花見川の河川争奪に関して その3

Cooler 様

花見川の河川争奪を巡る3回目のコメントをお送りします。考えるべき問題が多いために、例によって長くなることをお許しください。

Ⅰ.横戸の「谷状地形」をめぐって

先週横戸の「谷状地形」を見てきました。Coolerさんが航空写真実体視によって確認をされたものです。元池辨天の東側では谷地形は不鮮明でしたが、弁天橋からの道路を渡ったゲートボール場の向こうに、凹地を見つけ、その中に牛舎のような建物があるのを見つけた時は一寸ショックでした。この地域は調査時はもちろん、その後も何度も通っていたのに、全く気づかなかったのですから。この凹地は花見川に平行して南に、谷状に延びて、横戸台の京成バスの駐車場付近に達しています。

この谷の形成年代ですが、千葉第Ⅰ段丘面や第Ⅱ段丘面形成以後であれば、それらを刻んでいるはずですが、そうなっていません。ですからそれ以前のことと考えられます。通常この地域で低地の基本形が完成するのは、最終氷期最寒冷期のことと考えられますが、河岸段丘の形成年代はそれよりも前になります。ですからこの谷の形成年代は、少なくとも約5万年前以前という、この地域では例外的に古い年代を持つことになります。しかしそのような古い谷が、その後のローム層の降灰によって埋められることが無く、残っているものだろうかという疑問も感じます。

以下にこの谷状地形について考えます。

①横戸の花見川東岸の露頭

地質柱状図を示しておきます。Coolerさんの言われる通りであれば、この柱状図の上部1/2~1/3は埋め土のはずですから、この谷状地形はこの場所へは延びていないようです。

②ボーリング柱状図を並べてみる

ビルなどを建てる時に地盤の調査をしますが、その結果をまとめたもの(千葉県地質環境インフォメーションバンクhttp://wwwp.pref.chiba.lg.jp/pbgeogis/servlet/infobank.index)が公開されています。

花見川開削部では西岸に4本、横戸台の北外れで花見川を横切って7本のボーリングデータがあります。以上11本のボーリング柱状図を、その標高と柱状図間の距離に応じて配列し、地層の対比の線、地層名をつけました。色分けはピンクはローム、黄色は砂、水色は粘土~泥層を示しています。

花見川西岸の4本の柱状図を並べたものを次に示します。左が南、右側が北になります。常総粘土層以下の層序区分は、常総粘土層の下部の砂層と木下層との柱状図上での区別が困難で、していません。

12175、12176の両地点には厚さ4m前後の開削残土が分布します。層相は粘土質細砂で粘土の薄層や塊が混じっているようです。12180地点にも埋め土がありますが、コンクリート片や煉瓦片を伴っていますので、開削残土ではないようです。12177地点の柱状図では、全部で2mほどの厚さの微細砂や細砂、粘土などがローム層の上に乗っています。これも開削残土と思われますが、この場所は軍用軌道が花見川を渡っていた位置にあたっており、架橋するために少し掘り下げています。開削残土の堤防状高まりはここにもあったはずですが、地形的には見られません。この時に削剥されたのでしょう。この場所の開削残土は、その時に人為的な再堆積によって生じた可能性があります。

花見川に直交する断面(C-D断面)を右に示します。

先に述べた12177地点を除いて、開削残土は見られません。よく見ると、12489地点には常総粘土層上部の粘土層がないように見えます。

常総粘土層は上部の粘土質の部分を欠くことが時々ありますから、この柱状図のローム層直下の砂層が、常総粘土層に属するのか木下層に属するのか、判断が難しいのですが、この部分は細砂で「粒子ほぼ均一」との記述があります。常総粘土層下部の砂層は比較的粗く、粒径も不均一なことが多いので、もしかすると木下層かもしれません。そうだとすると、ここでは常総粘土層が削られて失われた後に、武蔵野ローム層が積もっていることになります。整理すると下の図のようになります。

先に述べたように、横戸の「谷状地形」は千葉第Ⅰ段丘面を刻んでいませんから、その形成年代は武蔵野ローム層降灰期以前と考えられ、12555地点と112489地点との間で、常総粘土層を削り込む浸食面(a)と同時代です。谷状地形はこの断面線のすぐ北側まで追跡できますから、その延長がこの侵食面につながるのではないでしょうか。つまり横戸の谷状地形は、常総粘土層堆積の最末期に形成され、C-D断面線付近より南側では武蔵野ローム層と立川ローム層によって埋積され、地表には現れていないということになります。この埋められた谷が南に延びていることが確認されれば、この谷が「古柏井川」の谷であり、その形成年代は常総粘土層堆積の最末期であることになりますが、残念ながら、横戸台以南で埋積谷がどこを通るのか、そのことがわかる地質柱状図は見つかっていません。

このアイディアの根拠は112489地点に常総粘土層が分布しないという、一点によっています。ボーリングコアの層相記述にはしばしば、担当者による個人差があります。僕がコアを直接観察することもできません。ですからここでは、その可能性があることを指摘するのみにとどめておきます。

