聖書の御言葉は、力があります。
ヘブル人への手紙4章12節には、次のように書いてあります。
「神の言葉は生きていて、力があり」
聖書の御言葉に耳を傾けてみませんか。一日、一節でも構いません。
以下は、聖書の御言葉の中から、力をいただく御言葉を選びました。
良い一時になりますようにお祈りいたします。
0.申命記4章10節
(中略)わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」
――>今日のタイトルは、「神を恐れる有益」です。聖書を信じる時、基準となるのが、聖書です。聖書の御言葉です。礼拝の中で、信仰者が重んじるのが、聖書に耳を傾けることです。いのちの御言葉に注意を払って、心から御言葉を受け取る時、信仰が更に成長します。永遠のいのちへの確信が与えられます。神を恐れることを学ぶようになります。神を恐れることは、神の前に聖く生きようとする信仰です。敬虔に生きようとする力です。恐れることを学ぶ有益がたくさんありますね。神の知恵と神の知識を学ぶようになります。人生の意味をはっきり理解するようになります。この世に生きる知恵が与えられることは有益です。神への恐れが生じると、罪を犯すことを防ぐ役割もします。神の御心に生きようとする時、恵みの道がはっきり見えてくるのです。それだけではありません。今日の本文の最後に書いてあるように、自分だけではなく、子どもたちにも、愛する人々にも、神の道を紹介するようになるのです。自分が体験した恵みの世界を、どんどん紹介して、その道を守って欲しいと願いが生じます。多くの人々がこの神の恵みの世界を知ってほしいですね。私達の家族の上にも、主の恵みが及びますようにお祈りいたします。信仰の友が増えるのはとても嬉しいことです。
1. ローマ14章17節
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
2017年)~、聖霊による義と平和と喜びだからです。
――>人が集まるところには、良い刺激をもらう時もありますが、ぶつかる時もあります。衝突する時があります。その問題を解決するプロセスとやり方が良かった時、人間同士は良い方向に向かっていくと思います。信仰者の動詞の中でもトラブルは避けて通れないです。神は同じですが、考え方が異なる時があるからです。初代教会にもやもめたちを助ける働きの中で、問題が生じて、苦情を立てる場面が書かれています。今日の聖書箇所では、教会の中で食べる問題について教会員の中で意見が違い、トラブルが発生したのです。ユダヤ教からキリスト教へと改宗した人にとっては、何を食べるのかは大事な問題です。彼らは状況によって偶像礼拝につながることだと思い、あるものは食べなかったのです。しかしある人にとって、それは偶像礼拝と関係ないと思い、どんな食べ物は聖いと考えていたのです。食べるか食べないか、信仰的に重要な部分かもしれません。このように衝突した時、トラブルを解決に向けて力を入れる大事な部分があります。それは、聖霊による義、聖霊による平和、聖霊による喜びの部分です。神様が下さった恵み、喜びに目を向けた時に、信仰者は神の愛にさらに感謝することができます。その時に、信仰の弱い人と考えが違う人のためには、自分の正しさを譲る、自分の考えを、弱い人に合わせることができると、この聖書は語っているのです。イエス様が神の国のために忍耐をもって、待ってくださったように、私たちも喜びと平和の中で、人々とつながることができるのです。各自が信仰的な成長が遂げられる時、トラブルが小さく見えますし、トラブルを信仰的に見ることができるし、更なる恵みのチャンスの機会となるでしょう。聖霊による義、平和、喜びがあふれることを、今日も心からお祈りいたします。
2.箴言16章9節
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」
新共同訳 16章9節 「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」
人は自分のことを大事にします。人は自分のことを愛しています。人は自分の未来を考えます。
しかし、神様は私達のことをもっと大事にしてくださいます。
神様は私達のことを誰よりももっと愛しています。神様は私達の未来に関して、誰よりももっと祝福をしようと計画している方です。人間の歩みを確かに導こうとする神様の導きを信頼しましょう。不安が襲われた時、歩みを確かにする主を見あげましょう。そして計画を立てる時に、祈りながら、主がこの計画が主の御旨に叶う計画であるようにと、求めましょう。
2017新改訳)箴言16章9節
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。
3.ローマ 9章 2節 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
使徒パウロの告白が書かれています。信仰は喜びを与えてくださいます。十字架の恵みを知る時、絶大なプレゼントをもらったことを悟るので、喜びが絶えず、湧き出るようになります。皆さんも、この喜びの中にいると思います。一般的な喜びは、外部からものが与えられて喜びを感じます。しかし信仰は少し異なります。それは聖霊の助けを受けて、神の子どもになった特権を自覚する時の喜びです。いかなる環境に置かれても、絶望的な環境でに置かれても、心から湧き出てくる喜び、これが信仰者に与えられている信仰の特徴です。使徒パウロは、伝道すればするほど、痛みを感じました。特に自分の民族、ユダヤ人なかなか、キリスト・イエスについて拒否反応を示したからです。もっともキリストの恵みに近いはずの民族が、イエス様の十字架については無知でした。それは、ユダヤ人は、一生懸命に自分の伝統と律法を守っていたのです。結果的にはイエス様の恵みを知ることが出来ませんでした。使徒パウロの悲しみの告白が今日、書かれています。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」次の3節には、使徒パウロがどれほど、自分の民族を愛しているのかが、分かります。ローマ9章3節「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」自分が呪われた者になるまで、自分の民族を救いたいというパウロの愛が込められている聖書箇所です。まさにイエス様が、十字架で呪われたものになりましたが、私たちにご自分の最大の愛を示してくださったのがイエス様です。信仰者に喜びがありますが、その喜びを与えるのにあたって、絶えず痛みと悲しみも同時に感じます。今日も自分の十字架を背負って、主に従いましょう。絶えず喜んで、今日の一日を歩みましょう。
4.詩篇49: 8 ――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――
タイトル:人の価値はいくら?
お金は便利です。モノの価値を決める時、数字で表すので、分かりやすいし、とても便利です。物々交換の時代より、お金は生活を豊かにする手段になりました。しかし、お金でその価値を決めることができないことが多いですね。特に、人のいのちがそうです。人の価値はお金で換算できないです。交通事故で人が死亡した時、慰謝料として3000万円ぐらいです。現実に生きている人の妥協点です。神様の特別な助けなしでは、死んだいのちは戻ることができません。イスカリオテのユダが、イエスを売る条件でもらう金額は、銀貨三十枚でした。とても安い金額でした。聖書は、こう言っています。たましいの贖いのしろ、贖いの代価は、高価です。単純に高価の意味ではなく、永久に支払うことができないほどの値段であると言っています。 リビングバイブル)たましいはあまりにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。世界中の富をかき集めても、ただ一人分の永遠のいのちも買えません。地獄(じごく)から救い出すことはできないのです。人間を救うためには、人間の努力と、お金だけでは不十分です。全く罪がないイエス様の代価なら人が救われる等しい価値です。イエス様のあがないの尊さを見ることができます。十字架の血潮がなければ、人間は救われません。今日、十字架の愛の深さを黙想する一日となりますようにお祈りいたします。
5.伝道者の書5章19~20節(聖書)
19節)実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
20節)こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。
◆タイトル:くよくよしない◆
私は良くため息をつきます。家族や友人から指摘されます。悪いことばかりに目を留める良くない習慣があるのだろうと思います。私だけでしょうか。何かを成し遂げた時、喜びだけが残るのではないです。「もっとこうすれば良かった。ああすれば良かった」という後悔も残ります。誰もが感じる感情だと思います。更に実りある人生を願うからこそ、後悔するのではないでしょうか。後悔自体は悪いことではありませんが、建設的に進むために大事なことが聖書に書かれています。 聖書には、「後悔する歩み」から「喜びで満たされる歩み」へのチャレンジが書かれています。くよくよと後悔する歩みから抜け出す秘訣が書かれています。それは、神の喜びが与えられることです。神様によって喜びが満たされる人は、自分の生涯についてくよくよと思わないで、思い残さずに生きることが出来ると書かれています。そのような人の特徴をみてみましょう。
一番目は、楽しむ人生です。今、与えられている富や財産を感謝して楽しむことです。目の前にあるもの、自分が使っているものなどを存分に楽しむことです。この楽しみは、神様のおかげで歩みが支えられていると見出すことです。その人は、楽しみが神様によって許されたということを知るので、放縦な生き方ではなく、感謝があふれる生活となります。また、その人はそれらを楽しむためには健康が必要であることを気づくでしょう。健康も神によって与えられているものです。
二番目は、自分の受ける分を受ける人です。それは今、与えられている人生を満足する人です。自分の才能、自分に置かれている環境に対して心から満足する人です。自分のありのままの姿を認める心がある人です。生まれながら持っている性別、性格、個性、国籍などに対して、満足する心です。神による満ちたる心は、瞬間の満足にとどまらず、やがて人の生涯全体を満足させます。そうすると、人の自尊心も回復されます。自尊の回復は、感謝の心が自然に生まれます。
三番目は、労苦を喜ぶことです。つまり、結果だけにこだわらないことです。その苦労のプロセスも大事にする生き方です。結果だけをみますと、苦労する意味を感じられなくなります。結果が望ましくない時に、すぐ私たちは無意味であると思ってしまうのです。ふりかえってみると、意味がないと思った時こそ、時間が経つと、深い意味があったことを悟るのです。後から真の意味を悟った経験はないでしょうか。くよくよとしないで、手間がかかることでも、まずはやってみることはいかがですか。自分の生涯のことをくよくよしないで、神様の喜びで満たされて生きることを心から願います。 伝道者の書5章12節(聖書) 「働く者は、少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は、満腹しても、安眠を妨げられる。」
6.Ⅱテモテ1章14節
そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。
「タイトル:神からゆだねられた務め」
神様は、私たちの人間に、良いものを委ねてくださいました。何より命が与え下さったことは恵みです。また、私たちが住むこの世界を与えてくださり、委ねってくださいました。そして一人一人にも良いものを数え切れないほど与えてくださいました。良いものとは、一人ひとりの特性、個性、才能、健康、信仰などですね。一番大事なものは、信仰に関連しているものですね。神からゆだねられた務めを全うするために、信仰者に必要なものが書かれています。
一つは、神様が私たちに、委ねてくださったことを感謝する信仰が必要ですね。
私たちのために、この世界を備えてくださった神を褒め称える信仰に立つことです。人間は、神の前にチリに等しいものですが、神の協力者として思って下さって、良いものを下さった神の恵みに感謝する信仰が必要です。
二番目は、聖霊の助けです。せっかく神様から委ねられましたが、聖霊の助けがなければ、私たちは神に感謝することができません。聖霊の助けがなければ、今あるものは、当たり前にあるものだと考えてしまいます。自分の能力によって勝ち取ったものだと思う時に、神様が下さったという信仰が薄くなってしまいます。聖霊の助けがなければ、信仰の奥義の良いものを、活用することもできず、守る事もできません。ですので、信仰者には、信仰のうちにある聖霊に助けを求めなければなりません。聖霊は、もうひとりの慰め主として、罪について、義についても教えて下さいます。行くべき道を示してくださいます。クリスチャンになったことはいかに恵みであるかも教えて下さいます。この聖霊を信頼し、頼る時、自分の信仰を守ることができます。自分の賜物を上手に活用する力が与えられます。 使徒パウロは、伝道する時、教会に仕える時、このような姿勢でした。コロサイ1章25節 「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」使徒パウロは、日々聖霊の助けを受けていたので、このような信仰告白ししながら、伝道牧会に励んだのです。私たちも、多くの良いものが神様から与えられているという、良き管理者として、忠実に信仰の奥義を守っていきたいと思います。
7.ローマ12章1節
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
1.私の価値観の変化
神が願っている礼拝は、私の体の変化を願っています。体とは、単なる体の筋肉を指しているのではないです。私の体、信仰のあり方の変化を、神様は望んでおられます。信仰者がささげるもの以上に、お願いする祈りの導きより、大事なものは、神に受け入れられる信仰の変化です。神のように、愛を持っている人になっていくことを願っています。神のように、隣の人々に対して関心を示す人になっていくことを願っています。すぐはできないと思いますが、神様の御言葉を受け入れる時に、少しずつ変化があらわれると思います。
2.聖い、生きた備え物として
神が願う礼拝はは、信仰のきよさにあります。礼拝をささげることによって、私たちの信仰がきよくなることを願っています。宗教儀式だけにこだわらないで、心もだんだんときよい人への変化を、神は願っています。生きた供え物として、神の前で私たちの思いがきよくなることを、礼拝を通して、神様が願っています。「マタイ5章8節、心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」きよい人は、神の御旨をよく悟るからです。
8.聖書 ガラテヤ人への手紙2章20~21節 (抜粋)
20~21節)いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。
信仰者の特権は、人生の目標が与えられていることです。最終的に目指す方向性があることは、人生を豊かにさせます。行く方向性も分かるし、最終的に到着する御国を知るからです。心の平安が与えられます。一般的に保険に入った時の安心感とは次元が異なる話です。多くの人は、人生の目標、人生の最高の価値を今も、切に探し求めています。現代の特徴、情報量が多いです。昔よりはるかに情報量が多いです。助かる時もあります。が、正しい真理を探すのは逆に混乱な時代です。効率を良くする生き方。時間節約、早く成功する方法、成功する人生の戦略などの本が溢れています。真の人生の目標が見つかった時に、効率が良いか、悪いか判断ができます。多くの人は、実は、迷っています。効率よく生きているのか、分かりません。周りと比較しながら、比較してみて、幸せとか、良かったという判断しかできないです。クリスチャンの人生の目標。神の愛。私たちは神の愛を受けています。その愛を分かち合い、伝えることがクリスチャンの人生の目標です。私たちは愛されて、この世に生まれたのです。神の存在、神の愛について、目が開かれる時に、どのような生き方をすれば良いのか、聖書から教えられます。私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。イエス様の愛は、私たちのためになしてくださった尊い愛です。使徒パウロはそれを告白しています。人生を無駄にしません。と告白しています。十字架の愛に目を留める時に、豊かな人生を生きることができるのです。神の愛を知る時、無意味な時間がないことも知るようになります。十字架の本当の意味を知っていただきたいです。今日も主の祝福がありますようにお祈りいたします。
9.ヘブル12章2節
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(中略)
創始者をギリシャ語では、アルケゴスと言います。この言語は、「初め」という単語と、「導く」単語の合成語です。初めから導くので、統治者と、リーダーの意味です。旧約聖書の中で、民数記では。「かしら」と表記されています。(民数記25章4節) その意味で、信仰は、神から与えられるものです。信仰の始まりも、神の故です。当然ですが、信仰は人間から出発するのではないです。信仰は人間が勝ち取るものではなく、信仰は神から与えられるものです。神から出発したものです。神から導かれたものです。人間は、被造物である自覚が必要です。
神であるイエス様は、万物のかしらであります。万物の始まりは神です。神からスタートになります。聖書の初めの章は創世記です。創世記を勉強すると、この万物のかしらであることが分かります。神の息吹によって、人が作られたのです。しかし、すぐ、人間は堕落してしまったのです。神との交わりがなくなってしまうのです。この神と人の関係を回復するために、イエス・キリストが来られたのです。教会のかしらも、イエス・キリストです。教会に来ていただいて、このキリストを知ることは、喜びです。とても大切な信仰の事柄になります。その創始者は、使徒の働きの中には、このように書いてあります。
イエスは、導き手であると書かれています。導き手:信仰が正しい方向へ向かわせるように助けるのが、イエス様です。信仰の導き手は、信仰の案内者である。信仰のナビゲーターであるイエス様です。人々の信仰がイエス様に向けさせます。それは、永遠のいのちへ導く手です。
■どこへ導くのでしょうか。
新共同訳聖書 使徒3章15節あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です
ヨハネ: 6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。ヨハネ17: 3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 信仰もイエスキリストによって出発して、続けて導かれたことを、今日も感謝いたしましょう。信じるものに、永遠のいのちが与えられていることも感謝しましょう。永遠のいのちの喜びが信仰者の上に与えられ続けていることを、今日も感謝しましょう。
10.ガラテヤ5章25~26節
25節)もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。26節)互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。2017年)うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう。
信仰者に与えられる聖霊のパワー、力。ダイナミックなパワー。危険なところにも行けるパワー。開拓者のイメージがあります。間違ってはないですね。これも与えられます。使徒1: 8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」上からのパワ➖が与えられて、厳しい環境の中でも、福音を伝える様子は必要です。しかし、今日のポイントは。文化を超えていくためには、人に仕える信仰、品性が必要です。その働きを、聖霊が助けてくださいます。
ガラテヤ5:25「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」聖霊によって、神の喜び、神の平安が心に満たされます。私も神によって愛されている人であることが分かります。あなたも、神によって愛されている人生であることを悟ります。聖霊にみたされると、隣の人は、協力関係へと変わっていきます。ガラテヤ 5:26互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。2017年)うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう。
虚栄とは過度にうぬぼれが強くて思い上がった性質、必要以上に体裁を良くしようとする気持ちのことを指します。御霊によって生きるなら、名誉と人気だけを得ようとする生き方から、変わっていくのです。名誉と人気を得ようとする妬みからも、私たちの身を守ることができます。御霊に導かれて、人に仕える本当のパワーを得ることができます。ガラテヤ5:16 「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」聖霊に満たされると、信仰者が属している組織も、安定されていきます。ヤコブ3:16 「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」2017年)妬みや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからである。人の役割も異なりますが、人の個性も異なりますが、神によって、聖霊に満たされて、一つの群れとなっていきます。今日も聖霊のパワーをいただきましょう。心の喜びが増していくように祈っていきましょう。
11.詩篇 84篇10節
「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」
今日のタイトルは、1000倍の喜びです。信仰を一言で言うと、喜びです。信仰の喜び。喜びの信仰。信仰の喜びの発見、信仰の喜びが湧き出る信仰者は、幸いではないでしょうか。今日の本文にも書かれていますが、喜びがあらわになっていることをみることができます。喜びを強調して、1000倍の喜び。この喜びが溢れている聖書箇所です。今日、詩篇84篇より、恵みを分かち合いたいと思います。84篇全部読みませんが、とても恵まれる聖書箇所です。ぜひ読んでみて下さい。聖書に登場するコラの人々は、神の宮を守ったり、神の宮で賛美する奉仕をしたりしました。今日の本文では神の宮で賛美の奉仕をしながら、その喜びを体験している彼らの信仰の姿をみることができます。
雀さえも、つばめも住みかがあるように、信仰者が、本当の神に会っていることは、本来の家に戻っているように素晴らしいことだと、喜びだと、なんと幸いなことでしょうと、賛美しています。これは単なる主の宮で住むのが素晴らしいという意味ではなく、神様の交わりが出来ることのを幸いだと言っているのです。信仰者に語ってくださったイエス様の約束が思い出します。ヨハネ14章2節「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」
神様と信仰の交わりができれば、大庭でも関係ない、神様の喜びがわかれば、神の家の門番になってもかまわないと語っています。神殿の出入り口に立っている人でもかまわないと、それは、神の喜びがあるからだと告白しています。神様なしで過ごす1000日より、神様と共に過ごす一日がまさっていると、告白しています。神様と共に過ごしている素晴らしさを、あえて、数字で表すならば、神様なしで過ごしたことより、神と共に過ごす一日が、1000倍楽しみだと84篇の詩人は語っています。約3年の時間より、神様と共に歩む一日は素晴らしいと信仰の告白をしています。アメンですか。神様なしで住んでいた過去とくらべてください。罪の生活、楽な生活より、神と共に歩む信仰は、実は、1000倍のめぐみがあるのではないでしょうか。このめぐみを継続して持ち続けましょう。
2.コリント人への手紙第一 10章13節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
試練に会った時、この聖書の言葉は慰めになります。
試練にあった時、まず考えたいことは、試練に合わせるように導いた神様の目的があるということです。無駄な試練は神の中にはありません。ただ解決の模索するのではなく、神様の導きがないか、考えましょう。逃げるのではなく、苦しみも向きあって見ましょう。
私達に成長するきっかけになる苦しみではないでしょうか。普段感じなかった神様の愛を特別に感じる時ではないでしょうか。試練を打ち勝つ力をいただく時です。
試練と共に、脱出の道を備えて下さる神様の計画を期待しましょう。脱出の道が用意されていることを信じ、試練から来る痛みを向きあいましょう。
3.ローマ人への手紙 5章2節
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
信仰はなんだろう。一言で言えば、イエスキリストを心から信じることです。
信じることはすべて知ることではありません。全部分からないけど、イエスキリストの人格と生涯を通してくださった恵みをそのまま受け、信じることです。
聖書には信じる人には、永遠のいのちが与えられると書いてあります。
この世で名声を得ているから天国の資格を得たのではありません。心が親切だから永遠のいのちを獲得したのではありません。ただ、信じる恵みによるものです。ですので、私達は、神の栄光を望んで大いに喜んでいるわけです。
今日も喜びをもって、前に前に、進みましょう。
4.ローマ人への手紙 5章3、4節
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
――> 患難さえも喜ぶがことが可能なのか。不思議だと思ったことがあります。
でも後になった気付かされます。その患難の時に私達は忍耐を学びます。そして練られた品性も学びます。そして最後に希望が何かを学ぶ時期です。
今日、患難の時期を通っていますか。私達を育てる神様に信頼し、前進しましょう。
5.ローマ人への手紙8章24、25節
