七草
何時しかセミの鳴き声もクマゼミからツクツクボウシに代わり、あたりに秋が感じられようになると、いち早く咲き出すのは秋の七草の一つとして古くから知られる葛の花です。夏には葉に隠れて気づかなかった蕾がいつの間にか葉の上に成長して赤紫の花を開きます。
秋の七草のうちでも最も繁茂している葛の花。九月に入ると林縁や草原の表面を覆う葛の葉陰から多数の花が開花し、山道には葛の落花が目立ち始める。
万葉集八巻の秋の雑歌のなかで “山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首“
1537 秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(くさ)の花 其一
1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 其二
訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html)
( 万葉万葉仮名による原文は私にはわかりませんので上記サイトの訓読を引用させていただきました )
として登場する 萩 ・尾花(ススキ)・ 葛・ 撫子・ 女郎花・ 藤袴・ 朝顔(桔梗)が秋の七草と言われています。この中で萩、ススキ、葛は今でも至るところに生えていますがそれ以外の花はまず野生では見られません。
上段 左は萩、右は芒 ( 尾花 ) 葛の花は巻頭の写真。下段 左は撫子、右は女郎花。芒や葛は至る所に繁茂しているが萩も現在は見かけることが少なくなった。
今日では撫子や女郎花、更に下段左の藤袴、右の桔梗が秋の野に咲く姿を見かけることはまずない。奈良平安の過去には野草としてこれらの花が普通に見られたのだろうか・・
以上は秋の七草と呼ばれる花々だがいま野生で出会える花は少ない。
私は戦後間もない頃に、旧津市の周辺部で育ちましたが当時でも女郎花や藤袴といった草花を目にした記憶がありません。桔梗は津市北部の丘陵地でススキ野原の片隅に咲いていましたが見るのは稀でした。
当時はまだ今と比べれば遙かに自然に恵まれていたと思うのですが、その頃でさえ野生の撫子や桔梗が野に咲くのに出会えることは難しかったものです。
秋の代表花の一つ萩。近年萩も少なくなったが椋本の三重中央アスコン西方に林が残されている場所があり、津関線沿いに萩の小さな群落がみられる。
上の写真の萩でさえも、近年では自宅の周辺では見かけることが少なくなり花を見るのに苦労します。これに対して下写真のヌスビトハギは種子が人や獣に付いて容易に拡散するためか、晩夏には道端から農道、空き地、荒れ地と至る所に花をつけ、秋には大量の鬱陶しい種が株を覆います。
盗人萩の花 ( 上写真 ) は繊細で可愛いが、10月に入ると多数の種をつけて少しでも触れると服や動物の毛にくっつき簡単には離れなくなる。道路脇に多いためオナモミやアメリカセンダングサとともに始末の悪い草の実の代表。
こちらは萩の仲間のコマツナギ。名の由来は茎の繊維が強靭で馬もつなぐことが出来るから。実際手で引きちぎろうとしても簡単には切れない。
萩の仲間には夏咲きの白花萩のように白花を付けるものがあります。秋咲きでは下写真のメドハギです。帰化植物とのことで高速道路の側道など幹線道路沿いに多いようです。
藤袴は天平のころ香草として大陸から持ち込まれた帰化植物(花と木の文化史:後出)だそうですから当時から野生は少なかったにせよ、今日では園芸種以外まず見られません。女郎花なども土地の老人の話では戦前にはまだ山で見かけたが戦後にはもう見られないといいます。
