第71回大会

第71回東北中国学会大会

令和5年(2022年)5月28日(日) 9時30分開始

東北大学川内南キャンパス文学部第二講義室/Zoomミーティング

【午前の部/史学】

1.前漢末における皇太后の詔勅:「制」をめぐる検討

  中山大学歴史学系(珠海)特聘副研究員 平松 明日香

『独断』巻下には「少帝即位するや、后、代わりて摂政し皇太后と称す。詔には制と言わず」のように、皇太后は臨朝称制していても「制」字を用いないとある。実際に『漢書』には皇太后が丞相や御史大夫に詔勅を下す際、皇帝ならば「制」字を使う場面であっても「詔」を用いている例が、臨朝称制の有無を問わず複数確認できる。しかし一方で、『後漢書』和帝紀には皇太后が「制曰可」した可能性が高い事例もある。さらに、史書の編纂の際に、本来「制」字を用いていたのが省略され、「詔」と改められた可能性も考えなくてはならない。「皇太后は「制」字を用いることができない」とする『独断』の記述は正しいのだろうか。この問題については下倉渉氏が2003年に懸泉置遺址出土「四時月令詔條」を用いて言及しているが、当時の史料のみでは簡牘の欠字などの問題がある。幸い、2005年に公開されたエチナ漢簡に、関連する史料があることから、これらを用いて『漢書』と簡牘の二重証拠法から『独断』の記述について再度検討を加えたい。

さらに、『漢書』巻三高后紀顔師古注には「天子の言、一に曰わく制書、二に曰わく詔書。制書なる者は、制度を為すの命を謂い、皇后の称するを得る所に非ず。今、呂太后、臨朝し天子の事を行い、万機を断決し、故に制詔と称す」とある。皇太后は臨朝称制してはじめて「制書」を発布することができたとするが、宛先と内容から制書に類すると判断できる皇太后による詔勅は、成帝期から哀帝期にかけての皇帝親政期に複数例確認できる。制書が必ずしも制度の命に限らないことは、多く指摘されており、漢代皇帝の命令文書については近年豊富な研究成果がある。

以上、皇太后の発布する命令内容と宛先の考察を通じて、顔師古による「称制」の定義を再検討し、臨朝称制の語義を探る手掛かりにしたい。


2.遼代遺文考―『焚椒録』偽書説の検討―  

  東洋大学アジア文化研究所・人間科学総合研究所客員研究員 工藤 寿晴

明代北京皇城内の瓊華島に存在した広寒殿は、万暦年間には「遼蕭后」所縁の古蹟として人口に膾炙していたという。ただし、「遼蕭后」が具体的に誰であるかは不明であった。その「遼蕭后」について、朱彝尊(一六二九〜一七〇九)は遼(契丹国)第八代皇帝道宗(一〇三二〜一一〇一)の皇后である宣懿皇后蕭氏(一〇四〇〜一〇七五)と示唆した。これにより彼女所縁の古蹟という理解が生じることになるが、朱彝尊の示唆の背景には希少な遼代文献の一つとされる『焚椒録』の存在が読み取れる。

『焚椒録』は江戸時代に曲亭馬琴(一七六七〜一八四八)により自身初の読本である『高尾船字文』に種本の一つとして用いられ、中国では演劇化もされたことがあるが、当時も今も一般には知られていない書物と言ってよい。本書は『遼史』文学伝に立伝される科挙官僚の王鼎(?〜一一〇六)が著したとされ、大康元年(一〇七五)に宣懿皇后蕭氏が伶官趙惟一との密通を誣告され、賜死するに至った事件の顛末が描かれている。本書の資料価値については中国では概ね肯定的に評価されてきており、本邦でも愛宕松男氏が事件を簡潔な記述に留める『遼史』と比較し、はるかに詳細に記す本書の価値を高く評価した。しかし一方では、『宝顔堂秘笈』や『津逮秘書』等の一七世紀初頭から中期にかけて刊行された叢書に収録されて以降知られるようになった経緯もあってか、『焚椒録』は偽書であるとの疑いが根強く指摘されている。近年中国ではその点が注目され是非が論じられているが、本邦では偽書の疑いについてはほぼ等閑視されており、また愛宕氏以降は新たな分析も行われていない。

以上を踏まえ、本報告では北京の「遼蕭后」伝承に影響を与えた『焚椒録』を改めて評価すべく偽書説について分析を行い、そのうえで偽書か否かについて考察を行う。


3.宋代における泗州大聖信仰の展開

  大阪公立大学大学院 張 麗麗

本報告では、宋代泗州大聖信仰の展開について考察する。泗州大聖とは、唐の龍朔年間(661〜663年)に西域から渡来した僧伽 (628〜710年)のことである。彼は生前、長安と江淮地域を遊化し、病気を癒し、命を救い、またしばしば神異を現したことで、唐中宗を含めた王室から一般の人々にまで崇拝された。死後、泗州(現在の江蘇省盱眙県)の普照王寺で祀られ、観音の化身として信仰されてゆく。後世においては、都市保護神、水神、恋愛の神など、民間信仰的な神格を有するようになる。かつて、泗州大聖信仰に関する研究は主に唐代に焦点を当てられ、使用される史料は、人物伝や敦煌文書など仏教史料であった。宋代以降の研究において、まだ未解明なところは多い。報告者は、交通、人口などの要素とともに地域社会の構造を重んじる民間信仰研究の視角を参考にして、宋代泗州大聖信仰の変遷を再検討する。利用する史料は地方志、筆記史料、および関連する寺院の「記」文である。具体的には、まず、祭祀を行う寺院(164箇所)に関する計量分析と空間分析を通じて信仰の空間的展開の概要と広がりの傾向性について考察する。次に、「記」文の記録と筆記資料を通じて、信仰の形態、功能、担い手を特定し、異なる地域において信仰の実像が変容することを明らかにする。以上の検討によって、宋代泗州大聖信仰の特質を提示する。


4.「境界人」と嘉靖大倭寇―舟山群島を中心として―

  東北大学大学院 李 若晨

Marginal man(境界人)とは、1928年にアメリカの社会学者R.E.Parkに初めて提出された概念であり、二種類の文化の影響を受ける人がどのように自らのアイデンティティを構築するかに焦点を当て研究するものである。1993年に村井章介氏は「倭寇の本質は、国籍や民族を超えたレベルでの人間集団である」と指摘し、更に「これは二つの中心のどちらにとっても辺境である場所、つまり境界に生きる人間」であるとして、倭寇研究に「境界人」の概念を導入した。これに対して、宋鐘昊氏と劉暁東氏は反対意見を提出している。

