一般社団法人Bridge for Fukushima 代表
一般社団法人Bridge for Fukushima 代表
インタビュアー:伴場森一 (London School of Economics修了)
伴場 賢一
一般社団法人Bridge for Fukushimaの代表として福島の高校生・大学生への人材育成や県内のソーシャルセクターに対する中間支援等に従事。NPO及びFAO(国連食糧農業機関)で勤務し、London School of Economics and Political ScienceにてSocial Policyの修士号を取得した後、JICAの専門家を経て現在のキャリアに進む。
被災地のソーシャルベンチャーを途上国に普及するための現地調査@フィリピンセブ島
森一:大学を卒業した後のキャリアについて教えてください。
賢一:私は自分が何をしたいのかわからないまま大学時代を過ごしていました。やりたいことは一つ見つかったのですが、それが最終試験で不合格となってしまい、新卒ではたまたま内定をいただいた銀行に入社しました。今考えると何も分からずに仕事についた僕が迂闊でしたが、入ってみると性格的に銀行員に僕は全く向いていませんでした。銀行のカルチャーにも馴染めなかったです。毎日の仕事がいやで仕方がないまま4年ほど働き、転職を考えていたころに偶然手に取ったのが、マイクロファイナンスを初めたグラミン銀行の創設者モハメド・ユヌス氏の自伝:「貧困なき世界を目指す銀行家」でした。私が銀行員をしていた頃はバブルが弾けており、融資をすることより立ちいかなくなった融資を回収する仕事ばかりでした。しかし、同じ銀行でもユヌス氏がしていたのは貧しい人にお金を貸して人を幸せにすること、選択肢を増やしてあげるということでした。私がしたいことは「これだ!」と思い、体が熱くなりました。そこから国際開発援助に関心を持ち、当時英語は旅行で使う表現くらいしか話せなかったので、青年海外協力隊(*1)を受けたのです。銀行員の経験しかなく『経済』の業種で2回受験し、二回とも二次試験で不合格になりましたが、マイクロファイナンスを行っているNPOを探して岡山県にあるNPO法人AMDAにご縁をいただき、開発援助の世界に入りました。余談ではありますが、AMDAに入ってから「海外事務所に英語で挨拶メールを送って」と上司に言われた際、英語のあいさつメールを作成するのに3時間かかるぐらい、最初は英語はできませんでした(笑)。
森一:AMDAでマイクロファイナンスの仕事に従事されたのでしょうか。
賢一:AMDAは当時公衆衛生と緊急援助が主な活動で、私は日本で半年間ほど勤務した後、カンボジアの駐在代表として赴任しました。主な業務は人口約10万人の行政区に、スタッフが合計150名くらいの9つの診療所(ヘルスセンター)があり、その上に一つの基幹病院(リファラル・ホスピタル)があり、その保健行政を私たちNPOが現地の職員とともにマネージメントする、「コントラクトアウト」もしくは「コントラクティング」(*2)と言われる、当時実験的に行われていた行政とNPOの契約形態の事業でした。感染症の予防、5歳児未満死亡率の低下、公立診療所の有料化、スタッフの能力向上などいくつかのKPIがあり、それを達成するための手段をいくつかの地域で比較しながら、ベストプラクティスを抽出して全国展開するというプロジェクトでした。私はその事業の責任者として、10万人ぐらいのヘルス・ディストリクト(*3)の局長になりました。
森一:ヘルスセンター (診療所)とリファラル・ホスピタル (基幹病院) について、もう少し詳しく教えてください。
賢一:これは保健医療の仕組みの話で、一次医療、二次医療、三次医療という構造になっています。日本も実はこのような構造になっています。日本の場合、一次医療機関はクリニック等、誰でもアクセスできる医療施設があり、その上に紹介状が必要な中核的な病院があって、その更に上に高度医療を受ける大学病院がありますよね。カンボジアもそれと同じような仕組みになっています。ヘルスセンターが10万人の誰でもアクセスできる行政機関を担っているというわけです。重度の人はリファラル・ホスピタル、更に高度な医療が必要な場合には州立病院に送るという流れになります。私はそこを管轄する市の保健局の局長をさせていただきました。AMDAがアジア開発銀行から契約を受け、私は途中からそのポジションに就きました。私以外にはAMDAからは、副局長の日本人、バングラデシュの人の医師が一人、パキスタン人の会計士が一名というチームが派遣され、行政のマネジメント業務を行っていました。
森一:そこでの勤務はいかがでしたか。
