源右衛門は近江堅田(大津市本堅田光徳寺門信徒)の漁師で蓮如上人に帰依し篤く法を喜んでいた、文明元年(一四六九)春、上人は堅田におわします御真影を大津の浜名氏の請により、その邸に移し、その後大津三井寺の萬徳院のはからいにより寺を南別所に造り、御真影を安置した。
文明十二年(一四八〇)十月、三年の歳月を費やして、山科に本願寺ができ上がったので佐々木如光が弟子と共に、三井寺へ御真影をお迎えに参上した。その時三井寺の徒はこれを渡せば諸国からの参詣が減り、三井寺が衰微することをおそれ難題を申しかけて遮り、生首二個と引きかえにすることを要求した。
時に源右衛門はこれを聞いて大いに憂い悩んだ。これをみて当年二十三歳の息子源兵衛は、進んでその任に当ったのであった。
源右衛門は大いに喜び源兵衛の首を斬り、自らのと会わせ生首二個を持って、三井寺へ参上し御真影を返すよう迫った。
三井寺の徒は大いに感動し、直ちに御真影を返したという。その後蓮如上人より御真影をいただき源右衛門の母を訪ね、備後国(広島県)を旅し病に倒れる。
お墓、御真影は福山市百谷真光寺に保存されている。
源右衛門七十五歳の御木像と源兵衛のろくろは、現在南別所(大津市)の等正寺(大谷派)に安置されている。また自らの命をすてて、御真影をお守りした源兵衛父子こそ親鸞聖人のみ教えを仰ぎ、ご恩報謝の大行を全うした尊い念佛行者であったのである。
源右衛門の行跡を称えて、後に山科の代官海老名治良左衛門が銅像を作成した。この銅像が常念寺本堂に保管されている。
観光で銅像を見に、四国 九州から来られています。
廿日市市 宝洲山 常念寺
(常念寺貯蔵 源右衛門銅像)