この世界は大きな三日月型の大陸と、その欠けた部分に集う島々とで出来ている。
大陸の名前をアールといい、西側と東側では大きく異なる文化を持つ。
島々を纏めてロード諸島群と呼ぶが、そこは未踏の島が多く、あまり知られていない。
アール大陸は人間の闊歩する地であるが、ロード諸島群は穢れた魔物の土地であった。
人々は島々を恐れ、同時に海を恐れた。
『教会』の総本山『帝都』は大陸の真ん中にあり、全世界へとその威光を知らしめていた。
「リゼアスタ」
その柔らかい呼び声に、その修祓者は顔を上げた。
ステンドグラスから虹色の光が降り注ぎ、彼がさっきまで読んでいた教典に美しく影を作っている。
「聖下」
慌てて立ち上がろうとしたのを、『法王』はやんわりと止めた。
「僕が座ろう」
法王は長い純白のローブを丁寧に引き、リゼアスタの隣に座った。
「教典を読んでいたのかい」
「ええ。たまには」
「君は素直だね、本当に」
くすくすと彼は笑う。
法王『煌きの』フォルカ。
もうすぐ在位五百年の、現時点で最強の修祓者。
リゼアスタはその力を見たことは無かったが、彼の相棒が恐れるほどなのだ、およそ敵いそうにない。
「俺に何か用では」
「そうそう。また新たな聖印が刻まれたみたいだね」
「……」
「そんな顔をするな」
リゼアスタは自らの眉間を擦る。
――また、『神』が人を選んだ。
『教会』としては喜ばしいことだろうが、リゼアスタとしては歓迎できる事態ではない。
「続けてください」
「うん。迎えに行って欲しいんだけれど」
「俺が?」
「うん。しかも、君一人で」
冗談だろうといった表情で、リゼアスタは法王を見る。
普通、『聖印』が世に現れると、ぞろぞろと大勢の聖職者がそれはそれは恭しく迎えに行くものなのだ。
リゼアスタの時も、両の手では数えられないほどの『教会』の関係者が迎えに来た。
訝しがる彼に対し、法王は「ああ」と手をぽんと打った。
「正しくは、こう。聖職者は君一人で」
「……何処まで行かせるつもりですか」
「ロード諸島群」
「あ?」
思わず乱暴に聞き返してしまった。
「何だってそんなところに」
「いや、だから新しい聖印がね。安心してよ、ミューの岬の目と鼻の先だからさ」
「……貴方は結構無茶を言う」
「ははは。それを君が言うか」
法王はついとリゼアスタの鼻先に指を突きつける。
「君なら――君達なら行けるさ」
信頼の言葉。
しかしリゼアスタはそれに恐怖を覚える。
法王に、彼の全てを知られているのだから。
「……はい。承知しました、聖下」
本を閉じ、立ち上がる。
「地図を用意してください。俺は出発の準備をしますので」
「はいはい」
ぷらぷらと振られる手に見送られて、『炎の』リゼアスタは顔を引き締めた。
――連絡を取らなければ。
リゼアスタが迎えに行った時、フロネは喫茶のテラス席で賞金首の手配書を見ていた。
栗色の髪が陽の中できらきらと光っている。
「待たせたな」
声をかけると、彼女はぱっと顔を上げて「いいのよ、次の獲物をじっくり探す時間が出来たんだから」と笑った。
リゼアスタはその向かいに座り、紅茶を頼む。
喉が渇いていた。
「でも、珍しいじゃない? 一緒に仕事したいって、わざわざ鳩を飛ばしてくるなんて」
「ああ……」
二人は一緒に穢れた魔物を狩るが、連絡を取り合うことは稀だ。
大体、何も伝えなくても行動が一致する。
それは恐らく法王の采配であり、フロネの『嗅覚』の賜物であった。
「それで、今回は何? 吸血鬼? 人狼? それとも東方の鬼?」
「聖印持ちを迎えに行く」
「……はぁっ!?」
彼女は机に乱暴に手をつき、リゼアスタに迫る。
運ばれてきた紅茶に波が立って零れそうになった。
「そんなの、リーゼの仕事じゃないでしょう?」
「俺もそう思った」
「断りなさいよ、このお人よし」
「いや……場所が、ミューの岬の先なんだ」
「……」
フロネは顔を引き締めて、椅子に座りなおす。
「なるほどねぇ……私を呼ぶわけか」
「シューウィも誘いたかったんだが、あいつ、今はクララと一緒に動死体の掃討作戦に加わってるらしくてな……」
