世の中でDXが一般的になり、教育業界にもその波が押し寄せています。「校務DX」「学びのDX」の2つが学校には求められていて、それぞれ働き方改革、個別最適な学びなどと結びつくものとされています。
学びのDXでよく言われるのが「授業のハイブリッド化(オンラインと対面の併用)」「デジタル教科書・教材の導入」「CBT(端末画面で行うテスト)」の3つです。授業のハイブリッド化は現在すでに進んでおり、たとえば今年度から病気療養中の生徒や不登校生徒への教育保障でオンライン授業・オンデマンド授業が可能となりましたが、これなどはまさにDXの成果の一つだと思います。デジタル教科書もEdTechなど新しいものがどんどん生まれており、学校だけが学びの場ではなくなっています。文部科学省のメクビットをはじめとするCBTは、学校内での考査・各種テストにも今後導入が進むことでしょう。紙の答案というものが消滅するのは時間の問題かもしれません。
では、現在高校で行われているDXは、本当にDXと言えるのか。これは、深い問題だと思います。DXの「X」はトランスフォーメーションを表していますが、これは交差するとか行き交う・横切るというイメージで使われている文字です。交差とか行き交うという動きが、果たして学校の中にどれだけあるのでしょう。ともすれば、高校の現場というのは「進学実績」「就職率」「大会成績」、そんなものに支配され、新しいことを拒み、すでにある手法にしがみついてはいないでしょうか。どうしても高校には「目に見える分かりやすい成果」が世の中から求められるものです。私は進学校での勤務歴が長いので、国公立大学現役合格者数が高校にとってどれほど「切り札」なのかは身に染みて理解しています。甲子園に進んだ学校にあちこちから野球少年が集まり、翌年高倍率になることもよくあります。地元の高校から難関大学に合格したり、全国大会に出場すると、地域も盛り上がりニュースにもなります。そういう旧来からのモノサシに頼った方が、ある意味学校づくりはやりやすい。しかし、そういった枠組みの範囲内で単に業務効率化を進めたとしても、それはデジタル化であってDXではない。私はそういう認識をしています。
AIが台頭してDXが進められようとしている今、昔ながらの分かりやすいモノサシに果たしてどれだけの価値があるのか?なかなか切り込みにくい部分ではありますが、実はDXが求めていることってそういう本質論なのではないでしょうか。見えやすい成果ではなく、そもそもの教育の本質を学校経営の中にどれだけ盛り込めるのか、ということ。勝ち負けが決められない、評価軸が何本もあるVUCAの時代にジャストフィットする教育とは、一体どんなものなのか。私はまだ何もつかめていません。個別最適な学びを実現したとしても、その「最適」というのは何をもって判断するのか。これだって明確な解を見出すのは困難です。各種の研究協議会で「VUCA時代に対応した教育」とか「Society5.0に対応した学校づくり」というようなアルファベットのキーワードがよく言われますが、そういうのはそろそろ聞き飽きつつあり、今はそれに向けて具体的に何かをしなければならない段階。理念はすぐ書けるけれども、具体化はなかなか難しい。現場感覚としてはそんなところですよね。
校務DXは、ある意味簡単なんです。面倒だった仕事をいかに簡単にするか、という一本柱がはっきりと立っていて、方法さえ分かれば明日からでもできます。ところが学びのDXとなると、その子にとって何が「変革」なのか、他人にはあまり分からないという壁が立ちはだかります。本当に学びを変革させるには、究極的にはその子自身が自らの発想で変革していくしかないのではないか、と思えるわけです。仮にデジタル教科書やCBTを使って生徒を育てたとしても、それは手段やモデルが変革したということであり、その子の内面に何らかの変革が生まれるかどうかは、正直わかりません。「学びの変革」をうたう以上、手段が変革することからさらに一歩踏み込んだ「認識の変革」にまで高めないと、結局ただ授業をデジタル化したに過ぎない結果が待っているわけです。だから、一人一台端末の授業をしただけでは、全くもってDXにはほど遠く、単に紙が画面に代わっただけで終わります。ましてや「一人一台端末の授業をしなければならないからやっている」という感覚では、教師も生徒も、どちらにも変革はもたらされません。
この高いハードルを越える負担と、古いモノサシへの依存から、結局DX=デジタル化ということになってしまう可能性もある中、どうやって新しい価値を生み出していくのか。この「価値の創出」ということを考える局面にすでに入っています。校長には、これまでには無かったような難しい課題が課せられていると感じます。
私が狙っている学びのDXキーワードの一つが「可視化」です。ビッグデータの分析により、今まで分からなかった世の中の意外な側面を、端末で可視化する。そこから何が見えるのか整理させ、次の世代に向けて何を考えるべきなのか考察させて、SDGsに繋げる。可視化の処理の仕方を生徒に学ばせて、大人になってからも積極的に可視化ができる(あるいは可視化的な発想力をもつ)人に育てることは、学びのDXの目標としてあげてよいものではないかと思います。手段としていろいろなDXはありますが、結局生徒の内面に何を残したかということが「成果」なのだと言えそうです。これを本校の「知床学」で目指す戦略を練っているところです。
とりあえず羅臼高校では今後学びのDXに着手していきますが、おそらく当面は「学びのデジタル化」に留まると思います。これは仕方ない部分ですね。まずはデジタル化しないことにはDXにたどり着きません。しかし、デジタル化で止まってしまってはつまらない。そこからさらに先の「森」の中へどう生徒を突入させるのか。ここに学校としての戦略が問われると思います。もしかしたら、学校とか教育とは全く別の世界で普及している考え方・見方の方が、DXのヒントになるのかもしれません。校長としては、自分自身の多チャンネル化を進め、教育以外の分野の考え方や価値観も参考にしつつ、何が羅臼高校の学びのDXに資するのか見極めたいと考えています。
長く苦しい展開が予想されます(笑)。
R6(2024).7.9 北海道羅臼高等学校長 古屋順一