自宅の近辺でも目につくのは藤袴に似たヒヨドリバナです。淡い赤色の藤袴の花を白くした花をつけ、現在では自生地がまず見られない藤袴と違い、山野の道端で普通にみることが出来ます。
これらの草花が育つ草原の環境は、人為的に草刈りの手が入るか、草食動物の採食によって維持されるものですが、茅や葛を大量に刈り取って利用する習慣をなくしてしまった今では、人の手によって適度に管理された草原は自宅周囲に存在しません。
私には七草の花咲く秋の野は遠い夢の世界の光景に思えます。千数百年前、万葉の頃奈良や明日香の都の周囲には、秋には七草の咲き乱れる草原が広がっていたのでしょうか。
彼岸花
10月も間近になると太陽の高度も下がり、夏には稀にしか回らなかった遠くの散歩道にも足が向くようになります。 この時期、秋を告げる最も鮮やかな花は彼岸花でしょう。
開花時期も名の通り正確に秋の彼岸過ぎ、毎年9月23日前後です。季節に忠実なのはどの花もそうなのですが、彼岸花の場合は突然土中より蕾が現れ一斉に開花するためことに目立ちます。
彼岸花は曼珠沙華とも云う。どちらも人の死と結びついた印象があって子供の頃から好きではなかった。根は有毒だし花も毒々しく感じたものだがなぜか最近は結構綺麗だと思うようになった。
花は農道や路肩に自生するものですが、彼岸花の根には毒があってモグラが忌避すると云われることから、その多くは古くから周囲の田畑の持ち主によって増やされたもののようで、最近でも水田の法面に彼岸花を移植する農家の老人を見かけることがあります。現在見られるこの花の多くはこんな理由で増やされて来たのかも知れません。
彼岸花は野崎茂太郎の「忘れられた花」によると ゛ 死や地獄や幽霊など、不吉なイメージを持っていて、江戸時代にはシビトバナという呼び名のほうが一般的だったらしい " とのこと。時折赤い花に混じって白い花が咲くがこれもどことなく不気味だ。
八世紀前後に編まれた万葉集四千五百余首には多数の花を詠んだ歌があるといいますが(植物学者 中尾佐助の『花と木の文化史』 " 万葉集に登場する花ばな “ に詳しい。藤袴の伝来も載っている)彼岸花を詠んだと云われる歌は十一巻2480に収められた壹師花(いちしの花)のみでこの花名も本当に彼岸花を指すものか定かではありません。
現代人は殆ど気にもとめない草木についても、様々な歌に詠み上げた万葉の歌人達が、これほど鮮やかで目立つ花にたった一首しか残さなかったのはどのような理由によるものなのでしょう。
彼岸花の白花。アルビノ種は珍しいので人為的に広まっているのかもしれない。
ヒガナバナの花の中には赤い色素が失われて白い花をつけるアルビノが現れることがあります。近年よくお目にかかるため除草剤による染色体異常が疑われるのですが、以前から存在していたので変異の原因は分かりません。
自然界の生物には僅かですがアルビノが発生する場合がある訳ですが、人為的に増やされていなければ彼岸花の場合はその発生頻度がかなり高いのではないかと思います。
蓼
秋に入るとそれまで炎暑のために休憩していた草花が一斉に花を付けて散歩道も再び賑やかになります。定期的にに草刈りを行う休耕田や田畑の路肩には蓼科の草花が様々な花をつけイヌタデ、ミゾソバ、サクラタデ等の美しい群落を形成します。個々の花は目立たなくとも集団で開花すると見事なものです。
休耕田に繁茂するイヌタデとミゾソバの群落。植生が維持されるためには定期的な草刈りが必要で、放置されるとより草丈の高い芒や蒲、セイタカアワダチソウなどの草原へと遷移して行く。
地味な花が多い蓼科の中でサクラタデはその名の通りとても美しい花を付ける。