「へぇ」
紅茶を一口飲み、味は悪くなかったのに、リゼアスタは眉を顰めた。
「ファウストにはばっさり断られたし、フェインは今は長期間動けるわけじゃないし……」
「ああ、おじいちゃんなら今度妹が出来るって言ってたわよ」
「なおさら動けないじゃないか」
修祓者は頬をかく。
「……まあ、そういうことで、お前だけだ」
「仕方ないわねぇ。デートにしては物騒だけど、リーゼのためだもの。行くわ」
「すまない」
「違うでしょう?」
彼女の黒い瞳が、リゼアスタを真正面から映す。
別な言葉を彼女は待ち望んでいる。
「……ありがとう、フロネ」
「ん」
フロネは満足そうに笑い、「行こうか」と立ち上がった。
リゼアスタは最後の紅茶を口に含み、ついと指を動かした。
「うん?」
「あの街路樹の向こう」
「……?」
フロネは指し示された場所にとたとたと歩いていき、「うひゃああああっ!」と奇声を上げ、ばたばたと戻ってきた。
「やだ、あれ、『銀馬』じゃなーい!」
リゼアスタがここまで乗ってきたのは、『銀馬』と呼ばれる神造物だった。
二つの輪の回転によって馬よりも早く移動できる手段として、『教会』では重宝されているものだ。
「何、借りれたの?」
「ああ」
「わぁ……」
『教会』内に『銀馬』は五つ。それを行き先や任務内容で貸し出されている。
今回は『法王』自らが手配してくれた。長旅を考慮してだろうか。
フロネは嬉しそうに「早く行きましょ!」と急かす。
「やれやれ」
紅茶の代金を払い、二人は『銀馬』に近づいた。
鏡面のように磨かれた銀色に、フロネは大興奮のようで「わああああ!」と取り留めのない叫びを連呼するばかり。
「早く早くっ!」
待ちきれずに、フロネは飛びつくようにして後部へと座った。
リゼアスタは「元気な奴」と笑い、御者側、フロネの前に座る。
把手を掴むと、フロネが腰に手を回してきた。
「こうだっけ?」
「何処で覚えた」
「秘密」
「お前の脚ならそんなことしなくても振り落とされないぞ」
「もう、そうじゃなくて」
「分かってる」
足で『銀馬』の支えを外すと、微かな振動が二人を包む。
「捕まってろ」
「はあい」
フロネの重みを感じると同時に、リゼアスタは『銀馬』を制御し、走らせた。
風を切るように、波を渡るように、二人は目的地を目指す。
『銀馬』に餌はいらない。疲労を訴える事もない。
長い旅だが、二人なら飽きる事もないだろう。
「ねぇ――」
随分無言だったが、静寂を破ったのはフロネであった。
「迎えに行ったとして、無事にその聖印持ちが生きてたとして」
「ああ」
「どうするの、リーゼ」
「さあ」
リゼアスタははぐらかす。
「仕事だからな。しかも、聖下が直接言ってきた奴だ。無碍には出来ない」
「私は」
フロネの腕に力が篭る。
「リーゼが言うなら、私がやる」
「……いいよ。まずは、会ってみないと」
「……」
また、無言が落ちた。
ミューの岬。
大陸の西端に存在する、巨大な白亜の灯台が崖の上にぽつんと立っているだけの寂しい場所だ。
その崖から水平線を見やれば、いくつもの島が点在しているのが直ぐに分かる。
「目的の島はっと……ああー、本当ね、一番近いあれ、か」
潮風に長い桃色の髪が揺れている。
フロネは吸血鬼の本性を現していた。彼女の視力は双眼鏡要らずなのだ。
「よく人間が住んでるわねぇ」
「漁村だそうだ」
近くの村で仕入れた干し肉を齧りながら、リゼアスタも海を向こうを見つめる。
「ここって何か獲れるの? 人魚とかいう返事は期待してないのよ」
「危険な海だが、ここの魚は高値で売れるそうだ。『荒れ海の宝』と呼ばれて、単純に美味いんだ、と」
「ふうん。こんな海域にね……」
此処は既に人間の土地ではない。
怪魚や海蛇が生息する他に、『穢れた魔物』である人魚やセイレーンが住まう青い闇だ。
彼らは吸血鬼等と違って積極的に人間を襲ったりはしないが、時に同族を求めて人間の営みを襲う。
そんな中で人間が生活していること自体、異様なことなのだが――
