ギラン・バレー症候群闘病記

作成:岩城農場 SINCE 2008/5/10

 2007年11月にギラン・バレー症候群を発症しました。

2週間人工呼吸器をつけるまで悪化し、入院生活は5ヶ月間にわたりました。

この闘病記は、病気の発症、入院生活、退院後の病気の経過を記録したものです。

発病時の年齢32歳

発病時の家族妻・子ども2人

発病時の居住地神奈川県

発病時の職業会社員

病名ギラン・バレー症候群

発症日2007年11月6日

入院期間約5ヶ月+自宅療養1ヶ月

抗ガングリオシド抗体全て陰性

 発病

2007年11月上旬に、風邪の症状が出ました。11月6日に、頭痛が強くなり、手先、足先、舌先がしびれ始めました。仕事に支障が出る程度まで体調が悪化していたので、会社を休み病院(約110床)へ行きました。このときは、内科で風邪の診断を受けました。

2日後、歩行が困難になりました。風邪の症状とは思えませんでした。同じ病院で受診したところ、神経の病気の可能性があるということで、神経内科に回されました。いくつかの簡単な検査をされ、ギラン・バレー症候群と診断されました。(以降11月6日を病気の発症日とします。)

全く聞いたことのない病名でした。「体が徐々に動かなくなるが治る病気」とのことでしたので、不安はありましたが医師に勧められるがまますぐに入院しました。

「2週間程度の入院」、「若いので治療はせず投薬で様子を見る」という医師の判断でしたが、病状の進行が早いため、翌日には治療する設備の整った病院への転院を勧められました。いくつかの病院の候補をいただきました。家族がいるため、自宅近くの急性期病院(約550床)を選択しました。このときにはもう座っているだけでも意識がもうろうとするほど容態が悪くなっていました。その日のうちに救急車に乗せられて転院しました。

 急性期

①検査と治療(発症から4~12日目)

転院先の病院で、末梢神経伝導検査、髄液検査を受けました。担当医から、ギラン・バレー症候群の治療法として「免疫吸着療法」と「ガンマ・グロブリン」があること、それぞれの治療法の特色、治療効果には差がないことの説明を受けました。私は他人の血が混ざらない免疫吸着療法を選択しました。

免疫吸着治療法は首の太い静脈から血液をとりだし、原因となっている抗体をフィルターでこしとった後、血液を体内に戻します。7日に分けて行い、1回の治療で2~3時間かかります。治療の間じっとしていなければならない上に、機械がセンシティブで何度も止まり、いらいらしました。精神的にとてもつらい時間でした。

治療をしたにも関わらず、症状に改善がみられないため、ボツリヌス菌の感染、中枢神経系の障害の可能性もあるとのことでしたが、MRIにより、ギラン・バレー症候群に確定しました。病院側にはガンマ・グロブリンの投与も検討していただきました。しかし、結果的には徐々に改善し始めたため、ガンマ・グロブリンの投与はしませんでした。

 

②人工呼吸器挿管(発症から8日目)

治療を行えば目に見えた効果が現れるものと思っていましたが、全身の麻痺はどんどん進行しました。また、背中や腰や腕が激しく痛むようになりました。痰がからみ、食事や睡眠がほとんどとれなくなりました。発症から8日後、呼吸が苦しくなり、肺活量が1,000cc程度まで低下したため、人工呼吸器を挿管しました。

この時点で完全に寝たきりとなり、動かせるのは首と手首から先だけになっていました。意識がはっきりしているのに体が動かないというのは、とてももどかしいことでした。人工呼吸器をつけているため発声ができないのでコミュニケーションをとるのに苦労しました。

夜間は点滴で麻酔を限界量まで入れていましたが、不安、不定期にくる腕の強い痛み、頻繁にからむ痰のために、ほとんど眠れませんでした。

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病室(発症から2週間後頃)

体の動きが急速に悪くなり、自呼吸もできなくなった。個室に移され、人工呼吸器をつけた。人工呼吸器をつけているので声は出ないし食事もできない。高カロリー点滴のみで栄養をとった。首と手の人差し指以外は動かない。