報告者は、これらの議論は、「境界人」が活動できる前提たる「境界」に対する研究不足に起因すると考える。「境界」の実質は「どの国家の支配も及ばないところ」である。即ち「倭寇は境界人」であるのかという問題を究明するためには、16世紀に王直らに率いられて明朝沿海を劫略した嘉靖大倭寇の発火点と見なされる舟山群島の境界としての性格を検討せねばならない。

明朝創設以前、舟山群島は元朝と方国珍に間接的に支配され、境界の性格を帯び、明朝に入ってからも蘭秀山の乱が起こった。そのため、明朝は洪武四年から数回の海禁と遷島令を実施し、昌国衛を舟山群島から象山に移し、舟山群島を無人島にするという対策を打ち出した。しかし、明朝中葉から、衛所から兵士の逃亡や沿岸地域を担当する官員の収賄等による綱紀の緩みもあって、舟山群島では密貿易が盛んになり、明朝人・日本人・ポルトガル人による大きな集住地も現れ、「三尺童子、亦知双嶼之為衣食父母(三尺の子供も双嶼を自分の両親と見なす)」という状況に至った。

本報告は、舟山群島が「境界」としての性格を有していたことを明らかにし、また明朝の海禁と遷島令が逆に明朝中葉における境界人の活躍を進めたことを明らかにするものである。


5 .明代の省祭官について

  別府大学文学部 宮崎 聖明

本発表は、明代における「省祭官(せいさいかん)」をめぐる制度を整理・検討するとともに、省祭官身分獲得者の活動や社会秩序における位置づけについて考察することを目的とする。

明代の胥吏には正規・非正規の別があり、正規の資格を与えられた胥吏は吏員と呼ばれ、一定の任期を終えた後に官員身分を獲得し下級官職に任官することが認められた。しかし、明代中期以降に吏員となる者が増加すると、吏員の任期を終えた者がすぐには任官できないという状況が生じたため、彼らは任官までの期間を郷里で待機することとされた。この期間を「省祭」といい、この状態にある者を省祭官という。本発表では、吏員の任期を終えた後、省祭を経て任官に至る吏員人事制度の詳細を整理するとともに、その運用実態を検討することを第一の目的とする。

省祭官は郷里に帰って親に仕え祖先祭祀を行いつつ任官を待つという建て前であったが、実際には必ずしもその通りとは限らなかった。官員の跟随として文書作成に携わる者から、任官の機会が訪れたにもかかわらず応じない者、郷里を離れて商業活動に従事する者など、さまざまなあり方が見られた。省祭官身分獲得者のあり方をめぐる事例を取りあげ、彼らの活動について検討することが本発表の第二の目的である。

省祭官は、実際の官職には就いていないものの、税役上の減免が認められるといった特権を有していた。また、郷里の社会秩序において有官者や監生・生員に次ぐ地位を占める者として扱われる局面もあった。彼らを輩出する階層がどのようなものであったかも含め、省祭官の社会秩序における位置づけを探ることが本発表の第三の目的である。

以上の検討を通じて、吏員・省祭官のあり方と明代中後期社会との関係について考察を試みたい。

 

【午後の部/哲学・文学】

1.『韓詩外伝』における『荀子』の利用―引用詩句に着目して―

  東北大学大学院 岡本 光平

『韓詩外伝』は前漢の韓嬰によって著されたとされる書物で、現行のものは十巻から成る。その体裁は、まず先秦諸子などの古書に見られる説話や格言などを援用し、末尾に『詩経』の詩句を附すという形態を採る。『荀子』にも同じように末尾に詩句を附した文章が多く、また『韓詩外伝』が『荀子』の文章を頻繁に援用しているため、古くから『韓詩外伝』は『荀子』の影響を強く受けているとされてきた。

しかし、豊嶋睦「韓詩外伝に見える思想の源流」(『池田末利博士古稀記念東洋学論集』、1980年)が指摘しているように、『韓詩外伝』が『荀子』を援用していると思しき文章のうち、『詩経』の詩句が附されたものを比較すると、その詩句が一致する例は少ない。『韓詩外伝』が『荀子』以外の著作を援用する場合には、一貫して詩句まで一致していることに鑑みれば、『荀子』の文章を援用しながら、詩句のみを変更するという行為には、『韓詩外伝』著者の何らかの意図が表れていると考えられる。

そこで、本発表では『韓詩外伝』が『荀子』を援用した文章のうち、引詩が異なっている章を対象として元の『荀子』の文章と比較し、『韓詩外伝』が異なる詩句を附した理由について検討する。無論、『韓詩外伝』が著されたとされる前漢初期の『荀子』が、現行の『荀子』と同じものであるとは限らないが、今回の発表では先行研究の手法を踏襲し、『韓詩外伝』が現行と同じ『荀子』を参照したという立場を取ることとする。

『韓詩外伝』が『荀子』で附されている詩句を変更する理由は、①逸詩であるため、②思想の相違、③着目点の相違という三種類に分類できる。本発表では、それぞれの例についての分析を通して、『韓詩外伝』が先行する著作をただ踏襲していたわけではないことを明らかにする。また、その文章や引詩の変更に着目することで、『韓詩外伝』がどのような要素を重視し、どのような要素を軽視したのかを考究したい。


2.劉炫『論語述議』小攷―兼ねて『論語』鄭玄注の盛衰を論じる―

  弘前大学人文社会科学部 王孫 涵之

『論語述議』は隋の劉炫が著した『論語』の義疏である。劉炫は、『五経正義』の形成に大きな影響を与えたことから、義疏学史や隋唐経学史にとって重要であるが、『孝経述議』以外の劉炫疏は現存しておらず、その学問の全体像は謎に包まれている。このうち、『論語述議』は早くに亡佚したが、野間文史氏の先行研究は『五経正義』との比較によって邢昺『論語正義』に編纂資料として用いられていると指摘した。これに対して、古勝隆一氏等が邢昺疏の注釈上の問題から反論を提起してきたが、『論語述議』の佚文といった文献証拠に欠けていたため、いまだ定論に至っていない。