賢一:英語も決してうまいわけではなく、公衆衛生の勉強も両立しながらだったので、とにかくがむしゃらに働いていました。一年ほど勤務した後、KPIに対する成果は十分出ていたのにもかかわらず、自分でコントロールできない諸事情でそのポジションを退くことになりました。出国前、当時とある国際機関で仕事をしていた日本人の方に夕食に誘われました。労って頂けると思って行ったのですが、その方に、「こんな形で退職することになってリーダーとしてありえへん。周りの人たちにどのくらい迷惑をかけたのか理解しとるんか?」とお叱りを受けました。現地のスタッフはもちろん、受益者であるべき住民のことを考えていませんでした。更にはそのコントラクティングという手法は世界中で注目されていた事業でもあり、私がポジションを辞めることになった影響が他の機関にいるその人の耳まで入っていたそうです。この言葉は強烈な一言でした、当時の僕は理不尽にクビになったと被害者意識さえ持っていたので。現地の方々に迷惑をかけないというのは、国際開発を行う人間として、最低限のことだと思うのです。当時の私は矢印を自分に向けていたと思うのですが、開発援助の仕事は絶対矢印を途上国の方々に向けないといけない。それを強烈に認識した経験でした。
その後は同じくAMDAのザンビアの駐在代表として派遣され、ようやくマイクロファイナンスに関わりました。ザンビアに2年半ほど勤務した後は、退職して、カンボジアのFAO事務所にコンサルタントとして勤務しました。コンサルタントでしたが、結構面白い仕事でして、FAOに所属しつつ、カンボジアの農林水産省に出向してプロジェクトを一つ持っていました。
・森一:今でもコントラクティングという手法は世界中で採用されているのですか。
・賢一:派生したものが世界中で実施されています。ちなみに、私が英国LSEのSocial Policyコースに合格できたのも、このプロジェクトのおかげです。当時の私の英語スコアは基準ギリギリだったのですが、私が出願したコースの授業でコントラクティングについて学び、カンボジアの私の事業が事例として紹介される回があり、教授からはその経験をクラスメイトに共有してもらいたかったから合格させたと聞きました(笑)。
森一:FAOでご勤務された後にイギリス大学院留学をご決心されたとのことですが、なぜそのタイミングで大学院留学を考えたのですか。
賢一:20代後半で開発の仕事につきその後FAOに入ってみると、当たり前に皆さんが修士号を持っていることがわかりましたし、当時それが当たり前になりつつあったと思います。それよりも、5年ほど現場で事業を回してきて、その経験から矛盾や疑問に感じたことを整理したかったですし、国際機関で働く上で専門性が欲しいと思っていました。
森一:LSEのSocial Policyのコースに入った後、コントラクティング以外にはどのようなことを学ばれましたか。
賢一:特に面白かったのは政策立案過程(ポリシーメイキングプロセス)です。カンボジアではコントラクティングを通し、保健行政現場の意思決定を行い、グッドプラクティスを抽出し、小さなトライアルを政策に反映させていくという業務だったので、ポリシーメイキングプロセスの一環だったわけです。一つの事例は、当時カンボジアでは公的医療機関の診察料が海外からの支援で賄われて無料の中、全国に先駆けて有料化をすることがKPIにあったのですが、教員の月収が30ドル程度の国で、しかも8割が農業従事者の地方ではなかなか有料化することはチャレンジングでした。ヒアリングを通して要望を確認し、最貧困層への無料処置、医療保険制度の導入など失敗を重ねながら施策と適正価格を作り、修正して保健省に報告し、ベストプラクティスを全国展開する。LSEでは、それがポリシーメイキングプロセスの一環だったと認識しましたし、NPOもそのようなプロセスの中に入るべきだということが学べました。NPOの役割というのは、①サービスプロバイダー②イノベーター③アドボカシー④エバリュエーションの4つがあるのです。サービスプロバイダーである団体が多くて気付かなかったのですが、NPOはイノベーターとして今までなかったサービスをしたり、プログラムを考えることによって政策につながることもあるのです。
森一:LSEで学んだことは、その後のキャリアでどのように生かされたと考えていますか。