ことに近年では耕作放棄される水田が増えたため辺りに広がった休耕田には、その管理状況 ( 草刈りの程度 ) に応じて丈の低いミゾソバやイヌタデから丈の高い様々な雑草に至る植物群落の遷移が興味深く観察できます。
カエルグサとして親しまれるミゾソバも近くで見ると可愛い花だ。よく見ると白から赤まで花色の変化がある。
ミゾソバやイヌタデと比べると遥かに丈が高いイタドリもタデ科の植物で秋に白い花をつけます。数センチになる太い茎を持つため、一見すると樹木の仲間のようにも思われますが茎は一年で枯れ、春には新たな芽をだして茎を伸ばし葉を茂らせる多年草です。
秋には2m以上にも成長するイタドリも秋の終わりには一斉に白い花をつける
自宅前の中の川北岸は西に向かって200m程が調整地となっており、その一部にツリフネソウの群生地がありました。私がこの土地に来た30数年前には真に見事なものでしたが、最近では株も激減して花を見るのも困難な状態です。
ツリフネソウはタデの仲間ではありませんが湿地に近い環境を好む一年草で花もなかなか美しいものです。しかし今日では彼らが生き延びる場所を見つけることも困難なようです。
今七草
現在、私の散歩道で秋の七草を選ぶとすればミゾソバ、ヒヨドリバナ、チカラシバ、セイタカアワダチソウ、ノギク、リンドウ、ワレモコウあたりでしょうか。普通に目にする花から今では探さないと殆ど見られなくなった花迄色々ですが、どれも印象深い草花です。
上は七草の萩に対比した吾亦紅。休耕田へと続く林縁にひっそりと咲く。自生地が減り知らない方も多い。
撫子に対比するのは溝蕎麦。小花ですが美しい彩りで群生しても見事なもの。藤袴には鵯花で、これは花色が違う以外は兄妹の様な花。
ヒヨドリバナは日本古来の種で現在も至るところで見ることが出来る。あるいは万葉の七草 "藤袴" にはヒヨドリバナも含めていたのかもしれない。
セイタカアワダチソウのように大群落を作って良く目立つ花ではありませんが、藤袴によく似た日本の在来種ヒヨドリバナなら秋には林縁の路肩で普通に見つけることが出来ます。
白銀に揺れる芒原ほどの壮観は見られないが、朝露に曇る力芝も良く見ると美しい。女郎花に対比するのは同色でどこでも見られる背高泡立草。
セイタカアワダチソウは北アメリカらの帰化植物で、私の中高校時代(1960年代)に国土の乱開発に伴ない、国内でその大繁殖がマスコミを賑わせたものですが、今ではすっかり秋の風景に定着しました。
桔梗には竜胆。こちらはまだ山際の路肩や水田の畔など湿潤な土地で僅かに見ることが出来る。
ワレモコウは草むらの片隅にひっそりと咲く秋らしい花ですが、竜胆よりも更に数が少なくなかなかお目にかかれない。二か所あった自生地はほぼ絶滅した。
リンドウとワレモコウ以外は路傍で普通にみられます。リンドウも以前は山間の田畑の畦に沢山咲いていましたけれど最近はめっきり数を減らした。散歩の途中に出会うと嬉しくなる秋の花としてリンドウとワレモコウを選んでみました。
その昔には秋の黄花といえば女郎花やアキノキリンソウであったのかも知れませんが今ではどちらもこの辺りで見つけることは難しい草花となりセイタカアワダチソウや薬師草がそれらに代わっています。
アキノキリンソウ。山間の畦や山裾の道端に咲くキク科の多年草。この花も今ではあまり目にできない。
同じキク科のヤクシソウ(上右)は今も晩秋になると明小への散歩道の至るところで咲き乱れる。
しかしこの季節、野に咲く菊の仲間で最も馴染みのある花は草丈が低く道端や田の畔など人目に付く場所で淡い紫の花をつける野菊でしょうか。開花直前の花や蕾は紫が濃く、開花と共に花色が薄れて白っぽくなってしまいます。
