インタビュアー:伴場森一 (London School of Economics and Political Science 修了)
今回お話を伺ったのは、国際開発コンサルタントとして様々な国際開発援助実施機関とともにお仕事をされてきた於勢 泰子(おせ やすこ)様です。大学を卒業後、7年間、民間企業や英会話スクールなどで勤務された後、米国University of Pittsburghの修士課程に進学されました。修了後はJICA研究所研究員、JICA事業のコンサルタント、UNIDO(国連工業開発機関)、FAO(国連食糧農業機関)を経て、現在は、UN Women(国連女性機関)にて勤務されています。本インタビューでは、日本人が国際開発の分野で活躍するために必要な資質やスキルについて、詳しくお話を伺いました。
1. 国際開発コンサルタントとしての仕事
伴場:国際開発業界に進まれるきっかけは何でしたか。
於勢:私が大学を卒業した頃(1990年)は、まだ男女雇用機会均等法が施行されて3年目くらいで、「男女平等」・「男女共同参画」という概念が今ほど社会に浸透していませんでした。加えて、私は非常に古風で保守的な価値観の家庭で育ちましたので、大学卒業時には、総合職・専門職に就いてキャリアを構築するというビジョンを全く持ち合わせていませんでした。ですから、全くキャリアビジョンを持たずに、一般企業に一般職で就職しました。その後、社会人としての最初の数年間は転職を繰り返し、悶々とした気持ちで毎日を過ごしておりました。当時、私は国際情勢や国際協力などには全く興味のない英文科卒の「英語おたく」でした。当時の7年間の心模様と途上国支援を職業にしようと決意するに至るまでの模索は、2024年6月に鳴門教育大学で開催された「国際協力トークライブ」でお話させていただいておりますので、ご興味のある方はそちらの動画をご覧いただければと思います。(鳴門教育大学でのご講演の録画)
新卒で一般職で務めた会社を辞めた後、英会話学校で講師をしていたのですが、健康上の理由で何度か入退院を繰り返しており、その度にご迷惑をおかけしていました。まずは自分の健康を最優先に考えようということで、英会話学校の仕事も辞めることになり、しばらく無職となり自宅で療養していました。完治して「さぁ、これからどうしよう・・・」と思い悩んでいた時に、新聞広告で「広島アジア大会の選手村での通訳募集」という求人を見つけました。「英語おたく」だった私は、「英検1級があれば採用してもらえるかも・・・」と思って応募したところ、採用いただき、広島の選手村で1カ月間、モンゴル選手団の「お世話係」をさせていただくことになりました。
選手村では文化、言葉、社会・経済的背景が異なる人たちが生活しており、選手村はまさに「アジアの縮図」でした。多様な文化や経済格差を目の当たりにし、その現実に衝撃を受けた私は、「この『違い』・『格差』はどこから来るのだろう」、「私は日本人として何ができるだろう」と考えるようになりました。そして、選手村での様々な衝撃的な体験は、「私がやりたかったことはこれなんだ!」と気づかせてくれました。その「心の革命」が大きな一歩を踏み出すエネルギーとなりました。その翌年、ロータリー財団の奨学金プログラムに応募し、合格させていただき、同財団国際親善奨学生として、米国のピッツバーグ大学の国際公共政策大学院で経済・社会開発学を学ばせていただく機会を得ました。2年間、同修士課程で学ばせていただき、帰国後、1998年からJICAを中心とした日本のODA事業に従事させていただくことになりました。
(1994年「広島アジア大会」:モンゴル選手団の「お世話係」を務める)
伴場:JICA事業では、どのような仕事に従事されたのですか。
於勢:主に、農村・地域開発や女性のエンパワーメントの分野で、技術協力プロジェクトや研修コースにかかわらせていただきました。アジア、アフリカ、ラテンアメリカと、多くの途上国の現場で働かせていただく機会に恵まれました。JICA事業には、足掛け12年ほど携わらせていただきました。今でも、私が日本に帰国するタイミングに合わせて、国内で実施される研修コースで、年に数回、講師として仕事をさせていただいています。
伴場:なぜ、JICAを離れて国際機関で働こうと思われたのでしょうか。
