本会では、年に一度(例年7月)大会を開催しています。
■日時:2026年7月4日(土)13時30分開始(13時受付開始)
■場所:立教大学池袋キャンパス マキムホール3階 M301教室
【研究発表】(発表要旨を下に掲載しています。)
「1968年」から見た辻邦生「叢林の果て」
田口 耀(本学大学院博士後期課程)
感情語彙における類義表現の分類・記述方法に関する試論――「喜」に関わる語群を中心に――
大下 由乃(本学大学院博士後期課程)
志賀直哉「蝕まれた友情」における語りの揺動――「友情」の顛末、顕在化する芸術観――
貴田 航(本学大学院博士後期課程)
【講演】
なぜ近世文芸を五感で読み解くのか
丹羽 みさと(武蔵大学人文学部准教授)
■聴講歓迎いたします。大会参加費は無料です。
■当日は大会に引き続き、会員総会および懇親会を予定しております。
【発表要旨】
「1968年」から見た辻邦生「叢林の果て」
田口 耀(本学大学院博士後期課程)
辻邦生は1968年1月と2月、自身にとって初となる長編歴史小説「安土往還記」を発表した。同年の1月から12月にかけては「天草の雅歌」(第一部)、9月には「嵯峨野明月記」を発表している。辻邦生にとっての1968年は、日本の中世から近世を舞台としたこれらの作品によって歴史小説家としての地位を築き上げた年であった。
これらの作品に比して、同年3月に発表されたキューバ革命をモデルとする中編「叢林の果て」は、革命終結(1959年)から約10年しか経っていない出来事を扱う点で、上記の歴史小説のみならず、辻のキャリア全体の中で見ても異質である。だが、「1968年」の革命運動の中でキューバ革命が模範として参照されていた点や、辻の創作活動を支えていたのが1960年代後半という時代への関心であった点を踏まえた時、本作の存在は看過することの出来ないものである。
そこで本発表では、「1968年」をコンテクストとして本作を読み解く。その際の鍵語として「身体」を設定し、登場人物らの身体をめぐる状況が同時代の政治的状況と共鳴し、ひいては語りの進行の形式をも規定していることを明らかにする。さらに、本作に先行する辻の諸作品に現れる「身体」という概念の内実との比較検討をおこない、共通点と差異を明らかにすることで、本作に辻が掲げていた小説の理論の実践という側面を読み取りつつも、それに留まらない視座を構築することを目指す。
感情語彙における類義表現の分類・記述方法に関する試論――「喜」に関わる語群を中心に――
大下 由乃(本学大学院博士後期課程)
本発表では、現代日本語における類義語の意味差と使用条件を記述する枠組みを構築するための実践的な調査として、「喜」に関わる感情語彙の語群を取り上げる。なかでも「嬉しい」「楽しい」は、先行研究においても意味・用法差が検討されてきた語であり、本発表ではこれらを、語群内での差異を比較検討するための中心として位置づける。
「合格して嬉しい」と「友人と過ごす時間が楽しい」のように、「喜」に関わる語であっても、感情を引き起こす出来事や評価対象の性質には違いがある。また、文脈によっては置き換えが可能に見える場合もあれば、置き換えることで不自然さや意味のずれが生じる場合もある。
従来の類義語研究は、研究者の内省やアンケート調査を基にした記述を行うことで、少数語の意味比較に優れた成果を上げてきた一方で、語群全体での語の関係や、文体・使用場面・話者属性などが語の選択に与える影響を体系的に扱えているかという点には課題が残る。そこで本発表では、コーパスから得られる用例、共起語、ジャンル、話者情報等のメタデータを用い、「喜」に関連する語がどのような対象・原因・評価・場面と結びつくのかを分析する。さらに、具体的用例の精査を通じて、これらの語の置き換えが可能または困難になる条件を検討し、類義語の差異について検証可能性と客観性を高めて記述する方法の構築に向けた基礎的整理を行う。
志賀直哉「蝕まれた友情」における語りの揺動――「友情」の顛末、顕在化する芸術観――
貴田 航(本学大学院博士後期課程)