発表者は、従来注目されてこなかった唐の智周『法華経玄賛摂釈』(『摂釈』)に『論語述議』の佚文を発見した。それによれば、『述議』が依拠する『論語』注は鄭玄注であり、その注釈の内容もまた何晏『集解』に依拠する邢昺疏と大きく異なる。一箇所の佚文に過ぎないが、劉炫ないし隋唐期の『論語』学を考察する重要な手がかりである。

本発表では、まず智周『摂釈』の引用文を分析・整理し、『論語述議』に関する基本問題を考察する。そして、敦煌やトルファンで出土した「孔氏本」鄭玄注を糸口として、何晏『集解』でなく『論語』鄭玄注を選んだ劉炫の理由、およびその学問との関係を論じる。最後に、『論語』注の利用をめぐる智周の『摂釈』とその弟子である崇俊の『法華経玄賛決択記』との相違から、『論語』鄭玄注が衰亡した時期とその理由を試論する。


3.追憶の文学―温庭筠の友を想う詩―

  東北大学大学院 鈴木 政光

晩唐の温庭筠(八〇一頃~八六六)には、「李羽処士」という友人をめぐる八首の近体詩が残っている。この「李羽処士」は、『旧唐書』『新唐書』などの史書や『全唐文』、呉汝煜主編『唐五代人交往詩索引』のいずれにも記載がなく、温庭筠の作によってのみ今日名が知られる。八首のうち三首(七律)は生前に贈られた作、一首(七律)は訃報に接しての作、残る四首(七律一首・五律二首・七絶一首)は、亡き李羽の面影を偲んで詠まれた作である。これらの詩は全て、温庭筠の鄠杜の郊居に近い李羽の居所で作られており、没後の作には、居所の景物から生前の追憶の断片を引き出し現在の情景と重ね合わせて詠じる、という特徴がみられる。本発表は、「李羽処士」をめぐる作八首、特に没後の五首を精読することを通じて、温庭筠の詩法について新たな視点を提示し、その詞法との共通性に説き及ぶことを目的とする。

「李羽処士」をめぐる詩について、劉学鍇氏の『温庭筠伝論』「第六章第二節 閑居鄠郊的詩歌創作」及び『温庭筠全集校注』『唐詩選注評鑑』における該詩の項に記述があるほかは、日本はもとより中国にも先行研究は見られない。他方、詩人の追憶を詠じる詩に関しては、同時代の杜牧(八〇三~八五二)は「遣懐」「念昔遊」など七絶の「追憶の詩において、とくにすぐれたものがある」(鈴木修次『唐代詩人論』)が、李商隠(八一二~八五八)には「全般的に見て、自身の過去への追懐的態度というのが、全く希薄であ」(松岡秀明「晩唐詩の「夢」――李商隠と杜牧の一側面――」)る、という先行研究の指摘がある。本発表では「追憶がいかにして詩となりうるか」という問題意識から、追憶に詩的表現を与える際に用いる手法について、杜牧近体詩との比較も行う。「追憶」を通じて、先行研究に乏しい温庭筠近体詩の読みを深化させると同時に、共通点を指摘されることの多い杜牧との違いをクリアにすることを目指したい。


4.羅近渓における孝悌慈に基づく格物説について

  東北大学大学院 潘 虹智

本発表は、羅汝芳(号近渓、1515-1588)の格物説について、特に彼の思想の核心と見做される「孝弟慈」と「格物」との関係を手がかりに考察し、『大学』理解を中心として彼の思想の全体像を解明する。

羅汝芳の生涯と彼の格物説の特色については、いくつかの先行研究がある。荒木見悟氏『明代思想研究』「羅近溪の思想」は、近渓は陽明の良知説に不満を示し、新しい良知現成論を確立したと論じる。荒木氏は、近渓は「赤子の心」の純粋形相である「孝弟慈」を政治倫理の根拠とし、『大学』の「身」「家」「国」「天下」を同じ倫理の原則で一貫させたことを指摘し、さらにそのことの利弊を分析した。次に、呉震氏の『羅汝芳評伝』は、近渓は『周易』の「生生」を学ぶことによって、「格物」理解を深めたと言う。『大学』の「孝」「弟」「慈」は、「生生」の実現であるのみならず、『中庸』の「天命の性」でもある。また『大学』の「格物」の目的は「至善」を規範とする(格)ことであるが、「孝弟慈」の理解によってはじめて天賦の性善を理解し、「至善」に到達することが出来る。このように近渓の「孝弟慈」は『大学』『中庸』を通貫するのである。

以上の研究は近渓の格物説の思想構造を論じるが、『大学』本文と近渓の言説との関係をあまり具体的に検討しない。それに対し、荒木龍太郎氏は「万暦期思潮における羅近渓の「本末格物説」の位置-現成良知の諸相の観点から-」において、『大学』本文との関連に即して近渓の『大学』理解を分析し、彼の「本末格物説」は「先後」「本末」の順序を経て実現される新たな現成良知を提示した、という結論を得ている。

本報告は前述の先行研究を整理し、改めて近渓が「格物」を重視した理由を解明する。考察にあたっては、特に彼の『大学』一書への理解とその論理構造に留意し、彼の格物説の特色を明らかにしたい。


5.『黄帝内経』諸注釈における医徳

   東北大学学術資源研究公開センター史料館協力研究員 浦山 きか

『黄帝内経』(以下『内経』と略す)は、中国の伝統的な医学を伝える基本的な書である。『漢書』藝文志に「『黄帝内経』十八巻」とあり、『素問』と『霊枢』両書を指すと考えられ、その解釈史が中国伝統医学史の主要な面を作っていると言っても過言ではない。

『内経』は、当然のことながら、伝統的な医学理論や医療技術を含む医学的な内容を記している。またその一方で、治療者が患者に接し社会と関わる際に発生する、職業的な倫理観や心得を記してもいる。たとえば、『霊枢』根結第五では患者の身分によって治療を変えるべきことに触れ、『素問』疏五過論篇第七十七では患者の経済状態や社会的身分とそれらの変化を把握しておくことの重要性を説いているのが、その例である。