於勢:JICA事業を通じて多くの貴重な経験を積ませていただいたことに、大変感謝しております。10年以上に渡るJICA事業での経験は、私の国際開発キャリアの基礎を築いてくれました。色々な国の現場で仕事ができ、また、国内研修を通じて色々な国の研修員と現場経験をシェアさせていただけることは、とても有意義な仕事でした。しかし、10年以上が経過した頃、ふと気づいたのです―「JICAは日本の組織であり、途上国の現場にいる時も、常に日本人が『優位』の立場で働ける環境にある」ということに・・・。途上国政府と重要事項について協議する際に、事前にJICA関係者だけでミーティングを行います。JICA関係者の全員が(私の経験の範囲では)日本人でした。日本人だけで日本語で話し合い、その結論を翌日の途上国政府との会議で提示するというやり方が基本でした。このやり方は、真の意味でのグローバルプロフェッショナルとしてのあり方から程遠いのではないかと感じるようになったのです。また、複雑な内容の話は、常に日本語で日本人だけで話し合われますので、英語で議論する力も培われていかないと思うようになりました。日本人は自分ひとりしかいないという環境に身を置いてもっと様々な角度から自分を鍛えてみたいと思うようになり、12年ほどかかわらせていただいたJICA事業を「卒業」させていただくことにしたのです。
JICA東京国際センター:中小企業開発研修コースで「参加型農村調査手法の講師を務める
伴場:実際に国際機関で勤務されてみて、どのように感じていらっしゃいますか。
初めて勤務した国際機関はUNIDO(リベリア)でした。2014年にリベリアでエボラ熱が発生し、その後、WHOがリベリアへの渡航禁止令を出したため、1年ほどの間、国連のプロジェクトは停止されていました。2015年に入ると渡航禁止令が解除され、UNIDOもリベリアでの事業を再開することになったのですが、エボラ熱で「危険国」のイメージが定着してしまったリベリアで、UNIDOのプロジェクトリーダーとして長期滞在を快諾してくれるインターナショナルスタッフがなかなか見つからない状況にあったようです。私は、2011年にJICA事業を「卒業」させていただいた後、個人的なネットワークを通じて色々な国の人たちにCV(履歴書)を渡し、国際機関でのポストを探していることを伝えていました。そのうちのひとりが、偶然、UNIDO関係者とつながっており、私のCVをシェアしてくれていたのです。ある日、突然、UNIDO本部の担当者から「リベリアでプロジェクトリーダーをやっていただけませんか」と連絡が入りました。私は、どこの国でも働かせていただく覚悟がありましたので、すぐにそのオファーを快諾させていただき、それが国際機関での最初の仕事となりました。初めての国際機関での仕事でとても楽しみでしたし、意気揚々とリベリアに赴任しました。ところが、実際に赴任してみると、息切れするような毎日でした。インターナショナルスタッフは私ひとりだけで、10人のナショナルスタッフと右往左往しながら頑張りました。首都のモンロビアにプロジェクトオフィスを構えながら、プロジェクトの対象地域は陸路で12時間ほど離れたところにある難民キャンプと5つのホストコミュニティでした。乾季は陸路で12時間ですが、雨季は道路が悪化し、陸路だと20時間近くかかってしまうので、国連軍の飛行機で移動していました。相手国政府とのやりとりで大変なこともたくさんありました。
UNIDO:コートジボワール難民生計向上支援のプロジェクトでプロジェクトリーダーを務める
伴場:鳴門教育大学でのご講演の録画を拝聴しました。質疑応答の中で、リベリアで現地の政府機関から活動を妨害されたと話されていた点が、印象に残りました。
於勢:リベリアでは、特に地方政府からの金銭的な要求や圧力が強く、外国人である私は標的になりやすい立場にありました。プロジェクトで農業研修を実施するために、ホストコミュニティで「デモンストレーション・ファーム」が必要でした。UNIDOのナショナルスタッフがコミュニティリーダーたちと話し合い、村人たちの合意を得て「デモンストレーション・ファーム」を決めてきました。いざ、農業研修を始めようとすると、地方政府の職員がナショナルスタッフや私に土地の使用を巡って金銭を要求してきました。脅迫めいた手紙や無言電話を受けとったりしたこともありました。地方政府に対しては、村人の合意を得て決めた場所だから問題はないし、UNIDOが地方政府に土地使用料を支払う必要はないことを何度も説明しました。