「俺は所詮、修祓者でしかない……」
リゼアスタはひとりごちた。
ここに住まなければならない理由、ここを離れられない理由、そういったものが必ずある。
長く生きたが、世界中を知っているわけではない。
地方に住む人間の切実な事情には疎かった。
それは人間を襲うだけの『穢れた魔物』と何が違うのか。
「まぁ」何を察したのか、フロネは笑う。「いいじゃない、分からないことが多くても。私達、『神』じゃないんだから」
「……そうだな」
目を細め、頷いてみせる。
「私にも頂戴」
吸血鬼はふわりとリゼアスタに近寄り、聖職者の手から干し肉を引っ手繰った。
「何が出るか分からないからね――ちょっとでも食べてーっと」
「さっき俺の血を飲んだだろう」
「あれはあれ、これはこれ」
あっという間に食べ終え、フロネはぺろりと唇を舐める。
「ここ、居るんでしょう。『災い』ってやつが」
「……」
リゼアスタは海を睨んだ。
――己の聖印が酷く痛む。
それは『災い』が潜んでいることを如実に告げていた。
『災い』とは、人はもとよりこの世界に生きる全ての物を害する物だ。
それは穢れた魔物ですら例外ではない。
ただ破壊するだけの物――それは既に自然現象だった。
「倒せるとは思わないのよねぇ。私と、リーゼ二人じゃ」
「無理だろうな」
聖印は告げる。『災い』の存在を、強い痛みによって。
吸血鬼たるフロネも恐らく何らかの異常を身体に感じているに違いない。
『神』の優しさだとでも言いたげに。
「一気に駆け抜けるしかないだろう。往復することを考えれば、頭が痛くなるが」
「何がいるのかしらねぇ」
フロネは顔を綻ばせる。
「フェインが語るには、『災い』は世界が生み出されたのと同時に創りだされ、その後増えてないらしいじゃない。ドラゴンかしら? クラーケンかしら? リヴァイアサン?」
「海にいるのか空にいるのかも分からないが――未確認の何かって可能性もあるだろう」
「幻の『災い』! なんてロマンに溢れた言葉なのかしら。いつか倒してみたいわね」
「ぞっとすることを言うな」
「人間の間にはドラゴン殺しで不死身になったなんて話もあるじゃない。ロマンだなーって」
「聖印や血の証みたいなものさ……碌な物じゃない」
「つれないわねぇ」
彼女はつまらなそうに肩を竦め、リゼアスタと腕を組む。
「まっ、行きましょ?」
「ああ」
その腕を振りほどくことはしない。
まるでごく普通の恋人同士のように二人は歩む。
最も、進んでいるのは岩の飛び出る崖なのだが。
リゼアスタが「大丈夫か?」や「足元気をつけろ」と声をかけると、「ありがとう、大丈夫」と嬉しそうな返答があった。
崖下には既に『銀馬』が待機していた。
海から吹きつける潮風もその銀の装甲を汚せないようで、不自然なくらいきらきらと輝いている。
「……『銀馬』って、独りでに動くの?」
「ああ。多少の命令なら聞く」
「へぇえ」
まるで馬をそうするかのように、フロネは『銀馬』を撫でた。
吸血鬼である彼女の手を、しかし神造物は避けたりしないし、彼女を害することも無い。
神造物は強力な力を持っているが、基本的には聖なる力ではない。
使い手が聖印持ちであることが多いが、歴史上では英雄や一国の王が持っていることも少なくないのだ。
一度、神造物を持った国同士で戦争が勃発し、力と力がぶつかり合ったために両方の国が焦土化したこともあったらしい。
恐ろしい力。
だが人々は、その恐ろしさを恐ろしいとは思わず、むしろ賞賛する。
それがまた、恐ろしい。
「考え事が多いのね」
フロネに声をかけられ、リゼアスタは現実に引き戻される。
「……少し、悲観的になっているのかもしれない」
「この依頼、やっぱり向いてないのよ。リーゼには」
「そうだな」
肯定する。
「貴方は『炎の』。浄化の炎。人の路を示すランプには、その勢いは強すぎる」
「……ああ」
自覚している。だが、時に迷う。二百年以上を生きていても。
――フェインはそれでいいと言っていたが。
「なら、熾しましょ。貴方の行く路の灯(ひ)を」
フロネはぴょんと跳ねて、『銀馬』に跨った。