目に見える望みは、望みではありません。
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
――>目に見えるものにとらわれやすいのは人間だと思います。目先に執着するのが人間ではないでしょうか。そして大事なことは、目に見える望みは、本当の望みではないと聖書は語っています。
本物の望みは目に見えません。忍耐をもって、主の愛を熱心に待ちましょう。
6.ローマ人への手紙8章35節
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
――>患難と苦しみ、迫害、飢え、裸になった経験、いのちの危険などを体験したことがありますか。その時、キリストの愛がまったくないと思ってしまうのです。それが当然の考え方かもしれません。でも、パウロは、その時も、圧倒的な勝利を与える神様の愛を体験したのです。神様の愛から引き離すことはないと、私達も告白しながら、歩みましょう。
7.ピリピ人の手紙4章4節
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
――>パウロが書いた手紙の中で、書かれている聖書箇所です。喜ぶことを命令しています。立派な命令ではないか。
喜びと笑いがなくなる時はないでしょうか。挫折の気持ちが引きずっている時はないでしょうか。
パウロが語っている喜びの命令。ただの喜びではなく、主にあって喜びをすすめているのです。
しかも、もう一度、言いながら、強くすすめています。
主が下さった救いの恵み、人々に出会った喜び、生きる希望を下さった喜び。
マイナス思考になった時、主から来る思考の転換が必要です。今日も喜びましょう。もう一度言います。すげ~喜びましょう。
8.ピリピ人の手紙4章6-7節
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
――> 祈りが難しいですか。思い煩わないで主に願い事を祈りましょう。祈りはどうするの?正しい祈りのやり方は?ではなく、心配することを主に正直に祈りましょう。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が訪れます。
まず、深く考えずに祈りましょう。そして祈る内に、もっと神様の思いをいつかは知ることが出来るでしょう。神の平安が今日もありますように。神様は私達の父だからです。
9.第一サムエル16章7節
「人はうわべを見るが、主は心を見る」
――> サムエルがサウルの次の王を選ぶ時、主が語って下さった御言葉です。
私達は人を見る時、何を見ますか。出来るだけその人の本質を見るためには心を見なければならない。でも人には限界があります。でも主は人の心を見て下さる方です。
主ご自身が私達の心を見て下さることは、実に感謝なことです。
主は結果だけを見る方ではなく、その歩みの過程までも見ておられる方です。
何も出来ない能力を持っていても、主は私達の心を見て、私達の祈りの姿を見て、喜んでいるでしょう。反対に、結果が良くなった時は、私達は心の内面が綺麗なのか、もう一度顧みることが必要です。
10.ローマ人への手紙11章33節
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
――> ある時、こう考えたことはないでしょうか。私は賢い。神は愚かだ。神に頼るのは、時代遅れだ。最新のネット情報に頼ろう。一番の生き方だ。
時間が経った後に教えられます。神の知恵と知識の富は、何と底知れず深いことなのか。
主よ。私たちに神様の知恵を教えて下さい。今日も神の知恵に頼って、歩みます。
11.ローマ人への手紙12章14節
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
――> 今日も聖書の御言葉の奥深さに触れましょう。迫害する者がいるならば、一般的に人間は復讐したくなります。
力がなければ、逃げます。力があれば、対抗します。しかし、迫害する者でさえも、祝福しなさいと、薦めています。
神様の恵みを体験した人が出来る信仰のパワーではないでしょうか。救われた喜び、むなしい人生から豊かな人生へと変わった人が実践するものではないでしょうか。呪わないで、祝福の祈りから今日、実践してみましょう。
12. ローマ人への手紙14章19節
私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
――> クリスチャンの生き方はピースメーカーです。クリスチャンが行くところに平安が与えられますように祈っています。そしてクリスチャン同士は、お互いに霊的成長に役に立つ存在として生きることを願います。私達は常に追い求めましょう。
13.第一サムエル17章45節
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
――>この聖書の言葉は勇気を失った時、励まされる御言葉である。ゴリヤテとダビデが戦う時、ダビデが叫んだ言葉である。誰も戦う意欲がなかった時、イスラエル軍人が意気消沈した時、ダビでは自分の個性を持って戦ったのだ。若いのに、勇敢だった。私達も万軍の主の御名によって、難しいことを立ち向かって前進しましょう。
14.第一サムエル18章7節、9節
女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。
――>嫉妬をしたことがありますか。サウルはダビでを嫉妬しました。いや危機意識を持ちました。自分の王の立場が弱くなるのではないか。サウルとダビでを比較する歌を聞いた時、疑いの目を持ってしまったのです。人を育てる王ではなく、疑う王になったのです。残念な生き方です。その後、サウルはダビデを殺すように動くようになります。
嫉妬の被害者はその本人だと思います。あなたより必ず優れた人はこの世では大勢います。
あなたはあなたに与えられた道を歩めば良いです。今日も勇気を持って前進しましょう。
15. 第一ペテロの手紙3章4節
むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。
――>神の御前に価値あるものは何か。今日のこの御言葉を見ますと、心の中の隠れた人柄を飾りる人生であることです。妻の無言の振る舞いによって主人が影響を受けて、クリスチャンになることは価値あるものです。あなたの無言の振る舞いは、心から出てくる力が外に出てきます。それが信仰のパワーです。穏やかなパワーです。神様の御前に価値ある人生を歩みませんか。
16. ヨハネの手紙第一4章10節
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
――> 今日も素敵な御言葉ですね。信仰が成長されると見え始めます。何が?。神様の愛です。信仰が深いということは、熱心に神様の愛するだけを考えれば誤解だと思います。まず、神の愛は、私達を先に愛して下さって、御子イエスキリストを下さった愛です。これが原点です。その愛に感謝して、私達は教会にご奉仕しているのです。それぞれ奉仕の場で主に仕える時、主が下さった愛を思い出すことは幸いなことでしょう。
17.第一コリント15章19節
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
―――> 教会に行く、あるいはイエスキリストの教えを学ぶということは、単なる希望ではないです。ただ肯定的な心を与えるところではない。明るいふりをするところでもない。復活の喜びがあるところです。もし復活の希望がなければ、キリストに従う人はパウロは最もかわいそうな人だと言っています。復活の信仰があなたにありますようにお祈りいたします。
18.エレミヤ33章3節
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
――>クリスチャンの祈りは、わくわくなことだ。私が望むことだけが答えられるのではなく、理解を超えた大いなることを神様は導いて下さるのです。神様に祈る時は、わくわくな信仰を持って、続けて祈りましょう。純粋な心で、神の国を優先しながら、今日も求めていきたいです。
19.第二コリント1章24節
私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
――> 信仰者の同士の関係は、兄弟姉妹の関係です。使徒パウロは、コリント教会に対する使徒としての権利を主張するのではなく、信仰の協力者として励ましをしているのです。互いの関係は支配する関係ではないです。お互いの関係は主に喜びを持って仕えることが出来るように助ける関係です。
20. 第三ヨハネの手紙4節
私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。
――> 喜びは信仰者にとって極めて大事なものです。クリスチャンが喜びを失った時は、何か問題がある時です。霊的な力を失った時です。悩みが深い時です。病にある時です。でも救われたという信仰を回復した時は、悩みを覆うほどの喜びが与えられます。今日の本文でも言っています。真理に歩んでいる人の話を聞く時、大きな喜びがあること。自分だけの喜びがあるのではなく、周りの人々が救われた時に、福音の真理に歩んでいる人の姿を見る時に、大きな喜びが訪れるのです。
21.詩篇62篇1~2節
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。
ーー>静かさの中で主を待ち望むことは、すべての人にとって有益なものです。人は自分の思いが優先してしまう傾向があるからです。黙って。静かさなの中で。黙想の中で。イエスキリストの教えに耳を傾けましょう。神様が私の魂を愛しますという声に集中しましょう。救いの確かさを確認しましょう。私達は決して揺るがない歩みになるでしょう。
22. ペテロ第一 5章7節
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
――> 聖書の御言葉をみると、大いに励まされます。今日のこの御言葉も勇気付けられる御言葉です。思い煩いはありますか。すべてを神に委ねましょう。何もかも主にお任せしましょう。
その神様は私たちの心配のことをご存知で、解決の道も指導して下さるからです。力強い神様のみ手に委ねましょう。
23. 詩篇25篇12節
主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる
ーー> 主を恐れる人について書いてある。箴言の中で、次のように教えている。
「箴言1章7節 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
知識の始めであることが主を恐れることだと言っています。そのような人には、選ぶ道も教えて下さると書いてあります。毎日、生活の中で選択が必要です。選択の中で、何を選ぶのか、迷う時がたくさんあります。一つ一つ、主に教えられましょう。進むべき道を主に依頼しましょう。主よ、方向性と具体的な御旨を教えて下さいと祈りましょう。
24. ホセア6章3節
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
――> 主を知ることを、切に求めることをお勧めしています。切に。。。私達は時間が余っているので、主の知識、人格を学ぶのではない。切に求めることは、主ご自身が望んでおられることです。切に知ることによって、神様の正しい愛を知ることが出来、一人ひとりに対する主のご愛を正確に知ることが出来る。今日も切実に主を知ることを求めましょう。
25. ヨエル2章13節
あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。
――> 信仰を持つことになると喜びがあふれる。しかし自分の罪に向かう時、悔い改めが生じます。心が痛いです。その時、形式的な悔い改めから、真の改心の時が訪れる。その時、憐れみ深い神様のめぐみに接する。今日も形式的な信仰から真の信仰へ、方向転換しようではありませんか。主を恵み豊かな方です。
26.ヨエル 2:18
主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた
――> 妬むほど愛する方は神様です。罪に溺れて、偶像礼拝を捧げている人々に対して妬みます。自分の愛を受け取って下さいと神様は語っています。その民を愛し、あわれみの神様に帰りましょう。神は愛です。
27. ヨハネ15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、
――>神様に選ばれ、神の子どもとして新たになった人は、自分の選択ではないと聖書は言っています。私達は、本人の意志によって神様を信じていると思ってしまいます。しかし、神の国に働く人は、必ず主がその人を選択したことを確信しなければなりません。その時、本当に実を結びます。神様が望んでおられる実が残ります。
28. 出エジプト記13章17節
さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」
――>近道を導かない神様のご配慮がある。その時は理解出来ない。しかし、「エジプトへと逃げてしまう」弱さをご存知の方は、最善の道を用意して下さる。私たちは救い主である、いのち主である神様を、今日も仰ぎましょう。
29.箴言29章18節
幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。
――> 教会はビジョンが要らない?ある意味正しいことですが。教会のビジョンは主の御言葉そのものです。ですので、教会もビジョンが必要です。主のビジョンが必要です。主の御言葉の意味から、ビジョンを立てるのは聖書的ではないでしょうか。聖書の教えから来るビジョンに目を向けないと、みんな民はほしいままにふるまって、まとまらないと聖書は教えています。律法を守りながら、幸いな人生を送りましょう。
30.使徒の働き4章12節
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
――> 救いはイエス様の御名によって来る。他にはありません。キリスト教はこの信仰に堅く立っている。聖書信仰の価値観に立って、前進しよう。あらゆる価値観が教会の中に入ってきます。人々も聖書信仰ではない考え方に心が奪われる可能性もある。この世の判断と考え方を知りつつ、聖書が語っている真理の御言葉に堅く立って、守って行こう。
31。マラキ1章5節
あなたがたの目はこれを見て言おう。「主はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ」と。
――> 私たちが思うイメージより実際の神様は大いなる神です。私達は「主はイスラエルの地境を超えて偉大な方だと」信仰告白しているのでしょうか。神様はイスラエル民族だけの神ではないです。信仰告白している人の神であり、一般恩恵の中では天地創造の神である。信仰の目で偉大なる神の働きを見ましょう。
32.マルコ6章30~32節
さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
――> 今疲れていますか。ゆっくり食事する時間さえないでしょうか。休みましょう。あるデータによると、うつ病は、収入が妥当の場合でも、もしくは高収入であっても長時間の労働はうつ病や精神疾患のリスクを高めるというテータがあった。信仰者であっても同じではないか。いくら神様の栄光のためであっても、十分に休むことをお勧める。イエス様は弟子たちにしばらくやすみなさいと語っているのです。
33.詩篇16篇11節
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
――> キリスト者には永遠のいのちがあります。イエス様と共に歩む人生には、いのちの道の素晴らしさを体験します。めぐみです。喜びです。神様の御前には喜びがあふれています。そして神様の右には、楽しみがとこしえにあります。喜びがあふれる信仰生活を送ってみませんか。
34.Ⅱコリント9章15節
「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」
ーー> 神様のめぐみを知れば知るほど、このような告白をします。言葉で現せない感謝があふれます。言葉であらわせれば、限りがない。感謝の言葉があふれます。ここでの賜物はいろんな解釈がありますが、福音そのものも指しています。十字架の愛を知れば知るほど、神に感謝します。
35.箴言14章12節
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
――> 人間の知恵は不完全であります。これを認めますか。人間の判断には限りがある。ある時、人間が判断するところは、死の道があるのです。道の終わりがどんなところなのか、人生の目的はなんだろうか。真剣に考える時期が必用です。聖書は、神様との歩みの最後は、いのちの道だと書かれています。ハレルヤ。幸いな道を共に歩みましょう。
36.ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
――>力ある聖書の御言葉です。聖書の御言葉は力があります。生きて働いています。
その力は、鋭くほど人の心を察知しています。霊と魂を判別することが出来る御言葉です。
聖書を読みましょう。神様の声を聞くことが出来ます。その声によって慰められます。そして力ある声であることも教えられます。
37. コロサイ2章3節
「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」
――> 聖書知識が足りない時、神様との人格的な交わりがなければ、キリストという方について間違った考えを持つ可能性があるのです。私自身も生きている実際的な利益を考えていました。イエス様を利用して得したいという信仰の姿勢でした。でも聖書をよくよく読みますと、その知恵は普通に考えていることとは異なりました。神様の知恵は復活にあります。それが宝です。復活の信仰は永遠のいのちです。死んで終わる人生ではない、永遠に生きる秘訣も、キリストにあるのです。
38.Ⅰテモテ2章4節
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
――> 聖書が示している神様は、すべての人が救われることを望んでいるとはっきり示しています。真の救いの知識をすべての人が知ることを強く願っているのです。宣教、伝道の目的もここにあるのではないでしょうか。
39. Ⅰコリント3章6~7節
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
――> 成長させて下さるのは、神ですと、聖書は語っています。これは本当に心に残るインパクトある聖書箇所である。一見、人が人を成長させるように見えます。植えて、水をあげるから。錯覚していはいけません。成長のもとは、神ご自身です。教会の成長も神ご自身です。私達は主によって用いられるだけです。今日もこの御言葉を深く黙想しましょう。
40.箴言1章7節
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
――> 箴言が書かれた目的の一つです。主を恐れることは、知識の根源になります。神様から離れて知識を増やすことは、神様の栄光と離れることでしょう。聖書からその知恵を学びましょう。
41.箴言13章11節
急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。
現代訳)不正に得たお金はなくなってしまうが、こつこつ働いて得たお金は、増えていく
――>この御言葉を読むと、知恵が得られる。急に手に入れたことは、急になくなるのです。そういう経験はないでしょうか。急に友たちが増えた人は、その価値を知らないからです。急に人気を得た人は、また急に人気がなくなります。早く何か得る時、早く失われる時は多くないでしょうか。汗をかいて、時間をかけて得たものには、その価値を知っているからです。今現在与えられているものに価値を見ましょう。
42.箴言15章1節
柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。
現代訳)穏やかな答えは、怒りを沈め、激しい言葉は、怒りを引き起こす。
――>穏やかな言語生活は、穏やかさを呼びます。怒りのことばは、怒りを買います。憤りを沈める方法の一つは、やわらかな答えです。柔らかな思考です。柔らかな信仰です。静けさの中で、神様の御声を聞きましょう。優しい声を聞きましょう。そうすると、優しい祈りが始まります。
43.箴言16章2節
人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。
――>自分の存在を正しく評価することは出来ない。神様のみが正しい判断を下さいます。私たちの判断は間違いやすいです。そして自分の都合の良い判断をします。良き相談者は神様です。神様の信仰を持っている人との交わりも良いでしょう。聖書の教えにも良いでしょう。
44.箴言19章2節
熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
――>熱心さは大切な要素だと思います。信仰者にとっても必要です。そして考えましょう。必要な知識が備えているのでしょうか。必要な知識を求めているのでしょうか。知識に対する情熱も求めましょう。そうすると、真の熱心にいたるでしょう。熱さをもって、主に仕えましょう。
45. 箴言25章28節
自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。
現代訳)自制心に欠ける人は、城壁が壊された町のようだ。
――>適切な言葉だと思います。自分の心をコントロールしましょう。壊された町をみたら、この聖書箇所を思い出しましょう。コントロール出来る城壁を建てましょう。壊されたら、また建てましょう。自制心は信仰生活のうえに必要ですね。
46.箴言29章18節
幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。
現代訳)ヴィジョンがないと、人々は自分勝手なことをやりだす。御言葉を守る人は幸いである。
――>教会にもヴィジョンが必要ですね。一番のヴィジョンは、聖書の教えに従うことです。そうすると、神様のヴィジョンを実行することが出来ます。ヴィジョンは、個人にも必要ですね。信仰者にも必要です。勝手にやり出すことをしないように、主のヴィジョンに留まりましょう。
47.箴言30章8節
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
箴言30章9節
私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
――>極度の貧しさでもなく、極度の富みでもなく、毎日必要なものが満たされるのを望みましょう。信仰生活の基本はまず、与えられていることへの感謝があふれることから出発しましょう。極度の豊かさは、神様から離れます。そして極度の貧しさも主から離れていきます。
48. イザヤ43章18~19節
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
――> 昔の自分を思い出す人は、未来にある明るい約束に目を留めることが出来ない。昔の出来事には教えられることがたくさんある。しかし、目は主が新しいことを成し遂げる神様の御業を見る時、乗り越えられる。主が下さる荒野での道、新地での川の約束を待ち望みましょう。確かに導いてくださいます。
49.使徒の働き20章35節
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
――> もらうことが好きな人がいる。みんながそうだと思います。でも与える時、かえってくる喜びを味わっている人は、幸いです。いやかえってくるものがなくても、イエスが十字架で成し遂げて下さった愛だけで満足する人は、与える人生を歩むことが出来る。与える人生の秘訣を過ごしましょうか。
50. 詩篇100篇 3節
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
――>詩篇103篇3節のように告白する方は幸いな人生です。私の主人は、自分ではなく、私たちを造られた神である信仰があるのでしょうか。この告白が出来れば、牧場にいる羊の平安が与えられます。私達は主のものです。主に属しているものです。幸いな人生を送りましょう。
51. 哀歌3章22節
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
――>この世の中では理解出来ない出来事は多いです。津波の被害、地震の被害、台風の被害など、数えきれないです。だから神様の愛はいないでしょうか。いいえ、このレベルで守られているのは、神のめぐみだと聖書は語っています。主の憐れみが豊かですから。主の憐れみは尽きないからです。主に感謝しましょう。
52.イザヤ40章31節
主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
――> 主を待ち望むものは、主の臨在を待っています。今すぐ助けが来なくても、忍耐しながら、主を待つことが出来るのです。主ご自身の働きの波に上手に乗ることが出来るのです。クリスチャンは走る使命があります。歩く使命があります。でも疲れる時を避けて通ることが出来ない時もあるでしょう。その時、待ち望むものは、主から新しい力を受けます。のぼることが出来る新しい力を待ち望みましょう。
53.ヨハネの福音書14章21節
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
――> 愛はロマンチックですが、それだけでは不十分です。愛を言葉で表現することだけではなく、実際に守らなければならいないからです。主の戒めを守る人は、主を愛する人だと言っています。主の愛に留まりましょう。そして、その愛を隣人に実行しましょう。
54. 第二コリント5章14節
キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。(新改訳)
なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。(口語訳)
なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(新共同訳)
――> キリストの愛は知れば知るほど、体験すればするほど、動いていることを実感する。キリストの愛は留まってゆっくり味わうような世界より、動きながら動いているイメージに近いです。キリストの本物の愛に触れた方はこころに強く迫ってきます。駆り立てられます。キリストの愛が囲んでいて、あふれているのです。
55.詩篇119篇67節
苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
詩篇119篇92節
もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
――>苦しみと悩みは誰もが持っています。今日も大きな悩み、小さな問題によって苦しまられることがあると思います。クリスチャンの信仰を持っていても、人それぞれ持っています。今日の御言葉は、その中で聖書の御言葉の喜びを発見する時、乗り越えることが出来ると告白しています。そして過去の自分の過ちも見ることが出来ると言っています。苦しみの中でも共にいて下さる神様をあがめましょう。
56.Ⅰコリント2章4,5節
私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
――> 人を変えるために説得力のある言葉を使おうとします。実は人が変わるのは、雄弁な言葉ではなく、むしろ単純なことばです。それは神の力によって支えられる霊の言葉です。福音を証しする人は、御霊が現れるように、祈りながら準備しなければなりません。主に信頼しましょう。
57.Ⅰコリント15章3~5節
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
――> キリスト教の最も大切なことは、聖書の中で、これです。これとは、三日目にイエスキリストが復活したことです。死を打ち破って、永遠のいのちを与えたことです。これに抜きにしてはキリスト教は意味が無いです。キリストの復活にはキリスト教が伝えたいことが詰まっています。
58.出エジプト13章17節
「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」
――> 神様の導きの方は学ぶ点が非常に多い。出エジプトの直後は、イスラエルの民族は、軍事力がなかった。戦う能力を持っていなかった。軍事力が高いペリシテ人との戦いを避けるように導いたのです。人間の目には、近い道に行きたいが、神様の導きはご配慮がある。そして新しい契約を結ぶためにも、遠い道をわざと、導いたのです。今日も主の導きを信頼ましょう。
59. Ⅱ歴代誌16章9節
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
――> 神様は一般的にどんな人でも祝福を下さるのです。雨を降らして下さり、地上で生活するように環境を提供してくださるのです。これが一般恩恵です。でも神ご自身の御旨を求める人にはもっと祝福を下さる方です。御力を表してくれる時は、神様の御心を行う人を見る時なのです。今日も主の心を知り、聖書から神様の御心を求めましょう。
60.Ⅱコリント13章5節
「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」
――>2年一回車検をしている。車の安全のためである。信仰も点検が必要である。どんなに信仰が熱い、深いと思う人もそうである。今考えている事柄信仰から来たものか、単なる人間の思い込みから来たのか、吟味しよう。考えよう。主の御心を求めよう。自分の信仰が主と正しい関係にあるのか、吟味するのは信仰者として良い習慣である。礼拝を通して、聖書を読むうちに、私は何を考えているのか。信仰に立って物事を決めているのか。信仰に立っているのか。深く深く吟味しよう。
61.民数記6章24~25節
24節『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
25節 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
26節 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
――>毎回、教会で祈られる祈りの中で、祝福の祈りがささげられている。民数記の6章24~26節の祈りは、有名な聖書箇所であり、祝福の元が神様であることを見ることが出来る箇所である。主によって祝福され、守られ、恵まれ、平安が与えられますように。その神様に感謝しましょう。
62. 申命記9章4~6節
4節)あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。
5節)あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。
6節)知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。
―――> 勝利をしている時、良くうまく行っている時は、この御言葉は謙遜になるのだ。勝利の主体は神様ご自身なのだ。私たち人間の正しさによって動かされる神様ではない。私達は何より神様の御心を求めなければならない。私たちが成し遂げた勝利も、主ご自身の意図があるのだ。人間の力ではない、人間を用いようとする、聖霊の力の結果である。これを忘れないようにしましょう。
63.申命記14章2節、
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
――> ユダヤ人は特別に選んだ民であった。その価値は、神様にとって宝石のような存在だと言っている。宝の民、ユダヤ人だった。今日においては信仰を持っている人が主の宝の民である。多くの人の中で特別に選ばれたのです。主に愛されているというアイデンティティを持って歩もう。
64. 箴言3章5~7節
5節)心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
6節)あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
7節)自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。
――> 信仰の経歴が長くなると、自分の知識と知恵に頼りやすい。自分はそうならないと思っても、知らず知らずのうちに自分の経験に頼ってしまう。心を尽くして主に拠りたのめることが愚かに見える。その時、神様のめぐみが薄くなると思う時、主を認めよう。私たちの道を真っ直ぐにされることを認めよう。主を恐れて、悪から離れよう。
65.マタイ10章30~31節
「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
――> 神様は細かい。。。本当です。どのぐらい?あなたの頭の毛さえも、数えておられるのです。あなたの存在を細かくご存知で、あなたのためにお祈りをしています。私のような大した者ではないと思ったことがありますか。でも聖書を読みますと、主はあなたの魂の奥深くまで愛しておられる方であることを示されます。
66.ピリピ3章8節
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
ーー>教会で大事な要素はたくさんありますが。その中で、キリスト・イエスを知らないと本物の信仰ではないです。イエス・キリストはキリスト教の中心だからです。その方を神として、人間の罪を背負った、贖い主として告白する方は幸いである。そのすばらしさを知り、体験している方は福音の奥義を知っている方である。教会に来たら、イエス・キリストに注目してみよう。黙想してみよう。
67.詩篇37篇23~24節
23節)人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。
24節)その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。
――> 詩篇の中で恵まれる聖書箇所です。主によって確かにされると告白する者に主は喜ぶのです。また、その人は倒れることがあります。でも、完全に倒れることがない。主のその手を支えているからです。完全な絶望は信仰者にはあわない。完全な真っ暗はない。主の光があるからです。助け主の神様のみまもりがあるからです。今暗闇にいますか。私たちの手を握って下さる神様を仰ぎましょう。
68.箴言17章22節 「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(新改訳)
箴言/ 17章 22節 「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」(口語訳)
――>ことわざの中で「笑う門には福来たる」があります。笑いは本当に健康に重要なものであります。しかし、魂から笑うことが出来るのは神様の愛です。神様の愛に触れた人は心の楽しみと陽気な心が与えられます。魂の憂いから逃れます。聖霊による笑いを今日も求めましょう。
69.Ⅱコリント4章8~9節
8節)私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9節)迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
--> 聖書の中で励まされる聖書箇所です。クリスチャンの歩みは完全に行き詰まることはないです。完全に滅びることではないです。迫害されるほど辛い時があります。倒れて無気力になる時もあるでしょう。でも、真実な方は私たちを苦しめられる状況から主の計画の道へと案内して下さるのです。途方に暮れている状況の中でも主を追い求めましょう。
70. Ⅱコリント5章16、17節
16節)ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
17節)だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
―――> クリスチャンは神様と共に歩む人生です。神様から永遠のいのちが与えられたのです。地上での歩みは今までの歩みと違うものです。キリストによって新しく造られた者になったのです。人間の外見では変わりがないですが、信仰の観点ではクリスチャンは再創造された者になったのです。信仰の歩みは、人間的な標準から神様の愛の視点で変わったのです。この世界が神様の愛で満ちていることを見ることが出来ます。すばらしい信仰の世界へ。
71. 箴言15章15節 悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。
箴言15章16節 わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。
――> 心に楽しみのある人は幸いである。イエスキリストと共に歩む人生は毎日が宴会のように楽しみを体験する。主を恐れる人になったとしても貧しい時もある。わずかな物で生活する時もある。でも多くの財産を持っていても生き方に不安を覚えるよりは、主を恐れて主と共に歩む人生の幸いを見つかった人は、毎日が祭りである。喜びである。救いの喜びは奉仕の原動力である。
72.イザヤ26章3節
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。
現代訳)主は、主に堅く信頼し続ける人を、平安のうちに守ってくださる。
--> 全き平安がありますか。聖書は言います。主を信頼し続ける人は、志の堅固なものだと言っています。そして、そのような信仰の上に、全きの平安が与えられると言っているのです。主を信頼しましょう。志がなくならないように。悲しい時も、暗闇の時も、主を待ち望みましょう。世から来る平安ではなく、主から来る平安のうちに歩みましょう。
73. イザヤ43章19節
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
イザヤ43章20節
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
――> 神様との出会いは喜びである。この喜びは新地に流れる川のようなものである。飢え渇いている水のようだ。イエスキリストによって乾くことがない水が与えられる。永遠のいのちである。永遠の満足を与える神様に信頼しよう。私たちを選んで下さったことを感謝しよう。
77.イザヤ43章4節
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
――> 神様の目線は愛の目線である。ダイレクトに聖書は語っている。愛していると語っている。大きな犠牲を払いながら愛している。イエス様がその愛を実践して下さった。身代わりになった無条件の愛を実践して下さった。この愛に感謝しよう。
78. ルカ1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。
エレミヤ32章17節 「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。
――> イエスの母マリアは、聖霊によってイエスの誕生が予告された時、恐れがありました。
その時、慰めのことばとして、「神にとって不可能なことは一つもない」と言われました。
人間は限界があり、有限な存在であるが、神からみれば、不可能はないです。
天地創造の神様は不可能なことは一つもないです。その力強い方に私の信頼を置きましょう。その方に信頼しましょう。
79.詩篇119篇71節)
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
詩篇119篇72節)
あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
――> 苦しみ自体は幸せではないです。でもこのように告白しています。苦しみに会ったことは、私にとって幸せでしたと告白しているのです。苦しみを通して、神様のおきてを学ぶチャンスになるからです。聖書の御言葉の通りに導かれる人生であることを学ぶ時、お金より価値あるものが御言葉であることを悟ったのです。苦しみの中で含まれている、神様のメッセージを読みましょう。今はすぐ理解出来なくても。
80.イザヤ29章19節
へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
――>へりくだる者は主によって喜びが与えられると書かれています。そうです。新約聖書の中でも、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」と書いてあります。謙遜な人には、神様の恵みが与えられるのです。当然かもしれません。謙遜な人は神様の御言葉と働きを受け入れるからです。今日も謙遜に歩みましょう。主と共に。
81. 使徒17章28節A
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
――> 信仰が与えられて、感謝していることは、神様と共に歩む存在になったということです。インマヌエル神様は私たちと共にいるのです。今日の御言葉にあるように、信仰者は神の中に生きているのです。神の中に動いているのです。そして神の中に存在しているのです。この方に感謝しよう。
82. イザヤ38章20節
主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう。
--> イザヤ38章20節はヒゼキヤが病気から癒やされて、感謝する時に祈った言葉です。病気を通して教えられることは多いです。ヒゼキヤも病気から救ってくださる神を体験しました。そして告白するのです。生きている日々の間、主の宮で賛美をささげると。声がある限り、主を褒め称えましょう。主と共にいる感謝の恵みを褒め称えましょう。
83.イザヤ40章8節 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
Ⅰペテロ1章24節「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
25節 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
――> 神様のことばは、いつまでも変わることがない。自然の環境が変わっても、時間が経っても、変わらない。人間も変わる。社会も早く変わる。でも御言葉は永遠に立つのです。御言葉を通して語られる神のことばも変わらない。主にすがりついて行こう。
84.イザヤ41章10節
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
――> 恐れる時、主を見ましょう。主は私を助けて、強めてくださる方です。そして神の義の右の手で、私たちを守ってくださる方です。恐れなく、主と共に歩みましょう。
85.Ⅰテモテ4章16節
自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。
――> この御言葉は、2014年3月のよろこびの泉の中で、セルフコントロールの説明の中で書かれている御言葉です。教える人がまず自分自身のことも、良く気をつけることである。最後まで自分の信仰や自分の価値を守り通すことを強調する聖書箇所でもあります。自分に与えられた使命を守りましょう。続けて主に用いられますように祈りましょう。
86.詩篇37篇5節
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
ーー>主にゆだねるということは、消極的な意味で言っているのではないです。主が成し遂げてくださることを確信を持っている人こそ、主に信頼することが出来るのです。歴史の主体は主です。人間は主の被造物です。全能の神様に信頼を置こう。そして結果は主に任せて、人間が出来ることは、最善を尽くして、主を愛して、隣人を愛しよう。
87. イザヤ49章15節
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
詩篇27篇10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。
――> 神様の愛は、親が子に対する愛をみると、理解出来る。親は子に対する愛を注ぐ。でも、たまに子に対する愛を注がない親がいる。そしていくら親の愛が大きくても、神様の愛には及ばない。親は忘れ、捨てる場合もある。しかし、神の愛は忘れない。必ず取り上げて下さる。ここに主の愛がある。
88.Ⅱコリント4章18節
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
――> 永遠の生きる秘訣は、神様の御言葉にある。私達は限界があるものです。私達は限りがある人生である。外見は衰えていきますが、内なる人は日々新たにされる秘訣も、信仰です。信仰は見えないものを見る力がある。いつまでも続く神を仰ぎ見よう。
89.伝道者の書3章11節
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
――> 人の歩みの中では喜びの時もあり、悲しみの時もある。神に対する信仰がなければ、ただ偶然に遭遇するたけで、特に意味を見出すことが出来ないです。運が悪かったと思うだけになってしまう。神の信仰を持っている人は、主がなさることを見上げます。神のなさることを、待ち望みます。後になってから考えますと、すべてが時にかなって美しい神様の計画であることを告白します。しかし初めから終わりまで見極めることが出来ないのは人間の知識の狭さにあります。永遠の思う心を与えた神様を見あげましょう。
90.イザヤ55章9節
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
――>神の導きは私より高い。より豊かな導きが主の導きである。人間の思いだけで前進するより、豊かなめぐみを注いで下さる神様をより信頼しよう。人間の知恵を遥かに超えた神様の知恵を今日も求めよう。
91.Ⅰペテロ1章 8節
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1章9節
これは、信仰の結果である、{あなたがたの}たましいの救いを得ているからです。
――> イースターの時に復活の喜びを味わっている。しかし、現在のクリスチャンは肉眼でイエス様を見たことがない。聖書には見ずに信じるものは幸いであると述べています。Ⅰペテロ1章8~9節にも、見たことはないけれども愛しているのは、信仰の結果であると励ましを与えています。たましいの救いを得ている人は、喜びに満たされていて踊っている信仰があると書かれています。主に感謝しましょう。
92.エレミヤ15章16節
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
イザヤ61章10節
わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。
――> 聖書の御言葉が楽しみになる時は、霊的に成長している段階ではないでしょうか。噛めば噛むほど、美味しいのが主の御言葉です。聖書の御言葉です。心の喜びになる御言葉に信頼しましょう。喜びの世界を味わいましょう。
93. ヘブル13章8節 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
――> 変わらない方はイエス・キリストです。神は永遠の創造の時から、永遠の時まで存在する方である。人はかぎりのある人生であり、一時的にこの地上の歩みが許されたものである。イエス様はいつも同じ姿で、人を助け、支えている。変わらない助け主に今日も感謝しましょう。
94. Ⅱテモテ1章14節
あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。
――> 神様は一人ひとりに良いものを与えてくださいました。本人が気づいているか別として、各自に良いものと、才能を与えてくださいました。特に信仰者は自分のうちに宿っている聖霊の働きを注目しましょう。聖霊の働きによって信仰に入りましたが、聖霊の導きによってまた、信仰を守ることが出来るのです。うちにある素晴らしい賜物を大事にしながら、育てながら、守りぬきましょう。
95. 詩篇34篇8節
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
――>聖書に書かれている神、主は最高の愛を人間に対して示しています。その愛を感じるためには信仰の目が必要です。深くその愛を味わうためには主の愛を見つめ続けることが必要です。主は私たちの助けであり、すべての災いから逃れるように守って下さる神様です。ハレルヤ!!
96. 詩篇20篇7節
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
――>人はそれぞれ誇るものを持っている。ある人は歌声、ある人は体力、ある人は謙遜、ある人はやさしさ。ある人は、財力、権力、高い地位。素晴らしい知識。豊富な経験。しかし神様を知ることになってからはその優先順位が変わってしまった。誇るものが主の御名であることを教えられる。主を通してまことの救いが届くからである。主に感謝しよう。
97. ローマ11章36節
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
――>聖書に書かれている最初の御言葉は「初めに、神が天と地を創造した。」である。聖書の神が示している神は天地創造主である。神からこの世界が来られたのです。そして神によってこの世界が守られ、この世界が維持されている。そして神が意図されたところへ至るのである。大いなる神の計画を聖書から聞こう。人間に向けられている、個人個人に向けられている神の愛をいただこう。
98.マタイ13章16節
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
――> イエス様はおっしゃった。信仰の目がある人は幸いだ。信仰の耳がある人は幸いだ。聖書を読む時、礼拝をささげる時、主の声を聞くことが出来る方は幸いだと言われている。主イエス・キリストのすばらしさに気づくことが出来るように祈る。
99.詩篇19篇12、13節
12節)だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。13節)あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
――> 人間は自分の罪がどれぐらい深いなのか分からない。主のきよさに出会うまでは分からない。隠れている罪を知る方法がない。詩篇19篇の著者は「傲慢の罪から守って下さい」と祈っている。とても優れた祈りである。また罪が自分を支配しないように祈っている。私達は聖霊が支配するように祈ろう。
100. ピリピ4章19節
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
――>キリスト・イエスは栄光の富である。人間にとって価値あるものである。人間の必要をすべて満たして下さるのは神である。一番必要なのは永遠のいのちである。キリストを下さる神様に感謝しよう。
101. ローマ14章20節
食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。
――> 食べる物に関するその当時、意見が違った。偶像礼拝にあたるのかどうか。信仰に関わることになるので、重要であるが。しかし注意する時がある。信仰の初心者に対しては食べる問題はそれほど重要ではない時がある。信仰の成長のためには、食べる問題より、もっと大事なところに目を配ることが必要である。間違うと神のわざを破壊する結果になる時もあるから。信仰のつまずきを与えないように最善を尽くそう。
102. 詩篇94篇12節
主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。
――>聖書には幸いな人が数多く紹介されている。特に山上の垂訓は有名である。この詩篇においても主から教えられる人は幸いであると語っている。主から戒められる人は主の約束にあずかることになるので、幸いな人生である。信仰を守ることも聖書の御言葉を守る時である。
103.
