みずき小学校の誕生

 当時、「みずきの街」を含む南部地区では、宅地開発により人口が増加。その結果、南部小学校の児童数は、平成11年度に千人を超え、野田市内で最も多くの児童数を抱えることとなり、それに伴い、学校施設も手狭になってきました。

 このような現状を踏まえ、新しい小学校の設置が必要となり、南部地区を3つの小学校(南部小学校、山崎小学校、みずき小学校)の3校体制とすることとし、ここに野田市において20番目となる小学校「野田市立みずき小学校」の礎が誕生したのです。

 このことにより、発展過程である南部地区の新しいまちづくりの一助を果たすことが、期待されました。

 平成12年に用地を取得し、翌年には、通学区域審議会に、「南部地区新設小学校の通学区域の設定」について、諮問、答申を重ね、市民の意見を反映していただきながら、教育委員会会議にて通学区域が決定されました。そして、

・次世代を担う創造力あふれる心豊かな人材の育成に向け、健康で安全な学習の場を確保し、様な学習ニーズに対応できる施設

・学校と家庭、地域が一体となった教育の充実に向けて、地域の人たちと子どもたち一緒に活動でき、交流できるスペースの確保、さらには、一般市民の利用にも配慮した学校施設設備の充実を基本コンセプトに校舎の設計がされ、平成14年3月に設計が完成、建設に着工したのです。

 同年6月に、野田市議会定例会において、「野田市立みずき小学校」という名称が決定、には開校準備委員会が設立され、開校に伴う安全対策(登下校指導体制)の検討等がなされ、着と開校に向け準備が進んで行きました。

 そして、平成15年4月1日、開校の日を迎えたのです。

 当時のみずき小は、1階には1部屋、2階には教室2つ分の広さを併せ持つ多目的室が2部屋ありました。他にも、他校ではあまりみられないワークスペースやランチルーム、テラス、地域開放室などがあり、設計の基本コンセプトである「地域の人たちと子どもたちが一緒に活動できる」 学校となりました。

 平成15年4月7日、野田市教育委員会主催のもと、開校式が、9日には入学式が行われ、児童数7名、学級数は13学級でスタートを切りました。しかし、校歌も校章もまだ決定してはいない状況でした。

 5月には、みずき小学校のスクールカラーを「水色」に決定し、6月から校歌校章の募集を開

始しました。

 8月に校歌校章選考会が開かれ、校歌応募総数3点の中から、 そして校章応募総数10点の中から、みずき小学校の校歌・校章が選ばれたのです。

校歌の作詞者 山口 理 先生のお話


  はたち」


 みずき小学校が誕生して、早くも二十年が経った。人間で言えば二十歳。つまり、成人したということになる。

 今から二十年前に、私はみずき小学校の校歌を書かせて頂いた。まず何はともあれ、テーマ性のしっかりした歌詞を書こうと思って設定した統一テーマは「未来」。さらに一番のテーマが「光」、二番が「パワー」、そして三番が「やすらぎ」。こうして出来上がった校歌を歌う子どもたちの歌声は、どんなハイグレードな合唱団のコーラスよりも美しかった。それから二十年。歌い継がれる中でじっくりと熟成されたこの校歌は、確かな大人の味を醸し出して、成人式を迎えた。彼らは、二十歳になったのである。

 ところで、”二十歳=はたちの語源は、どうなっているのだろう。これには諸説あり、その多くが俗説といわれるが、定説よりも味があり、機知に富んだ俗説が多いのもまた確かである。その中から、私の好きな俗説をひとつ、書き出そう。

「戦国時代、二十歳になった青年武将は、主君の紋所を染め抜いた旗を背中にくくりつけて戦場に出た。その旗には『旗乳(はたち)』と呼ばれる竿を通す輪が、年齢に合わせて二十個ついており、『命を賭けた決断のできる年齢(成人)』という意味で「はたち」と言うようになった」というものである。

  そうなのか。あの校歌は、「命を賭けた決断のできる年齢」にまで成長したのか。…と、一人悦に入る私も、あれから二十、歳を重ねた。ややっ、無駄話の過ぎるのは私の性癖か。やっと今たどり着く本題なのに紙幅が尽きた。おめでとう、はたちの、みずき小学校!