論文解説

Ambient-pressure Dirac electron system in the quasi-two-dimensional molecular conductor α-(BETS)2I3

Phys. Rev. B 103, 035135 (2021).

 固体中の電子はある特殊な環境の下において、質量があたかもゼロのディラック電子として振る舞うことがあります。ディラック電子とは量子力学に相対論効果を取り込んだ運動方程式(ディラック方程式)に従う電子で、炭素原子のみから構成されるグラフェンにおいてディラック電子状態が実現していることは有名です。

 2次元層状グラフェンやトポロジカル絶縁体の表面においてディラック電子系特有の物性が数多く報告されています。一方で、“バルク結晶”として質量のないディラック電子系が実現している例は少なく、その一つが分子性導体α-(BEDT-TTF)2I3です[1] (図1(左))。しかし、この物質においてディラック電子状態が実現するのは1万気圧以上の高圧下のみであり、常圧下では135 Kにおいて異なる電子状態へと相転移してしまいます。圧力下では実験的な制約が厳しいため、この系のディラック電子系としての物性をより深く理解するためには、常圧下で実現するディラック電子系物質が必要です。そこで、私たちはBEDT-TTF分子の一部の硫黄(S)をセレン(Se)で置換したα-(BETS)2I3に注目しました(図1(右))。通常、SをSeに置換することで分子軌道が空間的に広がるため、正の圧力効果が期待されます。

私たちはα-(BETS)2I3の常圧下ディラック電子系の可能性について、放射光X線回折実験、核磁気共鳴測定、第一原理計算を用いて精密な結晶・電子構造を調べました。この結果、この物質では低温まで対称性が変化しておらず、質量のないディラック電子状態が実現していることが分かりました(図2)。さらに、スピン軌道相互作用を考慮した計算の結果、ディラック点において非常に小さいギャップ(~2 meV)が開いており、トポロジカル不変量を調べたところ“弱いトポロジカル絶縁体”であることが明らかになりました。今後、量子スピンホール効果などディラック電子状態に起因する特異な物性の報告が期待されます。

[1] S. Katayama, A. Kobayashi, and Y. Suzumura, J. Phys. Soc. Jpn. 75, 054705 (2006).

図1 (左) α-D2I3 (D=BEDT-TTF, BETS)の結晶構造。(右) BEDT-TTFとBETSの分子構造。

図2 α-(BETS)2I3におけるディラックコーン型のバンド分散。フェルミエネルギーがちょうどディラック点に位置しており、質量のないディラック電子系が実現している。