夏の挨拶状の書き出しは「暑中お見舞い申し上げます」「残暑お見舞い申し上げます」とすることが多く,正月松の内が明けてから立春までの挨拶状は「寒中お見舞い申し上げます」と書き出すことが多いのですが,「"見舞う" という言葉は目下に対して使うものだから目上に対しては「お伺い」としなければならない」とおっしゃる向きがあります(例)。どうやらマナー講師等の肩書きでお仕事をされている一部の方の御説をネットユーザーやマスコミが検証抜きで引用しているようなのですが,そのような考え方は正しいのでしょうか・・?
例えば,平成2年の「昭和天皇を偲ぶ歌会」において,天皇陛下は,次のように詠まれました。
*2019年5月以降は「天皇陛下」とある部分を「上皇陛下」と読み替えて下さい(以下同じです)。
父君を見舞ひて出づる晴れし日の宮居の道にもみぢばは照る
ここで父君は昭和天皇であり,お見舞いをなさったのは当時皇太子であった陛下であって,この御製(=天皇陛下がお作りになった歌)は,陛下がご療養中の昭和天皇を宮居(みやい=皇居)に見舞われた帰り道を詠まれたものです。もし「見舞う」という言葉は目下の人に使うものであるなら,この御製には礼を失する点がある,ということになってしまいます。
また,陛下が平成24年に心臓バイパス手術を受けられた際,宮内庁は,皇居坂下門において「お見舞い記帳」を受け付けました。ここでは言うまでもなく,見舞うのは一般国民であり,お見舞いをお受けになるのは天皇陛下です。もし「見舞う」という言葉は目下の人に使うものであるなら,このお見舞い記帳という名称(宮内庁の公式発表に記載された正式名称です)は,陛下に対し失礼ということになってしまいます。
御製にせよ,宮内庁の発表文書にせよ,そこで使われる言葉については,その状況に最もふさわしい日本語が慎重に選ばれているはずです。これらの用例からすれば,「見舞う」という言葉は目下の人に使うもの,との考え方には,疑問を提起せざるを得ません。
文法的に検討すると,もし「見舞い」が目上から目下に対する言葉であるならば,「申し上げる」という謙譲語(=目下から目上に対する言葉)と結合させて「暑中お見舞い申し上げます」「残暑お見舞い申し上げます」などと言うのは(例えば「命令申し上げる」という言い方と同様に)それ自体が文法上の矛盾をはらんでいて許されないだけでなく,本来,不自然でおかしいものであるはずです。ところが「暑中お見舞い申し上げます」「残暑お見舞い申し上げます」といった言い方が不自然でおかしい,と感じる人はいません。これは「見舞う」という言葉には,本来「上から目線」の意味など含まれていないからです。古語辞典で「見舞ふ」を引くと,訪問するという意味であってその当事者に上も下もないことがわかります。
こう見てくると,冒頭のように「見舞う」という日本語は目下を相手とする場合にだけ使うことができる言葉である,という説を流布されている方々は,たとえ意図していないとしても日本語を乱そうとしている(ことばに自分勝手な意味内容を与えようとしている)可能性がある,という点について,自戒されるべきものと思います。
これはおそらく「個人語」の問題であると思います。人は誰でも,生育の過程で,多かれ少なかれ,個人語(idiolect(=idio(個人的な)+ dialect(方言)),すなわちその人に固有の語彙,発音及び文法(いわば「独りぼっち方言」のようなもの)を持つようになります。ところがその根拠を尋ねてみると「昔おばあちゃんにそう教えられたから」といった程度のものであることが結構あります。本人は,それが「独りぼっち方言」であることに気付いておらず,むしろ標準語であると思っている場合も多いのですが,学校や職場で「それ違うよ」と指摘され,単なる「独りぼっち方言」に過ぎないと気付くこともあります。しかし,マナー講師とされる方が,それが自分の「独りぼっち方言」であることに気付かないまま「この「独りぼっち方言」こそ標準語である」と講演なされば,仮に素養のある聴衆の一部が誤りに気付いたとしても,それを面と向かって指摘して来演者に恥をかかせるようなことはしないで終わることが多いと思います。
ただ,同時に,それが正しいか間違っているかはさておき,一部のいわゆるマナー講師の方々の言説にもかかわらず,冒頭のような考え方がマナーとして定着することはないであろうと思っています。お見舞いとお伺いの2種の違う葉書を用意して上下関係に応じて使い分け,上下いずれとも判断がつかない相手について仕分けを間違えると非礼とされる,というのはあまりに煩雑で,現代人の生活や企業活動にそぐわないからです。
2015年8月17日