Research
固体化学反応を「デザイン」する
近年、マテリアル・インフォマティクスの進展により、特定の温度・組成条件下での物質の熱力学的に最安定な相を理論的に予測し、これに基づいて実際の物質合成を試みる手法が一般化しつつあります。しかし、エネルギー凸包(convex hull)付近には、熱力学的基準から見ると最安定相とはわずか数kJ/mol程度のエネルギー差しか持たない、多数の異なる結晶多型(polymorph)が存在すると考えられています。これらの多型は、たとえ熱力学的安定性には劣っていても、形成過程や観察条件下での速度論的障壁により長寿命な「準安定構造」として実在する可能性があります。理論的には、こうした準安定構造は膨大な数に上り得ます。
この事実は、特定の物性・機能を求める際、必ずしも熱力学的に最安定な相を目指すことが最良の戦略ではないという新たな視点を提示しています。しかし、特にセラミックスをはじめとする無機固体材料では、多くの場合、高温かつ高エネルギー状態での合成プロセスが避けられず、その過程でこれらの準安定構造を人為的に選択的かつ再現性高く形成することは依然として困難です。
このような背景の下、物質合成研究の重要な課題は、準安定構造をいかに制御し、設計できるかを明らかにするとともに、その際に存在する技術的・理論的な限界点を定量的に理解することにあります。その実現には、固体化学や物性物理学に基づく基礎知見はもちろん、第一原理計算や機械学習などの計算手法、さらに経験的知見や直観に基づく新たな合成戦略の構築といった、学際的かつ融合的なアプローチが不可欠となります。こうした試みは、未知の領域に属する準安定材料群への体系的アクセスを通じ、新規機能材料の創製へとつながる大きな可能性を秘めています。
固相メタセシス反応
固相メタセシス反応(solid-state metathesis reaction, または double-exchange reaction)は、固体状態において2種類の化合物が反応し、相互に陰イオンや陽イオン種を交換することで、新たな2種類の化合物を生成するプロセスを指します。典型的な反応式は、たとえば AQ + MX → AX + MQ で表され、目的物質 AX と副生成物 MQ が得られます。
この反応系の特筆すべき点は、副生成物の存在が初期出発物質の組み合わせ選択に多大な自由度を与える点です。さらに、副生成物自体の物理的・化学的特性(たとえば、揮発性、融点、溶解度など)を巧みに利用することで、反応速度論に影響を及ぼし、合成反応の進行速度や収率を制御することが可能になります。すなわち、適切な副生成物の設計や選択により、反応を加速化あるいは抑制する戦略的な調整が可能となります。
本研究では、この固相メタセシス反応を用いて、通常は調製が困難な準安定相材料を高効率かつ戦略的に合成するための基盤技術構築を目指しています。具体的には、副生成物の組成や性質を系統的に最適化することにより、所望の準安定相へと反応系を誘導する手法を開発します。その際、反応温度や圧力、反応時間などの諸条件を精密に制御することで、従来手法では到達困難な準安定物質を選択的に得ることを試みます。
得られた新規準安定物質に対しては、結晶構造や電子状態、フォノン特性などの詳細な物性評価を実施し、前例のない量子特性や新奇な機能性の探索を行います。準安定材料は、熱力学的安定相にはない潜在的特性を有する可能性があり、その理解は、新原理に基づく機能性材料の創出や次世代デバイスへの応用展開へとつながることが期待されます。これらの研究は、固体化学、物性物理学、合成化学、計算科学など多方面の知見を統合した学際的アプローチによって推進されます。
鉱物の生成過程を模倣した量子磁性体探索
鉱物は、その美的価値のみならず、地球内部で長期的な時間スケールで結晶化・形成される独自のプロセスを通じ、物質科学研究、特に量子磁性分野において重要な着想を与えます。実験室条件下でこうした天然形成プロセスを模倣する手法として、水熱合成法が用いられています。この手法は、高温高圧条件下で水溶液を反応場として利用し、異なる元素・イオン種を効率的に組み合わせることで、未踏の結晶構造を有する新規無機化合物を創製することを可能にします。
本研究では、得られた新奇無機化合物の磁性特性に着目し、特に量子磁性現象の探究に取り組んでいます。量子磁性とは、電子スピン(微小な磁気モーメント)の集団的挙動を量子力学的視点から理解し、新奇なスピン状態や相関現象を解明する分野です。その中でも、「スピン液体」と呼ばれる特異な状態の実現は近年特に注目を集めています。スピン液体状態では、電子スピンは秩序立った配列を示さず、あたかも流体的な自由度を保持したまま量子ゆらぎが支配的な非磁気秩序状態が実現することが期待されます。
このようなスピン液体状態の探索や解明は、量子磁性の新たなパラダイムを提供するとともに、従来の磁性体では観測されない未知の物性や量子現象を開拓する可能性を秘めています。水熱合成による新規物質創製と、詳細な磁気構造解析・物性測定を組み合わせることで、未開拓の量子磁性相領域に光を当て、次世代の基礎科学的知見の獲得と応用材料への発展につなげることが期待されます。
量子スピン液体の実現に向けて
量子スピン液体(Quantum Spin Liquid, QSL)は、物性物理学における新奇な量子状態として注目を集めており、特に反強磁性相互作用を有するスピン系において、その秩序形成が幾何学的フラストレーションによって抑制される状況で実現が期待されています。従来の研究では、三角格子やカゴメ格子など、全てのスピン間相互作用を同時に満たすことが困難な格子上の反強磁性体が集中的に探究されてきました。しかし、このようなフラストレーション系は、極めて非自明な多体量子問題をはらんでおり、理論的解析や実験結果の解釈には限界が存在していました。
このような課題を背景として、2006年にAlexei Kitaevは、ハニカム格子上でスピン1/2が結合方向に依存したイジング型相互作用を通じて相互作用する新たなスピン模型(Kitaev模型)を提案しました。この模型では、各スピンは相互直交する3方向の異方的な最近接結合を持ち、その結果、従来の幾何学的フラストレーションとは異なる起源で強いフラストレーションが誘起されます。Kitaev模型の画期的な点は、マヨラナ・フェルミオンという分数化された準粒子を導入することで、基底状態が厳密に量子スピン液体であることを示せることです。マヨラナ・フェルミオンは、粒子と反粒子が同一であるという特異な性質を持ち、量子計算への応用可能性を含め、基礎科学および応用物理学の両面で極めて興味深い研究対象となっています。
当初は理論的概念と考えられていたKitaev模型ですが、実際にはスピン軌道相互作用を有するIr4+酸化物などの実在物質系で、このKitaev相互作用が実現し得ることが示唆され、実験的検証が精力的に進められています。こうした展開は、QSLの実現に関して、幾何学的フラストレーション中心の従来のパラダイムを超える新たな視点を提供し、QSL研究全体に大きな転換点をもたらしました。Kitaev模型は、量子磁性分野における理論・実験双方のアプローチを深化させ、新規な量子相や分数化励起を理解・実現する上で不可欠な指針となりつつあります。