志賀直哉の「蝕まれた友情」は、『世界』1947 年 1 月号から 4 月号にかけて連載された。本作は「僕」が旧友である「君」との複雑な関係を書簡体で語るものだが、「出来るだけ公平に」「書いて見よう」という抱負とは裏腹に、「僕」の語りは恣意的に進行する。ある場面では回想する過去の記憶に自信がないと認める一方、別の場面では「君」から不快を受けた過去を、知り得ない「君」の内面も含めて堂々と語っている。躊躇いと確信との間を揺れ動く「僕」の語りは、作中の主題である「君」との関係の悪化に関して、「僕」自身を徹底して免責するように機能していると思われる。ここに、語りの演出性が問題として浮上する。
「蝕まれた友情」は志賀と有島生馬との確執が題材となっているため、専ら二人の事実関係に即して論じられてきた。しかし、本作は二人の事実関係を抜きにしても、一個の独立した創作として捉えることができる。本発表は、「蝕まれた友情」において揺動する「僕」の語りが、「君」との「友情」の内実ならびにその「蝕まれ」方をいかなる形で描くのかを解明する。そして、「君」への批判を通じて「僕」の語りが芸術に対する信念の表明となる点も扱う。「和解」以降の志賀の作品においては、芸術鑑賞や芸術家といった事柄がしばしば主題化される。そこで「淋しき生涯」(1942 年)などの他作品との比較から、後期志賀文学における芸術・芸術家というモチーフの意義も論じていく。
■日時:2025年7月5日(土)13時30分~16時30分
■場所:立教大学池袋キャンパス14号館4階 D401教室
【研究発表】(発表要旨を下に掲載しております。)
計量的手法を用いた単語間の類似点・相違点の分析
大下 由乃(本学大学院博士前期課程)
混沌とする「やさしい日本語」の現状及びその学術的可能性――「やさしさ」とは何か――
村上 穂(本学大学院博士前期課程)
植民地女性表象から問い直す田村泰次郎の〈肉体〉と〈思想〉
田中 美咲子(本学大学院博士後期課程)
織田作之助「十五夜物語」における諷刺/批評への挑戦
濱下 知里(本学大学院博士後期課程)
■聴講歓迎いたします。大会参加費は無料です。
■当日は大会に引き続き、会員総会および懇親会を予定しております。
【旧江戸川乱歩邸特別開館のお知らせ】
大会の開催にあたり、5月にリニューアルされた旧江戸川乱歩邸が特別に開館されます。ぜひおいでください。
開館時間:10:30-17:00 事前申し込み不要、無料
【発表要旨】
計量的手法を用いた単語間の類似点・相違点の分析
大下 由乃(本学大学院博士前期課程)
本発表は、語種間の類義語の使い分けを研究する一環として、日本語の学術研究において広く用いられてきた『分類語彙表 増補改訂版』(以下『分類語彙表』、国立国語研究所2004)での分類をもとに、語同士の関係性を計量的な観点から検証するものである。発表者はこれまで、『分類語彙表』で類義語としてまとめられた語群について、「集会」の類義語を例に、辞書記述の比較や、大規模日本語コーパスによる用例の分析、計量的な手法によりその類似点や相違点を検討してきた。しかし、これらはある意味領域を示す特定の語群でのみ検討したものであり、他の意味領域・語群に調査を拡大しても手法が通用するのかについては調査が進んでいない。語の使用場面が異なる場合、類義語の分類基準を再検討するために、他の項目の追加も検討する必要がある。
そこで本発表では、『分類語彙表』において、「集会」の類義語の意味記述の分析を元に、異なる語群について、辞書記述の比較・コーパスによる用例検索と出典情報の比較・テキスト分析ソフトKH Coderを用いた計量的分析を行い、類義語としてくくられる語群の中での類似点や相違点を明らかにすることで、類義語を語群として捉えるのではなく、単語同士の関係を見るための手掛かりとしたい。
混沌とする「やさしい日本語」の現状及びその学術的可能性――「やさしさ」とは何か――
村上 穂(本学大学院博士前期課程)
日本語学の分野で佐藤和之や庵功雄によって提唱されてきた「やさしい日本語」は、近年自治体による外国人向けの防災ブックなどに活用されており、その蓄積は少なくない。しかし「やさしい日本語」の定義は不明確であり、大まかな指針の下で多様な「やさしい日本語」が展開されている。特にインターネット上では「やさしい日本語」で書かれた文章が氾濫しているが、語彙や語法の側面から単純な傾向は見出しがたい。このような現状の背景として、「やさしい日本語」という一つの概念に対していくつかの解釈があると推測される。例えば、庵功雄は「やさしい日本語」を日本語教育の初期段階に位置付けているが、佐藤和之の提唱した災害対策としての「やさしい日本語」が日本語教育の初期段階に値するものかと言えば必ずしもそうではない。
