訳者あとがき

ハーレー+デネット+アダムズ『ヒトはなぜ笑うのか』訳者あとがき

[Jan. 12, 2015]

1. 書誌情報

本書は、下記の全訳です:

Matthew M. Hurley, Daniel C. Dennett, & Reginald B. Adams,

Inside Jokes: Using Humor to Reverse-Engineer the Mind.

MIT Press, 2011. 

原題をそのまま訳せば、『ジョークの内幕:ユーモアを使って心をリバース・エンジニアする』となります。翻訳にあたっては、MIT Press から提供された PDF およびハードカバー版を底本としました。ただし、後述するように、原著者の意向により日本語版では一部のジョークを原書から変更しています。なお、変更した箇所のオリジナル版は、下記のサポートページで別途お読みいただけますので、ご安心を。

サポートページでは、英語版からの変更箇所の他、次の情報を提供します:

なお、このサポートページは訳者個人が作成しているものであって、原著者・出版社は関与していません。ご注意ください。

2 これはどういう本なの?

2.1 本書が論じていることの概略

本書は、計算認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の共同研究で、ユーモアという情動の仕組みを明らかにしようと試みた仮説を提示しています。その仮説をものすごく簡略にまとめてしまうと、次のとおりです:

キレのいいネタを聞いたり絶妙な偶然の重なりがうんだ間抜けな失敗を目の当たりにしたとき、わたしたちの胸の内に――いや、腹の底に?――愉快な情動がわきおこってくる。このおかしみ、ユーモアの情動は、知識・信念に不一致を見いだしたときに生じる。この「不一致」とその条件は、きわめて限定されている [A]。不一致の発見で生じるおかしみ・ユーモアの情動は、一種の報酬だ。エネルギーたっぷりの果糖がもたらす甘さの快感が果糖を含む食べ物を探し求める動機付けになるのと同じように、ユーモアの情動は、知識・信念のバグをつきとめる作業をうながす動機付けになっている。これが、進化におけるユーモア情動の適応的なはたらきだ [B]。ヒトの知性は、こうしたさまざまな「認識的情動」(epistemic emotions) によって制御・動機付けを受けて機能している [C]。

本書が打ち出した新しい考えは、要約中の [A]-[C] にあります。

まず、[A] はユーモアの仕組みそのものに関わる仮説です。著者たちは、おかしみの情動がわきおこる不一致の種類とその条件をくわしく限定しています。

[A] ユーモア情動が生じる条件:暗黙のうちに心に入り込んで事実だと受け入れられていた情報が活性化されて実はマチガイだったと判明したとき、おかしみの情動が生じる。(ユーモアの計算認知科学)

しかし、著者たちは狭義のユーモア研究に視野を狭めず、ヒトの進化におけるユーモアの(原型的なおかしみ情動の)適応機能について仮説をたてています。ちょうど、現物を眺めただけでは動作部品のはたらきが見当もつかない機械も、その目的がわかれば部品それぞれのやっていることがわかりやすくなるように、この機能の観点からみたとき、ユーモア情動がやっていることを考えやすくなるというわけです。

[B] ユーモア情動の機能:ユーモア情動は、知識・信念のエラーやバグをつきとめるという厄介仕事に報酬をあたえて、これを動機付けている。これは、ヒトのような高次認知をそなえた生物にとって必要不可欠な機能だ。(ユーモアの進化心理学)

私たちがジョークやコントを愛好しているのは、こうした基本的な機能の拡張・転用だというのが、著者たちの説明です。進化における適応にとっての都合なんて、個体としての私たちには知ったことじゃありません。果糖探知機の報酬として進化した甘さのよろこびをハックして、私たちヒトはチョコレートケーキのような超常刺激をあれこれとつくりだし、主観的なたのしみを追求しています。それと同じように、もともとはバグとりの報酬として進化してきたとしても、この報酬がもたらす主観的な快感こそが私たち個体にとって大事なことであり、ユーモアのメカニズムをハックしておかしみの快感を人為的にいっそう強烈に味わうすべを、私たちは開発してきたのだ――そう著者たちは言います。もちろん、おきらくなポップ進化心理学のあやうさは著者たちも承知しており、注意深く論証が展開されています。

さて、ユーモア情動の計算認知科学と進化心理学は、もっと広く、ヒトの認知機構全体について含意をもっています。本書の原題で「ユーモアを使って心をリバース・エンジニアする」とあるのは、このことを言っています。

