家族からのメッセージ

妻からのメッセージ

発病(急性期)

入院した時は、なんだか現実離れした夢のなかでの出来事のように思えた。

ますます進行しても、明日にはきっと良くなっているという気がしていて、あんなに健康な人が突然病気になるなんて信じがたいものだった。呼吸器をつけることになって、愕然となった。どうして、夫が発病してしまったのだろうか、と何度も思った。良いことをしていてもいいことばかり起きるとは限らないと分かっていても納得できないところがあった。家へ帰れば、子ども達がいる。幸せとは、みんな一緒にいられることなんだと改めて感じた。

病院と家との往復は、いつも急いでいた。早く病院へ行って夫の看病もたくさんしたいし、家では授乳をして、子ども達を安心させたかった。実家の母に来てもらって家事などしてもらっていたが、長期入院となったため子ども達を実家にあずける事になった。子ども達にあえない寂しさと幼い子に授乳できないことにかなり辛い別れだった。

病院では、呼吸器をつけた夫だが意識は、はっきりしていたのでありがたかった。本人はとっても辛かったと思うが、私は救いのように感じていた。熱が出たり、痛みがひどかったりしていたので本当に治っているのかいつも不安だった。先生が来る時間帯には質問事項を書き出し、少しでもいい方向へ向かっている確かな情報がほしかった。麻酔は効きにくい体質らしいので夜寝るときは、強い麻酔をぎりぎりの量を使う。一気に寝るが呼吸がかなり減るのでとっても心配になる。このまま意識をなくしてしまったら・・、といつも思った。

夜中に鈴がなる。はっと気づいた時には、何度も呼んでいた後だったりした。体位交換、手足をさすったりするのだか、おっぱいも張ってきて子どもの顔が浮かんできたりもする。搾乳しタオルいっぱいにしみこんだミルクを見るとなんともやるせなかった。いつまで続くのだろう。見通しがつかない不安な日はとても長く感じた。

呼吸器が抜けると、あっという間に鼻チュウブになり、声を出すことができるようになった。声が出てはじめて、治っているんだなと安心できた。

回復期

あんなに苦しい時期を乗り越えて、夫は、本当に偉いと思う。

クリスマスにコンビニのチキンを二人で食べながらM1をみた。とても穏やかで家にいるようなリラックスした時間。子育てで二人の時間をなかなかもてなかった私たちにとっては、思わぬプレゼントのようなものになった。

辱創もなく、呼吸器の障害もなく、無事リハビリへ専念することになった。

リハビリ専門の病院への転院は、病院が変わるということの不安はあった。見守ってくださった看護師、補助の皆様、最善を尽くしてくださった主治医の先生方と一緒に乗り越えてきた感があった。

転院すると早速車椅子にのせられ、食事をした(状態確認のため)。こんなことは初めてだったので、食事もあまりできずに、即気持ちが悪くなってしまう。病院同士の情報があまり伝わっていないようすにがっかりした。しかし、夫ができることできないことすぐに把握し、関節にあまり負担をかけないよう移動時のスタッフの援助法を徹底してくれた。

リハビリ病棟は、付き添いができないので、私は実家で子ども達と過ごした。会えるのは、月に1,2回程度。今まで毎日のように世話をしてきたのでその差が辛かった。

退院の兆しが見えたので、実家を出て子ども達と3人で過ごすことにした。気軽に子どものことを話せる相手がいないと、気持ちが塞いでしまう。私にとっても、子どもにとっても一番の理解者がそばにいないのはつらいものだった。

夫が入院してから5ヶ月間、本当にいろいろな人に助けられているなと思った。

医療関係者を初め、お見舞いに来てくださった方々、会社の皆さん、ご近所の皆さん、友達の皆さん、本当にありがとうございました。

更新日時:H20年6月30日(月)

母からのメッセージ

付き添っている家族の一番の不安は、戦う相手が目に見えない菌であるということであった。ケガをしたなら、どんなに重症でも傷口が治っていくのが確認できる。内臓を手術したというのなら、場所もわかっているから予後も推測できる。しかしギラン・バレー症候群は、戦う相手が見えない。医者すらも、「患者の目や手足の動き、自呼吸数」などで判断するしかない。この病気は、医療機器で計測できないのである。

付き添いのつらい夜がやっと明けて、朝の回診のときに医師に「あっ、手がちょっと動きますね」なんて一言で言われても、昨日よりよくなったとはとても思えない不安な日々が続いた。

身体の内部でなにが起きているのか判らないから常に不安がつきまとった。「救急で運ばれてきたときに、目が開いていたから重症だと予測していた。始めに顔に症状が出るのは重症で呼吸器もやられることが多い」と医師は判断していたようだ。医師にも菌そのものを測ることができない。経験的に判断するしかない。

