第66回東北中国学会大会
第1日 平成29年5月27日(土)、28日(日)
第一日 5月27日(土)
於弘前大学文京キャンパス人文社会科学部棟4階多目的ホール
◆研究発表
1、司空図の詩作と「狂」―「狂題」を手掛かりに―
亜細亜大学経営学部准教授 大山 岩根
晩唐の司空図(837~908)の名から我々が真っ先に想起するのは、唐代屈指の詩論家としての司空図であろう。後世の詩論に与えた影響の大きさを考えれば当然であるかもしれないが、司空図が実際に創作した作品についての研究は、詩論についてのそれに比して数が少ない観は否めない。
今試みに『司空表聖詩集』(四部叢刊本)を繙くと、「狂題二首」と「狂題十八首」と題する2つの作品群が目に留まる。一見ごく平凡な詩題にも見受けられるが、現存する唐詩中に確認される「狂題」の用例は僅か3例のみであり、しかもこれを詩題に用いているのは司空図が唯一の例である。「漫題」や「雑題」といった詩題を避け敢えて「狂題」と題するのは、そこに何らかの意図が込められているからだと考えるのはあながち見当違いではないであろう。一連の「狂題」の内容は多岐にわたっており単純化はできないが、詩作という行為をテーマとした詩が複数含まれている点もまた気に掛かるところではある。司空図にとって「狂」とは創作行為と密接な関連のあるものであったのではないだろうか。
そこで本発表では、司空図の「狂題」を手掛かりとして、司空図の詩作における「狂」の意味について、その一端を明らかにすることを目的としたい。
2、楚の江東進出と春申君―項羽の率いた江東の子弟八千人との関わりから―
国士舘大学文学部講師 太田 麻衣子
秦の滅亡は陳渉の乱に端を発し、項羽・劉邦らによる楚漢戦争の末に漢が誕生する。秦の滅亡および漢の建国において彼らに代表される「楚」の勢力が活躍したことは漢帝国形成論においてしばしば言及されてきたが、秦末の「楚」は春秋戦国の楚と無条件に同一視されるばかりで、その実体についてはこれまで充分に議論されてこなかった。
楚はもともと長江中流域に栄えた国だが、秦末に「楚」の勢力が蜂起した地域は長江下流域にあたり、春秋戦国の楚と秦末の「楚」のあいだには少なくとも地理的に大きな隔たりがあったことは明白である。そこで本発表では楚の江東支配をひとつの事例とし、春秋戦国の楚と秦末の「楚」をつなぐ存在として春申君に着目することで、秦末の「楚」の一端をあきらかにすることを試みた。
春申君は戦国四君のひとりとして知られるが、楚の歴史においては楚王をも上まわる権勢をもって戦国後期の楚の国政を支えた人物だといえる。江東はもともと呉越の地であり、越が呉を滅ぼして以降は越の住まう地だったが、楚は前306年に越王無彊を殺害し、江東進出の足がかりを獲得する。楚の江東支配について現存の史料に詳細な記録はのこっていないものの、乏しい文献の記載からすれば楚の江東支配が本格化したのは春申君の采配によるところが大きく、前248年に春申君が江東の呉に封じられたことによって呉には天下の遊士が多く集まったという。くわえて楚を滅ぼした秦が前222年に会稽郡を設置するにあたって越君を降伏させているように、春申君の進出後もなお江東には越の勢力が残存していた。
江東のこうした来歴からすれば、前209年に挙兵した項羽が率いた江東の子弟八千人のなかには、もともと楚人ではなかった人びとも少なからず含まれていた可能性が高い。そうした人びとがなぜ「楚」の旗印のもとに集ったのか、その解明こそが、なぜ秦末に「楚」の勢力が活躍したのかという問題を解く鍵になると考える。
◆公開講演
主催 漢字文化振興協会・東北中国学会・中国文史哲研究会・弘前大学人文社会科学部
北宋の陳舜兪撰『廬山記』五巻の独創性とその価値
―香炉峰瀑布と酔石の詩跡研究を含めて―
弘前大学名誉教授 植木 久行
第二日 5月28日(日)
於アソベの森いわき荘
◆研究発表
第一分科会【哲学・文学】
1、始祖伝説としての「太公望」
立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所客員研究員 佐藤 信弥
『史記』などの伝世文献では、文王・武王の師として殷王朝の打倒を助け、斉に封じられたとされる太公望だが、同時代史料の西周金文などでは、周公や召公に関する記録が比較的豊富に存在するのに対し、太公望に関しては明確な記録が発見されていなかった。
近年山東省高青県陳荘村西周斉国遺址より、「文祖甲斉公」の銘文を持つ西周早期の青銅器が発見され、これが初代の斉侯、すなわち太公望に相当する人物であると見なされるようになった。しかしこの「文祖甲斉公」が文王・武王の師として伝世文献に見えるような功業を立てたかどうかはわからず、かつ清華簡『封許之命』を参照すると、彼は姜姓呂氏のワンオブゼムでしかなかったのではないかと推測される。
春秋早期には、新出金文の復封壺によって太公望が「太王」と王号でもって呼称されていたことが確認される。太公望が周王と対等の同盟者であったという「歴史認識」が当時存在したことを示すものであろうが、この王号は早い段階で放棄されたと見られ、『左伝』『国語』では一貫して「太公」と呼称され、「周室の股肱」「王の舅」と位置づけられている。これはおそらく斉の桓公の覇権が周王朝によって追認されたことに伴う措置である。
戦国期以後は、太公望は諸子が自らの思想や理想を託す対象となり、戦国的君主、隠者、民間から抜擢された賢者、文王・武王の師、法家的な政治家、兵法の大家としての太公望伝説がそれぞれ語られるようになり、『史記』に見られるような太公望像が形成された。
本発表は、以上のような西周期の「文祖甲斉公」から『史記』に見える太公望に至るまでの人物像の変遷を追うとともに、その変遷の背景について考察することを目的としたい。
2、王延寿「魯霊光殿賦」における躍動と停滞
東北大学大学院 木村 真理子
「魯霊光殿賦」は、『楚辞章句』を著した王逸(90頃~165頃)の息子、王延寿(143頃~163頃)の作である。自序によれば、前漢と後漢の間の争乱中、多くの宮殿が破壊された中で、ただひとつ残った霊光殿を詠んだものである。自序では、「嗟乎詩人之興、感物而作」(嗟乎詩人の興は、物に感じて作る)とし、『詩経』の感興と霊光殿への感動を重ね合わせている。
劉勰(465頃~520頃)『文心雕龍』巻二・詮賦は、「延寿靈光、含飛動之勢」(延寿の靈光、飛動の勢を含む)と高く評価し、『文選』は、自序とともに採録した。「魯霊光殿賦」は、先秦漢魏晋六朝の宮殿賦の代表作と言ってよいであろう。にもかかわらず、日本における専論は見当たらず、中国の論文も数本に止まる。とくに、表現形式について詳しく考察した論文は見られない。
「魯霊光殿賦」では、躍動と停滞とを対比させることによって、劉勰のいわゆる「飛動の勢」が生まれていると考えられる。躍動とは、例えば光の描写である。「魯霊光殿賦」における光は、さまざまに表現を変えて描写され、時には液体のように描かれることもある。停滞については、暗さの描写に多く用いられる三字の形状語が注目される。三字の形状語とは、『楚辞』によく見られる表現形態で、竹治貞夫氏によれば、一字の形状語と重言・双声・畳韻の二字の形状語が結びついたものである。吉川幸次郎氏は、中国の散文のリズムが四音一句であることを示す。すると、三字の形状語は、三字であるがゆえに、直後に一拍分の休拍を生み出し、それが停滞として表現に作用していると考えられる。
本発表では、「魯霊光殿賦」における躍動と停滞とが、どのように対比され、描かれているかを考察する。
3、温庭筠《商山早行》の景物表現について―「鶏」「鳧雁」を中心に―
東北大学大学院 鈴木 政光
温庭筠(字飛卿、801?-866)は晩唐を代表する詩人の一人である。文学史上では詩よりも、宋代に盛行をきわめる「詞」の開拓者として知られる。五代後蜀(934-65)にて編纂された『花間集』では、最初期の作者として冒頭に最も多くの詞が採録されている。その表現は、代表作の《菩薩蛮》や《更漏子》にみられるように、具体的な場や時間や景物を抽象化した上で象徴的に純粋な感情の世界を描き出そうとするものであることが、村上哲見氏や戸倉英美氏によって指摘されており、「かつて存在したことのない、空前の創造的な世界」(『宋詞研究 唐五代北宋編』124頁)と村上氏は述べる。
ではこうした温庭筠詞の表現は、一体どのように形成されたのだろうか。中国では中晩唐詩の詞化現象の研究が近年盛んに行われているが、題材や用語の共通性に注目が集まっている。論者は、温庭筠自身の詩における表現のあり方を精密に分析することを通じて、詞への道筋を具体的に探っていくことを目標としている。
本発表では、温庭筠の《商山早行》詩をとりあげ、その中でも特に「鶏」と「鳧雁」の描かれ方を検討することを通じて、温庭筠詩における景物の象徴化について考察する。盛中唐詩にみられる基本的な特徴として、心情を表白する場を特定の一時点・一場面として設定することが挙げられるが、温庭筠詩における景物表現は、こうした時間的空間的統一性を突き崩す可能性を秘めている。
この可能性は、同時代の杜牧(803-852)や李商隠(812-858)にも見られるが、その中でも温庭筠が、詞の独自性へと至り得たのはなぜか。杜牧の早行詩や李商隠の詩における「夢」の語と《商山早行》詩との比較も併せて行い、両詩人とは異なる温庭筠詩の特徴の一端を探り出すことを試みたい。
4、明代詩の新生面―楊慎の古楽府を中心に―
弘前大学大学院 笹 浩樹
古楽府「邯鄲才人嫁為厮養卒婦」は、その歌詞は散逸したものの南斉、謝眺の作例を筆頭に、李白以下、唐から清にかけての詩人によって創作され続けた。それらは、五言か、七言か、あるいは雑言体かという形式上の相違こそあれ、五韻から、長くても十韻には達しない短篇が多い。また描写方法は一人称と三人称という違いがあるとはいえ内容も大同小異であり、戦国時代、趙の都邯鄲の宮中で王の寵愛を受けた「才人」が、身分の低い者にめあわされ落魄したことを嘆くというものである。総じて、女性の身の上を借りて失寵の悲哀を歌うもので、謝眺・李白の作例が後代も踏襲されたものと見られる。
この中にあって明の楊慎(1488~1559)の作例のみ百六十四韻と長く、内容も他の詩人とは相違している。楊慎は「邯鄲才人嫁為厮養卒婦」とは、『史記』などに記す陳勝・呉広の乱の際の一事件に基づいている、と断案を下す。張耳・陳余とともに趙の地をおさえた武臣が燕国に囚われた際、ただひとり武臣の救出に成功した「厮養卒」の活躍を本来描いていたはずだったのだ、という。楊慎はこのような自己の解釈に基づき自由に構想し「邯鄲才人」が趙の宮中で寵愛を受ける部分を序盤に置く。次に厮養卒が弁説巧みに燕将と交渉する場面を描写する。そして邯鄲へ帰還して宴席で褒賞を受け、「邯鄲才人」を妻として貰い受けるという内容で結び、「才人」の悲哀を描かない点において異色である。また会話が差し挟まれた、長篇叙事詩に仕上がっている点も楊慎版の特徴といえる。
このような楊慎の試みに対しては隆慶年間、陳耀文が楊慎批判の書『正楊』で、楊慎の独断に過ぎず、詩としても欠陥があると攻撃しているなど、好意的な意見は見当たらない。しかし明代に出現した叙事詩の作例として興味深いものであるゆえ、本作を通して明代の詩文の潮流を探ってみたい。
5、東アジア文化圏における儒教とイスラーム―日本「古学」と「回儒学」の関係及び比較研究
東北大学国際文化研究科助教 阿里木 托和提
本研究は、日本江戸時代の仁斎学・徂徠学と中国の回儒学(イスラム儒学)における朱子学の受容・批判と変容を比較検討することを主題とする。
日本の仁斎学・徂徠学に括られる学者と、いわゆる回儒学者は、ほぼ同時期に生まれ、同時期に活躍している。例えば、徂徠学の荻生徂徠は1666年に生れたが、イスラム学を代表する「回儒」学者の一人である劉智は徂徠より4年後、1670年に生れている。彼らは同じ東アジア文化圏のなかでも、中国儒学文化圏とは異なった文化圏に属していた。徂徠は日本文化圏を背景とし、劉智はイスラム文化圏を背景としていた。
両者の思想的な成立背景を考えたとき、非常に大きな近似性を有していることに気付かされる。すなわち両者とも、漢字文明としての「中華」の強い影響を受けた周縁的文化に展開した思想であり、とりわけ朱子学という自然・道徳におよぶ壮大な学的体系との関わりで成立したという点にその共通性を見出すことが出来る。一方、両者が属する文化圏の相違は、同じ朱子学の受容と変容の仕方において、質的に大きな差異ももたらしている。
日本の素行学・仁斎学・徂徠学と回儒学を思想的に比較考察しようとする試みは、これまでほとんどなされてこなかった。それは両者の間に直接の交渉がなかったことと、日本におけるイスラム儒学研究の立ち後れによっている。このテーマを推進することは、東アジアの比較思想史研究、また文化変容の理論研究に斬新な視野を切り開き、学界に多大な貢献を与えることが期待される。
第二分科会【史学】
1、宗廟における皇后と生母―后妃廟の変遷から―
立命館大学大学院 猪俣 貴幸
天子の先祖祭祀の場として、歴代王朝が奉じてきた宗廟には、皇帝の神主とともに、その皇后の神主も祀られた。この皇后祔廟は、皇后嫡出の皇子が次なる皇帝となれば、何の問題もなく運用することができる。ところが、皇統の継承は必ずしもそうはいかない。ここで問題となるのは、先帝の皇后と今上帝の生母が異なる時である。