[C] ヒトの知性の設計仕様を構想する:ヒトの知性は、情動・報酬を深く組み込んだ設計になっている。知性にとって、情動は「不合理」な邪魔者どころか、それ抜きに安定して機能しえない必須の要因となっている。

このように、本書は [A] ユーモア研究に新たな仮説を(そして訳者が見る限りなるほど有望そうな仮説を)提示するだけでなく、[B] その仮説構築の道しるべとなる進化心理学的な観点を強く意識しながら、[C] より広範なヒトの高次認知の設計仕様についての提案をも行うという、なかなかに野心的な著作です。

2.2 読者にとってうれしいことはなに?

まず、なによりうれしいのは、研究の意義がせまい専門的議論の範囲にとどまっていないことです。こうした視野の広い本ですので、狭義のユーモア研究に専門的な関心のある人たちにかぎらず、ヒトの知性・情動についていまの認知科学で検討されている見解にふれたいという読者の期待にも答えられる一冊だと訳者は見ています。実際、本書は相当に専門性の高いトピックをとりあげているにもかかわらず、この分野にまったくうとい訳者でも、いちから徐々に理解を深めていけました。ひたすらテクニカルな細部をこねくり回す文章を追いかけているうちに、「それにしてもなんでこんなめんどい議論をしてるんだっけ?」というむなしさに襲われることはないでしょう。

第二にうれしいのは、新規な仮説を提示するにあたって、先行研究を周到にサーベイして検討してくれている点です。科学的な議論では当たり前といえば当たり前ですが、ユーモア研究について主要仮説を整理し、先行研究がたしかにユーモアの何事かを正しくつかまえていると思われる点とそうではない点を選り分けて、そうした「巨人の肩の上」で自説をあらたに提示しています。「おかしみの情動をもたらすのは、本当に不一致なのか? たとえば、先行研究で提案されてきた不一致の解消や優越感や緊張の緩和などではないのか?」といった疑問にも本文でていねいに答えています。こうした議論を追いかけて読み進めるうちに、自然とユーモア研究という分野の見取り図が得られます。

最後に、もしかするといちばんうれしいことは、本書にはジョークとユーモアが満載だという点です。事例としてさまざまなジョークが引用されるだけでなく、文章そのものに機知があります。第一章からちょっとしたお茶目をやってくれていることからうかがえるように、本書は大まじめな論証を展開しつつも、ところどころで「ふふっ」と思わせる書きぶりをしてくれています。

2.3 読者にとってあんまりうれしくないこと

他方、本書もいいことばかりでもありません。なにより困るのは、この分厚さです。周到な議論がなされている分だけ、どうしても分量は多くなっています。たとえば、「ユーモア研究の主要な考え方についてざっくりあっさり読みたいんだけど」という場合には不向きなことこのうえありません。たんに長いばかりでなく、本書の文章がときおり晦渋になっている点も、読者にとってはうれしくありません。訳者としてはできるかぎり読みやすい日本語にすべくつとめましたが、いたらない点は多々あるものと思います。

第二にうれしくないのは、「中立的」ではない点です。著者たちの眼目は、あくまでも自分たちのかなり野心的な仮説を展開することにありますから、さまざまな研究を網羅的に見るのには向きません。そうした用途には、次の一冊がきわめて有用です:

なお、もっと簡潔にユーモア研究の概要について知りたい方には、オックスフォード大学出版局からでている下記の一冊をおすすめします:

また、第一線の研究者によるコンパクトながら興味深い一冊として、下記も楽しめるでしょう:

2.4 まとめましょう

本書は、ジョークなどが引き起こすユーモア情動の仕組みについて、先行関連研究を幅広くフェアに検討しつつ新規かつ有望な仮説を提示しています。彼らの議論の射程は狭義のユーモア研究にとどまらずヒトの認知機構そのものにまで及び、ひろい読者層の関心にこたえられるでしょう。分量こそ多いものの、ジョーク満載の議論は、まじめに読み進める読者の労力にユーモアと知的利得で報いてくれるはずです。

3. 著者たちについて

本書の筆頭著者はマシュー・ハーレーで、ダニエル・デネットとレジナルド・アダムズは副著者です。ハーレーが博士論文で提示した仮説をもとに、デネットとアダムズとの共同作業でさらに発展させた成果が本書です。