「さあっ!」
その笑顔に、その存在に、リゼアスタは救われる。
迷った時はいつも。
まるで路を照らすランプの灯のように、彼女は先を歩いて導いてくれる。
リゼアスタは無言で頷いて、『銀馬』に跨り把手を握った。
「行くぞ」
「ええ」
『銀馬』が渇いた嘶きを発し、走り出す。
波打ち際から滑るように海の上へと乗り上げる。
「わぁお!」
フロネはぎゅっとリゼアスタに寄りかかった。
「海の上を走ってる!」
「振り落とされるなよ」
「はぁい」
彼女は楽しそうな声を上げた。
――吸血鬼は水を怖がるというが、それもやはり最初だけだ。
長く生きた吸血鬼はもはや人と変わらない。
「……ねぇ、リーゼ」
「うん?」
波飛沫の中に彼女の声が埋もれてしまいそうになる。
「これ『銀馬』が止まったら」
「沈むんじゃないか。速さで水面を跳ねているだけだから」
「……あっさり言わないでよ。流石に、私は泳げないのよ」
「魚にでも変化すればいいじゃないか」
「出来ても泳げないことに変わりはないのよ!」
「なら、霧にでも変化して飛べ」
「あ、なるほど」
至極あっさりと彼女の不安は掻き消えた。
「リーゼは?」
「俺は何とか泳ぐよ」
「……。『銀馬』、止まらないようにしてね」
「ああ」
もとより止めるつもりは無い。
『銀馬』は快調に海を突き進んでいる。もう十分もすれば目的地に着くだろう。
相変わらず聖印は酷く痛むが、何も現れない。
「……」
波の下にいるのか、雲の間にいるのか。
もしかしたら――人知を超える、目に見えない何かなのかもしれないが。
心配しても始まらない。
前を見据える。
曇り空と、青い蒼い海。
水の透明度は高くない。潜れば深く深く、意識が溶けるまで底につかないのだろうと思えた。
後ろのフロネと言えば、何か歌を口ずさんでいる。
聞いた事の無い歌だ。
「それは?」と尋ねると「旧い歌よ」と笑った。
「不安をかき消す呪(まじな)い歌」
「……」
心配をかけたようだった。
彼女はまたすぐに続きを歌いだす。
結局、フロネの歌が終わっても海は静かだった。
その島を間近に見た時、リゼアスタは俄にその名前を思い出した。
三角島。
なるほど、まるで教会の屋根のように均等な三角の形をした島である。
「港から入る?」
「いや……」
フロネの申し出をリゼアスタはあっさりと断った。
今回は祝われるべき盛大な迎えではないのだ。
まずこの島がどういうものなのか偵察するのが先だ。
港から視認されないように島の崖下を通り、ぐるりと裏側に回る。
白い砂が敷き詰められた浜に乗りつけ、二人は『銀馬』を降りた。
「ふうん……」
フロネの姿が、さっと賞金稼ぎに変貌する。
「人の気配がするし、足跡もあるし。本当にこんな所に人が住んでいるのねぇ」
「穢れた魔物の気配は――ないな」
「近くにはいないわね」
「そう、だな」
油断は出来ないが、とりあえず安心は出来た。
防砂林を良く見ると、乱暴に薙ぎ倒された跡が見える。
――海から来るのか。
「穢れた魔物が来たら、誰が倒すのかしらね」
フロネはぶつぶつと呟きながら、砂浜に転がった金属片を摘んでいる。
おそらくは刃だったのだろうそれをまじまじと見た後、興味を失って捨てた。
「きっと蹂躙されて、終わっちゃうんでしょうね」
彼女は辛らつに告げる。しかし、反論する気も起きなかった。
二人は無言のままに先ほど見た港を目指す。
道が殆ど整備されていないところを見ると、ここは島民の生活圏ではないようであった。
フロネは興味津々で、草木や岩を触っている。
「全部海の匂いがするわ。不思議」
「木から塩の味がするかもな」
「え、本当に!?」
リゼアスタが何事か続ける前に、フロネは手近にある木に齧りついた。
「……」
しばし咀嚼した後、フロネは「美味しくない」と眉間に皺を寄せる。
「そりゃあそうだろう……木だぞ、ただの」
「だって塩味っていうから」
「だからって直ぐに食べて確かめるな」
毒だったらどうするんだ――という指摘が通用しないのが吸血鬼なので説得力はない。
