花見川の河川争奪に関して その4

Cooler様

議論のやりとりではラチが開かないようですので、事実を報告することにし、2日ほど花見川の開削部を歩きました。久しぶりの「地質調査」です。その結果をお知らせします。

下の断面図はCoolerさんの描かれたいくつかの地形断面の一つ(オリジナルの図よりも少し横に引き延ばしました)です。Coolerさんの文章から図の右が西、左が東と考えました。古柏井川の谷は東斜面と谷底、西側斜面の一部が昭和の開削工事によって失われ、残りの西側斜面は江戸時代の開削残土に埋められて地表に現れていないというのがこの図の意味するところですね。

従ってこの考えの当否は、花見川開削部の西側壁面が地山であるかどうか、特にその上部に関東ローム層が存在するか否かで決まることになります。そこでスコップで西側斜面の地表面を掘ってみることにしました。

1.「地質調査」の結果と結論

上の写真は弁天橋から少し南に入った、下水道のポンプ場に向かう道の扉から少し中に入った斜面(分布図の1)のものです。少し掘ると関東ローム層(左)が顔を出しました。その少し下には常総粘土層(右)も分布していました。さらに、小規模ながら、ローム層が直接顔を出している露頭(下の写真、分布図の2)もありました。

南の柏井側にも行ってみました。Coolerさんが集落の裏側の地形面の境界を、開発残土の崖とした場所です。ここではローム層を1カ所で、ローム起源の土壌(開発残土起源の土壌は砂質ですから、ローム起源のそれとは容易に区別がつきます。)を2カ所で確認し、この部分が地山であることを確認しました。

東側斜面はCoolerさんが昭和なっての工事で開削した場所としていますから、全部地山のはずですが、ついででしたので調べてみました。念のためです。こちら側も全ての場所でローム層を確認しました(開削残土中に混じったロームではなどと仰らないでくださいね。地山と人為的再堆積の区別がつかないほど、ボーリング屋さんも、僕も迂闊ではありません・・・これも念のため)。

結果をまとめたものを次に示します。

この分布図には、これまでにお知らせした、露頭とボーリング柱状図での、関東ローム層と常総粘土層の分布の様子も示してあります。ご覧のように花見川開削部の入り口(横戸側)と出口(柏井側)の東西両岸壁面上部にはローム層が分布し、この部分が地山であることを確認しました。従って「古柏井川」の谷は存在しないか、あったとしても、その幅は開削部の内側にとどまっており、Coolerさんの言われるように、外側へ「はみ出る」ことはありません。この問題は結局、振り出しに戻ったことになります。

2.蛇足になりますが

以上の報告で僕なりの結論は得られ、この結果は動かないと考えています。ですからこの問題に関して、これ以上コメントを続けることはしないつもりですが、これまでのやりとりの中でいくつか反論したいことがありますので蛇足を付け足させてください。

①河川の分布と地殻変動

Collerさんは花見川河川争奪の原因として地下深部の変動の影響は考えられないと述べておられます。果たしてそうでしょうか。

上の図は関東平野における常総粘土層の高度分布、つまりその変形を示したものです。等高線がNW-SEとNE-SW方向の2本の直線の組み合わせでできているのがわかりますね。これは関東平野の地下深部の岩盤にこの2方向の平行な断層が何本も発達し、それで区切られたブロックの上下運動で、常総粘土層が変形していることを示しています。概念図を右に示しましょう。

