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秋

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秋

何時しかセミの鳴き声もクマゼミからツクツクボウシに代わり、あたりに秋が感じられようになると、いち早く咲き出すのは秋の七草の一つとして古くから知られる葛の花です。夏には葉に隠れて気づかなかった蕾がいつの間にか葉の上に成長して赤紫の花を開きます。

秋の七草

万葉集八巻の秋の雑歌のなかで 

 “山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首“

1537 秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(くさ)の花 其一

1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 其二

訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html)

万葉仮名による原文は私にはわかりませんので上記サイトの訓読を引用させていただきました。

として登場する 萩 ・尾花(ススキ)・ 葛・ 撫子・ 女郎花・ 藤袴・ 朝顔(桔梗)が秋の七草と言われています。この中で萩、ススキ、葛は今でも至るところに生えていますがそれ以外の花はまず野生では見られません。

私は戦後間もない頃に、旧津市の周辺部で育ちましたが当時でも女郎花や藤袴といった草花を目にした記憶がありません。桔梗は津市北部の丘陵地でススキ野原の片隅に咲いていましたが見るのは稀でした。

当時はまだ今と比べれば遙かに自然に恵まれていたと思うのですが、その頃でさえ野生の撫子や桔梗が野に咲くのに出会えることは難しかったものです。

秋の七草と呼ばれる花々だがいま野生で出会える花は少ない。

藤袴は天平のころ香草として大陸から持ち込まれた帰化植物(花と木の文化史:後出)だそうですから野生は少なかったにせよ、女郎花なども土地の老人の話では戦前にはまだ山で見かけたが戦後にはもう見られないといいます。

これらの草花が育つ草原の環境は、人為的に草刈りの手が入るか、草食動物の採食によって維持されるものですが、茅や葛を大量に刈り取って利用する習慣をなくしてしまった今では、人の手によって適度に管理された草原は自宅周囲に存在しません。

私には七草の花咲く秋の野は遠い夢の世界の光景に思えます。千数百年前、万葉の頃奈良や明日香の都の周囲には、秋には七草の咲き乱れる草原が広がっていたのでしょうか。

10月も間近になると太陽の高度も下がり、夏には稀にしか回らなかった遠くの散歩道にも足が向くようになります。 この時期、秋を告げる最も鮮やかな花は彼岸花でしょう。

開花時期も名の通り正確に秋の彼岸過ぎ、毎年9月23日前後です。季節に忠実なのはどの花もそうなのですが、彼岸花の場合は突然土中より蕾が現れ一斉に開花するためことに目立ちます。

彼岸花は曼珠沙華とも云う。どちらも人の死と結びついた印象があって子供の頃から好きではなかった。根は有毒だし花も毒々しく感じたものだがなぜか最近は結構綺麗だと思うようになった。

花は農道や路肩に自生するものですが、彼岸花の根には毒があってモグラが忌避すると云われることから、その多くは古くから周囲の田畑の持ち主によって増やされたもののようで、最近でも水田の法面に彼岸花を移植する農家の老人を見かけることがあります。現在見られるこの花の多くはこんな理由で増やされて来たのかも知れません。

 彼岸花は野崎茂太郎の「忘れられた花」によると ゛ 死や地獄や幽霊など、不吉なイメージを持っていて、江戸時代にはシビトバナという呼び名のほうが一般的だったらしい " とのこと。時折赤い花に混じって白い花が咲くがこれもどことなく不気味だ。

八世紀前後に編まれた万葉集四千五百余首には多数の花を詠んだ歌があるといいますが(植物学者 中尾佐助の『花と木の文化史』 " 万葉集に登場する花ばな “ に詳しい。藤袴の伝来も載っている)彼岸花を詠んだと云われる歌は十一巻2480に収められた壹師花(いちしの花)のみでこの花名も本当に彼岸花を指すものか定かではありません。

現代人は殆ど気にもとめない草木についても、様々な歌に詠み上げた万葉の歌人達が、これほど鮮やかで目立つ花にたった一首しか残さなかったのはどのような理由によるものなのでしょう。

ヒガナバナの中には赤い色素が失われて白い花をつけるアルビノが現れることがあります。近年よくお目にかかるため除草剤による染色体異常が疑われるのですが、以前から存在していたので変異の原因は分かりません。