もちろんと言うべきか、修祓者も同じだ。
「むー」
フロネは今度はどこで採ったのか、複数の粒が付いた果実を食べている。
止めても叱っても無駄だ。リゼアスタは溜息を漏らすだけに留めた。
林の実りを見る限り、確かにこれだけでは生きていけない。危険を承知でも海に出るしかないのだろう。
穏やかな道は徐々に傾斜となり、やがて視界が開けた。
「おー……」
三角島の真ん中は小さな山となっていた。
ここから島の全貌が良く見える。
――上陸したのが西の海岸で、唯一の町は北東の方角にあった。
その港の規模は海から見た印象よりもずっと大きい。
「どんだけ寂れたところかと思っていたけど……綺麗じゃない?」
「ああ」
穢れた魔物の襲撃などないのではないか。そう思うほどに、その町の活気がここからでも良く見えた。
「風にも気配がない……平和ねぇ」
フロネは島全体をくるくると回りながら眺めていたが、不意に人の気配を感じて二人は同時に振り返る。
がさがさと草を踏みしめる音と共に、現れたのは十歳程の少女であった。
「えっ? えっ、えっ!」
少女は明らかな狼狽を見せて、二人を交互に見た。
小さくて丸い青い瞳が、深い恐怖を湛えている。
「だ、だあれ……?」
舌足らずな疑問が、おっかなびっくり投げかけられた。
「初めまして、お嬢ちゃん」
フロネはくすりと口元を歪める。
「私達、大陸から来たの」
「……たいりく? むこう?」
少女は身を小さくしながら、しかし好奇心が勝ったのか、ミューの岬の方角を指差した。
「そうよ」
「……うそつき?」
「本当よ!」
真っ直ぐに疑いの眼差しを向けられて、フロネは驚きを隠せないようであった。
「俺達は『教会』の使者だ」
「ししゃ? ん、せーしょくしゃさん?」
「そうだ」
「ふうん」
少女はやはり嘘吐きを見る目でリゼアスタをじろじろと見回した。
だが、彼が無表情のまま双月のロザリオを懐から取り出すと、ぱっと表情を変えた。
「ロザリオ! ロザリオだ!」
「信じてくれるか?」
「うん」
少女は拙い手つきで祈りを捧げた。それにリゼアスタも祈りを返す。
フロネだけがそれを興味なさそうに見ていた。
「三角島に聖印が現れたと聞いて来たんだが、何か知らないか?」
「せーいん」
少女は不思議そうに言葉を繰り返す。
そしてふと思いついたように「……ローにーちゃん?」と呟いた。
「む?」
「ローにーちゃんかー」
眉間にぐっと皺を寄せ、少女はくるりと身を翻す。
「ローにーちゃんはいないよ!」
「へ?」
「いないの!」
少女はぱたぱたと草を掻き分けて行ってしまった。
「……何だったのかしら」
「ローにーちゃん、ね」
「リーゼの顔が怖いから、教えてもらえなかったんじゃない?」
「かもな」
「どうする?」
リゼアスタはフロネに、芝居のようにわざとらしい笑みを向けた。
「今の子の顔は覚えたな?」
町に下りると、町民は驚きを持ってリゼアスタを迎え入れた。
「おお……聖職者様?」
「こんなところにお出でになるとは」
そんな言葉を受けながら、修祓者は「視察だ」とそっけなく用事を告げた。
この地方の訛りが聞き取り難いなとぼんやり考えた。
「町長のお宅はどちらだろうか」
「あの丘の上です、聖職者様」
「ありがとう」
リゼアスタがちらりと丘の上に目を向けると、あの少女がぱたぱたと走っている。
小さな両手には木の実が携えられていて、どうやらそれがあんな場所に一人で居た理由のようであった。
「あの子は」
「ああ、ポーラーちゃん。アゴー船長のお孫さんですよ」
「ふうむ」
「な、何か粗相を?」
「ああ、いや。ただ先ほど見かけたので」
「そうでしたか……」
――やはり自分の顔が怖いのだろうか。
相手を威圧していることに気づき、リゼアスタは自分の頬に触れる。
リゼアスタは丁寧に礼をし、町長宅へ向かった。
「『炎の』リゼアスタ。法王の命によりこの地の視察に参った」
手短に挨拶すると髭を蓄えた町長は大変恐縮し、「おおう……」と声を漏らすだけだった。
「こんな地にいったい何用なのですか……」
その言動が引っかかる。