薄紫の野菊は秋の野の菊を代表する花。野菊は数種の菊科の花の総称で中でもノコンギクとヨメナは極めてよく似ている。葉の手触りや種子の状態で区別できるようだが私には判別不明
上に上げたような草花の大半は日本の在来種もしくは近世以前に大陸から日本に渡来し定着たものですが、中には背高泡立草のように明治末期に園芸種として持ち込まれて戦後の日本に急速に広まった種もあります。
背高泡立草はその後の一時期勢力が衰えていましたが休耕地の拡大と共に空き地や廃田に再び繁茂するようになってきました。、近年、背高泡立草のように休耕地の拡大とともに広まった秋咲きの帰化植物に野鶏頭があります。
秋の草原植物として定着した感のある野鶏頭。彼岸花の咲き始める9月末から10月末辺りまで、方々に休耕田や荒れ地を覆う大群落がみられる。
インド原産の帰化植物のようでいつ頃日本に渡来したのか定かではありませんが、休耕田におびただしい群落が出現し始めたのは最近のことで昭和の頃には目にしたこともなかったように思います。
紅葉の季節
芸濃町河内渓谷の紅葉。11月も中盤にさしかかり初冬の寒風が吹き始めると平地でも広葉樹の紅葉が始まる
10月も半ばを過ぎると、春や夏に花を楽しませてくれた色々な草木の実が熟れ始めます。中でも山栗は9月後半には実がはじけるものから10月後半のものまで種の違いによってほぼひと月の間楽しめます。
日本の里山はみな個人の所有地ですから勝手に山に入り込んで山の実りを取ることは許されませんが、路上に落ちている栗や団栗などを拾ろう程度なら特に問題はないでしょう。
栗拾いや木通(アケビ)取りは楽しいがむやみに他人の山に入り込むのは犯罪だ。私の家の山にも栗の木が何本もあったが、拾いにゆくと何時も誰かが入り込んで取って行った後なので父が業を煮やして切り倒してしまったことがある。
山の実りは、栗やアケビのように実を味わえるものから、烏瓜や葛藤の様に目を楽しませてくれるものまで様々ですが12月末ころ迄散歩道の周囲を賑わせてくれます。
子供が小さい頃は、この時期になると散歩しながら木通(アケビ)や真葛(サネカズラ)の実を見つけるのが楽しみであったものです。真葛(サネカズラ)は日陰を好む植物で薄暗い林の葉陰にひっそりと実を結びます。しかしその真っ赤な実は冬枯れに向かう藪の中で確かな存在感があって人を引きつけます。
秋には様々な色の実が生るが、カラスウリやヒヨドリジョウゴ、サネカズラなどの赤い実が一番目立つし数も多い。
真葛(サネカズラ)と真葛(まくず)
岡野玲子の " 陰陽師 "には真葛(まくず)と呼ぶ大人とも子供ともつかぬ異能の少女が登場しますが、 この場合はサネカズラではなしに葛(クズ)の美名として使われています。もっとも彼女の不思議な魅力はサネカズラに合っている様にも思われますが。
ちなみに京都八坂神社、知恩院に接する円山公園の一帯はかって " 真葛ヶ原" と呼ばれ葛生い茂る草原であったと言われます(現在は墓地)
万葉や平安の時代には、屋根葺きに用いた茅を刈る草原が方々にあったはずですから、都を一歩外れれば狐狸や猪鹿など獣の支配する草原が至るところに広がっていた世界でもあったのでしよう。
青いうちに葉とともに落ちている団栗には100%虫が入っている。ゾウムシの仲間が実に産卵して枝から切り離すからだ。
団栗は木によって様々な形の実がなります。どこでも普通にみられるのは樫の団栗で一本の木にたくさん実を付けます。この辺りでは粗樫、白樫、赤樫等が見られますがどれも粒が小さくて子供にとってはあまり魅力がありません。
