The Well-Played Game
The Well-Played Game
by Bernard(Bernie) De Koven, 1978
(現在新品で入手可能な版は2013年のMIT Press版【おそらく4版】。副題 A Player's Philosophy)
第1回(全体の概略)
《第1~第2章採録欠落》
第2回前半(第3章)
第2回後半(第4章)
第3回(第5章)
第4回(第6章)
第5回(第7-8章)
《第9~第11章採録欠落(レジュメのみ存在)》
著者について:
1941年アメリカ生(存命中の人物←その後2018年没)。本書によれば、1968年にフィラデルフィア学区の小学校で"interplay"カリキュラムの講師として働き始める。(この時に実施された遊びについては、1971年に、同学区のIntensive Learning Centerから「Interplay Manual for Parents」という文書として出版されている。http://www.academia.edu/1896759/Interplay_Manual_for_Parents からダウンロード可能)
1971年に、ゲームと遊びについて研究するため、フィラデルフィア郊外に建屋つきの農場を借り、"The Games Preserve"を開く。
1975年、"New Games Foundation"に参加。このNew Games Foundationの成果は1976年に"The New Games Book"としてまとめられている。
(New Games FoundationはNew Gamesムーブメントの団体で、このムーブメントはThe Whole Earth Catalogの著者Stewart Brandが1966年にベトナム戦争へのプロテストとして考案した遊びに起源を持つ。競争と協力を両立し勝敗に拘らない遊び、特に体をよく使う遊びを重視した。地球が描かれた大玉「アースボール」を用いた遊びなどで有名)
1980年代初頭にはコンピューターゲームのデザイナーとしても活動し、Alien Garden (1982. Atari800/コモドール64。最初期のアート系ゲームとして有名)などをデザイン。
ボードゲーム関連では、2009年の「LEGO Games」シリーズにおいて(Reiner Kniziaとともに)コンサルタントを務めている。
本の概要
MIT Press版の副題である「プレイヤーの哲学」が、本の概要を最もよく表している。「Well Played」は、主に米語で、良いプレイを行ったプレイヤーへ言う掛け声。日本でもよく使われる表現では「ナイスプレー!」あたりが近い。そのようなWell-Playedなゲームとはどのようなものか、またゲームにおいてWell-Playedであるためにはどのようにすべきか、という主題をめぐり、諸々のトピックが、プレイヤーとプレイ・コミュニティを中心に据えて、検討される。
本の評価など
MIT Pressから第4版が出版され、Brian Sutton-Smith, Tracy Fullerton, Mary Flanaganといった面々から賛辞が述べられ、Game Studies誌でもGonzalo Frascaにより高い評価が与えられている(加えて第4版の序文はEric Zimmermanが書いている)ことからもうかがえる通り、ゲームに関する書籍としては、古典との評価をすでに確立している。なお、いわゆる専門書・学術書ではない。著者がゲームの実践家(おそらく、特にゲームを教える立場)で積み重ねた知見を語っていく本。
構成と、おおむねどんなトピックが扱われているか
序文(Eric Zimmerman)
この本がどういう本か。「It is about playing games well. And in the process of learning to play well, becoming a better person.」
ゲームとプレイの関係について。この本の重心はプレイにあるが、この本において両者は対立的な関係では示されないことが述べられている。
現代におけるこの本の意義。ゲームのソーシャルな側面、アートとしてのゲーム、ゲームとそれが遊ばれる文脈の関係、実験的ゲームの勃興、学習としてのゲームデザイン、中毒、トーナメント、「外に開いた」ゲーム、といった現代的な諸々のトピックと、対応するDe Kovenの議論が簡潔に示される。
最後に、Zimmermanとしてはこの本を「何かを解決するための手段としてのゲーム」という期待とは切り離したものとして捉えたい旨が語られている。プレイはそれ自体が最終的な目的であるべきであり、De Kovenも、Social Changeのためのレバーとして語ってはいない(Personal Growthの文脈で語ってはいても)。
MIT Press版のためのまえがき
この本が書かれるに至った経緯(主に前述の「著者について」で紹介したようなこと)が書かれている。
初版のまえがき
「The Well-Played Game」というこの本の題名の含意が書かれている。この本の手法についても同時に述べられる。
「Well-played Gameを正確に定義することは不可能だ(ゲーム、プレイヤー、場所、時、と変数があまりに多い)。しかしその経験それ自体や感触について語ることは可能であり、というのは、その体験そのものは馴染みのあるものだからだ」。