例えば唐の玄宗のように、先帝睿宗の皇后(劉氏)と、自身の生母(竇氏)とがくい違う場合、どちらが先帝の廟室に祔されるかということは、今上帝の正統性を示す上で重要な議論であった。また、このねじれ状態について、前漢以来の例を巨視的に見てゆくと、漢から魏晋南朝にかけては先帝の皇后が祀られ、北朝から唐にかけて、今上の生母が祀られる例が見られるようになる。
本報告では、唐までの后妃の廟を一瞥した上で、唐代における宗廟に升祔されなかった后妃たちを祀る別廟「儀坤廟」と、五代以降の史料にみえる「后妃廟」の運用の比較、および后妃廟をめぐる礼制上の奏議を確認しながら、その基礎的な整理・検討を試みる。
2、『癸辛雑識』「置士籍」考―南宋最末期の科挙改革―
早稲田大学大学院 村田 岳
中国史上に於いて宋代はそれまでの貴族層に代わり、新興階級である士人層が力を持った時代とされ、この士人層はその性質を幾分か変化はさせながらも、明清期を越えて民国期にまで地域社会の代表者という地位を維持したのである。そしてその士人層の発生と成長に大きな影響を及ぼしたのが科挙である。血縁によらず、能力主義に基づいた科挙は合格した官僚たちに自負心を抱かせると同時に、地域社会に於いても郷隣の人々から、たとえ不合格であったとしても、「聖賢の道を学んだ者」として尊敬され、特権を与えられた。すなわち、科挙とは単なる官僚採用試験システムである以上に、社会末端までをも含んで存在していた「科挙社会」の中心であったのである。この科挙社会がやはり宋朝滅亡後も民国期にまで継続していた以上、宋代の士人研究、科挙研究とは宋代のみならず、中国社会近千年の研究をする上でも重要であることが指摘できるだろう。
かかる重要性に基づき、従来宋代科挙研究は多くの成果を挙げている。そしてその成果を大別すれば社会史方面と制度史方面とに分けることができる。そしてこれら先行研究を眺めていくと、その分析対象としている史料の時間的偏差があることに気づく。前者に於いて使われるのは主として地方志であり、副次的には文集も用いられる。これに対して後者の主として扱う史料は中央編纂史料であるが、この最大の欠点は南宋後半期の記述を欠く、ということである。そのため、当該時期の社会様相は明らかとなりつつも、制度上の変化については知見の空白領域となってしまう事態となっている。
本報告ではかかる問題意識に基づき、その有効な手掛かりとなるであろう『癸辛雑識』の「置士籍」という史料を分析することで、南宋最末期の科挙制度史の一端を明らかにすることとし、引いてはそこから当該事例を科挙社会史上に位置づけることを試みる。
3、唐日義倉制再考―戸等制を切り口として―
弘前大学人文社会科学部准教授 武井 紀子
義倉は、飢饉や水旱に対する備荒貯蓄として創設された制度である。唐では、隋代に社を単位に行われていた備荒貯蓄の制度を引き継ぎ、貞観二年に畝別粟二升の地税を徴収する国家的な水旱凶災対策として整備された。唐代の義倉は、永徽年間に戸等別徴科となり、その後すぐに地税に復するなど徴税基準に変遷がみられるが、開元二十五年段階には式として規定されていたことが『通典』にみえる。また、この間に国用への流用が常態化し、国家財政の財源として重要な位置を占めるようになった。
古代日本でも、唐の義倉制を導入し、戸等に基づく徴収規定を大宝・養老賦役令に立条した。先行研究では、唐令にも義倉を規定する条文が賦役令の中にあると考えられてきた。しかし、天聖令残本の賦役令の中に対応する条文はなく、現存する田令以下の諸篇目においても義倉に関する条文は存在しなかった。
報告者は、かつて日本の義倉の成立とその意義を考えるにあたり、唐の義倉制度について論じたことがある(「義倉の成立とその意義」『国史学』205、2011年)。しかし、上記の律令条文と義倉制度との関係、すなわち日本賦役令義倉条の藍本となる条文が唐令に存在していたものなのか、あるいは唐令に義倉に関する条文はなく格式などをもとに立条されたのかについて、結論を保留していた。この問題については、日本令の存在を起点に唐代の義倉を考えるのではなく、唐代の諸制度の中で改めて義倉の位置づけを考えなければ、解決の糸口を得ることはできないだろう。
そこで本報告では、両税法導入以前における唐賦役令規定のあり方と戸等制に基づく徴税方式との関係を手掛かりに、唐と古代日本の義倉制度の特質について考察してみたい。
4、明代遼東における吏員人事制度―檔案史料を手がかりに―
北海道大学大学院専門研究員 宮崎 聖明
本発表は、明代遼東における吏員(正規胥吏)の人事制度およびその運用実態について、檔案史料を手がかりに考察することを目的とする。
発表者は「明末広東における吏員の人事・考課制度ー顔俊彦『盟水齋存牘』を手がかりにー」(三木聰編『宋-清代の政治と社会』汲古書院、2017。以下「前稿」)で、崇禎年間(1628〜1644)初期の広東における吏員人事・考課制度の運用実態について考察し、次の三点の知見を得た。すなわち明末広東においては、①選抜方法が捐納中心になったため吏典缺(ポスト)に比して吏員資格所有者が増加し、衙門に配属されたのちに缺が空くまで待機(候缺)する必要があり、②候缺吏員は、属性に基づき分類された「行柱」というカテゴリに分けられたうえで待機リスト(参吏簿)に載せられ、空き缺が生じるとリストの順に缺に充てられ(参充)、③したがって誰をどの缺に充てるかは缺が空いてはじめて配属衙門において決定されたのである。この方式を仮に「行柱方式」と呼ぶこととする。ただし、前稿の考察結果は明末広東に孤立しており、他の時期・地域との比較検討が必要である。一方、明代の吏員は三年一考の任期を三回繰り返し、三考は原則として京師衙門で務めることとなっていたが、京師衙門の吏典缺は数に限りがあったため、こうした京考吏員の多くは実際には地方で三考を務めたであろうことが先行研究により指摘されている。しかし明末広東の事例からは京考吏員の存在は見出せず、その実態解明は課題として残さざるを得なかった。
前稿における以上の成果・課題をふまえ、本発表では明代の吏員人事制度に関する事例研究の一つとして遼東を対象に、遼東都指揮指使檔案を手がかりに、嘉靖年間(1522〜1566)を中心として、候缺・参充の方式、京考吏員の処遇や彼らが参充される缺などの問題について考察し、前稿の考察結果との比較ならびにその補完を行うこととする。
5、明末地方軍事費の一考察―奢安の乱における黔餉を中心として―
日本学術振興会特別研究員(東北大学) 時 堅
明朝滅亡の無視できない要因には明末財政の崩壊がある。中でも、その崩壊の元凶は万暦(1573~1620)末年以降、膨大な軍事費を解決するために行われた「三餉加派」(租税を正額に加えて徴収された遼餉、剿餉、練餉)だと見なされている。このうち、遼餉は土地税・塩税・関税・雑税ぞれぞれの加派によって構成され、対清戦争の軍事費に充当された。この遼餉の徴収は、期間が最も長く、規模が最も大きく、残存する史料も最も多い。そのため、遼餉の研究成果は相当の蓄積がある。
しかしながら、三餉以外には看過されがちなもう一つの軍事費が存在している。崇禎年間(1628~1644)初期の戸部尚書畢自厳は、遼餉は黔餉の代わり加派を行い、黔餉は遼餉の収入に甚だしく影響を与えたことを厳しく指摘した。では彼の述べた「黔餉」は一体何であろうか。実は明末には、周知の万暦三大征、明清戦争、李自成・張献忠の反乱のほか、貴州を中心とする中国西南地域において約十年間にわたる奢安の乱が存在している。その反乱を平定するため、明朝は遼餉の一部を流用し、西南の軍事費として充てた。それが、畢自厳の述べた「黔餉」、即ち明末西南地方で起きた奢安の乱を平定するための貴州兵餉である。
この黔餉は、地方軍事費として遼餉と複雑な関係を有しており、遼餉さらには当時の財政状況を総体的に把握するに当たっては、黔餉は看過できない要素なのである。しかし、奢安の乱の研究では、従来その発生から収束に至る過程及び歴史背景のみが考察の対象とされてきた。一方、遼餉の研究では、黔餉が考察の俎上に上がることはなく、戸部が把握していた遼餉収支状況のみが重視された。そこで、本発表では、黔餉の徴収経緯・規模等を把握した上で、黔餉の性格を検討し、明末財政収支の実態の一端を明らかにしたい。
第67回東北中国学会大会
平成30年(2018年)5月26日(土)、27日(日)
第1日 5月26日(土)
於東北大学川内北キャンパスB200
◆研究発表
1、傾斜考―ナナメとその情景
東北学院大学 塚本 信也
◆公開講演
主催:漢字文化振興協会、東北中国学会 共催:中国文史哲研究会、東北大学大学院文学研究科
対談「いま」を語る
吉田公平先生(東洋大学名誉教授)× 中嶋隆藏先生(東北大学名誉教授)
「中国哲学研究者からのメッセージ」吉田公平先生(東洋大学名誉教授)
中国近世思想史の分野に焦点を当てて研究史を振り返って見ますと、特色の鮮明な業績を挙げられた、二人の先生が思い浮かびます。その二人とは島田虔次先生と荒木見悟先生です。島田先生の業績を代表するのは『中国における近代思惟の挫折』と「熊十力の哲学」、荒木先生の業績を代表するのは『仏教と儒教』『明末宗教思想研究』です。『中国における近代思惟の挫折』は歴史主義に立ち王陽明・王心斎・李卓吾の近代思惟の萌芽を見出しその挫折の経緯を開示されました。『仏教と儒教』は唐宋の仏教と宋明の儒教の思惟に通底する「本来性ー現実性」という論理を見出し、仏教と儒教を包括して解析されました。両先生のこの業績は近五十年に与えた影響力が大きかったこと、それだけに問題点も大きい事、影響下に派生した課題などにも触れながら、今後の課題について、卑見を述べることにしたい。
「所謂当下について」中嶋隆藏先生(東北大学名誉教授)
羽仁もと子さんが呼びかける「唯今主義」の「今」にしろ、本多光太郎さんが力説する「今が大切」の「今」にしろ、この「今」ということに思いを致すとき、ここで強調される「今」というのは、単なる時間としての「今」だけにとどまらないのではないか、この「今」には、この現在において、ここという場所にいて、ある状況、ある境涯にある「私という存在」の「在りうべく」且つ「自ずからなる」在り方を余すところなく包み込むものとしての「今」ということを強調しているように思われます。
こういったことを考えていた折、私は、「私」というものの在り方をこのように把握し、このように生活すべきだという主張は、数年前に急逝された浄慧法師が、その主張である「生活禅」の実践に当たって「禅在当下」と表現しているし、また法師が強調する「当下」という言葉は、意外なことに、禅宗の燈史や語録にはさほど見えずに、王陽明の後学の間で頻繁に取りざたされる外、とりわけ明末の東林学派の人びとの中に専論とみるべき文章が残されているのです。こうしたところからすると、中国思想史に波紋を呼んだ「当下」という思想は、禅宗における主張というよりも、儒家の中で禅宗の考え方と近似すると見なされた人びとの間で深刻に思索され頻繁に提示されてきたものと見るべきであり、この「当下」の主張に深く共鳴する浄慧法師は、禅といっても現実生活から遊離してはならず、現実の生活と不即不離の関係でなければならないという「生活禅」を唱道するに際し、この「当下」という言葉を頻用し重視しているのではないか、と思われるのです。
第2日 5月27日(日)
於泉ヶ岳温泉やまぼうし
第一分科会【文学・哲学】
1、劉向の災異説の一面
山口大学 南部 英彦
前漢後期の劉向(前79~前8)は『洪範五行伝論』十一篇を著しており、『漢書』五行志所収の劉向説は、この著から採られているとされる。そして災異を人事の結果と見る『五行伝』の考えを基礎にして、更に天を用いて前兆の意を付加するのが劉向の『五行伝』系の説の主流的なものであるが、劉向は前兆に言及するに止まって予言には進まなかったとされる(田中麻紗巳「劉向の災異説」)。しかし、五行志所収の劉向説を仔細に眺めると、劉向在世中の異変に基づき予言を行ったと認められるものがある。成帝の河平三年(前26)の犍為郡柏江山及び捐江山の崩壊と元延三年(前10)の蜀郡岷山の崩壊とに対する劉向の解釈に「劉向以為、…漢家本起於蜀漢、今所起之地山崩川竭、星孛又及摂提・大角、従参至辰、殆必亡矣」(五行志・下之上)とあるのがそれである。これは、河平三年・元延三年の山崩れが漢王朝の発祥の地である蜀漢地方のそれであることと、元延元年(前12)に彗星が出現して摂提星・大角星にまで及んだことを根拠にして、漢の滅亡を予言したものである。
この資料は、劉向の災異説の思想史上の位置を見定める上で注意を要する。劉向の災異説がもつ漢王朝の命運を予言する一面は、災異出現をもとに王朝の交代を予言した昭帝期の眭弘以来の災異説の傾向を継承するものとして捉え得ると思うのである。
そこで本発表では、まず右の資料に関して、他の劉向説を併せ用いて災異解釈において予言へと至る劉向の論理を解明するとともに、予言へと進む劉向の災異説の一面が、劉向の春秋学がもつ天変地異と王朝の興亡とを結びつける志向に基づくことを確認する。さらに劉向の災異説のこうした志向と、前漢後半期に行われた他の儒家の災異説や王莽の用いた符命との関連について考察を加えたい。
2、後漢末思想家の儒法思想の意味
宮城学院女子大学非常勤講師 渡部東一郎
後漢中期から末期にかけて、王符・崔寔・荀悦・仲長統といった思想家が一方で徳治ないしは徳治的世界を説きながらも、他方で現実に対する法治の有効性を強調したことはよく知られている。彼らの儒法思想は、思想史上どのような意味を持つものと捉えられるであろうか。
