川の水がましても,てい防のおかげで水が輪中の中に入ってこない。てい防は輪中の人々の家やくらしを守る大切なものである。
しかし,雨は10日以上もはげしくふりつづき,ついに今福のてい防が切れてしまった。次々に家がしずみ,流されていく。大垣輪中がしずんでいく。
これをみた吉次郎はまよった。
父の遺言(ゆいごん)のとおり,下流にある横曽根のてい防を切れば,水が流れ出るかもしれない。しかし,大切なてい防をこわしてよいというゆるしをもらうには時間がない。しっぱいしたらどうするのか。川の水がましても,てい防のおかげで水が輪中の中に入ってこない。てい防は輪中の人々の家やくらしを守る大切なものである。
「この責任(せきにん)は,吉次郎が死んでつぐなう。だから,一刻(いっこく)も早くとりかかってくれ。」
そう人々をときふせて,横曽根のてい防を切りわった。おしよせていた水は切りわったところから揖斐川に流れだした。
揖斐川の水げん地を見てまわる。
1897年,濃尾地震(のうびじしん)のひ害地を金原明善らとともにみてまわり,もとどおりにする工事に力を入れる。
濃尾地震…1891年(明治24)10月28日,美濃・尾張地方をおそい,死者7千人以上,こわれた家9万戸ほどの大ひ害をもたらした。
金原明善(1832~1923)…静岡県浜松市に生まれ,天竜川(てんりゅうがわ)の水害(すいがい)をなくすために,川の流れをかえる工事や上流の植林(しょくりん)をすすめた。金森吉次郎は15才の時に,金原明善のことを新聞で知り,治水につくそうと決心した。
金森吉次郎:後列の左から三人目
金原明善:前列の左
山に木があれば,雨が降りつづいても木が水をすい上げ,川に流れこむ水は少なくなる。また,木の根によって山の土が流れ出ることも少なくなる。
川の下流にある輪中を守るには,山をまもるひつようがあった。
濃尾地震(のうびじしん)では,家だけでなくてい防や山もくずれた。「このままでいて雨が降りつづいたら下流の輪中はどうなるのか。」と吉次郎は考え行動した。
濃尾地震でこわれた堤防(津村町)
明治29年には,7月と9月の二度の大水にみまわれた。この大水は大垣城の石垣(いしがき)にまでたっするものであった。吉次郎は人々がこの時の大水のおそろしさをわすれないように,この時の水の高さを洪水点(こうずいてん)として大垣城の石垣にきざんだ。
明治33年,吉次郎は薩摩義士をほめたたえる記念ひや油島千本松原に治水神社をたてることをすすめた。このことにより,薩摩義士のおこないが広く知られるようになった。
薩摩義士…1754年(宝暦4)2月からよく年の3月までかけて行われた三川分流工事をすすめた薩摩藩(さつまはん)の武士のこと。
また明治41年に吉次郎は,伏越樋(ふせこしひ)をつくった伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)の行いをたたえる記念ひを鵜森(うのもり)神社にたてた。