「Well-played Gameが発生するのはプレイヤーのコミュニティを通じてであるので、この章の中心コンセプトはプレイ・コミュニティにある」
「Well-played Game (a game we can play well together) が見いだされたら、それをどのように絶やさないようにするか、ほかのゲーム、ほかの人々ともそれを起こせるようにするかを知りたくなる」
言葉の定義
「ゲーム」という言葉の意味はクリアだ、と書きつつ、《いないいないばあ》などを平然とゲームに分類している。「共通の目的があること、ただしその目的はゲーム外において意味を持たないこと」。この意味で、ゲームは歌やダンスや演劇といったものに近い(また同時に、ゲームは現実を反映したメタファーであるという意味で、アートの作品であると見ることもできる)。ただし、この定義は本書において貫かれているわけでは必ずしもない。Sec.9では、ゲーム外において意味を持つ結果についても肯定的に語られる。Sec.9を踏まえると、本書におけるゲームの定義(の後半)は、Sutton-Smith / Juulの「取り決め可能な帰結」に近い。
「プレイ」本当ではなく何かを演じること。(現実世界に反映される)結果を意図せずに行うこと。
「ゲームをプレイする」ゲームにかかわっているからといって必ずしもプレイしているわけではない(現実に反映されるものとして、交渉したり議論したり戦ったり)。逆も同様で、目的のないプレイということもある。
「Well」良質であることや、健康であることを意味する。
「Playing Well」ベストを尽くしており、全面的に入り込んでいて、しかし同時に、単にPlayしているだけである、という状態。
「The Well-Played Game」そうやって遊ぶことによって最高になる、そういうゲーム (a game that becomes excellent because of the way it's being played)。
1. The Well-Played Gameの探求
Well-Played Gameというのはプレイヤー全員に属することであって、例えばサッカーでこっちのチームがたいへん巧くてハーフタイム前に12-0、というのは、ゲームとしてはWell-Playedではない。別の例で、ピンポンを考えよう。白熱したゲームで、こっちが勝って興奮していたら、あとで相手が逆手でプレイしていたことがわかって、何か騙された気分になる。しかし確かにゲームは白熱したWell-Played Gameだったわけで、これで「騙された」みたいな感情になるというのは勝敗に囚われているのでは。ちょっと一旦点数を脇に置いてもう一回遊んでみよう。「一緒にplaying well」ということの意味がよりわかりやすくなる。
2. ガイドライン
Well-Played Gameにおいて最も重要なことは、勝敗でも、なんのゲームを遊んでいるかでもなく、「一緒にplaying well」しようという意思を確立できるかどうかであって、それはつまり全員が望んで遊んでいること、安全に遊べること(遊びによって何かが脅かされないこと)、それが確保されることへの信頼であり、そのための親密さであり、また慣習が確立されているかどうかだ。
3. プレイ・コミュニティ
前述の慣習、親密さ、信頼というのはコミュニティに属するものであって、したがってコミュニティは重要なのだが、大人はゲームの重要性をコミュニティと切り離したがる傾向があり、また大人が形成するコミュニティはプレイコミュニティというよりもゲームコミュニティになりがち。プレイコミュニティで重要なのは、何を遊ぶかよりも、皆が望んで共にプレイすることだ。
4. 遊び続ける
(思考ゲームにおいて)対戦相手にヒントを出すということ(のデリケートさ)について。20の質問みたいなゲームにおける勝敗概念の微妙さ加減。フェアネス、ここでは参加者が等しく勝利できる可能性を担保すること。良いチート…Well-Playedの維持のために即興でルールの枠を変えてしまうこと。ゲームの内外の境界を設けること。「セーフゾーン」。タイムアウト。こういう障害なく遊びつづけるための仕組みを戦略的に使用すること、を防ぐためのルール。クリアなルール、審判にゲームの管理を投げること、オフィシャルを用意すること…の危険性。理解のために練習ゲームを設けることの有用性。観客。観客の存在によるプレイ目的の変容。コーチ。プレイヤーは過熱によってゲームのWell-Playedを壊すことがあるので、時にコーチはWell-Playedの維持のためにプレイヤーを抜けさせる必要がある(が、コーチ自身が過熱することも)。
5. ゲームを変えてみること
ゲームの軽さと重さとか、いろいろな点で「いまこう遊ばれてる」と「こう遊びたい」のバランスを取るのはプレイコミュニティの役割。全員がWell-Playedになれるのが大事。ゲームが遊ばれ続けることの難しさ。ルールの曲げ方(主に、スキルの不足的な問題からWell-Playedになれない場合)。ハンディキャップ。得点なるものについて。ゲームに飽きがくるとかで変える必要がでてきたら、フィットするようにルールを変えてみよう(変えすぎて自分たちが何をやってるのかコントロールを失わないように)。実際に変えてみる―3目並べを例に。グリッドを変える? ×と〇じゃなくしてみる? ミゼール?