かつて金谷治氏は、王符・崔寔・仲長統らは、現実に対する「経術主義の無力を痛感すると共に、それに代わる法術主義を強調した」が、「その強調はむしろ臨機の方便的な、ある意味で止むを得ない措置であり」、「現実的には結局無力なものとして終わらざるを得」ず、「結局自らの無力感が彼らを老荘思想へとかりたてた」とした(「後漢末の思想家たち」)。また、堀池信夫氏は、漢魏間の思想史の展開を「宇宙的思惟→内的思弁」という図式の下に捉え、王符・荀悦・仲長統の思想を、「いわゆる礼教的政治から、実質法治の方向への転換」という儒教の内実の変容と見、特に仲長統については「実質的に法治であっても、それを徳治と称するような思想」で、「魏晋儒教の換骨の先蹤例」と見做しえるとした(『漢魏思想史研究』)。
両氏の見解には賛同する点も多くあるが、首肯しかねる点も幾つかある。本発表では、王符ら四者の儒法思想における共通項を見ることを通して、彼らの思考の枠組みを明らかにし、また、魏晋玄学への展開も視野に入れながら、彼らの儒法思想の思想史上の意味を検討したい。
3、孟郊詩の「幽」について
中央研究院中国文哲研究所 陳 俐君
孟郊(751~814)、字は東野、湖州の人。現在見られる孟郊の詩の「応酬詩」、「送別詩」および「聯句」から、孟郊が韓愈(七六八~八二四)、盧仝(?~八三五)などの文人と深い交流をもったことが知られる。そのなかで、孟郊の詩を最も高く評価したのは、孟郊と腕を競い合って聯句を多く作り出した韓愈である。韓愈には孟郊に言及して作られた詩が八首あり、そのなかの「薦士」(士を薦む)と「孟生詩」(孟生の詩)といった詩作に孟郊の詩に対する韓愈の評価がよく読みとれる。韓愈のほか、張籍と盧仝にも孟郊の詩について評価をする詩がある。
孟郊と深い関わりがあった彼らの評価にはすべて孟郊詩の「幽」について言及がある。本発表では、孟郊詩の「幽」字の使用例について、先例と比較しながら「幽」字に関わる表現の継承と創出を考察する。また「幽」の特徴を分析する。このような順次で孟郊の詩における「幽」がいかなる表現的意義をもつものなのかを探る。
孟郊の読み方については、宋人の蘇軾の方は詩に漂う「寒」に留意したのに対し、唐人の韓愈、盧仝が詩に表された「幽」の世界に魅惑された。本発表は孟郊詩における「幽」字の使用状況を考察し、孟郊の「幽」字を用いた表現と先行する詩文に見られる「幽」字を用いた表現との差異を明らかにすることを通じて、孟郊詩における「幽」の価値を見出したい。
4、温庭筠の望郷詩について
東北大学大学院 鈴木 政光
本発表の目的は、盛唐詩から中唐詩にかけてみられる望郷詩の表現様式の変遷を踏まえたうえで、「商山早行」を始めとする温庭筠(字飛卿、801頃~866)の望郷詩が持つ特徴について、考察を試みることである。
例えば、杜甫「小寒食舟中作」尾聯の「雲白山青万余里、愁看直北是長安」に見られるように、杜甫が空間的に遥かに隔てられた都長安を最後まで望み続けたことはよく知られている。しかし、中唐に至ると白居易(772~846)の「重題」尾聯に「心泰身寧是帰処、故郷何独在長安」とあるように、生まれ育った郷里、或いは慣れ親しんだ都長安以外の土地を「故郷」と呼ぶ作例の見られることが、澤崎久和氏によって指摘されている。
温庭筠の出生地は、『旧唐書・文苑伝下・温庭筠』にある「太原」ではなく江南地方であることが、今日ではほぼ定説となっている。だが「商山早行」尾聯に「因思杜陵夢、鳧雁満迴塘」とあるように、望郷の対象を江南としない場合でも、彼の望郷詩の大半に「温暖感覚」と呼ばれる春景色や水辺の景物といった南方の情景が伴う。このことは何を意味するのだろうか。
同時代の杜牧(803~852)や李商隠(812~858)の望郷詩に描かれる故郷のイメージとも比較しつつ、温庭筠を中心に据えて、中唐から晩唐に至る望郷詩の変化の一端を明らかにすることを本発表では試みたい。
5、陸九淵の政治上の立場とその心学思想との関連について
京都大学人文科学研究所 福谷 彬
従来、陸九淵は思想的には朱子と對立したが、政治的には協力関係にあったと指摘されてきた。本発表は、淳熙末年の党争時期における陸九淵の政治的立場と彼の心学思想との關わりについて考察して、改めて朱子との政治上の立場との距離を考察する。
淳熙末年の党争とは、朱子の唐仲友弾劾を契機として勃發した道学派と反道学派の党争のことを指す。陸九淵は当初は朱子の弾劾を絶賛していたが、事態の展開のなかで次第に自分も属する道学派陣営に対して批判的な発言を発するようになった。そして、道学陣営に対する批判の度合いを強めていた時期に陸九淵が朱子を相手に仕掛けたのが「無極・太極」論争だったのである。
陸九淵が書簡中で記す当時の党争状態に対する見解と、無極・太極論争での彼の主張には一貫したテーマがある。それは、自分の考えを絶対的に是として、異論を認めず他者に同調を迫る態度は、他者の反発を招くばかりで、真に他者を教化することはできない、という主張である。
朱子はこの党争時期に、二度にわたって、朝廷内の「小人」を排斥すべしと皇帝に訴えたのに対し、陸九淵は、道学派が徒党を組んで反道学派に対抗している状況を憂慮し、反道学派を弾劾して朝廷から放逐することに反対している。のみならず、陸九淵は「無極・太極」論争で、他者を論破して自説に従わせるのではなく、自己と他者が共通して持っている「本心」に働きかけて説得することの必要性を説く。これは朱子に代表される、他者に自分に対する同調を迫る議論法に代わるものとして、自他が共有すると考える「本心」に基づく議論法を打ち出したものに他ならない。
以上のことから、同じ道学陣営に属するとみられていた朱子と陸九淵の間には、反道学派を徹底的に放逐するか(朱子)、説得・融和を目指すべきか(陸九淵)、という、反対派への対処をめぐる路線の相違があり、その相違は朱陸の思想上の違いが政治方面にまで及んだものだったと考えられる。
6、明代の社会的価値観上における「三言」女性像の位置づけ
―男尊女卑下における女性像の可視化に関する試論
東北大学大学院 衣梅君
明代の短篇白話小説集「三言」には当時の様々な女性が登場するが、その女性像をどのように理解し、特徴を適格に認識することができるかについては、現在になってもその分析方法が確立せず、その考察は等閑に付されたまま放置されているのが現状である。
そのため本研究では明代における性別に関する社会的価値観を一つの指標として、「三言」に登場する女性が、当時いかなる社会的な位置付けにあったのかを考察したい。
文学作品における女性像を通じて女性の社会的な地位を認識するには、当時の価値観との比較が必要となることは自明なことであろう。
そのため今回の発表では、発表者が構想・試作した研究手法の紹介を行い、女性像の特徴をデータ化し、その位置づけを座標系のモデルで可視化を試みた。まず座標軸の設定について、当時の価値観の一側面を示す家訓書・処世訓などの訓戒文から、男性との相対地位を影響する男尊女卑の価値観を抽出してx軸に設定し、社会的地位を影響する他の価値観を抽出してy軸に設定した。
その上で「三言」に登場する女性の思考・行為を設定した評価軸に照らし合わせて評価し、設定した基準に応じて、「三言」に登場する女性が当時の社会通念上いかなる傾向があったのかを座標値の分布状況から考察を試みたい。
第二分科会【史学】
1、後漢宦官の出自と豪族論について
駒澤大学非常勤講師 中本 圭亮
歴代王朝衰亡の原因としてあげられるものが三つある。外戚・宦官・女性である。近代歴史学の上では、無批判に三者の何れか一者にでもその責任を帰すことはない。しかしこの三者に責任を帰すある種の歴史観は存在した。現行『後漢書』においても、有名な文句であるが、前漢は外戚によって、後漢は宦官によって滅びたとされる。また中国史における宦官の禍といった場合、多くの人は後漢、唐、明の三王朝を想起するであろう。宦官の禍と後漢・唐・明はイメージの上で密接に結びついている。
中国史に於いて宦官というテーマはきわめて魅惑的なものである。しかし実際に扱うとなると多くのハードルがある。その最大のハードルは史料の少なさであろう。近世でさえもそれほど多くないであろうが、古代中世ともなれば絶望的であすらある。
このような史料状況にあって、宦官をメインに扱うことは極めて難しい状況にあるといってよい。しかし後漢の宦官というテーマに挑んだ先人がまったくいなかったというわけではない。一人は江幡眞一郎であり、もう一人は矢野主税である。加えて、両氏の後漢宦官研究の大前提として、川勝義雄の「漢末のレジスタンス運動」によって展開された「宦官豪族論」がある。この「豪族論」についても定義の上での問題がないわけではないが、江幡は肯定的に継承しているのに対して、矢野は批判的である。特に矢野の研究にはきわめて示唆的な側面がある。後漢の宦官の性格を実証的に探るものである。残念なことに矢野の試みは、後漢研究史の上で、忘却の彼方にあるとすら言ってよい状況である。矢野の「寄生官僚論」に絡んだ論争、あるいは川勝との一連の論争の中で、矢野の学説そのものが顧みられなくなっている。本稿では今一度、矢野説を中心に掘り下げて検討してみたい。またかかるテーマ、すなわち宦官の性格あるいは出自の考察であれば、いくらかの検討にたえうる史料が揃うと考えられるからである。
2、讖言「代漢者、当塗高」と“魏”の時代
国士舘大学 津田 資久
曹魏王朝成立の正当化に利用された『春秋緯』の中に「代漢者、当塗高(漢に代わる者は、当塗高)」という讖言がある。この讖言をめぐっては、両漢交替期において公孫述が利用して以来、常に漢に取って代わろうとする者によって意識された歴史があるが、その生成過程に関しては殆ど論じられておらず、またそれが如何なる意味を付与され、どのような時代的なスパンで利用されているのかも明らかにされているとは言い難い。かかる研究状況にあって、近年、楼勁「讖緯与北魏的建立及其国号問題」(同氏『北魏開国史探』所収、中国社会科学出版社、2017年)は、「魏」の字釈や公孫述から北魏の国号に至るかかる讖言の利用状況に関して詳述しており、極めて有意義な指摘を行っているが、肝心のこの讖言が当初企図した政治的意図が奈辺にあったか、それに何時まで利用されたのかについては、特に言及していない。
そもそも「当塗高」から「魏」が導かれるのは、前漢・武帝期に「当塗侯」に封建された魏不害の故事に遡り、また「巍(魏)、高也。」(後漢・許慎『説文解字』)という解釈もこれを後押しする。そして公孫述の段階でかかる讖言が既に利用されていること、「魏、大名也。」(『春秋左氏伝』閔公元年冬条伝文)とあることも踏まえるなら、ここでの「代漢者」とは「魏郡」の人である王莽(字は巨君)その人を意味することは殆ど疑いない。そして「代漢者」の予言であればこそ、「漢」の打倒とその後継者を目指す者によって解釈を変えられながら、意識され続け「魏王」朱全忠まで利用されたと考えられる。
本報告では、かかる讖言を用いた〝魏〟の政治運動の系譜を、漢~唐の予定調和的世界観の歴史に位置付けることを試みたい。
3、北宋元豊年間の官制改革における大理寺の変容
東北大学大学院 鏑木 丞
北宋神宗の元豊五年(1082)5月において、中央官庁の職務がそれ以前の体制から、三省六部制を基本とする形に改編され、新たな官僚機構が始動する。いわゆる元豊官制改革の実施である。この官制改革は尚書省にも比せられる巨大官庁たる三司の解体を主な目的としたものであり、これによって多数の官司が大きな変容を被った、と指摘されているのは周知の如くである。
元豊五年五月にさきがけて、官制改革が大理寺ではなされていた。史料では「復置大理獄」と記されるものである。これは元豊元年末から翌元豊二年初にかけてなされたものであるが、その結果、旧来三司が保持していた職掌の一部分が大理寺に継承され、大理寺の官員は「専主推鞫」とも規定される。官制改革の過程において、大理寺は旧来の「詳断」に加えて「推鞫」という職掌を獲得して、とりわけ大きく変容している官司であると考えられる。ところが、宮崎市定氏は、官制改革を経ても「詳断を主な任務とすることは、その後も依然として変りがなかった」といい、その変容や、それによって生じた政治上の変化、さらにはそれが後世に及ぼした影響などは論じていない。
また、元豊年間から続く元祐年間においては、この大理寺の変容とそれによって引き起こされた状況が、しばしば官僚たちの議論の対象とされる。だとすれば元豊官制改革の一側面ではあるが、それによって政治上どのような変化が起こったのか、そしてそれは後代にどのように認識されていたのか、ということを考える大きな手掛かりになりうるのではないだろうか。
本発表では、まず『続資治通鑑長編』『宋会要輯稿』といった史料に基づき、大理寺におこった変化とはいかなるものであったのかを把握し、制度改正以前と以後ではどのような差異が生じていたのかを確認する。その上でこの変容によっておこった政治上の変化と、それが後代にどう認識されていたのかについても考えてみることとしたい。
4、「天下に通祀する」ことの正当化―南宋末より明初に至る先賢祭祀の理論
東京大学大学院人文社会系研究科教務補佐員 梅村 尚樹
唐代以降、清末に至るまで、孔子廟を内包する学校は、孔子をはじめ多くの先賢を祀る祭祀空間であった。唐代では、地方の学校においても中央の国学と全く同様の対象を祀っていたが、宋代を通して地方の学校では地方独自の先賢をも祀るようになっていき、明代には、祀典の中に「名宦祠(その地に赴任した偉大な地方官を祀る)」と「郷賢祠(その地の生まれの偉大な人物を祀る)」が規定され、周敦頤や朱熹など全国で通祀される道統の先儒以外にも、各地の学校で独自の先賢を多く祀るようになった。