賢一:修了後10年間ほど日本で生きていける知識(ナレッジ)が積み込まれたと思います。10年分先の情報が入ったということですね。例えば、私がLSEにいた頃(2005-2006年)には、大学内でCSRの議論は決着がついていたのです、企業が社会に対して責任を持つのは当たり前のことだと。一方、日本でCSRが普及してくるのは東日本大震災ぐらいからでしたね。また、2008年頃にLSEの同級生と共に大学院時代に学んだことを生かして日本で初めてのソーシャル・インベストメントのベンチャー企業を立ち上げました。日本ではここ数年でESG投資と言われるようになりましたが、5年から10年ぐらいの時間差があると思っています。また、イギリスだと、専門性として確立できるよう、大学で特定の領域を深堀りできると思います。その深堀りをする際に様々なことが絡んできます。例えば、私の専攻のSocial Policyでも森一さんがLSEで学んだようなHuman Resource Developmentや組織論、リーダーシップの話も入ってきましたし、外交の話も関係していました。それらを非常に高いレベルで議論できていたと思います。私の頃、仲が良かった日本人の方は20名ほどいたのですが、同期で国連に行きたいと言った人は全員JPO試験に受かった気がします。私の代は本当に多かったですね。
森一:修了後、すぐに役立ったのでしょうか。
賢一:在学中新たな知識を身に着けることを「引出しに詰め込む」という言い方をしていました。引き出しに詰め込んだ知識を普段着として仕事に使いこなすまでには3〜4年の時間がかかったかと思います。でも、その瞬間こそが大学院を出た本当の楽しさだった気がします。視野が急に鮮明になり、専門知識以外にも色々なことが「パチン!」と繋がる瞬間がありました。
他方、知識は10年過ぎると古くなるんです。引き出しの中を眺めると非常に恐怖を覚えました(笑)。服を買い替えなくてはいけないという気持ち、つまり専門性をさらにつけたいと考えるようになりました。社会は変わるので、「服」をアップデートしていかないといけない。そして時々会うLSEの同級生はしっかりアップデートし続けているから刺激になるなあと思っています。私自身も新しい知識を身につけようかと常に探していて、その習慣と源流を大学院で身に着けたと思います。これは今私が活動している福島で、開発援助とは異なる仕事ではありますが、確実に役に立ちました。
国際機関や企業で活躍するLSEの同級生をゲストに迎えて、福島の高校生向けに教育を考えるゼミの様子
森一:国際協力の仕事から今の福島県での仕事をするに至った理由を教えてください。
賢一:LSE修了後、YPPという試験を受けて、結構いいところまでいったのですが、不合格となったので、フィールド経験を更に積んでから国連にはディレクターレベル以上のポジションで入ろうと考えました。それを目標に、フィールド経験も積めるし、ポリシーメイキング側で仕事ができるということで、ジュニア専門員としてJICAに入りました。その後もJICAの専門家として働いていて、たまたま2011年3月12日、つまり東北大震災が起きた翌日に日本に一時帰国の予定が決まっていました。自分の生まれ故郷が大変なことになっていて。AMDAでは途上国でのER(緊急支援)の経験もさせてもらっていたので、その経験を活かして福島での活動を始めました。エチオピアでの仕事が残っていたので、2011年は何度かエチオピアに戻りましたが、4月にはBridge for Fukushimaという団体を立ち上げました。
これも開発援助の仕事をしていたからこそだったと思いますが、私は復興自体を3つのフェーズに区分し、それぞれのフェーズに合った活動を行ってきました。第1フェーズはベーシックヒューマンニーズが必要な時期、つまりは移住食が安定してる環境を作ることでした。福島においては、震災直後から3〜4年ほど、この時期は主に物資の配布や企業と連携したボランティアの仕組みづくりを行っていました。また、それと同時に1つの基礎自治体に1人のコアになるNPO/ソーシャルアントレプレナーを育てようと個人や団体の伴走支援を行っていました。
第2フェーズは人作りのフェーズです。私たちは高校生に対象を絞り、高校生のリーダー人材育成事業を行ってきました。
第3フェーズは復興の終わりに向けた仕組みづくりのフェーズだと思っています。現在はこのフェーズに当たると私は認識していますが、震災が起こる前よりも社会が良くなったことが認識できるような仕組みづくりがこのペースに当たると思っています。私たちは第2フェーズで経験した高校生の人材育成を公教育の中に組み込めるよう、主に公立高校で総合的な探求や地域貢献のプログラム作りを行っています。
また2013年からは、新設された復興庁の政策調査官として3年ほど行政の中で仕事もさせていただきました。
森一:故郷の福島で活動をしたいと考えた当初から、新しく団体を立ち上げるプランがあったのですか。
賢一:実は帰国後、早い段階で福島県のNPOを管轄する、福島県庁の出先機関のような組織にボランティアとして私は入ったのですが、NPOを動かせる人のキャパシティビルディングと、NPOの数自体をもっと増やさないといけないと考えるようになりました。LSEでの学びがまさにここでいきていて、ボトムアップ式の復興をしていきたいと思っています。