しかし、それでも解決しなかったので、行政の縦のラインを使うことにしました。リベリアでは土地問題は内務省の管轄にあります。内務省(副大臣)は、UNIDOプロジェクト諮問委員会のメンバーであり、副大臣から地方政府に厳重注意してもらうことで「デモンストレーション・ファーム問題」がようやく収まりました。今振り返ってみると、あのリベリア時代の1.5年間には、国際開発プロフェッショナルとしての15年間分の学びが凝縮されていると感じています。専門分野(農業関連)の知識が増えたとかそういう技術面のことだけでなく、開発援助プロジェクトの中での問題対処・解決能力や戦略的コミュニケーション能力が格段に鍛えられたように思います。
伴場:UNIDOとの契約終了後、どのように次のお仕事を見つけたのでしょうか。
於勢:UNIDOとの契約が終了した後も、これまで関わってきた農村開発やアグリビジネスの分野で働き続けたいという思いがありました。私の専門分野だとFAOやIFADに合うだろうと思ってウェブサイトで次のポストを探しました。UNIDOの契約が終了して数か月後に、FAOのウェブサイトで見つけたコンサルタントのポストに応募したところ、そのポストを獲得することができました。女性・若者を対象とした雇用創出のコンサルタントとしてFAO本部(ローマ)で勤務させていただくことになりました。1つのコンサルタント契約が満了すると、契約が更新される場合もあれば、予算の都合などで契約が更新されず終了となる場合もあります。コロナの影響で日本で在宅勤務になった時期もあったのですが、FAOには足掛け5年ほどアグリビジネス分野のコンサルタントとして勤務させていただきました。
FAO:「ウガンダ若者アグリビジネスコンテスト」でチャンピオンになった女性起業家を訪問
2. 国際機関で感じたギャップ
伴場:現在はUN Womenコートジボワール事務所にいらっしゃるということですが、UNIDO、FAO、UN Womenと3つの国際機関で勤務されて、何か「ギャップ」のようなものを感じたことがあれば、お聞かせ下さい。
UNIDOでは、リベリアの現場で無我夢中に毎日の業務に打ち込んでおりましたので、プロジェクトの活動において大変なことはたくさんあったのですが、組織の仕組みや異文化コミュニケーションなどに関して考える余裕が全くありませんでした。というよりは、UNIDOリベリア時代は、常に自分とリベリア人との関係性の中で仕事をしていましたので、多国籍の人材が存在することによって生じる困難やギャップに直面するという状況がなかったのです。私はプロジェクトリーダーとして現場での意思決定を一任していただいていましたので、よく言われている「国連の官僚的システム」の問題にも直面することがほとんどなかったように記憶しています。
しかし、その後、FAO本部(ローマ)に勤務した時は、全く事情が違いました。FAO本部に勤務して最初に驚いたことは、職場のほとんどが欧米人(ラテンアメリカを含む)で構成されていたことでした。正確な統計データを持ち合わせているわけではないのですが、本部全体では、おそらく8割以上が欧米系の職員・コンサルタントだったのではないでしょうか。私が所属していたチームでは、23人のメンバーのうち、アジア人は私を含めて3人で、アフリカ人が1人でした。チームリーダーが欧米人で、メンバーの8割以上が欧米人でしたので、アジア人の意見にはなかなか耳を傾けてもらえませんでした。欧米人が大半を占めている環境では、欧米人の価値観やコミュニケーションスタイルが「規範」になってしまいます。しかし、世界の人口構成や多様な社会・文化的背景を踏まえると、欧米スタンダードがイコール「グローバルスタンダード」ではないはずです。「グローバル組織」であるはずの国連で、職員(コンサルタントも含む)の大半が欧米人で占められているということ自体が問題なのだと思います。国連のSDGsのスローガンは「『誰一人取り残さない』社会を目指す」と掲げていますが、私は国連の中で「取り残されている」と感じています。残念ながらこの状況は簡単には変わらないと思います。しかし、私個人としては、「自分の価値観やコミュニケーションスタイルを相手に押しつけていないか」・「相手の人種や国籍にかかわらず公平に話に耳を傾けているか」・「機会や情報を公平に与えているか」などを常に意識し、「Respect for Diversity」を実践していくよう努めていきたいと思っています。国際機関で働くということは、「真のグローバルスタンダードとは何か」を探し求める旅路にいるということでしょう。