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③家族の支え

ナーススコールすら押せない状態だったので、家族がつきっきりで看病してくれました。家族は体のマッサージや関節の曲げ伸ばしを頻繁にしてくれました。話し相手になってくれたり、本や新聞を読んでくれたり、大きな心の支えになりました。

家族は1ヶ月半にわたり泊まり込みで看病をしてくれました。家族の支えがあったからこそ、病気の苦しみを乗り越えられたと思います。

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娘と(発症から1ヶ月頃) 

生まれたばかりの娘。じっとこちらの様子をうかがっていた。

人工呼吸器は2週間でとれて鼻チューブになった。

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④人工呼吸器再挿管(発症から15日目)

人工呼吸器挿管から1週間後(発症から15日目)、肺活量が1700cc程度まで回復したため、人工呼吸器を抜管し、BiPAP(呼吸に合わせて口に当てたマスクから空気圧がかかる器具)になりました。しかし、肺炎にかかっていたため痰が肺に溜まってしまうのですが、咳で痰を出す力が十分ではありませんでした。呼吸がどんどん苦しくなりました。カフアシスト(強制的に咳をさせる器具)を使用しましたが症状が改善せず、抜管から4時間後に人工呼吸器を再挿管することとなりました。

この4時間の苦しみを例えるなら、頭を水の中に押さえ込まれ、時々水上に頭を出すことができるが、また水中に押さえ込まれてしまう、というものでした。呼吸ができないというのは、死をイメージさせられるものでした。闘病生活の中でもっとも苦しい体験でした。

この後、体の動きがさらに悪くなり、それまでは動いていた手首から先も動かなくなりました(首は少し動きました)。

 

⑤感覚の異常(発症日1日目~)

ギラン・バレー症候群は主に運動神経が障害される病気ですが、感覚神経も冒されることがあります。私の場合は感覚神経も冒されました。

先端部(手先、足先)に近づくにつれ皮膚感覚(触圧覚、温度覚、痛覚)が弱くなりました。指先は手足ともにほとんど皮膚感覚がありませんでした。

また、体の位置の感覚(深部感覚)もおかしくなっていました。体がまっすぐになっているのに曲がっていると感じたり、片方の足がもう一方の足の上に乗っていないのに乗っていると感じたりしました。

 

⑥呼吸の回復(発症から21日目~)

口から挿管するタイプの人工呼吸器は2週間が限界で、それ以上人工呼吸が必要な場合はのどを切開して管を入れる必要があります。人工呼吸器挿管から2週間が間近となっている状況で、肺活量が2,000cc超まで回復していたため、再度抜管を試みました。

一度目の抜管ではとても苦しい思いをしたので不安はありましたが、今回は複数のスタッフが慎重に検査をした上で「抜管は問題ないだろう」とのことでしたので、病院の判断を信じることにしました。

初めの人工呼吸時挿管から14日目(発症から21日目)に人工呼吸器を抜管し、BiPAPになりました。BiPAPは自分の呼吸に合わせて口に当てたマスクから空気圧がかかる器具ですが、とても苦しくて汗が止まりませんでした。点滴で強い睡眠薬を入れましたがほとんど眠れませんでした。寝たら自呼吸をやめてしまい死んでしまうのではないかと不安でしたし、器具の空気圧のタイミングと自分の呼吸のタイミングが合わないことがとてもストレスになりました。呼吸をすることに精一杯で他人とコミュニケーションをとる気になりませんでした。健康なときは考えもしませんでしたが、とどまることなく自呼吸を続けるというのは大変な作業なのだと思いました。

「この状況が何日も続くようなら死んだ方がましだ」とすら思いましたが、幸い2日後(発症から23日目)に呼吸の改善がみられたため、BiPAPからインスピロン(口に当てたマスクから弱い圧力で空気が一方的に流れ出てくる器具)になりました。インスピロンになり呼吸がかなり楽になりました。発声もできるようになりました。

さらに5日後(発症から28日目)にはインスピロンから鼻チューブ、それから2日後(発症から30日目)には鼻チューブもとれて完全に自呼吸になりました。

 