そうした医療者の倫理観や心得を、仮に呉瑭(1736~1820)の言葉を用いて「医徳」と呼ぶことにする。

本発表では、「医徳」の内容をとらえるために、具体的には「聖人」と「工」という二つの役割を考慮し、「道」「従容」という概念を明らかにすることを中心として進める。『霊枢』逆順肥痩第三十八において、「聖人」は「天・地・人」を総合し、法則化して後世に残すことを事とし、「工人・匠人」はその規矩を正しく踏み行う者と考えられている。また、『素問』示従容論篇第七十六や徴四失論篇第七十八などにおいて、「聖人」は明堂にあって「従容」として「道」を行うものとされている。これら『内経』原文を踏まえて歴代の注釈をたどり、「聖人」「工」のありかた、「道」「従容」の概念を明らかにし、より広い「医徳」の概念とその変遷を明らかにしようと試みる。

中国伝統医学にとって最も基本的な医書である『内経』とその注釈を対象に、「医徳」の詳細と変遷を明らかにすることは、中国伝統医学と思想をより実態に近い位置でとらえるための、新たな視点を提供し得ると考える。

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第72回大会

第72回東北中国学会大会

令和6年(2024年)5月25日(土) 10時20分開始

福島大学金谷川キャンパスM棟22教室

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【午後の部/哲学・文学】

1. 紀行文学前史としての劉向「九歎」——屈原「九章」と劉歆「遂初賦」を繋ぐもの——

   東北大学大学院 榊原慎二

劉歆(前53?~後23)「遂初賦」は、作者自身の旅の経験を述べる「紀行賦」の最も早い作例として評価される。序文や『漢書』本伝の記述によれば、該賦の内容は劉歆が哀帝の建平年間(前6~前3)に、五原郡太守として任地に赴いた際の旅に基づいていると考えられる。作者自身の旅という題材が明確に意識された賦は「遂初賦」を以て嚆矢とし、以後『文選』所収の班彪(3~54)「北征賦」など類似の作品が陸続と生み出されていくが、その萌芽は戦国時代の屈原の作として伝わる屈原賦にある。たとえば丁涵「論中国紀行文学的発生与確立:以劉歆〈遂初賦〉為中心」(『中正漢学研究』30、2017年第2期)が清から民国期の学者による指摘を紹介しつつ述べているように、屈原賦の一つである「九章」には都を追われた人物の失意の旅を語る例が確認できるが、紀行賦の表現はこうした作品の様式に則っている。しかし「九章」を踏襲した作品の制作は前漢時代を通して続けられており、むしろこれが屈原賦と同じく「賢人失志の賦」に分類されることもある紀行賦の出現に対し、より直接的な影響力を持っていた可能性が高い。報告者は紀行賦の表現が確立する過程を説明するにあたり、劉歆の父・劉向(前77~前6)の作とされる「九歎」が「九章」の表現を受容していることに着目すべきと考える。

南宋の朱熹(1130~1200)『楚辞集注』以来、「九歎」の楚辞注釈史・研究史上における評価は決して高くない。行旅という題材の展開について論じた近年の研究においても「九歎」が注目されることはなかった。しかし時代的に「九章」と紀行賦との中間に位置する「九歎」は旅の情景描写を多く含んでおり、「九章」の表現を踏襲しつつ発展させた例として重視すべき作例である。本報告では屈原の旅を「九章」以上に詳細に語り直した「九歎」の手法が、作者自身の経験を述べる紀行賦の発生に寄与したという点で大きな意義を有していたことを示したい。


2. 隋唐『詩経』学研究序説

   東北大学文学研究科専門研究員 高崎駿士

歴代『詩経』学に関する著作の数は、隋唐期が際立って少ない。劉毓慶氏の『歴代詩経著述考(先秦―元代)』(中華書局、二〇〇二)の蒐集整理によれば、佚書を含めて、先秦両漢は五四種、三国晋南北朝は百十一種、隋唐五代は二十五種、宋は三百四種、元は七十七種の関連著作が数えられる。隋唐の著作の数は続く宋と比べれば、一割にも満たず、隋唐『詩経』学の停滞のさまがうかがえる。

また、『四庫全書総目提要』の「毛詩正義」の項には、歴代『詩経』学を概括するなかで、「(『毛詩正義』は)数多の言説によくよく通じ、古説を網羅しており、唐代を通じて、異説を唱える者はいなかった(能融貫群言、包羅古義、終唐之世、人無異詞)」と、『毛詩正義』以降の異説の減少に言及している。先行研究では、こうした言説を受け、隋唐期の経学が停滞した一因を、『五経正義』の編纂・頒布に関連付け、経義の統一が、かえって経義に対する自由な議論を制限した、とみなす場合が多い。

たしかに、『毛詩正義』が後世に与えた影響は大きい。しかしながら、隋唐『詩経』学の実態を捉えるためには、『毛詩正義』以外の『詩経』学関連著作や詩文創作に関する言説なども看過できない。近年の先行研究では、隋・唐初における北学と南学の合流、科挙制度の整備に伴う詩作への関心の高まりと『詩経』学からの影響、『毛詩正義』への反発や問題提起、『詩』学関連著作の亡失の原因など、隋唐『詩経』学の展開に関して、多角的な観点から実証・分析が進められている。

本報告では、先行研究に拠って隋唐『詩経』学の展開を概観しつつ、とりわけ、詩文創作における『詩経』学の影響に関する言説を検証することを通して、隋唐『詩経』学の実態を明らかにするための視座について考察する。


3. 唐・道宣の仏教史学と感通

   東北大学 齋藤智寛

唐・道宣(五九六―六六七)は、感通に強い関心を寄せた僧侶である。彼は最晩年に『集神州三宝感通録』『律相感通伝』など感通を主題とした作品を編纂するが、それに先立つ貞観十九年(六四五)五十歳の撰に『続高僧伝』感通篇がある。『続高僧伝』の構成は梁・慧皎『高僧伝』の十科を継承しているが、道宣は『高僧伝』の神異篇を感通篇に改題しており、ここには道宣独自の見解が盛り込まれているものと見なければならない。この『続高僧伝』感通篇を考察する際、湯用彤『隋唐仏教史稿』のように感応伝の編纂は隋唐仏教の風気であるという大きな角度から捉えることも出来そうであるし(ただし湯氏は『続高僧伝』感通篇を具体例に挙げてはいない)、山崎宏『隋唐仏教史の研究』第九章「唐の西明寺道宣と感通」(法蔵館、一九六七)のように道宣の生涯を一貫する思想として論ずることも出来ようが、もう少し議論の範囲をしぼった綿密な考察が必要であると思われる。

