1864年(元治元年)1才
大垣魚屋町に,金森金四郎の二男として生まれる。
1874年(明治7年)11才
興文学校に入学する。
1878年(明治11年)l5才
新聞で金原明善を知り,治水につくそうと決心する。
1882年~1888年 19才~25才
このころ,大垣輪中は,7年間に4回も大水のひ害をうける。
1887年(明治20年)24才
三川分流工事かはじまる。三川分流工事の必要を国にうったえ,工事の完成に協力する。
1888年(明治21年)25才
大水の時,救済委員となってはたらく。
1890年(明治23年)27才
県会議員にえらばれる。この後,「山を治めるものは水を治める」として,上流の工車や心の植林をすすめる。
1895年(明治28年)32才
大垣輪中委員長となる。
1896年(明治29年)33才
大水の時,横曽根堤防を切り,8000戸の家と4万人の命をすくう。また,この時のこう水点を大垣城の石垣にきざむ。
1897年(明治30年)34才
金原明善とともに,濃尾地しんのひ害地を見てまわり,もとどおりにする工事に力を入れる。
このころから,なえ木50万本ほどを各地の村や寺,神社などにきふをする。
1898年(明治31年)35才
森林法をつくらせて,1億8千万本の植林をおこなう。
1900年(明治33年)37才
衆議院議員となり,治山治水をうったえる。
薩摩義士をほめたたえる記念ひや治水神社を油島にたてることをすすめる。
1912年(明治45年)49才
三川分流工事が完成する。
1921年(大正10年)58才
うったえつづけてきた三川の上流の工事がはじまる。この後,上流の工事の完成に努力する。
1923年(大正12年)60才
大垣公園に銅像が建てられる。
1930年(昭和5年)67才
病死する。
1937年(昭和12年)
上流の工事が完成する。