⑦体の回復(発症から25日目~)

1ヶ月間以上寝たきりで栄養点滴を続けていたため、体重は健康時から13kgも減ってしまいました。もともと身長が約180cmで65kgとやせ気味だったので、当時の写真を見ると骨と皮の状態です。

筋力は低下してしまいましたが、発症から25日目、肘がわずかに曲がるようになります。発症から36日目には食事が始まりました。毎日何か新しいことができるようになりました。

新しいことができるようになるのはうれしいことでしたが、健康時の体の機能と比較するとわずかな改善でしかありませんでした。歩いたり、運動したりするのは遙か先のこと、場合によってはもう歩くことができないのではないかと思いました。私はスポーツが好きなので、運動機能が低下するだけでつらいことでした。でも、たとえ後遺症が残ったとしても車椅子でもいいから自分の意志で自由に動き回れるようになりたいと思いました。

末梢神経伝導検査の結果、末梢神経の傷みがひどく、かなり重症型のギラン・バレー症候群であると診断されました。私が入院していた病院ではギラン・バレー症候群の患者は年間10例ほどで、そのうち人工呼吸器をつけるほどの重症の患者は2~3年に一人とのことでした。約2割の患者に後遺症が残り、症状が重いほど後遺症が残りやすいそうです。

不安の中でリハビリを続けました。

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細い腕(発症から1ヶ月半頃)

肘を曲げるリハビリ中。腕がとても細い。点滴栄養が長く続いていたのでこの頃がもっともやせていたかもしれない。

顔面神経麻痺がひどかったので口が閉じていない。

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⑧仲間たちの支え(発症から33日目~)

発症から33日目から友人や会社関係の皆さんにお見舞いにきてもらいました。まだ寝たきりで、ほとんど体は動かず、おむつをしている状態だったものの、会話ができるようになったので早く仲間に会いたいと思っていました。ほとんどの人はギラン・バレー症候群を知らなかったので、どのような病気かを具体的に知ってもらうためにもいい機会になると思いました。

回復し始めていたので私としては明るい気持ちでお見舞いの方々に会いましたが、中には症状の重さに驚いて絶句してしまう方もいました。

仲間たちと会話をすることで巷の最新情報に触れることができましたし、フレッシュな気持ちで毎日を過ごすことができました。お見舞いにきてくれるという連絡が来ると、その日に向けてリハビリをがんばろうと思えるのでした。

発症から2ヶ月たった頃から携帯電話の操作ができるようになったので、メールやブログで皆さんから励ましのメッセージをいただきました。本当にありがたいことでした。

 

⑨回復期リハビリテーション病院への転院(発症から52日目/2007年12月27日)

リハビリは発症から10日目に始まりましたが、急性期病院ではリハビリの環境や質に限界があるため、回復期リハビリテーション病院への転院を勧められました。現在の医療システムでは、発症から2ヶ月以内に回復期リハビリテーション病院に転院する必要があります。急性期病院の環境に慣れていたので転院は不安でしたが、受け入れてくれる病院(約600床)が見つかったため発症から52日目に転院しました。

転院先は急性期病院から車で1時間半ほどのところでした。ストレッチャー(車輪付きの担架)を使い、介護タクシーで移動しました。


回復期

①転院時の体の様子(発症から52日目/2007年12月27日)

転院のころには、寝ていれば頭まで手を持ち上げたり、大きなものであればつかんで口まで持っていけるようになっていました。車椅子に移してもらって30分くらいは座っていられました。足首から先はほとんど動かず、手先、足先の皮膚感覚は戻っていませんでした。転院先の病院の入院診療計画書には移動、食事、排泄、整容、更衣、入浴の全てが全介助となっていました。

転院先の担当医からまず「無理をしないように」と注意を受けました。筋力の改善が不十分な時点では転倒が起こりやすく、筋・関節の障害や、骨折の可能性があります。ギラン・バレー症候群の場合、体の調子がよくても神経の検査をすると治り方が不十分ということがあるそうです。意識は正常な上に、まだ若いため、できること以上のことをしてしまいがちで、その結果、入院生活を長引かせてしまうことにもなりかねません。この後3ヶ月にわたる入院中に、何度もはやる気持ちをいさめていただきました。