そこで本発表では、まず『続高僧伝』に密着した考察として、感通篇末尾でその編纂意図を述べた「論」の内容を検討し、次に隋・初唐の仏教および儒教における感通や感応をめぐる議論の中に道宣の主張を位置づける。発表者の考察によれば、『続高僧伝』感通篇「論」の特徴は、感通と因果応報との間に玄妙な関係を認め、さらには儒家の「命」と仏教の「業」との会通を試みることにある。その目的は、仏教を保護した王朝がかえって短命であったという観点からの排仏論に応え、感通と応報の不思議を人智で推し量ってはならないことを主張することであろう。さらに天台智顗や、李師政「内徳論」(道宣『広弘明集』辨惑篇所収)、『周易正義』などを繙けば、道宣の思索が、同時期の儒仏二教に広く見られる感応や因果説への反省・再整理の動向に呼応するものであることが知られるのである。


4. 近世以降の発病占に見える鬼神観と時空観

   金沢学院大学 佐々木聡

「発病占」とは、病を発症した日時により、病因となる鬼神やその後の病状、対処方法などを判断する占術である。その祖型は古くは睡虎地秦簡「日書」病篇に見えており、その後も発病の日時に基づいて占うというフレームを維持しつつ、二千年以上にわたって受け継がれてきた。伝本により占辞も多様であり、その時代・地域の通俗信仰、辟邪儀礼、民間医療、時空観念などを色濃く反映するものもある。

 しかし従来の発病占研究は、古代の出土資料や中世の敦煌文献に集中しており、今回扱う近世以降の発病占は、報告者や陳于柱氏など、ごく一部の研究者にしか注目されてこなかった。報告者は二〇一七年頃から明清の伝世文献に見える発病占資料を整理すると同時に、中国の古書市場に出品される清末~民国期の発病占書原本の収集を進めてきた。

 報告者の研究に拠れば、明代以降の発病占は、三十日病占と六十日病占が主流となる。前者は発症日を暦月三十日に分けて占い、後者は日付に付された六十干支により占うが、そこに見える鬼神観は大きく異なる。前者は祖先や土地神、白虎など様々な鬼神が祟や病をもたらすのに対して、後者では「甲子日病鬼姓孫」などのように甲子から癸亥までの六十日それぞれに病をもたらす固有の鬼神がいることを説く。こうした発病占における二つの異なる鬼神観は、いずれも古代以来の伝統的な病因論に基づくものである。

 報告者はこれまで三十日病占と六十日病占を個別に検討することで、近世以降の発病占の分析を進めてきた。しかしながら、実は収集・整理を進めてゆく中で、両者の特徴を具有する占辞や、干支日の鬼神が雑多な鬼神に干渉する占辞など、必ずしも割り切れない事例があることが分かってきた。そこで本報告では、こうした占辞の鬼神観を検討し、時空観との結びつきも含めて考察を加えてみたい。

 

【午後の部/史学】

1. 後漢の監軍―君主と将帥の関係性に注目して―

   東京大学特任研究員(日本学術振興会特別研究員-PD) 青木竜一

従来、後漢時代における皇帝権力の強化の根拠の一つとして、監軍制度に基づく皇帝権力による軍の把握ということが挙げられてきた。監軍の存在は春秋時代からすでに史書中に見られるが、それが制度として確立したのは両漢交替期から後漢にかけての時期であるとされる。そして先学の多くは、将帥およびその指揮下の軍隊が君主に逆らわずにその使命を正確に実行するようにと、その統制のために監軍が派遣されたものとし、後漢における監軍制度の整備を、君主権力や国家権力の強固さを裏付けるものとして考える。

しかし、発表者の従来の研究に基づけば、後漢の国制では、軍は「敵国」、すなわち皇帝の治める国と対等な関係にある存在であるとされ、それを主宰する将帥は「不臣」、すなわち皇帝の臣下ならざる存在であるとされていた。要するに、軍とは皇帝権力の埒外の存在として一種の治外法権的な場とされ、皇帝が軍に干渉するのは礼に反する行為とされていたのである。もし多くの先学の理解の通り、如上の性格を有する監軍が後漢に存在するのであれば、このような国制や礼認識と齟齬を来すことになってしまう。

ただ、他方で、そのような多くの先学の認識とは異なり、春秋時代以来の監軍とは軍の主宰者である将帥を上から監視するような存在ではなく、むしろその将帥を補佐する存在であったとする先行研究もある。すなわち、将帥以下の軍全体を監視・監督する存在なのではなく、軍を主宰する将帥の下において、その補佐役として中下級の将帥や兵卒等を監督・統率するのを補助する存在であるというのである。果たしていずれの認識が正しいのか。そして、一体、監軍とはどのような性格の存在であったのか。本発表では、後漢の光武帝期から霊帝期の軍制改革以前までの時期を中心に、特に君主と将帥の関係に注目してそのことについて明確にし、如上の後漢の国制との関係について究明することを図る。


2. 両晋劉宋の諸侯王国における君臣関係

  ―『太平御覧』所引「尚書逸令」佚文の分析を中心として―

   東北大学大学院 小林孝洋

両晋南朝時代の宗室諸王および五等諸侯(以下、封君)の封国には、封国の官(以下、国官)が置かれた。越智重明氏が指摘するように、封国には皇帝が任命した内史・相・県令長、および封君自ら任命した郎中令以下の官が置かれ、封君と国官との間には君臣関係が形成されたが、皇帝の命官たる内史以下の官も封君に対して称臣し、皇帝に対しては陪臣と称するとされ、劉宋孝武帝の時にこの内史・相・県令長による封君への称臣は廃止された。

ところで、漢から六朝末期までの時期には、皇帝と臣民との間の君臣関係以外に、官府の長官と属吏との間にも君臣関係が存在し、当該時期の国家はこうした二重の君臣関係によって運営されたと言われる。以上に関連して徐冲氏は、西晋期の諸侯王と国官との間には、前述の二つの君臣関係のうちの後者が存在したことを示唆する。以上を踏まえ、本報告では、皇帝―封君―国官という三者間の君臣関係から、両晋南朝期における諸侯王や封国という存在の位置づけを検討したい。

