大正七年(一九一八)四月、大垣町が市になりました。お祝いの行事が行われ、みんなが喜びにうかれているときでした。
「揖斐川の上流で、ひとたび堤防が決壊したら、大垣市はたちどころに洪水におそわれて滅んでしまう力もしれない。市民はいま、市制の実施を喜んでいるが、考えてもみなさい。これはちょうど死生の間をさまよっているようなものではないのか。」といましめた人がいました。
その人こそ、金森吉次郎でありました。
大垣輪中の役員だった吉次郎にとって、明治二十九年(一八九六)は、命をかけての一大決心をしなければならない年でした。
この年、大垣はなんども水害をうけました。七月の十日ごろから降りだした雨はだんだんとはげしくなりました。前の年、大水害にあったばかりの輪中の人たちは、心配でたまりません。
「今年も、悪い年になったのう……。」
「ほんとうになあ。心をこめて育ててきたお米もこんなに雨が降ったんではなあ……。」「どうして食べていったらよいもんか、困ったことじゃ。」
お百姓さんたちはロ々に言いあっていました。
十九日になると、はげしい風が吹きました。黒い雲はまるで水をぶちあげるように雨を降らせながら飛んでいきます。
「神さまも仏さまも助けてくださらんのか……。」
「今年の米は、もう全滅じゃ。」
人々は、ただ、うらめしそうに空を見上げるばかりでした。どうしてよいかわからず、神さまや仏さまに祈るばかりでした。
川の水位はどんどん上がります。堤防が切れないように水防組の人たちだけでなく、村の人たちも力を合わせて土のう作りをしました。
二十日になると、雨はますますひどくなりました。
人々の祈りもむなしく、とうとう川の水は堤防のあちらこちらであふれだしました。
二十一日には、前も見えないくらいのはげしい雨となりました。
大垣論中の揖斐川今福堤防も、水があふれだし、約百メートルの長さにわたってくずれはじめました。とうとう、村の人たちには避難命令が出されました。
「力ーン、力ーン、力ーン……」
「おーい、堤防が切れたぞーう。」
半鐘の音が鳴りひびきます。
午前七時五十分には、ついに長さ二百メートルほども決壊しました。川の水は「ごーう」とはげしいうなりとともに波を立てて狂ったように大垣輪中になだれこみました。たちまち輪中内の小堤をあちらこちらでずたずたに切り、北の方へおし上げていきました。
このときの洪水はひどいもので大垣輪中の家々は屋根の上まで水につかり大垣城も天守閣の石垣まで水の中です。そのため、避難のできない人たちもたくさんでました。このままでは、お米がとれないどころのことではありません。人々の生命が危なくなってきました。
さっそく、対策会議がひらかれ、役員衆が知恵をしぼりましたが、よい方法がなかなかみつかりません。ただ時間だけがすぎていきます。
そんな中で、一人立ち上がった吉次郎は、
「いまのこの伏越から、揖斐川の本流にはき出せる水はわずかだ。もっと大量に流し出す方法を考えなくてはいけない。方法は一つだけある。とんでもないことだが……。」といい出しました。
みんなは、びっくりして吉次郎を見あげました。
「堤防を切り割るほかはない。」
……………………………
「そ、それはとんでもないことだ。」
みんなは、ただ驚いてざわめくばかりです。
吉次郎は家へ帰るなり、仏壇の前に座り、両手を合わせました。
「規則を破って堤防を切り割る、そんなことを県が許すはずがない。しかしこのままでは多くの生命が危ない。とすれば……だまってやるしかないのか。だが許可なくしてそんなことをしたら……。」
吉次郎は,仏さまの前で悩み続けました。
やがて大きくうなずき、きっと目を開き座りなおしました。
「堤防を切り割るほかには人々の生命を救うことはできません。たとえ自分の地位や命にかえても、今はやるしかありません。どうか私をお守りください。」と仏さまに決心のほどを報告したのです。
吉次郎は、すっと立ち上がると身支度をととのえ、家をとびだしました。外はあいかわらず、はげしい風雨です。その中を、小舟をあやつって必死の思いで横曽根村にこぎつけました。
すぐさま村人を集め、人々の生命を救うためには一刻の猶予もないことを話しました。堤防を切り割る責任は、すべて自分が負うから協力してほしい、とたのみました。
吉次郎のかたい決意にうたれた村人たちは、堤防を掘りはじめました。吉次郎も村人たちといっしょに、ありったけの力をふりしぼって、とうぐわを打ちおるします。手の皮は破れ、血を流しながら掘ること二時間、人々の命を救おうという気持ちが天に通じたのでしょう。やっとのことで、大堤防も切れはじめ、切りロはみるみるうちに大きく広がっていきました。見わたす限り、一面の濁水はごうこうとうなりをあげ、水しぶきをあげて、揖斐川の本流におどりこんでいきました。
この自然の猛威の恐ろしさをじっと見つめている吉次郎の目には、熱い涙があふれていました。
彼のこの決断が四万人の尊い生命と八千戸の家や財産を救ったのです。
吉次郎はつねに、「水を治めるものは、まず山を治めることだ。」といって、治水と同時に川の上流に植林を行いました。大垣輪中の人々は、吉治郎の将来を見通した深い考えと決断、それをやりとげた勇気と実行力をたたえ、大垣城入りロちかくに立派な銅像を建てました。
はおりはかまの姿、太い眉にするどいまなざし、きっと結んだロもとは、いかにも長い一生を治水ひとすじにつくした意志の強さがうかがわれて、たのもしく感じます。
-『郷土を支えた人々』(昭和62年 大垣市教育委員会発行)より-