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食事の風景(発症から2ヶ月頃)

リハビリ病院に転院した。バッチグーしているが全然調子は良くない。寝たきりが続いていたため体力が落ちているので30分も座っていると調子が悪くなった。ほほがこけ、下唇が垂れ下がっている。食事はまだスプーン。手の自由がきかないためちゃんと握れていない。

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②本格的なリハビリの開始(発症から52日目~)

約2週間病院スタッフが体の様子を調べた後、リハビリの計画書が渡されました。日常生活の動作が自立すること、屋外歩行が歩行補助具を用いて自立でき、公共交通機関の利用が可能となることを目標として、退院時期の見込みは転院から5ヶ月後(発症から7ヶ月後)の2008年6月上旬に設定されました。

職場には年度始めに戻りたかったですし、息子が幼稚園に入園するため、4月1日の退院を希望していましたが、自立した社会復帰を目標とすると4月1日は厳しいとのことでしたので、病院が設定した目標に従いリハビリを進めることにしました。

リハビリは日曜日を除いて毎日ありました。理学療法、作業療法が各1時間、言語療法が20分(言語療法は後に40分へ増えた)でした。一週間の時間割が渡されましたので、計画的に病院生活を送ることができました。

ギラン・バレー症候群は、治療が終わるとリハビリをするしかないので、入院生活が長期にわたる場合は、回復し始めたらすぐに回復期リハビリテーション病院に転院した方がよいと思いました。

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リハビリ風景(発症から2ヶ月半頃)

作業療法のリハビリ中。肩から腕の筋力をつけるためおもりを前後に滑らせている。

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③発症から3ヶ月目(2008年1月)頃の体の様子

転院してすぐに車椅子を駆動できるようになりました(発症から56日目)。移動が自立するようになると、食事、排泄、整容、更衣、入浴も自立し始めました。

発症から87日目には歩行練習が始まりました。3mほどの2本の手すりの間を1往復しただけですが、思ったよりもすんなりいきました。

下半身に比べて上半身の方が早く回復しました。何とかペンをもてるようになったので日記を書き始めました。携帯電話で友人にメールを打ったり、ブログを書いたりできるようになりました。病院に患者用のパソコンがあったので利用させてもらいました。

ほとんど無表情だった顔の筋肉が動き始めました。唇の周りの筋肉の動きは悪く、唇を引く、突き出す、閉じるといった運動ができませんでした。目も閉じなかったので、目薬を頻繁に差しました。

この頃はリハビリや食事以外の時間はベッドの上にいることが多く、スタッフから借りた医学書で体の構造を勉強したり、家族がまとめてくれた病気の経過を読んだりしていました。

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歩行練習の開始(発症から3ヶ月頃)

足に装具をつけ平行棒につかまりながら歩行練習。はじめはそろりそろりと一往復だけ歩いた。

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④発症から4ヶ月目(2008年2月)頃の体の様子

歩行訓練は順調に進み、始まってから1ヶ月ほどでキャスターウォーカー(歩行器)を使用して院内を歩き回れるようになりました。さらにトイレまでは自立歩行ができるようになりました。ランニングや階段昇降の練習も始まりました。歩行練習が進むにつれ、体重が増加し始めました。自由に動き回れるようになるとかえって時間をもてあましました。ぼーっとしていると食う、寝る、テレビの生活になってしまうので、絵画や英語の勉強など12種類の日課をもうけ、なるべくそれらを達成するようにしました。

上肢機能検査(上半身の運動能力を測定するテスト)では、同世代の健康な人と同じレベルまで回復しました。ただ、筋肉の持久力が乏しく、疲れてくると指先にふるえが出ました。肩の回復が遅く、負荷を加えると肩胛骨と三角筋周辺が痛みました。指先の感覚が悪かったので、目をつぶり、木のチップの中からおはじきを探す練習(おはじきの硬さ、重さ、冷たさなどを感じ取る練習)をしました。