詩篇94篇11節(新改訳) 主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。
94篇11節(口語訳) 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
――>人間のわざは、神様のわざに比べると、むなしいものである。神なしの人生の最後は虚しさに包まれてしまうのである。人は虚しさを経験する。神にある豊かさということは愛である。イエスキリストの愛は虚しさを克服出来る。神は人間の虚しさを知っておられる。その神を信頼しよう。
104. 詩篇94篇18~19節
18節)もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。
19節)私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。
――>混乱に直面した時は、主に祈ろう。その状況をそのまま、主に祈ろう。主の恵みが支えて下さることを体験しよう。悲しい状況が続く時、思い煩いが増す時、主に祈ろう。主の慰めを期待しよう。たましいを喜ばせるものは、主ご自身である。たましいが救われていることを喜ぼう。
105. ヤコブ1章12節
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
――>試練にあった時、とても辛い。耐えることが難しい。聖書は試練に耐える人は幸いだと語っている。試練の有益は多い。試練に耐えぬく時、信仰成長を遂げることが出来る。試練に直面している時は神様の愛を失ったように感じる。試練から逃れた時、神様の愛を改めて感じる時が多い。いのちの冠を受ける時まで、問題、課題に直面しよう。
106. マタイ6章8節
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
――>神は私たちの必要を知っておられる。何が足りないのか、何が必要なのか、祈る前にすでに知っておられる。神は信じる者に良い物を与えようとしている。形式的に意味を知らずに繰り返して祈るより、はっきりした言葉で明確に祈りをしよう。ただ長く祈りだけが主に答えられる祈りではない。真心をもって主に求めよう。
107.詩篇103篇5節
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる
――> 神に出会った人の信仰告白である。一生、良いもので満たされたと告白出来るのは生きている神との出会いを確信する人のことばである。新しく生まれ変わった人は主から鷲のように新しい力を受ける。今日も主のめぐみが満たされていることを悟ろう。
108. マタイ16章16~18節>
16節)シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17節)するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
18節)ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
――> ペテロはりっぱな信仰告白した。イエスはそれが可能にさせたのは、神であることを教える。明らかに示したのは、神であると教えている。信仰告白も神の導きである。もちろん私達は自分が納得して告白するつもりであるが、聖霊によって私達は告白するのである。また、イエス様はペテロの告白の上に、主の教会を建てることを教える。とてもとても大切な事柄である。人間の共同体ではなく、主の共同体である。今日も主の御心がどこにあるのか、吟味しよう。
109. ローマ14章18節
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
――> キリストに仕える人は、神に喜ばれる。そいて、人々にも認められると聖書は記録している。例えば、サムエルに対して、ますます成長して、主にも、人にも愛されている人として描かれている。イエス様も、そうであった。主の前に成長しよう。人々に神様の愛を実践しよう。
110.箴言29章25,26節>
25節)人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。
26節)支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。
――> 神様の導きより、人を恐れてしまうことを、聖書は、罠にかかると、記している。なぜだろうか。人の中心の歩みは、環境によって変わってしまうからである。例えば支配者の顔色によって行動が変わる人は多い。時の権力者によって正しいことが曲がってしまうケースが多い。でも人生最後に判断するのは神である。これを忘れてはいけない。
111. Ⅰサムエル12章23~24節
23節)私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。
24節)ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。
――> サムエルが最後にイスラエルの民に語ったメッセージである。続けて祈ること。そして正しい主の道を教えること。その時、適当に教えるのではなく、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさいと語る。24節の聖書の言葉にも注目しよう。主がどれほど偉大なことをしたのか。見分けるのが信仰である。
112. 哀歌3章22~25節
22節)私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
23節)それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
24節)主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
25節)主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
――> 今生きている理由が神様の助けだと告白する者は幸いである。主のめぐみを知っている者である。主の哀れみ、主の愛は尽きない。朝ごとに、主のめぐみを感じる信仰者はハピーな者である。力強い神様の愛と恵みを気づいて生きよう。そうすると、信仰者は主を待ち望むことが出来る。主はいつくみ深い方であることを毎日、感じる人は、主の導きを信頼しているので、続けて待ち望むことが出来る。
113. ルカ8章15節
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
――>実を結ぶ人の生き方が紹介されている聖書の御言葉である。まず御言葉を受ける時、受け入れやすい心が必要だ。そして、御言葉を守る人である。いくら良い教えを聞いても、守らなければ良い実を結ぶことが出来ない。そして時には耐える時が必要だ。理解出来ない日が来る。主が下さった試練の日を信仰の目で耐え忍ぼう。将来主が下さるめぐみを期待しながら。
114. ヨシュア4章23~24節
23節)あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。
24節)それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」
――>ヨルダン川を渡り終わった時、与えられた御言葉である。奇跡を体験した時、奇跡そのものだけに関心を持っていない。その意図がある。それは民の信仰の前進を期待している。主のみ手が強い、そして主を恐れることが出来るか。今日も主は、被造物である私たちが主を恐れ、礼拝することを待ち望んでおられる。
115. エレミヤ17章7~8節
7節) 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
8節) その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。
――> 主を信頼する人の特徴が書かれている。祝福される人の特徴である。流れるほとりに根を伸ばす人だと言っている。暑さという試練が来ても、いつも下から備えられている栄養分によって乗り越えることが出来ると、書かれている。主を信頼しよう。
116. 詩篇103: 2
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
――>人はすぐ忘れる傾向がある。自分に良くしてくださった恵みも忘れる。良くして下さらなかった思いは強く残っている傾向はないか。主を見上げる時、主のなさっためぐみを思い出そう。数えてみよう主の救いを思い出そう。主の愛を考えるだけで、もう一度主のめぐみにあずかることが出来る。本日も、主が恵んでくださった御業を忘れることなく、持ち続けよう。
117. ルカ21章13節
それはあなたがたのあかしをする機会となります。
――> 大地震、戦争、疫病、迫害など、人間にとってはとても辛い経験であるが、神様の視点ではこの時こそ、あかしする機会となると語っています。状況が良い時でも、悪い時でも信じる人は神様の愛を伝える良いチャンスを見る目が必要です。またその愛を実行する勇気と確信も必要ではないでしょうか。
118. ピリピ3章20節
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
――> とても信仰者にとって慰められる聖書の御言葉である。地上で住んでいる私達だが、やがて行くべきところがある。それが天国である。天国のパスポートを持っている身分としてこの地上で過ごしている。ですので、私達は主イエスの再臨を心から待ち望んでいる旅人である。
119. マタイ4章4節
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
ヨハネ6章35節
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
――> 人に必要なものはたくさんある。肉体的なものは生きているのに大事である。根本的に必要なものは、いのちのパンである。いのちのパンは決して渇くことがないイエス様から来るものである。
120. ルカ6章36節
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
――> イエス様の生き方は私達の生きる方針を見せて下さる。主のあわれみを見た人は、それを実践することが出来る。神があわれみ深いように、生活において誰に対してもあわれみ深い生活になるように祈ろう。自分を愛してくれる人に限定せず、自分を呪う人に対しても聖書は祝福の祈りすることを願っている。あわれみ深い信仰になろう。
121. イザヤ49章1節
島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。
――>神様は生まれる前から私の存在を認識している。召して下さる。胎内にいる時も私の魂に関心を持っている。ですので、大いなる計画を持っている神様に耳を傾けよう。最善の道を用意して下さる神様に委ねよう。
122. イザヤ25章4、9節
イザヤ25章 4節 (抜粋)
あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。
――> 主はあらしの時の避け所である。疲れている者、悩んでいる者は、主のところに来ると、
イザヤ25章9節
その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
――>本当の神、まことの神であることを信じている人は、御救いを楽しんでいる。また喜びの生活があふれている。キリスト教の信仰は救いの確信から来る喜びがある。
123. ヨハネ3章3、5節
3節) イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
5節) イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
――>新生のめぐみは、主から来るものである。新しく生まれた人生は主にあって可能になる。その人生は神の国を見ることが出来る。なんと、感謝なことでしょうか。
124. ヨハネ4章34節
イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
――>食物は人間が生活を行うことにあたって、基本的なエネルギーである。イエスは自分の働きを食物で例えている。イエス様の働きの根本的なことを教えている。イエス様は、神様の御心を行うことである。そして、その御業を成し遂げることであると言われた。クリスチャンも同じではないか。この世で使命を果たすことは、自分の使命を果たすことではない、神様の御心を行うことであり、それを成し遂げるために汗が必要である。もう一度主に選ばれている者として自覚を新たにしよう。
125.ルカ10章20節
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
――>信仰者の名前が天に記されている喜びを味わおう。イエス様を信じる者にとって救われた表現は様々あるが、名前が天に記されていると、別の表現で表している。そして他の喜びより、この喜びが最優先の喜びであることだと聖書は語っている。この喜びを深く味わおう。
126. ヤコブ4章1節
1節)何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
――>争いの原因は宗教ではない。イデオロギーではない。その背後には人間の罪である。人間の欲望である。この世では完全なる平和を実現することが出来ない。イエス・キリストの再臨によって成就するのである。主イエス・キリストを待ち望みつつ、地上では平和の道具として生きよう。
127. レビ記19章33~34節
33節)もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。
34節)あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。
――>イスラエルがエジプてで奴隷生活を送った。400年の年月は長かった。でもこの期間は無駄ではなかった。奴隷生活の辛さを経験した。そして他者についての哀れみを忘れないように教訓として教えている。痛みの経験は無駄ではない。他者の理解を一層深くなる。失敗の経験も無駄ではない。信仰による失敗経験は霊的な世界を理解するのに重要である。
128. 伝道者の書5章7節
夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。
――>人間の夢の中には良いものもあり、人に役に立つものもある。しかし、夢の中には人間的な思いも多い。人間的な夢も入りやすい。信仰者は見極めなければならない。中心は神を敬うことである。ひたすら主の思いを求めよう。
129.伝道者の書 5章10節
金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。
――>あなたは何をする時満足しますか。人は自分が満足するところに足を運ぶ。金銭もある程度の満足を与える。聖書は言う。金銭を愛する人は、金銭に満足しない。神を愛することを教えている。神を愛すると、本当に満足が与えられる。
130.伝道者の書 7章23,24節
23節)私は、これらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵ある者になりたい」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。
24節)今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見きわめることができよう。
――> ソロモンも、続けて智恵を求めた。この世の智恵も豊かである。智恵は簡単に得るものではない。深く考えないと得ることが出来ない。ソロモンも、智恵があるものになりたかった。でも、完全に得ることが出来なかった。その智恵には及ばないと告白している。人間の智恵には限界がある。本当に智恵は、神を知ることである。虚しさを克服出来るのは、神様から来るものである。
131. 詩篇33篇11節)
主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。
――>人間の考えは浅く、長い視点を持つことが出来ない。神様の計画は世々に至る永遠の計画である。あなたが携わっている働きが永遠の意味を持つためには、主の御心が必要である。信仰を持って、主の導きを待とう。そして主の御心に従おう。
132. エレミヤ31章3節
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
――> 神様は愛である。永遠から永遠まで愛を示している神様である。エレミヤ書でも、永遠の愛が書かれている。永遠の愛をもって、人を愛する主である。人の思いを遥かに超えた愛である。
133. 申命記8章17節
あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。
――>信仰において気をつけることが多くある。私の力で、このことを築き上げたと高慢になりやすい。神様の力を信頼しよう。すべては主から来たものである。すべての環境、才能は主が与えたものである。
134. 申命記30章11節
まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
――> 聖書に書かれている命令を守るのは難しいことではないと書かれている。現実と遠くかけ離れたものではないと述べられている。心をつくして、力を尽くして、主を愛するならば、特別人だけ実現するものではなく、信仰者すべての人が実現出来る御言葉を励ましている。まず実行できる戒めからやってみよう。
135. 箴言 4:18(新改訳)
義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。
箴言4章18節 (口語訳)
正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。
箴言4章18節(新共同訳)
神に従う人の道は輝き出る光/進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
――> 正しい道はすぐ答えが出ないように見える。でもだんだん輝きを増していくと聖書は書かれている。道のりは遠く感じる時もあります。あきらめずに、前に進もう。進むほど光っているめぐみを体験しよう。すぐ焦らないで熱心に待とう。
136. マタイ福音書7章11節(抜粋)
天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
――> 神に祈る、主に祈る時に主が答えられる。答えられるととても嬉しい。でも答えることが出来なくても心配しないでください。今日の聖書箇所は言われる。求める信仰者の願いより良いものを下さると約束しているからである。主に祈ろう。答えを待ち続けよう。
137 . 箴言15章16節 わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。
箴言15章17節 野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。
箴言17章1節 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
――> 心に響かせる聖書の御言葉である。生き方が問われます。人間の間に平和で暮らすのが主が望んでおられることである。与えられている家族に感謝しよう。日用の糧が備えられていることを感謝しよう。
138. 詩篇69篇30,31節
30節)私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。
31節)それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。
――> ダビデは69篇で苦しみをのべている。でもその中で信仰を失わず、神様に感謝している。この感謝を学ぼう。感謝は、ささげるものより、まさっていると告白している。主が下さった苦しみを感謝しよう。主が喜ばれる。今の苦しみを主の信仰でみてみよう。
139. 新改訳 イザヤ28章29節
これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。
口語訳 28章29節
これもまた万軍の主から出ることである。その計りごとは驚くべく、その知恵はすぐれている。
新共同訳 28章29節
これもまた万軍の主から出たことである。主の計らいは驚くべきもので/大いなることを成し遂げられる。
――> 神を知れば知るほど、このような告白が出てくる。驚くべき方である。その知恵は人の考えを超える。優れている。神様はおもんぱかる方である。聖書に示されている主に出会うように祈る。
140.詩篇4篇1節
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
――>ダビデも苦難の連続の時期があった。ダビデの子供によるクーデターの辛さを経験した。あらゆる信連の中でも主が下さったゆとりを経験したのである。今日、心のゆとりがるのか。主が共に下さるならば、必ず主の平安があるはずである。今日も主から来るゆとりを持って、前進しよう。
141.詩篇4篇 3節
知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
――>主を信じるものは、特別な神様の愛を知っている。神は信じる人に永遠のいのちと、神の国を相続できると、人間が考える以上のめぐみと祝福をいただいている。今日の詩篇の御言葉のように、特別に私たちと関わっている。その神様が私たちの祈りを聞いて下さることも特別である。今日も主の特別な愛の中で歩もう。
142.詩篇4篇 8節
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
――>主の愛と平安を確信する時、ダビデが眠りについた。緊張と痛みの中では安らかに生きることが出来ない。眠ることが出来ない。主を信じる時に、主から来る平安を体験する時、身体的にもめぐみが与えてくれる。
143.詩篇12篇6節
主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。
現代訳)主の御言葉はごまかしが無く、確かで、真実そのものである。
――>聖書の御言葉の深さを知れば知るほど、純粋な教えであり、御言葉から聞けば聞くほど、私たちも神様のみ前で純粋になる。主の御言葉は確かに救いへと導くからである。
144. ヘブル5章11節
この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
――>神様は、私たちに話そうとすることが多い。でも、聞く私たちが、聞く準備が出来ていなければ、奥深いめぐみの御言葉を理解することも、本当の意味を聞き分けることが出来ない。ですから常に信仰者は、聞く耳を与えて下さいと祈りましょう。主の臨在を求めましょう。
145.詩篇 92篇4、5節
4節)主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
5節)主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。
――> 神様が私たちになさったわざを信仰で見るならば、喜ぼがあふれる。詩篇92篇の著者は御手のわざを、喜び歌っている。人間の思いを遥かに超えている主の深い恵みに今日も仰ぎ見よう。
146.詩篇92篇13節、14節
13節)彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
14節)彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
――> 主の家に住むことは、信仰者の祝福をあらわしている。神様の庭でいるように栄えを経験する。年老いても、ますます、実らせる人生であることを今日も語っている。いのちがあるかぎり、主に用いられることを祈ろう。
147.イザヤ55章11節
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
――>聖書の御言葉が確実に成就されると、断言している。現代にも同じ聖書の約束は実現される成功される。でも私たちは忍耐が足りない、待つことが苦手になっている。虚しい響きだと考える時がある。今日のイザヤ55章11節に目をとめよう。
148.詩篇20篇7節
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
――> 何を誇るのかによって価値観を知ることが出来る。あなたは何を誇りにして生きているのか。静かに自分に聞いてみよう。神を信じ、神に信頼を置いている人生は、主の御名をほこりにしている。御名によって救われている恵みに感謝する人生になる。
149.詩篇42篇1~2節
1節)鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2節)私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
――> 私の魂がどのぐらい主を求めているのか。鹿が谷川の流れを慕いあおぐように神様を探しているのか。生ける神を求める時、切に求めているのか、自分に聞いてみよう。神の存在に無関心である現代こそ、私たちは神様の御心を探し求めよう。
150.詩篇77篇12節
私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。
――>振り返って、主のみわざを考える時間は豊かになる。ただ人間の思いだけではなく、主がどのぐらい私たちを祝福しているのか、静かに考える時間は未来のためにもとても重要な時間である。無意味な時間はない。これからも主がなさろうとする主の計画を思い巡らそう。
151.詩篇73篇28節
しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう
――> いろんな苦しみを経験しても近くに神にいることを自覚するならば、幸せである。避け所になって下さるからである。そのみわざを、親しい友に語り告げよう。
152.詩篇118篇8~9節
8節)主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
9節)主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。
――> 神様より他のもの、他の対象を信頼することはないか。信仰者の闘いである。心から主に信頼しよう。あらゆる環境に置かれても主だけを信頼しよう。もちろん、神は人を通しても助けて下さる。
153.詩篇131篇2節
まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。
――>子どもが母のそばにいる時、落ち着く。信仰者は神様の前にいる時、魂が和らげることが出来る。主の平安を今日ももらおう。
154.エレミヤ 29章11、12節
11節)わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12節)あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
――>苦難に見える時、この聖書の御言葉を読む時、力になる。私たちは状況に左右されやすい。わざわい、そのものに影響を受けてしまう。でも神様の計画は、平安を与える計画である。将来と希望を与えるために、人間を導いている。そうするためには、続けて主に呼び求めることが必要だ。祈ろう。今日も祈ろう。
155.エレミヤ23章32節
見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。――主の御告げ――彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。――主の御告げ――
――>偽預言者の特徴がエレミヤ23章にも書かれている。神様の御心を伝えるのではなく、自分の幻を語ってしまう。しかし最終的には偽預言者の自慢話を語ってしまう。主の栄光のために働いているのか、自分のわざを宣べ伝えるのか、今日も黙想しよう。すべて神様の栄光があるように。
156.ヤコブ1章26~27節
26節)自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
27節)父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
――>熱心であることは良いことだと思う。続けて勢いを持って、主に仕える姿勢はとても大事な姿勢である。でも時には虚しい宗教の姿勢がある。自分が信心深く思っても、自分の舌をコントロール出来ない時である。孤児や、やもめたちに対する哀れみの心がない時である。また自分の信心深い本質をこの世から守ろう。虚しい宗教にならないように。
157.箴言16章25節
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
――>神様の意図と人間の目は違う時が多い。死の道でも、人間が見ても、素晴らしく見える時がある。判断力を養われることが必要です。神様の視線を持つことだ。聖書を読もう。聖書人物の生涯を調べよう。自分の道を振り返ってみよう。いのちの道を選びとることが出来るように祈ろう。
158.Ⅰペテロ5章7節
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
――>心配する時、神に委ねることが出来るのか。神様を信頼し、信仰の道を選ぶ時、思い煩いを主に任せよう。主は私達と共に心配してくださる方だと今日も語っています。いろんな落ち着かない思い、心配などを主に委ねよう。委ねてみよう。また委ねてみよう。
159.詩篇22篇10節
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
――> 神様はいのちの主です。私達が体内にいる時から私の神です。私達が認識する前から、神様は守ってくださったのです。恵みを気づくのは遅いです。信仰に入ってから、この真実を悟るものです。いや聖書を読みますと、この世に存在する前から神は私達を計画していた方だと教えられます。私たちは大切な存在です。確信しましょう。
160. 詩篇42篇11節
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。
――> 信仰を持っていても、悲しいきもちになる。否定してはいけない。うなだれている時も多い。認めよう。主の前でも思い乱れる時も多いのではないか。あれこれと心を悩ます問題によって、神様の前でもそうなる時もある。しかし聖書は語る。神を待ち望め。状況だけみるな。神様を待ち望め。救い主神を待ち望め。今日もこの御言葉を信頼せよう。
161. 使徒3章6節
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
――>誰かを助ける時、どうすれば良いのか。原則は、自分に与えられたものを与えることだ。自分にはないものを与えるのは、疲れます。出来ないです。持続出来ないものです。与えられたものから、与えましょう。クリスチャンならば、与えられた愛、与えられためぐみを誰かに与えましょう。キリストの御名を宣べ伝えましょう。
162. ルカ21章12~13節
12節)しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
13節)それはあなたがたのあかしをする機会となります。
――>今日の聖書の御言葉は本当に深い意味がある御言葉だ。信仰を守るのが大変な時こそ、逆に良い伝道の機会となることだと語っているからである。裁判を受ける時、王たちに福音を述べる良い機会となる。現代に生きている私たちはこのような状況は少ないと思う。悲しみの状況でも、証の良い機会となることを忘れないようにしよう。また重要なことは、良い環境ではないので、福音を宣べ伝えることが出来ないと言わないようにしよう。このような絶望な環境でも主によって用いられることを確信しよう。
163. ルカ21章36節
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。
口語訳21章36節
これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい
――>クリスチャンに与えられた特権は祈りだ。目を覚ますことができることも、祈りだ。主は油断せずに祈るようにおすすめしている。今日も気を許さないで、信仰者という自覚をしよう。神様の愛を求めよう。
164. コロサイ1章6節>
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
――> 福音を本当に理解する時、神様の勢いが与えられる。私たちは十字架の愛と、復活をどのぐらい理解しているのか。世界中で広がる福音は信仰の目が開かれた時、勢いが与えられる。これは人間から出てくるパワーではない。数え切れないめぐみのパワーであり、静けさの中でのパワーである。私たちに届いている福音は勢いをもって、私たちまで届いたことを感謝しよう。