本人に「手が痛い。ぴりぴりする。ドアに強くはさまれたようだ」と訴えられても、温かく柔らかい手のどこにも傷があるわけでもないし、変形しているわけでもない。私たちにできることは、たださすってあげるだけ。「足の感覚がない」といわれても、足の中でなにが起こっているのかわからないから、足上げ運動でかえって痛い思いをさせてしまったこともあった。

「自呼吸できないときの苦しさ」は、あとで本人の闘病記を読んで始めてその苦しさがわかったが、あの時は、ギラン・バレー症候群の菌が一体どこに住み着き、あばれているのかが、想像できないから、なんとも看護のしようがない。

発病後2週間目ごろが、本人はもちろん付き添う側も一番つらかった。「快方にむかっている」という実感がなかった。このまま治らない特殊な例ではないか、という不安をかき消しながらの看護であった。常に呼吸を気にして機器を見ていなければ不安だし、指先まで動かなくなってしまったときは、特に夜がこわかった。

付き添う私たちが取り乱してはいけない、という自制力は常に働いていた。柳澤桂子の「般若心経」の解釈本を行き帰りの電車の中で読み、常に精神を高みに置こうと心がけた。

「魑魅魍魎が跋扈する」というのはこういうことかと実感した夜があった。症状が最もひどい時期、夜中に腕をさすりながら「身体の中であばれている奴よ、いい加減に出て行け!!もういいだろう。十分悪さをしてきただろう。出て行け、出て行け!!!」と、見えない敵に向かって声には出さず叫んだこともあった。

27日の朝方だったか、「BiPAPをつけていると呼吸が苦しい。これはずして」と本人が訴えたので、看護師に相談した。「自呼吸が回復してくるときに、BiPAPと自呼吸のタイミングが合わなくなるときがある。先生に聞いてみましょう」といとも簡単に言ったとき、「あっ、この一言は当たっているかも」と感じた。看護師も長い経験で知っているのだろう。結果としてこれでBiPAPがはずれてずっと楽になった。

直接、会話ができないもどかしさはあった。濁音や撥音、新しい機器などの名前を「あいうえお」方式で拾っていくことは大変。でも通じたときは双方にとって嬉しく、苦しい闘病生活のなかでのささやかな喜びであった。

こわいのは、余病として肺炎を併発したことであった。やっと手足が少し動くようになってきたのに、熱がでたり、昼過ぎから決まって気分が悪くなる日が続いた。ギラン・バレー症候群もこわいが、「これで命をおとすこともある」と始めに医師が言っていたのを思い出してぞっとした。抗生物質を投与しても、すでにもう体力が落ちているから回復も遅い。身体の汗を拭き、暖かくして見守るしかなかった。

呼吸器がすべてとれて始めて「あ・い・う・え・お」という低いかすれた声を聴いたときの喜びは忘れられない。神仏に感謝。

なかなか条件がそろわないだろうが、付き添いは、できれば2~3人が担当するといい。交代して外でフレッシュな空気を吸ってこないと、看護そのものが暗くなってしまう。病人が一番つらく苦しいのは百も承知だが、彼に生気と活力を与えるには、看護側が暗くなってしまうと、両者が底なしの深みにはまっていくような気がする。その点で我が家は恵まれていた。

医師がよく言っていた「ご本人は本当に我慢強いですね。よくがんばりますね」・・・この一言は嬉しかった。医師にも、この病だけはどうすることもできない、時が過ぎて菌が治まるのを待つしかないという、もどかしさや無念さがあったのだと思う。でもその言葉の中に、医師としての使命感と、人としてのやさしさがしっかりと感じられた。

理学療法士にも信頼を感じた。患者の症状を的確に把握してからリハビリをおこなうわけだから、非常に慎重であった。家族だとそうはいかない。期待をこめて無理なリハビリをしてしまったりする。やはりリハビリはプロの領域でするものだと痛感した。

「回復しはじめると、発症した部位から先に回復していく。その早さは一日1mmといわれている。例えば、10cmの麻痺なら回復におおよそ100日ぐらい」と、およそ医学的でない説明を医師から受けたとき、この病の不可思議さを感じた。

今回の闘病生活を通じて、本人の人間性をしっかりと見据えることが出来た。不平不満を言わず、医師や看護師や理学療養士を信頼して苦しい時期を乗り越えた。苦しみの極限で生死の境目を見てきただろう。幻覚にも襲われただろう。愛する家族の行く末を案じるほどの覚悟の時期もあっただろう。

親子だからなかなか口では言えないが、無事に社会復帰を果たした今、今までに味わった試練と同じぶんだけ、本人は次元を超えるほどに人間性が深くなったと感じている。

更新日時:H20年6月30日(月)