顔はがんばると口と目を閉じることができるようになり、笑顔も作れるようになりました。ただ、口はしっかりと閉じることができなかったので、口に入れたものがこぼれてしまったり、バ行、パ行、マ行の発音がうまくできませんでした。食事や会話の時には手で唇を押さえる必要がありました。口を突き出すのはほとんどできませんでした。

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キャスターウォーカー(発症から3ヶ月頃)

歩行器を使って歩くリハビリ。歩き始めた頃の子供みたいだ。

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⑤発症から5ヶ月目(2008年3月)頃の体の様子

転院当初、退院時期の見込みは転院から5ヶ月後(発症から7ヶ月後)の6月上旬と伝えられましたが、回復が順調なため4月下旬(発症から5ヶ月半後)に変更されました。2人のこどもがいるため可能な限り早く退院させてあげたいという、病院の配慮があったようです。復職は1ヶ月の自宅療養の後という条件がつきました。退院が1ヶ月後になったため、リハビリはより生活をイメージしたものになりました。

歩行は安定してきたので、屋外を歩く練習を始めました。キャスターウォーカーを使わずに院内を歩けるようになりました。

上肢は持久力と柔軟性を高める練習が中心となりました。

顔は回復がゆっくりだったのでストレッチ、マッサージ、発音練習が中心でした。

発症から145日目には実家で外泊(1泊)をしました。実家まで40分ほどの自動車乗車、階段や風呂も問題ありませんでした。ショッピングモールで3時間ほど買い物を楽しみました。

息子の幼稚園入園式に合わせて、発症から156日目に自宅で外泊(2泊)をしました。入園式にはスーツを着ていきました。自宅の和式トイレでしゃがんだ姿勢を長時間継続できないという問題がありましたが、それ以外は普通に生活することができました。

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パタカラ(発症から3ヶ月頃)

口輪筋を鍛えるリハビリ。このリハビリの道具を「パタカラ」という。

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退院後

①退院(発症から161日目/2008年4月14日)

2度の外泊で、自宅での生活に大きな支障がないことがわかったため、病院に退院の意志を伝えました。発症から161日目に退院しました。退院後は、通院せず、リハビリスタッフからわたされたリハビリメニューを自宅で行い身体機能の改善を図ることになりました。

私が退院するまでの間、妻は二人のこどもと病人を抱えている身でしたので、生活はとても大変なものであったと思います。

 

②自宅療養(発症から162日目~190日目)

復職までの1ヶ月は自宅療養をしました。リハビリだけでなく、この期間を育児休暇ととらえ、子育てにいそしみました。

自分の体がどの程度まで回復しているかを確認するために、プールへ行ったり、趣味のソフトボールの練習に参加したり、ランニングしたりしました。車の運転や、妻の実家で田植えの手伝いなどもしました。静かな生活を送る分には問題がないのですが、激しい運動にはまだ耐えられませんでした。

自宅療養終了時点(発症から190日目)では、顔面麻痺、下肢の持久力不足、足指先の感覚不全が自覚症状として残りました。

 

③復職(発症から191日目/2008年5月15日)

会社の産業医と面談の上、復職が決まりました。復職は退院からちょうど1ヶ月後(発症から191日目)で、就業制限(残業時間の制限など)はつきませんでした。

上司と相談し、仕事は発病前と同じ内容になりました。しばらくは定時出社、定時退社をすることになりました。もともと仕事が好きだったので、元の職場に戻って仕事ができることは本当に幸せでした。定時退社をすると、帰宅してからこどもたちと遊び、一緒に寝ることができます。ワークライフバランスの重要性を実感しました。

最大の懸念事項はラッシュ時の電車通勤(ドアtoドアで1時間)でしたが、座れることが多いのでそれほど疲れることはありませんでした。

復職から10日目(発症から201日目)の時点では、顔面神経麻痺と足の指先の筋力が不十分であることが問題として残りました。

 

④復職から5ヶ月後(発症から11ヶ月後/2008年10月)