165. ガラテヤ6章4節
おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
――> 自分自身を良く調べることは怖い。自分の声を録音して聞くとゾットする。意外な自分を発見するからである。神様のみ前で人間が立つと、ただの罪人である。人間はそれを知らない。祈る時、福音を聞く時、教えられる。誇れることも、主の前で持って行こう。自分だけの誇り、自己満足の誇りかもしれない。へりくだって謙遜に主の前で歩もう。
166. 申命記16章17節
新改訳)あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。
口語訳)あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。
――>献金、捧げ物をする時の心構えが書かれている。それは主が下さった祝福に応じて捧げることである。自分の立場、自分のプライドを考えて捧げる時は、正しい献金ではない。神様が下さったことに感謝して、神様の国の発展のために祈り込めて捧げるのだ。他の人の捧げ物に影響受けないようにしよう。ただ、他の人にある良い信仰の態度があれば学ぼう。
167. 申命記16章19節
あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
出エジプト23章8節
わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
――>申命記16章には三大祭が書かれている。その後で、司法を司る者にこの御言葉が与えられている。偏って判断するな。わいろは、知恵ある人にも、盲目にさせる誘惑になると警告している。あらゆる誘惑から守られて、信仰生活に励むように祈ろう。
168. ヘブル4章2節
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
――> 良い話しも聞き流すと、自分の生活に益にならない。感動の話でもその価値を見いだす時にその奥義を味わうことが出来ます。聖書の教えの中でも多くの信仰の話しがある。信仰によって結びつける時、聖書の話しは魂に満足を与える。主が生きていて、主の愛の中に歩む人の幸いを見つけることが出来る。今日も信仰の目で見つめよう。信仰の目を開かせるように祈ろう。
169. ヘブル4章16節
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
――>時にかなった助けを受けるためには、神様との交わりが必要である。近くのところで神様の御心を知ることが必要である。その状況の良い助けをもらったにもかかわらず、主から与えられたものを認識出来ないことが多い。日々主から恵みをいただこう。イエス様の血潮を信頼して、大胆に主の前に近づこう。
170.ヘブル12章2節
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
――> 信仰は私から始まったのではない。聖書には「信仰は神から始まった」と語っている。そして信仰の完成もイエス様が成し遂げると語っている。天地万物を創造した方は信仰の世界もお作りになった。ですから、そのイエス様の目を離さいないで、見続けよう。御言葉の奥義を求めよう。
171. Ⅱコリント1章8~9節
8節)兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9節)ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
――> 使徒パウロの信仰の素晴らしさを見る聖書箇所である。非常に激しい圧迫を受けた時、そして死を覚悟するほどの試練の時に、使徒パウロは告白する。自分自身を頼む信仰から神様への信仰の訓練の時として受け止めた。そして、死んだとしても、よみがえらせて下さる復活の信仰に目を留めた。私達も学ぼう。神により頼もう。
172.申命記5章15節
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。
――> 安息日にを守る時に、神は奴隷であったことを覚えることを命じている。自分がいかに罪人であり、神様の恵みがあって、罪人から救われたかを覚える日として守るように教えられる。エジプトから連れだした恵みの神を覚えよう。過去を振り返ってみながら、救いの神を覚えることは、信仰的に励まされる。
173. 伝道者の書4章4節
私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
伝道者の書4章4節(新共同訳)
人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。
――> ソロモンは頭が良くて、鋭く人生を見ることが出来た。成功している人々を見るたびに、競争心と妬みが原因であることを見ていた。それは虚しいと言っている。意味が無いところに競争心だけで、熱心にやっていることは虚しいことだ。私たちは神を恐れて、実りある人生になろう。
174.箴言20章24節
人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。
――> 人は神の計画を知ることが出来ない。神を知らない時は精一杯自分のために使う。しかし神の存在の気づいた時、主によって歩んでいることを悟る。聖書に示されているクリスチャンの生き方が示されている。最善の道を導いて下さる主に委ねながら、楽しみながら一日一日を過ごそう。
175.申命記5章16節
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。
――> この御言葉は十戒の中で人間に関する戒めである。その初めて書いてある。人間関係の最初は親との関係である。これは子どもたちに与えられたものではない。両親を持っている大人に与えられている。家族関係が円満であることは、幸せの基本である。家族関係で人に仕える姿を学ぶ場所である。人間関係において信頼を得ることは、幸せを感じる。暖かい家族を作ろう。
176.出20章7節
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
――>軽々しく主の名前を呼ぶことも注意することである。しかし、もっと本質的なこの戒めの内容は、神様の祈る時、自分がまるで、神様のように祈っていはいけない意味である。神に命じてしまう人間、自分の思い通りに動かしたくなる人間の罪を警告している。神の名前を利用して、神様を利用しちょうとする罪はないか。今日も黙想しよう。
177.エレミヤ31章3節
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
――> 愛を他の言葉で言うならば、誠実を尽くすことである。愛は誠実の要素である。
これを考えると、まじめに誰かと関わりを持つことの重要性を感じる。神は誠実をもって、人間と関わってくださった。神様に感謝しよう。
178.エレミヤ29章12~13節
12節)あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
13節)もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
――>聖書に記されている神について、愛について、イエス様について、心を尽くして探し求めよう。そうすれば本物の神を見つけ出すことができる。神様は人間に対して最善の道を開いて下さる。同時に人間である私たちは誠実をもって、主の教えに耳を傾けよう。聖書のめぐみを求めよう。
179.Ⅰコリント16章9節 というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。
――> 神様は信仰者に大きなチャンスを与えて下さる。神様のために門が開かれる時がある。しかし神様が導いて下さる道はいつも簡単な道だけではない。反対者も多く出現する時も多い。神様がゆるされている道でも困難があると認識しよう。その道の最後には主が下さる喜びがあると信じよう。
180.イザヤ30章10~11節
10節)彼らは予見者に「見るな」と言い、先見者にはこう言う。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。
11節)道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」
――>神様の正しい教えを聞きたくない人も多い。昔もそうであった。強く反対していた。預言するな。本当の神様のことばはどうでもよい。もっと耳障りのよいことを語って欲しい。イスラエルの神を消したいと願っている人も多い。真のクリスチャンは、正しい神の言葉に耳を傾けよう。
181.Ⅰ歴代誌28章9、10節
9節)わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
10節)今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。
――>神に仕える時の信仰の姿勢をダビデはソロモンに教えている。全き心は主に用いられる特徴である。心から主を信頼する人は、ひたすら主に向かって歩むことができる。また、ダビデはソロモンに教えている姿勢は、喜ばしい心持ちである。宮を建てる時も苦難が訪れる。その時も、喜びの信仰を持つことをおすすめしている。私たちも、全き心と喜ばしい信仰を追い求めよう。
182.ルカ13章33節
だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。(抜粋)
――>この御言葉は主イエス様がパリサイ人に話したことばである。身の危険があることは承知している。十字架で死なれても、最後までイエス様はご自身の道を進まれると確信をもって言う。私たちも今日も、明日も主に示された使命を全うしよう。
183.イザヤ37章18節
主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。
ーー> ヒゼキヤ王の祈りの一部である。自分に置かれている状況をそのまま直視することは信仰の大事な部分である。現実逃避ではない。そのままの現実を見つめることは辛い作業であるが、信仰をもって事実と向き合うことは本当の信仰である。現実から来る辛さと悲しみを見よう。それを遥かに超えるめぐみがあることも信じよう。
184.ミカ書7章8、9節
8節)私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。
――> ミカ書の最後には、主の希望が書かれている。今の状況は闇の中にすわっていると告白している。しかし、光である主が必ず導いて下さることを信じている。信仰者は最後まで絶望してはいけない。主の光を見いだす時、喜びが訪れる。
9節) 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。
――> 8節の続きの聖書箇所である。闇の中で、私たちがやることを示して下さる。それは、自分の罪を見る時間だ。神様の激しい怒りを受けている事実を確認して、悔い改める時である。そして、主に叫ぼう。正しく判断する神に私たちの願いを訴えよう。主が私を導いて下さる約束を信頼しよう。
185. 詩篇143篇5節
私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。
――> ダビデの賛歌の一部分である。ダビデが敵の前にとても困っている時に歌っている。とても不安の状態でも、ダビデは昔のことを思い出したのである。静かに落ち着いて、主の御業を考える時を持ったのである。主がなさった素晴らしいわざを思い出したのである。私たちも過去に導かれた勝利の瞬間を思い出そう。現在の苦しみを乗り越える良い時となることを確信する。
186. イザヤ49章15節
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない
――>人間のわざと功績は忘れられる。人気者の発言、実績も時間とともに薄くなる。人間は自分のことで精一杯である。しかし、神はたとえ両親が子どものことを忘れても、神は覚えていると聖書は語っている。恵みである。主に信頼しよう。主に頼れよう。
187.エレミヤ5章31節
預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。
――> この教えは、神様の御言葉なのか、ただ人間の観望なのか知らない時がある。神様の御言葉を知らない時は人間がやりやすい方向で行ってしまう。そして、その道を愛してしまう。多くの人が行く道が神の声ではない道なのに、見極めることが出来ない。今日、神の御言葉を求めよう。自分勝手な道なのか、ふりかえてみよう。
188.エレミヤ6章16節
主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。
リビングバイブル)それでもなお、主はあなたがたに訴えます。「昔あなたがたが歩いていた、神を愛する幸いな道を探し出し、その道を歩きなさい。そうすれば、たましいに安らぎがくる。ただあなたがたは、『いや、その道を通りたくない』と答える。
ーー>神を信じる者が、信仰に迷った時、回復の方法が記されている。それは昔神様と歩んでいたその道を探して、もう一度歩むことである。夫婦の愛が冷めた時、二人だけの思い出があるところに行くことは愛の再発見の機会となる。これと同じように主と深く歩んだその過去を思い出し、その場所に行く、その仲間と会えることは信仰につながるである。神様はそう願っておられる。
189. エレミヤ29章12、13節
12節)あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
13節)もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
――>バビロン捕囚70年後、主は約束してくださる。祈ろうよ。探し求めよう。心をつくして探し求めよう。70年間の生活を通して、失った神の存在を悟るように強く促している。神を知らない時がありますか。神を見つける信仰が与えられますように切に祈ります。
190. 箴言17章1節
一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
――>人は豊かさをいつも願う。もっと便利なもの、もっと都合の良いものを願う。そして与えられると嬉しい。しかし、今日の聖書箇所は豊かだけではまことの幸せではないことを教えてくれる。逆に貧しくても平和で、楽しみで満ちているものが更に良いものだと語っている。主の導きを信じよう。神様の導きを信頼する時、どんな状況でも感謝と平安があるでしょう。
191.Ⅱテサロニケ3章5節>
どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。
――>信仰に目覚めた時、心が導かれる。そして信仰が段々深くなり、自分のものになる。信仰を継続的に維持するためには神の愛とキリストの忍耐を知ることが必要である。使徒パウロはテサロニケ教会のために祈っている。神の愛とキリストの忍耐を知ることができるように。私たちも祈ろう。
192.イザヤ43章19節
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
――>神様がなさろうとする恵みを期待しよう。人間は過去の経験にもとづいて生活してしまう者である。主よ、荒野に道が開かれる経験をさせて下さい。不信仰のものを、変えさせて下さい。
193. エレミヤ31章25節
わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。
――>魂の満足は、神様によるものである。疲れている人、萎縮している人は主からくるめぐみをいただこう。常に霊肉が神様のめぐみによって満たされるように祈る。
194. Ⅱコリント7章5~6節
5節)マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
6節)しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。
――> 使徒パウロの信仰と生涯は信仰者の見本になる。そのような彼も不安と苦しみと戦っていたことが分かる。外側と内側の両方恐れがあった。しかし、神を信じた。どんな神なのか。聖書が語る神は慰めて下さる神である。そのような神は人を使わして、人を通しても慰めを下さる。現在接している方々に感謝しよう。神様に感謝しよう。
195. 哀歌3章27節
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
――> 若い時には苦労は無駄ではない。自分の能力よりチャレンジは多くの有益が与えられる。神にあって与えられる苦しみを私たちは訓練として受けよう。試練を受動的なものではなく、積極的に受けよう。年寄りの時に下さるめぐみがある。そのめぐみを期待しよう。
196. ハバクク2章3~4節
3節) この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。
4節)見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
――> 神の時を待つ時、今日の御言葉は力になる。人間にとって遅くなっても、遅れることではない。神の導きは真実なものを確信する人は、忍耐をもって待つことができる。今日の箇所でも強く述べられている。「それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」正しい人は信仰によって生きることを最後に強調されている。今日も信仰をもって、主の導きを見よう。
197.詩篇69篇32節
心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。
――>心の貧しい人とは、マイナス的なイメージではないです。神様だけを追い求める信仰を指しています。本文には神を尋ねもとめる者たちを指しています。神に会えば会うほど、心が生かされます。それを体験しよう。
198. ホセア書13章6節
しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。
――> 祝福だけ求め、それが実現された時、主が成してくださったと告白する人は感謝である。でも大体、人は思い通りに行った時、自分の力でそれを成し遂げたと思うようになる。高ぶりである。イスラエルの民族も高ぶった時が多かった。神を忘れてしまった。今日高ぶった心を取り除いて、主だけを褒め称えよう。
199.エレミヤ31章25節
わたし(神)が疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。
――> 神様との深い交わりは、疲れが無くなる。神の前の人間は罪人で無能力であることが教えられる。自分探しの旅が終わる。神の前に人間は小さなものであることを知る。被造物にすぎない者であることが分かる。しぼんだ魂が主にあう時、心が満たされる。今日も主のめぐみを求めよう。
200. イザヤ 38章17節
ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
――>今日の御言葉はヒゼキヤ王が自分の病気が回復された時に感謝の歌をささげる時、書かれた聖書箇所である。苦しみということを信仰の視点から見ている。平安のために苦しんだ経験が与えられたと、立派な信仰告白である。
201.箴言23章4~5節
4節)富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。
5節)あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。
――> 富の虚しさを教えてくれる聖書箇所である。必要以上の富は要らないという認識をもつことが出来るか。人は、もう少しの金が必要である。どこまであれば満足できるか。限りがない。富は必ず翼をつけて、ワシのように天へ飛んでいくようなものだと例えで教えている。が、例えではく、実生活でもそれを感じる。永遠に変わらない主に心を留めよう。
202.詩篇63篇5節
私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
――> ダビデがユダの荒野にいながら主を賛美している聖書箇所である。砂漠の地での生活は水がない不便な生活だったが、たましいは美味しい物を食べているように満たされていると告白している。私たちもダビデのように、厳しい環境においても、主との深い交わりを持とう。
203.イザヤ40章8節
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
――>人生を見極めることができる御言葉である。永遠に立つものは被造物の中にはない。神しか永遠に生きる。すべての自然はかぎりがある。神は最初から最後まで存在している。神の口から出てくる言葉も永遠に立つ。その聖書の御言葉を握ろう。
204.イザヤ 40章11節
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
――> イエス様は大牧者である。いのちまでささげる羊飼いである。イザヤの中でも主の姿が描かれている。子羊を引き寄せる神、ふどころに抱き、弱い羊も優しく導く神である。その神について行こう。
205.エレミヤ31章3節
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
――>人の愛は永遠ではない。かぎりがある。限界がある。続かない。しかし神の愛は永遠である。しかも誠実を尽くしている。人間はその大きな愛を理解出来ない。愛の世界である。聖書を読むうちに主の素晴らしさに気づく。今日もめぐみの世界に目を留めよう。
206..エレミヤ31章12章(抜粋)
彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。
――> 主に立ち返った人々の心が描写されている。バビロンから帰ってきた人の心は主を求めている心になった。彼らは潤った園のようになったと聖書に記されている。主に励ましを受けた時、私たちの心は潤って行く。主の優しい声を聞いた群れは励まされる。心が豊かになる。
207.ローマ3章29~30節(抜粋)
29節)それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30節)神が唯一ならばそうです。
―――> ある人は神について誤解している。聖書の神はアメリカの宗教だと考える。ユダヤ人だけの神ではない。異邦人、イスラエル以外にとっても神である。30節に書いてあるように神が唯一ならば、世界にはひとりの神しかない。この信仰に立つまでかなりの時間が必要だった。世界にはいろんな宗教がある。まことの神は一つしかないと聖書は語っている。そのような信仰に導かれていることを主に感謝しよう。
208.ダニエル10章19節(抜粋)
「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」
――> 神の人がダニエルに語った言葉である。神に愛されている人よと、優しく声をかけている。恐れるなと、主は不安を覚えている時に語る。神の声を聞くと安心するのがクリスチャンである。今日も主によって強められる歩みとなるように祈る。
209.イザヤ 40章17節
すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。
――>主の前に立っている者は小さく感じる。イザヤ40章には全能なる神の姿と人の姿が比較されている。国々も主の前に無に等しい。主の前に形もないものとみなされる人間であるが、その人間のためにイエス・キリストが来られたことを覚える時、めぐみが増し加わる。
210.イザヤ 40章26節
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
――>信仰の目が開かれたことは大きなめぐみであり、祝福である。さらに目を高く上げてみると、全知全能の神の創造の御業を深く知る。主の愛が至るところに満ちている。その力は強い。もれることもない主の愛を見ることが出来る。今日も目を高く上げて、主に向かって祈ろう。
211.エレミヤ31章25節
わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。
――> 疲れやすい人間の歩みです。疲れる理由はいろいろある。精神的に、肉体的に、霊的に原因がある。神の御言葉とご指導を頂く時、疲れたたましいは潤される。しぼんだたましいが元気になる。クリスチャンの生活を通して、このような経験があると思う。続けて主によって励まされて行こう。
212. Ⅱコリント9章8節
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
――> 神を知れば知るほど、神はいつも、すべてのことに満たして下さる方であることを知る。与える愛より、神から与えられた愛が多かったことを知る。あふれるめぐみを与える方であることを知るのは幸いである。
213.Ⅱコリント1章4節(抜粋)
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
――> 神は苦しみの時に、良い助けである。主に求めよう。これだけではない。どのような苦しみの時にも、慰めがあると語っている。いかなる苦しみの中でも、その人にふさわしい慰めがあると語っている。苦しんでいますか。その苦しみと同じように、慰めも多い。
214.Ⅰコリント15章10節
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
――>多くの働きをした時、使徒パウロのように告白しよう。私ではなく、私にある神のめぐみのおかげであると告白しよう。信仰の味を分かった時、この使徒パウロの告白の偉大さを知ることになった。今日まで導かれた主を賛美しよう。
215.箴言13章20節 知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。
Ⅰコリント 15:33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
――> 良い友から良い習慣を得るのは知恵である。私たちは周りの影響を受けている。言葉にも行動にも知らず知らずのうちに受けている。イエス様は私たちの友である。この友から良い影響を受けよう。
216. Ⅱコリント2章15節
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
――>香りは広がっていきます。キリストの愛を持っているならば、伝わっていきます。言葉でも行動でもクリスチャンは、香りが伝わるように愛を示す役割です。神の前でかぐわしい香りなのか、今日も自分の歩みを省みよう。
217.マルコ6章31節
そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
――>人間には休みが必要である。人に仕えている時、肉体的にな休みが必要である。体力消耗は休憩をとることによって、リフレッシュされる。イエス様は弟子たちに休むことを願っている。今日も疲れた体を休ませてあげよう。
218.詩篇34篇8節
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
――>神様の素晴らしさを味わう時、目からウロコが落ちます。神の存在の確信、救いのめぐみ、復活の希望を味わえば味わうほど、ダビデの感激を理解することになる。この幸いを見つめよう。
219.詩篇 34章18節
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。
――>心が打ち砕かれる時、人間は謙遜になる。心が痛む時、へりくだる信仰者へと変わっていく。真の悔い改めは、真の救いへと導かれる。主が近くにおられることを感じたい時、主の前にへりくだっていこう。
220.ガラテヤ5章22~23節(抜粋)
22節)御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23節)柔和、自制です。
――>実ることは実態があるものである。目に見える結果が良い時、実ったと言う。聖霊の実は目に見えない。聖霊によって導かれる時、まず目に見えない愛、喜び、平安などが十分に満たされる。そしてその次に目に見える実態がついてくる。今日も聖霊の実が豊かになることを祈ろう。
221.伝道者の書3章13節
(新改訳) また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを
(口語訳)またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
――> 飲み食いするために働く。苦労する。その中にある幸せを見いだす人は幸いである。苦労の中にある楽しみさを見つかる人は幸せな人である。信仰の目でみるならば、最高の幸せである。苦労に中に秘められている神様のプレゼントを見つけよう。今日も楽しみではないか。
222.ヨブ記 9章25節 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、しあわせを見ない。
――>忙しい中では主のめぐみをつかみにくい。立ちとまって、主の導きを考えよう。幸せをみるように黙想しよう。神様と二人で旅に出よう。心が静まる一日になることを願おう。
223.ガラテヤ6章4節 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
――>自分自身の行動を良く考えよう。自分の業績だと思ったことも吟味しよう。ほとんど自分の力で成し遂げたことがほとんどないことを知る。自慢話も実は自慢ではなく、多くの人の助けによって成り立っていることを悟る時、自然に謙遜になる。主の十字架だけを誇ろう。
224.詩篇119篇92節 (新改訳)もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
口語訳119篇92節 (口語訳)あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。
――> クリスチャンになってから、神様のみ教えに楽しむことは信仰の成長に繋がる。クリスチャンになっても悩みはある。問題は相変わらず継続していることが多い。苦労の中で、幸せを見いだすことも、み教えに対する信頼があるからできる。み教えが喜びになるように今日も聖書の御言葉に耳を傾けよう。
225.ピリピ3章19節
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
――>神についての正しい知識を持つことは本当に重要なことである。すべての思いは地上ことだけ向いているならば、聖書が語る神とは違う。彼らの神は欲望の神であると語っている。私たちが信じている神は本来の神なのか、自分の好みの神なのか、今日深く黙想しよう。
226.ピリピ4章7節
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
――> 神様の御声を聞くことはクリスチャンにとって大事なことである。信仰の世界に入ってから、見えてくる素晴らしい神のめぐみを見るようになる。その中で、人のすべての考えにまさる神の平安を見出す信仰が与えられる時、さらに神に信頼することができる。人は自分と関係あることや、自分だけ考えてしまう。神の考えは深く、そして、平安をもたらすめぐみである。
227.イザヤ41章10節
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
――>この御言葉は力強い御言葉である。共にいる神の存在を気付く時、恐れから解放される。しかも、主は私たちの心を強めてくださる。助けて下さる。守ってくださる方である。
228. エレミヤ32章17節
「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。
――> 現実の世界だけをみてみると、大きな力をもって、この世界を治めている神の全知全能を忘れてしまう。天地は主によって造られた。神は何一つできないことはない。神にとって不可能なことは一つもない。
229. エレミヤ32章19節
おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行ないの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。
――> 神の御業は大きい。その力も強くて大きい。しかし神の目は人々の歩みに関心がある。人それぞれの生き方に関心がある。神の視線があるところに、人の歩みがある。主は私から離れない。
230. コロサイ2章3節 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
――> コロサイ2章2節に、神の奥義はキリストだと語っている。神を知るためには、キリストを知る必要がある。キリストの深さを知ることは、本物の神を知ることである。キリストのうちに、知識と知恵との宝がすべて隠されている。その宝を知る目を持っていることは人生を豊かにする。今日も私たちの宝であるキリストと親しくなろう。
231.コロサイ3章10節
