この時期朝露に覆われた早朝の野外は日の出と共に無数の水滴が光の玉となって美しく輝きます。それがいつしか霜に変わり、大地が銀色の氷粒に覆われる朝が訪れるようになると冬がきたことを実感します。
さすがにこの時期は多くの植物が活動をやめてしまうので目に止まる草木もわずかなものですが、それでも冬枯れの野山を散歩していると色々と興味深いものに出会います。
植物の中には、夏と秋の間に目一杯成長して種子を宿し、乾燥した冬の北風に乗せて遠くまで種子を飛ばして子孫を増やそうとすものがたくさんあります。
こうした植物は冬枯れの山野に於いて風を捉えるための独特の形をした種子をつけます。タンポポの様に綿毛を風にのせて遠くに運ばれるものや楓や松の様に独特の翼をもって空気を捉え旋回しながら周囲へと運ばれるもの迄様々です。
私の好きな草の一つにガガイモがあります。夏には白と淡い紫のビロードの様な花弁を持つ花を多数付けますが、晩秋には10cmほどの袋果をつけます。
夏から秋にかけてのカガイモ。晩秋の袋果を割ってみると中には大きな冠毛を付けた種子が入っている。
袋果の鞘は固く、木枯らしの乾いた風に吹きさらされて乾燥するとようやく鞘が割れ中から種子が現れます。中の種子は茶色く干からびた鞘からは想像もできないほど整然と鞘に収納されており、風にあおられると少しづつ鞘から離れて遠くに運ばれて行きます。
袋果の鞘を割ってみると種子が規則正しく収納されている。鞘が割れると中の種子は少しづつ風に乗って飛んでゆく。
自宅の庭に飛んできたガガイモの種子。日が当たると冠毛か美しく輝く。
自宅裏の笹薮の中にはガガイモの群生地あり毎年多数の実をつけて楽しませてくれたのですが、ここも最近はめっきり数が減ってしまいました。それでもよく晴れた冬の日に、自宅の庭の上空を青空を背景に輝きながら飛んでゆくガガイモの種子を見ることがありますから、まだまだ私の知らない場所で頑張って繁殖している様に思われます。
この近くにはもうひとつ興味深い植物があります。因幡(いなば)の白兎の昔話でよく知られるガマで、湿地帯に生え1m以上の草丈になる雑草ですが、山間に放置された水田の環境が生育に適しているようで数カ所で目にすることが出来ます。
夏から初冬にかけて茶色いガマの穂をつけるが、ガマの雄花は初夏に穂の先端につく。
穂には驚くほどの種子が詰まっている。一本分の種子(穂綿)を取り出したらあたり一面綿毛だらけに生るだろう。
穂の表面は緻密な絨毯のような質感がある。内部をつつきだしてやるとそこからおびただしい種子が現れる。
ガマの穂で驚かされるのは、そこに収められた種子の多さです。ガマの穂綿として名前はよく知られていますが実際に穂綿を取り出して飛ばせてみた経験のある人は少ないようで、見せてやると誰しもが一様に驚きます。
これだけの種子を飛ばさなければ種が維持できないと言うのは、種子の定着率がよほど低いか、生活環境がよほど特殊か、種としての競争力がよほど低いかのどれかだと思いますがどうなのでしょう。
冬の実
今は真冬でも身の回りに多くの花や園芸植物を目にすることができますが、敗戦後間もない私の子供時代には、まだ 現在のように園芸文化が花開いている時代ではありませんでしたから、冬に彩りのある植物を目にする機会は少ないものでした。
そんな時期、山道や近くの藪の小道を歩いていて偶然にも鮮やかに色づいた冬の実に出会うと、なぜか心が明るくなって嬉しい気持ちになれたものです。
彩りの少ない真冬の山野では、実をつける植物の存在は野生動物だけでなく人にとっても嬉しいものだ。
時にはそんな気持ちを味わうために、天気のいい冬の休日には、一人で近くの山に出かけて草木の実を探したりもしたものですが、そんな記憶のせいか、私は今でもこの季節、冬苺の赤い実やジャノヒゲの青い実を見つけると幸せな気分に浸ることができます。
霜の花
夜半に無数の星が瞬く冬の朝は、冷え込みが厳しく大地は霜で真っ白になります。こんな日は太陽の高度がまだ低いうちに地面をよく観察すると、春を待つ草の葉の表面に美しい霜の花が咲きます。