この変化において重要な転換点となったのは南宋後期のことであるが、その過程においては少なからぬ理念上の葛藤があった。学校に先賢を祀ることには、経学上・礼学上の相応の根拠が求められたからである。南宋期には、後の名宦祠や郷賢祠につらなるものとして、祭祀対象には地縁の要素が強く求められ、逆に地縁のない対象を広範に通祀することは批判の対象となった。例えば、周敦頤をはじめとする道統の先儒をあらゆる地で通祀してよいのかが一つの焦点とされ、南宋の著名な儒者である魏了翁はこれを否定している。
本報告では、南宋末期から明初を結ぶ過程に注目し、おもに釈奠を根拠づける『礼記』文王世子の解釈を軸として、いかにして全国に道統の先儒を通祀することを正当化したのか、その論理を明らかにする。『礼記』文王世子の釈奠に関する記述は、北宋から南宋を通じて経学上の問題とされ、広範な学校普及の中で再解釈が試みられてきた。それが元代を通じて、明初にどのように昇華されたのであろうか。具体的には、明初の宋濂「孔子廟堂議」に見える釈奠と先賢祭祀のあり方や、それを導いたと考えられる熊禾と黄溍の議論が、唐宋時代の理解とどのように異なっているのかを明らかにし、作為された経文解釈の変更とその意図に迫ることとする。
5、北平王趙徳鈞再考
工藤 寿晴
安史の乱以降の幽州への研究は、反側の地という伝統を保ち続けた当地の特質を見出そうとする試みから始まった。現在では遼・五代・北宋初において有力官僚を輩出した地域性への着目等、後代への影響を視野に入れた研究が現れ新たな展開を見せているものの、五代に入ってからの研究はこれからという段階にある。
契丹の侵入激化により前代以上に要衝としての重要性が増した五代時期の当地で抬頭した存在として、節度使等を輩出し「燕台大族」と称された趙氏一族が挙げられる。彼らの有力家系への成長は、趙徳鈞(?~937)を嚆矢とする。趙徳鈞は「北辺大鎭、士馬彊鋭」(『通鑑』巻二七〇・貞明五年三月戊子胡注)と評される雄藩であった幽州藩鎮に長期在任した驕帥の一人として、或いは後唐末に皇帝位を狙い策動するも石敬瑭の後塵を拝し目論見敗れた人物として知られ、概ね当時の政治史上の文脈からネガティヴなイメージを以て語られることが多い。
しかしながら、視点を変えれば別の評価もあり得る。近年公表された石刻史料の中には、幽州藩鎮に強大な勢力を築きあげた趙徳鈞を指して「全燕之覇王」と記すものが存在する。如何にこの勢力を築き得たかを考察するには、幽州藩鎮の統治者としての側面へ目を向ける必要性がある。この側面には従来然程留意されてこなかったが、『旧五代史』には趙徳鈞の政治手腕を評価する記述が残る他、後代には嘗て幽州藩鎮管下にあった一部地域において彼を祀る祠堂の存在や地方志への名宦としての記載等優れた為政者として評価・認識されていたことを見出だせるのである。
以上を踏まえ、本報告では幽州藩鎮における趙徳釣の治績を分析し、従来とは異なる像の提出を試みる。また、趙徳釣統治時代を地域史上如何に位置づけられるかも探ってみたい。
6、勘合とプララーチャサーン―田生金「報暹羅国進貢疏」からみた明末の暹羅の国書
日本学術振興会特別研究員PD(名古屋大学) 木村可奈子
本報告は、万暦四五年(1617)に広東巡按御史田生金によって書かれた「報暹羅國進貢疏」の分析を通し、外交で用いられた勘合の発行、使用の実態を明末の暹羅の事例を以って明らかにし、主に日本史で進められてきた勘合制度研究に一石を投じることを試みたものである。
本史料の分析から明らかになったのは、以下の5点である。①当時勘合は一〇〇道発行されるのではなく、帰国時に次回使用するための勘合を一道ずつ発行されていた。②万暦年間に再発給された際には、他に予備用に複数道の勘合が発給されていた。③日本のように船一隻につき一道を用いるのではなく、朝貢一回につき一道を使っていた。④代替わりによって新しい元号の勘合一〇〇道を改給するのではなく、号数を継続して帰国時に次回使用するための勘合を一道発給していた。 ⑤朝貢時には勘合に国王の名、使節の名、年月、朝貢品のような必要最低限の事項が書いてあればよく、文書形式は指定されていなかった。日本は礼部への咨文の形で、必要事項を勘合に書き、皇帝への表文は別途準備したが、暹羅の場合は金葉のプララーチャサーンを「表文」として訳して勘合に書いた。そのことに起因し、暹羅では漢文国書を「プララーチャサーン・カムハップ」と呼ぶようになった。暹羅にとってはシャム語で書かれた金葉のプララーチャサーンが正式な「王の書簡」であり、明皇帝を対等視していた可能性が考えられる。しかし、明皇帝にとって対等な君主は存在しえないので、対等な王者同士の書簡は、臣下による「表」という形で漢文訳するしかなかった。
第68回東北中国学会大会
令和元年(2019年)5月25日(土)、26日(日)
第1日 5月25日(土)
於秋田大学教育文化学部六〇周年記念ホール
◆研究発表
1、鮮卑拓跋部の発祥地について
愛知学院大学 松下 憲一
北魏を建国する鮮卑拓跋部の発祥地について、『魏書』巻一、序紀には大鮮卑山に興り、大沢ついで匈奴故地へと二度南下したと記されている。また同書巻一〇〇、烏洛侯国伝には、烏洛侯国の西北に「国家先帝旧墟の石室」があるとされる。これらの記述に基づき、白鳥庫吉・馬長寿以来、拓跋部の発祥地に関する研究が進められ、1980年、米文平によって石室(嘎仙洞)が発見されたことにより、石室の所在地である大興安嶺北側が拓跋部の発祥地であること、さらに宿白以降の鮮卑考古学とあわせて拓跋部の南下の経路も確定され、それが現在定説となっている。
一方で、中国の研究者のなかには、石室を北魏先帝の旧墟とするのは太武帝期の認識であって、嘎仙洞をただちに拓跋部の発祥地とすることはできないとする見解もあり、また日本でも、吉本道雅が『魏書』序紀の分析を行い、序紀は拓跋部が匈奴にかわる北族の覇者であることを主張するため、先行する史書を利用して道武帝期に創作されたとし、序紀に依拠して南下経路を設定した鮮卑考古学を批判した。
本発表では、吉本氏の研究方法により『魏書』序紀の史料源を再調査した。序紀では、黄帝の子孫という中華の正統性と、大鮮卑山に興り、のち檀石槐の鮮卑国家に西部大人推演として参加したという北族の正統性が示されており、それを主張するため王沈『魏書』、『山海経』にある大鮮卑山、大沢、匈奴故地などが盛り込まれた。また太武帝期に烏洛侯国の使者が国家先帝旧墟の石室があると報告したのは、モンゴル高原への進出を強める北魏におもねるための虚偽の報告であり、太武帝がこの報告を受容したのは、この時期、崔浩に命じて国書を編纂させており、石室の存在は拓跋部が鮮卑山に居住したことを裏付けるからである。以上から、拓跋部の発祥地は大興安嶺北側ではなく、二度の南下もなかったというのが本報告の結論である。
2、明清における亡妻哀悼散文の展開
奈良女子大学 野村 鮎子
朱自清の「致亡婦」(1932)や巴金の「懐念蕭珊」(1979)など、中国の近現代文学には亡妻を哀悼した散文の名篇が存在する。平凡ではあるが、妻として母としてその家庭にとってかけがえのない存在だった女性の死を哀悼したものである。
こうした亡妻哀悼散文のルーツとしてしばしば指摘されるのが、憶語体と呼ばれる古典の随筆である。憶語体とは、冒襄の『影梅庵憶語』に因むもので、古典の中でも比較的新しい文学ジャンルである。明清鼎革を経験した冒襄が元秦淮の名妓で彼の側室となった董小宛との日々を綴った『影梅庵憶語』は、後世の文人に影響を与え、陳裴之(小雲)の『香畹楼憶語』、蒋坦の『秋燈瑣語』、沈復の『浮生六記』といった、清の文人が在りし日の妻妾との生活のディティールを描く散文作品の嚆矢となったとされる。
憶語体の文学が清初に誕生し、清代の文人に受容された背景には、亡妻への哀悼がそれ以前の段階から散文の普遍的なテーマとなっていたこと、文学作品を通じて夫婦の情愛に共感する心性が文人の間で醸成されていたことが指摘できよう。
亡妻への哀悼は、現代人の感覚からいえば自然な情性であり、それは文学の一つのテーマと認識されている。しかし、儒教観念からいえば、士大夫が亡妻への悼念を自ら言語化することは憚られることで、その文学様式も悼亡詩などに限られていた。その後、唐宋には士大夫が亡妻のために自ら筆を執った亡妻墓誌銘が登場するが、墓誌銘という文体は金石学の規範上の制約があり、自在に思いのたけを綴る文体ではなかった。こうした中、亡妻墓誌銘に代わって明の中晩期から流行し始めるのが亡妻行状である。私は明から清にかけて流行した亡妻行状こそが、憶語体の文学が誕生する土壌を形成したと考えている。本報告ではこうした明清における亡妻哀悼散文のおおまかな見取り図を示したい。
◆公開講演
主催:漢字文化振興協会・東北中国学会 共催:中国文史哲研究会・秋田中国学会
原左氏伝からの春秋経・左氏伝の成立 ― 中国文明の歴史観
秋田大学名誉教授 𠮷永 慎二郎 先生
春秋テキストは通説では、公羊伝・榖梁伝型の春秋経が先ず成立し、これに続経を付した春秋経が作られ、その伝としての左伝が成立したとする。
しかし卑見では、先ず前4世紀前半に原左氏伝が魯・晋・楚等の列国の史書から編纂され、次に原左氏伝から抽出・編作の手法を基本として春秋経(左氏経)が作られ、同時に経に対する解経文等を原左氏伝に付して左氏伝(今本左伝の祖型)が成立し、ついで経の哀公十四年「西狩獲麟」の下文を削除した榖梁伝及び公羊伝型春秋経が行われ夫々に伝が作られた、と考えている。
これを傍証するのは、哀公十六年までの春秋244年の全経文を、①原左氏伝からの抽出文、②抽出的編作文、③編作文、④無伝の経文という四種に分類する方法による検証である。その分析の結果は、①と②の抽出系の経文の合計が全体の51パーセントを超え、この仮説の基本的妥当性を示す。
原左氏伝からの春秋経・左氏伝の成立は、従来の華夷史観を完成させ、かつ周王から夏王への王権交代という循環史観と名の筆法に拠る名教史観を成立せしめ、中国文明の歴史観の原型をここに形成した。
ドイツの史家べルンハイム(Ernst Bernheim 1850―1942)は、近代史学について「人間の空間的時間的発展の諸事実を、その時々の共同体から見た価値に関係さした心理的物質的な因果関連について究明しかつ叙述する科学である」(べルンハイム『歴史とは何ぞや』Einleitung in die Geschichtswissenschaft,1920,Berlin 坂口昴・小野鉄二訳、岩波文庫、七四頁)と規定し、かつ歴史の総観照においては、史学は歴史哲学(史観)と相互に「補助学」の関係であるとする。
彼の方法を用いると、中国文明の歴史叙述と史観の変遷は、1物語風歴史、2教訓的・実用的歴史、3経学的歴史観、4近代史学の受容(唯物史観等)となる。1は詩・書、2は原左氏伝に概ね対応し、3はその原型を春秋経・左氏伝の成立の段階に求め得る。
第2日 5月26日(日)
於秋田温泉さとみ
第一分科会【文学・哲学】
1、「魯霊光殿賦」における彫刻描写の特殊性―先行辞賦の用例を辿って―
東北大学大学院 木村真理子
『文選』巻十一、王延寿(143頃~163頃)「魯霊光殿賦」は、序を除いて全九段に分けられる。第五段に柱や天井に彫られた彫刻が、第六段に宮殿の壁に描かれた絵画が描かれる。「魯霊光殿賦」の多くの先行研究は、第五段の彫刻描写と第六段の絵画描写に注目する。本発表は、第五段の彫刻描写に焦点を絞って考察する。
第五段には、「奔虎」「虯」「龍」「朱鳥」「騰蛇」「白鹿」「蟠螭」「狡兔」「猨狖」「玄熊」、「胡人」、「神仙」「玉女」の彫刻が描かれる。「魯霊光殿賦」以前の辞賦には、多くの字数を費やして彫刻が描かれる作品が見出せない。しかし、虎、虯、龍、朱鳥、蛇、鹿、螭、兔、猿、熊、胡人、神仙、玉女を描出した辞賦は間々見られる。「魯霊光殿賦」の彫刻描写の特殊性を論じるには、それらが先行する辞賦でいかに描かれてきたかを辿る必要がある。
例えば、「魯霊光殿賦」は、胡人の彫刻に「胡人遙かに上楹に集り、儼雅として跽きて相對す。欺𤟧を仡して以て鵰窅し、𪃨顤顟として睽睢す。狀は危處に悲愁するが若く、憯嚬蹙として悴を含む」(胡人遙集于上楹、儼雅跽而相對。仡欺𤟧以鵰窅、𪃨顤顟而睽睢。狀若悲愁于危處、憯嚬蹙而含悴)と、38字を費やす。
『楚辞』『文選』を確認すると、胡人は、「魯霊光殿賦」以前の辞賦に五例登場する。しかし、先行例は皆、胡人の描写に十字以上費やすことはなく、胡人を主語とせず、その姿や動作を描くこともない。また、胡人を支配されるか、征伐されるものとして描く。「魯霊光殿賦」は、胡人を主語に据え、その悲しげな姿を描く。先行例に比べ、胡人の悲劇に寄り添った描写になっていよう。
本発表は、今に残る「魯霊光殿賦」以前の辞賦を調査して、各々がいかに描かれ、その描出がいかに変遷し、「魯霊光殿賦」ではいかなる工夫がなされているかを検討する。
2、『続高僧伝』感通篇・釈道英伝の諸問題
東北大学 齋藤 智寛
常盤大定「周末隋初に於ける菩薩仏教の要求」(『支那仏教の研究 第一』1938年、名著普及会1979年覆刻)は、周末隋初三十年の仏教史を「支那仏教史の縮写図」と評した。北周武帝の通道観開設より静帝の菩薩僧設置を経て、隋文帝の禅師招致に至る宗教政策とその理念の変遷が、仏教と老荘が衝突と調和を繰り返す後漢から南北朝時代、菩薩大乗の仏教が行われた隋唐時代、禅師仏教時代として仏教の中国化が完成した五代宋という中国仏教史の三転に対応しているというのである。この見解の背景には時代的制約や常盤氏の真宗僧侶としての志向などもありそのまま認めることは出来ないが、しかし北周から初唐に至る王朝の交代と宗教政策の変化に対して僧侶らがいかに対応したかという問題が、中国仏教全体の理解においても重要であることには間違いない。