そこで本発表では、「やさしい日本語」の名の下に行われているものについて、少なくとも「日本語教育の基礎となるもの」と「日本語教育とは直接的な関わりを持たないもの」という2つの側面があるという仮説を立て、佐藤・庵らの取り組み、自治体の取り組み、ネット上に見られる取り組み、そしてNHKのやさしい日本語ニュースの具体的な取り組みについて取り上げ、「やさしい日本語」に関する言説の整理を行い、その多義性について語句語法の在り方や日本語教育との関わりの有無から明らかにする。
植民地女性表象から問い直す田村泰次郎の〈肉体〉と〈思想〉
田中 美咲子(本学大学院博士後期課程)
敗戦後、田村泰次郎は自らの従軍を通した戦争体験から、〈思想〉への不信と、経験する〈肉体〉の重視を表明した。同時に創作において戦地や敗戦日本での性が描写され、田村は「肉体文学」の旗手として目されることになった。
すでに指摘されてきたように、そのようななかで〈肉体〉が過度に前景化したことは田村文学にとっての不幸でもあった。近年ではその戦争文学としての側面に注目することによって、従来の〈肉体〉イメージを越えた田村文学の再検討が進んでいる。
田村の〈肉体〉重視は、決して〈思想〉否定でも、肉体を唯一とするものでもない。田村が問うたのは〈思想〉の性質であり、その上で人間が植民地主義や戦闘行為への疑問を抱き、それを否定するための契機としての〈肉体〉観を提示したのである。本発表では、「肉体の悪魔」「春婦伝」を始めとした植民地での女性と日本兵の接触を描いた作品を、同時期の田村の本人言説との関連のなかで改めて分析する。そのことによって田村の言う「肉体が思想だ」というタームにおいて〈肉体〉イメージが前景化することによって後景化されるその〈思想〉面との接続を再考するものである。
それにより、「戦争反対論者」を自認した田村の〈肉体〉文学の意義を問い直す。
織田作之助「十五夜物語」における諷刺/批評への挑戦
濱下 知里(本学大学院博士後期課程)
織田作之助「十五夜物語」は、1945年9月5~19日まで『産業経済新聞』に連載された。先行言説において、「十五夜物語」は諷刺的な作品と評されている。その諷刺性は、本作が『ドン・キホーテ』をモチーフのひとつとしている点、直前に連載されていた吉川英治「太閤記」や同じく吉川の「宮本武蔵」への意識が散見される点などに見出されてきた。
加えて、同時代的な問題に接続していく意識は、語り手が前景化する作品構造に対しても指摘されている。本作の語り手は、自身が夢想判官源ノ豹助を主人公とした「小説」を書いていることを繰り返し主張する。これによって、語り手が、語りの現在である1945年という地点から夢想判官の言動へ批評を加えることが可能となっている。
しかし、こういった本作の語りの形式は、同時代社会への諷刺を行うためだけに試みられているのではない。「十五夜物語」は、「風変り」な人物と称され続けた夢想判官が「天下の豪傑」として山賊退治を成し遂げるという物語を仮構する営為そのものを問題化したテクストであり、着目すべきは、ここで語り出された物語内容がむしろその語りの批評性を無化し得てしまうということではないか。
本発表では、以上の問いを起点に、本作がこのような手法を用いることによって何を語ろうとしているのかを明らかにする。このことを通して、「十五夜物語」が諷刺や批評という行為を逆照射し、その本質を考究した作品であることを示す。
■日時:2024年7月6日(土)13時30分~18時00分
■場所:立教大学池袋キャンパス5号館1階 5121教室
【研究発表】
〈敵〉の戦略を描く――江戸川乱歩『偉大なる夢』論
武田 貴雄(本学大学院博士前期課程)
『源平盛衰記』の改作方法――宇治川先陣争いにおける高綱と景季の描き分けをめぐって――
今橋 萌(本学大学院博士前期課程)
戦闘機表象から見た谷崎潤一郎の戦争表現――「A夫人の手紙」を中心に
田中 美咲子(本学大学院博士後期課程)
【講演】
唐詩と新古今――古文辞学・国学の視点から
藤井 嘉章(本学文学部助教)