伴場:人種や国籍を超えた「Respect for Diversity」の現状以外で、国際機関で感じた理想と現実のギャップはありましたか。
国連で働く前は、「国連で働いている人は、皆、奉仕の精神にあふれ、途上国支援に意欲を燃やしている人ばかりだろう」と思っていました。ところが実際に働いてみると・・・。その理想は、私の「極端な思い込み」だったことに気づかされました。現在、UN Womenコートジボワール事務所で働いていますが、ほとんどのナショナルスタッフは、各プロジェクト予算の枠で雇用されており、プロジェクト終了後の雇用が保証されていません。したがって、ナショナルスタッフは、UN Womenの新規プロジェクトの中で自分のポストを確保してもらえるように働きかけるか、あるいは、別の組織での仕事を探し始めるようになります。自分の次の雇用の確保に意識が向くことになり、現行プロジェクトに集中できずにいるという状況です。私は資金調達と新規案件形成を担当しているのですが、ナショナルスタッフは新規案件の内容よりも、私が「プロジェクト資金を獲得してきてくれるかどうか」に強い関心があり、私は非常に違和感を覚えています。プロジェクトは私のためにあるのではなく、コートジボワール人のためにあるのですから、もっとナショナルスタッフから積極的にアイディアを出してほしいと感じています。このような傾向は、UN Womenコートジボワール事務所に限ったことではないのでしょう。国連全般に言えることだと思いますが、国連のプロジェクトの「目的」が(「裏の目的」と言った方が適切かもしれませんが)、残念ながらスタッフの雇用創出(雇用保証)になってしまっているような気がしてなりません。
これまで、UNIDO、FAO、UN Womenと3つの国連機関を経験して感じていることなのですが、国連機関の採用基準・プロセスが非常に不透明であるということです。募集から合格者決定までのプロセスに2年近くかかっていたり、そうかと思えば、2カ月ほどで最終選考まで終わっていたりと、組織、部署、ポスト、担当者によって、スケジュールがまちまちです。また、最終面接を受けた後に、理由も知らされず、公募自体がキャンセルされるということもあります。国連の空席公募の場合、同じポストには内部候補者と外部候補者の両方が応募しますので、内部の事情に精通していない外部候補者にとっては、非常に「狭き門」になっています。また、国連が公募しているポストは、実は、既に「特定の誰か」を想定して公募されているというケースが数多くあります。公的機関である国連は、すべての採用を公募しなければならないのでウェブサイトに公募が出されますが、実は「形式的な公募」にすぎないということが多々あります。選考の結果、想定していた人が選ばれない場合は、公募じたいがキャンセルになるというケースをいくつも見聞きしてきました。このような採用システムは倫理的に歪められた仕組みであり、「Integrity(誠実・高潔な精神)」を組織理念として掲げる国連の中で、それは看過されるべきではないと思っています。日本政府には、このような問題にきちんと向き合っていただきたいですし、私自身も声をあげていこうと思っています。
3. グローバル人材として活躍するために
伴場:日本人が国際機関で活躍するために、どのような能力・資質が求められていると感じていらっしゃいますでしょうか。
於勢:一般的に、「日本人は、親切で、真面目で責任感があり、辛抱強い」とよく言われています。それは、とても素晴らしい特性だと思います。ただ、国際社会で多様なバックグラウンドを持つ方々と対等に仕事をしていくためには、日本人の親切さや真面目さが必ずしもプラスに働くわけではないという現実があります。
