昨日9/19にオンラインで実施された根室管内のICT活用管内協議会で、後半にZoomのブレイクアウトルームに分かれた研究協議が行われました。私は実践発表者でしたが、参加者でもあり、この研究協議にも参加させていただきました。
 最後のまとめで各グループでの協議内容を簡単に報告するという場面があり、その中で「文章を書けるようになるためには、キーボード操作に慣れさせる必要があるのではないか」という意見がありました。
  なるほど、最近の子どもたちはスマホやタブレットのフリック操作の方に慣れており、パソコンのキーボードは苦手だとよく言われます。そもそも、生活の中でパソコンを使う頻度が今は激減していると考えられるので、無理もないことですね。
しかし、それが故に文章が書けない、あるいは文書を書くのに苦労するということになるのだろうか?何となく、私には引っかかる言葉です。この意見について悪く言うつもりは毛頭ありませんが、私は少し違う意見を持っています。多分、文章を書くということと、どういう道具を使うかということは、直接の関連は少なく、文章を書くことが得意になるためには、当たり前ですが書く以前にたくさん読むことが必要ではないかと思います。要するにICTの問題ではなく、自分で文章を書こうとするときにどういう道具を使うかということの問題ですよね。その道具は必ずしもキーボードである必要はありません。たとえば今は「作家専用エディターツール」と呼ばれるスマホのアプリがあるくらいで、作家でさえキーボードを使っていないケースがあるわけです。
 10年くらい前まで、学校でのICT教育は主としてWordやExcel、PowerPointといったマイクロソフト製パソコン用ソフトウェアの使い方を教えるという側面が強く、それらに習熟させることがICTリテラシーを身につけることだと考えられてきていました。しかし、今現在求められるICTリテラシーはもはやパソコン操作などではなく、使う端末に関係なく、自分のめざす目標を情報モラルに気をつけながらいかに達成するか、ということに変わってしまいました。端末の使い方よりも、どういう場面にどのような形で端末を使えばよいのかを考えられることが、現在必要とされるICTリテラシーであると言えます。
  しかしながら、学校現場では未だにパソコンあっての指導こそが本来のICT教育であり、タブレットだけではなくパソコンを使えるようにならないと学びのDXも進まない、という認識にどこかでなっているのではないでしょうか。なんとなく、研究協議を聞いていてそんな印象を持ちました。条件がすべて整わないと始められない、という真面目な考え方は昔から学校現場でよく見られるものです。確かに指導の確実性とか安全管理を考えれば、まず先に条件整備が来るのですが、その順番で事を進めようとするから学校はいつも出遅れて、世の中のスピードに全くついて行けないんですよね。何か困ったことが起こったら誰が責任をとるのか?という議論に必ずなってしまい、新しいことに挑戦できない空気に支配されるんです。真面目なのはいいんですけれど、旬を丸々逃しているわけです。生で出回っている地物のサンマがおいしい季節でみんな食べているのに、学校だけわざわざ去年獲れた輸入物の冷凍サンマを食べているようなものです。
 この話をすると、次に必ず出てくる意見は「ICT教育のデメリット」です。ICT教育によって紙に書くという経験が少なくなり、計算力とか思考力が落ちてしまう、という意見。確かにそういう一面はあるかもしれません。ICT機器ばかり毎日使っていると、紙に書いて考えるということが疎遠になり、人によっては考えること自体が苦手になってしまう可能性もあります。
  しかし、これもまたよく考えてみれば根拠に乏しい情緒論です。紙に書けば計算力や思考力が必ず身につくものなのでしょうか?そうとは言い切れません。昔はICT機器がなかったので紙と鉛筆だったということであり、道具や手段が変化しても学んでいることの本質は同じなんです。昔はマニュアル車だったのでみんな運転が上手かったが、今はオートマチック車ばかりになって下手になった、とは言えませんよね。運転の本質はマニュアルかオートマかではない別の部分にある。それと全く同じことで、学習の本質も紙かタブレットかではない別のところにあるんです。
 ICT教育のデメリットって、能力が身につく身につかないということではなく、画面に没頭し過ぎて頭痛がするとか視力が落ちるとか、そういうことです。使い過ぎて人間関係が悪くなるとか、思考力が落ちるみたいなことって、ICTが悪いんじゃなくてその本人が悪いんです。ICTを使って思考力が低下するような人は、ICTが無くても結局思考力は身につかないのではないでしょうか。
私が発表した「チャットを使った決裁」についても、「うちの学校ではそんなことは到底できそうもない。どうやって導入できたのか?」という質問があったようです。これも同じことです。羅臼高校では、校長の私自身が先生方に諮ったんです。押印決裁はもうやめましょうよ、と。それについて先生方から反対意見は一つも出ませんでした。つまり、不要だったということです。決裁とは紙に印刷して校長が納得したら押印し、綴じて保管するものだ、という「条件化」が起こっていて、みんなそれが前提で当たり前だと思っちゃっているんです。こういうのをぶち壊して、そもそも論でいらないものを消していくのが、DXの醍醐味なんです。DXってICTスキルが高いとか情報に詳しいとかよりも、なんとなく引き摺ってきている過去の慣習をどうやって廃止し新たな方法を確立するかということが重要なんです。
〇〇じゃないと出来ない・始まらない、という考え方、そろそろやめませんか。それよりも、走りながら考えて修正していく方が楽しいですよ。旬の生サンマをみんなで味わおうじゃありませんか。
R6(2024).9.20 北海道羅臼高等学校長 古屋順一