体調は順調に良くなりました。知り合いに一ヶ月も会わないと、「ずいぶんと良くなった」「病気であることを忘れていた」と言われることが多くなりました。復職から2ヶ月目(発症から247日目)に病院の診察を受けたところ、「回復は順調で今後は神経の回復を待つのみのため、通院も薬も不要」とのことでした。

復職して発症前の生活に戻ると仕事や子育てなどで毎日が忙しく、物事をゆっくり考える時間がほとんどありません。入院していた頃ののんびりした時間が懐かしくなることもありました。忙しさにかまけて健康管理がおろそかにならないように月単位で目標を設定し、こなすようにしました。現時点(2008年10月15日、発症から345日目)では腕立て伏せ30回、腹筋70回、握力左右40㎏超、リフティング75回ができます。ソフトボールの公式戦にも出場できるようになりました。普段運動をしていない人よりも体力やバランス感覚があるのではないかと思います。

復職して3ヶ月くらいは疲れやすかったのですが、外見上は後遺症があるようには見えないですし、復職した以上は甘えるわけにはいかないという気持ちがありましたので多少無理した部分もありました。また、顔面神経麻痺の回復は遅く、現時点(2008年10月15日、発症から345日目)でも、表情が作りにくい、口がしっかりと閉じないなどの後遺症があります。これにより特に問題になるのは、笑顔が作りにくいこと(特に作り笑顔)、食べるペースが遅く食事のマナーが悪くなること、発声が不明確になることなどです。顔面神経麻痺は後遺症として一生つきあっていかなければならない可能性もあると感じています。

 

⑤復職から7ヶ月後(発症から13ヶ月後/2008年12月)

発症から一年が経ちました(発症は2007年11月)。家族とは一年前を思い出して、当時の大変さをよく話し合いました。

11月、12月になると季節の変わり目で急に寒くなります。こどもが風邪を家に運んできたりして、風邪をひく危険が高まります。一年前のひどい状態を思い出すと風邪をひきたくないところですが、結局この2ヶ月で2回ほど風邪らしき症状が出てしまいました。大原麗子さんがギラン・バレー症候群を再発したというニュースが流れていたので、気をつけないといけません。

顔面神経麻痺は相変わらず治りが悪く、食事の時に食べ物がこぼれることが特に困ります。

体力は順調に回復しています。ソフトボールの公式戦でピッチャーとして出場し完投しました。5kmのランニング大会に出場して23分49秒で完走することもできました(自慢できるタイムではないですが)。来年からは所属しているソフトボールのチームの監督を務めることにもなりました。

ぶり返さないように、無理せず体力回復を目指したいと思います。

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ジャンプ!(発症から1年後)

こんなに高くジャンプしていたなんて自分でもびっくり。

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⑥復職から11ヶ月後(発症から17ヶ月後/2009年4月)

ソフトボールチームの監督に就任し、毎週日曜日の朝にみっちり2時間の練習をこなしています。瞬発力や持久力が落ちたのは認めざるを得ませんが、後遺症なのか加齢によるものなのかはわかりません(笑)。

顔面神経麻痺で目がしっかり閉じないからか、冬の寒い時期は外に出ると普通に歩いているだけで涙が止まらなくなります。ばったり知り合いに会うと不思議そうな顔をされるのには困りました。

2月には献血をしにいきました。病気快復のひとつの目安として献血することを目標に掲げていたためです。しかし、採血前の医師の診断で、顔面神経麻痺の後遺症が残っているため献血はできないといわれました。後遺症がなくなるか、「回復の見込みがない」という医師の診断が必要とのことでした。自分なりに快復したと思っていたのでやはりショックでした。半年後くらいを目標にリハビリを続け再チャレンジしたいと思います。

 

⑦復職から1年後(発症から18ヶ月後/2009年5月)

ソフトボールは選手兼監督として公式戦3試合に出場し、うち2試合はピッチャーとして完投勝利を挙げました(今年新加入した高校生3人の実力に支えられている面が多いですが)。平日は会社にあるテニスコートで昼休みにテニスをしていますし、週末は息子と水泳をしに行くようにしています。体を動かす機会を積極的に作っています。ただ、運動した後は足先がむくみ張りを感じます。発病前にはなかった変な足のつり方をしたりします。それでも十分運動をできているので幸せです。