6. ゲームを止めること
ゲームを終えるとはどういうことか、エンドステートをはっきり決められない遊びもある。ゲームを途中で抜けること。抜けることを認めないと、「みんなが望んでプレイしている」状態を保証できない。ゲームを抜ける(ことをきちんと認める)練習をしてみよう。負けを宣言して抜けることについて。「勝てば止められる」として、それはゲームを望んで遊んでいるといえるのか。インターバルをはさむこと。アフターの大切さ(ゲームそのものを引きずらないように)。トーナメント精神の危険性。
7. もう一度やること
前に遊んだ時に最高だったゲームを、次に同じように遊んでも最高になるわけじゃない(こっちがそのゲームに前より習熟「してしまっている」から)。最高のゲームは常にサプライズを含むものだが、永遠にサプライズを提供できるほど広いゲームなんてないんだから、同じゲームに固執するよりゲームを変えてみるべき(その場合に、コミュニティはひとつのゲームに特に固執する傾向があるので注意)。ほか、ゲームを新たに始めるときの導入について。愚かしさの取り扱いについて(愚かしさはプレイと同様に、全員が望んでいるとわかっている時のみ、うまく機能する)。
8. 人と場所ともの
ゲームは全員がやりたいと思ったときにのみ遊ぶべきだが、ゲームを買ってくるとちょっとした問題が起きる件(買ってきたんだから遊びたい人と、そんな事情は知ったこっちゃない人)。どんなゲームでも遊びたいものを遊べる場があり、人がいる、ということの重要性。The Games PreserveとThe Games Foundationの紹介。
9. 何かをかけてプレーすること
なにか賞品や金をかけてプレーするというのは確かに難しく危険だが、そうしてはならないということではない。「負けてもOKだ」という余裕を全員が持っていることが保証されていること、また何がかかっているのか全員が事前に理解し合意していることが重要で、それを可能にするためにコミュニティのバランス取りがポイントになる。そうである限りにおいて、例えば金のかかったギャンブルは、普段自分たちをコントロールしている何かを何かしらコントロールしているような感覚を味わう良い遊びになる。この注意すべきポイントは、金品を賭けたゲームだけでなく、たとえば人をだますことを含むゲームについてもいえる。このバランスが取れている限りにおいては、例えば死を賭けたゲームであっても遊びたりえる。
10.勝つためのプレイをすることと、勝たなければいけないことの違い
マナーとして、勝つことを目指すプレイをするというのは、競争のゲームでは事前の合意へのコミットメントとして必要なことで、そうでないとSuitsのゲーム破りのようになる。一方、勝つ必要があるというのは全く別のことで、ルールを裏で破ったり何をしてでも勝ちに近づきたいという話だ。むろんこうしたゲームで内なる声が「勝ちたい、勝たなければ」と囁くことは別に普通なのだが、一方で別の声が「負けたってゲームの中のことだろ?」とも同時に囁く状態が、(ギャンブルがWell-Playedたりうるための条件と同様に)バランスのとれた状態であって、勝たなければいけないことに完全に傾くと、それはプレイではなくなる。
11.結び
付録. マーブル(おはじき)を使った百万通りの遊び方について