Flu 記録

以下の文書は、私がまだ30歳くらいで中学校教員だったときにただし、インフルエンザに罹った体験を書き、自分のクラスの生徒に配布したものである。先日この文書が発掘されたので、ここに載せる。いくつか注意点がある。


1. 今から約20年前に書かれたものであるため、「サイババ」など今の若い人には通じないネタもあるが、オリジナルを尊重し、そのまま載せる。

2. 当時の同僚の先生方が登場しているが、訴訟回避のために氏名を伏せてある。

3. 私の父であるアナキン・スカイウォーカーの教えにより、「熱が出たときは、とにかくひたすら汗をかく」という対処療法を実践しているが、これは今では迷信として否定されている。なので良い子は真似しないように。

恐るべし、エボラ インフルエンザ・ウイルス !!

〜ご迷惑をお掛けした全ての人々に捧げる、病から生き返った男の感動の6日間の闘病生活の克明な記録〜


今回、私こと神谷 (仮名)は、恐るべきインフルエンザ・ウイルスへの感染という大変貴重な経験をし、それを通して人生について多くの真実を学ぶことができた。今回はその手記を公開するとともに、皆さんに少しでも多くのインフルエンザに対する知識を得てもらい、今後第二、第三の犠牲者を出さないためにも、その予防に努めてもらいたい、という願いとともに、重いペンを握った。「明日は我が身、鮭は切り身」である。心して読むべし。

1日目

それはいつもと同じ、とある月曜日の朝から始まった。いつものように起床した私の体に、冷たい何かが走った。「か、かぜっぽい・・・」。私は滅多に風邪を引く人間ではない。引いても多少のくしゃみと鼻水程度で治ってしまい、熱が出ることなどは決してない。ところがその日の晩は、どう考えても熱が出そうな気配がしていた。「おかしいぞ・・・」。テストの採点も進まないうちに、私は早く帰ることを決め、年休を取って19時に退勤した。家に付いた私は明日に備えて万全の戦闘態勢を整えた。晩飯はしっかりと食べ、職員室の私の右前に座っている某XX氏から先日譲り受けた「朝鮮人参エキス」ドリンクを飲み、栄養ドリンクを飲み、風邪薬を飲んだ。最後に風呂でも入って、体を温めて寝よう、と思いながら念のために熱を計ってみると、な、何と「37.5度」に体温が上昇していた。急遽風呂はキャンセルをして、座薬をさして、21時には床に入り、汗をかく準備をしていた。「か、完璧だ・・・」。

2日目

翌朝、私の体は熱かった。「お、おかしいぞ・・・」。下がっている予定だった私の体温は、一気に「38.8度」まで跳ね上がっていた。どうやら私が補給した栄養素は、すべてウイルスの肥やしになってしまっていたようだった。とりあえず休みの連絡を入れ、病院に行くことにした。再び病院で熱を計るが、何も変わっていない。やがて看護婦さんから問診を受ける。「一日に何回くらいおしっこにいきますか」「そんなこと言われても、数えたことないし・・・」。そんな会話の後、やけに明るいお医者さんとのご対面となった。彼は私を診察する前に「今流行の典型的なインフルエンザですね」と判決を下した。「風邪の兆候は少なく、ただ高熱が出る。この高熱は少なくとも3日間は続く。一人暮らしなら入院。うちの病院では土曜日に3人入院した。長い人は高熱が5日間続いた。明日は仕事にならん。無理して肺炎になったら3週間入院。脳炎になったら死亡」。日頃から若さと体力には自信がある私は「医者が3日というなら、私は2日で治して見せようホトトギス」と思った。しかし私がこの医者を崇拝するまで、そう長い時間は掛からなかった・・・。熱冷ましの注射は1本では効かず、2本目が投与された。同時に長い点滴も行われた。その後はまっすぐ家に帰ってひたすら眠りにつくこととなった。しかし、熱はいっこうに下がる気配を見せず、「38.8度」をコンスタントにキープしていた。それでも私は信じていた。「私は翌日、学校に行ける」と。根拠のない自信は、しばしば人間を無謀な行動へと駆り立てる。「どうして山に登るのか」「そこに山があるからさ」と答える登山家のように、「どうしてそんなに汗をかくのか」「そこにウイルスがいるからさ」と答える病人になった私は、布団の中で弥生時代の「まがだま」のようになって、ひたすら脱水症状を起こしていた。翌朝平熱に下がった私が、イエス・キリストのような笑顔とともに目覚めることを夢見ながら・・・。