「『災い』の調査だ。だが、町民の方々には黙っていて欲しい。下手に心配をかけたくはないので」
「は、はぁ……しかし、『災い』ですか」
「何かありませんか? 些細なことでよいのです」
「……」
町長は立派な髭を何度も自分の手で撫で付けた後「いや、ありませんなぁ」と一言、呟くように告げた。
その皺の奥にある目が魚もかくやというほど泳いでいる。
「そうですか。滞在予定は三日なので、その間に三角島とその周辺の海域の調査の許可を頂きたい」
「……出さないわけには参りませんね」
ふうと大きな溜息。
リゼアスタは確信する。
――ここには何か問題がある、と。
まず、聖印持ちの話が一切出てこない。
この世界の人間であれば、聖印持ちが現れるとそれは祝い事となる。
町中、下手すると国中を挙げての祭りが行われることもあるのだ。
しかし、ここには聖印の気配はあれど、話題にならない。
不気味で不自然なことであった。
「それでは、最終報告をお待ちください」
ここでやるべきことは終わったのでさっさと外に出る。
商店街に戻ってくると、またあのポーラーがぱたぱたと走っていた。
忙しそうだ。
リゼアスタは宿を探してぶらぶらと町を移動する。
潮の香りと、魚の焼ける匂いとが混在していた。時折軒先に吊るされた干物が見え、それを狙う猫の姿も見ることができる。
『帝都』とは違い、時間がゆっくりと流れているような気がする。
人々は生活の異物である大陸からの客をひそひそと噂にするものの、特に話しかけられたりはしなかった。
――これもまた、異常なことだ。
修祓者の存在は民の中では絶対で、出会えた事を奇跡だと言って憚らない。
そう生まれた時から教育されるからだ。
しかしここではまず「修祓者」の名前すら挙がらない。全て聖職者と呼ばれる。
皆その呼称を避けているようであった。
「頭が痛いな」
――こう言っては何だが、穢れた魔物を相手にしていたほうが随分楽だ。
そう思いながら、宿屋を探す。しかし、行けども行けども見当たらない。
町長の元に戻らなければならないかもしれない、そう考えて立ち止まった。
「……ん」
小さな足音がぱたぱたと聞こえたかと思うと、あのポーラーがリゼアスタの目の前に飛び出した。
どうやら商店街の脇道を抜けてきたらしい。
「ここに、やどやないよ」
「ほう?」
そもそもここまで来る人間が居ないのだろう。
控えめに言っても危険な地域なのだ。
――あまりの平和な空気に、つい忘れそうになるが。
「いちおー、たいりくのひとがくる、けど。みいんな、さかばのうえにいくって」
「なるほど」
リゼアスタが「ありがとう」と告げると、少女はにっこりと笑ってまた脇道に走り去った。
酒場はすぐに見つかった。看板が潮風で錆びているのに、情緒を感じる。
「いらっしゃ――」
給仕の男がリゼアスタを見るなりぎょっと表情を変えた。
「しゅ、修祓者様……?」
「ああ」
「い、いや、はあ……お、お泊りですか」
「三日間の滞在予定で部屋を出来れば大部屋で、一つ。連れが居るんだ」
「かっ、畏まりました……!」
男の顔を観察するまでもなく、酷く怯えた様子であることはすぐ分かった。
リゼアスタは顔を背けて溜息を吐く。
通された部屋はベッドが四つの大部屋だった。南向きの窓から傾きかけた陽が入ってくる。
「いい部屋じゃないか」
多くない荷物を降ろし、全部の装備を外し、上着も脱ぐ。
軽くなった体を揉み解していると、ノックも無く扉が勢いよく開いた。
「早かったな」
そこに立っていたのはポーラーだった。
「わあ、いい部屋じゃない!」
歯切れ良く彼女は話し、くるくると回って窓際のベッドに倒れこんだ。
「ふっかふかー! 潮の匂いもしないわ。香が焚かれているのかしら」
「俺は湯を貰ってくる。髪がべたべただ」
「……そうだった。興奮してベッドにそのまま寝転がっちゃったわ……」
そう言いながら、ポーラーの姿は吸血鬼へと溶けるようにして戻る。
「情報交換は後で食事をしながらにしましょうか」
「ああ」
リゼアスタは潮風に固まってしまった前髪を弄った。