3.1 マシュー・ハーレー (Matthew M. Hurley)

マシュー・ハーレーは、タフツ大学で計算機科学・認知科学の学士を取得したのち、現在はダグラス・ホフスタッターが創設したインディアナ大学「概念・認知研究所」の研究員を務めています(研究テーマ:「感情が知性・創造性・意思で果たす役割」)。

Center for Research on Concepts and Cognition

http://www.cogsci.indiana.edu/

本書のベースとなった論文「バグとりの喜び:ユーモアの計算モデルに向けて」はタフツ大学に提出された博士論文です:

指導に当たったデネットとアダムズがのちに共同研究に加わり、さらなる改定と洗練をとげて、本書が生まれました。どれほど二人に意義が評価されていたかうかがえます。

代表著者として、この日本語版にも積極的にかかわってくれました。日本語読者にわかりにくいジョークを置き換えようとすすんで提案してくれたのもハーレーです。したがって、本書が読者のみなさんにとって原書よりもなじみやすくなっているとすれば、それは彼の功績ということになります。

3.2 ダニエル・デネット (Daniel C. Dennett) 

哲学者(タフツ大学)。おそらく、三人のなかでいちばんの著名人でしょう.意識・自由・進化といった大きなテーマについていくつも重要な提案を続けてきた哲学者の1人です。本書でも、「志向的構え」「ヘテロ現象学」などなど、デネット発の概念が活かされています。主要著作の多くはすでに日本語に訳されています:

3.3 レジナルド・アダムズ (Reginald B. Adams Jr.) 

心理学者(ペンシルヴァニア州立大学)。「非言語的な手がかり(とくに表情)からヒトが社会的・情動的な意味をどうやって引き出しているのか」を研究テーマとして、精力的な研究活動を続けています。論文は多数ありますが、とくにユーモアに関わる研究では次の二つがあります:

前者 Franklin & Adams (2011) は、fMRI を使ってスタンドアップ・コメディのビデオを見ている被験者を調べ、とくに可笑しい部分で報酬に関わる領域(中脳辺縁系)によりいっそうの賦活が見られることを見いだしています。これは、ユーモア情動がもつ報酬としての性質を支持すると著者たちは主張しています。

アダムズが関わる研究成果は、Social Vision & Interpersonal Perception Lab のウェブサイトで公開されています (https://sites.google.com/site/socialviplab/home-1)。

4. 日本語版での変更点

原著者の意向により、翻訳にあたって、日本語に訳した場合にピンとこなくなってしまう英語ジョークや事例を、原書から変更しています。はじめに筆頭著者であるハーレー氏から変更すべき箇所の提案があり、こちらから提示した代替案のなかからハーレー氏が納得したものを採用しました。変更前のジョーク・事例は、原文と日本語訳と注釈をつけて本書のサポートページに掲載してあります。

一例を示しましょう。本書 p.33 で xkcd の漫画「遺伝子検査」を引用している箇所は、原書 (p.9) では次のようなジョークでした:

Q: How do you tell the sex of a chromosome?(染色体の性別はどうやったらわかる?)

A: Pull down its genes.(遺伝子をズリおろせばいいさ)

このジョークは “pull down pants”(ズボンをズリおろす)とかけてあるのがポイントですが、日本語ではなかなかうまくいきません。また、このように註釈を加えた時点で、すでにおもしろくなくなってしまいます。そこで、これは翻訳するかわりに他のネタに置き換えました。他の例も同様です。

5. 謝辞

本書の編集は勁草書房の渡邊光さんが担当されました。本書をみなさんにお届けできるのも、渡辺さんが企画提出から校閲まで尽力くださったおかげです。感謝申し上げます。

リチャード・ヴィール氏 (Richard Veale) は、草稿に目を通し、おかしい箇所を多数指摘してくださいました。氏の貢献なしには、本書はとんでもない欠陥品になるところでした。厚くお礼申し上げます。

本書の翻訳作業は、ウェブ上で順次草稿を公開し、twitter で進捗報告をしながらすすめました。このやり方は、これまであまり類例がなかったかもしれません。寛大にも許可をくださった出版社に感謝します。その過程で、さまざまな方にコメント・ご指摘・はげましをいただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。

2015年1月 訳者識