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
――> 信仰者は神に出会って、永遠のいのちが与えられた。新しいいのちが与えられたものである。クリスチャンは新しい人である。神と親しくなると、ますます神のご性質と似せられて行く。正しい真の知識に至るようになる。
232.Ⅰテサロニケ4章3節(抜粋)
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。
――> 神様が何を考えているのか、聖書を読むと知ることが出来る。人の心を知るためにはある程度の時間が必要だ。聖書を読んでもなかなか、聖書の価値、神の声などがぴんと来ない。しかし時間とともに、神を求める信仰が蓄積されると、神の御旨を少しずつ知ることが出来る。今日の聖書箇所でははっきりと主の御旨が示されている。聖くなることである。
233. へブル 6章10節
神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
――> 神は私たちの行いを忘れない方である。主に仕え、人に仕えている姿を主は覚えている。私たちにとって大きな励ましである。主よ、今日も信仰をもって行くので、守ってください。
234.Ⅱテモテ1章(抜粋)
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。
――>神様によって招かれたことも、選ばれたことも主の一方的なめぐみであることを語っています。神の計画を知れば知るほど、この地上での生き方が示される。主に祈ろう。主の御心を今日も求めよう。
235.Ⅱペテロ1章10節 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
――> 神が私たちを招いてくださった自覚があるならば、つまずくことはないと聖書は語っている。神によって救われたという確信は信仰生活を豊かにする。他の人と比べて幸せを感じたり劣等感を感じたりする生き方から変わっていく。私は神様から愛されているものの確信は真の平和で導く。
236.イザヤ57章18~19節
18節)わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。
19節)わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。
――> 癒して下さる神を賛美する。平安と癒しは密接な関係がある。主よ、助けてください。今日も病んでいるところを、主の前にもって行こう。
237.ヘブル3章1節
そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
――> 使命といういえば、憧れる職業を持っているイメージがする。天の召しのイメージはどうか。聖書にはクリスチャンは使命をいただいていると教えている。それは天の召しであると語っている。まずその使命はイエス様をのことを考えることである。使命はイエス様を考え、味わい、黙想することによって使命が強められて、自分のものになる。
238.ローマ15章13節
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
――>神は生きておられる。望みの神である。本当の望みに触れる時、喜びと平和が満たされる。聖霊によってますますその望みが確かになり、望みに溢れさせて下さる。今日も主を信頼せよう。
239.ヤコブ4章6節(抜粋)
神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。
――> 神はめぐみを下さる方である。しかも、さらにめぐみを下さる方であると紹介している。
私が思うことより、さらに優れた導きがあることを信じ、今日も祈ろう。
240.詩篇92篇5節
主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。
――>2015年の年末に礼拝で語った御言葉である。主の御業は大きいである。深いものである。信仰がなければ、この深さを知ることが出来ない。この著者もこのような信仰告白できるように祈る。深い愛を少しずつ味わう度に、喜びが湧いて来くる。
241.ミカ書6章9節(抜粋)
御名を恐れることがすぐれた知性だ
――> 聖書が語る知性も、信仰に基づいている。御名を恐れることが優れた最高の知性である。現代にある問題を解決する知性より、神を知る知性がさらに重要なものである。これを悟る者は幸いである。
242. ミカ書7章6節
息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。
――> イスラエル社会において、信仰的に堕落している時、家族関係が壊れてしまった。家にいる人が敵になった。信仰者の家庭にこのような不幸がないように祈る。近くにいる人との関係が円満になることを切に願う。
243.ミカ書7章7~8節
7節)しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。
8節)私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。
――>絶望の中で、このような告白する方は幸せである。主を仰ぎ見る。神を待ち望む。倒れても起き上がるのは、光なる主の存在のおかげである。主よ、倒れた方がまた起き上がるように力を今日も与えてください。
244.使徒4章24節(抜粋)>
「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
――> 天地創造の神を信じることは幸いである。普段天地創造を告白していたが、この御言葉に出会った。天と地、そして、海、その中のすべてのものを作られた方。天と地の中でも、すべてのものが作られた意味が含まれている。でも天と地だけ思ってしまう。海も、すべてのものも、主が作った。その主を褒め称えよう。
245. Ⅰヨハネ5章20節>
しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
――> 神は誰なのか、神の存在を見出す時、人間の本来の生き方を知ることができる。神を知ることは、人間の歩みの方向性を教えられる。真実な方を理解する力が与えられていることは幸いである。御子キリストのうちにある永遠のいのちの平安をじっくり味わおう。
246.伝道者の書12章13~14節
13節)結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
14節)神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
――> 伝道者の最後の締めくくりである。神を恐れることは、虚しさを勝つ秘訣である。神が聖書を通して下さった命令を守るのが、人間にとって幸せである。これが人間の本分である。隠れたところもご存知の方の前で、謙遜に歩もう。
247.コロサイ1章29節
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
――>信仰者は主と共にいることを強く感じる者である。信仰者の内面には聖霊が宿っていると表現する。自分のうちに力強く働くキリストの力が宣教の原動力になる。自分の力に頼るならば、苦労を避けたくなる。
248.出エジプト 19章 4節
あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
――> エジプトから救われた表現をこのように書いてある。ワシの翼に載せたと書いてある。
これはめぐみの表現である。人間が理解できないみわざである。救いのめぐみをこのように表現している。人間のわざではない。不思議なめぐみの世界である。
249.マタイ27章42節
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
――> 人間の罪がはっきり示されている聖書箇所である。主の命令を守って行くことを、神は願っているが、人間はその逆である。神が私たちの願いを聞いて、人間の願いに服従することを願っている。これは罪である。私たちは神をどのぐらい信じているのか。自分を省みよう。
250.ネヘミヤ8章10節
別訳)主を喜ぶことは、あなたがたの力であるからだ
――>主の存在を知っていること、主によって全てが守られていることを信じ、喜ぶことは、信仰者にとって力になる。今日も主のゆえに、信仰者は力を受けている。
251.エレミヤ31章32~33節
33節)彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34節)そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
――>人の根本的な変化を語っている。心の変化である。聖霊の働きである。自発的に主に仕える霊が与えられる。新約時代の聖霊の働きである。聖霊の感動を受けた時は、我慢するのが耐えられない。
252.伝道者の書7章14節
新改訳)順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。(抜粋)
2017年新改訳)順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよう。(抜粋)
――> 思い通りに行く時、主がくださった喜びをもって喜ぼう。その幸いをじっくり味わう。その反対に、逆境の日には、良く苦しみの意味、主の導きを良く考え、反省する時として過ごそう。
253.ヘブル5章2節
彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
新改訳2017年)大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
――> 自分自身の弱点、弱さを知ることは、信仰の歩みにとってめぐみが訪れてくる。自分も弱さのゆえに、主の哀れみをいただいた体験があるからである。次には他の人に対して優しく接することができるようになる。私たちは神の前にいる罪人である認識があれば、謙遜に主に仕えることができる。
254.詩篇138篇9~10節
9節)私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
10節)そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。
――> 神はいつでもどこでも私たちをご覧になっている。どんなに遠く住んでいても、主は私たちを助けてくれる。御手をもって私たちを導いて下さる。
255.詩篇4篇7~8節
7節)あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
8節)平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
――>主が下さる喜びを知る時、物質から来る楽しみから解放される。これは主が下さる平和と繋がる。ゆっくり休むことができるのは、主に信頼することができる証拠である。あらゆる心配があるのは当然であるが、やすらぎを下さる主にお任せしよう。
256.詩篇4篇1節
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
――> 主の導きを確信する時、苦しみの中でもゆとりが与えられる。解き放して下さる主を賛美しよう。
257.詩篇27篇4節
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
――> ダビデは賛美している。主に出会っためぐみが溢れて、いのちの日のかぎり、主と共に交わりの中で歩むことを願った。人間のすべての悩みの解決がここにある。主が共にいることを確信すれば、今置かれている場所でも主のわざに励むことができる。
258.詩篇40篇5節
わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
――> 神様のめぐみを数えようとする時、数え切れないほどのめぐみがあることを気づく。考えれば考えるほど、主のくすしいわざがあったことを、悟る。ダビデはこの詩篇で試練の後、このめぐみを表現している。
259.詩篇40篇7節
そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
――> 聖書の中に、私のことが書かれていることを確信する時、なんとめぐみであろうか。神の愛をはっきりと知ることができる。守るべき約束が書かれている。私の魂が守られていることも知ることができる。聖書を大事にしよう。
260.詩篇40篇 8節
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。
――>神の御心を行うことが喜びとなる。その時は、御教えが私の心にある時である。御言葉と交流する時である。御言葉のめぐみを知る時である。
261.ダニエル9章18節 (抜粋)
私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
――> ダニエルの祈りである。祈る時、自分の正しさを主の前に聞かせるのではなく、神の大いなる哀れみをほめたたえることが必要である。主の哀れみの中で歩んでいることを今日も覚えよう。
262. Ⅱ列王記18章6節>
彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。
――>ヒゼキヤに対する信仰の賞賛である。主に堅くすがっている信仰者であり、堅く付き従う信仰者であった。御言葉を忠実に守ろうとする信仰者であった。
263. 詩篇92篇5節
主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。
――> 神のみわざを信仰の目でみるならば、溢ればかりである。毎日注がれる主のめぐみは深いもので、信仰者はその深さを知ることができない。少しずつそのめぐみの深みを知る者である。今日も新しいめぐみを期待しよう。
264. 詩篇41篇1節
幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。
――> 弱っている者に親切する人は幸いであると聖書は語っている。弱い者に助け手を差し伸べることは謙遜な人ができることである。上から目線ではなく、同じ兄弟姉妹の愛をもって、イエス様のしもべとして、自分の使命として行うことが出来れば最高である。まず家族に、自分自身にその愛を配ろう。
265. イザヤ25章8~9節
8節)永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。9節)その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
――> 死を打ち破る神は本当の神であり、希望の神である。それは慰めと繋がる。その主を待ち望もう。御救いを楽しみ喜ぼう。
266. 詩篇49: 4
私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。
――> 聖書はシンプルであるが、シンプルの下に奥深いな教えがある。ここで著者は聖書という書物を他のことばで表現している。それは「たとえ」だと語っている。たとえは表面的な意味より、いろんな解釈ができる。聖書の教えはまるで謎解きゲームのようだ。しかし、謎を説き明かす時に、賛美の喜びが伴うような楽しみがある。
267.詩篇49~7節
7節)人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。
8節)――たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない――
――>たましいの価値は高価である。贖うためには、イエスが十字架で付けられるほどである。
人間の努力で、きよめることができない。イエスの十字架の価値も知ることができる。
268. 詩篇49篇16節 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
詩篇37篇1節 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
詩篇37篇7節 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
――> 自分の周りの人に影響を受けやすい。神を信じる者もそうである。神を離れた人の姿、結果、行動から良いものも、悪い者も影響を受ける。特に神を信じないものが豊かになってもねたみを起こすなと強く語っている。その時も、主の前に静まり、神の導きを待ち望もう。
269. 箴言28章13~14節
13節)自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。
14節)幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。
――> 神から罪を示された時、恥ずかしくなる。その時、告白しよう。自分のみすぼらしい姿に気付こう。その罪深い姿を主の前にさらけ出そう。主は癒してくれる。主は赦してくれる。主はこう語っている。いつも主を恐れる人は幸いであると。
270. イザヤ35章10節
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
――> 主の導きに喜んでいますか。喜びましたか。そうする内に、自分の過去にあった悲しみが逃げさていく。過去の傷が癒やされていく。主の素晴らしさに目を向けると、人生が喜びに満たされる。あなたも同じ経験をすることを期待する。
271.エレミヤ10章23節
主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。
――> この告白ができるのは、主に対する信頼があるからである。人が自分の人生の主導権を握る時、まだ神様の導きの豊かさを知らない時である。主のめぐみを知れば知るほど、神に信頼することが一番豊かな人生を送るのを知る。
272.イザヤ42章23節
あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。
――> 聖書の御言葉を通して、神様のみ声を聞く。それは信仰を持ち、聖書を霊感によって読む時可能になる。この祝福は読む人だけではなく、後々の人のためにも関連している。神が考えている祝福は次世代まで及ぶ。神の計画は私たちが考えることより大きい。今日も注意して主の御言葉に耳を傾けよう。
273.イザヤ42章21節
新改訳)主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。
口語訳)主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。
――> 神の御旨を知る度に、感謝である。みおしえを広めて、神の愛を届けることは主の御旨である。それだけではなく、その御言葉を輝かすことを望まれる。御言葉のすばらしいを無言のふるまいによって、御言葉が真理であることを伝える責任がある。信仰者が御言葉がその通りであることを確信が必要である。今日も主のみ言葉に感謝して、喜んで行こう。
274.出エジプト19章4節
あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
申命記32章11~12節
11節)鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。
12節)ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。
――> 人間の救いは、人間の知識として理解するものでもない。人間の救いは、神の特別めぐみである。ワシがひなを鷲の翼に乗せて、水を渡ったことだと例えられている。救われているこのめぐみを十分味わおう。
275.Ⅰペテロ5章6節
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
――> 神に従うこと、神の前で謙遜になることは聖書が大事にしていることである。今日の聖書箇所は、その前に、信仰者は神どのように方なのかを認識する必要がある。今日の本文は、神が力強い御手をのべてくれる方であることを確信する時、へりくだることができると語っている。そして、主が導くそのタイミングまで待つことができる。
276. 詩篇70篇4節
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
――> 主に慕い求める方がいつも主によって楽しみ、喜び、神の偉大さをほめたたえる生活になることを心から祈ります。
277.民数記15章15節
一つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。主の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。
――> 民数記の中にいけにえの規定が書かれている。その中で、今日の聖書箇所は意味深い。つまり、主の前には皆が罪人である。特別に優れたものは1人もいない。ただめぐみを受けたものに過ぎない。これを知るならば、このように告白する。クリスチャンは神の愛を知っている罪人である。めぐみによって救われた。
278.Ⅱペテロ1章2~3節
2節) 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
3節) というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
――> 神であるイエス・キリストを知ることよって、信仰者に与えられるめぐみは大きい。めぐみと平安が与えられる。神の力が与えられる。いのちの確信が与えられる。今日も神共に歩めよ。
279. 詩篇29篇11節
主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。
――> 主は信仰者と関わりをもっている。主にある交わりである。その時、主は平安をもって関わってくれる。なんと感謝であろうか。その時、祝福の目も開かれる。本当の祝福にあずかる。
280.イザヤ26章12節
主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。
――> 主が下さる霊的な祝福は数え切れない。主と共に歩む人生は、主から平和を備えられる。主は生きていて、私を支えていることを確信すればするほど、主の臨在に触れて、平和を保つことができる。すべてのわざにおいて、主が助けてくださることを信じるならば幸いである。私たちは最善を尽くして、今日を生きよう。
281.民数記16章13節
あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。
――> 不信仰の特徴は、過去が理想になってしまう。約束の地を導く神様、リーダーについて不満をもってしまい、従うことができなくなる。現実の辛さを体験すると、過去が美しく感じてしまう。今日の本文では、不信仰者は、奴隷生活をしていたエジプトを乳と密の流れる地だと考えていたのである。そして霊的な指導者に関しても支配者として感じてしまう。今日も信仰の目を持つように祈ろう。
282.箴言22章11、29節
11節) 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。
29節) じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。
――> 箴言と伝道者の書を読むと知恵が与えられる。心のきよい人は神を見る。心がきよい人は王様の友人となる。王様は心のきよい人と付き合うことが安全である。仕事に熟練していることは誠実さを備えられている証拠である。その人も王様と繋がると書かれている。どんな状況でも誠実に生きることは聖書が教えている生き様である。
283.Ⅰヨハネの手紙5章19節
私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。
――> 神を知る者は分別力が与えられる。この働きは神のためなのか、自分のためなのか。この価値観は神からのものなのか、知るようになる。この世の価値観は悪魔が握っているように見える。神を知るものは、実際には神の御手の中にいることも知るようになる。多くの方が救われることを願っている神の心を今日も忘れないで進もう。
284.Ⅰヨハネの手紙5章20節
しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
――> イエス・キリストによって、聖書の奥義を理解する識別力が与えられた。三位一体の神によって、永遠のいのちについてはっきり示されて、贖い主、創造主について確信を持つことが出来た。イエス・キリストの受肉に感謝する一日を過ごそう。
285.箴言30章5節
新改訳3版)神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。
2017年版)神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾
――>聖書は神のことばである。これは純粋で、神によってまとめられた精錬されたものです。聖書のみ教えは人間にとって必要なものである。御言葉は私たちを守ってくれる。主にさらにより頼もう。
286. 箴言26章12節
自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。
――> 良い結果に導かれた時に神に栄光を帰しよう。人間の知恵によるのではないことを悟る時、主の豊かさの計画を知ることになる。神の知恵により信頼する人は、さらなる望みがある。愚かなものはこれを知らない。主にあって愚かな者になろう。それが知恵ある道だ。
287.イザヤ29章19節
19節)へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
――>主と共に歩むってどんな生き方なのか。主の存在を知っている時、謙遜になる。そしてますます主によって喜びが溢れる。また今日強調したいことは、楽しむ人生生き方である。決して楽ではない。いつも得する生き方ではないが、主によって楽しむ人生になる。今生かされている喜びを知ることになる。
288.詩篇60篇11~12節
11節)どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。
12節)神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。
――>詩篇60篇は戦いで失敗した時に作った詩篇である。人の救いはむなしいことを告白している。神による救いこそ、力ある働きであると確信している詩である。私たちも心からこのような告白ができるならば幸いである。
289.ホセア8章12節
わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。
――> 外国語を読んだことがあるか。特に全然知らない外国語を読んだことがあるか。聖書は不信仰に陥った時、聖書の教えが外国語のように感じることを書かれている。意味も分からないし、見ようともしない。母国語は親しんで分かりやすい。聖書の教えが親しんでくるように祈ろう。聖書を読もう。
290.ホセア14章9節
知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。
――> 知恵ある人生を歩みたいと願っている。多くの人は自分の考えや、有名人の生き方が優れていると思う。聖書は、知恵ある人の道は、主の道だと明確に語っている。これは悟る必要がある。知恵がない人は、主の道が真っ直ぐな道であることを理解できない。主よ、今日も主と共に歩むことを楽しめるように導いて下さい。
291.詩篇90篇10、12節
10節)私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
12節)それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
――>どのぐらい長く生きたら満足するのか。ただ長く生きているならば幸せなのか。聖書は山々が存在する前から存在されていると書かれています。時間の造り主方から、私たちの人生を見る時、とても短い人生です。草のように、霧のようにすぐなくなっていく存在です。寂しいです。悲しくなります。聖書は答えを持っています。神に出会う時に、この短い人生から来る悲しみを克服できます。 信仰の目が開かれる時、私たちの人生が主の前で短いことを知るようになります。どのような人生を過ごしたら良いでしょうか。どのようにしたら価値ある人生になるでしょうか。自分の能力を世の中で認めてもらうためにはどのようにすれば良いか。その前に、まず、必要なのは、主を恐れることです。主を恐れることこそが知識の初めです。知恵の初めです。限りある人生であることを悟る時に、まず神について学ぶことが必要です。この世で生まれた理由、この世でどのように生きたら良いのか教える神の存在を見いだす時、本当の知恵が与えられます。短い人生であっても、主にあって有益な人生です。主の前で永遠に生きることができる信仰者の生き方は、虚しさから解放されます。今日も主の御名を褒め称えます。
292. 黙示録1章17、18節
17節)「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、(抜粋)
18節)生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
――>神がどんな方であるかを知れば知るほど、私たちは力を得る。主は最初であり、最後である。つまりこの世の始まりから、この世の最後まで私たちを支えている。十字架で死んだ神が三日目によみがえった主は、信じる者にもこの復活の希望を下さる。人生の鍵は死んだ後にどうなるのかについて答えを持っているかどうかである。皆死んでいく。クリスチャンは死んでも生きる。この確信は本当の平安へと導く。
293.ヨハネ9章37~38節
37節)イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
38節)彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
――>ヨハネ9章に出てくる盲人は、生まれながら目が見えない人です。彼がシロアムの池で泥を洗った時、目が開かれます。イエス様は彼を通して、信仰者に多くの教訓を語っています。目が開かれることを通して、イエスがまことの神であることを教えています。また、パリサイ人へのメッセージです。大事なことは、信仰の目が開かれて、イエス様を礼拝できる人は幸いであることを教えています。パリサイ人などの律法の専門家だと思う人は、イエスを主だと告白できない霊的な盲目でした。生まれながら目が見えなかった人は、イエスによって、信仰の目まで開かれたのです。1人でイエスに向かって礼拝が出来たのです。主日礼拝は多くの人と礼拝しますが、実は神は一人ひとりの信仰の礼拝をうけとっています。毎週礼拝は、信仰をもって、一人ひとりが、イエス様に向かって礼拝できるのです。毎日、一人でも礼拝できます。賛美をしながら、主に祈る時間を持つなら、1人の礼拝になります。主よ、私は信じます。主を褒め称えます。今日も主と共に歩む一日となりますようにお祈りいたします。アーメン
294.ローマ15章13節 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
――> 生きる望みがある人は幸いです。キリストの信仰を持つ時、神は私たちに新しい望みを下さいました。単なる生存のための望みではありません。この世で生きる本当の希望を下さいました。天から来る喜びと平和で満たされます。死を超える希望です。永遠のいのちを持っている者にどのように生きたら良いのか、何の目標で生きたら良いのか、聖書を通して語ってくださいます。望みの神によって与えられるこの希望は、神の望みです。世の望みは、成し遂げた後には虚しさを感じますが、主の望みは、永遠に続きます。今日の聖書には、このように書いてあります。「聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」そうです。聖霊に満たされると、新しい望みが与えられます。使徒の働きには、聖霊が注がれると、青年は幻を見ることができる、また、老人も主の夢をみることができると書かれています。今日も聖霊の力によって、新しい望みが注がれることを祈ります。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
295.申命記10章13節
あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。
――> 神は人間が幸せに生きることを願っています。今日の聖書はそれをダイレクトに語っています。主が求めていることは、主の命令を守り、主の教えに生きることを願っています。多くの人の誤解は、神の命令をしばり、拘束だと感じやすいです。なぜでしょうか。主の愛を知らないからでしょう。神は人間を良く知っています。神の戒めは、実は人間のために、人間のゆえに定められています。魚が水でいるのが自然です。魚が自由を求めて、水から離れることは死んでしまうのです。キリストの愛の中で生きる時、人間の間に本当の幸せが与えられます。人に仕える、人を愛する。自分の十字架を背負い、主の戒めを実践する時、最も人間にとって役になります。人間らしい生き方が聖書の教えに忠実に生きる時です。わたしたちの幸せのために、幸福のために主は私たちに求めています。今日も主の命令の奥深さを味わいましょう。
