花見川の河川争奪に関して その1

クーラー 様

先日花見川の河川争奪に関してのコメントを出さしていただきました。その時のコメントでは述べきれなかった部分、説明の不十分な部分がありますので、再度コメントさせていただきます。ただ長くなりそうですし、図を使わずに文章だけで意見を述べるのも困難ですので、掲示板での場ではなく、メールに添付する形でコメントさせていただきます。なお、このコメントについて、クーラーさんがどう扱うかについては、ブログ上への引用も含めてお任せします。

Ⅰ.台地と低地の形成史

房総半島北西部を含む関東平野の地形は、大きく見ると、高さの異なる二枚の平坦面と境界の急斜面とから出来ています。高い方の平坦面が「台地」、低い方の平坦面が「低地」、境界の斜面を「段丘崖」と言います。

図 1

台地では古東京湾と呼ばれる海に積もった、上岩橋層や木下層の上に、常総粘土層や武蔵野ローム層、立川ローム層などの火山灰層が堆積しています。なお、これらの火山灰層のうち、常総粘土層は湿地堆積ですが、他は乾いた陸上に降灰したものです。またこれらの火山灰層中には、三色アイス軽石層(SIP:約13万年前の箱根山の噴出物)、東京軽石層(Tp:約5万年前、箱根山)、姶良-Tn火山灰(約2.4万年前、鹿児島湾の姶良カルデラ)などの年代、分布、噴出源の明確な「鍵層」が挟まれています。

一方低地では、これらの地層をV字状に削り込んだ谷を、沖積層が半分ほど埋めています。沖積層はこの地域では、約1.7万年前以降に堆積した地層で、海または海へと続く湿地堆積の地層です。この海はいわゆる縄文の海で、この地域では、印旛沼方向から入り込んだ「古鬼怒湾」と、東京湾側から、海老川、菊田川、浜田川-花見川低地などに入り込んだ小さな入り江がありました。古鬼怒湾は新川低地の宮内付近まで入り込んでいたことが、沖積層中のケイソウ化石の分析からわかっています。また花見川低地では、天戸付近にまで海が入り込んでいたことを、もう20年も前のことですが、河川敷に散布されていた工事残土中の貝化石から確認しています。

従って台地と低地とは、新川低地を例にすれば、次のようにしてできたと考えられます。

台地と低地の形成には、海水面の上下が密接に関係しており、古東京湾の時代以降V字谷の時代に至る海水面低下期にかけての、浸食作用卓越期に低地の基本形となるV字谷が形成され、海進期の入り江の時代に底が埋められて低地が完成します。浸食作用の卓越は、海水面低下期に伴う、海と陸との相対的な高度差の増加によってもたらされたと考えられ、その条件の失われた入り江の時代以降、低地の川が新たに川底を削り込むようなことは起きていません。

図 2

Ⅱ.現在の川筋が決まったのはいつか

ですから、現在の台地と低地の分布が決まるのは湿地の時代からV字谷の時代にかけてのことであり、V字谷の時代以降、川筋の変更は起きていないと考えて良いでしょう。おそらくは乾陸化の完成する東京軽石層降灰期の5万年前には、ほぼ現在の川筋に固定されていたのではないでしょうか。

古東京湾の海退直後にはまだ川はありません。海退直後の地表面の微妙な高低の分布に従って流れ出した小さな流れが、現在の川筋、つまり低地の元になったと考えられます。つまり現在の川筋が決まったのは、湿地の時代のことです。

図 3

常総粘土層最下部には「三色アイス軽石層(SIP)」と呼ばれる、約13万年前の箱根山の噴出物が挟まれています。右の図は花見川流域におけるその分布図ですが、SIPが層状で挟まれているのが観察される地域と、軽石の粒として砂の間に散っているか、全く見られない地域があり、後者は前者に比べて、離水が遅れた地域と考えられます。なぜなら後者は河原など水の動きの激しい環境と考えられるからです。層状のSIPの分布域は現在の分水界地域よりも東京湾よりの、やや低い地域にあります。

図 4

また、常総粘土層の最上部は、やや緑がかった、白~灰色の石けん状の粘土層よりなることが多いのですが、この粘土層は、水成の火山灰層で、水との化学反応の結果粘土化したものと言われています。しかし花見川下流域の千葉市天戸~長作付近にはこの粘土層は見られず、かわりに赤土状のローム層が分布します。この地層は「下末吉ローム層」と呼ばれる、常総粘土層と同時期に降下した陸成火山灰層です。このことは、古東京湾の海退後、まだ湿地環境が残っていた他の地域に対して、天戸~長作周辺地域の乾陸化が先行したことを示しています。離水は最も高い場所から進むはずなので、天戸~長作地域は現在の分水界地域である、横戸~柏井周辺よりも高かった(下の図)ことになります。