3日目

翌朝、私はユダに裏切られて十字架に張り付けになったジーザスな顔で蘇った。私の体温計の水銀は、無情にも「38.8度」の数字に固着していた。そもそも病気で仕事を休むこと自体、私にとっては初めてだったのに、しかも2日も連続して休むなんて、とても情けない気がした。しかし無理して出ていって他の人にウイルスをまき散らしてしまったら、それこそ私がユダになってしまう。そんなのユダ。と言うわけでおとなしく病院に自首した。「看護婦さん、昨日と同じやつね」。まるで定食屋でランチを頼むような風景である。私の体内に注射2本と点滴が注入された。点滴中には、今回の闘いにおける最高体温「39.2度」が記録された。この時はさすがに吐き気とめまいが私を苦しめた。症状は2日酔いに似ているが、そんなことで学校を休んではいけない。帰宅後、私はひたすら寝た。まるで冬眠中の熊のように (と言うが、実際に見たことはない)寝た。普段あんまり寝てない分、ここで寝た。結局夜まで熱は「38.8度」であった。私は、生まれてすぐに7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と、まだ歯も生えていないうちにしゃべったとされる釈迦のように穏やかな顔で翌日は目覚めたいものだと思いながら、床についた。いや、床につきっぱなしだった。

4日目

翌朝、私はビブーティーを出している最中のサイババのような顔で生き返った。よく意味が分からないかもしれないが、熱が下がったのである。私の体温計は「37.5度」で止まっていた。長い時間39度近い熱が続いていたせいか、この37.5度という体温では「熱がある」ということが感じられなくなるほど、体の感覚は麻痺していた。この日は、進路関係の仕事でどうしても出勤しなければならなかった。学校に電話をし、進路担当の某YY氏と連絡を取った。「今日は学校に行かなくちゃだめですよね」「そうだね」。このときほど、私にとって某YY氏が悪魔に見えた瞬間はなかった。久しぶりの運転。しかもドライバーはすでにオーバーヒート気味。教習車のようなハンドルさばき。やっとの思いでたどり着き、1時間ほど仕事をした。この時はかなり調子が良く、「翌日はきっと来る宣言」をして、私は帰路についた。家について体温を測ると、な、何と「37.0度」。雪解けに春の到来を感じながら、アドレナリンが分泌されて穴から這い出てくる冬眠から覚めた熊のように (繰り返すが、見たことはない)、私の心は晴れやかであった。確実に回復の階段を一歩一歩上がっている自分を褒めてあげながら、薬を飲んだ私は最後の眠りについた・・・はずだった。突然、私は階段を転げ落ちた。夢見心地の中で、私は自分の熱が再び煮えたぎっていることを感じていた。「こんなはずはない」「絶対に治っていたはずだ」。そう言い聞かせるも、体は正直なもの。夕方には「39.1度」まであっという間に挽回してしまった。そんなとき、私の脳裏に、ふっとあの医者がいったセリフが思い描かれた。「朝、熱が下がっていても安心してはいけない。熱とは朝、下がるものだ。夜に下がって、初めて安心できるのだ」。まさにその通りであった。確かに考えてみれば、人間の身長も足の大きさも、すべて時間帯によって変わってしまうものである。当然熱だって変化するはずである。