ブロックの隆起によって、上部のやわらかな地層が変形し、斜面ができます。等高線は斜面を通ることが多いので、結果的に断層方向の等高線が多く引かれることになります。

この地域の川はどれも、チョロチョロの小川です。水量も傾斜も大きくはありませんから、侵食力はそう大きなものではありません。ですから一度川筋(つまり谷筋)ができあがってしまうと、それを変えるのは難しいでしょう。ですから、そのチャンスがあるとしたら、古東京湾海退直後の、ほとんど平らな地形面が広がっていた時代しか考えられません。その時に地表を流れていたわずかな流れが、現在の谷筋を形成したのだと思います。そして、その流れの方向を決めるのが、地殻変動によってわずかに生ずる、微妙な高低差だったのではないでしょうか。現在の川筋が決まったのは、古東京湾海退後、武蔵野ローム降灰以前、つまり常総粘土層堆積期のことだと考えています。常総粘土層最上部には「チョコレート粘土層」とよばれる化石土壌がありますから、この形成期には離水が完了し、花見川の流向の逆転や柏井前後谷津の流路変更など、川筋は大枠において固まったのではないでしょうか。

②ボーリング柱状図の対比について

B-A断面の別解釈は成立しません。ローム層上部がローム層下部と常総粘土を削り込むのは、千葉第Ⅱ段丘でのことです。千葉第Ⅱ段丘は村上新田や横戸や勝田で見られるような低地面ぎりぎりの高さの河成段丘です。12180、12177両地点は明らかに海成台地面であり、千葉第Ⅱ段丘ではありません。

112489については、ローム層の人為的再堆積を見逃すほど、ボーリング屋さんはうかつではありません。これはすべて地山です。開削残土はローム層の上に乗っているのですから、削剥されてこの場所にないことについては、何の不思議もありません。

③横戸の「平坦面」と「谷状地形」について

勝田川と花見川との合流部の横戸の平坦面は、勝田川の河成段丘です。八千代市史(資料編自然Ⅱ)をお持ちのようですから、その8-9ページをご覧ください。勝田川の低地南岸に沿って、細長く続く段丘の一部です。この図でTp段丘とあるのは杉原(1970)の千葉第Ⅰ段丘、AT段丘は同じく第Ⅱ段丘に相当します。ここの段丘は一枚の平坦面ではありません。畑の耕作のために段丘崖が崩されていますが、現地でよく観察すれば、境界の斜面の一部が残っています。この地域の河岸段丘は、約5万年前と3万年前に起きた2回の海水面低下の中断または小海進と、地殻変動とが組み合わさって生じたものと考えています。詳細は八千代市史資料編(自然Ⅱ)の30-35、または通史編上の14-16ページをご覧ください。

横戸の「谷状地形」は千葉第Ⅰ段丘面を切っていました。地形としては確認されませんが、畑の表面を見ると、辨天社よりの部分で砂質になり、ローム質の部分との境界は明瞭です。横戸の谷は畑の造成のために、開削残土で埋められたのでしょう。

江戸時代の開削工事時に埋められた可能性も考えられますが、そのどちらであるのか、確認はできません。谷の延長を南に追跡すると、途中宅地造成のためにわからなくなりますが、牛舎のような建物の建つ凹地が現れ、徐々に高度を上げて横戸台の京成バス駐車場のすぐ北側にまで追跡できます。この谷の東側は竹林や雑木林の緩い斜面になっていますが西側は急な壁面となっていて、ここには開削残土の山が分布しており、谷の西側半分が埋められています。しかし最初に述べたように、この谷の西側の花見川開削部の壁面は地山ですから、横戸の谷の西側斜面が、現在の花見川開削部の内部に入り込むことはありません。

④河岸段丘について

浸食段丘?海岸段丘(波食台が隆起したもの)と混同していませんか?河岸段丘は全て段丘堆積物(氾濫原堆積物)を伴っており、浸食段丘はありません。

人為的地形面ではないかとの前回の僕の意見に対し、そんな事実は基本的に考えられないとのCoolerさんのコメントがありましたが、麦丸や桑橋、平戸など、八千代市の新川流域には台地の裾を削って、平坦面を作り出した集落がいくつかあります。農家は広い敷地を必要とするため、これが低地に沿って2列に並んだりすれば、一見河岸段丘状になることがあります。花島の平坦面はこのタイプではないかと思いますが、柏井の平坦面は広すぎるような気もします。柏井の集落の乗る平坦面が何であるのか、正直な話、僕にはよくわかりません。最初にも述べた通り、この地形面がそのまま横戸の平坦面に続くことはありませんし、古柏井川の河岸段丘であるとの明白な根拠もありません。