なお、12177地点で開発残土を乗せている浸食面(b)はローム層を削り込んでいますから、浸食面(a)よりは新しく、横戸の谷状地形とは明らかに別のものです。またCoolerさんの見つけた花見川西岸の緩斜面と花見川との間には、B-A断面(この断面線は緩斜面と花見川との間にあります)で示されるように、常総粘土層を削り込む浸食面がありません。もしこの緩斜面がCoolerさんの言われるように、横戸の谷の西側斜面に続く浸食面を示すのであれば、B-A断面の部分の常総粘土層はローム層によって削り込まれて、分布しないはずです。その成因はわかりませんが、この緩斜面は横戸の谷地形よりも新しい、別の地形面と考えられます。

Ⅱ.花見川下流部の「河岸段丘」を巡って

①河岸段丘のでき方

学校の理科の教科書等に、下のような図の書いてあるのを、ごらんになったことと思います。河岸段丘は谷の形成の中断と再開、氾濫原堆積物(段丘堆積物)の堆積によって形成されます。

浸食作用は隆起、あるいは海水面の低下で、氾濫原の形成は沈降あるいは海水面の上昇に伴っておきますが、この地域の河岸段丘は、最終間氷期(古東京湾の時代)から最終氷期に向かって海水面高度が低下する中で起きた、2回の海水面低下の中断(あるいは小海進)によって作られました。その年代は約3万年前(千葉第Ⅱ段丘、あるいはAT段丘)と5万年前(千葉第Ⅰ段丘あるいはTp段丘)です。

②花見川の「河岸段丘」の検討

ある平坦面を河岸段丘とするには、その下に段丘堆積物が存在し、それが下位の地層を削り込んでいることを確認する必要があります。航空写真の実体視によって認められた平坦面を、そのまま河岸段丘とすることはできません。地質学的事実の裏付けが必要です。

Coolerさんの認定された平坦面は「河岸段丘」と言えるのでしょうか。堆積物を確認されてのことでは無さそうですから、その可能性があるというのが最大限言えることです。ではその可能性はあるのでしょうか。

次の図は柏井の谷の合流部です。

Coolerさんが「カ」の河岸段丘面とした部分の幅(青色矢印)に注目してください。河岸段丘面は段丘堆積物の分布の範囲を示しますから、この幅は「カ」の「河岸段丘」形成時の、「古柏井川」氾濫原の幅を示します。そしてそれは同時に、その前段階の、後に段丘堆積物で埋められる浸食谷の谷幅でもあります。それが突然、その北側で急に狭まるのはなぜでしょう。非常に不自然です。北側の花見川開削部の両側には、開削残土で埋められた横戸の谷が連続するので谷幅は変わらないということでしょうか。しかし、前にも述べたように横戸の谷と開削部の西側の緩斜面とは浸食面の形成年代が異なりますから、横戸の谷が西側にまで谷幅を広げていたことはありません。またこの「河岸段丘面」の北側には開削残土分布域との間に急斜面がありますが、このような急斜面が何故生じたのでしょう。これが段丘崖であるとすれば、「古柏井川」はこの部分で急激に谷幅を狭めたことになります。同様な不自然さはその南側(紫色の矢印部分)にもあります。ここでは逆に、柏井の谷津の合流後、「古柏井川」の谷幅が急に広がっています。

では花島周辺の、「河岸段丘面コ」についてはどうでしょう。Coolerさんの花見川河川争奪説では、花島の谷津が「古柏井川」の最上流ということになっていますね。とすると、「河岸段丘面コ」のうち南側の、花島の集落を乗せる広い平坦面は「古花見川」の流域となり、「古柏井川」とは無関係です。またそうだとすると、「古花見川」はその源頭部から、このような幅の広い氾濫原を持つことになってこれも不自然です。もしここが「古柏井川」の流域だったとしても、古柏井川の源頭部は同様に、不相応に広すぎる氾濫原を持つことになります。一体氾濫原堆積物はどこから供給されたのでしょうか。

僕が花見川流域の地質調査に携わったのはもう20年以上も前のことです。その頃は今よりはずっと露頭も多く、調査はやりやすかったのですが、開削部より下流の花見川流域で河岸段丘堆積物を見たことはありません。ですから僕はこの地域には河岸段丘は分布しないと考えています。Coolerさんの指摘された平坦面の大部分には集落が乗っています。す。この地域ではしばしば、台地の脚部を削って、敷地を広げて住むことが行われます。平坦面はこの種の人為的なものなのではないでしょうか。

③河岸段丘の形成

Coolerさんはこの地域の川を考える時、どのような川をイメージされますか。新川や花見川のような幅の広い、水の豊かに流れる川でしょうか。おそらくはそんなことはないと思います。集水域は狭く、高度差もない、その上氷期の気候は、雨の少ない乾燥したものだったとされていますから、幅はせいぜい1~2mのチョロチョロの小川だったのだと思います。河岸段丘の形成というと、無意識に木曽川や天竜川などの大河川の中流部に発達する河岸段丘をイメージしてしまうのですが、この地域では、そのような小川を前提として考えねばなりません。僕はこの地域の河岸段丘は海水面の変動と、分水嶺地域~海抜30m地域の隆起とが組み合わさって、河道が徐々に北に移動する中で形成されたものと考えていますが、詳細は長くなりますので、別の機会に譲りましょう。