ここまでくると、さすがに私の中で「あきらめ」の芽が芽生えていた。「もう、このまま一生インフルエンザなのではないか・・・」などと、常識では到底考えられないような発想が沸いてきた。まるでエボラウイルスに冒された、死期を待つだけの廃人のように、私は半ば「投げ槍」になって助走を始めていた。ベッドの上の有り余る時間と暇の中で、私は自分の葬式のシーンを思い描いていた。花という花で飾られた祭壇。会場に入りきらない数の人々。響きわたる木魚の音と、流れるお経の声。以前聞いたことがある「インフルエンザで亡くなった人々」の話を回想しながら、私は汗をかくことすらばかばかしくなり、「時の流れに身を任せ」ることにした。

しかし、ここで引き下がってはいけない。登山家はたとえ遭難しても、そこに山がある限り、再び登山をするのである。私はたとえ熱が上がっても、そこにウイルスがある限り、汗をかくのである。後は自分の白血球の力を信じて、闘い続けるしかないのだ。そう決意した私は、火照る身体を駆使して晩飯を食べた後、背中にカイロを貼り、厚着をして、ストーブをたいて、癖になってしまいそうなくらいに座薬をさして、布団に潜り込んだ。汗をかき、着替える。また汗をかき、着替える。そんなことを幾度となく繰り返しながら、私の体内には数リットルのポカリスエットが渦を巻いて、脈々と流れていた。まるで血液全てが、イオンサプライになってしまったのではないか、と思えるほど、私はこの時、大塚製薬の売り上げに貢献していた。翌朝になって熱が下がるなどとは、全く期待をしていなかった私は、腰に低温やけどへの確かな手応えを感じながら、深い眠りについた。

5日目

目覚めた私は、意外に調子が良かった。「少しは下がったかな」と思いながら体温計に手を伸ばした私は、驚くべき結果を目の当たりにすることとなった。何と熱が「37.0度」まで落ちているのである。ウイルスへの確かな勝利を確信した私であったが、一晩で2度も一気に下がった事による無理が生じたのか、私の頭は頭痛に満ちていた。それにしても熱は下がった。しかしここで安心してはいけない。昨日はここでの気の緩みが、午後のへルター・スケルターを導いたのである。あのお医者様のお言葉が、後光をさして私の胸に光り輝いていた。そこで私は、朝のうちに再び病院へと足を運んだ。「看護婦さん、いつもの。ただし注射はいらないよ」。3回目の点滴を受けながら、私は同じ部屋にいる人々の会話を盗み聞きしていた。「何日目ですか」「今日で3日目」「俺2日目」「熱はどれくらい」「今39度」「私は40度だよ」。すでに峠を越した者としての優越感に浸りながら、私の身体のポカリは、着実にブドウ糖液に入れ替わっていった。もう寝ることに飽きてしまった私は、無理して寝ることにした。しかし、もう汗をかくことはない。私は心地よい眠りについた。「このまま熱は下がるだろう」ともくろんでいた私は、ところが、再びキリストのように裏切られることとなった。微熱ながら「37.0度」の水銀計は下がることなく、夜まで続いていた。ウイルスが最後のあがきを見せているのであろう。しかしもう断末魔の悲鳴である。瀕死の状態であるインフルエンザウイルスは、徐々に私の愛しい白血球の肥やしとなっていった・・・。

まとめ

かくして私の闘病生活は終わった。実は6日目も熱が安定せず、36.0度から37.0度のまでの間で変動を見せ、平熱に下がったのは7日目になってからであった。恐るべしウイルス。1週間も私の体内において活動をしていたのである。インフルエンザウイルスというのは、38.5度よりも低い熱では死なないという話であり、39度から40度の熱が出るのはごく当然のことであり、逆に身体がウイルスに対して正しい抵抗を見せているという証拠でもある。なお、よほど体力が落ちない限り、同じシーズンで2度インフルエンザにかかることはないそうである。それは私の体内にいわゆる「ワクチン」「免疫」ができるからである。欲しい人には無償で提供するので、いつでも言って欲しい。ただし私のワクチンは、多分「香港A型」用であるので、今年多少広がりを見せている「香港B型」には効かないので、あしからず。また、血液型がRH+A以外の人は、血液が凝固して死に至るので、注意していただきたい。