またCoolerさんの考える古柏井川は花島の谷津を最上流としていた(そういう古地理図を描いています)はずです。

花島の南側の広い平坦面は明らかに「古花見川」の流域です。もしここを古柏井川の流域とするならば、古地理図を書き直さなければなりません。この場合、古花見川は無くなってしまい、古柏井川の源流がどこまで伸びるのか、わからなくなってしまいます。

⑤谷幅について

右の図のような台地上の浅い凹みのような部分と、谷の側壁がきちんとできあがっているところとを比べるのは無意味です。

僕が問題にしたのは柏井の谷の部分です。ここでは高度差10m以上の急斜面の谷の側壁が、下流部で急激に狭まっています。やはりこれは不自然です。

なお、「広い谷底と崖錐発達」とあるのは、実際に崖錐を確認されてのお話しですか?

⑥「断層仮説」について

産総研の係の方の回答に尽きますが、「第三紀」・「第四紀」層の波状~湾曲状変形(この論文の「第四紀」層は関東ローム層、「第三紀」層は木下・上岩橋両層にあたり、いずれも第四紀の地層です)とは、ローム層が台地のへり等で下位の地層を切って這い下りる現象ではないかと思います。これは断層ではありません。水田の漏水が断層の存在の根拠になりうるとはとうてい考えられませんし、地割れは断層とは無関係に、地層の液状化によっても発生します。当時の日本の地質学のレベルは、この程度のものだったのでしょうか。不可解なのは明治21年に、関東ロームを陸成火山灰層とした「1/20万地質図幅東京」が出版されていることです。明治26年に地質調査所長に就任した巨智部忠承がそのことを知らないわけはなく、なぜこのような文章を発表したのか理解に苦しみます。この論文の発表された明治25年は濃尾地震の起きた翌年にあたり、地震防災のあり方が注目された時期なので、つい「勇み足」を出してしまったのでしょうか。

なお、この断層の存在を前提に、その破砕帯の存在が花見川の侵食力の元というのも誤りです。断層破砕帯が軟弱なのは、地層がカチンカチンに固化している場所での話です。この地域の地層の固結はまだ進んでおらず、全域が「断層破砕帯」のようなものです。

⑦「埋没谷洗い出し仮説」について

元の論文をよくお読みください。この埋没谷は木下層を堆積させた古東京湾の進入路となったもので、やがて谷から外にあふれ出て、外に広がった海の底に堆積した地層(木下層上部層)で覆われてしまうもの(このことは八千代市史資料編自然Ⅱにも書かれています)です。木下層の上には更に、常総粘土層と関東ローム層も乗っています。ですから地表に、埋没谷堆積物の泥層(木下層下部層)が現れることはあり得ません。

⑧「地理的位置仮説」について

「浸食基準面が近い」とは海岸が近いということでしょうか。だとすると、「この時代には東京湾側水系の方が印旛沼水系より侵食基準面に近いため」という事実はありません。この時代、東京湾は陸化し、海岸線は湾口部まで後退していたからです。海岸線までの距離は、東京湾水系でも印旛沼水系でも、大差ありません。

⑨絵図「印旛沼鑿開趾」について

この絵図は僕に言わせれば、地形に関しては全くいい加減です。山のように描いてあるのが台地でしょうが、台地の上は平らなはずで、この絵のような山状にはなりません。この絵図は当時の風景画の常套手段で、背景に山、手前に平野を描いて見せたに過ぎません。斜面に刻まれた谷のようなもの、木の高さに対してあまりに高すぎる台地面など、到底現場の忠実なスケッチとは考えられず、まして「盛土と谷壁斜面の地形が、それぞれ意識されて(区分されて)描かれていることが推察」とは見えすぎです。