自然界の生物には僅かですがアルビノが発生する場合がある訳ですが、彼岸花の場合はその発生頻度がかなり高いのではないかと思います。

秋に入るとそれまで炎暑のために休憩していた草花が一斉に花を付けて散歩道も再び賑やかになります。休耕田や田畑の路肩には蓼科の草花が様々な花をつけます。

地味な花が多い蓼科の中でサクラタデはその名の通りとても美しい花を付ける。

カエルグサとして親しまれるミゾソバも近くで見ると可愛い花だ。よく見ると白から赤まで花色の変化がある。

秋には2m以上にも成長するイタドリも秋の終わりには一斉に白い花をつける

定期的にに草刈りを行う休耕田では秋になるとイヌタデ、ミゾソバ、サクラタデ等の美しい群落を形成します。個々の花は目立たなくとも集団で開花すると見事なものです。

自宅前の中の川北岸は西に向かって200m程が調整地となっており、その一部にツリフネソウの群生地がありました。私がこの土地に来た30数年前には真に見事なものでしたが、最近では株も激減して花を見るのも困難な状態です。

ツリフネソウはタデの仲間ではありませんが湿地に近い環境を好む一年草で花もなかなか美しいものです。しかし今日では彼らが生き延びる場所を見つけることも困難なようです。

現在、私の散歩道で秋の七草を選ぶとすればミゾソバ、チカラシバ、セイタカアワダチソウ、ノギク、ヒヨドリバナ、リンドウ、ワレモコウあたりでしょうか。

リンドウとワレモコウ以外は路傍で普通にみられる。リンドウも以前は山間の田畑の畦に沢山咲いていましたけれど最近はめっきり数を減らした。散歩の途中に出会うと嬉しくなる秋の花としてリンドウとワレモコウを選んでみた。

ワレモコウは真に秋らしい花ですが更に数が少なくなかなかお目にかかれない。二か所あった自生地はほぼ絶滅した。

セイタカアワダチソウは北アメリカらの帰化植物で私の中高校時代(1960年代)に国内でその大繁殖がマスコミを賑わせたものですが、今ではすっかり秋の風景に定着しました。

セイタカアワダチソウほどの繁殖力はありませんが、藤袴によく似た日本の在来種ヒヨドリバナなら秋には普通に見つけることが出来ます。

ヒヨドリバナは日本古来の種で現在も至るところで見ることが出来る。あるいは万葉の七草 "藤袴" にはヒヨドリバナも含めていたのかもしれない。

その昔には秋の黄花といえば女郎花やアキノキリンソウであったのかも知れませんが今ではどちらもこの辺りで見つけることは難しい草花となりセイタカアワダチソウや薬師草がそれらに代わっています。

アキノキリンソウ。山間の畦や山裾の道端に咲くキク科の多年草。この花も今ではあまり目にできない。

同じキク科のヤクシソウ(上右)は今も晩秋になると明小への散歩道の至るところで咲き乱れる。

しかしこの季節、野に咲く菊の仲間で最も馴染みのある花は草丈が低いため道端や田の畔など人目に付く場所で淡い紫の花をつける野菊でしょうか。開花直前の花や蕾は紫が濃く、開花と共に花色が薄れて白っぽくなってしまいます。

薄紫の野菊は秋の野の菊を代表する花。野菊は数種の菊科の花の総称で中でもノコンギクとヨメナは極めてよく似ている。葉の手触りや種子の状態で区別できるようだが私には判別不明

紅葉の季節

10月も半ばを過ぎると、春や夏に花を楽しませてくれた色々な草木の実が熟れ始めます。中でも山栗は9月後半には実がはじけるものから10月後半のものまで種の違いによってほぼひと月の間楽しめます。

日本の里山はみな個人の所有地ですから勝手に山に入り込んで山の実りを取ることは許されませんが、路上に落ちている栗や団栗などを拾ろう程度なら特に問題はないでしょう。

栗拾いや木通(アケビ)取りは楽しいがむやみに他人の山に入り込むのは犯罪だ。私の家の山にも栗の木が何本もあったが、拾いにゆくと何時も誰かが入り込んで取って行った後なので父が業を煮やして切り倒してしまったことがある。

山の実りは、栗やアケビのように実を味わえるものから、烏瓜や葛藤の様に目を楽しませてくれるものまで様々ですが12月末ころ迄散歩道の周囲を賑わせてくれます。

子供が小さい頃は、この時期になると散歩しながら木通(アケビ)や真葛(サネカズラ)の実を見つけるのが楽しみであったものです。真葛(サネカズラ)は日陰を好む植物で薄暗い林の葉陰にひっそりと実を結びます。しかしその真っ赤な実は冬枯れに向かう藪の中で確かな存在感があって人を引きつけます。

秋には様々な色の実が生るが、カラスウリやヒヨドリジョウゴ、サネカズラなどの赤い実が一番目立つし数も多い。

真葛(サネカズラ)と真葛(まくず)

岡野玲子の " 陰陽師 "には真葛(まくず)と呼ぶ大人とも子供ともつかぬ異能の少女が登場しますが、 この場合はサネカズラではなしに葛(クズ)の美名として使われています。もっとも彼女の不思議な魅力はサネカズラに合っている様にも思われますが。