この時代の仏教をほぼ同時代の記録として伝えるのが唐・道宣(596-667)の『続高僧伝』だが、本報告は、その感通篇から唐蒲州普済寺釈道英伝を取り上げる。道英は北周武成二年(560)に生まれ、恐らくは私度僧として出家、隋の開皇十年(590)に具足戒を受け、摂論派の領袖であり文帝による仁寿舎利塔建立の立役者であった曇遷に師事した後、蒲州(現・山西省)普済寺で『大乗起信論』を講じ禅観を指導した人物である。唐貞観十年(636)の卒。『続高僧伝』本伝には出家の経緯や普済寺の運営など事跡が詳細に記されるほか、彼の禅法についても具体的な記載があって、北周より初唐に至る仏教の寺院生活史と思想史の貴重な資料である。本報告では特に、自給自足の教団生活と「事を以って心を考す」「事に因りて理を呈す」と言語化される禅法について、廃仏への対応と思想・実践の関係や、後の菩提達摩を祖と仰ぐ禅仏教との関連に留意しながら考察したい。
3、『竜図公案』評定本の版本系統について
東北大学大学院 堀川 慎吾
明代万暦年間(1573‐1620)には、犯罪や裁判を扱った小説を集めた公案小説集が多く出版された。北宋(960‐1126)の包拯(999‐1062)を主人公とした一連の公案小説を収録する『竜図公案』は、各種公案小説集の中で代表作とされる。『竜図公案』は所収の公案小説の大半を、それ以前に刊行されていた各種公案小説集を原典とし、再編して成立した公案小説集である。
『竜図公案』の諸版本は、百則を収める繁本と、六十二則をおさめる簡本の二種に分けられる。繁本はさらに、二則ごとに「聴五斎評曰」という評語を付す評定本と、評語を付さない無評語本の二系統が存在する。簡本は繁本のダイジェスト版として出版されたものである事が、莊司格一氏及び根ヶ山徹氏によって指摘されている。根ヶ山氏はさらに、評定本上梓の後に無評語本が成立したとする。
先行研究では以上のように『竜図公案』の版本を、百則を収め二則ごとの評語を付す評定本、百則を収めるが評語を付さない無評語本、六十二則を収める簡本の三種に分ける。『竜図公案』評定本、無評語本、簡本にはそれぞれ複数の版本が存在する。しかし評定本同士あるいは無評語本同士の関連について、先行研究では個別に差異を指摘するに留まっており、詳細な体系化を図る先行研究は管見の限り存在しない。
発表者が山口大学、東京大学、東北大学など、『竜図公案』評定本を所蔵する複数の機関で調査したところ、『竜図公案』評定本の各版本の間には序の内容、話の配列、本文に差異があった。また一部の版本には二則ごとの評語とは別に、文中に批評が存在した。本発表では『竜図公案』評定本に焦点を当て、序の内容、話の配列、本文及び文中の評語に対する比較を行う。この比較検討を通して、『竜図公案』評定本の版本系統を考察することが、本発表の目的である。
4、清代初期における『四書大全』の受容について―陸隴其の取り組みを中心に―
東北大学 尾﨑順一郎
明代永楽年間に胡広らによって編纂された四書・五経そして性理のいわゆる三大全は、科挙の標準テキストとして採用されたことで数多くの読者を獲得し、それにより朱子学の普及に大きな役割を果たした。しかしながら、陽明学の盛行によって朱子学に対する批判的な風潮が起こると、四書の解釈にも大幅な見直しが図られることとなり、夥しい数の四書注が出現することとなった。『四書大全』に関しては、幾つもの校訂本や増注本が編纂されたものの、その一方で学問的に立場を異にする多様な注解本も現れている。こうした潮流は、明代に止まらず清代にまで続くこととなり、やがて清初の陸隴其(1630‐1692)は朱子学を堅持する立場から『三魚堂四書大全』とこれに関連する書籍の編纂を行っていくこととなった。
陸隴其は順治十五年(1658)から六年の月日を費やして『三魚堂四書大全』と『四書困勉録』を完成させた。前者は『四書大全』の校訂と附説の追加を行い、後者は明儒の説を収集したものである。だが、これらは直ちに出版されることはなく、どちらも彼が世を去った後、門人らの手によって漸く康熙三十八年(1699)に出版された。このように両書の出版が遅れたのは、陸隴其自身がこれらの編纂を進める中で、程朱の語録・文集や明代朱子学者の書を十分には目を通せておらず、陽明学者たちが聖人の教えをどう阻害しているのかも捉え切れていなかったからであるという。その後、陸隴其は着実に読書範囲を拡げ、これらの増補・修訂に着手していくことになる。そこで、本報告では陸隴其の四書関連の著作や『日記』などの資料を手掛かりに、彼が置かれた読書環境がどのようなものであったかを検討するとともに、彼がそれまでの『四書大全』をめぐる議論をどのように受容し、自身の見解を示したのかを考察して行くこととしたい。
第二分科会【史学】
1、范曄『後漢書』列伝の構成について
駒澤大学非常勤講師 中本 圭亮
現行、范曄の『後漢書』には史料上、多くの問題点がある。基本的な問題でいえば前代と形式が異なる点が挙げられよう。周知の通り、范曄の『後漢書』は本紀、列伝のみで、志や表を欠き、『史記』や『漢書』とは大きく異なる。国史ともいうべき『東観漢記』は『漢書』の形式を踏襲したようではあるが、三国呉において編纂された謝承の『後漢書』は列伝のみであったし、范曄に先行する「後漢書」には表を備えたものは無かったようである。志については范曄自身、これを編む予定であったが叶わず、後代、司馬彪『続漢書』の志が加えられて、現行の『後漢書』として伝わることとなったが、この点、『後漢書』が歴代正史の中で唯一、巻数表記がなされない要因となった。さらに本紀、列伝は李賢が、『続漢書』の志は劉昭が注を付している。複数の者が関わり、かつ時期が異なることもあり、例えば范曄による避諱と李賢による避諱、及び後に避諱された箇所の一部が修正され、結果として避諱の不徹底という問題などを生じた。
またより重大な問題でいえば、范曄の『後漢書』に至るまでの、複雑な史料状況があげられよう。范曄の『後漢書』は、後漢が滅んでより二百年の後に編纂された。范曄に先行して、『東観漢記』や謝承の『後漢書』など、紀伝体、編年体を問わず、多くの「後漢書」が編まれてきた。范曄の後にもいくつかの「後漢書」があったようであるが、現在に伝わっているのは范曄の『後漢書』と編年体史料の袁宏『後漢紀』のみで、その他は『三国志』や『後漢書』、あるいは類書等に引用される形で僅かながら残っている程度である。范曄『後漢書』と袁宏『後漢紀』との比較研究ですら、なお十分に行われているとは言い難く、『東観漢記』や先行する「後漢書」との関係性など検証すべき点は多く残されている。そこで本発表では、范曄に先行する諸史料、特に『東観漢記』を中心に、先行する諸史料と范曄『後漢書』の列伝の関係性および構成について検討を加えたい。
2、宋代風聞言事考
新潟大学職員 榎並 岳史
一般的に、宋代は士大夫に活発な議論が許された、自由闊達な時代であったというイメージがある。そうしたイメージを裏付けるものとして、宋代の台諫官には、匿名の情報提供者がもたらす不確かな情報、いわゆる「風聞」に基づいて重大な事柄を皇帝や政府に上奏し、それが間違っていても処罰されないという、いわゆる「風聞言事」の特権があった。
北宋天禧元年(1017)二月の詔によって法的根拠を得たとされる、この「風聞言事」の特権は、梅原郁氏や龔延明氏が御史台に関する研究の中で述べたように、建前上は宋一代を通じて存続し続けたと考えられる。しかし、実際の運用実例を確認すると、「風聞」に基づき発言を行った台諫官が責任を追及された例も散見され、当初の制度設計通りに運用されていたと考えることは難しい。
こうした制度と実態の乖離については、賈玉英氏や刁忠民氏からも指摘されている。とりわけ刁氏は「風聞言事」の特権が仁宗朝には制約され始め、神宗朝の元豊官制改革で台諫官の権限が削減されるのと連動して弱体化していったと指摘しており、「風聞言事」の特権の盛衰について貴重な示唆を行っている。しかしこうした先行研究においては、個々の「風聞言事」に関する事例を取り上げての検討は行われておらず、「風聞言事」の特権の何が問題視され、どのように制限されるに至ったかについては、いまだ検討すべき課題として残されている。
報告者は本報告で、宋一代を通じて発生した「風聞言事」を巡る個々の事例を収集・検討することを通じ、宋代における「風聞言事」の特権がどのような理念に基づいて制度設計されたものであったかを明らかにし、併せてその特権の何が問題とされ、どのように制限された(あるいはされなかった)のかについて、明らかにしたい。
3、明代寧波鄞県出身官僚の絶貢論
立正大学大学院研究生 貞本 安彦
明初、貢市体制あるいは朝貢=海禁体制が形成された。この「固い」とも形容される体制は、日本・新大陸の銀の流入が生じると、南北辺境での交易が活発化し、「北虜南倭」を引き起こした。明朝はこれに対し強圧的方針を取るが失敗し、モンゴルとは隆慶和議、海上軍事集団とは月港(漳州)開港により互市を容認した。これにより明朝の外交・貿易システムは、貢市体制から互市体制に移行したといわれる。
互市や開港を主張・推進した者が、土地所有だけでなく多角的経営をしていた当地の郷紳であったことは、井上徹氏らの先行研究で既に指摘されている。福建では林希元が開港論を主張し、広東においても黄佐らが開港政策を主張・推進している。北辺では山西商人の家庭を出身とする王崇古が、高拱・張居正と組み、隆慶和議を成立させた。
それでは浙江の郷紳はどうであったのだろうか。中島楽章氏は文禄の役における日本との講和交渉において江浙出身の官僚が講和を支持することが多く、江浙商人の支持を受けたものと推論している。ただ江浙出身の官僚も一様でなく寧波鄞県出身の沈一貫は日本との通貢を反対している。中島氏はその理由として、寧波争貢事件や嘉靖大倭寇などの影響が大きく、寧波の郷紳や有力者層は貿易の利潤よりも安全保障を優先して通貢に対して反対した、と述べる。しかし、報告者は寧波争貢事件及び嘉靖大倭寇以前においても寧波争貢事件以前に郷紳は既に日本との通貢に反対していたことが、寧波鄞県出身官僚の文集から確認できる。
本報告では永楽年間から嘉靖年間に至る寧波鄞県出身官僚である黄潤玉・楊守陳・戴鱀の通貢反対論について考察する。
4、二十四衙門間の兼務の分析を通じた明代宦官組織の変化について
秋田県生涯学習センター社会教育主事 進藤 尊信
中国史における宦官研究は長い間、後世に編纂された史料に基づいて行われてきた。そして多くの場合、「宦官は悪い存在」という前提で史料が編纂されていたため、その方向性から離れた宦官に関する新しい知見を提供することができずにいた。しかし近年、墓誌などの同時代史料が多く発見されており、これらの史料から宦官組織そのものについて分析することが可能になった。このような状況下、発表者は以前、墓誌などから宦官の経歴を収集し、役職の変遷を元に明代の宦官組織がどのように変化していったのかを考察した。そしてその後、収集数を増やすことなどを通じ、より細かい分析を行うことが可能となった。
明代の宦官組織は、二十四衙門(十二監・四司・八局)と呼ばれる行政組織群を中心に構成されている。これらの組織の概要については『明史』でも確認できるが、墓誌などを見るとこれら二十四衙門間での役職の兼務が行われていることが確認できる。本来は別々の役割を果たす二十四衙門間で、役職などの兼務が行われることには何らかの要因があると考えられる。さらに、二十四衙門は最上級職の品官によって十二監と四司・八局の大きく二つのグループに分けられるが、監同士や監と司・局間の兼務関係なども確認することができる。
また、これに加えて、役職の呼称の変化などからも宦官組織の変化を推測することが可能である。
そしてこれらの状況・変化は、史料の多寡に左右されるものの、明代中期(成化~嘉靖期)に特に顕著に確認することができる。
本発表では、以上に挙げた二十四衙門間の兼務状況や役職の呼称が、明代中期(成化~嘉靖期)になぜ起き、どのように変化していったのかを分析したい。そしてこの分析を通じて、明代宦官組織について新たな知見を示したい。
5、明末における北京牙行の経営実態
東北大学大学院 銭 晟
明代において、南京から北京への遷都や北方への軍事遠征などの国家プロジェクトの下で、経済活動を支える商品の流通が全国的規模に拡大した。その結果、北京及びその周辺の地域が大規模な商業圏を形成し、圏内の商人層は経営の業務を拡張した。この点に注目する先行研究では、「鋪戸」という店鋪を構える商人に考察を加え、これを通して北京商人層の経営実態を把握したが、その一方で「牙行」という仲介業商人に対する検討はほぼなされていない。また、仲介業研究の従来の認識によれば、北京を含む華北地域の牙行は明代になお当地の経済の規模に制約され、店舗の数量は江南地域に及ばず、活動の範囲も固定の市場(官集)に限られたという。しかし、実際には、北京は前述のように物資の巨大な消費圏を形成していたので、当地の牙行に対しては、従来の華北地域に対する認識では捉えきれない。本発表は先行研究上のこの問題点に着目して、以下の二点から北京地域の牙行の経営実態に検討を加えるものである。
