっくりお返ししますよ。穢れた聖印は、ここで必ず殺します」
「出来るものなら――やってみろ!」
リゼアスタは地を蹴る。
巨大な剣を掲げているとは思えないほどの跳躍で、立ち塞がる使徒達を飛び越え、踏みつけ、巨人に近づく。
「ふん」
突風が吹きつける。
空中でそれに煽られても尚、彼の動きは止まらない。
「進んで、リゼアスタ」
剣から放出される穢れた力が、リゼアスタの移動の全てを補助しているのだ。
「なら、これでどうだっ!」
巨人の腕が振り上げられる。
しかし、今はそれも止まって見える。
リゼアスタの目には遅すぎるのだ。
「はああああああああああっ!」
苛烈な炎の力を剣に纏わせ、腕が振り落とされる前に肩口に一閃を加えた。
雷が落ちたような音が闇を席捲し、巨人の腕は霧散する。
「なっ」
「お前は分かっていない――修祓者が、どんな存在なのか。聖印が何なのか」
「……そんなもの!」
右手が再生を始めたかと思った刹那、左腕がリゼアスタに向けられた。
しかし「待って、足よ!」という声に大きく飛びのいた。
巨人の足が振り上げられると、嵐の様な風が近くにいた多くの使途を吹き飛ばす。
彼らはしかし、何も言わない。
反応しろと命じられていないからだ。
「……」
息を整え、大剣を握りなおす。
火傷の様な痛みは、二の腕まで侵食を始めていた。
「ああっ、何でそんな顔をするんです!」
ローランドは目を見開いてリゼアスタを見下ろしている。
その表情に、もはや気弱な面など残ってはいない。
「どうして僕を哀れに見るんですか!? 僕は間違ったことなんてしてないのに、間違ってるのはそっちでしょう!?」
「……」
黙ってしまったリゼアスタに代わり「馬鹿ねぇ」とフロネは声を上げた。
「哀れなのよ、アンタが。結局神に踊らされてるだけで、自分の求めている物、何にも手に入ってないじゃない」
「何ですって」
「これが――人の幸せって言えるの?」
剣がぐるりとリゼアスタの周りを指し示す。
そこには何もせずに立っている人々と、吹き飛ばされても何も言わない人々しかいない。
ローランドを心配していた者は、もう存在していない。
「ああ、なるほど。確かに、幸せじゃない、か」
彼は考え込み、思いついたように白樺の枝を振った。
「皆、手伝って」
小さな声。しかしその言葉はしっかりと使徒達に届いていた。
「うおおっ!」
口々に叫びながら、一斉に使徒達はリゼアスタを捕まえようと我先にと群がった。
「リーゼ」
フロネが何か言いかけたが、その前に修祓者は剣を振っていた。
容赦なく、慈悲も無く。
穢れた力を帯びた剣は、人々を紙切れのように斬り裂いていった。
「賢者は言った。月が地を照らす時、主は人の仔の天命を定めているのだと」
その体から血が零れ出る前に、リゼアスタの炎が白い灰にしていく。
「ならばと愚者は問う」
聖典の言葉を紡ぐ度に、己の聖印の力が強くなっていく。
「主は陽が地を照らす時、我ら人の仔を見捨てているのかと」
向かって来た者、全てを斬り捨てた。
たちまち広場は静かになる。
「……これが、人々の幸せか?」
聖印の力の行使によって白くなった瞳を、ローランドに向ける。
彼は使途を失ったことより、リゼアスタの圧倒的な力に恐怖しているように見えた。
「ど、ど、どうして……そんな顔で、人が斬れるんだ?」
「使徒はもう人間じゃない。哀れな聖印の人形だ――だからっ! 俺は斬る!」
リゼアスタの激昂に、剣がよりいっそう紅く脈打つ。
同時に、手から血の霧が噴出す。
穢れた力の浸食が肩まで痛みを走らせていた。
「どうしてそんな馬鹿なことを」
ローランドはしかし、表情を引き締めて二人を睨みつけた。
「神に逆らって何になるって言うんだ。今のままで皆幸せなのに、貴方がいるから変になるんじゃないか!」
「否定はしない。でも……もう十分、可笑しいだろう?」
一歩を踏み出す。
しかし、先にローランドに対峙したのは少女であった。
「ローにーちゃん!」
彼女は転がるように現われ、ローランドを見上げて祈っていた。
「ポーラー」
「どうして、こんなこと、するの」
「どうしてって――ポーラー、悪いのはそいつなんだよ、穢れてるんだ!」
「だって」
ポーラーは目を瞑る。
「ローにーちゃん、なんにも、うれしそうじゃない」
「……!」
刹那、
「危ない!」
フロネが警告するも間に合わず、幼い体は巨人の手に弾き飛ばされた。
「ポーラー!」
心臓が跳ねた。
一瞬の出来事だった。
リゼアスタへの攻撃よりも早い攻撃――それが、ローランドの苛立ちの強さであることははっきりしている。
「嬉しいわけないだろ……? だって、こいつら殺さなきゃ、世界が、神が危ないんだから……喜んでられないだろ……何言ってんだよ、こいつはぁ!」
「ローランドォオオオオオオ!」
リゼアスタは飛び掛る。
紅い大剣を振りかざして。