森一:今後の貴団体の方向性としてはどのようなことを考えていますか。
賢一:主に3つあります。
一つ目は、『サービス・プロバイダーではなく今後もイノベーターとして活動していくこと』です。40歳で故郷の福島に戻ってから13年ほど団体で活動しているのですが、開発援助の経験は活かしていきたいと思います。途上国の行政の方がNPOともっと仲良く更に国際機関も行政へアドバイスをしたり共に事業を行ったり、行政が政策に弾力性があると考えています。日本だとポリシーメイキングプロセスの中にNPOが入ることはほとんどないですし、十分に住民の意見がそこに入ることもほとんどない。一方で、日本のNPOの数は増えているのですが、ほとんどがイノベーターではなく、サービスプロバイダーになっている。例えば、業務委託として体育館の運営をしていたり、高齢者のケアをしている等。これもとても必要な役割ですが、シュリンクしていく人口と経済の中、新しい仕組み作りをしている団体で私たちはありたいですし、その仲間を増やしていきたいと思っています。
少し話が逸れますが、仕組みを変える上では途上国の経験も生かせると思います。今までは先進国の経験を途上国で応用することが多かったのですが、今後は途上国での経験を先進国に応用するというのも実はSDGsの柱だと思います。一例としてザンビアで僕がかかわった仕事でDOTS(ダイレクトオブザベーショントリートメント)があります。ザンビアでは当時国民の約3割がHIV/AIDSの感染者で、その多くが肺炎を患います。肺炎は薬を毎日飲みさえすれば完治する病気ですが、たいてい熱や咳などの症状が緩和すると薬を飲まなくなってしまう。これは僕たちも風邪でお薬を処方してもらっても同じだと思います。ただ肺炎が怖いのは、完全に治りきらないと再発する危険性があるため、症状が緩和された後も完治するまで地域のヘルスボランティアが毎日薬を患者が服用しているか確認しに行くわけです。いま世界中で似たようなことが実施されていますが、それを20年前に私はザンビアでしていました。これは日本にも応用できると思います。例えば、一人暮らしの高齢者に対し、薬を飲むのを確認するだけでなく、簡単な健康状態のチェックをしたり、世間話をする等。これは日本の法律では医療行為にあたりますが、途上国での経験から日本で今までにない選択肢を提案することもできるのだと思います。
復興庁の政策調査官として被災企業支援のイベントを企画運営。岡本全勝復興庁事務次官と。
森一:ほかはいかがしょうか。
賢一:二つ目の方向性としては、『福島のソーシャルベンチャーのフレームワークを途上国に今後持っていくこと』です。非常に面白いソーシャルベンチャーが福島で生まれていて、そのようなソーシャルベンチャーというのは、小規模でもインパクトが大きいです。雇用を生み、地方で変化を生み出すアクターになり得ます。そのフレームワークを途上国に持っていきます。カンボジアなのか、エチオピアなのか、ザンビアなのかは未定ですが、当時のネットワークを生かして信頼できるカウンターパートと進めていきたいと思っています。
最後は『人材育成』です。どこで何をするにしてもそれだと思います。私は社会人経験の中だとプライマリーヘルスケアを最初に行い、次にマイクロファイナンスに関わり、農村開発や街作り、農業土木等もさせて頂きました。福島では、観光や街作りや教育をさせて頂いてますが、結局中核となるのは人づくりだと思います。「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」という言葉がありますが、むしろ今までなかった魚を捕るための罠を作れる人材を育成するという感じです。
森一:最後に、今後国際協力を仕事として志す方々に一言お願いします。
賢一:僕は地元で起こった福島第一原発の事故を含む東日本大震災でキャリアが大きく変わり、開発援助の仕事から離れてしまいましたが、改めて良い仕事だなと思います。良い仕事という意味は、一つは無条件に誰かの役に立てること、次に誰かの役に立つために自分の能力を常に伸ばせる環境にあること、そしてたとえ開発援助の仕事から離れてもいろいろな選択肢があること。
さらには国際援助の仕事には、フィールドレベルのマネージャー、プロジェクトプランニングやエバリュエーション、政策や戦略づくり、会計やアドミニ、さらには広報なども含め様々な業種があります。経験を積みながら、関心と自分の強さに合った仕事が見つかるのも、開発援助の仕事の面白さなのではないでしょうか。
(*1)現在はJICA海外協力隊という名称になっている。
(*2)外部団体が行政組織の運営を引き受ける手法。
(*3)ある地域内で医療や公衆衛生サービスの管理と提供を担当する行政区や医療圏。