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八重桜の歴史
FFC遊休農地ゼロへ! 柳川 八重桜ジョイント栽培拡大に向けた調査・広報活動 調査報告書から許可を得て、転載しております。 フィールド・フォー・シチズン P6〜19 より
八重桜漬け・桜湯の歴史
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな
(伊勢大輔)
百人一首でもよく知られるこの歌は平安時代中期の作であるが、歌中で作者は先の
都
・平城京の八重桜に想いを馳せている。少なくとも奈良時代の昔から、すでに八重桜は人々に愛されている花であった。
いつごろ、どこで作られたか
八重桜漬けを、誰が・いつ・どこで作り始めたかについて直接示した文献は現在のところ見つかっていないようである。しかしその八重桜漬けを使って作る桜湯は
、
江戸においては少なくとも1830年ごろにはすでに飲まれるようになっていた。
どのように飲まれていたか
現在では桜湯は結婚式や結納等、おめでたい席に供される飲み物として知られている。しかし、もともとはそうではなく、日常的に飲まれるものだったようである。
桜の花を食すのは
知られている限り、桜の花を食用にしているのは世界中で日本においてだけのようである。他の国では、桜を食すといえばサクランボになるようだ。
まとめ
八重桜漬けは江戸時代後期以降、江戸から始まったと考えられる。桜湯は、江戸時代後期に飲まれ始め、少なくとも昭和初期ごろまでは麦茶などと同じような、日常的な飲み物であったようである。戦後、結婚式を家ではなく専門の結婚式場で行うことが増えるにつれて桜湯の需要が増していくとともに、慶事の飲み物という認識が定着し、逆に日常性の方は失われていったように思われる。桜花の飲食は世界でもまれな食習慣であると思われ、その歴史とともに貴重な食文化であるといえる。
秦野の八重桜の歴史
秦野の食用八重桜の歴史は、『八重桜の里』と呼ばれる千村地区での歴史ともいえる。
八重桜栽培の始まりについて
秦野私立図書館で、千村の八重桜に関する神奈川新聞の記事を調べたところ、最も古いと思われるのは1974年4月21日付の記事だった。
一大産地となった経緯について
秦野が一大産地となっていった経緯は、
・八重桜漬けの産地である小田原に近い位置にあった
・白山神社のお祭りのために千村では一定程度の八重桜栽培が続いていた
・戦後の八重桜の需要の増大の時期に、業者と呼応するような形で生産量を増やしていった
という条件が重なったことにあるのではないかと考える。
現在の千村の八重桜
1985年に始まった千村若竹会では、それまで小田原方面に出荷していた花の一部を自前で加工するようになった。その『丹沢のさくら漬』は神奈川ブランドに認定されている。桜湯に使うだけでは消費が広がらないと、さくら漬を使った料理の勉強会も長年開いてきた。1996年には頭高山に八重桜やソメイヨシノが植樹された。きっかけはNHKの『ひるどき日本列島』で千村の八重桜が紹介されたことによる。放映後、東京や横浜など遠くから八重桜を見にくる観光客が訪れたが、もう掴み取ってしまって花がない状態だった。そこで荒廃農地をなくすという目的もあり
、
頭高山に観光用に八重桜を植えたいという。その後も植樹を重ね、年に数回の下草刈りを行うなどして大切に管理されている。
まとめ
千村の八重桜栽培は、江戸時代末期に矢倉沢往還の茶屋で桜湯を出すために始まり、その利益でお祭りの費用を賄うようになったと考えても良いように思われる。戦後、結婚式等での桜湯の需要の高まりと、八重桜漬けの産地小田原に近かったことで、一大産地に成長していったと考えられる。
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