ですから櫟や楢など大きな実のなる木を見つけると覚えておいて次の年、実が落ちる頃に拾いに出かけるのが楽しみの一つでした。ことにマテバシイはロケットの様な細長いスタイルがいかにも格好良くて実を拾うのに遠くまで出向いたものです。
団栗はその形の特徴を利用して色んな楽しみ方があります。櫟のオカメドングリのように大きなものは楊枝を刺して簡単に独楽を作ることが出来ます。
独楽は青いうちのほうが重くてよく回る。アクセサリーの様なものを作るには十分乾いてからプラスティック系塗料で保護する。
子供の頃は様々な形の団栗を家に持ち帰り、色々加工するのが楽しみであったものですが、今の子供達にとってはそれほど魅力のある対象でもないのかも知れません。
10月に入ると鈴鹿の連山はその頂きから紅葉が始まります。山腹が色づくのは10月下旬から11月始めで11月の半ばを過ぎると平野部にも紅葉が降りてきます。
この辺りの山は過去には薪炭材を供給する樫・櫟など落葉広葉樹を主体とした里山であったものが、戦後その多くは杉檜の単相林に変わってしまいました。このため落葉広葉樹が茂るのは国有林か私有林では日当たりの悪い北向斜面の一部くらいしか残されていないため山全体が燃えるような紅葉を目にすることは出来ません。
上の3枚は亀山公園の紅葉。亀山公園は忍田橋に比べると若干紅葉が遅れる様子で12月初旬に盛期となるようだ。葉色の変化が大きいのもこの山の特徴
残念ながら私の散歩道の周囲でもあまり美しい紅葉を見られる場所はありませんから、この季節になると鈴鹿の山に登るか、自宅から5km程にあるモミジの名所、亀山公園や安濃川河内渓の忍田橋へと出かけて秋を楽しむことにしています。
忍田橋の紅葉。この橋の周囲と橋の手前にある長徳寺西の狭い範囲に楓の老木が多く茂り美しい紅葉を見せる。紅葉の盛期は年によって変わるが11月23日前後のことが多い。
いつ頃からモミジが植えられていたのか定かではありませんが、この辺りは古くより長野工藤氏縁の豪族雲林院氏支配の土地であり橋の下流右岸一帯の山上には雲林院城(芸濃町史に詳しい)が在ったと言われますから戦国・安土の時代より栄た地域であったようです。
忍田橋は安濃ダムより1.5km程下流の小さな橋ですが川の左岸を中心に橋の周辺には多数の楓が植えられており美しい紅葉が見られます。紅葉の妙は、初期の黄緑葉から晩期の緋色の葉迄に、枝の置かれた日射・風当たり等の環境差、枝ごとの養分補給の差などによって微妙な色彩のグラデーションが生じ、実際に目にしたものでしかわからない千変万化の美しさを持つことでしょう。
上は忍田橋上流、笹子川の紅葉。土地の湿り気が多いためか忍田橋よりも紅葉の盛期はかなり遅れる。
中世この辺りがどんな環境であったのか想像するすべもありませんが、雲林院氏支配の頃より環境の整備が行われていたとすれば、鹿の群れる照葉樹林の林間に中世・近世の風流人達が三三五五漫ろ歩きに興じて紅葉を愛でた光景を思うと心和みます。
嘗て忍田橋上流部は河内谷と呼ばれ安濃川が刻んだ美しい渓谷美を誇っていたものですが、30年ほど前に土建政治の餌食となって安濃ダムが造られてしまい、自然が数百万年かけて創り上げた豊かな世界を一瞬でぶち壊してしまいました。
忍田橋と下流の新橋 瀬野橋の間には、中世竜王桜伝説の主である竜が住んだと伝えられる門前が淵があります。残念ながら今では川の水も枯れ竜の住む程の深い淵であったとは想像することもできません。
竜が住まうと言われた門前が淵。今では深みもすっかり埋まってただの澱みになってしまった。
曾て上流が自然林で覆われ水勢豊かな渓谷が下流へと続いていた頃は竜や河童が住み着いてもおかしくないような深く透明な淵が存在していたのでしょうか。