『問いかける法哲学』メモ

かんたんなメモ

  • 米村幸太郎「1章 ドーピングは禁止すべきか」pp.2-18 (2016.10.25 未完)

    • 後輩の1人がまったく同じ研究テーマであるため、彼にコメントを依頼されて少し勉強したことがある。その際に指摘した議論がほぼ網羅されているが、触れられていない点があるので1点だけそのときにコメントしたものを記す。

    • ドーピング規制を是としたいならば、スポーツのルールを構成的ルール(constitutive rules)と考える立場がある。ドーピング使用を容認した場合もはやそれは同じスポーツではないと考えるのである。たとえばドーピングでもスポーツでもない例を挙げてしまうが、「将棋指し」が、「一手指すたびにジャンケンをして勝ったほうがもう一手指すことができる」としてもう一手指したとき、もはやそれは「将棋」ではない。そのようなルール変更がおこなわれたとしたら、「将棋α」という別の競技になったのだ。競技団体はあくまで「将棋」の構成を維持しつづけ、自団体から「将棋α」行為を放逐することができ、反対に「将棋α」指しは自由に新競技をはじめて団体を作るなどすればよい。もちろんこれはドーピング禁止の是非に関する規範的議論に真正面から臨むものではないし、また、国家がスポーツ競技自体を規制したり、複数ある競技のどれかを規制したりすることの是非とは一応独立である(国家による規制を否定的に解する方向には行きやすいとは思う)。著者の「4.2 自由の限界をもっと遠くへ」の節での主張と「結論同旨」であり、論争しない法哲学になってしまうのだが。

    • なお付言すると、ドーピング規制を含め競技団体はしばしばルール変更をおこなうが、変更後もなお「同一の競技」であるかどうかは偶然による。サンデルのようにその競技のtelosがあり私たちがそれを知っているというのなら話は別だが、それが自明でないとすると、私たちはそれが同一の競技だと思う人々によって構成されているのではないか。別の競技になってしまったと思い、元のルールこそがその競技であると思う人々は別の私たちとして共同体を形成するのである。構成的ルールの変更による競技の同一性主張(正統性)は、このような意味で政治運動に近いかたちで理解されるべきではなかろうか。

  • 若松良樹「3章 犯罪者を薬物で改善してよいか」pp.40-56 (2016.11.29)

    • p.45「刑罰である以上、受刑者から何かを剥奪することになる」 刑罰を何らかの「剥奪」として捉えるかは難問である。つまり害悪の性質は突きつめれば「剥奪」にいたるのかという問題と言い換えることもできよう。「剥奪」だとして、剥奪されるのは「自由」なのか、「性質」なのか、「可能性」なのか。「剥奪」でないとしてどのような刑罰理論と適合性があるかを考えてみると楽しそうである(私はやらない)。

    • p.52「死刑は、受刑者のあらゆる可能性を奪うという意味において、特別予防という観点からは、完璧な解決策である」 戦前に一部の新派刑法学が「死刑は究極の教育刑」(大意)と主張していたことを思い出す。たしか木村龜二だったか。

  • 松尾陽「6章 女性専用車両は男性差別か?」っp.96-116(2016.12.06)

    • p.114註3「法と強制の関連性を必然的なものと捉えるならば、その捉え方は法実証主義と呼ばれる立場になり、法にとって強制の要素は付随的なものに過ぎないと捉えるならば、その捉え方は自然法論と呼ばれる立場になる」 個人的には、強制の要素は法実証主義と自然法論の別に関係ないと思うが、「ケルゼンだけが法実証主義者である」(某書帯文)とすればこうなるのか。

    • p.114註4「要件と効果をはっきり定める基準は『ルール』、一定の方向性を示す言葉は『原理』と呼ばれる」 このまとめも同様に面食らった。要件と効果をはっきり定めたからといってルールとは限らないし、ルール(誰のルール概念を取るかにもよるが)のなかには曖昧なものもあるだろう。原理が言葉で明らかにできるかもわからないだろう。

    • p.100「危害原理からすれば、私人による差別が他者に危害をもたらす限りで、刑罰や損害賠償など、私人に強制権限を行使することができる。相手方を貶める発言をすれば、名誉毀損や侮辱に該当し、損害賠償を請求されたり、刑事罰を科せられたりする」 名誉毀損や侮辱というのはまさに危害性があるのかが問題とされており、この点が触れられずに、「名誉毀損や侮辱に該当→刑事罰」というのはどうなのだろうか。

    • p.105「住居は、働き疲れた身体を休め、また、家族と情緒的な関係を切り結ぶ空間である」 切り結ぶというのは刀で切り合うとか激しく争うことを言うのであって、これは「取り結ぶ」の間違いではないだろうか。

    • p.113「当事者主義」は括弧をつけたほうが誤解がないのでは。

  • 吉良貴之「10章 年金は世代間の助け合いであるべきか?」pp.168-183 (2016.10.20)

    • p.169「将来の人口予想には不確定な部分が多く」 人口予想は予想の中でももっとも的中率が高いという話しも。

    • p.171「2014年の秘密保護法、2015年の安保法制への反対デモの高まりなどは記憶に新しいところである。若年世代のこうした政治意識の高まり」 若年世代の政治意識の高まりという評価は妥当なのだろうか。

    • p.172「世代間正義をinter-generational justiceとするならば、…現在世代内部の各世代の規範的関係は世代内正義intra-generational justice」 用語の出典が知りたいところ。

    • p.173「貫世代的共同体」 同上。貫世代的の出典と原語が知りたいところ。

    • p.173「つまり、intra-generational な正義はinter-generationalな正義に一定程度、包摂・接続される」 接続されるのはわかるが包摂されるの意味がよくわからない。

    • p.175「近年のゲノム解析技術などの進歩は各人の疾病リスクをかなりの程度に明らかにするものであり、ここでいう「最大の保険会社」の「無知のヴェール」の前提を掘り崩す可能性を持つ」 これは私自身も授業でよく指摘しているだが、改めて考えてみるとよくわからない。ある疾病に遺伝的に高リスクなグループと低リスクなグループがあったとして、そのどちらに生まれるかは偶然的な事情であるから人種や能力と同様に無知のヴェールの範疇に収まるのではないだろうか。どの疾病が治療可能であるかも生まれた後の社会の偶然的事実によるので、立場の交換可能性も高いのではないか。

    • p.176にある御厨貴先生の「爺」放談部分。 これを紹介してくれてありがとう以外の言葉が見つからない。

    • p.179「古代リディア」 古代リュディア派からの攻撃。

    • p.180「現状の世代間不均衡下での」 現状が世代間不均衡か否かをいま議論しているのにも関わらず前提されているのはどうなのか。

    • p.182「われわれは困難な選択肢の前に立たされている」 締めの一言であるが、編者の瀧川先生が「はじめに」で「各章の担当者は、自由に自説を展開している。つまり、自らの結論に反対する者がいることを想定しつつ、その者を説得すべく議論を提示している」(強調・著者)と書いているが、論争状況の整理とそれぞれの立場の哲学的背景、そしてその関係性は丁寧に紹介されているが、自説は強力には開陳されていない。編集方針如何。