まず、北京における牙行の数量について考察する。国家は明末の崇禎二年に全国の地方官府から「牙行換帖費」という税目を徴収し始めた。これに応じて、地方官府が在地牙行の数量を基準に当地の換帖費の徴収額を設定した。そのため、一地方における徴収額の多寡は当地牙行の数量と強い相関関係にあると考えられる。そこで、換帖費のこの特性を用いて、北京の換帖費徴収額と江南各地域の徴収額とを分析し、これにより北京牙行の数量を把握する。
次に、北京牙行の活動範囲について分析する。明末において、牙行は「買弁」という物資調達の商役を負担していた。その場合、牙行の経営者が買弁に関わる衙門に赴いて物資の集荷に従事するため、その活動範囲は当然、官集を超えたわけである。すなわち買弁に関わる衙門の所在に考察を加え、これによって北京牙行の官集以外の活動範囲を捉えていく。
以上によって、北京牙行の経営実態を把握し、彼らに関する従来の認識に修正を加えることが本報告の目的である。
第69回東北中国学会大会
令和3年(2021年)5月29日(土) 9時30分開始
Zoomミーティング
【午前の部/史学】
1 後漢における軍隊観―『司馬法』『白虎通』および軍礼・軍法との関わりから―
青木 竜一(東北大学大学院)
世界の他の国や地域と比べた帝政中国の軍事の特徴として、軍事は皇帝とその下の官僚制度に基づく統治体制・社会秩序の維持のために用いられることを主たる目的とし、軍隊は官僚制度の一環として運用され、軍隊そのものが官僚化していたと言われる。しかし、そのような「軍隊の官僚化」は、帝政確立と同時に完成したわけではなく、たとえば前漢の軍隊には春秋・戦国時代以来の性格が強く残され、それを率いる将軍は皇帝権力の埒外にある存在であったということが、先学によりすでに指摘されている。それでは、帝政中国における軍隊の官僚化とは、いつ、どのような経緯により達成されたのであろうか。
本発表ではそのような観点から、前漢の軍制を一部引き継ぎ、一部大幅な改変を施して独自の軍制を確立した後漢王朝の軍隊に注目し、「軍隊の官僚化」のプロセスとその性格の一端を明らかにすることを目的とする。特に本発表では、そもそも後漢王朝が軍隊というものをどのような存在として位置づけていたのか、とりわけ、皇帝を頂点とする上意下達の構造の中で、皇帝や朝廷によって統御されるべき存在として軍隊を見なしていたのかどうかという点について検討を加える。
具体的には、後漢王朝の理想とする国家理念について記されている『白虎通』の中の軍隊に関わる記述を分析し、さらにそれが理念に留まらず、礼制や法制などの現実の制度や軍事運用にも反映されているのかどうかを、『後漢書』やその他の史料に照らして検証する。それらに当たっては、後漢時代の軍事理念に対して大きな影響を与えていた『司馬法』との関係性を検討することも欠かせないので、『司馬法』の理念や後漢時代におけるその地位についても取り上げる。そうしてその上で、続く魏晋時代の軍制との性格の違いについて比較し、今後の研究の展望を述べる。
2 魏晋の対呉・蜀前線における都督区の細分化と軍事戦略との関係
潘 宗悟(東北大学大学院)
魏晋における州(郡)都督区とは、州(郡)都督の管轄する軍事区画である。先学は官僚制度・政治制度史、政治史、地方行政史の面から、都督区について研究したが、軍事史の面からの研究は少なく、都督区の設置における軍事戦略上の意義については研究の余地を残している。
曹魏文帝・明帝期以降、二州、三州にわたる上級都督区から細分化された、豫州・江北(=沔北)・隴右(=秦州)・徐州と、新設された益梁・巴東という対呉、蜀前線における都督区の前身は、常設都督区が設置されていない州・郡などの行政区画や軍事戦略上の要地であった。①蜀漢と孫呉それぞれの軍事戦略の実現を阻止するため、②従来の広い都督区内において各地区が互いに支援することが難しいという軍事戦略上の問題を解決するため、③対呉、蜀の出兵拠点を増やし、魏の旧来の都督区と掎角をなし、呉・蜀を征服する軍事戦略を貫徹するため、という三つの理由から、元々上級都督区に属していた地区の一部を分離し、独立した常設都督区を新たに設置し、時には同名の軍事区画と行政区画とが併存するようになった。従って、対呉、蜀前線における都督区の細分化と増置の原因は、先学諸氏が指摘する都督の権力を制限するためという理由だけでなく、呉・蜀を征服するために実行された軍事戦略も見過ごしてはならない要因であったと考える。
魏晋の都督区は軍事戦略に従ってしばしば変化していたが、軍事戦略に変わりがない場合には、たとえ魏晋交代のように政権が変わっても、同様の都督区が変わらずに設置されていた。魏晋の都督区のように、行政区画とは別に、軍事戦略に従って独自の軍事区画が設定されたという点は、漢代以前には見られないものであり、まさにこの時代特有の現象であったと思われる。
3 南海神廟蔵『六侯之記』から見た宋代の広州
張 振康(大阪市立大学大学院)
東アジアにおいて、「四海」に対する崇拝により、東南西北の四大海神信仰が生じた。なかでも、南海神信仰はもっとも影響力の高く、現在に至っても持続してきた海神信仰としてあげられる。南海神信仰の展開は、広州という港市に依存し、海域交流により多元な文化的事象が広州に引き起こされ、それがゆえに南海神信仰にも帝国祭祀の範疇から乗り越えてより豊富な文化的意味を有するようになった。
広州に位置する南海神廟は南海神信仰の本拠地であり、そこに歴代の南海神関連の石刻が保存されている。なかには、『六侯之記』という石刻史料があり、達奚司空などの神侯は南海神の周辺に守護していることが語られるものである。こうした神話的場面は本当の歴史に基づいて描かれるのであれば、天竺人・北人・蜑家人とムスリムという外来的な四つの集団は、海を渡って広州に来航して、当時広州の地元住民と生活して、広州の多元的な社会「族群」の構成を促してきた存在として位置づけられよう。要するに、この『六侯之記』という神話物語から、当時広州で住んでいた人々には、広州社会における「族群」的集団の構成に関する認識が読み取れるように考えられる。南海神は次第に広州において土着化しつつあるなか、加えて『六侯之記』における神侯の物語から、四つの外来的「族群」を代表した四人の神侯が広州本地の代表である南海神の周辺に見守っている様相を呈することがわかるようになった。こういう神話的場面は真実の歴史・社会的要素と無関係ではないようであれば、それは外来的グループが海を渡り広州に来航したという史実が反映される。海からきた外来的集団は、次第に広州の地元住民と一緒に生活し、宋代広州の多元的社会を形成させ、当該期の異文化交流を成し遂げたとも言える。『六侯之記』という神話物語の背後には、当時の広州の地元住民が広州社会の「族群」構成に関する認識が潜められているように考えられる。
4 張栻の交遊関係からみる潭州城南書院と嶽麓書院の関係
金 甲鉉(大阪市立大学大学院)
南宋書院の多くは長く続くことなく、創建者一代で廃される場合が多い。しかし、現今の南宋書院研究では長く存続した大規模書院に注目する傾向が強く、短い期間しか存在しなかった数多くの書院の存在は見逃されている。本報告では同時期・同地域に存在した書院の関係に注目し、その一例として湖南潭州(今の長沙)の城南書院と四大書院の一つと呼ばれる嶽麓書院の関係について、張栻の『南軒先生文集』に表れる交遊関係を手がかりに考えてみたい。
張栻が潭州に定住していたのは、乾道元年(1165)~乾道4年(1168):前期、乾道8年(1172)~淳熙元年(1174):後期、計7年間である。この時期、彼は城南書院と嶽麓書院を中心に活動していた。彼のやり取りした414通(時期未詳67通)の手紙の中、153通がこの時期のものである。その交流像をまとめてみると、張栻が本格的に潭州に住み始めた定住前期には主に胡宏の弟子との交流が多く、嶽麓書院の教授を務めていた定住後期には呂祖謙などの湖南外部の学者との交流が盛んであったとみえる。
このような関係から両書院について考えると、まず張栻が創建した城南書院は、張栻の家塾として使われ、彼の個人研究室として利用されていたと考えられる。城南書院が個人研究室としての姿を見せるのに対して、嶽麓書院は大勢の学者が集まって討論を基にする講学が行われた空間であったと考えられる。張栻と湖南地域の学者との学術交流の中心であり、朱熹・張栻の会講が行われるなど広域にわたる講学の場として使われていた。その中で張栻は湖南外部の学者との人脈を活用し、湖南の人士に多様な見解を提供する存在になっていった。本報告では、その具体像について明らかにしたい。
【午後の部/哲学・文学】
1 班固の「明哲保身」の処世観について
南部 英彦(山口大学)
本発表は、後漢・班固(32~92)の処世観に着目する。かつて岡村繁氏は「班固と張衡―その創作態度の異質性―」(『小尾博士退休記念中国文学論集』、第一学習社、1976、所収)という論文で、後漢初期と中期に相前後して登場した文豪の班固と張衡(78~139)を取り上げ、両者の間には、「両都賦」と「二京賦」、「幽通賦」と「思玄賦」、「答賓戯」「応譏」と「応間」、『漢書』と『漢記』という題材が類似した著作があったが、しかしその一方で両者の創作態度には漢室中心の絶対主義への迎合の態度と腐敗堕落した後漢王朝の現実への批判的態度という相違があったとする。
岡村氏は、班固のこうした創作態度の根底には「彼の「離騒序」(『楚辞』王逸注本所収)に強調する「明哲保身」の処世観」があったとするが、しかし岡村氏はその内容を「離騒序」の文脈に即して明らかにしていない。班固が抱いた「明哲保身」の処世観の内容は、「離騒序」が引く『詩』大雅・烝民の「既明且哲、以保其身」という二句の用法を押さえることがその解明への糸口になると思われる。
そこで本発表では、まず「離騒序」や『漢書』における『詩経』大雅・烝民の二句の用法を確認する。ついでその結果を、八木章好氏の論考「「明哲保身」考―中国文人精神の表象として」(『慶應義塾大学言語文化研究所紀要』45、2014)が示唆する『詩』大雅・烝民におけるこの二句の本来の意味や『詩経』以外の書物でのこの二句の用法と比較して、班固の「明哲保身」の用法の特徴を捉える。さらに彼の「幽通賦」「答賓戯」を通して、その処世観が性命観と深く関わることを確認したうえで、彼自身が班氏の家運や後漢王朝の現状を踏まえつつ選択したのはどのような生き方であったかを明らかにしたい。
2 『養生要集』の構成と医学思想
浦山 きか(東北大学)
『養生要集』(以下「本書」と略す)は、東晋の張湛の撰になる医書であり、『隋書』経籍志に「養生要集十巻、張湛撰」とあるのがそれと見られている。すでに散逸して伝わらないが、佚文は『初学記』『太平御覧』等の類書、『千金翼方』等の医書に見られるほか、日本においても丹波康頼『医心方』(984年)ほか複数の書籍に残されている。特に『医心方』における引用は320箇所を超え、日本の身体観や医学の形成に対する影響が大きかったことがうかがわれる。
本書の復元については、坂出祥伸「張湛『養生要集』の復元とその思想」(『道教と養生思想』所収、ぺりかん社、1992年)によって試みられているが、当該論文では、本書の構成に基づいた考察はされておらず、同時代の医書との関わりを考慮した復元がされているわけではない。
よって、本発表は、いまだ考慮されていない具体的な本書の構成を明らかにしつつ、同時代医書にあらわれた医学思想との関わりを明らかにすることを課題とする。
その方法として、まず『千金翼方』巻第十二・養性・養性禁忌第一冒頭に見られる引用と『医心方』巻第二十七・養性とを踏まえた「一・嗇神」「二・愛気」「三・養形」「四・導引」「五・言論」「六・飲食」「七・房室」「八・反俗」「九・医薬」「十・禁忌」の十部構成を想定して、佚文を内容ごとに分類・配列し、本書の復元を試みる。ついで、同時代の医書の類文と比較検討を行い、また内容によっては張湛の残した『列子注』等を用いて本書の本来のすがたに迫ろうと試みる。
上記の試みは、『養生要集』に表わされた医学思想、さらには張湛の養生思想をより立体的に探ることにつながるとともに、同時代の医学思想・養生思想をより全体的に考慮するための視点の構築に寄与することになると考えるものである。
3 蘇軾の西湖詩について
室 貴明(東北大学大学院)
今日「西湖」と言えば、杭州にある「西湖」を指すのが一般的だ。「西湖」が杭州の「西湖」を指すことになったのには、歴史的な変遷があった。杭州という大都市の名所であることもその一つだろうが、何よりも文学的な彩りが加えられたことが大きい。文学的な彩りを加えたのは、白居易であり、林逋であり、蘇軾であった。
蘇軾はその生涯で杭州に二度赴任している。一度目の杭州赴任時に詠んだ「西湖を把りて西子に比せんと欲すれば、淡粧 濃抺 總べて相い宜し。(欲把西湖比西子、淡粧濃抺總相宜。)」(「飮湖上初晴後雨二首・其二」)は、西湖を詠んだ詩句の中で最も人口に膾炙したものであろう。
先行研究では、蘇軾以前に詠まれた西湖詩と比較して、「白楽天による春の西湖を絵とみる直喩、晴雨の西湖を美女に見立てる蘇東坡の隠喩、林逋による孤山の隠棲と仙境化」と三者は三様に西湖を詩に詠んだとまとめたものがある。また、一度目と二度目の杭州赴任期に詠まれた西湖詩の相違点に着目して、一度目の赴任では、西湖を美女に喩える奇抜な詩句が見られ、その作詩姿勢は積極的であるものの、二度目の赴任では「西湖は真に西子」など一度目赴任時の佳作に依存しようとする受動的な作詩姿勢があったと論ずるものもある。