「はぁっ!!」
ローランドは巨人の全てを盾にしたが、所詮聖印の力だ、フロネの強大な穢れた力に勝てるはずがない。
真っ二つに斬られ、蒸発した巨人を突き破り――
「終わりだ、ローランド」
逃げるローランドの心臓を後ろから突き刺した。
「がぁっ!?」
しかし心臓を貫かれて尚、彼は剣を振り払って、地に倒れこんだ。
「はぁっ……あ、熱い……ああぁっ!」
「俺達に、穢れた力は、毒だからな。お前は、知らなすぎたんだよ」
リゼアスタは跳ねる心臓を静めようと、何度も呼吸をする。
「どうして……どうして……穢れないんだ……神は、何で、……なんでぇ」
「さあな……『あいつ』に直接聞いてくれ」
大剣を逆手に持ち、無言で打ち込む。
「……ッ!」
喉を貫かれ、ローランドは苦しみの声を出すことも適わなかった。
「君に、光あれ」
リゼアスタはそう呟いたが、彼の体を蝕んだのは炎ではない。
真っ黒な力の本流がローランドの全てを喰らい尽くし、血一滴残さず掻き消した。
「……」
リゼアスタは討伐の余韻を断ち切り、彼女を探す。
「ポーラー……」
少女は積み上げられた漁具の中に転がっていた。
小さな手足は衝撃で曲がっていたが、まだ息がある。
「くっ……」
真っ赤に爛れた手を彼女に差し出す。
しかし、その手に触れるものがあった。
「フロネ……」
彼女は本来の姿に戻り、リゼアスタの腕を止めていた。
「リーゼ、この子は貴方の癒しの奇跡では助からない」
「……」
「助ける方法は二つあるわ」
フロネはリゼアスタの耳に口を近づけ、残酷に告げる。
「貴方が彼女を使徒にするか、私が彼女を従者にするか」
「……っ」
「そうすれば彼女の体は正常になる。どうする? 貴方が望むなら、私は何でもする」
「……」
リゼアスタは考える間もなく、少女の小さな体を抱いた。
「ポーラー」
「……ん」
少女が潤んだ目を開けた。
「せーしょくしゃさん」
「分かるのか」
「うん」
少女は目を瞬かせ、「ローにーちゃん」と呟いた。
「……」
二人は答えられない。何を答えても、残酷だと気づいていたからだ。
「どうして飛び出してきた……?」
「ローにーちゃんが、かなしそうだった」
「ポーラー……」
「だって、パパも、そんちょーさんも、みいんな、かなしそうだったから」
「……」
ポーラーは体を揺らして、「せーしょくしゃさん」と力なく呟いた。
「なまえ」
「俺の……?」
「いのる、なまえ」
「……」
リゼアスタは、告げる。
本当の名前を。
「『聖者殺しの』リゼアスタ」
「……せーじゃごろしの、リゼアスタ」
少女はその意味を正しく理解したのだろうか。
ポーラーは小さく祈りの言葉を述べ、沈み行く月を眺めながら、逝ってしまった。
敬虔な信徒であった事が、胸に刺さる。
「……リゼアスタ」
「分かってる。分かってるよ、フロネ……」
懐からロザリオを取り出し、彼女の胸の上に置いた。
「どうか、安らかに」
彼らに祈る先などない。
だから、彼女の安眠だけを願った。
「……あああああああっ!」
堪え切れず、リゼアスタは吼える。
自らの内の全てを吐き出したくて仕方がなかった。
守れなかったことが悔しいのか、純粋だった少年を誑かした天使が憎いのか。
とにかく全てを吐き出したかった。
長く慟哭を続ける彼を、フロネはそっと抱きしめる――
海は穏やかだった。
来る時に感じていた『災い』の痛みは無く、抱えていた悩みも無くなっていた。
「リゼアスタ」
フロネが声をかけてくる。
「何だ」
「何だ、じゃなくて。お願いだからぼーっとしないで」
今『銀馬』の把手を握っているのはフロネであった。
穢れた力を受けすぎたリゼアスタは把手を握ることが出来ず、仕方なくフロネが制御することになったのだ。
「上手いもんだ」
「煽てたって何もならないから!」
初めての制御でフロネは文句ばかりだった。
そんな彼女を見ながら、リゼアスタは目を瞑る。
――また一つ、聖印を消した。多くの犠牲を孕んで。
「……もっと強くならなきゃな」
「昨日からずっとそればかりよ、リーゼ」
「強くなりたいんだよ」
「神を殺せるくらい?」
フロネは冗談めかして言ったが、リゼアスタは「それくらいだな」と事も無げに告げた。
――そんな不吉なことを言っても、この聖印は穢れない。
「貴方には辛いことばかりさせるわ」
「昨日からずっとそればかりだぞ、フロネ」
彼女の背中に額をつける。
「一緒に居てくれ。それでいい」
これから、どれだけの穢れた魔物と聖職者を殺すのだろう。
人間を害するもの全て殺すというのならば、きっと最後は神をも殺すのだろう。
「私は、ずっと傍にいるわ。だから、私のリゼアスタで居てね」
「ああ……」
目を瞑る。
帰ったらめいっぱい礼をすることにして、暫くは彼女に任せよう。
一人ではないのだから。
...to be continued