先行研究では、上述の封君と皇帝の任命にかかる国官との君臣関係を示す史料の一つとして、『全晋文』巻一一五所収、東晋の張闓「列侯不臣藩国表」が用いられてきた。これは晋陵内史張闓が封君への拝礼について行った上表であるが、当該史料は『太平御覧』巻五四二所引「尚書逸令」佚文から集録されたものである可能性が高い。「尚書逸令」については不明な点が多いが、ここには「列侯不臣藩国表」には見えない前段が存在する。この前段は東晋成帝期に起こった皇帝による臣下への拝礼問題をめぐる、時の皇太后庾氏と尚書令卞壼との議論から成る。

本報告は「尚書逸令」佚文を用いて、従来「列侯不臣藩国表」とされてきた史料を前段を含めて分析し、二つの議論の関係を検討したうえで、両晋劉宋の封国における君臣関係の具体像を提示し、さらに当該時代における封国の位置づけについて考察するものである。


3. 宋孝武帝期の明堂と封禅

   東北大学大学院 周 玥珊

南朝宋の孝武帝(在位453-464)は、五輅制度を歴史上初めて制度化するとともに、中断されていた明堂の改建を行い、また使者を派遣して南嶽の霍山が祀るなど、一連の礼制改革が実施したことで知られる。報告者は、すでに「南朝宋の車服改革」(『集刊東洋学』第130号、2024年)において、孝武帝による五輅制度と『周禮』の中の五輅の性質上の相違を考察し、彼による「五輅」の制度化とは、先行研究にいうところの建康中心の天下観を強調するためではなく、自らの独尊として地位を強調する目的を本質とすることを論じた。本報告は、この孝武帝による礼制改革について、さらに以下の二点から考察するものである。

まず一つ目は、孝武帝期にできた明堂制度は、経典に記載された明堂とは明らかに異なり、独創的である。経典に記載された明堂は五室か、または九室の建物であったが、孝武帝は一室の明堂を創建した。この背景にある西晋の儒者裴頠の思想との関係を明らかにしつつ、孝武帝による明堂建造の理由を改めて明らかにする。

二つ目に、孝武帝は、泰山封禅に対して、大明元年と四年の二度にわたって断っている。先行研究は、この孝武帝による二度の判断の間には大きな理由の相違があることに十分注意を払っていない。そこで、前代の封禅の伝統と当時の政治的背景に基づいて、その理由の変化について考察を行う。

そして、以上の二点を踏まえて、孝武帝期における礼制改革の実像と本質に更に踏み込み、新たな視点から南朝宋の皇帝像を考究するものである。


4. 宋代の瘟神信仰―『夷堅志』を手掛かりとしてー

   大阪公立大学大学院 梁 躍雲

瘟神とは瘟疫をもたらす神であると言われている。その源は漢代から現れた疫鬼に始まり、魏晋南北時代から隋唐時代までに五瘟鬼に発展した。そして、その神格化が進み、宋代になってはじめて瘟神が人々に祀られるようになった。宋代以前においては瘟疫を生み出す鬼として認識されていたものが、宋代になると、瘟疫から人々を保護する神として認められはじめ、瘟神は鬼(疫鬼・瘟鬼・五瘟鬼)と神(五瘟神・瘟神)を混然一体とする存在として宋代の人々に信仰されていく。

これまでの瘟神信仰に関する研究は民俗学的・人類学的なものが多く、主に明清時代と近現代の瘟神王爺信仰に集中し、その起源、伝説、伝播、道教の「送瘟」儀式に焦点が当てられ、資料は地方志、フィールドワークの調査資料、道教経典などが利用されてきた。一方で、その起源となる宋代における歴史学的な考察を含む研究が未だ不十分である。また、宋代の瘟神信仰に関する研究では洪邁の書いた志怪小説である『夷堅志』を主たる史料として分析が進められた。その理由として、瘟神は宋代になって初めて神格化が進み、鬼と神の境界線が曖昧であるため、正史・実録などの官撰史料に記載されず、『夷堅志』などの筆記に散見しているからである。しかし、これまでの研究は瘟神に関わる個別故事だけに注目し、瘟神の特質を見出すまでには至っていない。

本報告では従来の研究を踏まえ、『夷堅志』を主たる史料として分析を行うが、空間分布を重んじる災害史と、経済・交通などを重視する民間信仰の研究視角を参考にしながら、瘟疫と瘟神の関係を検討するとともに、従来の研究では注目されなかった『夷堅志』における126件の瘟疫故事を利用し、数量分析と空間分析を試みるものである。報告者は主に(1)瘟神の特徴、(2)信仰の主体、(3)伝播ルートと伝播区域の点から宋代における瘟神の実態解明を試みる。


5. 清代における地方旗人社会の考察―『黒竜江将軍衙門檔案』を中心としてー

   東北大学大学院 関 健

清朝の政治と軍事の中核である八旗については、これまで多くの先行研究が積み重ねられてきた。特に北京に広がった旗人社会とその構成員たる旗人については、旗人エリート層の自己意識の実態を始め、法律上の地位といったものから、旗人と民(漢民族)との往来、それによる旗人の漢化の実相など多岐にわたる。一方で、関外の旗人社会と旗人についての実態解明は十分に進んでおらず、結果として北京の旗人及びその社会とどのような相違があったのかといった根本的な問題についても、多くの解明すべき課題を残す。

本報告は上述の問題を『黑龍江将軍衙門档案』という地方档案を用いて考察するものである。本報告に用いた『黑龍江将軍衙門档案』は中国第一歴史档案館所蔵のマイクロフィルムであり、康熙二十三年(一六八四年)から乾隆五十年(一七八五年)までの公文書が含まれている。このような長期間にわたる一連の公文書を利用することによって、八旗社会や制度の変化を包括的に理解することが可能となる。

本報告では、この『黑龍江将軍衙門』の中、特に司法に関する档案に注目し、黑龍江地域での旗人社会の判決を分析することで、「情理法」と呼ばれる中国内地の法の原則が八旗社会で適用されているかどうかを論じる。これによって、「清朝」の法制度の全体像に迫ると同時に、中国の法制度の伝統が「清朝」の法制度に与えた影響を窺見できるだろう。また、広大な領土を統治する清朝による地方統治の一側面や、その官僚制度についての考察を深めることにも寄与するものである。

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第73回大会

第73回東北中国学会大会

令和7年(2025年)5月24日(土) 13時開始

山形大学小白川キャンパス基盤教育2号館221教室

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【研究発表】

1. 『列女伝』における『詩』の引用

   東北大学大学院 岡本光平

『列女伝』は、前漢末の劉向によって著された書物であり、舜の時代から漢初に至るまでの女性たちの物語を集成したものである。各小篇の構成を確認すると、女性の伝記が描かれた後、殆どの場合で君子による評価と詩句の引用とが行われ、さらに頌によって物語が総括されている。女性の伝記には劉向の創作とされるものも含まれるが、その多くは経書や史書、諸子に記された物語を援用したものである。