これらの先行研究は、西湖という詩跡に焦点をあて、その中で蘇軾がどのような役割を果たしてきたかを明らかにしようとした研究である。一方で、西湖を含めた広く湖を詠んだ詩の中で、蘇軾の西湖詩がどのように位置づけられるかを論じたものは管見の限り見当たらない。そこで、本発表では蘇軾以前の湖を詠った詩を視野に入れ、湖を詠った詩の系譜の中に、蘇軾の西湖詩がいかに位置づけられるのかを示していきたいと思う。
4 王陽明の南京時代における学術論争―王道との議論を中心に―
費 康幸(東北大学大学院)
王陽明は、正徳七年に南京太僕寺少卿の肩書きを得ると、同八年十月、まず応天府北西部の滁州に赴任し馬政を司った。そして翌九年、南京鴻臚寺卿に昇進し、同十一年九月まで南京に滞在した。彼が滁州および南京に在住した時期を、ひとまず「南京時代」と呼ぶことにする。この南京時代の思想活動が、正徳十三年における『古本大学』•『朱子晩年定論』•『伝習録』(薛侃編)の刊行として結実したことは、すでに先学によって指摘されている。
南京時代、王陽明は学者としての声望を日増しに高めていた。だがそれと同時に、彼の学説に反対し論戦を交える者も急激に増加した。そもそもこの時期の彼の学説に関しては、朱子学に慣れた人間はもとより、その門下の人士にしても、それを直ちに理解することは容易ではなかったのである。王道とは、そうした門人の典型であった。彼は、南京に在任した正徳八年から九年にかけて、『中庸』や『孟子』にみえる「明善誠身」の理解をめぐり、王陽明と議論を交えた。そして同十年に北京転任ののちは、陽明学を手厳しく批判するようになった。彼の陽明学批判は、北京における周囲の思想状況により醸成された側面を持つが、その中心にあるのは、南京在住時に形成された彼独自の思想的立場である。
本発表では、南京時代における王陽明の学術論争のなかでも、王道との議論をとくに取り上げ、王道の思想的立場にも配慮しつつ、議論の経過やそれに対する陽明の受けとめ方などを考察する。その目的は、王陽明が自らの思想を練り上げる中で、この時期の学術論争が持った意義を明らかにする点に在るのであり、これらの問題について、先学の研究成果を踏まえながら検討を加えたい。
5 中国漫画言説の系譜
城山 拓也(東北学院大学)
中国では1980年代、畢克官『中国漫画史話』が登場し、漫画を評価する枠組みが徐々に形成されていく。
畢克官は漫画家としての経験、および豊富な資料に基づき、民国期中国で隆盛した印刷媒体における絵を、漫画史という形で構築していた。同時期には、葉浅予や黄苗子など、民国期に活躍した画家の自伝、回想録も登場し、そうした試みに裏付けを与えている。1990年代以降は、呉福輝の「海派」研究や李欧梵の「都市文化」研究など、イデオロギーに抑圧されてきた諸文化の再評価も進んだ。こうした中、中国の漫画は、アメリカのカートゥーン、コミックストリップ、日本のマンガ等と肩を並べる、独自の歴史を備えるジャンルとして立ち現れていく。
2000年代以降は、主に中国国外の研究者により、視覚文化全般に関する研究が活発化している。特に、瀧本弘之らの木刻研究、それに武田雅哉らの連環画研究は、大量の資料の発掘と整理により、新しい中国文化史の可能性を示したと言えよう。漫画家と木刻家との相互交流、漫画と連環画の表現上の相違点に着目する研究も増えてきた。ただし、現在のところ、漫画、木刻、そして連環画は、それぞれ縦割りのジャンル史として展開される状況にとどまっている。
発表者はこれまで、特に葉浅予の作品を中心に、民国期中国の漫画の実態について調査を進めてきた。その作業の中で分かってきたのは、いわゆる漫画のあり方から漏れ落ちる作品が、想像以上に多かった点である。一方、今日の言説は、そうした歴史的事実をカッコに入れたまま、1980年代以降の枠組みを反復・再生産し続けているように思える。それでは、今日の漫画言説を規定している要素、メカニズムはいかに構築され、いかなる特徴を備えているのか。
本発表では、主に1980年代以降の代表的な中国漫画言説を整理、検討することで、それらを特徴づける制度を出来る限り相対化し、今日の中国漫画研究が置かれている状況を明確にしたい。
第70回東北中国学会大会
令和4年(2022年)5月28日(土) 9時30分開始
Zoomミーティング
【午前の部】
1 後漢末の軍事における節と鉞 ―軍事司法に注目して―
青木 竜一(東北大学)
帝政前期の中国において、将軍等の大権を保障するアイテムとして、「節」と「鉞(斧鉞)」とがあった。いずれも軍中における賞罰等の専断権、特に軍令違犯者に対する専殺権をも保障するという点で、極めて重要な器物であった。この内、斧鉞が先秦時代より征討軍の軍事長官に授与されていたのに対し、節の授与が明確に定型化されるの
は、後漢の霊帝期以降である。やがて魏初に都督制が成立すると、次第に節に関する制度も整えられ、西晋になると「使持節」「持節」「仮節」の三等の権限・資格として確立された。権限を及ぼし得る範囲や、それを発動できる条件は各々異なるものの、三者に共通するのは、軍事行動中における軍令違犯者に対する全面的な専殺権が保障されているということである。軍事司法権を中心とするこのような節の性格は、南北朝時代を経て唐代、そして日本の律令制度にまで、いくらかの変化を伴いつつ引き継がれることとなる。つまり、魏晋南北朝の都督制のみならず、軍事に関わる唐や日本の律令制度の理解のためにも、節や斧鉞の性格の解明は必須のものとなる。
さて、すでに斧鉞というものがありながら、新たに後漢末に出征軍の長官に対する節の授与が定型化し、それが魏晋期にかけて制度化されたのはなぜか。また、後漢末以降、同一人物が節と斧鉞の両者を授けられる事例が頻出するが、両者の権限には如何なる差異があるのか。それらに関して、先行研究では未だ十分には明らかにされておらず、むしろ誤った理解がなされているのではないかと思われる面もある。さらに、軍事における節の基本的な機能である軍事司法権に関して、斧鉞との違いに注目した研究も皆無である。そこで本稿では、後漢霊帝期から後漢末曹操政権へ至るまでの軍事における節と斧鉞の役割について、軍事司法権を中心として分析していき、それによって魏晋期に節の制度が確立した経緯を解明する足掛かりとすることを図る。
2 南朝宋の輅制改革
周 玥珊(東北大学)
輅制とは儀礼で使用される車輿の制度であり、冠服と併せて「車服」と称せられた。「車服」は、後漢時代から、車服は人の身分地位を表すという特質を持っていた。南北朝時代、「車服」についての様々な規定が新たに創設された。特に南朝宋の時代に、孝武帝は『周礼』に依拠し、『周礼』に記載された車制である五輅を創造し、後の明帝
はさらに輅車と冠服について、改革を行った。先行研究は、南朝宋の時代の車服創造を論じる際、北朝を意識して宋王朝の正統性を強調したことに主眼を置いて論じてきた。しかし、孝武帝の大明三年(459 年)から泰始六年(470 年)までの僅か 11 年間、人の身分地位を表す車輿である輅車について、二回の改革が行われたことに着目すると、より明確な動機を持っていたと考えられる。本発表はまず輅制改革の根拠としての『周礼』春官の巾車の条の記載を整理する。次は、宋の孝武帝・明帝の改革の内容と『周礼』の記載と対比しながら、五輅を創造した時代である南朝宋の輅制改革を分析する。
南朝宋の輅制は『周礼』に基づいて創造された制度だが、『周礼』の五輅と明らかに異なる。この相異は、改革の目的を示す。『周礼』の五輅は天子の車と諸侯に与えられる車という二種の属性を持っているが、孝武帝が創造した五輅は皇帝一人の車であった。改革の目的はつまり、皇帝と皇帝以外の全ての人の間の格差を強調し、皇帝の地位を確立することである。また、『周礼』の冕服と五輅は根本的に異なるが、明帝は改革を通し、皇帝の車服を一つの体系にまとめた。孝武帝の輅制より進化した原因としては、明帝が直面した政治的危機がより深刻で、皇帝の地位の確立がより切迫していたことが考えられる。
南朝後期の輅制はおおむね宋に従った。同時期の北朝にも輅制があったが、皇帝の地位を強調するためできた南朝の輅制とはかなり異なる。南朝宋の輅制が後世に与えた影響や北朝との差異の解明は、今後の課題としたい。
3 『大唐開元礼』にみえる万歳唱和
三田 辰彦(東北大学)
本発表の目的は、『大唐開元礼』所載の各種儀礼にみえる万歳唱和について、その儀礼における位置づけを解明することである。現代日本にも随所でみられ、先年の即位礼正殿の儀においても行われた万歳唱和という所作の淵源は中国古代に遡る。では中国王朝の諸儀礼にみえる万歳唱和は儀礼の中でいかなる位置づけにあったのか。先行研究は、万歳が主に皇帝への祝賀に用いられ皇帝の専称となった時期を論じるものが多い。皇帝の酒宴や朝廷の儀礼に用いられたこと自体はつとに指摘されているが、どういう性質の儀礼に組み込まれ、どのような役割を果たしたかについては論及がない。そのため、儀礼にみられる事例を精査しその位置づけを具体的に探る余地がなお残されている。
そこで本発表では、唐までに編纂された正史の礼儀志・礼志にみえる事例を補助線としつつ、唐代の国家儀礼を体系的かつ詳細に記した礼典『大唐開元礼』を主たる史料として考察を進めた。万歳唱和の確認できる儀礼を整理すると、元会儀礼を中心として皇帝・皇后・皇太子の人生儀礼に援用されるという特徴がある。万歳唱和の対象は元会儀礼の朝賀型・会型によって異なり、前者は皇帝のみで後者は皇帝に加えて皇后・皇太子を含むことが明らかとなった。皇帝専称としての用法が確定した時期に関する従来の知見は修正を要しよう。万歳唱和のタイミングは朝賀型・会型とも祝賀パートを締める際に行われる。さらに前代の儀礼と比較すると、『大唐開元礼』は元会儀礼の朝賀型・会型として万歳唱和を含む儀礼を再編成し、かつ会型は皇帝・皇后・皇太子を対象とするよう再構築されたことが判明した。皇帝・皇后・皇太子の礼制上の特別性を示す点で従来研究をさらに補強するものとなろう。
万歳唱和は日本と中国、過去と現在とを架橋する所作という点で比較史の恰好の素材といえる。その意味で本発表は後日の比較史研究に供する一つの試みでもある。第 70 回東北中国学会大会要項
4 宮殿賦としての王延寿「魯霊光殿賦」についての考察―漢賦の宮殿描写と比較して
木村 真理子(東北大学)
王延寿(143 頃~163 頃)「魯霊光殿賦」は、『文選』巻十一に「宮殿」賦として収録される作品である。呉従祥氏「論王延寿《魯霊光殿賦》的芸術創新性」 (『唐都学刊』、二〇〇五年 第二期)は、「魯霊光殿賦」を、京都・宮殿賦の中で「作者主体の介入」が認められる最も早い作品であるとする。しかし、呉氏が挙げる「作者主体の介入」の例の中には、先行する京都賦の中に見える修辞に類似した表現もある。「作者主体の介入」を強く印象づける要素は、呉氏が挙げる箇所以外にあるのではないか。
「魯霊光殿賦」は、自序で、「予 客たること南鄙よりし、藝を魯に観る」という「予」の個人的な事情をのべ、霊光殿を目にしたときの「予」自らの感慨を「詩人」の「興」が「物に感じ」ておこったことに重ね、作品内部の動作主、発言者がすべて語り手「予」であることを印象づける。
先行する京都・宮殿賦がほとんど描かない宮殿内部の空間を、「魯霊光殿賦」は詳細に描写している。しかし、たとえば、先行辞賦作品に、女性のいる部屋、私的な空間として見える「洞房」は、語り手の他に何者も存在しない薄暗い空間として描かれる。
宮殿外部の空間は、先行の京都・宮殿賦では、固有の名を持つ建物や池、季節の動植物の羅列によって彩られる。しかし、「魯霊光殿賦」にはそれらは見えず、移動する語り手の目から見た「漸台」とその周辺の道の形状が描かれるのみである。
「魯霊光殿賦」は、宮殿内部空間・外部空間を詳細に描写しながら、そこに実在の生き物を登場させず、血の通った存在である語り手に、読者の目を集中させる。
語り手の身体に読者の視線を引きつけるこうした工夫が、呉氏のいう「作家主体」の介入を強く印象づける効果をもたらしていると考えられる。
5 敦煌出土『鍼灸甲乙経』残片と伝世の『黄帝内経太素』『黄帝鍼灸甲乙経』抄本の比較
浦山 きか(東北大学)
『黄帝鍼灸甲乙経』(以下『甲乙経』と略す)は、隋・楊上『黄帝内経太素』(以下『太素』と略す)と並び、『黄帝内経素問』『黄帝内経霊枢』(以下『素問』『霊枢』と略す)の代表的な再編纂書である。皇甫謐(二一五~二八二)の編撰になるとされてきたが、近年、四世紀半ばの無名氏による編撰との説が提出されている。
「皇甫謐自序」によれば、『甲乙経』は、魏の甘露年間に「風を病んだ」ことを契機に、『素問』『鍼経』(『九巻』とも)『明堂孔穴』の三書を再編纂して作ったという。『隋書』経籍志・医方には『黄帝素問』に次ぎ『黄帝甲乙経』の書名で二番目に記される。
現伝の主要な『甲乙経』には、刊本「医統正脈本」と抄本「明藍格抄本」がある。
前者は明の万暦二九年(一六〇一年)に、呉勉学刊行の「古今医統正脈全書」に収められ、後者は旧陸心源蔵書で静嘉堂文庫が収蔵する。しかし刊本と抄本に異同が多く、抄本は宋改当時の古体を保存している可能性が指摘されてはいるものの、その扱いは定まっていない。よって、『甲乙経』は鍼灸史上において重要な書でありながら決定的
なテキストの確立に至っていない。
さて、敦煌文書には、『甲乙経』と見なされている残片がある。
一、「病形脈診」(P.3481+S.10527)、『甲乙経』第四巻「病形脈診第二下」に相当。