私は、先に申し上げましたように、約12年間にわたってJICA事業にかかわらせていただき、JICAを「卒業」させていただきました。「日本人は自分ひとり」という環境に飛び込んでみたかったのです。JICA関連の仕事をしていると、途上国の現場にいても、関係者の大半が日本人です。また、JICAがプロジェクト費用の出資者ですので、途上国政府関係者は、JICA関係者(コンサルタントも含む)に不満をあらわにしたり、露骨に失礼な態度をとることはほとんどありません。プロジェクトチームの中で少々意見のくい違いがあったとしても、相手国関係者はリスペクトを持って日本人に接してくれます。しかし、国際機関では、そうはいきません。相手や周囲のことは「おかまいなし」という感じで一方的に延々と話し続ける人や威圧的な態度で皆を黙らせてしまう人など、色々な人がいます。話している本人は、自分が相手を威圧しているつもりなど全くないのでしょうが、こちらは威圧されているように感じることもよくありました。先ほどFAO本部での経験のところで話しましたように、国連が非常に欧米至上主義であることは否定できないと思います。欧米人で新しく入ってくる人がゼロからスタートするとすれば、日本人の私たちはマイナス100からのスタートになるというくらいの覚悟で入っていく方がショックが少なくてすむでしょう。
JICAコンサルタントとしてJICA事業に従事していた当時は、JICAという大きな日本の組織の盾に守られていたと感じたことはありませんでした。しかし、国連で仕事をしてみて、「JICA業務の中では日本の大きな組織に守られているがゆえに、日本人が常に上の立場から発言できるという構造にあった」ということに、初めて気づかされたのです。そして、その構造的日本人優位が、日本人を「グローバルスタンダード」から遠ざけているのではないかと考えるようになりました。
「グローバルスタンダード」とは、どのような基準のことを指すのでしょうか。「グローバルスタンダード」とは、いったいどこにあるのでしょうか。かつての私もそうでしたが、「グローバルスタンダード」が、細部を極めた細い道を上に登りつめた高いところにあると思っている日本人が多いのではないでしょうか。「グローバルスタンダード」は、だんだん狭くなっていく山道を登りつめたところには存在していないと思います。むしろ、横幅をどんどん広げていき、異なる考えや価値観を受け入れ、多様な人々を受容できるキャパシティにあるのだと感じるようになりました。縦方向の高い狭い道に目を向けるのではなく、横幅に目を向けること、横幅を広げることこそが「グローバルスタンダード」な人材に近づく道なのだと考えるようになりました。広げた横幅には、不条理や理不尽なことも含まれるでしょう。グローバル人材には、そういった不条理や理不尽なことに耐え抜く強さ、多様性を内包できる度量の広さ、そして、それらをすべて自分なりに消化してプラスのエネルギーに変えていく「しなやかなパワー」が求められているのだと思います。これからも、国際開発の仕事を通じて、私のキャパシティをもっと横幅に広げていくように努力していきたいと思っています。
JICA筑波研修センター:「農村女性能力向上コース」研修員とともに
4.読者へのメッセージ
伴場:これから国際開発業界で働きたい方に向けて、メッセージをお願いします。
於勢:これから国際開発の業界を目指す学生や社会人の方々に、ひとつお伝えしたいことがあります。多くの方が「JICAで働きたい」、「国際機関で働きたい」とおっしゃいますが、JICAや国際機関で働くこと自体が目的になってはいけないと思います。大切なのは、「JICAで働くこと、国際機関で働くことは何のためなのか」という問いです。その先に、必ずご自身のビジョンや目標があるはずです。よく「キャリア・ディベロップメント」という言葉が使われますが、「自分にとってキャリアを築くとはどういうことなのか」をよく考えてみていただきたいと思います。JICAや国連で働くこと自体が目的になってしまっていて、その先のビジョンを描けていない方々が結構いらっしゃるような印象があります。一度、立ち止まって、「キャリアを通じて自分は何を実現したいのか」、「どんな生き方をしたいのか」、「どのように社会貢献したいのか」などを自分に問いかけてみて下さい。
「国際貢献がしたい」「貧しい国を支援したい」という思いを語る方々がいらっしゃいますが、「なぜその思いを抱くに至ったのか」、自分の中にある原点や価値観を見つめ直してみてください。JICAに入ることや国際機関で働くことを人生のゴールにしないでいただきたいと思います。JICAや国際機関での仕事は、一つの通過点に過ぎないので、その先にあるものに目を向けていただきたいと思います。その先にあるものを見つめることで、あなた自身のオリジナルの人生が輝くのだと思います。