研究内容① 微小液滴の物理化学

3次元イオントラップを用いた単一微小液滴の蛍光顕微分光(学部生向け)

多くの化学反応は液相(溶液)のなかで生じます。中学や高校で溶液を使った化学実験をしたことがある人も多いでしょうし,化学科の学生であれば,学生実験で行う実験の多くは溶液を用いていたことを覚えていると思います。

皆さんに馴染みのある化学実験の多くは溶液中で行われるわけですが,実験に使う溶液の量に注目してみると,多くの場合,目に見える量の溶液(例えば 数十 mL とか)を使って実験をしていたと思います。学生実験に限らず,溶液反応のほとんどは目に見える量の溶液を対象にしています。

ここで疑問が生じます。もし,反応が生じる溶液の量(体積)をものすごく小さくしたとき,例えば,0.00000000001 mL にしたとき,このような微小な体積のなかで生じる化学反応と普通の体積(例えば 数十 mL )のなかで生じる化学反応は,本当に同じなのか? ということです(濃度は一定にしておきます)。もっといえば,化学反応が生じる場(反応場)のスケールを小さくしていくと,どこかで大きなスケールとは異なる化学反応が生じはじめるのではないか?という予想です。

答えを先に言うと,少なくとも直径が10 ミクロンくらいよりも小さな液滴(微小液滴)では,この予想は正しいことが分かってきました。最初に分かってきたのは,微小液滴内で生じる化学反応と目に見える体積の溶液(バルク溶液といいます)で生じる化学反応の速度を比べたとき,微小液滴内の方が反応速度が速い(反応にもよりますが,数倍~数万倍程度)ということでした。このことがはっきりと実験で明らかにされてから,まだ10年経っていません(2011年にPurdue大学のCooks教授のグループによって先駆的な研究が報告されました)。その後,反応速度の違いだけでなく,バルク溶液とは異なる反応選択性を示す例や,バルク溶液では進みようがない反応が微小液滴では進む例など,ワクワクするような研究結果が世界中から続々と報告されています。

それでは,なぜ微小液滴ではバルク溶液とは異なる反応が進むのでしょうか。言い換えると,化学反応の特徴(速度とか選択性とか)が反応場のスケールに強く依存する原因は何なのでしょうか。この原因についてはまだはっきりと分かっていません。私たちはこの原因を物理化学的な観点から明らかにしたいと考えて研究を進めています。

ところが,原因を明らかにするといっても,簡単に攻略できるものではありません。特にこれまで報告されている研究の多くは,多数の微小液滴を一度にたくさん作って,それらの平均的な振る舞いを観測していましたが(質量分析が有力な手段です),私たちはその方法ではゴールにたどり着けないと考えました。微小液滴内の化学反応を詳しく調べるには,ただ一つの微小液滴を空間的に安定に捕捉し,その液滴を徹底的に調べ上げることのできる「クリーンな実験環境」が必要であると考えたのです。

しかし,そのような実験を行うための装置など売っていません。そこで自分たちで一から装置を作ることにしました。以下の動画は,自分たちで作った装置(3次元イオントラップ技術を応用した装置です)を用いて,単一の微小液滴を安定に空間捕捉している様子を撮影したものです。

ESI.avi

エレクトロスプレーイオン化法を用いて生成したミクロンサイズの微小液滴を自作の3次元イオントラップで空間捕捉している動画です.動画の14秒くらいのところで単一微小液滴(直径が10ミクロン程度)が安定にトラップされます。この動画で使っているイオントラップは当研究室の第二世代のトラップです(少し古い)。今,当研究室では第三世代のトラップ(エンドキャップトラップ)が稼働中であり,つい最近,さらに改良を重ねた第四世代のトラップが完成して,現在,試験運用中です。

さて,単一の微小液滴を安定に空間捕捉できたのですが,上の動画を見ても分かる通り,普通のカメラで撮影すると捕捉した液滴は小さな点にしか見えません。小さな液滴を観察するにはどうすればよいかというと,すぐに思い浮かぶのは顕微鏡を使ってみることです。しかし,私たちの実験目的に合致した顕微鏡など売っていません。そこで顕微鏡も自分たちで作りました。


光学定盤のうえに組み上げたレーザー蛍光顕微鏡の写真です(半分しか映っていませんが)。皆さんがイメージする顕微鏡とは似ても似つかないとは思いますが,いろいろと独自の工夫を凝らしています。市販の装置と異なり,装置を改良したければ,いくらでも自分たちで改良することができます。これも装置を自作するメリットの一つです。自分たちの目的をかなえてくれる装置がこの世になければ,それを自分たちで作り上げるのも物理化学研究の醍醐味の一つだと思います。

このように,自分たちで作った装置(武器)を用いて「化学反応の特徴(速度とか選択性とか)が反応場のスケールに強く依存する原因」を解明するために日々研究に取り組んでいます。とくに私たちは「光」を用いた計測手法を使って研究を進めています。

じつは,安定に空間捕捉された単一の微小液滴に光を照射すると,その光が液滴のなかに閉じ込められる,という現象が生じます。これは微小液滴が光共振器として振る舞うためです(光共振器はレーザーの原理を勉強するときに出てくると思います。普通のレーザーは2枚の合わせ鏡を用いて光共振器を構成し,光を増幅しますが,微小液滴は3次元の光共振器として振る舞います)。

微小液滴が光共振器として振る舞う性質を上手く利用すれば,液滴内部に溶存している分子の振る舞いを詳しく調べられることが私たちの研究で分かってきました。

未発表のデータが多数あるので,ここで詳しく成果を述べることは出来ないのですが,どうやら微小液滴のなかでは,分子がある特定の方向を向いており,これが微小液滴とバルク溶液での化学反応の違いを生み出している主要な原因の一つではないか,ということが分かってきました。

微小液滴とバルク溶液では化学反応の特徴が全く異なるわけですから,微小液滴のなかでの化学反応を詳しく研究していけば,これまで普通の体積をもった溶液の中では作ることができなかった化学物質を合成できるようになるかもしれません。また,生命現象の基本単位は細胞であり,細胞の中では莫大な数の化学反応が生じています。細胞というのは,水が詰まったミクロンスケールの袋なわけですから,もしかしたら試験管のなかでの生化学反応と細胞中での生化学反応は異なる振る舞いを示すかもしれません。まあ,これらは根拠のない与太話ではありますが,微小液滴の化学はそんなことを想像させるほど,ワクワクする現象を私たちに示してくれています。