ちなみに京都八坂神社、知恩院に接する円山公園の一帯はかって " 真葛ヶ原" と呼ばれ葛生い茂る草原であったと言われます(現在は墓地)

万葉や平安の時代には、屋根葺きに用いた茅を刈る草原が方々にあったはずですから、都を一歩外れれば狐狸や猪鹿など獣の支配する草原が至るところに広がっていた世界でもあったのでしよう。

サネカズラの実は12月末まで見られるのでXmasのリース飾りに使える。

子供たちにとって秋の楽しみの一つは団栗集めではないかと思います。私の散歩道には曾て焚き木を採った櫟、楢、樫、椎等の雑木林が残されている場所があり数種類の団栗を拾うことが出来ます。

最もよく見る粗樫の団栗。小さいけれどやたら沢山実がなる。

  小楢の団栗

櫟の団栗

青いうちに葉とともに落ちている団栗には100%虫が入っている。ゾウムシの仲間が実に産卵して枝から切り離すからだ。

団栗は木によって様々な形の実がなります。どこでも普通にみられるのは樫の団栗で一本の木にたくさん実を付けます。この辺りでは粗樫、白樫、赤樫等が見られますがどれも粒が小さくて子供にとってはあまり魅力がありません。

ですから櫟や楢など大きな実のなる木を見つけると覚えておいて次の年、実が落ちる頃に拾いに出かけるのが楽しみの一つでした。ことにマテバシイはロケットの様な細長いスタイルがいかにも格好良くて実を拾うのに遠くまで出向いたものです。

団栗はその形の特徴を利用して色んな楽しみ方があります。櫟のオカメドングリのように大きなものは楊枝を刺して簡単に独楽を作ることが出来ます。

独楽は青いうちのほうが重くてよく回る。アクセサリーの様なものを作るには十分乾いてからプラスティック系塗料で保護する。

子供の頃は様々な形の団栗を家に持ち帰り、色々加工するのが楽しみであったものですが、今の子供達にとってはそれほど魅力のある対象でもないのかも知れません。

10月に入ると鈴鹿の連山はその頂きから紅葉が始まります。山腹が色づくのは10月下旬から11月始めで11月の半ばを過ぎると平野部にも紅葉が降りてきます。

この辺りの山は戦後その多くが杉檜の単相林に変わってしまい落葉広葉樹が茂るのは国有林か私有林では日当たりの悪い北向斜面の一部くらいしか残されていないため山全体が燃えるような紅葉を目にすることは出来ません。

残念ながら私の散歩道の周囲でもあまり美しい紅葉を見られる場所はありませんから、この季節になると鈴鹿の山に登るか、自宅から5km程にあるモミジの名所、安濃川河内渓の忍田橋に出かけて秋を楽しむことにしています。

忍田橋の紅葉。この橋を右手に往くと竜王桜伝説の長徳寺がある。

忍田橋は安濃ダムより1.5km程下流の小さな橋ですが川の左岸を中心に橋の周辺には多数のモミジが植えられており美しい紅葉が見られます。

いつ頃からモミジが植えられていたのか定かではありませんが、この辺りは古くより長野工藤氏縁の豪族雲林院氏支配の土地であり橋の下流右岸一帯の山上には雲林院城(芸濃町史に詳しい)が在ったと言われます。

中世この辺りがどんな環境であったのか想像するすべもありませんが、鹿の群れる照葉樹林の林間に中世の風流人達が三三五五漫ろ歩きに興じて紅葉を愛でた光景を思うと心和みます。

忍田橋から長徳寺周辺の紅葉は例年11月20日前後が一番美しい。昔はあまり人影もなかったが、最近では紅葉を楽しむ多数の人出がある。

忍田橋左岸の上手には竜王桜の伝説で知られる長徳寺があります。この寺は雲林院氏の菩提寺として建てられた古い歴史を持ちますが境内とその一帯にはモミジの古木も多く、忍田橋の周囲と合わせて紅葉を楽しめます。

嘗て忍田橋上流部は河内谷と呼ばれ安濃川が刻んだ美しい渓谷美を誇っていたものですが、30年ほど前に土建政治の餌食となって安濃ダムが造られてしまい、自然が数百万年かけて創り上げた豊かな世界を一瞬でぶち壊してしまいました。

忍田橋と下流の新橋 瀬野橋の間には、中世竜王桜伝説の主である竜が住んだと伝えられる門前が淵があります。残念ながら今では川の水も枯れ竜の住む程の深い淵であったとは想像することもできません。

竜が住まうと言われた門前が淵。今では深みもすっかり埋まってただの澱みになってしまった。

曾て上流が自然林で覆われ水勢豊かな渓谷が下流へと続いていた頃は竜や河童が住み着いてもおかしくないような深く透明な淵が存在していたのでしょうか。

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