『列女伝』ではこれらの物語を取り入れる際、その内容を書き換えることで叙述が冗長化する傾向が見られる。その結果として、物語における重要な要素が増え、読者にとってどの点に着目すべきかが不明瞭になる可能性がある。『列女伝』ではこのような状況に対処するため、頌、君子評、詩句という三つの形式によって、その内容を整理し、総括しようとしていると推測される。

このように先行文献を援用しつつ詩句を付加する形式は、三家詩の一つである『韓詩外伝』を踏襲していると考えられる。さらに、『漢書』に記された『列女伝』の序文の記述などからも、『列女伝』の成立には『詩』が深く関わっていることが示唆される。ところが、従来の『列女伝』における『詩』の研究では、引用された詩句と三家詩との関係に焦点が置かれることが多く、詩句が物語の中で果たす具体的な役割については十分な検討がなされていない。

引詩という文章技法は、戦国期から漢代にかけて広く用いられていたが、『列女伝』のようにほぼ全ての物語に詩句を付加する例は珍しい。『列女伝』はどのような効果を期待して『韓詩外伝』の形式を踏襲し、ほぼ全ての物語に『詩』の句を引用したのだろうか。

本発表では、『列女伝』における末尾の形式、特に引詩に着目することで、詩句が物語においてどのような機能を果たしているのかを考察する。


2. 王延寿「魯靈光殿賦」についての考察―語り手を主語とする表現に注目して

   東北大学文学研究科専門研究員 木村真理子

『文選』巻十一・宮殿に収められる王延寿(143頃~163頃)「魯霊光殿賦」は、制作当時から評価が高い作品であった。同時代の蔡邕(132頃~192)は、王延寿と同様に霊光殿をうたおうとしたが、王延寿の作品を見て筆をおくほど評価したという。

この作品は、宮殿という題材の性質上、従来京都賦の流れに位置付けられてきた。例えば、吉川幸次郎氏は、「班固の「両都の賦」、また張衡の「両京の賦」が、東西二京、長安と洛陽を叙述するのは、王延寿の「魯の霊光殿の賦」とともに、巨大な方向への延長」であるとする。しかし近年の「魯霊光殿賦」研究では、京都賦との違いを考察するものが現れている。例えば高莉芬氏は、王延寿自身によるとされる序が、霊光殿を己の目で見て描いたと記すことに注目し、該賦が京都賦より体験的に描かれているとの見解を示している。

高氏の見解には首肯できる点があるが、高氏は該賦の句を挙げるのみで、先行辞賦作品との比較は不十分であるため、考察の余地があると考えられる。例えば「魂悚悚として其れ斯に惊き、心𤟧𤟧として悸を発す」(魂悚悚其惊斯、心𤟧𤟧而發悸)は、班固「西都賦」の高楼描写にある類似句「魂怳怳として以て度を失い」(魂怳怳以失度)等とどのように違うのかが考察されていない。さらに、「魯霊光殿賦」の宮殿描写を先行辞賦作品の宮殿描写と比較すると、「魯霊光殿賦」には、動植物、人間、建物の役割、時間などが描かれていないことも明らかになる。京都賦に比して描かれないものの多い宮殿が、体験的に描かれることをいかに捉えるべきか。

本発表は、先行辞賦作品の宮殿描写を広く拾い上げ、表現を先行辞賦作品と比較することで、「魯霊光殿賦」の特徴を明らかにする。その上で、霊光殿が体験的に描かれることとその意味について、新たな角度から捉え直してみたい。


3. 漢魏晋期における「軍令」

   東京大学人文特任研究員(日本学術振興会特別研究員PD)青木竜一

漢魏晋期においては、「民事」に係る行政上の司法が律令に基づいていたのに対し、「軍事」に係る軍中における司法は「軍令」に基づいて行われた。しかし、この「軍令」という法源それ自体に関する研究は、軍事制度の一環として概括的に述べたものがあるのみで、専論は皆無と言ってよい。

「軍令」研究の難しさは、それがそれぞれの軍において、個々の軍事長官によって臨時に定められ、他の軍には適用されないという時限法としての性格を持つものであるため、文字テクストとして残ることが稀であるという点にある。しかし、史書の中には、各軍事長官の軍事行動を記す中に、わずかにではあるが「軍令」の断片であると思われる記述が散見する。

また、後漢末・三国時代は、戦乱の長引いた時期であることも相俟って、軍制が大きく変革した時期でもあった。それに関連して、当該時期には著名人の「軍令」を文字テクストとして保存する動きが見られる。『諸葛氏集』の「軍令上第二十二」「軍令中第二十三」「軍令下第二十四」に見られる諸葛亮の「軍令」や、『魏武軍令』の「歩戦令」「舡戦令(船戦令)」に見られる曹操の「軍令」などがそうである。残念ながら、諸葛亮の「軍令」は散佚してその内容を窺い知ることができないが、『魏武軍令』に関しては、それが魏晋の律令に引き継がれたこともあってか、『太平御覧』や『通典』などにまとまった記述が残されている。