図 5

図 6

この地域に最初に流れ出した川はおそらく、この地域から北東の印旛沼方向と南西の東京湾方向に向かって流れ出しますが、間もなく分水界地域に隆起帯の軸が移って、現在の分水界が形成されたのでしょう。

次の図は八千代市周辺の台地と低地の分布に、印旛沼水系と東京湾水系との分水界を入れたものですが、最も高い、海抜高度が30mを越える地域が、分水界よりも印旛沼水系側にあることに注目してください。このことは隆起軸の印旛沼側への移動が、分水界確定後も続いていることを示しています。しかし現在の川筋はこの頃、既にある程度できあがっており、周りの隆起にもかかわらず、谷底の下刻作用を続けて、現在(正確には海水面の最降下期、つまり最終氷期最寒冷期)に至ったのでしょう。隆起軸の長作-天戸地域から30m地域への移動は、陸成下末吉ローム層に挟まれる御岳起源の軽石層、Pm-Iの年代の約7万年前から、この地域全域の陸化の完了する5万年前(東京軽石層の降灰年代です)までの間に行われたと考えられます。

図 7

そうした中で花見川だけが、その流域を北に「食い込ませて」おり、やや異質な印象を受けます。それは東西の柏井の谷津の合流によります。柏井の谷津はどちらも、他の谷津と同様、北東方向に向かって流れ出しますが、30m地域に遮られるようにして流路を直角に曲げ、花見川に合流して、当初とは逆方向の東京湾へと向かいます。クーラーさんはその理由を、かつてあった「古柏井川」の上流域を花見川が奪ったためとしていますが、僕は柏井の谷津は5万年前には既に花見川の流域であったと考えています。理由は次の通りです。

Ⅲ.「古柏井川」は存在したか

①河川争奪の時期はいつか

最初に述べたように、この地域の川が侵食力を持っていたのは、海水面の低下期であるV字谷の時代、つまり最終氷期最寒冷期以前でなければなりません。1.7万年前(八千代市平戸における新川低地沖積層の下限の年代です)以降は海進期になり、谷は沖積層堆積の場となります。約4000年前の縄文の海の海退後もこの状況に変わりはなく、関東平野で新たに谷を刻み始めた川はありません。ですから河川の争奪があったとすれば、それはV字谷の時代以前ということになります。

②「古柏井川」の下流域は存在するか

古柏井川の上流域を花見川が奪ったとすれば、古柏井川の下流域が地形的に確認されねばなりません。とくにその時期が、最も河川の侵食力の強かった(つまり海水面の最も低下した)最終氷期最寒冷期の出来事であったとすれば、明瞭な谷地形が残されているはずです。クーラーさんはそれが横戸-柏井間の花見川開削部にあったとしていますが、はたしてそうでしょうか。

航空写真は1949年にアメリカ軍が撮影したものです。柏井の谷津と花見川の開削部が写っていますが、他の低地に比べて、花見川の開削部分は明らかに直線的です。人工的に作られたものという印象を強く受けます。花見川開削部が「古柏井川」の下流部を人為的に広げて作られたとすれば、このことは説明がつきます。しかし、その幅は柏井の谷津よりも明らかに狭く、ここが柏井の谷津の下流部であったとは考えられません。なぜなら谷津の幅は下流部ほど広いのが原則だからです。まして、「古柏井川」の下流部を人工的に広げて作られたのが花見川の開削部であるとするならば、なおのことです。

図 8

また花見川の開削部の地形は、幅に比べて台地との高度差が大きいのが特徴です。このことは、例えば勝田川低地の地形と比べてみれば明瞭で、大きすぎるといって良いでしょう。もしこれが、古柏井川の谷津の底を掘り下げた結果であるとするならば、人為的改変以前、勝田川低地との合流点において、古柏井川は急流をなして勝田川に合流したことになり、不自然です。

さらに、北東に向かう柏井の谷津が突然直角に曲がるのは、30m地域の出現によって、行く手を遮られたためでしょう。それなのに、東西の谷津の合流後、改めてそこを横切ってゆくのもおかしなことです。

以上の理由から花見川の開削部が、かつての古柏井川の下流域であったとする、クーラーさんの考えには賛成できません。そして他には古柏井川の下流域の候補にあたるような地形は見あたりませんから、古柏井川はなかったというのが僕の結論です。

