アンチ・ドムス Anti-Domus

熱帯雨林のマルチスピーシーズ歴史生態学

まえがき

本書は,中部アフリカコンゴ盆地の熱帯雨林で狩猟採集生活をするバカ・ピグミーの〈生き方〉を野生ヤマノイモをはじめとする多種多様な生物たちとバカたちのかかわりあいの記述をとおして理解することを目的とする。私はこのアプローチを「マルチスピーシーズ歴史生態学」と名づけることにした。本書における記述と考察をとおしてこの新しい学術領域の構想を精緻化していくことも本書の目的の一つである。

タイトルにあるドムス(domus)とは近年ドメスティケーションの民族誌的研究においてしばしばもちいられる言葉であるが学術的な用語として普及したきっかけはイアン・ホッダーの『ヨーロッパのドメスティケーション』だったとされている。ホッダーはドムスについて養育とケアにかかわる概念と実践でありより一般化された水準では外部すなわち野生を排除制御支配することによる目覚ましい力の獲得にかかわる概念と実践であると説明している(Hodder 1990)。ヨーロッパの新石器時代においてドムスとアグリオス(agrios, 野生または野蛮)の対比をとおして生活空間が物理的かつ概念的に区分されるようになった。そしてこの対比は文化と自然の二項対立の原型となりヨーロッパ人の思考の枠組みをかたちづくったのだという。


ホッダーのいうドムスはすぐれてヨーロッパ史的(すなわち事実上の「世界史」的)な概念だといえるがェームズ・C・スコット(2019)は『反穀物の人類史』において「人間と動植物・微生物の集住する空間」という脱歴史化した定義をドムスにあたえている。そのなかでスコットはドムスは進化のモジュールでありドメスティケーションとはドムスに適応して「ドムス生物化」することだと述べている。この着想が含意しているのは人間もまたドムス生物化しているということである。たとえばある人間集団が単一の穀物に強く依存して生きているときその穀物だけでなく人間もまたドムス生物化しているとみなすことができる。これはドメスティケーションについてのオーソドックスな考え方ではないが本書をとおして人間とさまざまな生物のかかわりあいについて考察していくうえで一つの出発点になる。

本書のタイトル『アンチ・ドムス』には二重の意味が込められている。一つはホッダー的なドムスにたいしてのアンチである。むろんそれが重要な構成要素となっている文化と自然の二項対立にたいする批判でもある。もう一つはスコット的なドムスにたいしてのアンチである。さまざまな食物を入手するためになされる種々の生業活動を束ねその全体を方向づけている志向を〈生き方〉とよぶとすればドムスとの距離のとり方におうじて人々の〈生き方〉を定位することができる。そのとき特定の生物との相互依存を基軸として積極的にドムスを構築しながら生きる人々が一方の端におりできるだけドムスに取りこまれることを避けいかなる生物とも強い相互依存に陥らないようにして生きる人々が他方の端にいる。後者のような〈生き方〉を私は「アンチ・ドムス」と名づけようと思うのである。

本書の副題にあるマルチスピーシーズ歴史生態学はそのような〈生き方〉を記述するために構想するアプローチである。マルチスピーシーズ歴史生態学(multispecies historical ecology)という言葉はアナ・チン(2019)が『マツタケ』のなかで言及している。とはいえチンがこの言葉を使っているのは一度きりであるし『マツタケ』を引用している数多の論考のなかでこの言葉に注目しているものはほとんどない。しかし私の考えではマルチスピーシーズ歴史生態学は人類学と生態学を融合し新しい学術領域を開拓する可能性を秘めている。

チンによればながらく進化にかかわる研究は種を単位とする再生産の観点から生物を捉えてきた。そのとき種間関係とはまずもって捕食―被食関係であり種間関係が当該種の個体群におよぼす影響は捕食圧をとおして次世代の遺伝子プールに偏りをつくる点に集約される。そこでは異種生物間の共生関係は生命を理解するうえで(興味深い例外ではあるものの)不可欠なものとはされてこなかった。それにたいしてチンはさまざまな生物の発生において他種との共生関係が必須であることをしめしてきた生態進化発生学の成果を念頭におきながら生物の本性は異種生物どうしの共生関係にあると主張する。しかも共生関係が実現するかどうかは多かれ少なかれ偶然性をともなう生態学的な出会いに依存しているのだという。

偶然の出会いの積み重ねを〈歴史〉と名づけるならあらゆる生物は異種生物どうしの共生関係の〈歴史〉を生きていることになる。そして生態学の焦点は単独種ごとの「進化」ではなくマルチスピーシーズの絡まりあう〈歴史〉におかれるべきだということになる。

むろん人間も例外ではない。近年隆盛しつつあるマルチスピーシーズ民族誌では人間はさまざまな生物との絡まりあいのなかで生成しているのだと捉える(近藤・吉田 2021)。ここでいう「生成する」とはダナ・ハラウェイ(2013が主張するようにつねに「〜とともに生成する(becoming with)」ということである。こうして人間は,単独で存在している静的な人間―存在(human beings)ではなくマルチスピーシーズの絡まりあいのなかにある動的な人間―生成(human becomings)として捉え直される(奥野 2022)。

本書は『バカ・ピグミーの生態人類学―アフリカ熱帯雨林の狩猟採集生活の再検討』(安岡 2011)を抜本的に増補改訂したものである。そのタイトルにあるように私は生態人類学を専攻してきた。生態人類学は多種多様な生物からなる生態系と人間の関係(ひらたくいえば自然と人間の関係)について研究する学問である。したがってその関心はマルチスピーシーズ民族誌と共有する部分が大きいように思える。ところが近藤・吉田(2021)はマルチスピーシーズ民族誌と生態人類学の差異について一見したところ決定的ともいえる指摘をしている。マルチスピーシーズ民族誌が複数種の絡まりあいのなかで創発する人間―生成を捉えようとするのにたいして生態人類学では生物や生態系を利用する行為主体としての「人間」が揺らいでいないというのである。

しかしながら人間―生成といった言葉こそみあたらないもののおなじことは生態人類学においても記述されてきたと私は考えている。たとえば生態人類学ではフィールドの人々を農耕民牧畜民漁撈民狩猟採集民などと表現してきた。では「農耕民」とは何か。それは栽培植物や畑の内外にいる多種多様な生物たちとの絡まりあいをとおした牧畜民や漁撈民や狩猟採集民とは異なるかたちでの人間―生成にほかならない。生態人類学において人間はつねにさまざまな生物とのかかわりあいのなかで記述されてきたのでありそこでは「人間」なるものが揺らいでいないとはいえないはずである。

とはいえ生態人類学は人間―生成といった概念を意識的に活用してきたわけではないしそれに類する概念を構築してきたわけでもなかった。それゆえ記述に斑があり人間だけが単独でエージェンシー(行為主体性)を有しているかのような記述が散見されるのも事実である。

そこで私はこれまで著してきたバカ・ピグミーの〈生き方〉にかんする生態人類学の論考にマルチスピーシーズ民族誌と関連諸理論のコンセプトを導入し記述のパースペクティブを統一して一貫性のある考察を再構成しようと考えたのである。その作業をとおして私の生態人類学の実践は〈生き方〉をめぐるマルチスピーシーズ歴史生態学として再編されていくだろう。


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