296.詩篇90篇14節
どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
――> タイトルは毎日楽しむ秘訣です。毎日楽しむ秘訣も信仰が鍵です。毎日人生を楽しむのができるのでしょうか。そうです。普通は不可能です。普通は良いことがあった時、特別に何が与えられる時、楽しみを感じます。長年間の問題が解決された時、嬉しさを感じます。クリスチャンの信仰はどっちらかというと、外部から与えられるものではないです。内部から湧き出るものです。主イエス・キリストに出会った喜び、復活の喜びを確信する時、その喜びが湧き出るものです。信仰の目が変わることです。世界を見る目が変わる時です。その時、平凡である日でも、主イエス・キリストが共におられることを確信する時、特別な日になります。詩篇90篇の著者であるモーセは、私たちのすべての日に、喜び歌うようにして下さい。楽しむようにして下さいと祈っています。そうです。神様と共に歩むすべての日は特別な日です。スペシャル日です。今日も恵みが満ち足りるように祈りましょう。今日の日を楽しみましょう。
297.箴言21章30節
主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。
2017年)どんな知恵も英知も、はかりごとも、主の前では無きに等しい。
――> 箴言には生活に役に立つ御言葉がたくさんあります。ぜひ、箴言の聖書を読んで下さい。人は自分の道が正しく見えてしまうのです。特に物事が順調に進む時、自分も知らず知らずの内に、自分の知恵を誇ってしまうのです。今日の聖書箇所で、主の前ではどんな知恵も英知も、役に立たないものだと語っています。主の前では無きに等しいものだと語っています。なぜでしょうか。主の知恵は人間の知恵より優れたものです。実は比較をすることすら無意味です。神の知恵を知れば知るほど、自分の知恵が浅いことを知ることができます。主を恐れることは、知恵のはじめです。主を恐れることは、知識のはじめです。祈る理由はここにあります。聖書を読む理由もここにあります。祈る時、聖書を読む時、主の知恵が与えられるからです。今日も主の知恵に満たされて歩みましょう。
298.詩篇37篇24節
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。
新改訳2017年)その人は転んでも、倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。
―> クリスチャンは倒れる時がある。でも主が支えてくれるので、また立ち上がる。
299.詩篇119篇165節
あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。
――> 神様の御言葉を愛していますか。御言葉は信仰者にとって、生命の糧です。生き方の方針です。神の声です。普通、説教は聞きたくないです。でも、神が魂を愛して、私たちのために語る愛のメッセージはふたたび、聞きたくなります。私の魂のために十字架を背負い、永遠のいのちを与えてくださるメッセージにはまことの平安があります。神の御言葉を信頼する時、その共同体も心が一つになります。豊かな平和で満ちている群れとなります。お互いに仕えているからです。
この世には苦難と悲しみが満ちています。主の御言葉に触れる度に、心は癒やされて、失望した心は平安に満たされます。まったき平安で満たされて、今日も勇気を出して、歩みましょう。
もう一度、今日の聖書箇所をお読み致します。「あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。」
300.ヨハネ15章15節
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
――> イエス様の働きはめぐみそのものです。神が人になってくださり、十字架でご自分の最高の愛を示してくださしました。今日の本文には、人間に向かってイエスの友だと語りかけます。今日の聖書箇所はその理由が書かれています。それは、天の父の啓示はすべて、私たちに隠さずに知らせてくださるからです。友のように大事な話しを包み隠さずにその内容を知らせてくださるので、奴隷ではない、クリスチャンに友の存在だと呼んでいるのです。本当に感謝です。神の御心を、罪人である私たちは知らないのです。罪人は創造主の心を知ることがゆるされていないです。でも聖書には天の啓示が紹介されています。神の御心が書かれています。聖書に書いてある人々への愛は聖書を通して知ることができます。神は人間をどれほど愛しておられるのか、示しています。聖霊の働きがなければ、神の教えを理解できませんので、私たちは主の助けを求めながら聖書を読みましょう。私たちを友まで呼んでくださるその愛を、さらに深く味わいましょう。
301.創世記18章27節
アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
――> 祈りについてご存知ですか。祈りは人が神に向かって願うことです。今日は祈りの姿勢について学んでいきたいと願います。祈りをする時、どんな心構えで主に申し上げていますか。大事な姿勢は感謝の祈りです。主が成し遂げてくださったみわざについて、主に感謝することは立派な信仰の姿勢です。今日も私たちのために与えてくださっためぐみを数えて、そのめぐみを感謝であると主に告白しましょう。また願いことがあるならば、必要な祈り課題を主に申し上げましょう。その時に、今日の聖書に出てくるアブラハムの祈りの姿勢は大変参考になります。神の前にいる人間はちりや灰であるという謙遜さです。神に祈るうちに、私たちは堂々と語り始めると、いつのまにか、祈りを聞いてくださる神は当たり前だと思ってしまうのです。アブラハムのように、私たちは被造物に過ぎない。罪人である。欠陥だらけで、主は私たちの祈りを聞いてくれなくても良いと祈りの姿勢を持つべきです。そして、次に私たちの願いを申し上げるならば、謙遜な祈りになり、神を敬うことができる正しい姿勢です。もちろん、イエス様によって直接祈ることができるようになったクリスチャンの身分は忘れてはいけないですね。
302.詩篇43篇3節>
どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。
――> イェール大学の標語である。
詩篇36篇9節
いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。
303.使徒11章23~24節
23節)彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
24節)彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
――> 人のすばらしい行動と信仰によって、救いに導かれる。私たちも行動においても、言葉においてもめぐみが溢れるように祈っていきましょう。
304.創世記21章11~12節
11節)このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
12節)すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
――> 今日の本文はアブラハムが悩みの時に神の導きが紹介されています。アブラハムの子供の問題でした。約束の子供のイサクと、人間の考えで生まれたイシュマエルについてアブラハムは非常に悩んでいました。この聖書箇所を通して、多くのことを教えられますが、一つだけ今日考えたいと思います。自分1人で悩まずに、人と相談することは役に立つことを学びましょう。人と相談する時、悩みごとは冷静を保つことができます。愛情を注いだ関係においては客観的にみることが出来ないことがあります。神様は妻であるサラのことばに耳を傾けるように導いています。
このように、自分1人で問題解決しないで、いろんな人の知恵を貸すことも大事です。ある時は兄弟に、ある時は親に、ある時は子どもから人生を生きる知恵をいただくことが出来ます。クリスチャンは日々、聖書から生きる知恵が与えられることは本当に感謝です。今日も心から主に祈りましょう。今日も主から来る生きる知恵をいただきましょう。
305.創世記22章18節
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
――>今日の御言葉には神様の祝福の原理が書かれています。祝福の原理を学びましょう。アブラハムに何回このような祝福の約束が与えられました。最初に祝福の約束が与えられた時、主が示された地域に向かって出発することができました。故郷を離れる決断をしたのです。アブラハムは主の命令に従う信仰者でした。今日の聖書箇所も、自分の息子であるイサクをささげた時に、確かな約束が再び与えられました。そして、アブラハムが神の御言葉に従ったことをほめています。神の約束に従うことは祝福をいただく秘訣です。
ここで神の祝福の原理を見てみたいと思います。神はアブラハムだけ、祝福の対象にしていないことを知ることが出来ます。一人の信仰者を祝福して、すべての民族にまことの祝福を届けたいと神は願っています。私たちは祝福が好きです。神もあなたが十分な祝福をいただくことを願っています。また神はあなたが祝福されて、その祝福が流れるようになることを願っています。隣人、近くにいる人々が神にあって、霊的な祝福をいただくように祈りましょう。これが神の祝福の原理です。家族の救いのために今日も祈りましょう。
306.イザヤ48章17~18節
17節)あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
18節)あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。
――> 主の命令を守り、耳を傾けることは、人にとって益になる。幸せとなる。
307.イザヤ30章15節
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
――>イザヤ30章には、力ある国エジプトを頼る姿が書かれている。神を信頼せず、目に見える軍事力を頼る姿は虚しい歩みであると聖書は指摘しています。その時必要なことは、信仰をもって、主に立ち返って、静かになり、主を信頼することです。その時、天から来る力を得ることができる
308.イザヤ30章19~21節
19節)ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
20節)たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。
21節)あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。
――> このイザヤの御言葉も何度も読んでほしい。黙想してほしい。主は私の叫び声に導いて下さることを約束してくれる。ただ、苦しみのパンを食べ、虐げの水を飲むような状況に置かれていることもあると書かれています。しかし、21節を見て下さい。人の目には見えない神は後ろからその智恵を教えて下さる。後ろからという表現も面白い。困っているような状況で、確かな道を提供してくれる神です。後ろから聞こえて来るその言葉はかすかな形かもしれないが、正しい道が示される。今日も主に期待して進もう。
309.創世記22章14節
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。
――> 信仰をもってアブラハムは、イサクと共に進んだ。最終的には主が用意してくださった。主が下さる備えをいただくためには信仰の目が必要である。
310.出エジプト23章20節
見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。
――> 使いは究極的にイエス・キリストを指し示している。神は私達の道を守って下さる。備えの場所がある。導いて行かせる方が私達を備えて下さる。
311.Ⅰコリント8章3節
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
――> 寂しい時がありますか。この御言葉はあなたの孤独から開放してくれる。それは自分のことを誰も理解してくれない、見てくれないなど、ひとりぼっちの気持ちになる時助けられる。神との交わりの中で、神は人を見ておられる。すべてを知っておられる方がそばにいるということは大きな励ましになる。
312.イザヤ53章11節
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
――> 苦しみがあれば不幸なのか。いや聖書は苦しみについての見解が違う。苦しみがあるから正しい知識を得る。そして、神の御心を知り、そのような道を励む時、心は満足で満たされる。苦しみを通して、本当の愛に繋がり、本当の幸せにつながる。
313.イザヤ27章3節
わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。
――> 神の働きが紹介されている。主は私達を守っている。絶えず生命の水を注いで下さる。夜も昼も、信仰者を見守っている主である。主に感謝ししょう。
314. ヘブル 13章 9節
さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。
――> 主の恵みによって心が強められる。これは信仰生活の中で感じる。主に対する確信、主の希望を信じる時、不安が解決される。心が強くなる。共におられるインマヌエルの神を信じる時、全き平安が与えられる。
315.ホセア14章1節
イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。
――> 何かがうまく行かなかった場合は、原因を探す。本当の原因はどこにあるのか。問題解決になることが多い。その中で自分の罪と自分の不義が本質的な原因の場合もある。神に出会ってから改めて自分を見つめ直す時がある。自分の罪、不義がつまずきのもとであったことを知る時、大きな信仰の成長につながる。
316.イザヤ42章24~25節
24節)だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。
25節)そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。
――> 自分の罪によって、裁かれていることを分かりやすく語っている。神の怒りが信仰者の周りを焼き尽くしても、悟らない。心に御言葉を留めない。私達は主の導きに敏感になろう。
317.イザヤ43章1節
だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
――> 不安に落ちる時にも、この聖書箇所を読もう。恐れるな。創造主は私のすべてをご存知だ。未来のことも私のために用意されている。不安な情報に接する時も主に信頼せよう。私たちを創り出して、この世に送った神様は、必要な時に満たしてくれる方である。私ができることは神を信じ、委ね、今日も神の言葉にアーメンすることである。共におられる神を信じていますか。疲れていますか。これも神の導きだ。委ねよう。
318.イザヤ43章7節
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。
――> 人間が生きる目的が書かれている。一言で言うと、神の栄光のために人間が造られた。創造主が人間を造った目的を失うと、神と人間の関係は遠くなってしまう。神を失った人間は、とにかく生活の便利さを追求する。神と関係を結んでいる人は、神を礼拝する。この両者は大きな隔たりがある。今日も主の栄光のために生きよう。
319. イザヤ45章7節
わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」
――> 神を知ることは、世の知識を知ることになる。光、平和という明るく見える時も神のわざであり、闇、わざわいも、主の御手の中で動かされている。世界のすべての動きは、主の計画の中で進まれる。この信仰がある時、悲しみの時も、耐えることができる。忍耐することができる。前に進むことができる。
320.イザヤ45章15節
イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。
――> 偶像は目に見える。神は救い主であるが、目には見えない。謙遜に自分の存在を隠し、今も働いている。
321.イザヤ47章13節
あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。(抜粋)
――> 情報社会で情報は溢れている。どんな知識が正しいのか混乱の時代でもある。有益なものもある。助かる助言も多い。魂の救いのためにどんな知識が必要なのか、現代人は失ってしまった。一生懸命に探し、求めている。聖書の御言葉に出会っても確信がない。だから不安にさらされて、魂は疲れている。
322.イザヤ48章17~18節
17節)あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。18節)あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。
――> 主の教えは私の生活に益になる。主の教えに従った時、すぐ益になるものだと感じることもある。しかし一番益になることは時間と共に徐々に悟り始める。人生の一番の必要な要素が主の教えである。歩むべき正しい道が紹介されている。まずは主の命令の耳を傾けることである。今日も主の約束を待ち、実践しよう。
322.イザヤ49章4~5節
4節)しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」5節)今、主は仰せられる。――主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。――
ーー> 自分の働きを自分で評価する時がある。これは無駄な働きで、あれは高く評価する。特に主の御名のために力を注いだわざが、結果的に無駄に見える時が多い。真心から主の国に使える時、艱難と試練が待ち受けている。それを通る時にがっかりするが、今日の御言葉は力を与えてくれる。最大な報酬は、神と共にいるという信仰である。この信仰は生涯にわたって続くもので最高のプレゼントである。主が近く感じることは最大な主からの賜物ある。主に尊ばれていることを教えられる時に、人生を生きる力となる。
323.イザヤ51章12節
わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。
――> 慰め主は聖書が示している神である。人間にとって本当の慰め、生きる理由がここにある。慰めがなければ人間にとって安らぎがない。やがて死んでいく人を恐れるなと強く語っている。明日なくなる草のような存在を恐れるな、と神は慰めのことばを語っている。
323.イザヤ56章7節
わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
――> 教会を他のことばで言うならば、祈りの家である。祈りを通して、神との交わりを持つことができる。聖書に示されている教えを聞き、私達も願いを主に伝える。祈りが深くなると、主の喜ぶことを選択するようになる。この祈りの家は、すべての民の祈りの家である。あらゆる民族にとっても祈りの家となる。神のみ旨がここで示されている。
324.イザヤ50章4節
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
――> イザヤの信仰をみることができる。イザヤの教えは、神の教えから来られたものである。真の教えは、疲れた者を励ましてくれる教えである。毎日、神との新鮮な関係を持つことが神に用いられる人の特徴である。
325.箴言17章22節
陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。
新改訳2017年)喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。
――> 主にあって喜ぶことを聖書は勧めている。その理由の一つは、クリスチャンの健康のためである。普段私達は癒やされるために祈るが、普段神は、私達の健康が良くなるために、守っている。今日も主にあって、望みを抱いて、前に進もう。
326.イザヤ61章7節
とこしえの喜びが彼らのものとなる。(抜粋)
2017年)とこしえの喜びが自分のものとなる。
――> 神の喜び、永遠の喜びが自分のものとなること。本物の味をみる時である。主よ、その喜びを多くのクリスチャンに教えてください。日々、私も深く味わい、体験できますように祈る。
327.イザヤ63章9節
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
――> 主は苦しんでいる人のそばに寄り添っている。また、その愛と哀れみをいつも送っている。むかしからずっと抱いてこられた。しかし、信仰の民はそう思わなかった。信仰が復活されるように今日も祈る。私達を背負っている神を見上げよう。
328.イザヤ 63章14節
家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。
――> 主との交わりは、活気が与えられる。御霊は憩いを与えてくれる方である。
329.イザヤ65章14節
見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。(抜粋)
2017年)見よ、わたしのしもべたちは心の底から喜び歌う。
――> 主によって遣わされた者は、主のしもべである。しもべは、心の楽しみがある。あふれる楽しみである。この楽しみは自然に喜び歌う賛美へと変わっていく。
330.イザヤ66章2節
わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(抜粋)
――> 主に目を留められる者は幸いである。そのためには、へりくだろう。心砕かれ、主のことばにおののこう。恐れの信仰をもって、主の前で歩もう。
331. ルツ記3章1節
しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。
――> 幸せの一つは、身の落ち着く場所である。一人生活ではなく、守られている生活である。2000年前の一人の生活は今と比べて比較的なほどの不安な生活である。主は私達のために、身の落ち着く場所を用意してくださったことを感謝しよう。
332.申命記1章30節
あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。
士師記4章14節(抜粋)
主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。
――> 聖書が示している神はインマヌエル神である。共におられる神である。同時に先に立って行かれて、備えてくださる神である。代わりに戦ってくれる神である。私達のためにいつも良い祝福をしてくださる神に信頼しよう。
333.イザヤ40章26節
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
――> 創造万物をみると、力がみなぎっていることを教えられる。一つ一つの生物をお造りになった方は精力に満ちていることを教えられる。各種いのちを造った方は今も支え、世界を動かしている。その方が私を導いていることを教えられる時、今日も力強く生きよう。無駄な人生はない。意味もない人生もない。
334.Ⅱサムエル22章20節>
主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。
――>この告白は、ダビデがサウルから勝利した時、賛美したところである。試練は私達の視野を広げてくださる。宣教の目をくださって広い世界の恵みを体験させてくださる。いつも助けられる。主が私達の喜びになると、私達はさらに広い世界に行くことができる。信仰の目を高くあげよう。
335.イザヤ40章17節
すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。
――> 本来人間の価値はない。罪人である私達は堕落してしまい、価値がない。聖書には霧のようで、チリのようだと語っている。だが、神によって再創造された人は、価値が回復されたのである。
336.詩篇32篇10節
悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
――> 主に信頼する者になるためには、主との交わりが必要である。その交わりによって、めぐみの世界をますます味わうことができる。めぐみが信頼する人に取り囲まれていることを知ることができる。
337.ヘブル6章19節
この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。
2017年)私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また、幕の内側にまで入って行くものです。
――> この聖書の御言葉は信仰について語っている。たましいが安全であることを保証してくれる。この信仰から来る望みは、神の臨在と繋がっている真の望みである。この確かな望みが私たちの信仰のうちにあることを感謝しよう。
338.申命記4章7節
まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。
――> 主と共に歩む人生が最高の人生である。近くに主がいらっしゃることを感じる信仰者は偉大な国民である。聖書は主と繋がっている人生がいかに幸いであるかを教えている。今日も深い主との交わりを豊かにせよう。
339.出33章11節
主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。(抜粋)
――> 全知全能の神が私の友となって下さったことは大きな恵みである。近づけない方が私たちのために語ってくださる恵みは計り知れない。神が謙遜と愛で満たされて、私たちに声をかけてくださる。その愛に私たちも、感謝の愛をささげよう。
340.申命記5章1節
さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。
――> 十戒を聞くだけでは不十分である。十戒を学ぶ必要がある。それは深い意味と主の導きがあるからである。学ぶだけではなく、守り行う時にその主の愛をさらに知ることができる。
341.ヘブル12章11~12節
11節)すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。12節)ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
――>神の懲らしめは愛である。人間の懲らしめは間違いがある。神の懲らしめは最初から最後まで主の導きで愛に溢れている。しかし人間はかえって悲しく思う。愛として受け入れることが出来ない時が多い。神の懲らしめを上手に受け止める時は、霊的に訓練される。平和の義の実が与えられる。ですので、疲れた体を主に任せよう。
342.ヤコブ1章2節
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
――> 試練に会う時、信仰の態度が示されている。試練に会った時に、普通は喜びと思わない。信仰者は思わぬ出来事でも、主の希望を見出す力がある。絶望的な状況でも、主が下さる希望をもって、最高の喜びで過ごすことである。これは信仰の力である。この世を幸せに過ごす秘訣である。
343.ハガイ2章5節
あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
――> 今日の本文にも、主の励ましがある。いかなる状況でも主に信頼することは大切である。主の霊が共にいて、働いていることを信じることである。今日、神が語っている。恐れるな。このことばを信じ、進もう。
344.Ⅰテモテ6章17~18節
17節)この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。18節)また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
――> 聖書が語るお金持ちの行き方が紹介されている。高ぶらないように。本当の望みは主であることを知る必要がある。そして、与えられたものを楽しむことが必要です。神が下さった喜びを味わうことができる人は、喜んで分け与えることもできる。その力が与えられる。今日も物を豊かに与えて下さる神、楽しませて下さる神に礼拝をささげよう。
345.ヨブ22章21節
さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。
――> 神との関係が愛の関係で結ばれている時、天から来る平和を味わう。それが幸いである。人から来る称賛は本当の意味での幸いではない。まことの幸いがあなたの上に注がれることを祈る。
346.ヨブ2章9~10節
9節)すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
10節)しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。
――> ヨブの妻とヨブの信仰の姿勢が書かれている。試練の時にどのような姿勢を保つことなのか、この聖書箇所は教えてくれる。祝福も主のものであり、わざわいも主のものである。神が必要であるならば、災さえも主の御手の中にあるという信仰は素晴らしい。今日もヨブの信仰に目を留めよう。
347.出14章14節
主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。
――> 人間の最善と、神の導きが信仰において大事なことである。両方のバランスであり、統合である。主ご自身の導きに対する信頼が増していく時、主が信仰者のために祈ってくださり、先に闘っていることをみることができる。沈黙の中で、成り行きを待つ信仰に立っていこう。
348.Ⅰ列王記19章4節
自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
――> エリヤの落ち込み、死ぬほどへこんでいる彼の問題が出てくる。比較意識である。他人と比較して良いこともある。でも、多くの場合はマイナス影響が多い。自分に与えられている賜物、神と深い関係に焦点がない場合は、エリヤのような落ち込む経験をする。主との深い関係が深くなると、マイナス影響から抜け出すことができる。
349.申命記24章17~18節
17節)在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。18節) 思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
――> 過去の辛い経験を思い出すことは簡単なことではない。辛い経験も主の照らしをいただくと癒やされる。いやそこから主のビジョンが生まれる。奴隷生活から救い出してくださった主の恵みを思い起こすことができる。また立場が弱い人々を助けるきっかけとなる。奴隷の経験が神にあった時に新たな過去になっていく。未来に向かう歩みも変わっていく。
350.申命記26章14~15節(抜粋)
14節)(抜粋)私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。
15節)あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」
――> 祝福を願うタイミングを教えています。申命記26章の中には、神の民として、主から命じられていることを守った後に、この祈りが書かれている。神を愛する、弱い者を愛する戒めを果たしている時、この祈りをささげた。私たちも主に祈る時に、主に祝福を願う時に、この順番を守っているのか、自ら顧みよう。
351.箴言16章20節
みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。
――> 御言葉に心を留めよう。御言葉には、幸いの道がある。人間にとって幸いを与える生き方を見出す。それは、神を信頼することである。神に拠り頼むことである。幸いを見つけ出したいですか。今日も聖書から下さる恵みをみよう。
352.申命記28章47節
あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、
――> 豊かになっている環境では神との関係がゆるくなりやすい。心から喜び楽しむ信仰があやうくなってしまう。神が願っておられるのは、心から主と喜びと楽しむ関係である。今日も豊かな環境を下さった神を楽しんで喜ぼう。今日も感謝の日である。
353.箴言21章11節
あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。