ただし、それは現在のように谷筋が明瞭になって以降(つまり5万年前以降)のことです。常総粘土層の堆積期、あるいはその直後であれば話は別です。この頃、この地域はほとんど平坦で、わずかな高低の差に従って水が流れ、それが現在の低地の元となる谷を刻んでゆくのですが、そんな、谷筋がまだはっきりと形成される以前であれば、「古柏井川」の存在は充分に考えられます。この頃、東西の柏井の谷津の元を作った川(「東柏井川」と「西柏井川」とでも呼びましょうか)は、芦太川や宇那谷川などと一緒に(もしかすると花見川も)、南西方向から北東方向へと並行して流れていたでしょう。30m地域の出現によって、東西の「柏井川」だけが直角に流路を変えて花見川に合流し、東京湾へと流れることになるのですが、これは河川の争奪というよりは単なる流路変更と見た方が妥当ではないかと思います。

Ⅳ.花見川付近でのみ分水界が北にずれるのはなぜか

白鳥さんの論文で引用された図2は僕が描いたものです。あの図は築地書館発行の「日曜の地学 千葉県編」中の「花見川から印旛沼へ」という章の中のものですが、文章の中で僕は、印旛沼と東京湾という地域の差異は木下層堆積期からすでにあり、前者に泥質の潟湖(ラグーン)堆積物が分布するのに対して、後者には砂州の堆積物が分布している。両地域の分化は地殻変動と密接な関係があり、印旛沼西部調整池周辺と東京湾とは別個の沈降域である。花見川開削の行われた横戸の台地は両者を分かつ隆起帯であり、工事の困難さをもたらした遠因になっているのではないかと書いて、常総粘土層の高度分布と泥質の木下層の分布を重ねた図を描いたのでした。図を素直に見ればわかるとおり、花島から横戸間の花見川流域は尾根状の高まり(隆起域)であり、白鳥さんの言われるような沈降域ではありません。したがって地下水が特にここに多く集まる理由はなく、谷津の頭部侵食が花見川だけで進まなければならない理由はありません。

天明・天保の開削工事において、多量の湧水のために花島付近の工事が困難を極めるのは、「ケト土」の部分を深く掘ったからでしょう。「ケト土」は泥炭層ですが、縄文海進の海が及ばなかった低地の奥に分布し、弥生時代から古墳時代の「草本質泥炭層」と縄文時代後期から晩期の「木本質泥炭層」の二つの部分に分けられます。木本質泥炭層は当時低地に成立した、ハンノキやヤチダモなどの湿地林の林床堆積物で、木の枝などの破片が厚く積もった地層です。砂や泥などはあまり含まず、分解が進んでいない、スポンジ状の木くずの集まりといった見かけを呈することもしばしばです。このため隙間が多く、多量の地下水を含むことができますし、固結力はほとんどありません。工事の困難さはこうした木本質泥炭層を深く掘り下げねばならなかったところにあったと考えられ、花見川に限らず、低地の奥であればどこででも起こり得る現象です。

図 9

花見川付近でのみ分水界が北にずれる理由(即ち、東西の「柏井川」が30m隆起帯を越えられなかった理由)は実のところ、僕にはよくわかりません。下の図はクーラーさんの作られたものに僕がオレンジの直線を書き加えたものですが、僕はこの図を見て、27.5mの等高線の分布域のずれに目がいきました。地図の東に比べ、西側が500mほど北東側にずれています。地図の西の外れには花見川が見えています。これは花見川流域のみで隆起運動の軸が北にずれていることを意味するのかもしれません。

図 10

関東平野における地殻変動は、1000mを越える地下の深所にある岩盤(「基盤」といいます。関東平野はこの岩盤の上に新しい時代の地層が厚く積もっています)の動きと密接な関係があるといわれています。基盤は北東-南西方向と北西-南東方向の直行する2方向の断層でズタズタに切られており、これを「ブロック」と呼びます。このブロックの動きが上に積もっている地層を変形させて、様々な地殻変動を引き起こすと考えられています。いわば畳の上に厚く布団が敷かれていて、一枚々々の畳の上下によって、上に敷かれた布団がゆがむというイメージ(関東平野の海岸線が北東-南西と北西-南東方向の直線の組み合わせからできているのはこのため)です。上図のオレンジの線の方向は、ほぼ基盤中の断層の方向であり、25m等高線のずれは、ここを境に地下のブロックが異なっている可能性(想像を逞しくすれば右の図のようなイメージ)があります。

図 11

と言うわけで、花見川の流域が、この地域の一般的な分水界の北に入り込んでいる理由ははっきりしません。しかしそれは、地下深部のブロックの動きに起因するだろうとの漠然としたイメージを、僕は持っています。