本発表では、漢魏晋期の史書に散見する「軍令」に関する諸々の記述、および『魏武軍令』の佚文の分析を通じ、「軍令」の基本的性格を明らかにすることを図る。


4. 鄭玄の経学の総合体系化の構想について

   山口大学教育学部 南部英彦


『後漢書』鄭玄伝の論に「鄭玄括囊大典、網羅衆家、刪裁繁誣、刊改漏失、自是学者略知所帰」とあるように、鄭玄は経典を総括したと范曄は評する。池田秀三「緯書鄭氏学研究序説」(『哲学研究』第548号、1983)は、鄭玄の経学の総合体系化の理念は六藝の一体観にあり、それは特に前漢末の劉向・劉歆父子の『七略』六藝略における五常説による六藝の統一的把握を承けたものであること、また鄭玄にとって緯書なくしては六藝の一体観の確立も経学の総合体系化もあり得なかったことを述べる。これらの池田氏の論旨に異論はない。ただ、池田氏が鄭玄『六藝論』の「六藝者図所生也」(『公羊伝』序疏引)、「河図洛書皆天神言語、所以教告王者也」(『詩』文王序疏引)という六藝は天神の言語である図書から生まれたとする考えは全面的に緯書によって導かれたとする点については、そう見ることに根拠はあるが賛成できない。鄭玄が『七略』の六藝の統一的把握を承けていることから推して、「六藝者図所生也」という鄭玄の考えは『漢書』五行志序が引く劉歆説の、『易』繋辞上伝の「天垂象、見吉凶、聖人象之。河出図、洛出書、聖人則之」という文への解釈、すなわち虑羲が河図によって八卦を画し、禹が雒書によって洪範九章を陳べ、その後、殷道が衰えると周の文王が八卦を『周易』へと推し広め、周道が衰えると孔子が『春秋』を述べたことにより、「天人の道」が明らかになったとする構図にもとづくと見るのが妥当と思われる。そして、こう見ることによって、六藝による「天人の道」の追求という劉歆の経学の主題を受け継いで鄭玄が経学の総合体系化を構想した可能性を想定できるのである。

そこで本発表では、鄭玄の経学が六藝による「天人の道」の追求という主題をもつという視点から、『六藝論』の記述や六天説を導く経書解釈のあり方を手がかりに、鄭玄が経学の総合体系化をいかに構想したのかを考察してみたい。


5. 『諸病源候論』における「養生方導引法」について

   東北大学学術資源研究公開センター史料館 浦山きか

『諸病源候論』は、隋の太医博士・巣元方が大業6年(610)に奉勅により編纂した、全50巻の医書であり、病理・病因・病態を体系的に記す。本書が後世に与えた影響は大きく、王燾の『外台秘要方』や、丹波康頼の『医心方』などに数多く引用されている。

宮内庁書陵部所蔵の南宋刊本が影印出版された1981年前後に、書誌を中心に一定の研究がなされた(東洋医学研究会、東洋医学善本叢書)。また、江戸医学館の医官・山本恭庭惟允『諸病源候論解題』は、同氏の『諸病源候論疏証』の一部であったが、『疏証』は今に伝わらない。1991年に丁光迪主編『諸病源候論校注』が人民衛生出版社から発刊されてはいるが、内容に関わる検討は不十分のままと言わなければならない。

本発表では、『諸病源候論』に引用される「養生方」及び「養生方導引法」を対象とする。

「養生方」の引用は、病因と病態を詳細に説明するもので、本編の内容を補完する場合すらある。

「導引」は、『荘子』刻意や『淮南子』精神訓に記され、前漢の馬王堆出土「導引図」や張家山出土『引書』が動作を伝え、後漢の華佗の「五禽戯」などもこれに含まれる。これらは基本的には健康を目的とした一種の体操と見られる。さらに、三国から唐代にかけて道教の技法の一つとしても盛んに行われたといわれる。

『諸病源候論』は、「導引」を治療法の一環として記している。全病候1720余のうち5%強の90候に「導引」が適用され、巻一~巻二の「風病候」、巻三~巻四の「虚労候」に多く引用され、巻三十七以降の婦人病候・小児病候には全く記載されない。

「導引」は、当時の医学と医療のいかなる面を担っていたと考えられるであろうか。医学と医療、さらに養生法はどのように関連しあっていたと考えられるであろうか。それを知る手掛かりが、『諸病源候論』における「養生方」「養生方導引法」を検討することから得られると思われる。


6. 唐代詩格における六義説の変容

   東北大学文学研究科専門研究員 髙崎駿士

六義説(風・賦・比・興・雅・頌)は、『毛詩』大序に由来し、『詩』の形式と表現を分類する理論として、中国古典詩学の基盤を形成してきた。しかし、唐代の詩格文献において、六義説は単なる分類概念にとどまらず、詩作の方法論や批評の枠組みとして再解釈され、変容を遂げている。

唐代の詩格文献における六義説は、王昌齢の『詩格』や『詩中密旨』、釈皎然の『詩議』、賈島の『二南密旨』、僧齊己の『風騒旨格』などに散見する。李江峰氏(『晩唐五代詩格研究』人民出版社、2017)によれば、これらの文献では、伝統的な六義説を踏まえつつ、物象理論や内外の意などと結びつけて独自の詩論が展開され、また古今の詩作から例句を引用することによって、詩作の基準や評価体系が形成され、詩論の枠組みが拡張していったことが指摘されている。物象理論を通じて自然現象やモノの象徴性を詩作に活用する方法が示され、内外の意を通じて詩の意味や感情を深化する視座を体系化しようとしていた実態が解明されつつあるといえる。しかしながら、引用された例句の検討や、実際の詩作の規範として機能していたのかについてなど、さらなる詳細な検討を要する問題が残されている。

本発表では、第一に、「詩格」における六義説の受容と再解釈の実態を再検討し、第二に、六義説がいかに詩作の規範として機能していたのかを探る。これにより、「詩格」における六義説の展開を『詩経』学の通史的視点から再評価し、詩格論の体系化と詩作実践との相互関係を明らかにする。六義説が唐代詩論において果たした役割を解明し、唐代詩経学研究の不足を補うとともに、中国文学研究に新たな視座を提供することを目指す。


7. 高月観音の里歴史民俗資料館蔵の魚籃観音図拓本について

   東北大学国際文化研究科 木村可奈子

滋賀県の湖北地域は観音信仰が盛んであり、特に山岳信仰の対象であった己高山の麓にある長浜市高月町は「観音の里」と呼ばれ、国宝の十一面観音立像をはじめとする多くの観音像が地域の人々の手によって今なお大事に守られている。

この地域の文化財が収蔵・展示されている高月観音の里歴史民俗資料館には明の万暦年間に作成された魚籃観音図石碑の拓本が所蔵されている。魚籃観音とは三十三観音の一つであり、魚籃を持った女性の姿で表現される観音で、同じく三十三観音の一つである馬郎婦観音と同体とされており、明代には通俗文学にも登場するようになる。

この高月観音の里歴史民俗資料館の魚籃観音図には「慈聖宣文明粛皇太后之宝」の印があり、すなわち仏教崇拝に篤かった万暦帝の生母である慈聖皇太后と関係があることが伺える。現在までこの魚籃観音図拓本に関する研究は行われておらず、本報告ではこの拓本の分析を通してこの魚籃観音図がどういったものなのかを検証する。

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