二、「陰陽大論」「正邪襲内生夢大論」〔Дx.2683+Дx.11704+Дx.2683A〕、『甲乙経』
第六巻「正邪襲内生夢大論第八」の篇題を挟み、同篇前部と「陰陽大論」後部に相当。
敦煌文書と『太素』とを考え合わせるならば、『甲乙経』を、より原型に近い形で復元できると考える。特に『太素』仁和寺本、『甲乙経』明藍格抄本は、その一級の資料となり得る。
本発表では、敦煌文書『甲乙経』と伝世の『甲乙経』『太素』の抄本について、その文面・用字法の比較校勘を通じて、『甲乙経』の原型の復元を試みるとともに、その伝来過程及び諸書との関係性を明らかにするものである。
【午後の部】
6 張説の碑誌文とその変革の意義
金 鑫(東京大学)
張説(六六七〜七三〇)は初唐と盛唐の間を結ぶ重要な文學者である。『舊唐書』張説傳に「尤長於碑文墓誌、當代無能及者(とりわけ碑文や墓誌に優れ、當時は及ぶ者がなかった)」というように、特に碑誌文のジャンルの名手として高い評価を受けた。本発表では、六朝・初唐に流行した庾信の碑誌文を比較対象にして、張説の碑誌文の特徴およびその変革の意義を考察する。
張説の碑誌文に関して、先行研究の多くは散体で書かれた数篇の作品に関心が集中してきた。しかし、それらの碑誌文の対象は張氏一族または身分の低い友人に限定され、当時の「私撰」(私人の求めに応じて作る)碑誌文の通例に従ったにすぎない。より注目すべきは高位高官の人から執筆を依頼された碑誌文であり、張説の場合、こうした
作品はほとんど駢句と散句を混用するスタイルをとる。しかし、張説の駢散の組み合わせは庾信と明らかに異なる。庾信の碑誌文は一篇を通じて形式が整った履歴書的な傾向が強いのに対して、張説の碑誌文は定型がなく、形式が多樣な逸話集のようなものである。
また、張説の碑誌文は儒家経典との関連が緊密である。句型や典故の多くは経書に由来したものであり、教化を宣揚する意識が強い。この点は、修辞機能に偏り美文的性格が強い庾信の碑誌文とは異質である。
このほか、張説が叙事のために長い段落にわたり散句を使う點も、庾信の碑誌文との重要な差異として擧げることができる。このような散句の部分には、特に史書および雑史・小説からの影響が窺え、初唐に編纂された『晉書』の叙事手法と一致するところが多い。
以上の特徴によって、張説は六朝・初唐の碑誌文における単調な定型を打ち破り、中唐の韓愈らのスタイルを導く存在となったのである。
7 「折腰体」とはいかなるものか――三浦梅園『詩轍』の観点を中心に――
陳 俐君(台湾中央研究院)
『詩轍』六巻は、日本の江戸中期の思想家である三浦梅園(名は晋、 1723-1989)が著した詩学書である。小川環樹氏は『詩轍』を「作詩法の全般的な説明の書物として、すぐれている」、「詩体の分類なども、この書は確実な唐代の証拠に本づく点で、ぬきんでている」と評価している(『唐詩概説』 1993)。
「折腰体」は『詩轍』巻三「變法」の「失粘、拗」という項目に置かれている。「變法」とは、『詩轍』巻二「體製」に記される「定制」、すなわち定まった詩の規範を有した詩体と作詩法に対し、「定制ニ由テ變化百出ナリ」というものである。その「變法」に「折腰体トイヘリ、詩人玉屑ニ見ユ、三詩體ニハ、之ヲ拗體ト云、苕溪漁隱ニハ、之ヲ變體トイヘリ」と記されるように、三浦梅園は、南宋・魏慶之『詩人玉屑』、南宋・周弼『三體詩』、南宋・胡仔『苕溪漁隱叢話』といった中国の詩学書を挙げながら、「折腰体」について述べている。
『詩人玉屑』詩体下には王維の詩が挙げられ、「謂中失粘而意不斷」と「折腰体」を説明している。『三體詩』にも「拗體」という項目に「此体必得奇句、時出而用之」という周弼の注がつけられており、韋応物や皇甫冉などの詩が取りあげられる。『苕溪漁隱叢話』の場合には、「律詩之作、用字平側、世固有定体、眾共守之。然不若時用変体、如兵之出奇、変化無窮、以驚世駭目」と記され、杜甫と韋応物の詩が挙げられている。
本発表では、これらの中国詩学書に記された内容を検証し、分析する。また「折腰体」について述べることに際して、なぜ『詩轍』で頻繁に用いられている南宋・厳羽『滄浪詩話』と明・梁橋『冰川詩式』が取り上げられていないのかを問う。『詩轍』に語られたものと語られていないものを通して、「折腰体」という語で表現されている格律の
特徴を考察していきたい。
8 正徳年間における魏校の思想活動――余祐『性書』に対する批判を焦点として
費 康幸(東北大学)
明代正徳年間に余祐(1465−1528)は『性書』を編纂し、宋学の基本的概念である「性」を自らの理解した理気論と関連づけて解説した。ところが、この『性書』に開示された学問理解は、当時の学者たちの目には程朱学の論理構造を逸脱しているものと映り、多くの批判を招いた。現存する論評のうち、最も詳細なものは魏校(1483−1543)の著した「復余子積論性書」である。
余祐『性書』に関する専論としては、水野実氏の「余子積について」がある。氏は、余祐の『性書』が現存していないことから、魏校や羅欽順が引用する佚文を整理・検討することにより、余祐を、理よりも気を世界の根源とする「気の哲学者」と評価した。正徳年間の学者たちの考え方を整理する上で貴重な成果ではあるが、その考察は余祐の思想傾向を類型化しがちで、また魏校ら批判者側の論理に踏み込んだ検討がなされていない憾みがある。
魏校は「復余子積論性書」を著すまでに、南京で余祐との交流を通して、自らを忠実な朱子学徒と任じる胡居仁に私淑し、さらには志を同じくする朋友たちとの議論を経て、これまでの学問への認識を再検討し、練り上げていた。このような思想的遍歴を辿った魏校の『性書』批判を考察することは、朱子学に対する再検討が進行しつつあった正徳年間の思想状況を動態的に捉える際の切り口となり得る。
本発表では魏校の思想形成の歩みや当時の思想的背景などと関連づけながら、魏校による余祐批判の意義を鮮明にする。具体的には、魏校が胡居仁の思想に触れて主観的内省的な「敬」の修養を重んじるに至った過程とその内容を検討し、その上で余祐『性書』に対する批判について分析する。正徳年間における朱子学批判の錯綜した状況を、類型的にではなく、可能な限り当時の実態に即して捉えることが、本発表の目的である。
9 葛寅亮『四書湖南講』の研究:学庸を中心に
丁 欽馨(東北大学)
本研究は、浙江銭塘の人である葛寅亮(字水鑑、号屺瞻、一五七〇~一六四六)が撰述した『四書湖南講』から、『大学』と『中庸』をめぐる彼の理解の基本構造を解明するものである。
葛寅亮の生涯と『四書湖南講』の思想的特色に関しては、荒木見悟先生に優れた研究がある(「四書湖南講について」『明代思想研究』所収、「葛寅亮年譜考」『陽明学と仏教心学』所収)。そうした先行研究に拠れば、葛寅亮は青年時代に高僧雲棲祩宏に帰依するが、万暦二十八年に三十一歳で浙江郷試解元となり、翌年進士登第、南京礼部主事を拝命するものの、万暦三十五年、病気により杭州に帰郷し、西湖の南方において講学活動に従事した。その後、改めて江西、湖広、福建等を歴官し、官僚として治績を挙げながら講学活動も続け、崇禎五年(一六三二)、三十余年の四書研究の成果を『四書湖南講』にまとめた。明朝滅亡の二年後、南明王朝の危機を憂慮しつつ絶命したという。
荒木先生はその「四書湖南講について」において、隆慶・万暦以降における「新四書学」の動向を俯瞰し、儒仏融合の思潮がそこに投影されていることを論じた。その上で、管東溟と葛寅亮との思想関係に注目しつつ『四書湖南講』を分析した。この書物に見える「性」・「実践」・「心」、 三つの思想問題を取り上げ、それらと仏教思想との関連性を重視するなか、葛寅亮思想の本体論と実践論を構造的に解明したのである。
本報告が『四書湖南講』の学庸解釈に着目するのは、荒木先生の研究方法とは視点を変え、葛寅亮における四書解釈の論理の独自性を解明するための手掛かりを得ようとするからである。彼に拠れば、『大学』は「自明誠」に『中庸』は「自誠明」にそれぞれの重点があり、しかも両著は表裏する関係に在るという。本報告では、 こうした彼の学庸観を支える論理構造の分析を、主に行う。
10 清代の徒刑とその処理過程の考察
関 健(東北大学)
清代において、州県で発生した案件には、大きく分けて、 笞・杖の刑罰相当と州県官が判断し、その裁量権の範囲で処断できるものと、徒以上の刑罰が相当と州県官が擬罪し、 上司に上申をする必要があるものとがある。先行研究は、前者を「州県自理の細案」 、後者を「命盗その他にかかわる重案」と二種類に分類し、既に多くの優れた成果が積み重ねられている。具体的には、州県レベルで処理された案件、三法司に上申された案件について、その制度的な処理過程や犯罪範疇といった問題に対して、深い分析が行われている。
しかし一方で、 こうした傾向は、必要な「覆審制」 の両端にのみ注目し、 覆審制の中間を構成し、 結節点となるべき総督・巡撫(以下督撫)の役割を曖昧なものとし、 低評価することにもつながってしまっている。 例えば、 督撫は州県官が保持していたような自由裁量権を持っていたのであろうか、 またその裁量権の運用方法はどのようであったかといった問題は、具体的な部分において未解明といってよい。
本発表は、 康熙年間の史料に見える督撫の判例を題材に、地方案件に対する督撫の裁判上の裁量権の有無や督撫が各案件において、 如何に自由裁量権を発揮したかについて明らかにする。 これによって、 督撫の司法権限を具体的に分析・考察し、もって清代の司法制度を総合的に把握する土台とするものである。
11 世々忠貞に篤きひとびと──清朝後期における満蒙漢旗人官僚の自意識とその変容
水盛 涼一(多摩大学)
清朝は満洲族を中心とする東北の地方政権として始まり、漢地はもとよりチベットやウイグルまでをも領域下に含める国家へと成長していった。その過程では、モンゴル諸部を包摂して首長たちを王公に迎え、満洲族・蒙古族・漢族から軍事組織「八旗」(jakūn gūsa、八の旗)を編成している。この八旗の成員は旗人(gūsai niyalma、旗の人間)と呼ばれ、清朝を各所で支える文武官僚の大きな母集団を形成した。それに対し、山海関より南の漢族たちは基本的に民人とされ、旗人に比べ困難な官途を歩むこととなったのである。こうした王公や旗人はいわば清朝の中核にあたり、近年では新清史と呼ばれる一群の研究が清初から中期にかけての彼らの実態を明らかにしている。とはいえ、鴉片戦争や太平天国を経た清朝後期には、近代化を推進する漢族官僚の勢力が弥増し、おのずと先行研究の注目も漢族官僚へと集中することとなった。
ただし、ここで王公や旗人官僚が漢族の後景に退いたわけではない。彼らは後期にあってなお数量の上で無視できない官僚集団を形成しており、しかも若くして上位に到達する者も多かった。そして彼らは清朝後期になお「攀龍附鳳」「世官世禄永受皇恩」「世篤忠貞勤労王家」といった自意識を持ち、累代の精英として官界に隠然とした勢力を保った。これは宋代や明代には見られない特殊な状況である。それにも拘わらず清朝後期における彼らの状況は依然霧中に在った。この研究の欠如はひとえに史料不足に求められる。そこで本発表では、既存の地方志などへの序跋署名はもとより、『八旗文献集成』『近代史所蔵清代名人稿鈔本』『清代詩文集彙編』そして彼らの宗譜といった新編史料を利用し、清朝後期における旗人官僚の自意識、そして社会環境の変化への対応を検討し、清朝の国家体制の解明を目指す。
12 快楽とディストピア――穆時英「ナイトクラブの五人」を中心に――
福長 悠(東京大学)
穆時英(一九一二―四〇)は一九三〇年代の上海文壇で活躍した作家であり、モダン都市上海の光と影を独特な筆致で描写したことにより「中国新感覚派」の一員に数えられる。
発表者は博士論文で、先行研究に基づき一九三一―二年を穆時英の作風の「移行期」とみなし、この時期に書かれた五作品を分析した。そのうち、一九三二年に発表された「海に生きる人々」(生活在海上的人們)、「空閑少佐」、「片腕を切断された男」(斷了條胳膊的人)の三作品は、主人公の内面に焦点を当てつつ、革命運動、軍国主義そして産業社会という近代的な装置が、主人公から個別性を剥奪する暴力的な機構となるさまを描く作品である。
近代化の向こうに全体主義の影を見るその視像は、今日ディストピアの名で呼ぶことができるだろう。ディストピアを描いた同時代の作品として、イギリスの作家オルダス・ハクスリー(一八九四―一九六三)の『すばらしい新世界』(Brave New World)(一九三二年)がある。本発表では、消費社会の快楽とディストピアの社会像について、『すばらしい新世界』と穆時英作品との対比を試みる。特に、穆時英が一九三三年に発表した「ナイトクラブの五人」(夜總會裏的五個人)と『すばらしい新世界』には、事物の旋回や直進という運動の描写を社会像の隠喩として用いる修辞、またテクストの断片化や構成法などの手法が共通する。しかし、『すばらしい新世界』の社会が動揺を来さないのに対し、穆時英作品の社会は安定性を欠き、作中人物を死や破滅に追いやる。
日本の新感覚派が関東大震災を契機に成立したのに対し、中国新感覚派の背景は上海の発展や国際性、植民地性に求められることが多い。しかし、以上の検討により、穆時英には近代社会における人の物象化や集団性への関心があり、ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いた近代社会の快楽とディストピアの主題を、一連の短編小説により表現したと結論付けられる。