仕事は5月に入り急に忙しくなりました。どんなに忙しくてもストレスをためないように息抜きをしっかりするようにしています。

この1ヶ月で豚インフルエンザが世界中で流行し波紋を広げています。ギラン・バレー症候群はインフルエンザの関連性も指摘されているので、インフルエンザにかからないようにうがい手洗いを欠かさないようにしています。

 

⑧復職から1年3ヶ月後(発症から21ヶ月後/2009年8月)

女優の大原麗子さんが自宅で亡くなっているのが発見されました。死後2週間が経っていました。大原さんはギラン・バレー症候群を何度も再発し苦しんでいました。女優だっただけに不自由な姿を世間にさらすのはつらかったのでしょう。孤独に亡くなられた理由も理解できます。

大原さんの報道があった数日後にテレビ局から私のブログを通じて連絡が入りました。大原さんの件で注目されたギラン・バレー症候群について取材したいとのこと。双方の都合から急遽次の日に自宅で取材を受けることになりました。

取材にはディレクター、アナウンサー、カメラ、音声の4人のスタッフが来ました。狭いアパートに大きなカメラが持ち込まれました。顔のすぐ近くで撮影されるので緊張しました。

私へのインタビューは1時間半くらいでした。スタッフはギラン・バレー症候群に関する知識をあまり持っていなかったため基本的な説明からしました。私自身の病状の説明に入ると「つらかったでしょう。そのときどんな気持ちでしたか?」という質問を何度もされました。おそらく私が悲観的な気持ちであったことを引き出したかったのでしょうが、私は病床で前向きな気持ちを保つことができたので、スタッフの期待に応える回答ができなかったかもしれません。

その後、妻に30分のインタビュー、食事風景の撮影(顔の麻痺で食事に不自由があるため)、その他撮影をして、全体で4時間くらいかかりました。よく晴れた暑い日だったので取材する側も大変だったと思います。

放映は取材の一週間後でした。撮影に4時間もかかったのに、私や家族が出たのは1分半だけでした。ただ、家族全員が映ったので満足です。

 

⑨復職から1年4ヶ月後~1年6ヵ月後(発症から22ヶ月後~2年後/2009年9月~11月)

勤めている会社の紹介でビジネス雑誌の取材を受け、掲載されました。また、母校の高校で仕事に関する授業を在校生にしました。どちらも趣旨はギラン・バレー症候群ではありませんでしたが、私の現在に大きな影響を与えていることとして闘病体験を語りました。このような活動を通じてギラン・バレー症候群の認知が進めばと思います。

所属しているソフトボールチームで2009年から選手兼監督として采配をふるい、優勝することができました(前年は5位)。10kmとハーフマラソンの大会に出場し、それぞれ47分、2時間11分で完走することができました(ハーフマラソンは夫婦で同時ゴール)。また、夫婦でテニスの小さな大会に出場しました。一勝もできませんでしたが、楽しむことができました。

マイホームを購入しました。住宅ローンを組むことになり、いくつかの銀行に審査を依頼しました。ギラン・バレー症候群発症から2年が経っていましたが、入院生活が長期(5ヶ月)になったためか、審査が通らない銀行がありました。大病をすると人生の選択肢が狭められる可能性があるのだと痛感しました。

現時点でも顔面神経麻痺の後遺症は残り、表情が作りにくい、食事がしにくいなど、生活上の不都合があります。


⑩その後

2011年3月に3人目の子どもが生まれました。東日本大震災の直後で、計画停電がなされているさなかでした。ギラン・バレー症候群の闘病を通じて、家族の大切さを痛感していたので、家族が増えるのはとてもうれしいことでした。

2015年3月に、15年間務めた会社を退職し、4月から妻の実家で農業を始めました。そこそこの規模の穀物農家で、体力を使いますが、7か月経った2015年10月現在、特に問題なくこなせています。農業は仕事が楽しいですし、家族と過ごせる時間が長く、性に合っていると感じています。

顔面神経麻痺の後遺症は改善していません。ただ、周りの人は気が付かないようです。