リビングバイブル)知恵のある人は聞くだけで学ぶことができます。愚かな者は、人をばかにする者が罰を受けるのを見るまでは、学ぶことができません。
――> 奥深い神の恵みをいただく聖書箇所である。体験主義の限界を教えてくれる。自分の体験のもとに、大きな教訓を教えられる。そうだ。私はそのような経験を感じた。その経験はいろいろなアドバイスをくれた。
ただ、聖書は経験に基づいて学ぶだけではなく、大事なことは、聖書を学ぶ時に、その知識を得ることができる。未来のこと、これからのことを、経験では学ぶことが出来ないことを、聖書から知識を学ぶ。聖書の知恵である。
354.ユダ20節>
jude 20 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
――> 信仰者が持っているものの中で、最も価値あるものは、信仰である。その信仰の上に自己開発と自己能力を改善することは素晴らしいと思う。自分が与えられた才能を神の栄光のために築き上げることは主が喜ぶものである。その時にも、聖霊によって祈り、間違った方向に行くのかどうか確認しながら進もう。今日も聖霊によって励む一日となることを願う。
355. ヘブル4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
――> 神は生きている。神は、信仰者にこの神の言葉を持って語りかける。力がある方の愛のメッセージを聞くことができる。心の奥深い思いや欲望まで見分ける力がある。神の前では、すべての人は裸でいるような感じである。人間の赤裸々な姿をさらけ出す。主の前で、謙遜と感謝をもって生きることを願う。
356.ヘブル5章2節
彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
――> ヘブル5章には、大祭司の役割と特徴が紹介されている。神と民の間での役割である。その両者を導くためには、自分の弱さについても認識する必要があった。その弱さを自ら感じるので、無知な迷っている人対しても、優しく接することができる。真の大祭司はキリストである。私達の弱さを知っているイエス様は今日も思いやりをもって、私達のために祈っている。
357. ヘブル6章19節
この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。
――> 神様がくださる希望と望みは、安全である。確かなものである。これを確信するクリスチャンは揺らがない。確かな恵みを受け取る。今日も魂のめぐみを受けて前進しよう。
358.ヘブル13章8節
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
2017年)イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
――> イエス・キリストは、2000年前に人の肉身をまとって、人間として生まれた。完全な人間になった。同時にイエス・キリストは100%神である。神学的な部分である。十字架で死なれたイエスであるが、神はよみがえられた。イエス・キリストは、とこしえに変わらない。いつまでも同じ方で、私達と共におられる方である。主に感謝しよう。
359.ゼカリヤ書2章13節
すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。
ゼパニヤ書1章 7節
神である主の前に静まれ。主の日は近い。主が一頭のほふる獣を備え、主に招かれた者を聖別されたからだ。
――>主の前に静まって、神の言葉を聴くと、神から来る平安と安らぎを感じる。忙しい現代の人にとって、静まって神の声を聴く時間を確保することは難しい。努力して時間を確保して、主が語りかける声に耳を傾けよう。
360.ゼカリヤ 2章 8節
主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。
――> 神の民を必ず守ってくださる意志が反映されている聖書箇所である。私の民にふれるなと語っている。主のひとみにふれることは、神を怒らせてしまう。神の目は主の民に向けられている。
361.ゼカリヤ13章8~9節>
8節)全地はこうなる。――主の御告げ――その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。
9節)わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。
――> 試練は信仰を純粋にさせる。今まで多くの信仰者を神が訓練させた。本日の箇所も、主の愛のゆえに、主の民を訓練させている。銀を練るように、訓練させた。このような訓練期間があった時に、心から主を褒め称えることができた。
362. ゼパニヤ書1章12節
その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、「主は良いことも、悪いこともしない」と心の中で言っている者どもを罰する。
――> 神を失った人の告白である。主は良いことも、悪いこともしないと、自分の判断でこの世界を見てしまう。神に祈っても主が何もしてくれない。神に切に願っても、状況が変わらない時、このような信仰になってしまう。神は最善を与えてくださる方である。
363.エレミヤ2章13節
わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。
――> いのちの失った不信仰者の歩みが書かれている。湧き水である最高の新鮮な水を捨ててしまう。自分たちが探した水溜は腐っていく。本物の信仰に立っていこう。
364.ゼパニヤ書1章18節
彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。(抜粋)
――> 信仰によって私達は救われる。人間が作ったものでは、怒りの日を免れることができない。人間が作った素晴らしいものでは、救いの道はない。主の御名を呼び求めよう。イエスの御名で神の国を求めよう。
365.ゼパニヤ3章14節
シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
――> 主を知る時、このような信仰のアクションが出る。心の底から喜ぶことができる。心の底から喜び踊ることができる。喜びには叫びが入っている。心から出てくる喜びの叫びである。今日もこのような喜びが包まれるように祈る。
366.ゼパニヤ3章17節
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
――> 神である主は、愛である主はいつも喜びをもって、私と関わっている。主は楽しんでいる。その愛をもって、真の安らぎを下さる。今日も高らかに主を褒め称えよう。
367. 詩篇94篇18~19節
18節)もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。
19私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。
――> 心配と憂いが心のうちで増す時がある。人間は未来が心配になり、不安になる時が多い。あなたの恵みが支えになって下さいと祈ろう。慰めが喜びへと変わるように祈ろう。
368.詩篇63篇3~5節
3節)あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
4節)それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
5節)私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
――> 神の存在を確信する時、ダビデのように告白できる。いのちにまさることがある。それは、主のめぐみである。神の存在を見出す時、賛美が溢れていく。両手を上げて祈りができる。たましいが満足される。心の満足は神に出会う時である。
369.イザヤ45章7節
わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。
――> 神は万物をお造りになった方である。神は闇の世界を知らないわけではない。すべてを作り、支配している。その目的と働きをすべて、人間は知ることが出来ない。主を信頼しよう。
370.ルカ22章28節
けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
新)あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。
――> イエス様のことばである。十字架の前で弟子たちに語った言葉である。イエス様の生涯は苦しみの連続であった。特に公生涯ではイエス様はサタンの戦いであった。その時、弟子たちがそばにいてくれたことに感謝している。様々の試練の時に、親しい友と一緒にいてくれる信仰者になろう。
371.ナホム1章7節
主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。
――> 主はどのような方なのか。聖書は、慈しみ深い方である。怒りに遅い方である。苦難の時に信仰者は、身を守ることができるのは、神の導きがあるからである。主に身を避ける時にも、主は知っておられることは恵みであり、慰めである。
372.エレミヤ51章15節
主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。
――> 自然をみると、神の力をみることができる。御力をもって、この世界をお造りになった神の威厳を感じる。自然界にある被造物をみるたびに、神の知恵を知ることができる。その英知は、宇宙のミステリーより大きい。反面人間は無知でかぎりがある。主の前にへりくだって、歩もう。
373.哀歌5章21節
主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。
――> バビロンにいた人々の心が反映されている聖書箇所である。神のみもとに帰りたいという切なる祈りがある。神にあって日々新しくされるのがクリスチャンである。神のもとで、日々主によって新たにされる深い関係になることを祈る。
374.Ⅰコリント1章18節
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
――> 聖書のことばの中心は十字架のことばである。一見十字架のことばはおろかで見える。実用的ではないように見える。その福音の奥義をまことに知った時、神の力であることを気づく。救いをもたらす主の力に感謝しよう。
375.ダニエル9章9節
あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。(抜粋)
――>神は憐れみ深い方である。赦して下さる方である。この哀れみと赦しは主のものであり、主に属しているものである。信仰者も憐れみと赦しが豊かになるように祈る。
376.ダニエル9章14節
私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。(抜粋)
――>主の導きは、時にかなって美しい。神のみわざは、全て正しい。人間はそのはじめから、終わりまでそのみわざを見極めることができない。今日も主の御手の中で歩もう。
377.申命記1章31節
また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。
ーー> 荒野でも主の導きがある。子を抱くように、主は一番近くで守り導いている神である。しかし信仰者は感じるのが遅い。主を全く信じることが出来ない。今日主が先立って戦っている主を褒め称えよう。主を信頼しよう。
378. ルカ13章33節
だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。(抜粋)
――>危険があっても、神の働きは継続しないといけない。神の働きは中断されてはいけない。イエス様は神に委ねられた仕事を、神の方法で進んでいた。今日も信仰をもって進んで行こう。
379.詩篇94篇19節
私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。
――>人間は心配する傾向がある。思い煩いによって悩みに陥る時がある。信仰者はその時、たましいを喜ばせる神との出会いが必要である。主の慰めを今日も祈ろう。今日も主が励まして下さるように祈ろう。
380.イザヤ56章7節
わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。(抜粋)わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
――>祈りの世界を体験すると、真の楽しみが訪れてくる。祈りの楽しみを経験すると、更に神の約束の真実さを確信する。不安を和らぐ祈り、神を信頼するようになる祈り。この祈りの世界の味を体験しよう。
381.Ⅱコリント9章15節
ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
――> 神の恵みを体験するほど、感謝があふれる。ことばでも表現しきれない。主が下さったプレゼントがどれほど素晴らしいのか、今日考えてみよう。今日も神に感謝しよう。
382.Ⅰコリント7章35節
ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
2017年)~むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。~
――> 神の御言葉はある時、束縛に感じる時がある。その逆である。信仰者の益のためである。そして、品位ある生活を保つことができるコツである。神の御言葉は、主に継続的に奉仕できる力を与えてくれる。
383.コロサイ3章16節
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
――> キリストのことばが私たちのうちに豊かに住むことになると、神の御言葉の喜びが共に臨むことになる。互いに教えることができる。互いに戒めることができる。夫婦の中で素晴らしい恵みがあふれていくのである。感謝があふれて、神に向かって歌うことができるのは、御言葉に対する確信がある時である。
384.ヨハネ15章11節>
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
リビングバイブル)このことを話したのは、わたしのうちにあふれる喜びを共に味わいたいからです。
――> イエスが下さる喜びは、本当の喜びで、人間本来の喜びとなる。満たされる喜びである。イエスの喜びは、父なる神からいただいた喜びである。私たちのうちから湧き出る喜びを十分私たちが味わおう。
385.ヘブル 5章 8節 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
――> 苦しみを通して、従順の幸いを学ぶ。イエスも十字架の前で祈った。肉体的な苦しみを感じながら、主に祈る時に、主の御心のままの導きに答える祈りへと変わった。主の従順は幸せである。その時はその試練の意味を知らなかったかもしれないが、従順の選択は主に用いられる時である。
386.エペソ3章10、11節
10節)これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
11節)私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです
――> 教会を通して、神の豊かな知恵が示されていることが、聖書にはっきり書かれている。この豊かな知恵は、主イエス・キリストにおいて具体的に知らされた。神の永遠のご計画が私たちに知られたのは大きな恵みであり、知恵である。
387.コロサイ3章10節
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
リビングバイブル)あなたがたは新しいいのちに生きています。正しいことへの探究心を強め、ますます、この新しいいのちを与えて下さったキリストに似る者となるように努めましょう。
――> イエス様の愛と人格に触れた人は、ますます造り主と似る者となっていく。特に新しくされ続けて、真の知識を知ることになる。正しいことへの探究心が強められる恵みがある。イエス様を更に知りたくなる。イエス様をマネしたくなる。今日も真の知識を求めよう。
388.創世記43章14節
全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、(息子を)失うときには、失うのだ。」
――>失う時は失う。ヤコブのことばである。総理大臣になったヨセフとの再会のために、ベニヤミンを連れて行くのを許可している時の言葉である。これはあきらめかけている時のことばではなく、全能の神を信じている時、確信に満ちている言葉である。主に委ねる言葉である。失う時は失う。与えられる時は与えられる。
389.詩篇103篇2節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
――>主を褒め称える時、主が下さった恵みを思う。その時、主が良くして下さった恵み、主が必要なことを満たして下さった恵みを数える時に、さらに主を褒め称えることになる。今まで主がくださった御業を数えてみよう。何一つ忘れるな。
390.神と私達の関係は、親子の関係である。
①詩篇103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
②詩篇 89:26 彼は、わたしを呼ぼう。『あなたはわが父、わが神、わが救いの岩』と。
③イザヤ49章14~16節
14節)しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。 15節)「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。16節)見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
④出 4:22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。
⑤イザヤ1章2~3節
2節)天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。3節)牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
⑥ホセア11章1~2節
1節)イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。2節)それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。
⑦イザヤ63章16節
まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。
⑧イザヤ64章8節
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
⑨エレミヤ31章9節
彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」
⑩マラキ2章10節
私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。
⑪マラキ3章17節
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
391.イザヤ 40章31節
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
――> 主を待ち望む者に恵みがあると書かれている。まだ主との出会いがないが、待っている時の信仰によって、新しく力を得ることができる。鷲のように、空気の力、翼の運動が合わせて、上ることができる。歩いても疲れないことは、主が下さる力だからである。
392.Ⅱ歴代25章8節
それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。」
――> 神を神として認めることができれば、本当に主を恐れることができる。つまずかせる力もできる方である。本当の祝福は主を正しく知ることである。
393.創世記50章19~20節
19節)ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。
20節)あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
――> 神の代わりに出来ることがある。神の言葉を伝えることである。神の代わりにできないことがある。赦しと裁きである。その基準は神が握っている。人の判断ではない。神の代わりにできないことは主に委ねよう。
394.イザヤ63章16節
まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。
――> 神との関係が深い人は、揺らぐないでいることができる。信仰の先輩が認めなくても、尊敬する人が私を知らなくても、神が私たちの父となるならば、私たちの生活は変わっていく。真の平安で満たされる。認めようとする行為は無くなる。真の自由な生活となる。神が子を忘れることがないので、愛を受けながら生活ができる。
395.ヨシュア23章11節>
あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。
2017年)だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。
――>ヨシュアの人生の最後に、クリスチャン後輩たちにおすすめをしている。神を愛することは信仰の一番大切なことである。神を愛することを、自分の考えで進むなら、最後にずれている自分をみることができる。十分に気をつけて信仰の歩みを進めることが大切である。信仰の穴となるものがどのようなものがあるのか、今日も自分の信仰の歩みをふりかえてみよう。
396.ヨシュア24章14節
今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
――> エジプトから出たイスラエル民族はまだ偶像崇拝をしていた。いつでも偶像崇拝に走る可能性が濃厚であった。エジプトの強い軍事力を憧れている人にとっては、エジプトの神は礼拝の対象になる。主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕える時に、偶像崇拝から守ることができる。
397.使徒7章38~39節
38節)(抜粋)荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。
39節)ところが、私たちの父祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、
――> 御言葉の基準、御言葉の祝福をいただきながら、その奥深さを知ることが出来なかったイスラエル民族の姿が書かれている。私たちも同じである。懐かしさを頼って、モノの判断の基準になっていないか。生ける御言葉をどのように受け取っているのか。この御言葉によって私たちの魂は守られている。
398.ピリピ4章19節
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
――>神は、私たちの必要をすべて満たしてくれると聖書は語っている。力強い励ましがある御言葉である。神の栄光の富と豊かさに従って、私たちの必要を満たしてくれる。主に信頼して前に前に進もう。
399.Ⅰサムエル7章12節
そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。
――> サムエルは、ペルシテ人との戦いに勝利をした。その時にこのような告白して、地名の名前を付けた。エベン・エゼル。助けの石。その具体的な意味は、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」過去から今まで、主がここまで助けてくださった恵みを数えている。インマヌエルの意味は、現在共におられることを強調するならば、エベン・エゼルは、過去から今まで神が助けて下さることを強調する意味である。王様がない政治組織でも、今まで主が守ってくれた感謝がここにも感じる。
400.ヨブ42章2節
あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
――> ヨブの告白は、心からの告白である。長いトンネルのような試練を通して、主への告白が一味違う告白である。神はすべてが出来る方であると告白した。人間の狭い考えでは主の導きを理解することができない。どんな計画も成し遂げる方の前で、ヨブは悔い改めている。
401.Ⅰサムエル15章30節
サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」
――> サウルが悔い改めの祈りをする時は、本当の信仰に立っていない。罪を犯したと言いながら、面目を立ててくれると言っている。面目をつぶさないで下さいと願っている。礼拝も祈りも真実な祈りを主は願っている。
402.Ⅰサムエル17章45節
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
――> この聖書の御言葉は、ダビデがゴリヤテを向かう時のことばである。剣と主の御名の対決のように見える。まるで今日の霊的な戦いを見るように感じる。目に見える武器と目に見えない主の御名の対決である。剣が勝つように見えるが、全世界を治める神の御名の勝利で終わると聖書は語っている。今日も万軍の主の御名をもって、進んでいこう。
403.詩篇141篇5節
正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。
――>神を恐れる人が愛情と真実の愛をもって、忠告する時、聞く耳が与えられるようにと、ダビデは祈っている。非難されたように感じても拒まないようにと祈っている。ダビデの真実な姿である。悪者が悪行が行っている時にも、祈る心を与えてくれるように祈っている。主の戒めとアドバイスに対して、心がかたくならないようにと祈っているダビデは真実な信仰者である。
404.詩篇119篇130節
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
――> 御言葉は、神の知恵が入ってある。神の知恵は人間を賢くさせる。人生の悟りをあたえてくれるのは神の御言葉である。今日も心に光が差し込んでくるように祈ろう。
405.エレミヤ1章5節
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
――> 神の計画の素晴らしさを知ることができる。神は天地創造前から存在した。私たちの魂と体が世の中に出る前に神は知っておられる。主が生まれる前から聖別して、計画していたことを私たちは信仰の目が与えられた時に知ることが出来た。
406.Ⅱサムエル4章9節(抜粋)
「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。
――> ダビデの告白である。自分の歩みをふりかえってみて、このように信仰告白した。ユダの王様としての道のりは苦難の道であった。ところが、ダビデはそのような困難な課題の上に、神が救い出して下さった信仰体験を持っていた。主は生きておられる。
407.イザヤ42章6~7節
6節)「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。 7節)こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。
――>主はクリスチャンを召し、手を握り、私たちを守っている。世の光として導き出したのである。神は霊的に目が見えない人を開かせたのである。囚人から闇から、連れ出して下さったのである。今日も贖われたことを覚えて、歩もう。
408. 詩篇25章10節、14節
10節) 主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。
14節) 主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
――> 2つの詩篇の箇所を良く見ると、つながるの恵みがある。主を恐れる人は、神と親しくなる。そうすると神の契約を知ることになる。神の契約を知る人は、主の道のすべてが恵みとまことであることを知ることになる。主の道は正しい。恵みで満たされる。今日、主を恐れているのか問われている。
409.イザヤ50章6~7節
6節)打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。7節)しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。
――>十字架の苦しみは侮辱であった。しかし、イエスは主の助けによって、侮辱は侮辱ではなかったと聖書は記されている。世の中に生きるクリスチャンは悲しみと痛みの連絡である。その時ずつ、神の助けが必要である。その時、その痛みと悲しみを克服できる。痛みより遥かに大きい恵みをいただくならば、その傷は癒やされる。
410. 詩篇56篇13節
あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
――> 私たちが救い出された目的が記されている。神の御前に歩むためである。生涯に渡って、神の御前に歩む信仰者になることを祈る。
411.ローマ1章28節
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
2017年)また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。~。
――> 神を見出すことは人生最大な課題である。神を知ることは、自分を知ることである。神を知る価値の重要性を分かっている時、更に神の愛を知ろうと求めるようになる。神を知ることが無価値だと思う時に、偶像礼拝に陥る危険性が高い。
412.ローマ2章4節
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
2017年)それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、~。
――> 神が持っている慈愛、忍耐、寛容を知る時に、人間は悔い改めに導かれる。いかにめぐみを受けているのかを知ることができる。いつくしみ深きの神を賛美しよう。主の前で自分の罪の深さに泣こう。
413.ローマ2章29節
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
2017年)~その人への称賛は人からではなく、神から来ます。
――>目に見える割礼より、本当に心からの信仰を主は見ておられる。人への称賛、評価は、神から来るのを信じているのか。正しい評価は神から来るものである。主の前で歩もう。
414. ローマ5章3、4節
3節)そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4節)忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
――> 艱難が訪れると、信仰者も避けたくなる。神は信仰者のために、難問題をくださる特別な意味と意義がある。艱難は信仰者が祈りをする時に、忍耐が養うように導く。忍耐だけではなく、艱難を通して、苦難に遭っている人々を理解し、弱い人々に対する思いやりの心が与えられる。人の品性全般が養われていく。そして、最後には人間から来る希望ではなく、神の希望に目を留めることになる。神が下さる艱難に信仰をもって、直視しよう。
415.出エジプト記19章4節
あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
――>今日のタイトルは、「神と共に空を飛ぶ」です。自由に空を飛ぶ鳥を見ると、人も空を飛んで行きたくなりますね。皆さんは重力(じゅうりょく)に勝って、行きたいところを行く鳥のようになりたいと思ったことはないでしょうか。今日の聖書箇所は鳥が出てきます。鷲です。鷲がイスラエル民族をつばさに載せたと表現しています。詩的な表現ですね。申命記という聖書には鷲が自分のひなを育てて、守る様子が描かれていますが、その時にも今日の聖書箇所と似たような表現を使いました。それは神様の愛によって、信仰者が守られて、育てられることを指しています。子どもが両親によって育てられることは、恵みの時です。無条件の愛を受ける時ですね。それと同じように、私達が救われたのは、恵みの恵みによって救われたのです。今日の本文では、神様はイスラエル民族をエジプトから連れ出されたことが書かれています。奴隷状態である人々を連れ出したのは、本当の自由をもたらすためでした。翼にのせて、本当の自由を与えるために、成し遂げてくださった神の御業です。信仰は本当の自由を与えてくれます。イエスにある自由を今日も感じながら、歩みましょう。
416.詩篇107篇43節
知恵のある者はだれか。その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。
2017年)知恵のある者はだれか。これらのことに心を留めよ。主の数々の恵みを見極めよ。